つわものどもが夢の跡
今回は川越の人気スポット『喜多院』の堀の話です。
<堀>
ここはもともと城跡だったのか?と思いたくなる見事な堀でした。
■ 喜多院 ■ きたいん
観光地として人気の喜多院。天台宗の寺院で、山号は星野山(せいやさん)。慈覚大師が830年創建し、当初は無量寿寺と号したそうです。
境内は全体として落ち着いた雰囲気で、重みがあります。
江戸時代の初期には、徳川家康のブレーン的な存在となった天海僧正が住職 (第27世住職) をつとめ、この時に寺号を喜多院と改めました。正式名称は星野山無量寿寺喜多院といいます。徳川幕府から手厚い庇護を受けたことで、江戸城から移築された建物や多くの文化財を所蔵する寺院として知られています。
建物の多くが重要文化財に指定されています。せっかく訪問したので、その一部だけご紹介します。
<山門>
門から既に国指定重要文化財です。
<喜多院本堂慈恵堂>
中央に慈恵大師、そして左右に不動明王が祀られています。
<慈眼堂>
こちらは慈眼大師天海をまつる御堂
<仙波東照宮>
<歴代住職墓所>
<多宝塔>
繰り返しますが、ご紹介はほんの一部です。
■堀の跡■
さて、重要文化財だらけのこと敷地内。見て回るうちにこんな光景と出会うことに。
<地面の溝に気付く>
地面のヘンな溝に気付き、その行く先を目で追うと、もっとヘンな光景を見ることに
<行く先もヘン>
周りと比較して低い位置を維持したままのヘンな道?
<堀と気付く>
そのまま進むと、城好きにとってはたまらない景色が。ここは城跡なのか?そう感じてしまった瞬間です。堀は右手に曲がっています。まるで敷地を囲んでいるかのように。
寺院の周辺に堀が設けてある例は珍しくありません。ただ、ここの堀は深さもあり、ちょっと立派すぎませんかね。しかもかつての川越城のすぐ近くです。この場では探索に専念し、詳細は帰宅してから調べることに。
<他の場所も調査>
堀は敷地の西側に設けられていて、南側では仙波東照宮を取り囲んでいました。目視で分かるのがそこまでというだけで、他は埋められた可能性だってあり得ます。あるいは、東側は低湿地であったことから、堀を設けず土塁の類で守りを強化できたのかも知れない。
<調査は続く>
堀に気付いてしまってからは、気もそぞろとなり、喜多院の周辺ばかりを歩き回っていました。
■城跡という記録はない■
<川越城の縄張り>
市役所で撮影した川越城の縄張り図です。喜多院の敷地は含まれていません。帰宅していろいろ調べたのですが、喜多院を城跡と断定する有力な情報は得られませんでした。
(ここより勝手な感想)
ただ、古くは城の南側の出城的な役割を担っていた?なんてことはないのですかね。太田道灌が父とともに川越城を築城した頃(1457年)は、まだまだ工夫の余地があったはず。主となる拠点の他にこまめに出城を築く道灌であれば、川越城へと続く街道に睨みをきかせる砦を築いていても何ら不思議ではありません。地図を見ると、それまで真っ直ぐだった街道が、ちょうど喜多院付近で折れ曲がっていることも気になります(街道が曲がっているのは、町の出入口に設けた枡形のなごりと受け止めていましたが、そのすぐ東側が喜多院という点が気になります)。
あるいは、河越城の戦い(上杉対北条)の時の陣城の跡ということは?
また、川越城は江戸期に近世に相応しい城として再整備されますが、この時に万が一の時のための出城的な役割を期待されて堀が設けられた!なんてことは?近世城郭のなかには、防衛戦略の一環として庭園を設けたりする例があります。兼六園や後楽園はそれに該当し、それぞれ金沢城と岡山城にとって、城外の曲輪という役割を期待されていました。また江戸の浜御殿(現在の浜離宮恩賜公園)も、同様ではないかとする説もあります。表向きの姿とは別の意味を込めて整備する。これは決して珍しいことではありません。
念には念を入れたなごりが、この堀跡なのではないのか
現地でそんな思いが込み上げてしまい、喜多院で最も記憶に残っているのが堀の跡となってしまいました。まぁ神社仏閣も好きですが、それ以上に城好きなので満足です。
ということで、最後までお読み頂きありがとうございます。城好き会社員のたわごとに近い内容ですので、その辺りはご理解をお願い致します。ただ、現地で似たような思いをする方がいたら嬉しいです。
<城好きにとっての喜多院>
■訪問:喜多院
[埼玉県川越市小仙波町]1-20-1
お城巡りランキング
2019年05月05日
仙波東照宮 日光へ向かう途上の大法要
今回は川越の東照宮の話です。
<仙波東照宮>
■仙波東照宮■ せんばとうしょうぐう
言うまでもなく家康を祀る東照宮。神格化された徳川家康、つまり東照大権現を祀る神社のことですね。一時期その数は五百を越えたそうです。凄いですね。大名が将軍家に気を使い、競うように建立したことも影響しているようです。ちなみに、現存は約130社とのこと。それでも多いですね。今回訪問の東照宮もそのうちの一つではありますが、深い歴史があることを、ちょっとだけご紹介させて頂きます。
<随身門>
ここ仙波東照宮は、喜多院の住職となった天海僧正が家康を祀ったものです。徳川家康は駿府城で亡くなりました。遺言に従い、一旦は久能山(静岡)に葬られましたが、日光山(栃木)に改葬の途中(つまり移送する途上)、天海は家康の遺骸を喜多院(埼玉)に4日間留め、大法要を営んだそうです。そのことから、喜多院の境内に東照宮が祀られることになりました。久能山から日光まで19日を要したようですが、そのうち4日は喜多院に留まっていたということですね。
<石段>
重要文化財の鳥居を通過すると石段
日光・久能山・仙波を「日本三大東照宮」と呼ぶそうです。まぁ日光と久能山に自社を加えて「三大」とする例は、ほかの東照宮でも見聞きしますが、せっかく来たのだし、歴史の重みも感じたので、しばらくそう思うことにします。
<東照宮拝殿・幣殿>
更に奥に見えているのが本殿です。
<説明板>
歴代川越城主が奉納した石灯籠の配置
<平唐門と本殿>
国指定重要文化財です。1638年(寛永15年)におきた川越の大火災で一旦は消失したものの、3代将軍家光の指示ですぐに再建されました。現在に至るこの社殿は、その時(1640年)に完成したものです。
明治初期の神仏分離令により、仙波東照宮は喜多院から切り離され、川越八幡宮の管理するところとなりました。とはいえ同じ敷地内です。喜多院訪問の際には、家康のブレーン的な存在だった天海が大法要を営んだことなどを思い浮かべながら、そのなごりを感じてみては如何でしょうか。
■訪問:仙波東照宮
[埼玉県川越市小仙波町] 1-21-1
お城巡りランキング
<仙波東照宮>
■仙波東照宮■ せんばとうしょうぐう
言うまでもなく家康を祀る東照宮。神格化された徳川家康、つまり東照大権現を祀る神社のことですね。一時期その数は五百を越えたそうです。凄いですね。大名が将軍家に気を使い、競うように建立したことも影響しているようです。ちなみに、現存は約130社とのこと。それでも多いですね。今回訪問の東照宮もそのうちの一つではありますが、深い歴史があることを、ちょっとだけご紹介させて頂きます。
<随身門>
ここ仙波東照宮は、喜多院の住職となった天海僧正が家康を祀ったものです。徳川家康は駿府城で亡くなりました。遺言に従い、一旦は久能山(静岡)に葬られましたが、日光山(栃木)に改葬の途中(つまり移送する途上)、天海は家康の遺骸を喜多院(埼玉)に4日間留め、大法要を営んだそうです。そのことから、喜多院の境内に東照宮が祀られることになりました。久能山から日光まで19日を要したようですが、そのうち4日は喜多院に留まっていたということですね。
