2017年10月31日

米沢藩の礎 景勝と兼続

<謙信の旗印>
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[米沢城跡]

戦国時代の武将で、上杉と言えばやはり「上杉謙信」ですね。越後の龍毘沙門天の生まれ変わり。信長・秀吉・家康、そして武田信玄などと肩を並べる人気武将ではないでしょうか。私も大好きです。

<上杉神社>
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[米沢城跡]


ただ、そのあとを継いだ上杉景勝、補佐役だった直江兼続も魅力的です。カリスマが去ったあとの内輪もめ、外には強敵ばかり。そして時代が大きく変わろうとする過渡期での難しい舵取り。更には、米沢へ移ってからの財政難。もしかしたら、血で血を洗う戦そのものより、これらに立ち向かった姿の方が、現代人の心に響くのではないでしょうか。

<義と愛>
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[米沢駅前]

人心が荒廃した戦国の世を、義と愛の精神で生き抜いた。
ちょっと美化しすぎと思われるかも知れませんね。二人のファンである私も、あまり興味のない友人にはそこまで言えません。そして、直江兼続と上杉景勝について、別な評価があることも承知しています。ただ、それを知って、それで終わって、何か役に立つのでしょうか?「知ってる」ことより「そう思っている」ということを増やしたいです。
個性の異なるこの二人に惚れ込むことは、結局は自分のためなのかもしれない。そう思っています。そんな思いも含めて、共有できれば嬉しいです。

■米沢30万石■
会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封となった上杉家。これは徳川を敵に回した代償ですね。まぁ家が取り潰されなかっただけ良かったと思うしかありません。

例えばの話ですが、年商120億の会社が来年からは30億になるとしたら、何を思い浮かべますでしょうか?入ってくるカネが減る。ならば、出て行くカネを何とかしなければ、経営が破たんしてしまいますね。じゃどうする?これはもう出て行くカネの中でも大きな割合を占める人件費を削るしかありません。世間一般でいうところの「リストラ」ですね。

■解雇せず■全員連れて行く
上杉景勝は苦楽を共にしてきた者たちを一人も解雇しませんでした。これぞ上杉の義。さすがです。と言いたいですが、じゃどうすればいいのか?現実はそんなに甘くありません。家臣団は約6千人もいます。その家族や従属の者も含めると、数万人になってしまいます。所領120万石で賄えても、4分の1の石高では無理。

しかし
やるしかありませんでした

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そもそも、リストラとは本来は人員削減の意味ではありません。
Restructuring
リ・ストラクチャリング、つまり再構築ですね。見直して再び築く。人員ばかりが矢面に立ちますが、仕事そのもの、不採算の事業・・・しいてはその組織の悪習などなど、断ち切るべきものはいろいろとありますね。景勝が掲げる「上杉の義」。これを実践するために直江兼続は指導者としての手腕を存分に発揮します。

もともと小さな町だった米沢は既に人でいっぱいです。住む場所も不足食べるものも不足。兼続は早急に手をうちました。

■城下町の整備と治水■

〈堀立川〉
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ほったてがわ。掘立小屋のようなネーミングですね。ただの川?ではありません。これは直江兼続が掘削させた人工の水路で、もともとは役割として堀も兼ねていました。兼続の治水事業は、自然の川である最上川(松川)に造った石堤とこの堀立川と言っても過言ではありません。

兼続は減らされた石高を補うため、米沢で未開発だった南部・西部の土地の新たな開墾を目指しました。そのためには水路を通す必要があったのです。これが経済的な役割。もう一つが城としての役割です。水路は所々で堰き止め安いように幅を狭くしてあり、有事には水を貯めて堀の代わりとすることができました。予算も人員も限られるなか、一つの仕事で二つの効果です。もともと「堀楯川」という字であったそうです。目的を知ってしまうと、こっちの方がしっくりするのは私だけでしょうか。

<米沢城下絵図>
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[米沢城内案内板を撮影し加工]
城下町そのものが要塞のように設計されています。水色の●印が堀立川。まず「喰うこと」ですが、兼続は並行して軍事のことも考えていたのですね。

■荒地の開墾■半士半農
兼続は、城下を拡げて家臣の屋敷割りを行い、城下に入りきれない下級武士には、郊外の南原、東原の開拓にあたらせました。下級武士たちが開墾に挑んだエリアは当時は荒地。身分は武士のまま、警備の任務に当たらせると同時に自給自足の生活をさせました。いわゆる「半士半農」ということですね。この者たちは「原方衆」と呼ばれ、家臣の8割が下級武士という状況で、その半分を占めました。農民とほぼ変わらない生活になりますが、兼続は下級武士たちが自ら開拓した土地は本人に与えたり、年貢を免除するなどして開墾を促しました。とにかく「自力で何とかする」環境を整えたわけですね。

