金沢城跡では石垣も見どころです。ただ、一か所だけ、異様な光景となっている場所があります。
<石垣に大きな穴>
なんだあれ?
下調べなしで訪問してたるので正直驚きました。
<レンガ造り>
よく見ればレンガ造り。これはかつて金沢城跡に旧陸軍が駐屯した時のなごりです。トンネルは弾薬庫の通路でした。
<説明板>
明治から大正期に作られてと記されています
石垣が崩れかけていたり、草木に埋もれているのは見慣れていますが、人工的で大きな穴というのはかなり不自然な光景。加賀百万石の城跡になんてことを!城好きの目には、ちょっと痛々しく映りますね。
金沢城に限らず、日本にあった城の大半は、明治以降は廃城処分、または陸軍所轄となって再利用となりました。当時は城を文化遺産として残すより、優先しなくてはならないことがあったのでしょう。これは仕方ないことですね。
<明治以降の城の運命>
軍の施設を造るために、土塁は削られ、石垣は取り除かれ、堀は埋め立てられる。そういう城跡をたくさんみてきました。石垣に空いた巨大な穴は、見慣れない光景ではありますが、それと同じですね。いや、見方を変えれば、明治以降の城の運命を、今に伝える貴重な遺産なのかもしれませんね。
■訪問:金沢城戌亥櫓付近
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]
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■参考
現地説明板
「レンガ造りのトンネル」
2023年11月11日
2023年11月06日
隠し狭間(金沢城)海鼠壁と鉄砲狭間
金沢城の石川門で、こんな狭間を見かけました。
<鉄砲狭間>
ここはいわゆる枡形門の内部です。鉄砲用の狭間が設けられています。門に迫ってくる外敵を、内側から狙い討ちするための仕掛けですね。決して珍しい構造ではありません。
ただよく見ると
<狭間の構造>
穴が開いていないのかぁ
向こう側が見えません。城壁の狭間と言えば穴が開いているものが多いですよね。ここは櫓など建物内部で見かける狭間と同じで、蓋がされているようです。外からはどんな風に見えるのですかね?
<石川門>
あれ?狭間はどこたろう?
石川門を外側から見るとこんな感じです。ちょっと変わった城壁ですね。よく見かける土壁を漆喰で仕上げた壁ではなく、なまこ壁。平らな瓦を、壁に貼り付けて仕上げています。
瓦が並べて貼ってある…
<海鼠壁>なまこかべ
もうお察しと思われますが、いざという時は、この平瓦を内側から割り、狭間の穴とします。ただ、ここまで整然と並んでいると、どの瓦が狭間の蓋となっているのか見分けがつきませんね。
ここ石川門に限らず、なまこ壁は金沢城のあちこちで見ることができます。あくまで防火・防水などが主な目的だったと思われますが、どこに「隠し狭間」が仕組まれているのか分かりにくいという恐ろしい仕掛けになっています。
<石川櫓>
なまこ壁だらけ…どこから狙われるのか分かりませんね
以上です。
金沢城石川門の追記でした。
■訪問:金沢城石川門
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]
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<鉄砲狭間>
ここはいわゆる枡形門の内部です。鉄砲用の狭間が設けられています。門に迫ってくる外敵を、内側から狙い討ちするための仕掛けですね。決して珍しい構造ではありません。
ただよく見ると
<狭間の構造>
穴が開いていないのかぁ
向こう側が見えません。城壁の狭間と言えば穴が開いているものが多いですよね。ここは櫓など建物内部で見かける狭間と同じで、蓋がされているようです。外からはどんな風に見えるのですかね?
<石川門>
あれ?狭間はどこたろう?
石川門を外側から見るとこんな感じです。ちょっと変わった城壁ですね。よく見かける土壁を漆喰で仕上げた壁ではなく、なまこ壁。平らな瓦を、壁に貼り付けて仕上げています。
瓦が並べて貼ってある…
<海鼠壁>なまこかべ
もうお察しと思われますが、いざという時は、この平瓦を内側から割り、狭間の穴とします。ただ、ここまで整然と並んでいると、どの瓦が狭間の蓋となっているのか見分けがつきませんね。
ここ石川門に限らず、なまこ壁は金沢城のあちこちで見ることができます。あくまで防火・防水などが主な目的だったと思われますが、どこに「隠し狭間」が仕組まれているのか分かりにくいという恐ろしい仕掛けになっています。
<石川櫓>
なまこ壁だらけ…どこから狙われるのか分かりませんね
以上です。
金沢城石川門の追記でした。
■訪問:金沢城石川門
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]
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2023年11月05日
威風堂々の搦め手(金沢城)石川門
兼六園側から金沢城址公園へ向かうと、堂々とした城門が出迎えてくれます。
<石川門>いしかわもん
立派です。金沢城三御門のひとつ石川門です。最初の画像は入り口の門。次の画像は門に併設されている櫓。名の由来はどなたかの名前かと思いきや、石川郡の方を向いていたので石川門と呼ばれたそうです。石川郡はそのまま県名となっています。
1759年(宝暦9年)に焼失したものの1788年(天明8年)には再建。修理を重ねて現在に至ります。つまり、江戸時代に建てられた門が現存しています。国の重要文化財です。
<枡形門>ますがたもん
門の型式はいわゆる桝形門です。最初の門(高麗門)を潜れば、待っているのは壁に囲まれた方形の空間、そしてその先は重厚な門(櫓門)。侵入してきた外敵は、あちらこちらから飛び道具で狙われます。
私は外敵ではないので、隅から隅まで見学させて頂きました。
<枡形の内側>
あれ、同じ空間で石垣の加工が異なるのかぁ…(左は「打ち込みハギ積み」で正面は「切り込みハギ積み」の石垣です)
<隠し狭間>さま
こちらは最初の門の内側です。門の外を鉄砲などで攻撃できるように狭間が設けられています。(有事の時以外は穴は塞がれていて、外からは見えません)
<内部公開中>
え、入って良いの?しかも無料?