<石段>
重要文化財の鳥居を通過すると石段
日光・久能山・仙波を「日本三大東照宮」と呼ぶそうです。まぁ日光と久能山に自社を加えて「三大」とする例は、ほかの東照宮でも見聞きしますが、せっかく来たのだし、歴史の重みも感じたので、しばらくそう思うことにします。
<東照宮拝殿・幣殿>
更に奥に見えているのが本殿です。
<説明板>
歴代川越城主が奉納した石灯籠の配置
<平唐門と本殿>
国指定重要文化財です。1638年(寛永15年)におきた川越の大火災で一旦は消失したものの、3代将軍家光の指示ですぐに再建されました。現在に至るこの社殿は、その時(1640年)に完成したものです。
明治初期の神仏分離令により、仙波東照宮は喜多院から切り離され、川越八幡宮の管理するところとなりました。とはいえ同じ敷地内です。喜多院訪問の際には、家康のブレーン的な存在だった天海が大法要を営んだことなどを思い浮かべながら、そのなごりを感じてみては如何でしょうか。
■訪問:仙波東照宮
[埼玉県川越市小仙波町] 1-21-1
お城巡りランキング
2019年05月01日
川越城 中ノ門堀のなごり
つわものどもが夢の跡
今回は宅地化が進む川越に残る『城のなごり』です。
<堀のなごり>
関東屈指の名城のなごりです。
■中ノ門堀跡■
<入口>
ここですね。入口はあまり目立ちません。川越市役所前の本通りを東へ(本丸御殿方向へ)進むと到着できます。川越駅からバスの場合は、「札の辻」で下車すれば、そこから5分程度です。
<川越城中ノ門堀跡>
開園時間は午前9時から午後5時とのこと。念のためですが無料です。
<見学広場>
門をくぐると視界が開けます。
<説明板>
詳細な説明がなされているので、予習しなくても大丈夫。実際には三本の堀を工夫した防御施設だったようです。そのうちの一つを整備し直したわけですね。説明によれば、堀の側面の勾配が手前と奥とでは異なるようですね。
<傾斜の違い>
なるほど。右側から左側に攻めると思って見て下さい。堀の傾斜は城壁がある側が60°、手前は30°とのこと。攻め手は切り立った堀、そして設けられた城壁により、堀を越えることは容易ではありません。城壁の四角い穴は狭間(さま)です。そこから飛び道具で狙い撃ちされるわけですね。狭間の向きが逆のような気もしますが、まぁ雰囲気的にOKです。
■川越市役所■
ところ変わって
こちらは川越市役所です。
<市役所と太田道灌像>
中ノ門堀の西側に位置する川越市役所。手前は太田道灌像。
<ヤマブキの枝>
この太田道灌像、左手に弓、右手は矢ではなくヤマブキの枝です。山吹伝説にちなんだ姿ですね。川越城は道灌と父道真による築城から始まると考えられています。
<縄張り図>
市役所にはこんな分かり易い縄張り図も展示されています。立派です。これは川越城の完成形ですね。太田道灌もびっくりの城ではないでしょうか。川越市役所はむかしの西大手門跡に位置しています。
<縄張り図に加筆>
縄張り図に加筆させて頂きました。青丸が現在の市役所。つまり西大手門。赤丸が中ノ門堀です。西大手門を突破して攻め込んできた侵入者は、中ノ門掘に行く手を阻まれるというわけですね。曲輪で説明すると、西大手門から外曲輪へ侵入した敵兵は、中曲輪の手前で中ノ門掘に邪魔をされる。中曲輪の先は三ノ丸・二ノ丸と続きますので、本丸は遠いですね。
中ノ門堀の役割、ご理解頂けましたでしょうか。
今回訪問の中ノ門堀が造られたのは江戸時代。1639年(寛永16年)に藩主となった松平信綱による川越城大改修の時と考えられています。松平信綱は初代川越藩主、そして老中を務めて将軍家を支えた知恵者です。松平伊豆守という呼び名の方が有名ですかね?「知恵伊豆」の異名でも知られています。まだ戦国期の余韻が完全には消えていない時期です。何が起きるかわかりません。戦いを想定し、知恵を絞って考えたのかも知れませんね。
やがて明治となり、城の建物は解体され、堀のほとんどが埋められてしまいました。その後さらに都市開発が進んだ川越にあって、中ノ門堀跡はかつての『城のなごり』を感じられる貴重な場所です。多くの人が訪れる本丸跡から少し離れているせいでしょう。あまり訪問者は多くありません。当ブログがきっかけで、ちょっと足を運んでもらえると嬉しいですね。
<つわものどもが夢の跡>
敵の本丸への直進を阻むべく設けられました。どんなつもりだったのか。それが分かると、同じ景色も違ったものに映ります。
■訪問
川越城中ノ門堀跡
[埼玉県川越市郭町]1-8-6
お城巡りランキング
今回は宅地化が進む川越に残る『城のなごり』です。
<堀のなごり>
関東屈指の名城のなごりです。
■中ノ門堀跡■
<入口>
ここですね。入口はあまり目立ちません。川越市役所前の本通りを東へ(本丸御殿方向へ)進むと到着できます。川越駅からバスの場合は、「札の辻」で下車すれば、そこから5分程度です。
<川越城中ノ門堀跡>
開園時間は午前9時から午後5時とのこと。念のためですが無料です。
<見学広場>
門をくぐると視界が開けます。
<説明板>
詳細な説明がなされているので、予習しなくても大丈夫。実際には三本の堀を工夫した防御施設だったようです。そのうちの一つを整備し直したわけですね。説明によれば、堀の側面の勾配が手前と奥とでは異なるようですね。
<傾斜の違い>
なるほど。右側から左側に攻めると思って見て下さい。堀の傾斜は城壁がある側が60°、手前は30°とのこと。攻め手は切り立った堀、そして設けられた城壁により、堀を越えることは容易ではありません。城壁の四角い穴は狭間(さま)です。そこから飛び道具で狙い撃ちされるわけですね。狭間の向きが逆のような気もしますが、まぁ雰囲気的にOKです。
■川越市役所■
ところ変わって
こちらは川越市役所です。
<市役所と太田道灌像>
中ノ門堀の西側に位置する川越市役所。手前は太田道灌像。
<ヤマブキの枝>
この太田道灌像、左手に弓、右手は矢ではなくヤマブキの枝です。山吹伝説にちなんだ姿ですね。川越城は道灌と父道真による築城から始まると考えられています。
<縄張り図>
市役所にはこんな分かり易い縄張り図も展示されています。立派です。これは川越城の完成形ですね。太田道灌もびっくりの城ではないでしょうか。川越市役所はむかしの西大手門跡に位置しています。
<縄張り図に加筆>
縄張り図に加筆させて頂きました。青丸が現在の市役所。つまり西大手門。赤丸が中ノ門堀です。西大手門を突破して攻め込んできた侵入者は、中ノ門掘に行く手を阻まれるというわけですね。曲輪で説明すると、西大手門から外曲輪へ侵入した敵兵は、中曲輪の手前で中ノ門掘に邪魔をされる。中曲輪の先は三ノ丸・二ノ丸と続きますので、本丸は遠いですね。
中ノ門堀の役割、ご理解頂けましたでしょうか。
今回訪問の中ノ門堀が造られたのは江戸時代。1639年(寛永16年)に藩主となった松平信綱による川越城大改修の時と考えられています。松平信綱は初代川越藩主、そして老中を務めて将軍家を支えた知恵者です。松平伊豆守という呼び名の方が有名ですかね?「知恵伊豆」の異名でも知られています。まだ戦国期の余韻が完全には消えていない時期です。何が起きるかわかりません。戦いを想定し、知恵を絞って考えたのかも知れませんね。
