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2018年12月17日

大石内蔵助 終焉の地 細川家下屋敷跡

つわものどもが夢の跡
主君・浅野内匠頭の仇討ち後、大石内蔵助が預けられた大名の屋敷跡を訪ねました。

<肥後熊本藩細川家下屋敷跡>
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■四家預かり■
吉良上野介の首を、泉岳寺の主君の墓前に供えた赤穂浪士たち。その身柄は、細川綱利(肥後熊本藩)・水野忠之(三河岡崎藩)・松平定直(伊予松山藩)・毛利綱元(長門長府藩)の4家にお預けとなりました。今回訪問したのは細川家の屋敷跡。肥後熊本藩細川家下屋敷跡です。ここには大石内蔵助を含む17名が預けられました。

<現在の屋敷跡>
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扉の隙間から中を撮影

預けられた家によりますが、浪士たちは罪人のような扱いではなく、あくまで武士として扱われたと伝わります。その中でも、特に細川家の待遇は良かったようです。まぁ初めてのことで、預かる側の対応も当初はまちまち。戸惑いもあったでしょう。浪士を預かった大名たちは互いに連絡を取り合い、細川家に倣った対応をしたようです。


■細川綱利■
幕府より17名の預かりを命じられた細川綱利は、いろんな文献を読む限り、かなり赤穂浪士たちに惚れ込んでいたような気がします。あまりの厚遇に、大石内蔵助ら浪士側から、食事などを簡素にするよう頼まれたそうです。ほぼ接待のような感じだったのでしょうか?
更に綱利は、浪士たちの助命を幕府に願い出て、召抱えの話までしていたそうです。これはもう「惚れ込んだ」という表現が一番適切なのではないでしょうか。


■沙汰を待つ■
浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ際には、即日切腹が決まりました。しかし、赤穂浪士の吉良邸討入りについては、40日以上の時間が費やされました。死を覚悟しているとはいえ、浪士たちはこの間どんな思いだったのでしょうか。

死罪・切腹・助命

選択肢はこの3つです。ただの罪人という扱いなら死罪。武士の面目を保つなら切腹。助命は浪士の行為を認めることになります。

<屋敷跡>
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こちらは冒頭の画像の位置からちょっと離れた場所。周辺も散策してみました。柵があって入れませんが、この付近一帯も細川家の下屋敷だったようです。

<旧細川邸のシイ>
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[港区高輪]1−16−25
赤穂事件の当時から、屋敷内にあったとされるシイノ木です。ということは、死を覚悟している赤穂浪士達も、この木を眺めたのかもしれませんね。

<説明板>
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高さ10mで、幹の囲りは8mもあるようです。

<巨木>
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東京都指定天然記念物です。

<高低差>
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シイノ木の脇に階段があります。下まで結構な高低差がありますね。

<崖の上>
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下から撮影。屋敷は崖の上にあったようですね。

大石内蔵助良雄■くらのすけよしたか
赤穂浪士たちを率いて、仇討ちを成し遂げたことで知られる大石内蔵助。この方、もともとの立場は播磨国赤穂藩の筆頭家老。重要ポストですね。赤穂事件後、血気盛んな元藩士たちを抑えて、ひたすら『お家再興』を優先しようとしたのも、その立場あってのことかもしれません。

そもそも大石家は下野国で名を馳せた小山氏の一族(藤原秀郷の末裔)。常陸国で浅野家に仕えて、浅野長直(浅野長政の三男)が赤穂に転封されるタイミングで大石家も赤穂へ移りました。内蔵助本人は赤穂の生まれ。赤穂城内で生まれたそうです。

細川家に預けられた時、内蔵助は四十代半ばでした。もはや思い残すこともない。そんな感じでしょうか。ただ、かなり思慮深い男です。そして主君・浅野内匠頭に仕えるだけでなく、浅野という「家」を支えてきた家老です。もしかしたら、沙汰を待つこの状況においても、まだ僅かな期待があったかもしれませんね。だからこそ、仇討後に勝手に自害するのではなく、出頭して幕府に判断を委ねたのでしょう。


■切腹■
元禄16年2月4日 (1703年3月20日)
幕命により赤穂浪士達は各々の屋敷で切腹となりました。細川家では、場所は庭先ながら畳三枚を敷くなど最高の格式とし、介錯人も厳選したとされています。

[細川家で切腹した17名]
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大石内蔵助
吉田忠左衛門・原惣右衛門
片岡源五右衛門・間瀬久大夫
小野寺十内・間喜兵衛
礒貝十郎左衛門・堀部弥兵衛
近松勘六・富森助右衛門
潮田又之丞・早水藤左衛門
赤埴源蔵・奥田孫太夫
矢田五郎右衛門・大石瀬左衛門