私の訪問時は内部も無料公開されていました。ありがたいことです。
<建物内部>
内部で撮影した画像です。やや暗いため映りが悪く、ご紹介できるのはこの程度。細部は無理ですが、雰囲気は伝わると思います。
<搦手門>からめてもん
さすがは加賀藩主前田家居城の門です。ちなみに、金沢城の三御門とは河北門(かほくもん)と橋爪門、そしてここ石川門になります。
まるで城址公園の玄関口のようですが、金沢城が現役の頃は搦手門、つまり大手門を正面玄関とすると、こちらは裏口にあたる門でした。
<搦め手>
兼六園側から見た金沢城です。威風堂々の搦め手です。
■訪問:金沢城石川門
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]
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■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/11/5
・金沢市HP
「文化財・歴史遺産」
>世界遺産> 2金沢城石川門他
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkazaihogoka/gyomuannai/3/1/2/5002.html
<石川門>いしかわもん
立派です。金沢城三御門のひとつ石川門です。最初の画像は入り口の門。次の画像は門に併設されている櫓。名の由来はどなたかの名前かと思いきや、石川郡の方を向いていたので石川門と呼ばれたそうです。石川郡はそのまま県名となっています。
1759年(宝暦9年)に焼失したものの1788年(天明8年)には再建。修理を重ねて現在に至ります。つまり、江戸時代に建てられた門が現存しています。国の重要文化財です。
<枡形門>ますがたもん
門の型式はいわゆる桝形門です。最初の門(高麗門)を潜れば、待っているのは壁に囲まれた方形の空間、そしてその先は重厚な門(櫓門)。侵入してきた外敵は、あちらこちらから飛び道具で狙われます。
私は外敵ではないので、隅から隅まで見学させて頂きました。
<枡形の内側>
あれ、同じ空間で石垣の加工が異なるのかぁ…(左は「打ち込みハギ積み」で正面は「切り込みハギ積み」の石垣です)
<隠し狭間>さま
こちらは最初の門の内側です。門の外を鉄砲などで攻撃できるように狭間が設けられています。(有事の時以外は穴は塞がれていて、外からは見えません)
<内部公開中>
え、入って良いの?しかも無料?
私の訪問時は内部も無料公開されていました。ありがたいことです。
<建物内部>
内部で撮影した画像です。やや暗いため映りが悪く、ご紹介できるのはこの程度。細部は無理ですが、雰囲気は伝わると思います。
<搦手門>からめてもん
さすがは加賀藩主前田家居城の門です。ちなみに、金沢城の三御門とは河北門(かほくもん)と橋爪門、そしてここ石川門になります。
まるで城址公園の玄関口のようですが、金沢城が現役の頃は搦手門、つまり大手門を正面玄関とすると、こちらは裏口にあたる門でした。
<搦め手>
兼六園側から見た金沢城です。威風堂々の搦め手です。
■訪問:金沢城石川門
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]
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■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/11/5
・金沢市HP
「文化財・歴史遺産」
>世界遺産> 2金沢城石川門他
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkazaihogoka/gyomuannai/3/1/2/5002.html
2023年11月03日
いざとなれば砦を築けそうな庭園(金沢市)兼六園
<兼六園>けんろくえん
日本三名園のひとつとして名高い兼六園。情報はネットに溢れていますので、城跡ブログらしい目線でまとめさせて頂きます。
これは城に隣接する他の庭園にも言えることですが、優雅な庭園も、万が一の時は防衛施設になることを意識して造られていたという見方ができます。つまり二ノ丸・三ノ丸といった曲輪と同じ役割です。
金沢城は二本の川に挟まれた台地(厳密には段丘)の先端に築かれました。よって周辺とは高低差があります。ただ、台地の続いている側、金沢城の場合は城の南側は、地形上の有利さはありません。よって、何らかの手を加えて補強する必要があります。
<百間堀跡>ひゃっけんぼり
兼六園側から見た金沢城です。手前の低地はもともとあった谷ではなく、台地を断ち切るようにして設けた堀跡です。このように台地を遮断する方法は珍しいことではありませんが、金沢城の場合はスケールが違います。丘伝いに攻め込みやすい南側、つまり城とっては弱い部分を補うため、金沢城で最大の堀が設けられました。
堀の更に南側に位置しているのが兼六園です。始まりは第5代藩主・前田綱紀が築いた蓮池庭(1676年)。既に幕府が大名たちの城の修理を監視している時代ですが、あくまで庭園ですので、城を拡張したことにはなりません。その辺りも考慮した上での補強だったのではないでしょうか。正式な曲輪ではありませんが、管理しているのは加賀藩であり、本部は金沢城です。外敵に攻められることを全く想定していないとは考えにくいですね。
起伏に富んだ園内
天然の川から引き込んだ新鮮な水の流れ
意識して設けた水のたまり場
庭園そのものが高台に位置している
いざとなれば・・・
ということで
城好きによる兼六園のご紹介でした。学術的に認められた見解ではありません。ただ、そういう見方をする人は少なくないという程度に受け止めて頂けると助かります。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:兼六園
[石川県金沢市兼六町]
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日本三名園のひとつとして名高い兼六園。情報はネットに溢れていますので、城跡ブログらしい目線でまとめさせて頂きます。
これは城に隣接する他の庭園にも言えることですが、優雅な庭園も、万が一の時は防衛施設になることを意識して造られていたという見方ができます。つまり二ノ丸・三ノ丸といった曲輪と同じ役割です。
金沢城は二本の川に挟まれた台地(厳密には段丘)の先端に築かれました。よって周辺とは高低差があります。ただ、台地の続いている側、金沢城の場合は城の南側は、地形上の有利さはありません。よって、何らかの手を加えて補強する必要があります。
<百間堀跡>ひゃっけんぼり