やがて明治となり、城の建物は解体され、堀のほとんどが埋められてしまいました。その後さらに都市開発が進んだ川越にあって、中ノ門堀跡はかつての『城のなごり』を感じられる貴重な場所です。多くの人が訪れる本丸跡から少し離れているせいでしょう。あまり訪問者は多くありません。当ブログがきっかけで、ちょっと足を運んでもらえると嬉しいですね。
<つわものどもが夢の跡>
敵の本丸への直進を阻むべく設けられました。どんなつもりだったのか。それが分かると、同じ景色も違ったものに映ります。
■訪問
川越城中ノ門堀跡
[埼玉県川越市郭町]1-8-6
お城巡りランキング
2019年04月30日
平成から令和へ
本日は平成31年4月30日。平成最後の日です。新元号「令和」が 発表された日、私は仕事の関係で赤坂見附にいました。
<平成31年4月1日の赤坂見附付近>
桜が満開でした。手前は江戸城の外濠『弁慶濠』です。奥の石垣が赤坂見附。その向こう側はかつての『溜池』になります。予定より早く到着したため、しばしこの眺めに見惚れていました。
<つわものどもが夢の跡>
江戸城三十六見附の一つ「赤坂見附」のなごりです。現在は石垣のみ。工事は黒田家が担当しました。黒田官兵衛の孫の代のお仕事です。
<和食>
外出先での用事は昼前には終了。昼休みも兼ねて昼食をとっている最中に、携帯のニュースで新年号を知りました。
令和か・・・
なんとなく不思議な気分のまま、帰路に日枝神社へ立ち寄り
<日枝神社>
新しい時代に何を願うでもなく手を合わせ
<つわものどもが夢の跡>
土塁跡とされる場所を確認し
会社へ戻りました。
正直、この時は実感が湧きませんでした。しかし約ひと月が経過し、令和という響きにも慣れ、いよいよ今日で平成も終わるかと思うと、何やら感慨深いものがあります。
天皇退位に伴う改元。今回のことで、退位される今上天皇の在位は、歴代で10番目に長いということを知りました。どうしても比較してしまう昭和天皇は62年、これは歴代1位で特筆して長いということになります。2位は明治天皇の45年6カ月で、こちらも群を抜いて長い在位だったことになります。また、生前の退位は珍しいことではなく、125代のうち58人とのこと。このような歴史と無関係ではないブログをやっているわりに「自分は何も知らないなぁ」と実感させられました。
<平成31年4月30日の散歩>
平成最後の日、さいたま市は朝から雨でした。遠出はせず、旧浦和市民にとって憩いの場所である別所沼公園を散歩。
本日で終わる平成がどんな時代だったのか。いろんな評論があろうかと思いますが、それは各々が各々の立場で受け入れ、決めて良いことかと思います。明日から始まる令和という時代への期待についても、同じことが言えると思います。ただどうであれ、「昔は良かった」と感じる人より、「昔よりいい」あるいは「昔よりマシ」と感じる人の方が多くなることを願っています。当然ながら私本人も、「昔よりいい」と思えるようになりますように。
<弁天島>
祀られている弁財天に手を合わせて、公園をあとにしました。
ということで
拙ブログはまだまだ続けていくつもりですので、今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。
お城巡りランキング
<平成31年4月1日の赤坂見附付近>
桜が満開でした。手前は江戸城の外濠『弁慶濠』です。奥の石垣が赤坂見附。その向こう側はかつての『溜池』になります。予定より早く到着したため、しばしこの眺めに見惚れていました。
<つわものどもが夢の跡>
江戸城三十六見附の一つ「赤坂見附」のなごりです。現在は石垣のみ。工事は黒田家が担当しました。黒田官兵衛の孫の代のお仕事です。
<和食>
外出先での用事は昼前には終了。昼休みも兼ねて昼食をとっている最中に、携帯のニュースで新年号を知りました。
令和か・・・
なんとなく不思議な気分のまま、帰路に日枝神社へ立ち寄り
<日枝神社>
新しい時代に何を願うでもなく手を合わせ
<つわものどもが夢の跡>
土塁跡とされる場所を確認し
会社へ戻りました。
正直、この時は実感が湧きませんでした。しかし約ひと月が経過し、令和という響きにも慣れ、いよいよ今日で平成も終わるかと思うと、何やら感慨深いものがあります。
天皇退位に伴う改元。今回のことで、退位される今上天皇の在位は、歴代で10番目に長いということを知りました。どうしても比較してしまう昭和天皇は62年、これは歴代1位で特筆して長いということになります。2位は明治天皇の45年6カ月で、こちらも群を抜いて長い在位だったことになります。また、生前の退位は珍しいことではなく、125代のうち58人とのこと。このような歴史と無関係ではないブログをやっているわりに「自分は何も知らないなぁ」と実感させられました。
<平成31年4月30日の散歩>
平成最後の日、さいたま市は朝から雨でした。遠出はせず、旧浦和市民にとって憩いの場所である別所沼公園を散歩。
本日で終わる平成がどんな時代だったのか。いろんな評論があろうかと思いますが、それは各々が各々の立場で受け入れ、決めて良いことかと思います。明日から始まる令和という時代への期待についても、同じことが言えると思います。ただどうであれ、「昔は良かった」と感じる人より、「昔よりいい」あるいは「昔よりマシ」と感じる人の方が多くなることを願っています。当然ながら私本人も、「昔よりいい」と思えるようになりますように。
<弁天島>
祀られている弁財天に手を合わせて、公園をあとにしました。
ということで
拙ブログはまだまだ続けていくつもりですので、今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。
お城巡りランキング
2019年04月29日
宿の城 城址らしきエリアをてくてくと(さいたま市)
<鴨川>
さいたま市の鴨川です。荒川水系のこの川沿いに「宿の城」と呼ばれる城があったというのでてくてくと歩いてきました。
■宿の城■しゅくのしろ
「宿の城」あるいは「堀の内」と呼ばれ、平地に位置する広い城であったそうですが、文献に乏しく、遺構もはっきりしない城跡です。そうと知りつつ、念のため訪問した。そんな記録です。
<堀跡?>
こちらは冒頭の鴨川に合流する水路。これを「堀跡」と推定している方もいるようです。もうちょっと確かな資料が残っていれば良いのですがね。もし堀だとすると、平坦な土地に築かれた城の北側を守備するために設けたことになります。
<宿>しゅく
先程の水路を渡って南側へ。この辺りが宿。もうかつての城跡の近くにいるわけですね。たぶん・・・
<空き地>
何かありそうな?でも私有地と思われますので立ち入らず。「宿の城」は遺構どころか石碑もないので、とにかくうろうろするだけです。ご近所の皆様、申し訳ございません。
<大久保神社鳥居>
宿でひときわ目立つ神社。
<拝殿>
創建の時期は不詳ながら古い歴史の神社です。江戸時代になると八幡社と称し、地元の鎮守として祀られました。重厚感があります。
<境内>
左が大久保神社本殿。立派です。お隣は境内社の氷川社と白山社
左は琴比羅社。鳥居の奥は稲荷社です。
<裏側から>
裏から失礼します。ここが城跡そのものという訳ではないのですが、どうしてもこういう高低差を撮影してしまいます。神社の敷地が、周辺よりは少し高い位置にあること、伝わりますでしょうか?