この地が終焉の地となりました。

藩主の細川綱利は、切腹後に血で染まった庭を清めることを拒否。赤穂浪士は守り神であると言ったそうです。また、幕府は浪士たちに切腹を命じるとともに、吉良家の領地没収と信州配流を決めています。

<赤穂義士史蹟碑>
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■大石内蔵助(良雄)の辞世の句■

あら楽し
思ひは晴るる 身は捨つる
浮世の月に かかる雲なし


浅野家のお家再興は叶いませんでしたが、やるだけのことはやった。そんな思いでしょうか。

つわものどもが夢の跡
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■訪問:
肥後熊本藩細川家下屋敷跡
(大石良雄外十六人忠烈の跡)
[東京都港区芝] 5-20-20


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2018年12月14日

赤穂浪士ゆかりの地 水野監物邸跡

元禄 15年 12 月 14日夜
旧赤穂藩士47名が,江戸本所松坂町の吉良邸へ討ち入りました。今回の訪問は、主君の仇討ちを果たした赤穂浪士のうち、9人が預けられた大名屋敷の跡地です。

■水野監物邸跡■ みずのけんもつ
<屋敷跡地>
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ここは三河岡崎藩水野家芝三田屋敷跡。とっても、路地の奥の狭いスペースに、屋敷の庭を模したような空間があるだけ。石灯籠と説明板が目印です。

<説明板>
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本懐を遂げた赤穂浪士たちは、肥後熊本藩細川家・三河岡崎藩水野家・伊予松山藩松平家・長門長府藩毛利家に分かれて 幕府の沙汰を待ちました。大石内蔵助は細川家。ここ水野家には以下の9人が預けられました。

間光興・奥田行高・矢頭教兼
村松高直・間瀬正辰・茅野常成
横川宗利・三村包常・神崎則休

この時の藩主は第4代の水野忠之(監物)。将軍吉宗の享保の改革を老中として支えた人物であり、後に天保の改革で名を馳せる水野忠邦は忠之の子孫。名門の譜代大名家ということですね。

赤穂事件の時、水野忠之はまだ三十代前半(老中となるのはもっと後の話です)。細川家を手本に、浪士たちを手厚くもてなしたと伝わります。

<石灯籠>
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そして2月4日
幕命により、浪士たちは屋敷内で切腹となります。庭先ながら畳二枚が敷かれ、格式を重んじた形で刑に処されました。

<慶応仲通り商店街>
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場所はJR田町駅から徒歩数分。ここを潜って更に進んだ小径の奥が屋敷跡です。当ブログがきっかけで、足を止めてくれる方がいたら嬉しいです。

■訪問:水野監物邸跡
[東京都港区芝] 5-20-20


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2018年12月10日

永田陣屋 伊奈忠次が築いた陣屋跡

つわものどもが夢の跡
徳川幕府の農財政全般、特に治水で名を馳せた伊奈氏の陣屋跡を訪ねました。

<陣屋跡>
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荒川沿いの左岸(東側)に位置する場所。さいたま市西区土屋の陣屋跡です。

■現地訪問■
JR指扇駅で下車。現地は駅から南へ1キロ強です。バスという手もありましたが、私は徒歩で向かいました。

<現地近く>
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まもなくというところでこの景色。土塁の跡でしょうか?気分が高まる瞬間でしたが、後で調べても、そうだと言い切る情報とは出会えませんでした。まぁ素人の史跡探索なので、勘違い(かもしれない)も含めて楽しみます。

<水堀>
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陣屋の前の水堀です。個人の所有で、こういうのを維持するのも大変かと思います。有り難いですね。

<長屋門と築地塀>
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さいたま市指定文化財の「永田家長屋門及び築地塀」です。江戸後期創建の長屋門。見事ですね。

<忍び返し>
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凝ってますね。ただの飾りではなく、侵入を防ぐ「忍び返し」です。

<説明板>
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ちょっと画像では伝わりにくいですが、旧大宮市教育委員会による丁寧な説明がなされています。

以下は転記です
『長屋門の建築規模は桁行き21.1メートル、梁間4.75メートル、棟高6.18メートル、面積100.51平方メートルと市内最大規模を誇ります。門の両端に接しているのが忍び返しの付いた築地塀です。
門扉と潜り戸は堅牢な開き扉で、同性の八双金具や乳房状の饅頭金具が付いています。また、右手には出格子が二つありますが、市内では希有な例です。
長屋門及び築地塀の正確な建築年代は判っておりませんが、凡そ江戸時代の後期と考えられます。
永田家の屋敷地は、江戸時代初期に関東郡代伊奈忠次が陣屋を設置した地で、家臣であった永田氏が拝領しました。長屋門及び築地塀は、周辺の景観によく融合し、かつての陣屋の雰囲気を今に伝えているばかりではなく、木造日本建築の美を併せ持つ貴重な建造物となっています。
平成13年3月 大宮市教育委員会』

