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2023年09月25日

最上家の祖となった斯波兼頼の墓(山形市)光明寺

最上家初代当主である斯波兼頼の墓所を訪ねました。

<斯波兼頼墓所>しば かねより
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山形市七日町の光明寺です。

<足利二つ引き>あしかがふたつひき
Koumyouji-Shiba-Kaneyori.JPG
足利一門である証がひときわ目をひきます。斯波兼頼は八幡太郎の名で知られた源義家から11代目の子孫奥州探題斯波家兼の次男としてこの世に生をうけた正真正銘の源氏です。

<光明寺縁起>こうみょうじ
Koumyouji-Explanation-board.JPG

光明寺の創建は1375年(永和元年)。兼頼本人が、自ら築城した山形城内に草庵を設けたのが始まりとされています。兼頼は城内で出家し、其阿覚就と号しました。死後は草庵に葬られ、後継者となった最上直家が寺院として整備し、兼頼の戒名から光明寺と名付けたそうです。
第2代当主となった直家の正室は伊達宗遠の娘。息子たちは天童家ほか各地に配置されました。父兼頼から始まる最上家の支配体制をより強化しました。

<境内案内図>
Koumyouji-Precinct-guidemap.JPG
わかりやすい案内図。現在位置が入口です。正面に本堂、左手が墓所になりますが、斯波兼頼のお墓は左手に曲がった正面ということになります

<墓所>
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どうやら一番奥に見えているのが斯波兼頼のお墓のようです

<斯波兼頼のお墓>
shiba-kaneyori-bosho.JPG
こちらですね。気持ち、遠くから撮影しました。最上家の祖となった斯波兼頼(最上兼頼)のお墓です。

繰り返しになりますが、兼頼は源氏の名族・足利一門。南北朝時代に北朝方として活躍しました。父は奥州探題の斯波家兼、兄は奧州探題を継承していく大崎氏の祖となった直持です。山形の地に城を築いて居城としたのが1356年。1379年に城内で没し、葬られた草庵が、やがて光明寺へと繋がるわけですね。

戒名は「光明寺殿成覚就公大居士」です。

■訪問:光明寺
[山形県山形市七日町]5丁目


お城巡りランキング

■参考及び出典
・現地説明板(光明寺縁起)
・山形市HP
山形市:歴史・観光・見所>光明寺

https://www.dewatabi.com/murayama/yamagata/koumyou.html


■当ブログ過去記事■
当ブログでは斯波兼頼について過去に投稿しています。よかったら覗いてみて下さい。
<斯波兼頼像>
Kaneyori-Shiba.JPG
2021年11月28日
街中の斯波兼頼公像
(クリックで記事に移動します)


タグ:山形への旅
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2023年09月24日

出羽の虎将・最上義光の菩提寺(山形市)光禅寺

最上家11代当主・最上義光の菩提寺を訪ねました。義光は出羽国の小勢力となっていた最上家を、たった一代で全国有数の大大名に押し上げた戦国武将です。あの伊達政宗の叔父に当たります。

<光禅寺>こうぜんじ
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山形市鉄砲町にある曹洞宗の寺院です

<光禅寺境内>
Yamagatakouzenji.JPG
Yamagata-kouzenji.JPG
荘厳の境内。凛とした空気が漂います

光禅寺は最上義光が1602年(慶長7年)に向川寺九世春林禅寺冬和尚を拝請して開創した時に始まります。当初の名は慶長寺でした。最上義光の葬儀も「慶長寺」の時に行われています。その後の幕府の方針で、年号を寺院名とすることが禁じられたため、光禅寺と改められました。

また、寺は当初、現在の七日町3丁目にありました。山形城の大手筋に位置し、かつ広大な敷地で、出羽山形藩主に相応しい敷地だったようです。

しかし最上家は改易となってしまい、代わって山形を任された鳥居忠政により、ここ鉄炮町に移されました。これは磐城国にあった鳥居忠政の父(鳥居元忠)の菩提寺を移すためです。義光の墓所を訪ねているせいか、やや強引さを感じてしまいますが、藩主が入れ替わったのですから仕方ないですね。あと、最上義光同様に、鳥居忠政も城下町の強化に力を注ぎましたので、その一環でもあり、大手門から近い寺の配置は、軍事的な意味もあったのかもしれません。