<大久保神社 御由緒>
こちらが今回の訪問で最も有力な手がかりとなりました。
抜粋させて頂くと、地名「宿」の由来は『近村の道場村に畠山重忠の館があったころ、当地もにぎわい、家が軒を連ねて宿のようであったことによる』と伝わるわけですね。そして肝心の城と関わる部分については『安保直実・安保泰規氏の関係の者が居住していた』『安保直実・泰規氏の両名は賀美群安保郷(現神川町元安保一帯に比定される)を本領とする豪族・安保氏の一族で、南北朝期に当地を含む「大窪郷」を領していた』とのこと。
安保氏はもともと武蔵七党の丹党に属する一族であり、鎌倉幕府の御家人。城はその流れをくむ武将、あるいは親族とか家臣の居城と解釈して良いのでしょうかね。あと、城のあった場所のヒントとして、ここ大久保神社が『「宿の城」の南東に鎮座』とあります。逆に言えば、大久保神社の北西に城があったということですね。とても参考になりました。
つづきまして
大久保神社から見て少し西側にあるお寺を訪ねました。
<観音寺>
観音寺です。浄土宗寺院。
<山門>
この四脚門は江戸初期の建造物として市の指定有形文化財となっています。
<本堂>
開山は1605年。徳川家光より寺領8石の御朱印状を拝領したと伝わります。
<観音堂>
こちらの観音堂は屋根が茅葺きです。事前に知らなかったので、しばし見惚れました。城跡巡りのつもりでしたが、これだけでも来た甲斐があると感じました。こちらもさいたま市の有形文化財に指定されています。
ご紹介した大久保神社と観音寺、「宿の城」はこの間に位置していたとされています。ただ、明確な遺構を現地で確認することはできません。
城は分類すると平城になります。そして近くには鴨川。北から流れて来るこの川は、今でこそ更に南下しますが、江戸時代以前はこの付近で西側に進路を変えていました。当時の正確な流路まではわかりませんが、いろんな意味でその川の恩恵を受けていた城なのかもしれません。
<帰路>
ということで、城跡巡りとしての成果はいまいちですが、貴重な文化財と出会えました。天気も良く、気持ちのいい散策となりました。
-------■ 宿の城 ■-------
別 名:宿宮前堀ノ内
築城年:不明(室町時代?)
築城者:不明(安保氏?)
城 主:不明(安保氏?)
[さいたま市桜区宿]
■訪問
大久保神社
[さいたま市桜区宿 69]
観音寺
[さいたま市桜区宿147]
お城巡りランキング
さいたま市の鴨川です。荒川水系のこの川沿いに「宿の城」と呼ばれる城があったというのでてくてくと歩いてきました。
■宿の城■しゅくのしろ
「宿の城」あるいは「堀の内」と呼ばれ、平地に位置する広い城であったそうですが、文献に乏しく、遺構もはっきりしない城跡です。そうと知りつつ、念のため訪問した。そんな記録です。
<堀跡?>
こちらは冒頭の鴨川に合流する水路。これを「堀跡」と推定している方もいるようです。もうちょっと確かな資料が残っていれば良いのですがね。もし堀だとすると、平坦な土地に築かれた城の北側を守備するために設けたことになります。
<宿>しゅく
先程の水路を渡って南側へ。この辺りが宿。もうかつての城跡の近くにいるわけですね。たぶん・・・
<空き地>
何かありそうな?でも私有地と思われますので立ち入らず。「宿の城」は遺構どころか石碑もないので、とにかくうろうろするだけです。ご近所の皆様、申し訳ございません。
<大久保神社鳥居>
宿でひときわ目立つ神社。
<拝殿>
創建の時期は不詳ながら古い歴史の神社です。江戸時代になると八幡社と称し、地元の鎮守として祀られました。重厚感があります。
<境内>
左が大久保神社本殿。立派です。お隣は境内社の氷川社と白山社
左は琴比羅社。鳥居の奥は稲荷社です。
<裏側から>
裏から失礼します。ここが城跡そのものという訳ではないのですが、どうしてもこういう高低差を撮影してしまいます。神社の敷地が、周辺よりは少し高い位置にあること、伝わりますでしょうか?
<大久保神社 御由緒>
こちらが今回の訪問で最も有力な手がかりとなりました。
抜粋させて頂くと、地名「宿」の由来は『近村の道場村に畠山重忠の館があったころ、当地もにぎわい、家が軒を連ねて宿のようであったことによる』と伝わるわけですね。そして肝心の城と関わる部分については『安保直実・安保泰規氏の関係の者が居住していた』『安保直実・泰規氏の両名は賀美群安保郷(現神川町元安保一帯に比定される)を本領とする豪族・安保氏の一族で、南北朝期に当地を含む「大窪郷」を領していた』とのこと。
安保氏はもともと武蔵七党の丹党に属する一族であり、鎌倉幕府の御家人。城はその流れをくむ武将、あるいは親族とか家臣の居城と解釈して良いのでしょうかね。あと、城のあった場所のヒントとして、ここ大久保神社が『「宿の城」の南東に鎮座』とあります。逆に言えば、大久保神社の北西に城があったということですね。とても参考になりました。
つづきまして
大久保神社から見て少し西側にあるお寺を訪ねました。
<観音寺>
観音寺です。浄土宗寺院。
<山門>
この四脚門は江戸初期の建造物として市の指定有形文化財となっています。
<本堂>
開山は1605年。徳川家光より寺領8石の御朱印状を拝領したと伝わります。
<観音堂>
こちらの観音堂は屋根が茅葺きです。事前に知らなかったので、しばし見惚れました。城跡巡りのつもりでしたが、これだけでも来た甲斐があると感じました。こちらもさいたま市の有形文化財に指定されています。
ご紹介した大久保神社と観音寺、「宿の城」はこの間に位置していたとされています。ただ、明確な遺構を現地で確認することはできません。
城は分類すると平城になります。そして近くには鴨川。北から流れて来るこの川は、今でこそ更に南下しますが、江戸時代以前はこの付近で西側に進路を変えていました。当時の正確な流路まではわかりませんが、いろんな意味でその川の恩恵を受けていた城なのかもしれません。
<帰路>
ということで、城跡巡りとしての成果はいまいちですが、貴重な文化財と出会えました。天気も良く、気持ちのいい散策となりました。
-------■ 宿の城 ■-------
別 名:宿宮前堀ノ内
築城年:不明(室町時代?)