兼六園側から見た金沢城です。手前の低地はもともとあった谷ではなく、台地を断ち切るようにして設けた堀跡です。このように台地を遮断する方法は珍しいことではありませんが、金沢城の場合はスケールが違います。丘伝いに攻め込みやすい南側、つまり城とっては弱い部分を補うため、金沢城で最大の堀が設けられました。
堀の更に南側に位置しているのが兼六園です。始まりは第5代藩主・前田綱紀が築いた蓮池庭(1676年)。既に幕府が大名たちの城の修理を監視している時代ですが、あくまで庭園ですので、城を拡張したことにはなりません。その辺りも考慮した上での補強だったのではないでしょうか。正式な曲輪ではありませんが、管理しているのは加賀藩であり、本部は金沢城です。外敵に攻められることを全く想定していないとは考えにくいですね。
起伏に富んだ園内
天然の川から引き込んだ新鮮な水の流れ
意識して設けた水のたまり場
庭園そのものが高台に位置している
いざとなれば・・・
ということで
城好きによる兼六園のご紹介でした。学術的に認められた見解ではありません。ただ、そういう見方をする人は少なくないという程度に受け止めて頂けると助かります。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:兼六園
[石川県金沢市兼六町]
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2023年11月02日
さし石(尾山神社)藩主前田家より拝領の力石
金沢市の尾山神社に展示されている力石の話です。
<力石>ちからいし
力試しに用いられた石ですね
<説明板>
ここでは『さし石』と呼ぶようです。旧藩主前田家よりの拝領石とのこと。説明文を以下に転記させて頂きます(『』内は転記)。
『一般に番持ち石といわれ、古くより若衆達がこの石を担いで力と技を競った。特にここ加賀においては、草相撲と並んで力比べが盛んに行われた。これに因んで、この石に触ると健康になるといわれ、古くより多くの人々がこの石を触り幸福への第一歩である健康を祈った。』
健康は幸福への第一歩
ろくに運動もせず、不摂生のまま働き続けてきたオッサンの心に、深く染み入る言葉でした。ちょっと疲れていたせいですかね?
<さし石>
左の石には「さし石」の文字。右の石はちょっと(私には)意味がわかりませんが「拝領石」の文字は確認できます。
反省の意味も込めながら
ありがたく触れさせて頂きました。
幸福への第一歩です。
■訪問:尾山神社の力石
[石川県金沢市尾山町]
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■参考及び出典
現地説明板
<力石>ちからいし
力試しに用いられた石ですね
<説明板>
ここでは『さし石』と呼ぶようです。旧藩主前田家よりの拝領石とのこと。説明文を以下に転記させて頂きます(『』内は転記)。
『一般に番持ち石といわれ、古くより若衆達がこの石を担いで力と技を競った。特にここ加賀においては、草相撲と並んで力比べが盛んに行われた。これに因んで、この石に触ると健康になるといわれ、古くより多くの人々がこの石を触り幸福への第一歩である健康を祈った。』
健康は幸福への第一歩
ろくに運動もせず、不摂生のまま働き続けてきたオッサンの心に、深く染み入る言葉でした。ちょっと疲れていたせいですかね?
<さし石>
左の石には「さし石」の文字。右の石はちょっと(私には)意味がわかりませんが「拝領石」の文字は確認できます。
反省の意味も込めながら
ありがたく触れさせて頂きました。
幸福への第一歩です。
■訪問:尾山神社の力石
[石川県金沢市尾山町]
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■参考及び出典
現地説明板
2023年10月29日
焼失を免れた城門(金沢市)尾山神社東神門
金沢城の西側に位置する尾山神社には、かつての二ノ丸の城門が移設されています。
<尾山神社東神門>
安土桃山時代の様式の唐門。たび重なる火災に悩まされ、多くの建築物が失われた金沢城にあって、これは貴重な遺構です。
<説明板>
こちらに詳細が記されていますので、ご紹介させて頂きます(『』内が原文の転記)
『この神門は、金沢城二ノ丸御殿にあった一間一戸の向唐門と伝えられています。明治三年(一八七〇)頃に卯辰山にある招魂社の神門として移され、昭和三十八年(一九六三)に現在地に移築されました。
一部の細部様式に江戸時代後期の特徴が見られることから、文化六年(一八〇九)の二ノ丸御殿再建時の建立と推測されています。』
二ノ丸御殿とは、城の火災を機に本丸に代わって城の中心となった場所です。加賀百万石の中心ですから、さぞ立派な御殿だったのでしょう。向唐門(むかいからもん)は格式が高いとされる建築様式です。細部の様式から、江戸後期の再建時のものと推測されているとのこと。再建? 二ノ丸御殿は江戸時代を通して二度焼失しているようです。
説明文の残りの部分をご紹介します。
『その一方で、文化五年の二ノ丸御殿の火災の際に、唐門に施された二匹の龍が水を呼び、この門だけが難を逃れ残ったという伝説があります。』
なるほど
龍が火災から城門を守った…
<二匹の龍>
向き合う龍
日本において龍神は水を司る神さま
素敵な伝説ですね
■訪問:尾山神社東神門
[石川県金沢市尾山町]11-1
お城巡りランキング
■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/10/29
--------追 記--------
東神門まで足を運んだら、一旦階段を下りて通りに出ることをお勧めします。通りはかつての堀跡です。
<堀跡から見上げた景色>
水堀から金沢城を見上げていることになります。すごい高低差です。
<斜面>
急勾配を登り切っても石垣が待っています。「いもり堀」と呼ばれるこの堀の跡は、画像の右手奥まで続き、更に進んだ先では、一度は埋められた水堀が復元整備されています。
そして
逆側には橋と門
<鼠多門>ねずみたもん
出丸と金沢城の連絡通路といったところでしょうか。具体的には金谷出丸(現在の尾山神社の敷地)と金沢城西側の玉泉院丸を繋ぐための橋、そして城門です(復元)。金沢城のみどころのひとつです。実際に橋を渡って見学するのも良いですが、できれば一度下から見上げることをお勧めします。
以上です。追記が長くて恐縮です。
<尾山神社東神門>
安土桃山時代の様式の唐門。たび重なる火災に悩まされ、多くの建築物が失われた金沢城にあって、これは貴重な遺構です。
<説明板>
こちらに詳細が記されていますので、ご紹介させて頂きます(『』内が原文の転記)
『この神門は、金沢城二ノ丸御殿にあった一間一戸の向唐門と伝えられています。明治三年(一八七〇)頃に卯辰山にある招魂社の神門として移され、昭和三十八年(一九六三)に現在地に移築されました。
