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2018年09月11日

伊達氏のなごり 梁川城

つわものどもが夢の跡
政宗以前の伊達氏のなごりを求めて、福島県伊達市を訪問しました。

<梁川城跡>
shirononagori265 (1).JPG

■梁川城■やながわじょう
伊達氏の先祖は関東武士伊佐氏。源頼朝の奥州征伐で功を立てて伊達郡を拝領し、地名の伊達を名乗るようになりました。今回訪問の梁川城ですが、正確な築城年はわかっていません。ただ掘調査の結果、伊達氏第3代または第4代当主の頃、既に拠点として使用されていたと推定されています。3代当主は伊達義広(1185年〜1256年)、4代当主は政依(まさより:1227年〜1301年)です。

ちなみに、初代の朝宗と第2代の宗村までは、伊達郡桑折郷の高子岡に築かれた城を本拠としていたようです。ですから、東北進出した伊達氏の最初の拠点はこの「高子岡城」であって、梁川城ではありません。ちょっと残念。ただ歴代当主の居城だった期間は、こちらの方がずっとずっと長いのです(約3百年)。この点において満足しますかね。また、伊達氏の伊達郡入りとともに朝宗によって築城されたという説もあるのです。


<とある坂道>
shirononagori265 (2).JPG
天然の堀として機能していた広瀬川を渡ってすぐ。目的地まであと少しです。この坂を登り切れば右手に高校、左手に目印と定めた浅間神社が見えてくるはずです。8月下旬の訪問。まだ夏まっさかりです。汗だくで歩き続けました。

<坂の途中>
shirononagori265 (3).JPG
梁川城は分類だと山城(平山城)です。微高地と言った方がピンときますかね。厳密に言うと、もう城跡の中にいます。この斜面の上が本丸跡、下側が三の丸跡です。ちなみに、二の丸は先ほどの坂を登り切ったところにある梁川高校です。

<説明板>
shirononagori265 (4).JPG
坂の途中で想定外の説明を目にしました。ここが大手門?ちょっと本丸から近すぎですね。川と逆側の北側が大手と思っていましたが・・・

これは松前藩の時代の話のようです。私は伊達氏の拠点として訪問していますが、梁川城は江戸時代も城として機能し、更に廃城後も一部が陣屋として使用されました。この位置が大手門跡というのは、そのなごりということですね。

<矢印>
shirononagori265 (5).JPG
分かり易い。あっちに行けば良いのですね。わかっていても安心する瞬間です。

ここが本丸跡か・・・

キョロキョロしながら歩いていたら、体操着姿の小学生男子から「こんにちは!」と挨拶されてしまいました。勿論これに応じましたが、大人のくせに一本とられた感じです。

この本丸跡の区画、実はずっと小学校の敷地として利用されていました。震災が原因で別の場所に移転したそうです。


<浅間神社>
shirononagori265 (6).JPG
到着しました。ここに限らず、この周辺が城の中心地です。

<境内>
shirononagori265 (8).JPG
落ち着いた雰囲気

<土塁>
shirononagori265 (7).JPG
城のなごり

<池>
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雑草に邪魔されてどこから降りて良いのか迷いましたが、立ち入り禁止でもなさそうなのでとりあえず降りてみました。

<中世庭園>
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普通の庭園と受け止めましたが、中世の庭園を再現した珍しい造りだそうです。

<心字池>
shirononagori265 (10).JPG
近世城郭となる以前、つまり伊達氏の時代には既に造られていたと考えられています。


■伊達氏の拠点■
伊達氏の本城はのちに桑折西山城へ移されます。さらにあとには米沢城へ。しかしここ梁川城は、領内の重要拠点という位置付けから、引き続き伊達の血縁者や有力な家臣が城主を務めました。大切な支城でありつづけたわけですね。この構図は、豊臣秀吉の奥州仕置まで続きます。

■伊達氏の去った梁川■
伊達氏が去った梁川の地は、蒲生氏や上杉氏支配を経たのち、徳川家の息のかかった領地となります。松平義昌の梁川藩3万石を立藩に始まり、その後には幕府の直轄地などを経て、松前藩領となったところで明治維新を迎えました。
梁川城ですが、米沢藩の上杉氏が伊達郡を没収されるタイミングで廃城となったようです。ただし、その後も城の一部は陣屋として使われました。

<お寺>
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本丸跡から北側へ向かいます。画像はその途中で撮影した安養寺。このお寺より更に北側の遺構を目指しました。

<水堀>
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ありました。水堀です。

<土塁>
shirononagori265 (16).JPG
そして土塁です。説明板だと、伊達氏と関係があるようですが・・・?

<長い土塁>
shirononagori265 (17).JPG
土塁が約2百メートル続きます。これはきっと近世城郭として整備された頃のものでしょうかね。蒲生氏、あるいは上杉氏による改修のなごりかもしれません(はっきりとわからず)。

ここ北側もそうですが、梁川城は東側も西側も城外に劇的な要害性があるわけではありません。よって、人の手により念入りに堀や土塁が設けられました。南側ですが、低地に広瀬川が流れ、これはこれで城の「地の利」であったと思われます。東西南北、これで一通り守りが固められていたわけですね。

ただ、戦国の世が長引き、武器や戦い方まで変わると、城の防衛能力の評価も変わらざるを得ません。伊達氏は長年拠点としてきた梁川城を放棄し、地形の険しい山城(桑折西山城)に本拠を移しました。

■つわものどもが夢の跡■
<本丸跡の土塁>
shirononagori265 (18).JPG
かつての城そのものを想像するのは困難ですが、その名残りが漂う場所でした。私には遺構がいつの時代のものか正確には判りませんが、立派に残っています。

ここは武士の拠点として営みがあった場所。関東から旅立った伊達一族が、基盤を築いて奥州における政治的な地位を高めていった場所なのです。そう思うだけで満足。来た甲斐がありました。

-------■ 梁川城 ■-------
別 名:鶴ヶ城
築城年:詳細不明(鎌倉初期)
築城者:伊達氏(伊達義広?)
城  主:伊達氏歴代当主
     蒲生氏・上杉氏
改修者:須田長義(上杉家臣)
廃城年:1664年
    (松前藩時代除く)
[福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡]


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posted by Isuke at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]
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