築城者:不明(安保氏?)
城 主:不明(安保氏?)
[さいたま市桜区宿]
■訪問
大久保神社
[さいたま市桜区宿 69]
観音寺
[さいたま市桜区宿147]
お城巡りランキング
2019年04月22日
ビルの谷間の首塚 将門塚(大手町)
<将門塚>まさかどづか
ビルが建ち並ぶ東京のど真ん中。ひっそりとしていながら、神聖な空気が漂います。ここは平将門を供養している場所です。
■平将門の首塚■ たいらのまさかど
戦いに敗れた平将門の首級は、平安京まで運ばれ、都大路の河原に晒されました。3日目に夜空へ舞い上がり、故郷に向かって飛んでゆきましたが、力尽きてこの地に落ちたと伝えられています。将門の首級が落ちたと伝わる場所は他にも複数ありますが、ここ大手町が最も有名な伝承地。ちなみに、「さらし首」という言葉はよく耳にしますが、史料で確認できる範囲では将門が最初だそうです。
<大手町>
将門塚の位置に黄色の丸で加筆させてもらいました。正直言って、遠くからはあまり目立ちません。三井物産本社ビル付近、住所だと千代田区大手町一丁目2番1号になります。
<説明板>
将門首塚の由来が記されています。
<屋敷跡>
右手の説明板によれば、ここは江戸時代、酒井雅楽頭(譜代大名)の上屋敷だったそうです。
■平将門の戦い■
平将門は桓武平氏の武将。下総国佐倉(現在の佐倉市)を領有していました。上総国の国司であった父の死後、将門はまず身内と争って勝利、そしてその勢いは関東の他の国へと及びました。やがて自らを「新皇」と称し、朝廷と対立する立場に。つまり、朝廷からみて逆賊となったわけですね。しかし勢いもそこまで。関東武士・藤原秀郷らによって討たれました。
上の説明板から引用すると『平良将の子将門は 下総国に兵を起し 忽ちにして坂東八ヶ国を平定 自ら平新皇と称して政治の改革を図ったが 平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ 馬上陣頭に戦って憤死した 享年三十八歳であった』とのこと。
[将門塚保存会説明を抜粋]
<神田明神の幟>
14世紀初頭に疫病が流行。「これは将門の祟りだ」と噂されました。そこで神田明神が将門の霊を供養したところ、蔓延していた疫病が収まりました。これを機に、神田明神では平将門を神として祀ったそうです。
ただ明治時代になると、天皇が参拝する神社に「逆臣」が祀られていることが不都合となり、祭神から外されてしまったそうです。再び将門が神として祀られたのは昭和になってから。しかも昭和59年といいますから、復活までずいぶん長い時間を要したわけですね。
<神田明神による説明>
少し抜粋すると、『(平将門公は)武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました』とのこと。
西暦800年代の話ですからね。「強き」は絶大な権力を持つ朝廷から派遣された役人、そして「弱き」は民衆ということでしょう。搾取され続ける民衆の立場からすれば、将門は英雄だったのかもしれません。
<将門塚碑>
当ブログ、お墓の類は極力撮影を避けますが、こちらは供養碑ということで。ガラス張りとなっています。畏れ多くも、直接触れようとする方が多いからでしょうか。
<カエルの置き物>
傍らにガマガエルの置き物。ここだけでなく、周辺には多数の蛙の置物が奉納されています。将門の首が胴体を求めて飛んできたという伝説から「無事にカエル」という意味が込められているとのこと。そんな願いから、この地を訪れる人もいるわけですね。
ここ将門塚については、「移設しようとすると関係者が急死する」といった言い伝えがあります。最近でも、触れれば祟られると噂されたり、心霊スポットとして取り上げられたりしています。
受けとめ方は人それぞれで良いと思います。どうであれ、多くの人が訪れているのは事実。今回の私の訪問時(日曜日)にも、人が途切れることはありませんでした。
日本には「たたり神」という言葉、というか考え方が存在します。普通なら恐れられたり避けられたりする対象が、手厚く祀りあげることで、逆に強力な守護神となるという考え方です。菅原道真の例と同じく、将門が祀られる背景には、こういうものの捉え方があるわけですね。権力に苦しめられる民衆にとって、既存の権力を打ち砕く将門はどんな存在だったのでしょうか。それを感じてみる。思いを馳せてみる。日本人らしいとはどういうことなのか、気付く機会になるのではないでしょうか。
私なりに思うところがありましたが、それは私の内側にしまっておきます。ただ「鎮魂」という言葉の意味が、この日はいつもより重く感じられました。
<平将門の首塚>
怖い場所ではありません
たくさんの人たちから崇敬を受け続けてきた場所なのです。
■訪問
平将門の首塚(将門塚)
[千代田区大手町]1-2-1
お城巡りランキング
ビルが建ち並ぶ東京のど真ん中。ひっそりとしていながら、神聖な空気が漂います。ここは平将門を供養している場所です。
■平将門の首塚■ たいらのまさかど
戦いに敗れた平将門の首級は、平安京まで運ばれ、都大路の河原に晒されました。3日目に夜空へ舞い上がり、故郷に向かって飛んでゆきましたが、力尽きてこの地に落ちたと伝えられています。将門の首級が落ちたと伝わる場所は他にも複数ありますが、ここ大手町が最も有名な伝承地。ちなみに、「さらし首」という言葉はよく耳にしますが、史料で確認できる範囲では将門が最初だそうです。
<大手町>
将門塚の位置に黄色の丸で加筆させてもらいました。正直言って、遠くからはあまり目立ちません。三井物産本社ビル付近、住所だと千代田区大手町一丁目2番1号になります。
<説明板>
将門首塚の由来が記されています。
<屋敷跡>
右手の説明板によれば、ここは江戸時代、酒井雅楽頭(譜代大名)の上屋敷だったそうです。
■平将門の戦い■
平将門は桓武平氏の武将。下総国佐倉(現在の佐倉市)を領有していました。上総国の国司であった父の死後、将門はまず身内と争って勝利、そしてその勢いは関東の他の国へと及びました。やがて自らを「新皇」と称し、朝廷と対立する立場に。つまり、朝廷からみて逆賊となったわけですね。しかし勢いもそこまで。関東武士・藤原秀郷らによって討たれました。
上の説明板から引用すると『平良将の子将門は 下総国に兵を起し 忽ちにして坂東八ヶ国を平定 自ら平新皇と称して政治の改革を図ったが 平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ 馬上陣頭に戦って憤死した 享年三十八歳であった』とのこと。
[将門塚保存会説明を抜粋]
<神田明神の幟>
14世紀初頭に疫病が流行。「これは将門の祟りだ」と噂されました。そこで神田明神が将門の霊を供養したところ、蔓延していた疫病が収まりました。これを機に、神田明神では平将門を神として祀ったそうです。