一部の細部様式に江戸時代後期の特徴が見られることから、文化六年(一八〇九)の二ノ丸御殿再建時の建立と推測されています。』
二ノ丸御殿とは、城の火災を機に本丸に代わって城の中心となった場所です。加賀百万石の中心ですから、さぞ立派な御殿だったのでしょう。向唐門(むかいからもん)は格式が高いとされる建築様式です。細部の様式から、江戸後期の再建時のものと推測されているとのこと。再建? 二ノ丸御殿は江戸時代を通して二度焼失しているようです。
説明文の残りの部分をご紹介します。
『その一方で、文化五年の二ノ丸御殿の火災の際に、唐門に施された二匹の龍が水を呼び、この門だけが難を逃れ残ったという伝説があります。』
なるほど
龍が火災から城門を守った…
<二匹の龍>
向き合う龍
日本において龍神は水を司る神さま
素敵な伝説ですね
■訪問:尾山神社東神門
[石川県金沢市尾山町]11-1
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■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/10/29
--------追 記--------
東神門まで足を運んだら、一旦階段を下りて通りに出ることをお勧めします。通りはかつての堀跡です。
<堀跡から見上げた景色>
水堀から金沢城を見上げていることになります。すごい高低差です。
<斜面>
急勾配を登り切っても石垣が待っています。「いもり堀」と呼ばれるこの堀の跡は、画像の右手奥まで続き、更に進んだ先では、一度は埋められた水堀が復元整備されています。
そして
逆側には橋と門
<鼠多門>ねずみたもん
出丸と金沢城の連絡通路といったところでしょうか。具体的には金谷出丸(現在の尾山神社の敷地)と金沢城西側の玉泉院丸を繋ぐための橋、そして城門です(復元)。金沢城のみどころのひとつです。実際に橋を渡って見学するのも良いですが、できれば一度下から見上げることをお勧めします。
以上です。追記が長くて恐縮です。
2023年10月28日
前田利家ゆかりの地(金沢)尾山神社
戦国武将・前田利家が祀られている神社を訪ねました。
<尾山神社>おやまじんじゃ
創建は1873年(明治6年)です。前田利家が没したのは1599年(慶長4年)ですから、相当あとの話になりますね。この当時、各地で藩祖又は藩主を祀る神社が流行りとなっていました。尾山神社の創建も、そういった世の中の風潮に乗ったものだったようです。それまで前田利家の霊が祀られていた卯辰八幡社は、尾山神社建立を境に宇多須神社となりました。
<鳥居>
堂々とした鳥居は日本風ですが…
<神門>
え?これが神社の門!和漢洋の三様式が混合されたこの珍しい神門は、国の重要文化財に指定されています。
<異彩>
神社でステンドグラスかぁ…ちなみに、てっぺんの避雷針は日本で最古のものとのことです。
<拝殿>
旧加賀藩士等により社殿が築かれました
<前田利家像>
かなり高い位置に設置されています。
<槍の又左>やりのまたざ
豊臣政権下で五大老に名を連ねた大御所の姿ではなく、織田信長配下で槍の又左衛門として名を馳せた頃の雄姿ですね。利家は当時としてはかなりの大男で、180cm前後はあったようです。
<母衣>ほろ
背中の大きな丸い袋は母衣です。若い頃の利家は赤い母衣を背負う母衣衆のリーダー的な存在でした。敵から目立ってしまいますが、背後から飛んくる矢から身を守る効果がありました。
<境内の様子>
尾山神社の境内は、もともとは金沢城の一部で、金谷出丸と呼ばれていました。出丸はやがて隠居した藩主の居住地となり、金谷御殿と呼ばれました。
<東神門>
見どころ沢山の境内と比較するとちょっと地味ですが、尾山神社の裏門(東神門)には、かつての金沢城二の丸の門が移設されています。
<金谷神社> かなやじんじゃ
こちらは境内にある金谷神社です。利家の嫡男・利長から始まる前田家歴代当主、そしてその正室が祀られています。前田家の血筋は現在も受け継がれています。
<神苑>しんえん
旧金谷御殿の池泉廻遊式の庭園とされています。江戸末期から明治初期にかけて造られたようです。廃藩置県が1871年(明治4年)ですから、藩として造園した最後の庭園の部類と思われます。
<おまつの方の石碑>
藩祖・前田利家を祀る神社として創建されましたが、1998年(平成10年)に正室のお松の方も合祀されました。松は利家を支え続け、没後は菩提を弔うために出家して「芳春院」と号しました。息子利長が徳川家康から謀反の疑いをかけられると、自ら人質として江戸に入り、加賀藩を救いました。
<観光名所>
「利家とまつ」が祀られ、金沢の人気スポットのひとつとなっています。
■訪問:尾山神社
[石川県金沢市尾山町]11-1
お城巡りランキング
■参考
・Wikipedia:2023/10/25
・ほっと石川旅ねっと
>石川の観光スポットを探す>尾山神社
https://www.hot-ishikawa.jp/spot/4830
<尾山神社>おやまじんじゃ
創建は1873年(明治6年)です。前田利家が没したのは1599年(慶長4年)ですから、相当あとの話になりますね。この当時、各地で藩祖又は藩主を祀る神社が流行りとなっていました。尾山神社の創建も、そういった世の中の風潮に乗ったものだったようです。それまで前田利家の霊が祀られていた卯辰八幡社は、尾山神社建立を境に宇多須神社となりました。
<鳥居>
堂々とした鳥居は日本風ですが…
<神門>
え?これが神社の門!和漢洋の三様式が混合されたこの珍しい神門は、国の重要文化財に指定されています。
<異彩>
神社でステンドグラスかぁ…ちなみに、てっぺんの避雷針は日本で最古のものとのことです。
<拝殿>
旧加賀藩士等により社殿が築かれました
<前田利家像>
かなり高い位置に設置されています。
<槍の又左>やりのまたざ
豊臣政権下で五大老に名を連ねた大御所の姿ではなく、織田信長配下で槍の又左衛門として名を馳せた頃の雄姿ですね。利家は当時としてはかなりの大男で、180cm前後はあったようです。
<母衣>ほろ
背中の大きな丸い袋は母衣です。若い頃の利家は赤い母衣を背負う母衣衆のリーダー的な存在でした。敵から目立ってしまいますが、背後から飛んくる矢から身を守る効果がありました。
<境内の様子>
尾山神社の境内は、もともとは金沢城の一部で、金谷出丸と呼ばれていました。出丸はやがて隠居した藩主の居住地となり、金谷御殿と呼ばれました。
<東神門>
見どころ沢山の境内と比較するとちょっと地味ですが、尾山神社の裏門(東神門)には、かつての金沢城二の丸の門が移設されています。
<金谷神社> かなやじんじゃ
