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2018年07月16日

武田勝頼「素肌攻め」の城跡 膳城

つわものどもが夢の跡
今回の訪問は群馬県の土の城「膳城」です。ややマイナーな城ですが、遺構は良好な状態で残されています。そして、有名武将の逸話が残る城跡です。

<堀跡>
shirononagori Zen (18).JPG
室町時代から戦国時代にかけて使用されたと思われる土の城。要所要所を整備しながら、遺構そのものを大切する配慮が感じられる城跡です。

■膳氏の城跡■ぜん
まずこの「膳城」という名前。地元の豪族・膳(ぜん)氏の城ということで、そのまま「ぜんじょう」と読みます。鎌倉初期の公家・三善康信の子孫である膳氏により、15世紀中頃に築城されたと推定されています。城は南西にかけて川に面し、東側も川が流れる丘の上。微高地という表現の方が良いでしょうか。すぐそば(北に約1キロ)のところに山上城があり、詳細は不明ながら山上氏とは近い関係にあったと思われます。現在残っているのはかつての本丸・二の丸付近で、もともとはもっと広い城だったようです。

■城跡訪問■
<膳城跡公園駐車場>
shirononagori Zen (1).JPG
この日は旧友に車で送ってもらい訪問。駐車場完備。トイレもあり安心しました。

ただ、この公園駐車場から城跡に接近する際、侵入口が分からず焦りました。見えているのに近づけない。しかし立ち入り禁止?とも思えた出土文化財管理センターの駐車場を抜ければ、あとは楽勝でした。本丸裏に出ます。

<歴史民俗資料館>
shirononagori Zen (3).JPG
併設されている資料館は入館無料のようですが、私の訪問時は「閉館中」の張り紙がしてありました。

<最初に見た堀>
shirononagori Zen (4).JPG
これは入口に迷っている時に撮影したものです。ここをどうやって越えようか、友人と真剣に悩みました。終わってしまえば笑い話ですが。

<外堀の中>
shirononagori Zen (5).JPG
降りられる雰囲気のところで堀の中へ。北曲輪と袋曲輪の間の堀ということですね。この時はあまり意味がわかりませんでしたが、後で縄張り図を見て納得しました。

<堀を進む>
shirononagori Zen (6).JPG
それらしくなってきましたね

<城跡っぽい>
shirononagori Zen (7).JPG
「城好き」というわけでもない友人につき合ってもらっていたので、魅力的な景色と出会えなかったらどうしようかと思っていましたが、このあたりで一安心です。中世の城跡らしい雰囲気に包まれ始めました。


■激戦区上野国■ こうずけのくに
現在の群馬県ですからね。当ブログで繰り返し言っていますが、戦国時代の激戦区です。地元豪族・膳氏は、唐沢山城の佐野氏に攻められ、一旦は城を追われます。その後は、金山城の由良氏の支援を受けて再び膳城に復帰。関東に進出した上杉氏配下を経て、小田原北条氏に城を攻め落とされたのち没落したようです。


■小田原北条氏の拠点■
膳氏は去りましたが、城はそのまま活かされ、北条氏から河田備前守か送り込まれました。そう、ここ膳城は北条氏の拠点となりました。もしかしたら、この時に更に整備が進められたかもしれませんね。

<良好な遺構>
shirononagori Zen (8).JPG

shirononagori Zen (10).JPG
堀底が道として整備されている所もあります。過度な公園化ではなく、いい感じです。

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ここは土橋の跡ですね。手すりまで・・・まぁ訪問者に優しい城跡ですね。景観を損ねるとは思いません。

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複雑な折れを持つ堀は魅力的です。

shirononagori Zen (13).JPG
むかしはもっと深い堀だったのでしょうね。 


■武田勝頼の膳城素肌攻め■
謙信亡きあと勃発した上杉の後継者争い。この時、武田勝頼は上杉景勝に味方します。対抗馬の上杉景虎は北条氏の出身(北条氏政の弟)。その北条氏の勢力下にあった上野国へ勝頼は兵を進め、厩橋城(前橋城)を制圧。その勢いで山上城ほかの城を次々と攻略しました。

そのまま上野国に留まった勝頼の軍は、地元民の不安を煽らないように平服のまま各地を視察。ところが膳城で事件が起きてしまいました。

膳城はこの時点でまだ北条の支配下です。城内での宴がきっかけで、城兵同士が喧嘩を始めてしまい、付近にいた勝頼の軍にまで攻撃を仕掛けてしまいました。ちょっと軽率すぎますが、武田の兵がろくな武装もしないで城に近づいたことを、侮辱と取って激高したのではないかという説もあります。

いずれにせよ、勝頼軍は即時反撃。北条氏から膳城に派遣されていた河田備前守、城代の大胡民部左衛門らが討ち取られました。

さて、この時の勝頼の反撃は「膳城素肌攻め」として知られています。素肌?ちょっといまでは違う意味に取られてしまいますね。素肌はそもそも、なにもつけていないという意味。この場合、甲冑などを身につけていない無防備な状態という意味です。

軽装で城を落とした

これが語り継がれるポイントです。ここ膳城は、その舞台となった城として知られています。

<本丸跡>
shirononagori Zen (14).JPG
右手の階段を登ると本丸です。

<本丸>
shirononagori Zen (19).JPG
本丸そのものは、そんなに広くはありませんね。

<膳城祉の石碑>
shirononagori Zen (16).JPG
立派な石碑です。

<説明>
shirononagori Zen (20).JPG
城は南北5百m・東西3百mほどの広さだったようです。周辺の地形の説明に加えて、「膳城素肌攻め」についても言及されています。詳しい。あまり予習しなくても、現地でこれを読めば概要は理解できますね。

<縄張り>
shirononagori Zen (21).JPG
いま残っているのは、結構広い城だった膳城の本丸周辺のみということですね。

<本丸から見た空堀>
shirononagori Zen (17).JPG
二の丸の方を撮影


■廃城について■
これもまた詳細不明ですが、先述の武田勝頼による「膳城素肌攻め」のあとと考えられています。ただ、その武田も滅亡してしまい、また北条氏配下になったという話もあります。こちらの説だと、秀吉の小田原征伐後に廃城ということでしょうかね。

<膳城跡公園>
shirononagori Zen (2).JPG
遠くに赤城山が見えます。私は友人が運転する車で訪問しましたが、南に向かって600mくらいのところに上毛電鉄「膳」駅があります。ということで、一応駅から徒歩圏内の城跡です。


■つわものどもが夢の跡■
shirononagori Zen (15).JPG
古い歴史の土の城。こうやって遺構が確認できるのは有難いですね。実はこの城跡、先述の膳氏の末裔の方が自分で土地を買い取り、県に寄付したそうです。築城者の血筋が守った城跡ということですね。感謝します。

shirononagori Zen (22).JPG
そして良好に維持されている遺構。群馬県にも感謝です。素敵な城跡でした。

-----■膳城■-----
築城者:膳氏
築城年:(15世紀半ば)
城 主:膳氏ほか
廃城年:不明

[群馬県前橋市粕川町膳]


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posted by Isuke at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]
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