<大イチョウ>
芝東照宮の大イチョウです。徳川家光が植樹したと伝わる神木です。説明板によれば推定樹齢は350年。それ以上というお話も耳にします。都の天然記念物に指定されています。
<芝東照宮>
芝東照宮は日光・久能山・上野と並ぶ四大東照宮のひとつとされ、もともとはかなり豪勢な造りでした。しかし東京大空襲により社殿は焼失。現在の社殿は1969年に再建されたものです。それだけ大きな被害を受けた時でも、御神木の大イチョウは無事でした。
強運の御神木
<御神木>
理屈で説明できない神域をここに感じてしまうのは、きっと私だけではないと思います。
<年末の銀杏>
私の訪問は12月も既に半ばを過ぎていましたが、まだまだ黄葉が見事
強運の大イチョウは、再建された東照宮のそばで毅然と佇んでいます。
■訪問:芝東照宮の大イチョウ
[東京都港区芝公園]4丁目8-10
■当ブログ過去記事■
芝東照宮については過去に投稿させて頂いております。ブログを始めた頃の拙い内容ですが、良かったら覗いてみて下さい。
『港区芝公園の東照宮』
(クリックで記事に移動します)
お城巡りランキング
■参考
現地説明板(東京都教育委員会)
2023年12月23日
2023年12月17日
上野東照宮 震災も戦火もくぐり抜けた強運の社殿
東照大権現とは、徳川家康が亡くなったあとに贈られた神号のこと。権現とは、神仏が人という仮の姿でこの世に現れる事を意味します。2023年の大河ドラマ「どうする家康」では、3代将軍となる家光の乳母・春日局が、家康を指して「神の君」と呼んでいました。その言葉通り、家康は死後に神として崇められました。
<上野東照宮>
東照宮は東照大権現、つまり神格化された徳川家康を祀る神社です。家康の死後、徳川家と関係の深い大名家が競うように建立したため、東照宮そのものは全国に多数あります。しかしここ上野の東照宮は、日光や久能山に準じる存在感を放っています。
上野東照宮の創建は1627年(寛永4年)。藤堂高虎が、自身の屋敷地に創建したことに始まります。藤堂高虎は築城の名手としても知られ、江戸城を造り直した徳川家の重臣でした。
<水舎門>
鳥居の先のこの門は、元々は社殿の水舎として使用されていたものとのこと
<五重塔>
境内から見える旧寛永寺五重塔。老中・土井利勝の寄進で東照宮の塔として建てられましたが、一旦焼失し、その後再建。明治の神仏分離により寛永寺に譲渡され、のちに都に寄贈されています。寛永寺といえば、将軍家が重用した天海僧正を開祖とする徳川家の菩提寺。上野東照宮はもともとは寛永寺の境内社でした。
<神楽殿>
<御水舎>
<鈴が吊るされた御水舎>
<銅燈籠>
全国の大名から奉納された銅燈籠
<唐門>
1651年造営の唐破風造り四脚門。重要文化財です。
そして
<社殿>
豪華な造りの社殿。この社殿は徳川家光が改築(1651年)したもので、国の重要文化財に指定されています。現在は家康、吉宗、慶喜が祀られていますが、創建当初の祭神は家康と天海僧正、そして藤堂高虎だったようです。
金色殿とも呼ばれています
見事な彫刻です
東京のど真ん中でありながら、戦災や震災でも崩壊を免れて今に至ります。凄いことですね。
強運の神が祀られている
そんな思いからでしょうか。都内屈指のパワースポットと言われています。
■訪問:上野東照宮
[東京都台東区上野公園]9-88
お城巡りランキング
■参考■
・・Wikipedia:2023/12/17
・現地説明板
・上野東照宮HP
https://www.uenotoshogu.com/
<上野東照宮>
東照宮は東照大権現、つまり神格化された徳川家康を祀る神社です。家康の死後、徳川家と関係の深い大名家が競うように建立したため、東照宮そのものは全国に多数あります。しかしここ上野の東照宮は、日光や久能山に準じる存在感を放っています。