ただ明治時代になると、天皇が参拝する神社に「逆臣」が祀られていることが不都合となり、祭神から外されてしまったそうです。再び将門が神として祀られたのは昭和になってから。しかも昭和59年といいますから、復活までずいぶん長い時間を要したわけですね。
<神田明神による説明>
少し抜粋すると、『(平将門公は)武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました』とのこと。
西暦800年代の話ですからね。「強き」は絶大な権力を持つ朝廷から派遣された役人、そして「弱き」は民衆ということでしょう。搾取され続ける民衆の立場からすれば、将門は英雄だったのかもしれません。
<将門塚碑>
当ブログ、お墓の類は極力撮影を避けますが、こちらは供養碑ということで。ガラス張りとなっています。畏れ多くも、直接触れようとする方が多いからでしょうか。
<カエルの置き物>
傍らにガマガエルの置き物。ここだけでなく、周辺には多数の蛙の置物が奉納されています。将門の首が胴体を求めて飛んできたという伝説から「無事にカエル」という意味が込められているとのこと。そんな願いから、この地を訪れる人もいるわけですね。
ここ将門塚については、「移設しようとすると関係者が急死する」といった言い伝えがあります。最近でも、触れれば祟られると噂されたり、心霊スポットとして取り上げられたりしています。
受けとめ方は人それぞれで良いと思います。どうであれ、多くの人が訪れているのは事実。今回の私の訪問時(日曜日)にも、人が途切れることはありませんでした。
日本には「たたり神」という言葉、というか考え方が存在します。普通なら恐れられたり避けられたりする対象が、手厚く祀りあげることで、逆に強力な守護神となるという考え方です。菅原道真の例と同じく、将門が祀られる背景には、こういうものの捉え方があるわけですね。権力に苦しめられる民衆にとって、既存の権力を打ち砕く将門はどんな存在だったのでしょうか。それを感じてみる。思いを馳せてみる。日本人らしいとはどういうことなのか、気付く機会になるのではないでしょうか。
私なりに思うところがありましたが、それは私の内側にしまっておきます。ただ「鎮魂」という言葉の意味が、この日はいつもより重く感じられました。
<平将門の首塚>
怖い場所ではありません
たくさんの人たちから崇敬を受け続けてきた場所なのです。
■訪問
平将門の首塚(将門塚)
[千代田区大手町]1-2-1
お城巡りランキング
2019年04月21日
家康ゆかりの池 策の池 (荒木町)
今回は街探索の仲間たちと四谷の地形を楽しんでいたら、家康ゆかりの池と出会ったというお話です。良かったお付き合い下さい。
<策の池>むちのいけ
訪問は4月上旬。桜が満開でした。
■現地■
四谷三丁目駅に近い新宿区荒木町。ここは地形マニアの間では有名な場所です。起伏が激しく、更に四方を囲まれた窪地というユニークな構造。その道の方々が「スリバチ」と呼ぶ構造になっています。
水の流れが長年台地を削ることで、低地の三方が囲まれているというなら理解もできますが、ここは四方。ちょっと不自然な地形です。これは人の手によるもの?あるいは谷の出口で土砂崩れ?などなど。現地ではいろいろ考えてしまいましたが、帰宅してから調べたら、やはり人の手、つまり造成された結果のようです。具体的には、北側にあった谷の出口に、土手が築かれたとのこと。
<スリバチの細道>
尾根道となっている甲州街道を逸れて、低い場所へと向かいます。この細い路地、何となく心魅かれます。
<階段>
細い路地を降りきると、東側に階段が現れました。高低差、伝わりますでしょうか。こういう地形の中で人が暮らすと、結果として階段の多い町になりますね。今回のご紹介は、そんなスリバチ地形の底でみつけた小さな池です。
<現地>
ここです。
<崖の下>
池の向こう側は壁。昔なら崖ということでしょうか
<池と弁天様>
池の隅には弁天様
<津の守弁財天>つのかみ
津の守は摂津守にちなんだ呼び名です。この辺り一帯は、美濃国高須藩主・松平摂津守の上屋敷でした。庭には湧き出す水を堰き止めて造った池があり、そのなごりがこの池です。昔はもっと大きく、更には天然の滝が流れ込む池だったようです。崖のどこかが地水の出口となっていたわけですね。
■家康ゆかりの池■
鷹狩りの際、徳川家康が馬に用いるムチ(策)をこの地で洗ったとされることから、池は「策の池」と呼ばれるようになったとされています。
<説明板>
策の池の説明。ちょっと撮影しにくい説明板でした。前半を抜粋させてもらうと『江戸時代の古書「紫の一本」によれば徳川家康がタカ狩りの時近くにあった井戸水で策を洗ったので策の井戸と呼び、澄んだこの水が高さ四メートルに及ぶ滝となりこの池に注いでいたので策の池と呼ばれ「十二社の滝」「目黒不動の滝」「王子の名主の滝」等と並び江戸八井のひとつとして庶民に愛されていました。』とのこと。人気だったようですね。
説明文の後半にも記されていますが、この付近一帯は先述の松平摂津守の上屋敷となり、池は一般庶民からは遠い存在となります。しかし明治になると再び庶民に解放され、湧き出る水が人を魅了する景勝地として知られたそうです。いまでは水も枯れ、滝の姿はありませんが、残された小さな池にそのなごりを感じることができました。
<北側の階段からの眺め>
四方を囲まれたスリバチ状の地形。どうも北側のこの付近が、人が手を加えた地形のようです。松平摂津守の屋敷が造られた時に、谷の出口を塞いだと考えられます。
このユニークな地形を存分に味わい、家康ゆかりの池とも出会えました。
<策の池の桜>
そして桜も見事でした。
ということで
満足な荒木町散歩となりました。
■訪問:
津の守弁財天・策の池
[新宿区荒木町]
----- 追加画像 -----
<住友不動産四谷ビル>
近くのビル。通り過ぎようとしたら
<気になるサイン>
古地図らしきものが目に入り立ち止まる
<史跡案内>
この地が松平摂津守の上屋跡であることが記されています。こういう粋な演出、街探索をする側にとっては嬉しいですね。
<策の池>むちのいけ
訪問は4月上旬。桜が満開でした。
■現地■
四谷三丁目駅に近い新宿区荒木町。ここは地形マニアの間では有名な場所です。起伏が激しく、更に四方を囲まれた窪地というユニークな構造。その道の方々が「スリバチ」と呼ぶ構造になっています。
水の流れが長年台地を削ることで、低地の三方が囲まれているというなら理解もできますが、ここは四方。ちょっと不自然な地形です。これは人の手によるもの?あるいは谷の出口で土砂崩れ?などなど。現地ではいろいろ考えてしまいましたが、帰宅してから調べたら、やはり人の手、つまり造成された結果のようです。具体的には、北側にあった谷の出口に、土手が築かれたとのこと。
<スリバチの細道>
尾根道となっている甲州街道を逸れて、低い場所へと向かいます。この細い路地、何となく心魅かれます。
