最上義光の居城を訪ねました。「よしみつ」なんて読まないで下さいね。「よしあき」です。戦国武将ファンの間では有名ですが、世間一般の人気ではどうしても甥の伊達政宗に負けてしまいますね。知れば知るほど味があり、心が熱くなってしまう武将。そのなごりを感じるために山形市へやってまいりまた。
<本丸と堀>
10月中旬の訪問となりましたが、紅葉の見ごろはもうちょっと先ですかね。でもいい感じです。本丸は一度埋められてしまったそうですが、調査をしながら復元中です。
■最上氏の居城■ 初代から続く当主の城
この地に最初に城が築かれたのは1357年頃。羽州探題として山形へやってきた斯波兼頼(しばかねより)が城を構えたのが始まりとされています。斯波氏はのちに最上氏を名乗り、ここ山形城は最上氏宗家の城として歴代当主に受け継がれてきました。最上氏の祖である斯波氏は、室町幕府の将軍足利氏の有力一門。つまり最上氏も、清和源氏の足利氏の支流ということになります。
■最上義光の登場■ 出羽の虎将
血筋は名門でありながら長らく衰退した最上氏。しかし第11代当主の義光により、最上氏は飛躍的に勢力を拡大します。現在の山形県のうち、置賜郡(米沢周辺)を除くほぼ全域を支配するに至りました。名実ともに出羽の覇者。関ケ原の戦い直後の最上家は57万石。これはこの時点で全国5位です。最上義光は大大名にまで上り詰めました。
<最上義光公騎馬像>
こちらの銅像は絵として有名ですね。ここは二の丸跡。背後に見えているのは東大手門の裏側です。
繰り返しますが57万石で全国5位ですよ!実高は100万石とも言われる北の王国です。そしてあの有名な伊達政宗の叔父(妹の義姫が政宗の母)。もっと知られていても良いはずですよね。弱小と言っては言い過ぎですが、由緒正しいながらもあまり振るわなかった家の地位を、一気に押し上げた名将なのです。プロセスにおいてはかなりラフな(非道と思ったこともあります)側面もありますが、それが故に人情味のある部分が際立ち、なんとも魅力的な戦国武将です。英雄にして豪傑、、、、 (長くなりそうなので次の投稿にてまた・・・)
■広大な平城■ 輪郭式平城
現在の城跡は最上義光が城主の時に拡張したものが原型とされています。最上氏が改易された後、鳥居忠政により改修がなされ、ほぼいまの形となりました。遺構として面影を残す二の丸の堀・土塁・石垣は、鳥居忠政時代のものと推定されています。輪郭式平城としては全国有数の規模。いわゆる日本100名城に選ばれています。
(城用語の補足)曲輪の配置
輪郭式(りんかくしき)は二の丸や三の丸が本丸を囲むように配置される縄張り。本丸・二の丸・三の丸といった曲輪が並べて配置されるのが連郭式です。他にも種類はありますが、この二つがメジャーです。
■霞城公園■ 城址公園
城の遺構を保護しつつ、美しい公園として整備されています。城跡及び周辺には、山形市郷土館や山形県立博物館、山形美術館などなど。城下町として発展した市街地の中心に位置する城跡は、現在では文化の中心地となっています。また戦国武将ファンには嬉しい「最上義光歴史館」もすぐそば。上杉軍の銃弾で歪んでしまった最上義光の鎧も展示されています。
<水堀>
二の丸と三の丸を隔てる水堀。山形城は石垣も立派ですが、地味に土塁などを楽しみながら城跡散歩。
<南門>
今回はここから二の丸へ入りました。手前は三の丸跡ということになりますが、完璧に市街地化されているので遺構という感じはしません。駅から徒歩できましたが、実は駅もかつての三の丸のなかにあります。相当広い城だったことが分かります。
<堀と電車>
東京の四谷(真田濠付近)を思い出します。
■つわものどもが夢の跡■
<空堀>
隆盛を極めた最上義光ですが、最上家では義光亡きあと家督をめぐるお家騒動が勃発。その結論、幕府の命により最上家は改易されることとなりました。先祖代々の城も所領も没収。残念な結果です。1622年、義光が亡くなってから8年後のことでした。
-------■ 山形城 ■-------
別 名:霞ヶ城・霞城(か じょう)
築城年:1357年
築城者:斯波兼頼
改修者:最上義光・鳥居忠政
城 主:最上家歴代・鳥居氏他
廃城年:1871年(明治4)
[山形県山形市霞城町]
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2017年10月16日
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