こちらは境内にある金谷神社です。利家の嫡男・利長から始まる前田家歴代当主、そしてその正室が祀られています。前田家の血筋は現在も受け継がれています。
<神苑>しんえん
旧金谷御殿の池泉廻遊式の庭園とされています。江戸末期から明治初期にかけて造られたようです。廃藩置県が1871年(明治4年)ですから、藩として造園した最後の庭園の部類と思われます。
<おまつの方の石碑>
藩祖・前田利家を祀る神社として創建されましたが、1998年(平成10年)に正室のお松の方も合祀されました。松は利家を支え続け、没後は菩提を弔うために出家して「芳春院」と号しました。息子利長が徳川家康から謀反の疑いをかけられると、自ら人質として江戸に入り、加賀藩を救いました。
<観光名所>
「利家とまつ」が祀られ、金沢の人気スポットのひとつとなっています。
■訪問:尾山神社
[石川県金沢市尾山町]11-1
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■参考
・Wikipedia:2023/10/25
・ほっと石川旅ねっと
>石川の観光スポットを探す>尾山神社
https://www.hot-ishikawa.jp/spot/4830
暗渠と城跡36 金沢城の外堀を潜った導水路のなごり
今回は、台地上に築かれた金沢城に水を供給した用水の話です。市内を散策中にこんな光景と出会いました。
<石管と説明板>
なんだろう
説明板には、金沢市内を流れる辰巳用水と、石管に関する説明が記されています。少し抜粋させて頂きながらご紹介します(『』内は原文の転記です)。冒頭に『寛永八年四月(一六三一年)に城下から出火、当時水利の便に悪かった金沢城が全焼した』とあり、これが用水を造るきっかけとなったと記されています。この惨事に対し『翌九年に三代藩主前田利常は十キロ隔たった犀川上流の上辰巳から水を引くことを企て、小松の町人 板屋兵四郎 にその工事を命じた』とのこと。犀川(さいがわ)は金沢市の南側から西側を通って北へ流れる川です。そこから水を引き込むということになりますが、金沢城は周囲と比べれば高台に位置し、更に堀で囲まれています。どうしやって水を引き込んだのでしょうか?
説明を読み進むと『計数に長じた兵四郎』が難工事に挑み、『現在の兼六園から木管をもって城内へ通水した』と記されています。兼六園も金沢城と同じ台地上(段丘上)にありますが、川の上流から、つまりまだ高い位置を流れている川から用水を築くことで、なんとかクリアしたようです。ただ、高低差は克服できましたが、かなりの工程でトンネルを掘らざるを得ない難工事だったとのこと。
そこまで苦労して引き込んだ水ですが、兼六園と金沢城との間には堀があります。台地を断ち切るように設けた、金沢城最大の外堀です。どうやって城側に水を渡したのでしょうか?
水路橋を架けた…
答えは
地下に導水管を設け、堀底より低い位置を経由した水を、サイフォンの原理を利用して高い位置へ上げたそうです。
サイフォンの原理!懐かしい言葉ですね。ホースを使って試してみたのは小学生の時だったか(?)。水は高いところから低いところへと流れるのが原則ですが、空気の入っていない管の中を水で満たせば、もとの位置より高いところを経由してから落下する、つまり一瞬は水位より高い方へ移動するあの原理ですね。『計数に長じた兵四郎』が造った水の路も基本的には同じ原理ですが、逆に一旦低いところを経由した水が、もう一度高い方へ登る構造にしたようです。最終的な水の出口が、スタート地点の水位よりは低いことに変わりはありません。水の動きだけみれば「登って降りて」ではなく「降りて登って」になることから、逆サイフォンと呼ぶそうです。
なんだか理科ブログになってしまいましたが、私は学校の先生ではないので、表現が不適切であったらすみません。ただの会社員が、大まかに理解しているとだけと受け止めて下さい。
さて
導水管は当初木管でしたが『天保15年(1844年)に石管に取り替えられた』そうです。
<石管>せきかん
その石管がここに置かれているのですね。辰巳用水そのものの全長は10km以上にも及びますが、兼六園から金沢城を通過する区間では、地中に埋設された石管を経由していたことになります。ごく普通の水路が、街の開発にともなって地下に埋設される例、つまり暗渠はたくさん見てきましたが、辰巳用水は誕生した時から一部の区間は暗渠だったということです。
石管はそのなごり。説明板の言葉を借りれば『遺品ということになります』。更に説明を付け加えると、こういった石管は『ニ千数百個といわれている』とのこと。そして、その膨大な数の石管のつなぎ目には『松脂、桧皮などを用いて』水漏れを防いだそうです。
ということで
金沢城のインフラである辰巳用水の一部は、江戸時代の開設当初から暗渠だったというお話でした。いわゆる伏越(ふせこし)ということになりますが、江戸時代初期に、既にそんな工事をしていたということを共有できれば幸いです。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:辰巳用水石管
(尾山神社の南側斜面)
[石川県金沢市尾山]11
お城巡りランキング
■参考及び出典
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/10/28
・金沢市HP
「歴史都市金沢のまちづくり」
>用水・惣構> 辰巳用水
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/rekishitoshisuishinka/gyomuannai/1/1/18478.html
--------追 記--------
現地は別途ご紹介させて頂いた「尾山神社氷室跡地」のお隣です。
<現地>
石垣の左手が氷室跡地。右手に石管があります。説明板が設置されていなかったら、石管は見逃したかもしれません。後ろを振り向けば、そこは金沢合同庁舎です。
<参考>
こちらは別の場所(尾崎神社境内)で撮影した石管です。
<石管と説明板>
なんだろう
説明板には、金沢市内を流れる辰巳用水と、石管に関する説明が記されています。少し抜粋させて頂きながらご紹介します(『』内は原文の転記です)。冒頭に『寛永八年四月(一六三一年)に城下から出火、当時水利の便に悪かった金沢城が全焼した』とあり、これが用水を造るきっかけとなったと記されています。この惨事に対し『翌九年に三代藩主前田利常は十キロ隔たった犀川上流の上辰巳から水を引くことを企て、小松の町人 板屋兵四郎 にその工事を命じた』とのこと。犀川(さいがわ)は金沢市の南側から西側を通って北へ流れる川です。そこから水を引き込むということになりますが、金沢城は周囲と比べれば高台に位置し、更に堀で囲まれています。どうしやって水を引き込んだのでしょうか?