<階段>
細い路地を降りきると、東側に階段が現れました。高低差、伝わりますでしょうか。こういう地形の中で人が暮らすと、結果として階段の多い町になりますね。今回のご紹介は、そんなスリバチ地形の底でみつけた小さな池です。
<現地>
ここです。
<崖の下>
池の向こう側は壁。昔なら崖ということでしょうか
<池と弁天様>
池の隅には弁天様
<津の守弁財天>つのかみ
津の守は摂津守にちなんだ呼び名です。この辺り一帯は、美濃国高須藩主・松平摂津守の上屋敷でした。庭には湧き出す水を堰き止めて造った池があり、そのなごりがこの池です。昔はもっと大きく、更には天然の滝が流れ込む池だったようです。崖のどこかが地水の出口となっていたわけですね。
■家康ゆかりの池■
鷹狩りの際、徳川家康が馬に用いるムチ(策)をこの地で洗ったとされることから、池は「策の池」と呼ばれるようになったとされています。
<説明板>
策の池の説明。ちょっと撮影しにくい説明板でした。前半を抜粋させてもらうと『江戸時代の古書「紫の一本」によれば徳川家康がタカ狩りの時近くにあった井戸水で策を洗ったので策の井戸と呼び、澄んだこの水が高さ四メートルに及ぶ滝となりこの池に注いでいたので策の池と呼ばれ「十二社の滝」「目黒不動の滝」「王子の名主の滝」等と並び江戸八井のひとつとして庶民に愛されていました。』とのこと。人気だったようですね。
説明文の後半にも記されていますが、この付近一帯は先述の松平摂津守の上屋敷となり、池は一般庶民からは遠い存在となります。しかし明治になると再び庶民に解放され、湧き出る水が人を魅了する景勝地として知られたそうです。いまでは水も枯れ、滝の姿はありませんが、残された小さな池にそのなごりを感じることができました。
<北側の階段からの眺め>
四方を囲まれたスリバチ状の地形。どうも北側のこの付近が、人が手を加えた地形のようです。松平摂津守の屋敷が造られた時に、谷の出口を塞いだと考えられます。
このユニークな地形を存分に味わい、家康ゆかりの池とも出会えました。
<策の池の桜>
そして桜も見事でした。
ということで
満足な荒木町散歩となりました。
■訪問:
津の守弁財天・策の池
[新宿区荒木町]
----- 追加画像 -----
<住友不動産四谷ビル>
近くのビル。通り過ぎようとしたら
<気になるサイン>
古地図らしきものが目に入り立ち止まる
<史跡案内>
この地が松平摂津守の上屋跡であることが記されています。こういう粋な演出、街探索をする側にとっては嬉しいですね。
2019年04月11日
玉川上水のなごり 余水吐跡の暗渠
今回は水路跡のお話。江戸という城下町の治水事業のなごりです。
<水路跡>
■玉川上水余水吐跡■ よすいばけ
当ブログでも何度かご紹介させて頂いている玉川上水。有名ですね。羽村から四谷大木戸(現在の四谷4丁目付近)まで約43キロ。標高差わずか100m程度しかないこの区間を、地面を掘るだけで繋いだ水路です。水は低い方へしか流れませんから、いかに困難なことか想像できますよね。
さて
羽村からはるばるやってきた多摩川の水は、四谷大木戸より先はどうなっていたのでしょう。
<四谷大木戸の碑>よつやおおきど
甲州街道に設けられた関所跡です。
玉川上水はこの付近まで。ここより先は、樋などを設けて江戸の町へ給水されました。貴重な水は四谷大木戸に設けられた水番所により水量が調節され、余った分は南側の水路で渋谷川へとと流したそうです。
玉川上水の余った水を吐き出す水路。これが今回訪問の「玉川上水余水吐」です。
<新宿区の秘境>
玉川上水余水吐は暗渠化され、今では水面を見ることはできません。しかし何とも言えない美しさ。幅に制限があるものの、緑の草原のようです。
<新宿御苑の避難門>
柵の向こう側は新宿御苑です。ここはその非常口。勿論入れません。余水吐は新宿御苑の東側に沿って続いています。
<水門のなごり>
水門の跡ですね。ここに堰を設けたのでしょう。こういう痕跡に、人の思惑を感じる。城跡巡りで、予想もしていない遺構と出会った時のような、そんな感覚を味わいました。
<急斜面>
更に上流へ進むと、急斜面が見えました。あんな急な角度で水が流れ落ちていたのでしょうか?
<斜面上から撮影>
斜面を登り振り返って撮影
玉川上水余水吐は、自然の川の上流を更に掘削して築いたとされています。もしかしたら、この付近までが自然の川だったのでしょうか?人の手が加わるまでは、この付近で水が湧きだしていた?などなど、いろいろ考えさせられました(感想に過ぎません)。
まぁいずれにせよ、かつてここには水が流れていました。そして渋谷川へと注いでいた。新宿御苑(高遠藩主・内藤家屋敷跡)の池から流れ出る水も加わり、水嵩を増しながら渋谷方面へ流れていったのでしょう。暗渠化され、もうその姿を見ることはできませんが、開発から取り残されたようなこの空間に、そのなごりを感じることはできました。
ということで、玉川上水余水吐跡のご案内でした。最後までお読み頂き、ありがとうございます。
■お勧め本■
静かなブームになりつつある『暗渠』に関する本のご紹介です。当ブログでは下記をお勧め致します。
はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
:本田創/山英男/吉村生/三土たつお
<水路跡>
■玉川上水余水吐跡■ よすいばけ
当ブログでも何度かご紹介させて頂いている玉川上水。有名ですね。羽村から四谷大木戸(現在の四谷4丁目付近)まで約43キロ。標高差わずか100m程度しかないこの区間を、地面を掘るだけで繋いだ水路です。水は低い方へしか流れませんから、いかに困難なことか想像できますよね。
さて
羽村からはるばるやってきた多摩川の水は、四谷大木戸より先はどうなっていたのでしょう。
<四谷大木戸の碑>よつやおおきど
甲州街道に設けられた関所跡です。
玉川上水はこの付近まで。ここより先は、樋などを設けて江戸の町へ給水されました。貴重な水は四谷大木戸に設けられた水番所により水量が調節され、余った分は南側の水路で渋谷川へとと流したそうです。
玉川上水の余った水を吐き出す水路。これが今回訪問の「玉川上水余水吐」です。
<新宿区の秘境>
玉川上水余水吐は暗渠化され、今では水面を見ることはできません。しかし何とも言えない美しさ。幅に制限があるものの、緑の草原のようです。
<新宿御苑の避難門>
柵の向こう側は新宿御苑です。ここはその非常口。勿論入れません。余水吐は新宿御苑の東側に沿って続いています。
<水門のなごり>
水門の跡ですね。ここに堰を設けたのでしょう。こういう痕跡に、人の思惑を感じる。城跡巡りで、予想もしていない遺構と出会った時のような、そんな感覚を味わいました。
<急斜面>
更に上流へ進むと、急斜面が見えました。あんな急な角度で水が流れ落ちていたのでしょうか?