<イメージ>
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[伝国の杜にて]展示されているジオラマを撮影

下級下級といいますが、兼続本人も高い身分の出ではありません。元の名は樋口与六。説によりますが、下級武士の出とする説もあり、私個人もそう思っています。ですから、下級武士たちの痛みにも心が及んだはず。そう思っています。

<下級武士屋敷跡>
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郊外南原地区の芳泉町。江戸時代に下級武士が住んだエリアです。野に散って開拓をした武士たちのなごりです。

治水事業、強固な城下町作り、そして農業労働力の増加。これに加えて、兼続は殖産興業にも力を入れました。とにかく収入を増さなくてはなりません。紅花や漆などの「おカネになる」作物の栽培、鯉の養殖なども奨励しました。
兼続よりずっと後の時代の話になりますが、やはり財政難となった米沢藩を救った第9代藩主・上杉鷹山が、食糧にもなるウコギの垣根を奨励した話は有名です。このウコギの栽培、兼続の時代に始まりました。

<ウコギの垣根>
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10月の訪問時には既に枯れ始め変色していたので、これは7月に訪問した時に撮影したものです。この時は青々としていました。

■学問所■学問のすすめ
<法泉寺>
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米沢の法泉寺(先ほどの絵図のオレンジの)。もとは直江兼続が創建した禅林寺です。直江兼続は、足利学校で学ばせていた九山禅師を米沢に呼び戻し、米沢藩士の子を教育するための学問所を作りました。財政にゆとりがない状態ですが、教育がいかに大切かを知っていたのでしょうね。まずは目先のことが大切ですが、同時に将来の種を植える。兼続は私材も投入してこの学問所「禅林文庫」を創設しました。
※兼続収集の蔵書は貴重な文化財として現存しています。

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九山禅師が京都の名園をまねて造ったと伝えられています。法泉寺から道を挟んだ正面に位置します。

兼続が創設した学問所はのちの時代に一旦途切れますが、のちに同じく藩政改革に挑んだ鷹山によりを再興します。鷹山の師・細井平洲により藩校「興譲館」と命名されました。これは兼続の時代から約150後のお話です。

■兼続の評価■鷹山が再評価
実は、直江兼続はあまり世間的には評価される人物ではありませんでした。徳川幕府からみれば、主君をたぶらかして石田三成と共に徳川家康に刃向った人物です。上杉の家を守るべく、すべての責任を背負ったのですから、表向きとしては筋が通った評価ということですね。
そして身内からみれば、名門上杉家でありながら倹約・質素を推進する厄介な指導者。勿論同志も沢山いたとは思われますが、この状況でまだ「古き良き」にしがみつくロートルたち、あるいはまだ「戦うつもり」の血気盛んな若者たちも大勢いたはずです。
外からも内からも、あまり評価されないのも分かる気がします。

しかし上杉鷹山が兼続を手本に藩政改革を行なったことで、再評価されるようになりました(鷹山が藩主となった時には、30万石が15万石となっていました。半分ですよ!これは厳しいです。上杉はもう破産寸前でした)。その鷹山も、改革途上では苦難の連続。領民や下級武士に指示されても、比較的身分が高い人たちにとっては厄介な存在だったようです。

いつの時代も、改革は既得権者に都合が悪いものです。そういう皆さんからの妨害や非協力、誹謗中傷が付きもの。改革者の評価は、後の時代の人たちに託されています

■つわものどもが夢の跡■
<松岬神社>まつがさきじんじゃ
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松岬神社です。画像だとやや地味ですが、奥深い雰囲気があります。米沢藩の礎を造った景勝兼続、そしてのちに中興の祖となる鷹山が祀られています。この地はもともと兼続の屋敷。そして藩主となった景勝も屋敷とした場所です。

兼続の苦労(実際には上杉家全員の努力)の甲斐あって、30万石の米沢藩は表向きの石高を大幅に上回る51万石になっていたと伝わります。藩政の基礎を築いたのち、兼続は60歳で生涯を閉じました。それから長い時を経て、今では人々から慕われる存在となっています。私もファンの一人です。


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posted by Isuke at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]
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