移転に際しては、最上家に仕えていた浪人が500人から600人集まり、義光の遺骸を運んだと伝わります。ということは、最上義光本人の墓所であると同時に、彼を慕っていた家来たちの思いも、この地に残されているということですね。

光禅寺も理不尽な扱いを受けた印象もありますが、最上義光から寄進されていた250石は、その後も寺社領として幕府から安堵されたようです。良かったですね。現在の光禅寺も、庭園を含めてかなり広い敷地を維持していますので、恵まれた寺院という印象です。

<鐘楼と観音堂>
Bell-tower-and-Kannondo- mogami-yoshiaki-bosho.JPG
鐘楼の梵鐘は江戸時代初期の作と伝わります

<本堂>
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明治時代の大火(1894年)で境内の建物の多くは消失。先ほどご紹介させて頂いた観音堂と鐘楼以外は全焼したそうです。現在の本堂は大正時代に再建されたものです。

<扁額>
Yamagata-kouzen-ji.JPG
山号は天瀧山

そして
出羽の虎将の墓所へ


<最上義光墓所>
mogami-yoshiaki-bosho-yamagata-kouzenji.JPG
こちらです。中央が最上義光のお墓です。やや遠くから撮影しました。また、周囲の墓石は多少加工させて頂きましたのでご了承ください。雰囲気は伝わると思います。すぐ近くに説明板が設置されていますので、そちらをご紹介します。

<墓所説明板>
mogami-yoshiaki-bosho-g.JPG
ここ光禅寺は、義光の菩提寺であるとともに、山形藩2代藩主となった家親、3代藩主・義俊の菩提寺でもあります。家親は義光の次男、義俊その嫡子で義光からみて孫です。これをみると、義光が69歳まで生きたのに対し、家親は36歳、義俊は26歳で没していますので、ちょっと短いという印象です。また、藩主それぞれの墓とともに、最上義光の死に殉じた四人の家臣の墓もあります。画像は投稿しませんが、四義士の墓石は義光墓所のすぐそばに一列に並んでいます。

<永和二年阿弥陀板碑>いたび
Flat-stone-monument-Amida-Nyorai.JPG
こちらは墓石ではなく板碑。山形城二の丸で発掘された1376年の板碑で、山形市有形文化財に指定されています。最上の祖であり、山形城の築城者でもある斯波兼頼が、城内に草庵を結んで出家した翌年のものとのこと。斯波氏は清和源氏足利氏の一族。つまり最上氏も足利家一門です。

<境内の水路>
Waterway-in-temple-grounds-Yamagatagoseki.JPG
境内を通っているこの水路は山形五堰のひとつ笹堰です。山形五堰は鳥居氏時代に城下の治水事業の一環として設けられました。そういえば、最上義光の娘・駒姫の墓所(専称寺)にも、同じく山形五堰のひとつ御殿堰が通っていました。

<遠州流林泉庭園>
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本堂の裏手には遠州流“心字池”庭園があります。江戸時代初期のものと推測され、山形県内の庭園としては最古の部類とのこと。山形市指定名勝となっています。

<遠州流心字の池>
mogami-bosho-garden.JPG
先ほどの水路の水が滝となって注がれています。

境内は以上です


最上義光は、どういう訳か身内の不幸が多かった武将です。逸話などから推測すると、力強い武将でありながら、かなり人情味もあったようなので、涙することも多かったのではないでしょうか。それらを背負ったうえで、浮き沈みの激しい戦国の世を生き抜き、衰退していた名門家を57万石の大大名にまで押し上げました。出羽の英雄であり、のちの山形発展の礎を築いた人物です。個人的には上杉ファンですが、敵対した最上義光も、好きな戦国武将のひとりです。

<足利二つ引き>あしかがふたつひき
mogami-yoshiaki-bosho-yamagata.JPG
足利家一門の家紋がひときわ目を引きます。義光の居城・山形城には何度かお邪魔させて頂いていますが、菩提寺の訪問は初めて。来れて良かったという思いで、現地をあとにしました。


■訪問:光禅寺
[山形県山形市鉄砲町] 2丁目


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■参考及び出典
・現地説明板
(山形市教育委員会)
・光禅寺縁起
(曹洞宗光禅寺)
・墓所説明板
・Wikipedia:2023/9/24