伊奈忠次が築き、永田氏が拝領した。そういうことですね。現在も子孫がお住まいとのことです(屋敷跡は永田医院の敷地となっています)。とても貴重な陣屋跡ですが、個人の暮らしの場です。そのあたりを配慮しての見学が望まれますね。

<堀跡>
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<屋敷の周辺>
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竹林の左手も堀の跡と思われます。

■伊奈忠次の陣屋■いな ただつぐ
伊奈忠次は徳川家康の古くからの家臣。関東代官頭をつとめた忠次は、荒川水系の治水と灌漑のためにこの陣屋を築いたとされています。伊奈忠次の本拠は現在の埼玉県伊奈町でしたので、この地の陣屋は出先機関のような存在だったのでしょう。

さて
その陣屋が、家臣の永田氏に受け継がれたことは間違いないようですが、その時期がどうもはっきりしません。大まかには、伊奈氏の本拠が赤山陣屋埼玉県川口市)に移った頃とのこと。ちなみに、陣屋を築いた伊奈忠次が亡くなるのは1610年。職を継いだ長男が若くして没するのが1618年。次男だった忠治が代わって関東郡代となりますが、赤山陣屋を築いたのは1629年です。これ以降の話ということでしょうか?

忠次がここ土屋に築いた陣屋と、次男・忠治が築いた赤山陣屋は、物資輸送や人の行き来のために設けられた『赤山街道』で繋がっていました。このことから、赤山陣屋が築かれた後も、この地の陣屋は引き続き伊奈氏の出先機関として役割を担ったと考えるのが無難ですね。そしてしかるべき時に、永田氏に譲られた。その程度の理解で納得しますかね。拝領したのは、家臣としてなのか、地元の名主としてなのか、その辺りも良くわかりません。

ここまでの話は、江戸時代初期の話。これよりかなり後の話になりますが、関東郡代を世襲し続けた伊奈氏も、1792年には諸事情で改易となります。つまり失脚ですね。永田氏が引き続き伊奈氏の家臣だったら、同じくこの陣屋も没収されそうですが、そうはなりませんでした。素人のブログなのでお許し頂きたいのですが、この時には既に伊奈氏と切り離され、独立した存在だったのはないでしょうか。

まぁいずれにしても、このような陣屋を引き継げるのですから、永田氏が名だたる家であったことは間違いありません。そして今でも維持し続けている。凄いことですね。

つわものどもが夢の跡
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伊奈氏、そして家臣だった永田氏の陣屋跡です。ともに社会の基盤造りに尽力しました。

-------■ 永田陣屋 ■-------
別 名:伊奈陣屋・土屋陣屋
築城年:(江戸時代初期)
築城者:伊奈忠次
城 主:伊奈氏・永田氏
[さいたま市西区土屋]5番地



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タグ:赤山街道
posted by Isuke at 22:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]

2018年12月06日

勝海舟 生誕の地 (両国公園)

つわものどもが夢の跡
幕末に活躍した幕臣・勝海舟の生まれた場所を訪ねました。

<両国公園>
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最寄り駅はJR両国駅。両国公園の一角が、勝海舟生誕の地です。父親・小吉の実家で生まれた勝海舟(幼名麟太郎)は、7歳までこの地で過ごしたそうです。

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もともと石碑だけだったようですが、大河ドラマ(西郷どん)の影響もあるのでしょうか?内容が充実しています。

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大きな説明パネルには、勝の経歴が詳しく記されています。鳶が鷹を生んだ・黒船来航・幕府海軍の礎となる・・・
充実しすぎて、全部読むには時間がかかります(私には)。

かなり抜粋すると
蘭学を学び、西洋の測量や航海なども学び、やがて幕府の船として初めて太平洋を横断する咸臨丸の航海にも加わりました。新政府軍による江戸城総攻撃の直前、幕府側の代表として西郷隆盛と会見し、江戸城の無血開城に成功。のちには明治政府にも重用されました。そして最後は、徳川慶喜が政府に赦免されることにも尽力しています。
大活躍ですね。

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生い立ちに遡れば、勝の実家は旗本といっても知行は僅か41石。組織の安定期においては、重要なポストに就くことなどできない家柄です。外圧により組織の秩序が流動化した。これにより、働きの場を得ることができたのでしょうね。

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■訪問:両国公園
[墨田区両国4-25-24]