説明を読み進むと『計数に長じた兵四郎』が難工事に挑み、『現在の兼六園から木管をもって城内へ通水した』と記されています。兼六園も金沢城と同じ台地上(段丘上)にありますが、川の上流から、つまりまだ高い位置を流れている川から用水を築くことで、なんとかクリアしたようです。ただ、高低差は克服できましたが、かなりの工程でトンネルを掘らざるを得ない難工事だったとのこと。
そこまで苦労して引き込んだ水ですが、兼六園と金沢城との間には堀があります。台地を断ち切るように設けた、金沢城最大の外堀です。どうやって城側に水を渡したのでしょうか?
水路橋を架けた…
答えは
地下に導水管を設け、堀底より低い位置を経由した水を、サイフォンの原理を利用して高い位置へ上げたそうです。
サイフォンの原理!懐かしい言葉ですね。ホースを使って試してみたのは小学生の時だったか(?)。水は高いところから低いところへと流れるのが原則ですが、空気の入っていない管の中を水で満たせば、もとの位置より高いところを経由してから落下する、つまり一瞬は水位より高い方へ移動するあの原理ですね。『計数に長じた兵四郎』が造った水の路も基本的には同じ原理ですが、逆に一旦低いところを経由した水が、もう一度高い方へ登る構造にしたようです。最終的な水の出口が、スタート地点の水位よりは低いことに変わりはありません。水の動きだけみれば「登って降りて」ではなく「降りて登って」になることから、逆サイフォンと呼ぶそうです。
なんだか理科ブログになってしまいましたが、私は学校の先生ではないので、表現が不適切であったらすみません。ただの会社員が、大まかに理解しているとだけと受け止めて下さい。
さて
導水管は当初木管でしたが『天保15年(1844年)に石管に取り替えられた』そうです。
<石管>せきかん
その石管がここに置かれているのですね。辰巳用水そのものの全長は10km以上にも及びますが、兼六園から金沢城を通過する区間では、地中に埋設された石管を経由していたことになります。ごく普通の水路が、街の開発にともなって地下に埋設される例、つまり暗渠はたくさん見てきましたが、辰巳用水は誕生した時から一部の区間は暗渠だったということです。
石管はそのなごり。説明板の言葉を借りれば『遺品ということになります』。更に説明を付け加えると、こういった石管は『ニ千数百個といわれている』とのこと。そして、その膨大な数の石管のつなぎ目には『松脂、桧皮などを用いて』水漏れを防いだそうです。
ということで
金沢城のインフラである辰巳用水の一部は、江戸時代の開設当初から暗渠だったというお話でした。いわゆる伏越(ふせこし)ということになりますが、江戸時代初期に、既にそんな工事をしていたということを共有できれば幸いです。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:辰巳用水石管
(尾山神社の南側斜面)
[石川県金沢市尾山]11
お城巡りランキング
■参考及び出典
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/10/28
・金沢市HP
「歴史都市金沢のまちづくり」
>用水・惣構> 辰巳用水
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/rekishitoshisuishinka/gyomuannai/1/1/18478.html
--------追 記--------
現地は別途ご紹介させて頂いた「尾山神社氷室跡地」のお隣です。
<現地>
石垣の左手が氷室跡地。右手に石管があります。説明板が設置されていなかったら、石管は見逃したかもしれません。後ろを振り向けば、そこは金沢合同庁舎です。
<参考>
こちらは別の場所(尾崎神社境内)で撮影した石管です。
2023年10月22日
雪の貯蔵庫のなごり(金沢市)尾山神社氷室跡地
前田利家を祀る尾山神社へ向かう途中、通りから石垣と石柱が見えたので、立ち寄ってみました。
<尾山神社氷室跡地>
氷室跡地?ここに氷の備蓄庫があったということかな
<通りから撮影>
奥まった平らな区画に木が生い茂り、陽も当たらなそうな空間だったので「氷室に相応しい場所に思えなくもない」と漠然と受けとめ、現地を去りました。
あとから調べてみると、かつての金沢には、城内にも城下にも、あちらこちらにも氷室が存在していたようです。私が目撃したのは、その一部に過ぎないということですね。また、江戸時代に雪国から将軍家へ氷が献上された話は知っていましたが、加賀藩のそれはかなり有名な話だったようで、なんと江戸時代初期には既に始まっていたようです。
そんな時代に…
いうまでもなく、夏の氷は貴重品。庶民には手が届かないのですから、贅沢品ですね。加賀藩が送り届ける氷(雪)は、さぞ将軍家を喜ばせたことでしょう。備蓄しておくノウハウあってのことですね。氷室の具体的な構造までは想像できませんが、江戸時代のことですから、穴を掘って石を敷き詰め、地中の蔵を造ったのでしょう。
ただ、保管する技があっても、お届け先は江戸。京都の宮中でも難しそうですが、江戸の将軍家宛ですからね。加賀藩の参勤交代が、約480kmの道のりを12泊13日と言われていますので、ちょっと遠ような…
それがなんと
飛脚が昼夜休まず4日間で運んだそうです
もちろん一人ではなく、最強の飛脚チームです。氷を笹などの葉で包んで桐の箱に納め、江戸の藩邸まで届けたそうです。献上日も(陰暦の)6月1日と決まっていたとのこと。もはや毎年恒例のイベントだったようです。