■当ブログ過去記事■
当ブログでは最上義光について過去に投稿しています。やや古い記事で、更に個人的な思い入れが多い記事ですが、良かったら覗いてみて下さい。
<最上義光騎馬像>
sirononagori mogami Top.jpg
2017年10月17日
出羽の虎将・最上義光
(クリックで記事に移動します)
タグ:山形への旅
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2023年09月23日

お彼岸に造立された卒塔婆(永和の板碑)山形城で出家した斯波兼頼のなごり

最上義光の菩提寺として訪問した山形市の光禅寺で、「永和の板碑」と紹介されている板碑を目にしました。

<永和の板碑>えいわのいたび
Flat-stone-monument-Amida-Buddha.JPG
こちらです。ここは墓所ですので、どなたかの墓石と思って近寄りましたが、説明板を見て板碑だとわかりました。

<説明板>
Guide-plate-Eiwanoitabi.JPG
板碑と聞くと、もう少し平べったい板状の石を想像してしまいますが、板碑で間違いないわけですね。説明文を下記に転記させて頂きます(『』内は原文のままです)。

『碑面上部に阿弥陀如来の種子(梵字)キリークと、無量寿経四十八願の一節を刻み、この卒塔婆建立の意趣と造立の年号を、永和二年丙辰八月彼岸第二番と刻んでおります。』

なるほど…と言いたいところですが、ちょっと分かったような分からないような?
まず、阿弥陀如来を表す文字と、仏教の大切な教えの一部が刻まれていることは確かなようです。そして、この板碑は永和2年、干支は「ひのえたつ」の年のお彼岸に建立された。元号と干支は良いとして、彼岸第二番?お彼岸の2日目と受け止めて良いものでしょうか(雑ですみません)。

後半は以下の通りです

『明治二十九年山形城跡が連隊となり、地均し工事に二の丸跡より発掘されたもので、永和二年(一三七六)は最上の始祖、斯波兼頼公が城内に草庵を結んで出家した翌年あたります。』

なるほど
読み替えると、最上家始祖の斯波兼頼は1375年に山形城内に草庵を設けて出家しており、その翌年の年号が刻まれた板碑が、軍の連隊が城跡に駐屯した時の工事で発見されたということです。

個人的な感覚になりますが、板碑は供養塔、あるいは何かの節目に記念碑的な意味で設けられるイメージが強いです。羽州探題としての役割を終えて、嫡男に家督を譲った斯波兼頼が、出家する区切りとして板碑を造ったのだろう。現地ではそんなイメージで納得しました。

ただブログにまとめるにあたり、改めて考え直すと、阿弥陀如来を記した板碑の意味は、もっともっと仏教的な意味合が濃いものであるような気もします。お彼岸の重みも、今とは異なるような気がします。無信教に等しい私の感覚など、とても及ばない深い思いがそこにあるのではないかと。

斯波兼頼は城内に草庵を結んだ4年後にこの世を去ります。現地説明文はそこまで言及していませんが、人々を救う仏が記された板碑は、出家した兼頼が仏門に徹したなごりなのかもしれませんね。

<有形文化財>
Flat-stone-monument-Amida-Nyorai.JPG
山形市指定有形文化財に指定されています。

■訪問:永和二年阿弥陀板碑
(光禅寺墓所)
[山形県山形市鉄砲町] 2-5-7


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■参考及び出典
現地説明板

タグ:山形への旅
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2023年09月21日

悲運の大器・最上義康の供養塔(山形市)義光山常念寺

出羽の虎将・最上義光の嫡男・義康の菩提寺を訪ねました。

<常念寺>じょうねんじ
Yamagata-Jonenji-Gate.JPG
山形市三日町の常念寺です

<最上義康供養塔>
Mogami-Yoshiyasu-Memorialtower-Jonenji.JPG
こちらが最上義康の供養塔です。背景に映っている墓所は少し加工させて頂きました。
供養塔は比較的新しいです。最上義康四百年忌として2002年(平成14年)に建立されたとのこと。境内奥ではなく、門を通ってすぐのところにあるのも納得です。

