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2019年07月20日

深谷上杉氏の居城 深谷城のなごり

つわものどもが夢の跡
深谷上杉氏の城跡を訪ねました

<深谷城跡>
shirononagori352 (1).JPG
深谷駅から約1q。最初にこの光景が目に飛び込んできました。不慣れな街なので、ちょっと安心した瞬間です。

■深谷城のなごり■
まず深谷市の地形をおおざっぱに説明すると、南側が台地、そして北側が低地となっており、その先には利根川が流れています。深谷城は深谷市の中心部に位置し、台地の北端に築かれています。城より北側は利根川や支流の小山川によって形成された低地が広がり、城そのものは台地上。すぐ東側には北へ向かって流れる唐沢川。だいたいこんな感じですかね。

<説明板>
shirononagori352 (3).JPG
現状は城址公園。その案内です。

<公園内>
shirononagori352 (5).JPG
ほぼ公園です。

のちに経済発展を遂げる深谷市の中心地ですからね。遺構はほとんど失われており、城址公園があることで、この地が城だったことが分る。そんな感じでしょうか。

<冒頭の石垣>
shirononagori352 (2).JPG
実はこの立派な石垣も塀も、公園として整備した時のものです。実際の深谷城に、石垣は使われていませんでした。あと、かつての城の縄張りと、位置が一致していません。ですから遺構ではなく、演出なのです。

ではダメなのか?

いや、といもいい感じです。かつてここに深い歴史の城があった。そのことを、地元の皆さんで共有できている。更には、市民の憩いの場となっている。とてもいいですね。ただ、城そのものが好きで訪問する方は、どうぞ誤解のないように。


■深谷上杉氏■ふかやうえすぎ
深谷城は1416年に深谷上杉氏4代当主の上杉房憲が築城したと伝わります。深谷上杉氏は、上杉氏の諸家のひとつで、山内上杉家の流れをくむ一族。武蔵国において勢力を誇っていましたが、小田原北条氏の勢いが武蔵国にまで及ぶと、その傘下に組み込まれました。当時の北条氏は、河越城の戦いで勝利して勢力拡大の真っ最中です。関東の諸氏が次々と北条氏に下るなか、深谷上杉氏は深谷城を拠点に抵抗を続けましたが、最後は降伏せざるを得ませんでした。

1590年の秀吉による小田原征伐(1590年)の際には、8代当主・氏憲が北条側として小田原城に詰めていました。城主不在の深谷城は重臣の秋元長朝らが守り、天下軍を相手に奮戦しましたが、全滅を避けるべく開城しています。北条氏が滅びると、深谷上杉氏も所領を失うことに。深谷城には徳川家康の家臣・松平康直が入りました。


■長沢松平家■
深谷城に入った松平康直は、長沢松平家第9代当主で、父であり8代当主の松平康忠はいわゆる『徳川十六神将』の一人として数えられる家柄です。康直は、秀吉の小田原征伐の際には岩槻城攻めに参加しており、その戦功により武蔵国深谷1万石と深谷城を与えられました。しかし若くして病没。嗣子が無かったことから徳川家康の七男・松千代が長沢松平家を継ぐものの5歳で早世。家督は松千代の兄・辰千代が継ぐことになりました。

辰千代、のちの松平忠輝は徳川家康の六男です。家康の子に間違いないのですが、忠輝は長らく家康から冷遇され続けました。生後間もない弟の方が先に深谷藩1万石の藩主となっているあたりが、それを物語っています。その忠輝が武蔵国深谷1万石から下総国佐倉5万石に加増移封された時、深谷藩は一旦廃藩となりました(1602年)。


■酒井家による深谷藩■
1622年(元和8年)、酒井忠勝により再び深谷藩が立藩されます。忠勝は老中、やがては大老にまでなった人物です。藩政にも力を注ぎますが、1627年に父である酒井忠利が亡くなり、これに伴い跡を継いで川越藩主となりました。深谷藩は廃藩(1627年)。その後しばらくたった1634年、深谷城も城としての役割を終えたようです。

<城址公園内>
shirononagori352 (8).JPG
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遺構ではありませんが、重厚でいい感じです。

<石垣と説明板>
shirononagori352 (7).JPG
説明も丁寧です。右手の説明板には縄張り図もありました。この縄張り図はややラフですが、この城跡唯一の遺構を確認する時に役に立ちました。


■唯一の遺構■
城址公園の東側の富士浅間神社付近に、唯一といっていい遺構が確認できます。
<深谷城外濠跡>
shirononagori352 (10).JPG
深谷市指定文化財とあります。

<外濠跡>
shirononagori352 (13).JPG
とはいえやや迫力に欠ける堀跡

勿論もっと深い濠だったのでしょう。この位置が外濠のライン。それが確認できただけでも有り難いですね。

<説明板の拡大>
shirononagori352AD.JPG
公園内の説明板にあった縄張り図です。この図を参考にすると、東曲輪、あるいはそのお隣の櫓と記載されている区画の外側が、この濠跡と一致するのかもしれません。

<富士浅間神社>
shirononagori352 (11).JPG
せっかくですので濠跡が残る富士浅間神社もご紹介します。こちらは鳥居

<拝殿>
shirononagori352 (12).JPG
拝殿です。創建は不明ながら、深谷城内の鎮守の一つで、1440年勧請とも伝わります。

現地はだいたいこんな感じです。

■つわものどもが夢の跡■
深谷城は松平氏・酒井氏により江戸初期まで使用された城跡。しかし歴史の大半は深谷上杉氏の居城です。関東管領・山内上杉氏の同族が城を築き、武蔵国で一定の勢力を保ちながら深谷の地を治めた。この史実とともに、城周辺の地形もおおまかには実感できたので、満足な訪問となりました。

<つわものどもが夢の跡>
shirononagori352 (9).JPG

------■深谷城■------
別 名:木瓜城
築城主:上杉房顕(深谷上杉氏)
築城年:1456年
城 主:深谷上杉氏
廃城年:1634年
現 況:深谷城址公園
[埼玉県深谷市本住町]


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posted by Isuke at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]
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