ただ、どんなに頑張っても既に夏が始まっていますからね。実際はかなり溶けてしまい、将軍に献上されるのは、器に入る程度の大きさだったようです。こうなると、私たちが想像するような実用性は無いに等しい状態です。涼しさをお届けして徳川将軍家を喜ばす。それが即ち、幕府への忠誠を示すことだったのかもしれません。
<石柱と尾山神社石垣>
石垣の先は尾山神社です。ここで備蓄した雪の使い道はわかりませんが、江戸まで届けられた可能性もゼロではありませんよね。
■訪問:尾山神社氷室跡地
[石川県金沢市尾山]11
お城巡りランキング
■参考及び出典
・金沢旅物語
>イベント> 氷室開き
https://www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp/event/detail_30342.html
・ほっと石川旅ねっと
>石川のイベントを探す> 氷室開き
https://www.hot-ishikawa.jp/event/17808
<尾山神社氷室跡地>
氷室跡地?ここに氷の備蓄庫があったということかな
<通りから撮影>
奥まった平らな区画に木が生い茂り、陽も当たらなそうな空間だったので「氷室に相応しい場所に思えなくもない」と漠然と受けとめ、現地を去りました。
あとから調べてみると、かつての金沢には、城内にも城下にも、あちらこちらにも氷室が存在していたようです。私が目撃したのは、その一部に過ぎないということですね。また、江戸時代に雪国から将軍家へ氷が献上された話は知っていましたが、加賀藩のそれはかなり有名な話だったようで、なんと江戸時代初期には既に始まっていたようです。
そんな時代に…
いうまでもなく、夏の氷は貴重品。庶民には手が届かないのですから、贅沢品ですね。加賀藩が送り届ける氷(雪)は、さぞ将軍家を喜ばせたことでしょう。備蓄しておくノウハウあってのことですね。氷室の具体的な構造までは想像できませんが、江戸時代のことですから、穴を掘って石を敷き詰め、地中の蔵を造ったのでしょう。
ただ、保管する技があっても、お届け先は江戸。京都の宮中でも難しそうですが、江戸の将軍家宛ですからね。加賀藩の参勤交代が、約480kmの道のりを12泊13日と言われていますので、ちょっと遠ような…
それがなんと
飛脚が昼夜休まず4日間で運んだそうです
もちろん一人ではなく、最強の飛脚チームです。氷を笹などの葉で包んで桐の箱に納め、江戸の藩邸まで届けたそうです。献上日も(陰暦の)6月1日と決まっていたとのこと。もはや毎年恒例のイベントだったようです。
ただ、どんなに頑張っても既に夏が始まっていますからね。実際はかなり溶けてしまい、将軍に献上されるのは、器に入る程度の大きさだったようです。こうなると、私たちが想像するような実用性は無いに等しい状態です。涼しさをお届けして徳川将軍家を喜ばす。それが即ち、幕府への忠誠を示すことだったのかもしれません。
<石柱と尾山神社石垣>
石垣の先は尾山神社です。ここで備蓄した雪の使い道はわかりませんが、江戸まで届けられた可能性もゼロではありませんよね。
■訪問:尾山神社氷室跡地
[石川県金沢市尾山]11
お城巡りランキング
■参考及び出典
・金沢旅物語
>イベント> 氷室開き
https://www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp/event/detail_30342.html
・ほっと石川旅ねっと
>石川のイベントを探す> 氷室開き
https://www.hot-ishikawa.jp/event/17808
2023年10月21日
高山右近ゆかりの地(金沢市)伴天連屋敷跡
金沢城の北西側には、かつて宣教師の屋敷があったと伝わります。
<伴天連屋敷跡>バテレン
金沢城下にあった伴天連屋敷跡に関する説明板と甚右衛門坂の名を記した石柱です。
まずは説明板の内容を転記させて頂きます(『』内は原文のまま)。
『金沢城西側と城下をつなぐ坂の下周辺には伴天連屋敷(宣教師屋敷)が集まっていたと伝わる。丹波国守護代内藤家出身の内藤如安や宇喜多秀家に仕えていた浮田休閑など、右近を頼って金沢に来たキリシタン武将や加賀藩士が集まっていたのであろう。
慶長19年(1614年)のキリシタン禁教令によって、如安は右近と共にマニラへ、休閑は津軽に流され、その地で人生を終えたとされている。』
右近は、キリシタン大名として知られる高山右近のことですね。戦国の世にありながら、人生の大半をキリスト教に捧げた武将です。説明文には江戸幕府による追放が紹介されていますが、キリシタン故の苦難はそれ以前から始まっていました。
6万石の大名になりながら、豊臣秀吉によるバテレン追放令(1587年)により追放されてしまいます。まぁ正確には、本人が領地や財産より信仰を選んだということになります。
そんな右近を客将として迎え入れたのが、前田利家でした。右近は武将として優れ、築城の名人でもありました。城下の整備にも関わり、約26年間を金沢で過ごしました。説明文によれば、その間右近を慕い、キリシタン武将や加賀藩士がこの地に集まったようです。その終焉が、1614年のキリシタン禁教令ということになります。
つぎに
甚右衛門坂について
<甚右衛門坂>じんえもんざか
金沢城と城下をつなぐ坂道です。基本的に一般人は立入禁止です。警備の方にお願いして、写真だけ撮らせて頂きました(撮影した日は一時的に雨となり濡れています)。加賀前田家の居城として有名な金沢城ですが、その始まりは本願寺による金沢御堂の創建です(1546年)。つまり、この地はいわゆる加賀一向一揆の拠点だったということです。そこへ佐久間盛政が率いる織田軍が攻めかかった際(1580年)、本願寺方の浪士である平野甚右衛門が坂道で奮闘して討死を遂げたことから「甚右衛門坂」と呼ばれています。