<最上義光公嫡男>
Mogami-Yoshiyasu-Kuyoto.JPG
義康は山形城主最上義光の嫡男として生まれました。父は豪快にして人情味もある出羽の猛将として有名ですが、実は子である義康も文武に優れた人物で、父に従って各地を転戦し、武功をあげています。

「北の関ケ原」ともよばれる慶長出羽合戦では、危機に陥った最上家を代表して、伊達政宗もとへ向かい、援軍を要請しています。また、領内に侵攻していた上杉軍が関ケ原の勝敗を聞いて撤退を始めると、庄内地方へ進軍する最上軍の総大将を任されています。最上義光から如何に信頼されていたか伝わってくるようですね。

そんな有能な嫡男が
なぜ若くして亡くなったのか…

戦ならともかく、巨大化した最上家の跡継ぎ問題に起因する家臣間の不仲父と子の関係悪化が、義康を死に追いやることになりました。あまりにもドロドロした話なのでここでのご紹介は省略させて頂きますが、結果としては、江戸で家康の近侍として仕えていた次男が跡継ぎとなり、嫡男の家督相続は実現しませんでした。そして、高野山での出家を命じられた義康は、僅かな手勢で移動する途上「何者か」の命を受けた一団に襲撃されました。傷を負い、その場で無念の自害を遂げますが実質は暗殺です。

1603年9月21日(慶長8年8月16日)没
28歳という若さでした。


では
この「何者か」は誰なのか?
諸説あります。

まず、不仲の父・最上義光が首謀者という説があります。また、義康が最上家当主となることを嫌っていた家臣・里見民部の図り事という説もあります。

前述の通り、最上義康は若い頃からその能力を発揮し、父のサポート役を担いました。つまり、もともとは良好な親子関係だったのです。若者の成長過程で、父と対立することは、あまり珍しいことではありません。まして、気性が激しい同志です。表向き不仲となっても、もっと大きな意味での信頼や期待があったのではないでしょうか。

最上義光は、義康が死に至った経緯を家臣に調べさせます。危険を察した里見民部は山形を去りますが、義光の手の者により粛清されました。里見民部は最上義光のもとで活躍した武将でしたが、どこで歯車が狂ったのでしょうか。歴史にもしもは禁句ですが、最上家が急速に大大名にならなかったら、身内の争いもここまで大事にならなかったのかもしれませんね。

そうなった経緯については、不明な点が多いままです。

ただ、最上義光は義康の遺品となった日記に、父の武運祈願が記されていることを知り、泪したと伝わります。家臣に命じ、亡くなってしまった嫡男を手厚く葬りました。


<義光山常念寺>ぎこうざん
Gikouzanjonenji.JPG
最上義光本人の名が山号になっています

<常念寺本堂>
Gikouzan-Jonenji.JPG
最上家の当主になるはずった武将の菩提寺です。

■訪問:義光山 常念寺
[山形県山形市三日町]2丁目


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■参考
・境内説明文(常念寺縁起)
・Wikipedia:2023/9/21
posted by Isuke at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2023年09月17日

霞城三の丸跡の石碑(山形市)歌懸稲荷神社

山形市の歌懸稲荷神社の境内奥には、この地が山形城三の丸跡であることを記した石碑が建てられています。

<霞城三の丸跡の石碑>かじょう
Stone-monument-Kajo-sannomaruato.JPG
立派です。霞城三の丸跡と刻まれています。石碑は昭和36年に建てられました。

霞城は山形城の別称。城は大大名となった最上義光の時代に拡張され、全国有数の規模を誇る平城となりました。今回訪問の歌懸稲荷神社は、本丸跡などが整備されている霞城公園からけっこう離れていますが、広大な霞城(山形城)はこの付近にまで及んだということですね。

<三の丸土塁>
Revisit2023-Sannomaru-Yamagata.JPG
実は、この土塁を見るのは初めてではありません。前回は土塁の向こう側、細かいことを言うとかつての城内から眺めました。今回は城の外側からです。よくみると、土塁だけでなく、堀跡も確認できます。貴重な遺構です。


<歌懸稲荷神社>うたかけ
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お邪魔させて頂いた歌懸稲荷神社についてですが、歌懸とは、そのむかし歌を短冊に書き奉納する風習に由来するそうです。何となく高尚な感じがして近寄りがたいし、短冊もありませんが、とりあえずは拝殿で手を合わせておきました。

