2017年11月05日

米沢城のなごり (本丸跡)

<謙信公の像>
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[米沢城本丸跡]

米沢市街地のほぼ中心に位置する城跡。米沢城は本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式の平城でした。市街化がすすむなか、かつての本丸跡に「城のなごり」を感じることができます。上杉ファンのみならず、多くの人が訪れる人気スポットです。

<米沢城址>松が岬公園
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正面入り口です。左右には「毘」と「龍」の軍旗。そのずっと奥に、謙信公が祀られている上杉神社が見えています。

<上杉神社>鳥居
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上杉神社の鳥居。七五三の時期です。

<上杉神社>社殿入口
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朝早かったせいか、丁度お浄めの最中でした。

<上杉神社 稽照殿> けいしょうでん
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宝物殿。戦国武将の刀や甲冑など多数が展示されています。直江兼続のいわゆる「愛」の前立の甲冑もこちらです。他に謙信や景勝が所用した具足、鷹山に関わるものなどなど。人気の場所です。


■伊達氏の城■長井氏から伊達氏
ここ米沢城は、米沢盆地の南に位置します。「上杉の城」というイメージですが、起源は相当古く、鎌倉時代中期まで遡ります。幕府中枢であった長井時広(ながいときひろ:出羽長井氏の祖)が出羽国置賜郡長井荘を所領し、拠点を築いたのが始まりとされています。
まぁこの時代ですから、堀と策で外との隔たりを設けた館のようなものだったのでしょう。最上川の西岸の比較的平らな地形であることから、周辺に湿地なども広がっていたのかも知れませんね。以後、長井氏の支配は約150年続きました。

やがて置賜地方に伊達氏が侵攻。長井氏の置賜支配は終わりを告げ、米沢の地は伊達氏の支配下になります。それから相当あとの話になりますが、伊達政宗はここ米沢で生まれています。父である輝宗、そして政宗の時代において、伊達氏は戦国大名としての地位を確立。米沢の地に城下町が形成され始めたのは伊達時代と考えられています。

<伊達政宗公誕生記念碑>
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米沢は政宗の故郷です。

■秀吉の影■1590年
伊達政宗は、会津の覇者だった蘆名氏を滅ぼす(1589年)など破竹の勢いで快進撃を続けました。しかし天下人となっていた豊臣秀吉の裁定により、米沢の地は没収(政宗は蘆名氏から勝ち取った黒川城に本拠を移しましたが米沢へ戻され、最終的に没収という流れでした)。伊達氏は米沢城から去ります(伊達氏は葛西・大崎の旧領を与えられ岩出山城へ。現在の宮城県大崎市です)。

置賜の地は蒲生氏郷に任され、米沢城には氏郷の家臣・蒲生郷安が3万5千石を得て入城しました(氏郷本人の居城は会津若松城。それ以前に黒川と呼ばれていた地名<黒川城など>は、この時に「若松」へと改められました)。

やがて(1598年)蒲生氏※は宇都宮に転封となり、ここで越後から上杉景勝が会津120万石を得て、米沢もその支配下に組み込まれます。米沢城には重臣の直江兼続が入城。兼続が30万石の知行を受けたことも含め、すべて秀吉の思惑によるものでした。

(ちょっと話がそれますが)
※築城や経済政策で手腕を発揮した蒲生氏郷ですが、この「宇都宮に転封」の時には既に他界していました。まだ40歳。いろいろと謎の残る早死にです。子の秀行が会津92万石から宇都宮18万石で移封となりました。この裁定も不自然。本人に責任のない人事異動のようにも映ります。この裁定後まもなく秀吉は没していますので、秀行の災難はここまでですね。
ここまで悪いことが目立つ蒲生家。後に徳川の命により、拠点である宇都宮にて今回の主役「上杉」をけん制する役割を担うことになります。これが認められ、蒲生秀行は陸奥に60万石を得ます。更に家康の娘と結婚し、松平の名字を与えられました。立派な徳川氏の一門ですネ!・・・が、どうしてそうなるのか、秀行も30歳で亡くなりました。心労とされています。

(話を戻します)

家臣である直江兼続に米沢30万石。ちょっとあり得ない栄誉ですね。これに関しては、秀吉が兼続に惚れ込んでいたという解釈もある一方、上杉と直江の分断を狙ったとする説もあります。どちらでしょうね。いずれにしても、兼続本人は上杉家内での役割に追われ、米沢城でじっくりと領内の統治に取り組む余裕はなかったようです。この頃は。

■上杉の城下町■
1600年の関ヶ原の戦い。上杉家は直接徳川家康と戦うことはありませんでしたが、戦後処理として、会津120万石(米沢30万石含む)から、米沢30万石のみに減封されました(形としては、直江兼続が米沢城を景勝に譲ったことになりますね)。家臣を見捨てなかった上杉景勝。厳しい経済環境下、直江兼続を中心に新たな国造りが始まります。この時に米沢城も改築・拡張されました。

<祠堂遺跡> しどういせき
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謙信の遺骸は越後にて甲冑を着たまま一旦埋葬されました。しかし上杉景勝は越後を去る時に会津へ持ち出し、最終的に米沢へ持ち込みました。そして本丸の一番高い所に御堂を建て、謙信の霊柩を安置しました。明治になって別の場所(上杉家御廟所)へ移されました。


まず二の丸、数年後には門や堀などが改築され、更に数年後には直江兼続の縄張により大改築が行われました。一気にできないところに、道程の厳しさを感じますね。時間をかけながら、米沢城は近代城郭へと進化していきました。ただし、いわゆる天守はそもそも無し。そして石垣も使いませんでした。

<水堀>
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旧本丸の回りの堀。原則は「土の城」です。

■15万石に縮小■更なるピンチ
米沢藩は後の家督の継承問題で、30万石を半分にまで減らされる憂き目に(会津藩主・保科正之の助けで断絶だけは回避。上杉家は吉良家から養子を迎えて存続)。更なる財政難に、米沢藩は破産寸前にまで追い込まれます。しかし中興の祖・上杉鷹山により再建され、藩は明治まで続きました。

<上杉鷹山像>
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本丸跡に建つ銅像。若干17歳で米沢15万石の藩主となり、改革を行った上杉治憲。のちの鷹山です。左側は鷹山の名言を刻んだ石碑。『なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり』

<松岬神社>まつがさきじんじゃ
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こちらは二の丸跡です。鷹山は上杉景勝や直江兼続らとともに祀られています。神社の名は、米沢城の別称「松岬城」に由来します。

■つわものどもが夢の跡■

<上杉家御廟所>うえすぎけごびょうしょ
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カリスマがこの世を去ったのが1578年。波乱万丈ながら、上杉家は米沢の地で約三百年続きました。画像は上杉景勝から始まる米沢藩主たちの墓所。明治になり、謙信の霊柩もここへ移されました。中央正面がその祠堂になります。越後の龍・上杉謙信は、その後の歴代当主たちとともにここ米沢にいます。

-------■米沢城■-------
別 名 :松ヶ岬城・舞鶴城
築城者:長井時広
築城年:1238年(暦仁2)
城 主 :長井氏・伊達氏・蒲生氏
直江氏・上杉氏
廃城年:1873年(明治6)

[山形県米沢市丸の内]


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posted by Isuke at 23:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]
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