敵方のヒーローの名が坂の名の由来?何となく前田家にとって都合の良い名とは思えないのですが、そう呼ばれているのだから、そのまま受け止めます。
話を宣教師の屋敷へ戻すと
伴天連屋敷は甚右衛門坂の下周辺にあったとされますが、そのご近所といっていいところに、前田利家の娘でキリシタンだった豪姫の屋敷がありました。
<黒門前敷地>
夫である宇喜多秀家が島流しとなったあと、加賀藩の支援を受けながら豪姫が余生をおくったと伝わる場所です。すぐ近くの伴天連屋敷への出入りや、高山右近との交流もあったかもしれませんね。ちなみに、山右近の屋敷は金沢城の南側ですが、ここから大した距離ではありません。
人望が厚い高山右近の影響を受けて、キリシタンとなった者も多いと伝わります。影響を受けた人の名をあげたらきりがありませんが、有名な戦国武将では、蒲生氏郷や黒田孝高などもそれに該当します。また、キリスト教宣教師の屋敷が城のすぐ近くにあったのですから、加賀藩そのものも、キリスト教信仰に理解を示していたのではないでしょうか。幕府の命で高山右近は日本を去りますが、信仰を貫いた生きざまは、多くの人の心に残り続けました。
ということで
金沢に長く滞在していたキリシタン・高山右近ゆかりの地のご紹介でいた。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■伴天連屋敷跡
(甚右衛門坂付近)
[石川県金沢市尾山町]7-41
お城巡りランキング
■参考及び出典
・現地説明板
「甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡」
・Wikipedia:2023/10/21
<伴天連屋敷跡>バテレン
金沢城下にあった伴天連屋敷跡に関する説明板と甚右衛門坂の名を記した石柱です。
まずは説明板の内容を転記させて頂きます(『』内は原文のまま)。
『金沢城西側と城下をつなぐ坂の下周辺には伴天連屋敷(宣教師屋敷)が集まっていたと伝わる。丹波国守護代内藤家出身の内藤如安や宇喜多秀家に仕えていた浮田休閑など、右近を頼って金沢に来たキリシタン武将や加賀藩士が集まっていたのであろう。
慶長19年(1614年)のキリシタン禁教令によって、如安は右近と共にマニラへ、休閑は津軽に流され、その地で人生を終えたとされている。』
右近は、キリシタン大名として知られる高山右近のことですね。戦国の世にありながら、人生の大半をキリスト教に捧げた武将です。説明文には江戸幕府による追放が紹介されていますが、キリシタン故の苦難はそれ以前から始まっていました。
6万石の大名になりながら、豊臣秀吉によるバテレン追放令(1587年)により追放されてしまいます。まぁ正確には、本人が領地や財産より信仰を選んだということになります。
そんな右近を客将として迎え入れたのが、前田利家でした。右近は武将として優れ、築城の名人でもありました。城下の整備にも関わり、約26年間を金沢で過ごしました。説明文によれば、その間右近を慕い、キリシタン武将や加賀藩士がこの地に集まったようです。その終焉が、1614年のキリシタン禁教令ということになります。
つぎに
甚右衛門坂について
<甚右衛門坂>じんえもんざか
金沢城と城下をつなぐ坂道です。基本的に一般人は立入禁止です。警備の方にお願いして、写真だけ撮らせて頂きました(撮影した日は一時的に雨となり濡れています)。加賀前田家の居城として有名な金沢城ですが、その始まりは本願寺による金沢御堂の創建です(1546年)。つまり、この地はいわゆる加賀一向一揆の拠点だったということです。そこへ佐久間盛政が率いる織田軍が攻めかかった際(1580年)、本願寺方の浪士である平野甚右衛門が坂道で奮闘して討死を遂げたことから「甚右衛門坂」と呼ばれています。
敵方のヒーローの名が坂の名の由来?何となく前田家にとって都合の良い名とは思えないのですが、そう呼ばれているのだから、そのまま受け止めます。
話を宣教師の屋敷へ戻すと
伴天連屋敷は甚右衛門坂の下周辺にあったとされますが、そのご近所といっていいところに、前田利家の娘でキリシタンだった豪姫の屋敷がありました。
<黒門前敷地>
夫である宇喜多秀家が島流しとなったあと、加賀藩の支援を受けながら豪姫が余生をおくったと伝わる場所です。すぐ近くの伴天連屋敷への出入りや、高山右近との交流もあったかもしれませんね。ちなみに、山右近の屋敷は金沢城の南側ですが、ここから大した距離ではありません。
人望が厚い高山右近の影響を受けて、キリシタンとなった者も多いと伝わります。影響を受けた人の名をあげたらきりがありませんが、有名な戦国武将では、蒲生氏郷や黒田孝高などもそれに該当します。また、キリスト教宣教師の屋敷が城のすぐ近くにあったのですから、加賀藩そのものも、キリスト教信仰に理解を示していたのではないでしょうか。幕府の命で高山右近は日本を去りますが、信仰を貫いた生きざまは、多くの人の心に残り続けました。
ということで
金沢に長く滞在していたキリシタン・高山右近ゆかりの地のご紹介でいた。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■伴天連屋敷跡
(甚右衛門坂付近)
[石川県金沢市尾山町]7-41
お城巡りランキング
■参考及び出典
・現地説明板
「甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡」
・Wikipedia:2023/10/21