<拝殿>
Utakakeinari-Yamagata.JPG

<本殿>
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歌懸稲荷神社の創建年代は不詳ですが、最上家初代にして山形城の築城者である斯波兼頼が、城の守り神として建立したと伝わります。また、最上義光は天童氏との開戦に際して勝利祈願したとも伝わります。最上家ゆかりの神社ということになりますね。

もともとは山形城内でしたが、最上家が改易されてあとの鳥居忠政の時代に、この地、三の丸堀の外側へ移転したようです。

山形城を築き、城下繁栄の礎を作った最上家ゆかりの神社が、城外へと追い出された感がありますね。
ただそれ以後、縁日である10日ごとに門前で市が開かれ、十日町の名の起こりとなり、城下の人たちとのつながりは深まったようです。それはそのまま多くの人たちの信仰にもつながるわけですよね。殿様の神社とは別の価値が、そこにあるように思えます(あくまで個人感想です)。

<市神>
Ichigami-Yamagata-Utakake.JPG
商の神が祀られています

ということで
霞城三の丸跡石碑と、最上家と深い関りのある歌懸稲荷神社のご紹介でした。

<土塁と石碑>
Stonemonument-Kajosannomaru.JPG
石碑は社殿の裏手になります。

■訪問:霞城三の丸跡碑
歌懸稲荷神社境内)
[山形県山形市十日町] 1-1-26


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■参考
・現地説明板「山形城跡」
(山形県教育委員会)
(山形市教育委員会)
・山形市十日町商店街HP

http://tokamachi.sunnyday.jp/uta.html
タグ:山形への旅
posted by Isuke at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

情報の仲立ちをした石(山形市)なかたち石

ここは山形市小姓町の通り沿いです。歩道に石塔が建っています。

Yamagata-nakatachi-ishi.JPG
文字が刻まれているようです

Yamagata-message-stone-Tazune-side.JPG
こちらは「たつぬる方」

Yamagata-message-stone-Oshie-side.JPG
逆側は「をしへる方」

たつぬる・をしへる

これは
尋ねる・教える
です。

どういうことかというと
例えば迷子など困ったことが起きた場合は「たつぬる方」に紙を貼っておきます。すると、それを見た人のうちどなたかが「をしへる方」に情報を貼ってくれることになっています。

なるほど
こういう情報伝達手段があったわけですね。役人が設置する高札場とは異なり、庶民同士のコミュニケーション手段。SNSなど無い時代の素晴らしいシステムです。かなり重要な役割を担ったことでしょう。

Yamagata-Nakatachi-Ishi-Explanation-Board.JPG

この石は江戸時代末期に造られたものとのこと。貴重な歴史の記録ですね。こういったいわば掲示板のような石は、この地に限ったことではないようですが、こうして残っているのはかなり珍しいようです。説明文によれば『全国で三〇基近く』は確認されているとのことですが、全国ですからね。山形県内では2基とのこと。市の指定有形民俗文化財に指定されています。

現地文の『迷子だけでなくあらゆる情報の仲立ちをするために』という言葉が心に残ります。比較的気軽なものもあったかもしれませんが、切実な願いの方が圧倒的に多かったのではないでしょうか。庶民の日々の暮らしをサポートした石とも言えますね。

yamagata-sinzanji.JPG
現地はこちらの大日堂参道入口付近です。先ほどの説明板によれば石塔は『道路拡幅工事に伴い、平成二六年に、以前の位置から約六m南の現在地に移設』とありましたので、ちょうど北側のこの境内にあったものと思われます。まぁ6mですから、大幅なお引越しというわけではないですね。

ここ小姓町は、最上氏時代に小姓役が住んだところで、明治以降には遊郭などもあったそうです。いまでは綺麗に整備され、そういった面影はありません。長い歴史がありながら、街からいろいろな痕跡が消えていくなか、「なかたち石」はむかしを今に伝える貴重な存在です。人通りのないところに設置しても意味がないので、ここは多くの人が行き交う場所だったのでしょう。