上野東照宮の創建は1627年(寛永4年)。藤堂高虎が、自身の屋敷地に創建したことに始まります。藤堂高虎は築城の名手としても知られ、江戸城を造り直した徳川家の重臣でした。
<水舎門>
鳥居の先のこの門は、元々は社殿の水舎として使用されていたものとのこと
<五重塔>
境内から見える旧寛永寺五重塔。老中・土井利勝の寄進で東照宮の塔として建てられましたが、一旦焼失し、その後再建。明治の神仏分離により寛永寺に譲渡され、のちに都に寄贈されています。寛永寺といえば、将軍家が重用した天海僧正を開祖とする徳川家の菩提寺。上野東照宮はもともとは寛永寺の境内社でした。
<神楽殿>
<御水舎>
<鈴が吊るされた御水舎>
<銅燈籠>
全国の大名から奉納された銅燈籠
<唐門>
1651年造営の唐破風造り四脚門。重要文化財です。
そして
<社殿>
豪華な造りの社殿。この社殿は徳川家光が改築(1651年)したもので、国の重要文化財に指定されています。現在は家康、吉宗、慶喜が祀られていますが、創建当初の祭神は家康と天海僧正、そして藤堂高虎だったようです。
金色殿とも呼ばれています
見事な彫刻です
東京のど真ん中でありながら、戦災や震災でも崩壊を免れて今に至ります。凄いことですね。
強運の神が祀られている
そんな思いからでしょうか。都内屈指のパワースポットと言われています。
■訪問:上野東照宮
[東京都台東区上野公園]9-88
お城巡りランキング
■参考■
・・Wikipedia:2023/12/17
・現地説明板
・上野東照宮HP
https://www.uenotoshogu.com/
2023年12月10日
小峰城の富士見櫓(白河市)富士山は見えたのだろうか
<小峰城富士見櫓跡>
富士見?福島県からも富士山は見えるのだろうか?
小峰城探索中の素朴な疑問です。遠くを眺めましたが、見える気配はなし。天候にもよると受け止め、現地ではあっさり諦めました。ただブログをまとめるにあたり、どうしても気になって、調べることにしました。
<縄張り図>
こつらは白河駅近くの歩行者トンネル内に展示されているパネルです。小峰城の復元図ですね。本丸には小峰城のシンボルである三重櫓、そして城の要所要所に櫓が設けられています。問題の富士見櫓は本丸の南西角(この画像だと本丸の左上隅)です。富士見櫓という名は江戸城をはじめ、多くの城郭で耳にしますが、ここは福島県ですからね。
<本丸の南西角>
ここを登ってすぐが富士見櫓跡
<櫓跡の下>
本丸より一段下の帯曲輪から見るとこの石垣の上あたり
方角的には分かるが…
結論を言うと、ここ白河市より更に北でも富士山は見えるそうです。WIKIさんによれば、富士山が見える最北端は、同じく福島県の川俣町と飯舘村の堺にある花塚山とのこと。ただし、これは辛うじて確認できるというレベルのようです。
ということで
福島県南端の白河市から富士が見えても何ら不思議ではないというお話でした。日記が如き内容にお付き合い頂き、ありがとうございました。
<富士見櫓跡の石碑>
きっと見える、あるいは見えたのでしょう
■訪問:小峰城富士見櫓跡
[福島県白河市郭内]
■参考
・白河駅歩行者通路展示パネル
「復元図想定図(日本建築研究所蔵)」
・Wikipedia:2023/12/10
[補足]
今回はこちらの記事の追記として投稿しました。よかったら覗いてみて下さい。
『矢之門から帯曲輪へ』
(クリックで記事に移動します)
■当ブログ過去記事■
小峰城は2018年にも投稿しています。
『小峰城 戊辰150年の夏』
(クリックで記事に移動します)
富士見?福島県からも富士山は見えるのだろうか?