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2018年12月04日

町火消「め組」の供養碑 増上寺

つわものどもが夢の跡
今回は江戸の消防団として活躍した「め組」の話です。

<供養碑>
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増上寺境内に設けられている町火消「め組」の供養碑です。徳川家の菩提寺として知られる寺の境内に、町人の供養碑があることが意外でした。

■町火消■まちびけし
火消は言うまでもなく消防の任務についていた者達ですね。密集した江戸の町の悩みの種だった火事。大惨事になったこともあります。町火消は心意気のある者達が集まって、勝手にやっていた?訳でなく、幕府の定めた制度のもとで運営されていました。

武士によるものを武家火消というのに対し、町人によるものを町火消と呼びました。江戸初期は武士が主体でしたが、中期以降は町火消が主体となって活躍。いちいち上層部の認可が必要な武士階級より、民営化した方が効率が良かったのかもしれませんね。町火消の大半は鳶職で構成されていました。当時の消防は、火が燃え広がらないように「建物を壊す」方法が主流でしたから、並みの町人より、力強い鳶職が適役だったのでしょうね。

■め組■
町火消の始まりは8代将軍吉宗の時。南町奉行の大岡忠相(ただすけ)により、火消の組織化が成されました。隅田川から西を担当するいろは組47組(のちに「ん組」が加わり48組)と、東の本所・深川を担当する16組(のちに3組に統合)に分けて町火消が設けられました。

吉宗、大岡越前、め組。『暴れん坊将軍』を思い出す方も多いかと思われます。まさにその時代のお話です。

■め組の喧嘩■1805年3月
これは江戸時代に実際に起きた町火消しと力士の乱闘事件です。芝神明宮境内で開催中の相撲の入場を巡ってトラブルになり、これを発端に双方が徐々にエスカレートして、最後は大乱闘に至ったというものです。屈強な鳶職が多いといっても、よりによって力士と戦わなくてもと思いますが、その辺りが気質を現わしているのかも知れませんね。『火事と喧嘩は江戸の華』などと言ったりしますが、め組はその両方を地でいった男達なのかもしれませんね。

<め組のけんか>
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芝大門の近くで撮影

で、この喧嘩に対する町奉行のお裁きや如何に?これには相撲興行を取り仕切る寺社奉行、更には勘定奉行まで加わって協議がなされたそうです。結果はめ組に厳しいものとなりました。そもそも喧嘩の原因は、入場無料の「め組」の二人が、知人まで境内に連れ込もうとした事。更に、緊急時しか使用が認められていない火の見櫓の早鐘を、喧嘩で鳴らしており、これらの事実を元に、裁きが言い渡されたようです。め組は二人が江戸追放で他は罰金。比較的軽い罰で済んだようです。力士は江戸払いが一人、他はお咎めはなしでした。ちょっと変わった裁きが、この時に鳴らされた小型の鐘が遠島となっています。

<芝神明宮のいま>
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現在の芝神明宮。増上寺のすぐそばです。伊勢宮の分霊を祀っていることから、「関東のお伊勢さま」として親しまれてきました。明治以降は芝大神宮と呼ばれています。

<拝殿>
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<め組>
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この界隈はめ組の管轄でした。左右の狛犬の足元、台座にしっかりと『め組』の名が刻まれています。

<境内の力石>
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力石は力競べのための重い石のことですね。境内のこの力石は、芝大神宮で行われた興行で、力士・藤吉が片手で持ち上げたものとされています。五拾貫余?50貫は約190キロになります。それを片手で!凄いですね。
め組の喧嘩を意識し過ぎて、江戸時代の力士?と思い込んでしまいましたが、後で調べたら藤吉(通称は「金杉の藤吉」)は明治時代の力士とのことです。ただ、神社と相撲と庶民が、いまよりずっと近い距離だったような雰囲気は味わえました。

<芝大神宮>
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[東京都港区芝大門]

■つわものどもが夢の跡■
<供養碑>
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増上寺の境内は史跡が多く、見どころ満載。その中にあって、この供養碑はちょっと地味です。ただ、当ブログがきっかけで立ち止まってくる人がいたら嬉しいです。江戸の町を悩まし続けた火事。これに命掛けで立ち向った者達の供養碑です。

<増上寺>
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[東京都港区芝公園]

大平出羽守と奥澤神社

つわものどもが夢の跡
吉良氏から奥沢城を任された大平出羽守ゆかりの地を訪ねました。

■奥澤神社■
<奥澤神社>
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世田谷区奥沢の奥澤神社です。

創建の時期は明らかではありませんが、世田谷城を居城とする吉良氏が奥沢に城を築いた頃と考えられています。城を任された家臣の大平氏が、世田谷郷東部の守護として八幡社を勧請した。これが現在に続く奥澤神社の始まりと考えられています。