Yamagata-Nakatachiishi.JPG
なかたち石に足を止め、のぞき込む人を勝手に想像して、現地をあとにしました。

■訪問:なかたち石
(新山寺大日堂前)
[山形県山形市小姓町] 149番


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■参考及び出典■
・現地説明板(山形市教育委員会)
・山形市HP 市長のやまがた自慢
「なかたち石・おたすけ石」

https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/shiseijoho/shicho/1006787/1006792/1005473.html

タグ:山形への旅

2023年09月16日

戊辰戦争の爪痕が残る小山市の寺院(常光寺)

栃木県小山市にて
戊辰戦争の爪痕が残る寺院を尋ねました。

<常光寺山門>じょうこうじ
Jyoukouji-Gate-Oyama.JPG
小山駅西口にほど近い浄土宗の寺院です。

<境内/本殿>
JyoukoujiOyama.JPG
Jyoukouji-Oyama-city.JPG
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創建は鎌倉時代とのこと。一時期廃寺となっていましたが、1602年(慶長7年)小山政重(小山城主・小山秀綱の孫)によって中興され、浄土宗に転宗したと伝わります。戦国大名としての小山氏は18代当主の秀綱で終わりとなりましたが、その所領の寺に、孫にあたる政重が力を注いだということですね。

さて
この日のお目当ては阿弥陀如来像

<阿弥陀如来像>
Jyoukouji-Amidanyorai.JPG
阿弥陀仏如来像です。台座には1868(慶応4)年の戊辰戦争に伴う弾痕が残っているとのことです。

ちょっと正面からは見えませんが…

<現地説明板>
Jyoukouji-Explanation-board.JPG
常光寺所有の小山市重要文化財について説明がなされています。阿弥陀如来像について『小山の戦いで幕府軍の流弾が台座後部に命中』と記されています。

鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争は、江戸城の開城を経てたのち、衝突の舞台は徐々に北へ移りました。戊辰戦争で栃木県といえば「宇都宮城の戦い」を思い浮かべますが、戦火は各地に飛び火していました。栃木県南部に位置する小山市も例外ではなく、ここ常光寺には、その爪痕までもが残されているわけですね。

戊辰戦争は、総じて新政府軍有利の展開が続きますが、ここ小山での激突では、旧幕府軍が優勢だったそうです。

<二十三夜堂>
Jyoukouji-Oyama.JPG
ネットで画像検索すると、阿弥陀如来像はもともとは外に置かれていたようですが、現在はこちらの堂内にて安置されています。毎月23日にはお堂のご開帳が行われとのこと。

ご紹介は以上です。

■訪問:遍照山 常光寺
[栃木県小山市中央町]3-11-28


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■参考及び出典
・現地説明板
・Wikipedia:2023/9/16
・小山市観光協会HP
 歴史/文化/施設

https://oyama-kankou.info/history/jyoukouji/
・とちぎ旅ネットHP
 観光スポット/常光寺

https://www.tochigiji.or.jp/spot/s4726

2023年09月09日

三貫清水(さいたま市)道灌が立ち寄った大宮台地の湧水地

今回は室町時代の武将・太田道灌ゆかりの清水の話です。

<三貫清水の碑>さんがんしみず
Sanganshimizu-Stone-Monument.JPG
三貫清水の碑と記されています。道灌のどんな言い伝えがあるのでしょうか

<三貫清水の由来>
Sanganshimizu-Ryokuchi-Explanation-board.JPG
現地に説明板が設置されています。要約させて頂くと、太田道灌がこの辺りに狩りに来た時に、里の人がこの地に湧き出る清水を汲んで茶をたててだしたところ、とてもうまいと言って三貫文の褒美を授けたことが名の由来のようです。鷹狩りの途中に立ち寄ったのでしょうね。

<大宮台地の湧水地>
Sanganshimizu-Kamakurakaido.JPG
この付近は大宮台地の湧水地。この画像だと、左手は大宮台地の斜面、道を挟んで右手は鴨川沿いの低湿地となります。

<台地下の湧水>
Sanganshimizu-Ryokuchi-Saitama.JPG
台地から溢れ出る水でたてたお茶が、道灌の喉を潤したわけですね

<三貫清水のプレート>
Sanganshimizu-Monument.JPG
こちらのプレートにも名の由来が記されていました

<人工の水路>
Sanganshimizu-Ryokuchi-Saitamz.JPG
記録的な猛暑が続く夏の訪問だったので枯れていますが、綺麗な湧き水に満たされている時もあるようです。背後の台地上には鎌倉街道が通っています。

