天童城最後の城主・天童頼澄(てんどうよりずみ)。周辺の国人と連携して一度は最上義光を退けたものの、それまで最大の味方だった延沢満延が調略により最上側へ寝返り、最後は城を追われることになりました(1584年)。頼澄は、母の実家の国分氏を頼って落ち延び、陸奥国に移り住みました。
■陸奥国にコネ?■
国分(こくぶん)氏は戦国時代の末頃まで陸奥国に勢力のあった一族。起源には諸説ありますが、平氏の流れをくむ千葉氏から枝分かれした士族のようです(この説だと初代は国分胤通)。陸奥国に根をはった子孫は留守氏や伊達氏とも争いました。国分盛氏の時に、伊達氏から人を招いて当主を継がせたため、長年続いた血族による継承は途切れてしまいす。天童頼澄の母は、この国分氏血統最期の当主の娘。これを頼りに、陸奥国を目指しました。
■守護神・喜太郎■
<喜太郎稲荷神社>
[山形県天童市]
天童城訪問時に立ち寄りました。天童の守護神「喜太郎」を祀る神社です。現地の説明によれば、天童氏家臣の狐崎喜太郎が、幻術を使って最上勢悩ませ、更に敗戦により天童氏が逃れるのを助けたとあります。
喜太郎?幻術?頭をよぎるのは「ゲゲゲの鬼太郎」あるいは音楽家の喜多郎さん。喜太郎とはどんな存在なのでしょう。城巡りの最中は歩き回るので精一杯なので、帰宅してから調べました。現地で読んだものと若干違いますが、以下のような伝説があるようです。
●喜太郎の伝説1
『天童氏初代の里見頼直が京都に赴いた時、家臣の喜太郎が伏見稲荷で神力を得るに至った。喜太郎は頼直から生き神として崇められるとともに天童の守護神となることを託され、神社が建てられた。時は経ち、九代城主天童頼澄が最上義光に敗れて陸奥国へ落ち延びようとした時、漆黒の闇に一行の足が止まると、喜太郎が現れて火を灯し、道案内をした。』
いろんな受けとめ方があって良いと思います。こういう話そのものを、私はあまり信じませんが、何となく好きですね。人が何かに感謝している気持ちが伝わってくるような気がするからです。
違う設定の伝説もみつかりました。
●喜太郎の伝説2
『最上義光に敗れ、難を逃れた天童頼澄。陸奥国へ向かう関山峠で暗闇に行く手を阻まれました。このとき喜太郎という忍者が現れ、火を灯して道案内を務め、頼澄は無事に峠を越えることができた。』
ちょっと設定が違いますが、こちらの方が現実的ですかね。ほぼ同じ話で『喜太郎という足軽が先導して難を逃れた』というのもあります。もっと現実的ですね。
関山峠は現在の宮城県と山形県とを結ぶ峠。どの話からも、この峠を越えることが楽ではなかったことが伝わってきます。朝を待つ余裕もなく、必死で逃れたのでしょうね。天童頼澄は無事に陸奥国へ入り、伊達氏を頼りました。
注)厳密に言うと天童頼澄は後の名。この時はまだ「頼久」です。このブログは頼澄で通しています。
■伊達藩家臣■
陸奥国へ逃れた天童頼澄。その後は伊達政宗に仕えました。宮城郡八幡(現在の宮城県多賀城市八幡)に屋敷を拝領したと伝わります。
<宝国寺>
[宮城県多賀城市]八幡2丁目
八幡にある天童氏の菩提寺です。頼澄の屋敷をはじめ、家臣たちもこの周辺に住んだようです。
ところで
この宝国寺の山号は末松山。そうです。ここはいわゆる波越さじの「末の松山」。有名な歌枕の地でもあります。
契りきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 波越さじとは
清原元輔の歌。清少納言のお父様ですね。ちょっと雑ですが「末の松山を波が決して越えることがないように、我々も変わることはないと、涙ながらに約束しましたよね?ね!」という感じでしょうか。なんか恨み節に聞こえるのは、私のセンスの無さかも知れません。やんごとなき皆様の世界。適切な解釈は、ちゃんとしたサイトでお調べ願います。
やや話が逸れました。もとへ戻します。
■伊達藩の天童氏■
領地1000石。伊達政宗から家格準一家を命ぜられたとあります。準一家?どの程度か分らず調べました。仙台藩では、家臣の序列を付ける目的で家格という制度を採用していました。上から順に、一門・一家・準一家・・・(この下たくさんあります)。要するに準一家はかなり上の方です。もともと天童城主だったご本人の心境は分りませんが、伊達政宗が天童頼澄を良い条件で受け入れていたことが分りますね。とにかく命すら危うい状況から逃れてきたのですから、頼澄も満足し、そして感謝していたのではないでしょうか。伊達政宗に。そしてもしかしたら喜太郎に。
私は訪問していませんが、多賀城市八幡にも「喜太郎稲荷明神」があります。別名は天童神社。国が変わっても、喜太郎は守護神であり続けたのですね。
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