<鳥居と大蛇>
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これは目立ちますね

<藁で作った大蛇>
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江戸時代中期頃から、厄除としてこの大蛇を抱えて練り歩く行事が行われるようになったそうです。いまでも「大蛇お練り行事」として続いています。この地の伝統となっているわけですね。


■奥沢城■
<奥沢城跡>
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当ブログでも何回かご紹介させて頂いた奥沢城跡です。吉良頼康により築かれ、家臣の大平出羽守が城主をつとめました。世田谷城の出城的な存在。築城者を大平出羽守とする説もあります。大平氏はもともと地元の有力な土豪。戦国期に吉良氏の家臣に加わり、耕地の開発などで力を発揮しました。

<土塁跡>
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城のなごり。低湿地の台地に築かれた平城を、ほぼ方形に取り囲んでいた土塁の跡です。

<九品仏浄真寺>
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戦国末期、吉良氏は北条氏の勢力に組み込まれていました。豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡すると、奥沢城は廃城。跡地に浄真寺が創建され、現在に至っています。

<境内>
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深まる秋

■帰農■
吉良氏の家臣としてこの地を任された大平出羽守。その間、娘・常盤姫が吉良頼康の側室となりながら亡くなる悲劇もありました。そして1590年の小田原北条氏滅亡。主君である吉良氏は下総国に逃れました。では大平出羽守はどうしたのでしょう。

元々地元の土豪だった大平氏。この地に留まり、等々力で帰農しました。地元の名主と伝わります。

■つわものどもが夢の跡■
名門家の配下となり、世田谷周辺の村々を任された大平出羽守。この神社は、領内の更なる発展に思いを馳せた大平出羽守の夢の跡なのかも知れませんね。

<奥澤神社本堂>
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[世田谷区奥沢]


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-----■追 記■-----
奥沢城については別途まとめています。城跡ブログのつもりで運営しておりますので、良かった覗いてみて下さい。『鷺草伝説』として語り継がれる大平出羽守の娘の悲話についても多少触れさせて頂いています。
→『記事へ進む

2018年11月27日

江戸無血開城に至る会談の場所 田町の薩摩藩邸跡

■西郷・勝会見の場所■
<西郷南洲・勝海舟会見の地>
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新政府軍による江戸城総攻撃が開始される直前、攻める側の西郷隆盛と、幕府側の勝海舟の会談が行われた場所です。2018年大河ドラマ「西郷どん」の影響で、ちょっとした人気スポットになっています。

<現地撮影>
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西郷と勝の会談

<現地撮影(地図)>
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ここはかつて薩摩藩の蔵屋敷があったところ。

<三菱自動車>
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現在は三菱自動車工業の本社ビルとなっています。

二人の会談はまず高輪の薩摩藩下屋敷で行われ、翌日この地にて2度目の話し合いがなされたようです。二人といっても、各々が複雑な事情をたくさん背負った上での交渉。条件が合意に至らない場合、戦もあり得ました。既にその準備はできていましたので。ギリギリの話し合いだったわけですね。


ちょっと移動して、同じく港区芝の別の場所へ

<薩摩藩上屋敷跡>
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こちらは薩摩藩上屋敷跡。NEC本社ビルの敷地です。

<石碑>
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冒頭の蔵屋敷跡から徒歩圏内。上屋敷があるなら、なんでここを会談の場所としなかったの?実は薩摩藩と対立関係にあった庄内藩の焼き討ちにより、薩摩藩の上屋敷は既に焼失していました。

<NEC本社ビル付近>
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晩秋の薩摩藩上屋敷跡。将軍家に嫁ぐ篤姫が、江戸で暮らし始めた場所ということですね。


■江戸無血開城■
江戸城の明け渡しが決まりました。これにより、江戸城下は戦火を免れました。兵士のみならず、市民の命も救われたわけですね。

ただ、ここで戦はここで終わりませんでした。徳川家の本城が、戦うことなく明け渡された。この事実は、のちの会津戦争にも大きく影響したのではないでしょうか。そういう意味でも、今回訪問の地は、歴史的に重みのある場所だと思えました。

<田町の薩摩藩邸(蔵屋敷)跡>
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[東京都港区芝]5丁目


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2018年11月08日

戸沢氏の居城 新庄城のなごり 

つわものどもが夢の跡
山形県新庄市の城跡を訪ねました。出羽新庄藩主歴代の居城です。

<本丸表御門跡>
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現在は石垣のみです。

■江戸初期の築城■
城が築かれたのは1624年。出羽新庄藩の初代藩主となった戸沢政盛が築城者ということになります。ただ縄張りは義兄にあたる山形城主の鳥居忠政。1622年に最上家が家中騒動の不始末を理由に改易されると、旧領は徳川幕府の重臣・鳥居忠政とその縁戚に与えられました。鳥居忠政は最上家が去ったあとに城下町山形の基礎を築いた人物です。そしてその妹が戸沢政盛の正室。まぁそういう関係です。最上家は57万石でしたから、鳥居忠政が如何に大物か伝わってきますね。

