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2018年07月29日

二本松城のなごり 伊達政宗も板垣退助も攻めた城

つわものどもが夢の跡
今回の訪問は二本松城です。戦国武将好きなので、伊達輝宗・政宗父子と争った二本松氏の居城として訪問しました。しかし、そんな「中世のなごり」などは残っていません。江戸を通じて存続した二本松城は立派な近世城郭。日本100名城にも選ばれています。

<箕輪門>
shirononsgori250 (4).jpg
二本松城のシンボル的な門です。

■室町時代中期の築城■
奥州探題を命じられた畠山氏がこの地に入り、畠山満泰が当主となった時に現在の場所に城が築かれたようです。畠山氏が二本松氏を名のったのもこの頃ではないかと考えられています。満泰以降、二本松氏当主歴代の居城として約140年も続きました。長い歴史ですね。小説などの影響もあり、私のイメージする二本松城はこの時代の山城です。


■二本松氏と伊達氏■
二本松氏、つまり畠山氏は、足利氏の支流ですから名門家です。しかし奥州におけるその後の地位確立という意味では、伊達氏や蘆名氏にはちょっと及ばなかったようですね。

伊達氏の当主が輝宗の頃、二本松氏との関係は悪いものではありませんでした。まぁ適度に距離を置いて、お互いに出過ぎたことはしないという感じでしょうか。しかし若い政宗が家督を継ぐと、伊達氏と二本松氏の微妙な関係は崩れてしまいます。

この頃、米沢を拠点とする伊達氏、会津の蘆名氏、常陸の佐竹氏の3勢力による争いが激化しつつありました。どれも大大名クラスです。周辺の小大名にしてみれば、この三大勢力のどこと組むかで、命運が左右されます。血気盛んな伊達政宗は、ライバルの蘆名氏や佐竹氏に良い顔をする小大名を許さず、容赦なく滅ぼしました。

これに脅威を感じとった二本松義継は、昔から交流のあった政宗の父に歩み寄る姿勢を示し、交渉に訪れます。面会ば実現しますが、義継はなんと輝宗を拉致してしまいました。そのまま人質として二本松城へ連れ帰ろうとしますが、これを知った政宗に追い付かれ、二本松城に駆け込む寸前で戦闘となってしまいます。伊達輝宗は政宗に向かって「わしもろとも撃て!」と叫んだそうです。政宗は躊躇したものの、義継たちに向かって発砲を開始。両軍による激しい戦闘となり、万策尽きた二本松義継は、伊達輝宗を殺害し、自害して果てたそうです(粟ノ巣の変)。

この話には諸説ありますが、どれも壮絶な話です。この戦いのあと、二本松城は政宗に攻められ開城。一旦は難を逃れた嫡流もやがて命を奪われ、名門二本松氏は滅亡しました。

その後、伊達政宗はここ二本松城に片倉景綱(=小十郎)や伊達成実といった伊達家の実力者を城代として配置しています。重要拠点という証ですね。しかし秀吉の「奥州仕置」により、伊達の支配は終焉をむかえます。

<城内>
shirononagori251 (9).jpg
歴史が長いので、いつの時代かわからない遺構をたくさん見かけました。


■戦国期以降の二本松城■
戦国の混乱期から江戸初期にかけては、蒲生氏上杉氏加藤氏と、支配者は次々に変わります。しかし1643年に二本松藩が成立し、初代藩主として丹羽光重が入城すると、丹羽氏10代による統治が幕末まで約220年続きました。戊辰戦争の難局に際しても城主は丹羽氏です。丹羽長国でした。新政府軍に攻められ、1868年9月15日(慶応4年7月29日)に落城しました。

<二本松少年隊群像>
shirononsgori250 (1).jpg
戊辰戦争で藩のために戦った少年兵の像です。こちらについては別途記事を投稿しましたので、良かったら覗いてみて下さい。
→『記事へ進む

<説明板>
shirononagori251 (14).jpg
二本松氏が築いた山城は、江戸時代にはそうとう広い城郭となっていたようですね。現在の市街地の北側に位置しています。標高345mの「白旗が峰」に築かれ、別名・白旗城とも呼ばれています。手前の大手門からの比高は100m強です。

shirononagori251 (6).jpg
城そのものの廃城は明治になってから。この時、残っていた建物も全て破却されました。


■霞ヶ城公園■
長年かけて門や石垣が復元され、美しい城址公園となっています。

<箕輪門と附櫓>
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1982年に復元されました。

<高石垣>
shirononagori251 (15).jpg

<隅石>
shirononagori251 (7).jpg

<土の遺構>
shirononagori251 (10).jpg

<水の豊かな城内>
shirononagori251 (17).jpg
shirononsgori250 (5).jpg
もともと水に恵まれていたと思われます。

<城内の用水路>
shirononagori251 (18).jpg
しかしここまで充実しているのは、丹羽光重が城内に水を引くために築かせた水路によるものです。光重は10年かけてこの城を改修しました。

ざっとですが城内はこんな感じです。実際に天守閣があったのか不明ですが、現在天守台も復元され、見どころとなっています。


■つわものどもが夢の跡■
shirononagori251 (19).jpg
独眼竜こと伊達政宗が攻めた城。そして、板垣退助率いる新政府軍が攻めた城です。交通の要衝に位置する城には、深くて長い、そして壮絶な歴史が刻まれています。

-------■二本松城■-------
別 名:霞ヶ城・白旗城
築城年:室町中期(1441年頃)
築城者:畠山満泰
改修者:丹羽光重
城 主:二本松氏・伊達氏
蒲生氏・上杉氏・丹羽氏ほか
廃城年:1872年(明治5)
現 状 : 霞ヶ城公園
[福島県二本松市郭内]


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-----追 加-----
<二本松神社>
shirononagori251 (4).jpg
二本松駅の近くです。
shirononagori251 (1).jpg
二本松藩の総鎮守として信仰されていました。

-----おまけ-----
<駅前の交番>
shirononagori251 (3).jpg
なんとなく心が和みました

<明日は仕事>
shirononagori251 (2).jpg
ぼちぼち、帰りますかね

タグ:日本100名城
posted by Isuke at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]
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