<鎌倉街道跡>
Kamakurakaido-Kitaku-Saitamashi.JPG
こんな感じです。道灌も通った道?ですかね


ところで
茶のお礼に三貫文の褒美ということですが、そもそも三貫がどの程度のおカネなのか見当がつきません。道灌の時代まで遡る以前に、江戸時代ですら三貫の価値の見当がつきません。

はっきりしていることは
一貫は一文銭1000枚ということ

じゃ一文銭の価値は…?

真田家の家紋として知られる六文銭、三途の川の渡り賃ですね、これが300円前後という(個人的)記憶を背景に計算すると、三貫は15万円くらいでしょうか?

正直わかりません。

ただ「このお茶は美味しいなぁ」と言って渡すおカネから、一般人が普通に想像できるような金額ではなさそうです。かなり高額な褒美と思った方が良さそうですね。

Sangan-shimizu.JPG

江戸城の築城者として知られる太田道灌は、文武両道の名将で、その活躍により主である扇谷上杉家の勢力拡大に大きく貢献しました。しかし、その才能を恐れた主に暗殺されるという悲劇の武将でもあります。そんな道灌を慕ってか、関東にはゆかりの地がたくさんあります。ここ三貫清水緑地もそのひとつということですね。

■訪問:三貫清水緑地
[埼玉県さいたま市北区奈良町]

■参考及び出典
・Wikipedia:2023/9/9
・さいたま市HP 
  北区プロフィール>歴史>
 「北区の歴史、伝統と文化」

https://www.city.saitama.jp/kita/001/003/001/p019515.html


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タグ:太田道灌
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2023年09月05日

雑木林の古道を歩く(さいたま市)鎌倉街道跡

さいたま市北区の鎌倉街道跡を訪ねました。

<鎌倉街道>
Kamakurakaido-Kitaku-Saitamashi.JPG
ここは大宮台地の雑木林。鎌倉街道跡と伝わる土の道が数百メートル続きます。

<古道>
Kamakurakaido-Saitama.JPG
良い雰囲気ですね。すぐ近くまで宅地化が進んでいますが、こういう自然を、そして鎌倉街道跡として確保して頂けるとありがたいですね。

<台地の縁>
Sanganshimizu-Ryokuchi-kodou.JPG
雑木林の西側は低地になっているようです。街道は大宮台地の縁を通っていたことになります。

<脇道>
Sanganshimizu-Wooded-path.JPG
脇道があるので低地へ降りてみることにしました。

<鴨川沿いの低地>
Kamogawa-lowland.JPG
台地を降りて鴨川沿いの低地へ。川の対岸は上尾市になります。

<湿地帯>
SanganshimizuRyokuchi-Saitama.JPG
Sanganshimizu-Ryokuchi.JPG
先ほどの雑木林と街道を含め、この付近一帯が緑地として整備・保護されています。

<斜面>
Sanganshimizu-Kamakurakaido.JPG
鴨川が長年かけて削った台地の斜面を撮影。この地は台地から溢れ出る水の恩恵をうけ、湧水地としても知られています。鎌倉街道を行き交う人が、足を止めてひと休みする場所だった可能性もありますね。あの太田道灌が、狩りの途中で立ち寄ったという逸話も残されています。

一般的に、街道は足元の悪い低地をなるべく避け、台地上や尾根道に整備される方が多いですが、低地のこの道が古道ではないかという話もあるそうです。


ところで
そもそも鎌倉街道とは、鎌倉を起点に放射状に延びる中世期の街道をいいます。一般的には基幹道として上道(かみつみち)・中道(なかつみち)・下道(しもつみち)と呼ばれる3本の道筋を指す場合が多いですね。

今回訪問の付近は、どれにも該当しません。

支道?