新庄藩6万石の藩主となった戸沢政盛は、はじめは最上氏の家臣・鮭延氏の居城(真室城または鮭延城)を居城としましたが、こちらは戦国時代の山城のため、統治には不向き。更に手狭ということもあって、新たに城を築くことになりました。これが新圧城の始まりです。

■縄張り■
方形の本丸の南側に二の丸を配置した上で、三の丸でそれらを取り囲む。構造としてはシンプルです。分類すると輪郭式の平城。当初は天守も築かれましたが、早い時期に火災で焼失。以降築かれることはありませんでした。

<水堀>
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■名族戸沢氏■とざわし
戸沢氏の発祥については諸説ありますが、桓武平氏の流れを組む名門一族と考えられています。祖は平衡盛(ひらもり)。出羽国にて勢力を拡大しました。戦国期になると、戸沢氏は出羽角館城(現在の秋田県仙北市)を拠点とする小大名となっていましたが、18代当主・盛安の代で再び勢いを取り戻します。盛安は若くして没してしまいましたが、その子・政盛が関ヶ原の戦いで東軍に与していたことから、再び運気に恵まれました。やがて新庄藩初代藩主となった政盛は、新田開発などを積極的に推し進め、藩の基礎固めをしました。

その政盛の後を継いだ正誠(まさのぶ)ですが、新庄藩の第2代藩主として約60年にわたり統治に関わることになります。長期政権ならではの政策や城下町整備の推進などで藩政を安定させ、新庄藩の最盛期を迎えることとなりました。

その後も戸沢氏が代々藩主を務める新庄藩は、江戸を通して存続します。その間、他の藩に漏れず飢饉や財政難といった苦しい時代もあり、更に戊辰戦争にも巻き込まれましたが、藩そのものは廃藩置県で新庄県となるまで続きました。

新庄と戸沢氏は、きっても切れない関係という感じですね。


■新庄城焼失■
戊辰戦争の時、新庄藩の藩主は第11代の戸沢正実でした。奥州列藩同盟から離脱したことで庄内藩に攻め込まれ、新庄城の大半はこの時に焼失しています。城下も甚大な被害を受けました。ただ奥州列藩同盟からの離脱は、勝者となった新政府軍から評価され、功績として称えられています。


■つわものどもが夢の跡■

<戸澤神社>
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戸澤神社の創建は明治になってから。旧領民の有志によって本丸跡に創られました。代々藩主を務めた戸沢氏の祖・戸田衡盛、中興の祖とされる新庄藩初代藩主・戸沢政盛、そして最後の藩主となった戸沢正実を祭神とする神社です。

戸沢氏で始まり、戸沢氏で幕を引いた城跡に鎮座する神社です。

-----■新庄城■-----
別 名: 沼田城
築城者: 戸沢政盛
築城年: 1624年
城 主: 戸沢氏
廃城年: 1868年
現 況:最上公園
[山形県新庄市堀端町]


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タグ:山形への旅
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2018年11月05日

吉良邸跡 清水一学ほか家臣の石碑

つわものどもが夢の跡
赤穂浪士が討ち入った吉良邸跡を訪問しました。

■本所松坂町公園■ほんじょ
吉良家屋敷跡はJR両国駅東口から徒歩圏内(10分以内)です。国技館や大江戸博物館とは逆側になります。

<吉良邸跡>
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到着しました。ここですね。では中に入ってみますか。赤穂浪士は47名で討ち入りましたが、一人で突入です。

<入口>
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いきなり奥に吉良上野介を発見!といっても、何の遺恨もありません。

<吉良上野介義央公座像>よしひさ
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吉良家は清和源氏足利氏流の名門。吉良義央は、幕府の儀式や典礼を任されている高家旗本でした。そしてこの屋敷の主ですね。

<首洗いの井戸>
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みしるし洗いの井戸。名の通りです。

<松坂稲荷>
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こちらは「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したもの。

<展示物>
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忠臣蔵に基づいた各種の展示物。忠臣蔵は好きです。大好きな話です。ただ、諸説ありながら、ほぼヒール役になっている吉良さんに同情する思いもあります。そもそもここは、吉良さんのおうちですよね!