<斜面上から撮影>
斜面を登り振り返って撮影
玉川上水余水吐は、自然の川の上流を更に掘削して築いたとされています。もしかしたら、この付近までが自然の川だったのでしょうか?人の手が加わるまでは、この付近で水が湧きだしていた?などなど、いろいろ考えさせられました(感想に過ぎません)。
まぁいずれにせよ、かつてここには水が流れていました。そして渋谷川へと注いでいた。新宿御苑(高遠藩主・内藤家屋敷跡)の池から流れ出る水も加わり、水嵩を増しながら渋谷方面へ流れていったのでしょう。暗渠化され、もうその姿を見ることはできませんが、開発から取り残されたようなこの空間に、そのなごりを感じることはできました。
ということで、玉川上水余水吐跡のご案内でした。最後までお読み頂き、ありがとうございます。
■お勧め本■
静かなブームになりつつある『暗渠』に関する本のご紹介です。当ブログでは下記をお勧め致します。
はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
:本田創/山英男/吉村生/三土たつお
タグ:暗渠
2019年04月07日
若き剣豪 沖田総司終焉の地 (千駄ヶ谷)
つわものどもが夢の跡
新選組一番隊組長・沖田総司終焉の地を訪ねました。
<説明板>
剣豪としても知られる沖田総司。とても明るい性格だったようです。しかし若くして肺を患い、第一線から退いてここ千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅に匿われていました。
<説明板の背後>
説明板の後ろ側、これは堀跡?
かつての堀なら興味深いところですが、川の跡です。ここには旧渋谷川が流れていました。そして総司が身を寄せていた植木屋平五郎の家は、この付近、つまり渋谷川沿いだったようです。
<旧渋谷川>
明治以前の千駄ヶ谷ですからね。今と違って、のどかに川が流れる場所だったのでしょう。天才剣士・沖田総司が眺めたかもしれない川は、暗渠化されて姿を消しました。しかし残された区画には、人を和ませる空気がいまも漂っています。
総司は幕府の医師・松本良順の治療の甲斐も無く、植木屋平五郎宅でそのまま亡くなったと伝わります(慶応4年5月30日)。この時の年齢については諸説ありますが、いずれにせよ20代。新選組局長・近藤勇が、板橋の刑場で処刑されてから2ヶ月後のことでした。
周囲の者達の配慮で、師である近藤の死が総司に伝わることはありませんでした。それ故に、総司は死の間際まで近藤の安否を気にしていたそうです。
■訪問:沖田総司 逝去の地
(大京町交番の隣)
[新宿区大京町]28番地
お城巡りランキング
新選組一番隊組長・沖田総司終焉の地を訪ねました。
<説明板>
剣豪としても知られる沖田総司。とても明るい性格だったようです。しかし若くして肺を患い、第一線から退いてここ千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅に匿われていました。
<説明板の背後>
説明板の後ろ側、これは堀跡?
かつての堀なら興味深いところですが、川の跡です。ここには旧渋谷川が流れていました。そして総司が身を寄せていた植木屋平五郎の家は、この付近、つまり渋谷川沿いだったようです。
<旧渋谷川>
明治以前の千駄ヶ谷ですからね。今と違って、のどかに川が流れる場所だったのでしょう。天才剣士・沖田総司が眺めたかもしれない川は、暗渠化されて姿を消しました。しかし残された区画には、人を和ませる空気がいまも漂っています。
総司は幕府の医師・松本良順の治療の甲斐も無く、植木屋平五郎宅でそのまま亡くなったと伝わります(慶応4年5月30日)。この時の年齢については諸説ありますが、いずれにせよ20代。新選組局長・近藤勇が、板橋の刑場で処刑されてから2ヶ月後のことでした。
周囲の者達の配慮で、師である近藤の死が総司に伝わることはありませんでした。それ故に、総司は死の間際まで近藤の安否を気にしていたそうです。
■訪問:沖田総司 逝去の地
(大京町交番の隣)
[新宿区大京町]28番地
お城巡りランキング
2019年04月02日
星ヶ岡城跡とされる高台 (山王日枝神社)
つわものどもが夢の跡
星ヶ岡城跡と言われる赤坂の神社を訪ねました。
<土塁>
城跡巡りご先達の方々の情報によれば、こちらが遺構のようです。確かに土は盛ってあります。ただ城の土塁とみなしてよいのか?ちょっと実感が湧きませんでした。
<日枝神社>ひえじんじゃ
現地はとても有名な神社です。創建の時期は不明ですが、江戸城の築城者である太田道灌が、川越日枝神社を勧請したのに始まるとされています(1478年)。徳川家からも城の鎮守として崇敬され、1659年に当地へ移されました。
<境内の高低差>
由緒正しき立派な神社ですが、そういった内容は神社専門のブログにお任せするとして、ここでは高低差が伝わる画像だけにしました。高台にあり、中世の山城が築かれていても不思議ではない地形です。
日枝神社がこの地に移された直接の理由は、明暦の大火でした。江戸の大半を焼いた大規模火災ですね。その直後、「松平忠房の邸地が社地にあてられた」とされています。松平忠房は後に島原藩主となる人物。想像の域を出ませんが、土塁が松平忠房の屋敷のものということも考えられますね。繰り返しますが、盛ってある土を、外敵の侵入を防ぐための土塁と思いたい城好きの勝手な想像です。神社が鎮座する平らな区画の隅に、土塁は位置しています。防衛策として理に適っています。
さてさて
星ヶ岡城に関しては、いろんな情報が交錯していて、私にはちょっと整理しきれません。まぁ真相はわからないのですが、現地を見る限り「山城だったとしてもおかしくない場所」というふうに受け止め、探索を終わりにしました。ここ山王日枝神社は太田道灌や徳川家康ゆかりの神社。それだけでも来た甲斐はあります。
桜の時期、気持ちの良い探索となりました。
-------■ 星が丘城 ■-------
(詳細不明)
現 況:日枝神社
[東京都千代田区永田町]
お城巡りランキング
星ヶ岡城跡と言われる赤坂の神社を訪ねました。
<土塁>
城跡巡りご先達の方々の情報によれば、こちらが遺構のようです。確かに土は盛ってあります。ただ城の土塁とみなしてよいのか?ちょっと実感が湧きませんでした。
<日枝神社>ひえじんじゃ
現地はとても有名な神社です。創建の時期は不明ですが、江戸城の築城者である太田道灌が、川越日枝神社を勧請したのに始まるとされています(1478年)。徳川家からも城の鎮守として崇敬され、1659年に当地へ移されました。
<境内の高低差>
由緒正しき立派な神社ですが、そういった内容は神社専門のブログにお任せするとして、ここでは高低差が伝わる画像だけにしました。高台にあり、中世の山城が築かれていても不思議ではない地形です。
日枝神社がこの地に移された直接の理由は、明暦の大火でした。江戸の大半を焼いた大規模火災ですね。その直後、「松平忠房の邸地が社地にあてられた」とされています。松平忠房は後に島原藩主となる人物。想像の域を出ませんが、土塁が松平忠房の屋敷のものということも考えられますね。繰り返しますが、盛ってある土を、外敵の侵入を防ぐための土塁と思いたい城好きの勝手な想像です。神社が鎮座する平らな区画の隅に、土塁は位置しています。防衛策として理に適っています。
さてさて
星ヶ岡城に関しては、いろんな情報が交錯していて、私にはちょっと整理しきれません。まぁ真相はわからないのですが、現地を見る限り「山城だったとしてもおかしくない場所」というふうに受け止め、探索を終わりにしました。ここ山王日枝神社は太田道灌や徳川家康ゆかりの神社。それだけでも来た甲斐はあります。
桜の時期、気持ちの良い探索となりました。
-------■ 星が丘城 ■-------
(詳細不明)
現 況:日枝神社
[東京都千代田区永田町]
お城巡りランキング