鎌倉街道と呼ばれる故道は、3ルート以外にも存在しています。今回訪問の鎌倉街道は羽根倉道と呼ばれる道筋で、所沢からこの付近を経由して加須へ至ります。もう少し具体的に言うと、所沢で鎌倉街道上道から分かれ、北東に進んだ先で鎌倉街道中道と合流します。

よって
一般的な解釈だと、鎌倉街道の上道と中道を繋ぐ道ということになりますね。

<羽根倉道>はねくらみち
Kamakurakaido-hanekura.JPG
枝道と受け止めるのが妥当のようですが、鎌倉街道の定義にも諸説あるようなので、ここが基幹道だった可能性だって、絶対ないとは言えません(よね?)

以上、さいたま市北区の鎌倉街道跡のご紹介でした。
最後のひとことは素人の妄想ですので、その程度に受け止めて下さい。いずれにせよ、中世からあった道です。

<いにしえの道>
Saitamacity-The-road-to-Kamakura.JPG
古道の原風景を思わせる素敵な場所でした

■訪問:
鎌倉街道跡[羽根倉道]

 (三貫清水緑地内)
[埼玉県さいたま市北区奈良町]

■参考及び出典
・Wikipedia:2023/9/5
・さいたま市HP 
  北区プロフィール>歴史>
 「北区の歴史、伝統と文化」

https://www.city.saitama.jp/kita/001/003/001/p019515.html


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タグ:鎌倉街道
posted by Isuke at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道

2023年09月04日

鍛冶町に鎮座する三宝荒神(米沢市)

米沢市鍛冶町火を司る神」を祀る神社に立ち寄りました。

<三宝荒神>さんぼうこうじん
yonezawa-kajicho-Sanpokojin.JPG
やや地味な神社ですので、地元の人以外は素通りしてしまうかもしれません。私の場合、すぐ近くの「鍛冶町」を示す看板のお陰で足を止めることができました。

<鍛冶町>かじまち
yonezawa-kaji-machi.JPG
こちらです。まさに「鍛冶町」を目指して歩いてきたので、これを見つけてちょっと安心しました。鍛冶町会館のお隣に三宝荒神と記されています。この地で大切にされているであろう神社を意識した瞬間でした。

ちなみに

<城下町散策>
yonezawa-Sansakoro-kajicho.JPG
こちらは今回の米沢散策で随分とお世話になった「城下町散策」の標柱と「旧町名由来」。ここでは鍛冶町に関する説明が記されています。どうやら、現在の鍛冶町に加えて、中央三丁目もむかしは鍛冶町だったようです。せっかくですので、以下に転記させて頂きます(『』内は原文のまま)。

『その名のとおり鍛冶職人を集めた職人町で、江戸前期では60軒中50軒が鍛冶屋であった。藩の仕事を努めた御用鍛冶は屋敷も広く税が免除された。江戸中期からは鍬や鎌などの農具製造も盛んとなり、特に鍛冶町で製造された鎌は評判であった。』

鍛冶町という地名は、全国にたくさんあります。例外もあるかもしれませんが、大半はここ米沢と同じで、城下町において職業別集住制が行われたなごりです。大工とか石工、あるいは染師とか畳屋とか…職業が地名の由来になっているのをよく見かけます。鍛冶屋だから鍛冶町。分かりやすいです。現在は存在しませんが、米沢にはかつて鉄砲屋町という町名もあったようです。

さて
話を三宝荒神に戻すと

<鍛冶町の三宝荒神神社>
yonezawa-Sanpokojin.JPG
三宝荒神は仏法僧の三宝を守護する神ですが、日本での信仰はさまざまで、そのうちのひとつが「火の神」としての信仰です。火を使う鍛冶職人が、守護神として祀るのも納得できますね。一般的にも「かまどの神」として親しまれており、台所に祀られていたりもします。

清浄を尊び不浄を嫌う荒神は、やがて全てを浄化する火の信仰と結びついた、という理解で良いでしょうか(ちょっと大ざっぱですみません)?御由緒などの説明板があればもっと詳しく知れたのですが、知識不足の私はここまでです。

まぁご利益は他にもいろいろとあろうかと思いますが、ここは鍛冶職人の町ですので、やはり「火を司る神」祀られたことが始まりなのでしょう。
そう受けとめることにして、現地をあとにしました。

拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:三宝荒神神社
[山形県米沢市鍛冶町]4561

■参考及び出典
・Wikipedia:2023/9/4
・城下町散策説明板
 『旧町名由来 鍛冶町』



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