<忠臣蔵に関する立て札>
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公園というより、壁に囲まれたミニ博物館のような空間です。広さは30坪弱。ここはかつての屋敷の一部に過ぎず、吉良邸の広さはこの説明文によれば2550坪だったそうです。ピンときませんが、そうとう広いことは分ります。

赤穂浪士が正門と裏門の二手に分かれて討ち入ったことは良く知られていますね。ではその距離とはどんなものだったのか?47名で押し入っても、討ち漏らす可能性は充分あったのではないか?

それを実感してみたい。空間を肌で感じてみたい。今回の訪問の目的は、たったそれだけです。
公園から少し離れたところに、吉良邸の正門跡と裏門跡の立て札があります。これを確認してみますかね。

<吉良邸正門跡>
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屋敷の東側、ここですね。門はありませんが、この札のお陰で位置はわかります。大石内蔵助を筆頭に、23人が正門から屋敷へ突入しました。大高源五や原惣右衛門は表門隊です。

<吉良邸裏門跡>
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場所は変わってこちらは裏門跡。屋敷の西側です。最年少の大石主税を筆頭に、24人がこちら側から討ち入りました。堀部安兵衛や不破数右衛門、潮田又之丞らも裏門隊です。

ということで、同じ屋敷の正門と裏門ですが、結構な距離でした。屋敷を挟んで意思の疎通を図るのは難しそうですね。吉良邸は東西約134m、南北が約63mもあったとのこと。炭小屋に隠れた吉良上野介を、なかなか見つけられなかったというのも納得です。また、確実を期するため、浪士数名がこの周辺に住んで事前調査を行っていたというのも分かる気がしました。


■吉良家の家臣■
松之大廊下での刃傷事件から約半年後、吉良家は呉服橋(今で言うと八重洲)からこの地に移転を命じられました。以前より人気の少ない郊外へ引っ越してくれたのですから、これは襲撃する側にとっては好都合。狙われるかもしれない上野介本人も、吉良家の家臣たちも、そのことは充分意識していたことでしょう。

<家臣の石碑>
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元禄15年12月14日(1703年1月30日)、赤穂浪士たちが遂に吉良邸へ討ち入りました。厳密にいうと15日の明け方ということになります。当時屋敷内には百人前後の家来がいましたが、実際に赤穂浪士たちと戦ったのは40人にも満たなかったとされています。石碑には、寝込みを襲われながら奮闘し、命を落とした家臣たちの名が刻まれています。

<吉良家家臣二十士>
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吉良家側の死傷者は三十八名とされています。この石碑には家老の小林平八郎、清水一学など、二十士の名が記されています。みな主君を守るべく戦いました。

■清水一学■ いちがく
忠臣蔵の小説や時代劇では、知的にして二刀流の達人として登場しますね。私のイメージもそのままです。よって、名門吉良家に古くから仕える家柄なのだろうと思っていました。

ところが、実際には三河の百姓の生まれです。幼名は藤作。少年期から剣術に励み、吉良家当主である義央に目をかけられ、15歳で中小姓にとりたてられました。剣術に優れていたようですが、二刀流というのは後世のつくり話のようです。赤穂浪士が討ち入った時、一学は25歳になっていました。主である吉良上野介を守るべく奮戦したようですが、この屋敷内で命を落としました。

自分の才能を見出してくれた人に、一学はきっと日頃から忠義を尽くしていたことでしょう。それは立場が上の者にただ従うといった組織上の役割ではなく、己を認めた者に対し、恩を返したいという欲求に近いものだったのではないでしょうか。死を覚悟で討ち入った赤穂浪士も忠義なら、命懸けでこれと戦った清水一学もやはり忠義の侍。そう受けとめたいですね。

以上
赤穂浪士ファンが、吉良邸の広さを実感してみたくなり現地を訪問したものの、吉良家の家臣団に同情するような気持ちになったという内容でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。

■訪問
本所松坂町公園
[東京都墨田区両国]


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2018年11月03日

越ヶ谷御殿跡 / 暗渠と城跡19 川の立体交差地点

つわものどもが夢の跡
埼玉県の越谷市に用事があったついでに、以前から気になっていた場所を訪ねました。

越ヶ谷御殿跡

■御殿跡■
<石碑>
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越谷市御殿町の元荒川沿いに設置されている石碑です。

<説明板>
shirononagori282 (6).JPG
ちょっと画像が悪く申し訳ございません。

越ヶ谷御殿は徳川家康によって設けられた御殿です。御殿とは、まぁ簡単に言えば将軍の別荘のようなもの。江戸近郊に出かけた際に利用する将軍家用の施設のことですね。越谷市には御殿町という住所が存在しますが、その全域が家康の御殿だったのではないかと考えられています。建造物に関する詳細は不確かながら、家康のみならず、二代将軍となった秀忠もこの地に宿泊し、鷹狩をしていた記録が残されているようです。

当時の移動手段を考えると、江戸から結構な距離だと思うんですがね。わざわざ来たんですね。どっかの会社の話ではありませんが、役職が上過ぎて暇だった?

いやいや、確かに鷹狩りもしましたが、領内の民情視察なども兼ねてあちこち行っていたようです。200年以上も続く幕府の基盤を造った人たちですから、かなり真剣だったのではないでしょうか。家康は江戸から始まる街道の整備にも力を入れました。ここ越谷は奥州街道の宿場となったことで、江戸時代を通して重要な場所となったわけですね。


■将軍家のなごり■
<久伊豆神社>
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越ヶ谷御殿跡からすぐ近くの久伊豆神社です。神社の紋は立ち葵(たちあおい)です。将軍家の御殿があったことから、葵紋の使用が特別に認められたとされています。この地が徳川将軍家と深い関係だったことの証ですね。

<長い参道>
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越谷の総鎮守とされている立派な神社です。見どころ沢山ですが、当ブログではこのくらいに。

<参道入口>
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住所は越谷市越ヶ谷1700。越ヶ谷御殿跡からみて元荒川の対岸になります。


■御殿の解体■
将軍も宿泊する壮大な御殿が築かれたのが1604年。それから50年以上後の話になりますが、江戸の大火(1657年:明暦の大火)により江戸城が焼失した時、越谷の御殿は解体され、城の再建に利用されました。二の丸に移され、将軍の仮殿になったと伝わります。宿場町越谷の繁栄は続きますが、将軍の御殿はここで幕引きとなったわけですね。そして今では、地名と石碑が残るのみとなっています。

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-------■越ヶ谷御殿■-------
建設年:1604年
解体年:1657年
[埼玉県越谷市御殿町]

ここで一旦終わります。


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暗渠と城跡

■川の立体交差地点■
以下はちょっとマニアックです。城跡好きですが、水路好きでもある者のヘンなこだわりですが、100人に1人でも共感頂けたら幸いです。

ご紹介させて頂いた『越ヶ谷御殿跡』の石碑、ちょっと変わったところに設置されていませんかね?

<石碑を後ろから撮影>
shirononagori282 (1).JPG
下は水路になっています。しかもこの水路、ここから地中に隠れます。つまり暗渠となっています。

暗渠
これは「あんきょ」と読みます。地下に埋設された川や水路という意味と思って下さい。

<元荒川>
shirononagori282AD.JPG
水路の行く手には元荒川が流れています。ということは、地中からどかでこの川に合流するのでしょうか?方角的には、そう思うのが自然ですよね。しかし実際は違います。

なんとこの水路
元荒川の川底より下を通過します。つまり、川と用水路が立体交差して交わらないようになっているのです。

越谷市によれば
『葛西用水は「瓦曽根溜井」と称され、江戸時代から川をせき止め、かんがい用水と
して利用されてきた。現在のように元荒川と分離されるまで、大沢の地蔵橋先の御殿町で元荒川と合流していた。』
[出典元:広報こしがやお知らせ版 平成29年(2017年)12月号]
とあります。この続きを私なりに要約すると、もともと豊かで綺麗だった水路の水は、昭和30年代の都市化により水質が悪化し、対策として用水の分離工事が施されたようです。

<葛西用水>
shirononagori282 (3).JPG
葛西用水の別名は逆川(さかさがわ)。この逆川をこの地点で元荒川の下を伏越樋管(ふせごしひかん)でくぐらせます。水が立体交差するわけですね。御殿町から柳町までの新な水路としました。今回ご紹介はこの地点だけですが、逆川には水が立体交差する場所がもう一か所あります。

<駅で撮影した地図>
sn282map.JPG
地図の左手中央。水路が消えて川を潜っている様子がわかります。

2つの水の流れが、交わらないで立体交差する。こういう構造に感動を覚えるのは、ちょっとヘンですかね?

■暗渠と城跡■
当ブログでは「暗渠と城跡」と題して、城の堀や付近の川が暗渠となっているケースを紹介してきました。ただ今回の暗渠は、屋敷跡とは直接関係がありません。目的地の目印とした石碑が、たまたま暗渠の上にあった。たったそれだけです。

とはいえ『城跡』と『暗渠』の両方に興味を持っている者にとっては、一度で二つも楽しめる大変貴重な場所。片方を目的に訪問した方が、当ブログがきっかけで、もう片方にも興味を持ってくれたら嬉しいです。

ということで
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
posted by Isuke at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 暗渠と城跡
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