小峰城探索中の素朴な疑問です。遠くを眺めましたが、見える気配はなし。天候にもよると受け止め、現地ではあっさり諦めました。ただブログをまとめるにあたり、どうしても気になって、調べることにしました。
<縄張り図>
こつらは白河駅近くの歩行者トンネル内に展示されているパネルです。小峰城の復元図ですね。本丸には小峰城のシンボルである三重櫓、そして城の要所要所に櫓が設けられています。問題の富士見櫓は本丸の南西角(この画像だと本丸の左上隅)です。富士見櫓という名は江戸城をはじめ、多くの城郭で耳にしますが、ここは福島県ですからね。
<本丸の南西角>
ここを登ってすぐが富士見櫓跡
<櫓跡の下>
本丸より一段下の帯曲輪から見るとこの石垣の上あたり
方角的には分かるが…
結論を言うと、ここ白河市より更に北でも富士山は見えるそうです。WIKIさんによれば、富士山が見える最北端は、同じく福島県の川俣町と飯舘村の堺にある花塚山とのこと。ただし、これは辛うじて確認できるというレベルのようです。
ということで
福島県南端の白河市から富士が見えても何ら不思議ではないというお話でした。日記が如き内容にお付き合い頂き、ありがとうございました。
<富士見櫓跡の石碑>
きっと見える、あるいは見えたのでしょう
■訪問:小峰城富士見櫓跡
[福島県白河市郭内]
■参考
・白河駅歩行者通路展示パネル
「復元図想定図(日本建築研究所蔵)」
・Wikipedia:2023/12/10
[補足]
今回はこちらの記事の追記として投稿しました。よかったら覗いてみて下さい。
『矢之門から帯曲輪へ』
(クリックで記事に移動します)
■当ブログ過去記事■
小峰城は2018年にも投稿しています。
『小峰城 戊辰150年の夏』
(クリックで記事に移動します)
矢之門から帯曲輪へ(白河市)小峰城
<小峰城>こみねじょう
■2023年再訪■
白河市の小峰城跡は、2011年の東日本大震災により、石垣崩壊やひび割れなど多大な被害を受けました。深い歴史が刻まれ、盛岡城・若松城とともに東北三名城のひとつとされる名城です。そしてなにより、白河市のシンボルです。本格的な復旧工事が2013年から始まり、2018年に完了しました。
私の前回の訪問は2018年です。戊辰戦争から150年という年であり、復旧作業にも目途がたったという情報を得て、現地を訪問しました。城は見事に復旧していました。ただ、ちょっと早すぎたのか、城の裏側(北側)はまだ立ち入り禁止の状態でした。その時の続きのつもりで、今年再訪しました。
<城山公園入口>
現地到着
<城内案内>
今回はまず矢之門方面へ
<堀跡>
この景色は前回も見ていますが、二の丸の外側の曲輪跡と勘違いしていました。あとから縄張り図を見てびっくり。埋められた堀の跡です。
そして
<城門跡>
堀が途切れるところに城門があります。本丸からみて西側の矢之門の跡です
■小峰城の帯曲輪■
<矢之門跡>やのもん
ここから探索スタートです
<矢之門説明板>
矢之門が『本丸を囲む帯曲輪の北東側の出入口』であることが記されています。右下に再現イメージがありますね。今は石垣だけですが、こういう櫓門が設けられていたようです。
<三重櫓と帯曲輪>おびくるわ
実質天守の三重櫓。正面から見た美しさとは別の魅力です。こちら側から見上げると、妙な迫力がありますね。右に広がるのが今回のお目当ての帯曲輪です。まぁ私が攻め手なら、ここから直接本丸を攻めようとは思いません。
<石垣の説明板>
一部の石垣が、不定形で粗く割った面が表面になっていることから、江戸時代開始前後に築かれたと考えられるとのこと。
<石垣>
石垣の裾野の部分ですね。なるほど。勉強になりました。
<高低差>
平面図で見ればお隣の曲輪同士ですが、実際は凄い高低差。小峰城は標高約370mの丘に築かれた城。本丸を頂点とする山城です。
<帯曲輪>
そして広い帯曲輪。一段低くなった位置から、大切な本丸をととり囲んでいます。帯曲輪というと、主たる曲輪の補助的な施設で、形状は細長いというイメージですが、ここは違うようです。独立した別の曲輪に思えます。
<石垣の再生>
凄いなぁ…壮大な帯曲輪と石垣。前回この景色は見られなかったので、再訪して良かったと思える瞬間でした。
<修復に関する説明板>
石垣崩落したの様子が記されています。写真を見る限りかなり広範囲です。石材の個数だと1201個になるとのこと。
積み上げるだけでも大変ですが、ここ小峰城の修復では、石材に番号をつけ、伝統的な工法に従って石垣を造り直しました。それって、かなり地道な作業になりますよね。その経験値は、熊本地震で石垣が崩落した熊本城の修復作業にも活かされています。
<西側>
この付近も幅にして21mの崩落があったそうですが、見事に修復されています。
<南西角>
城の南西角に設けられた富士見櫓付近です。角を曲がると城の大手側(南側)になります。
<帯曲輪門>
帯曲輪はここまでです。画像は帯曲輪から内部へ通じる虎口に設けられた帯曲輪門跡。
ということで
小峰城の裏側を中心に、帯曲輪をゆっくり見学したというお話でした。
<城の正面>
あいかわらず見事な前門と三重櫓
小峰城は国の史跡に指定され、日本100名城のひとつにも選ばれています。
--------■ 小 峰 城 ■--------
別 名:白河小峰城 白河城
築城年:1340年
築城者:結城親朝
改修者:丹羽長重
城 主:結城氏・丹羽氏
榊原氏・松平氏 他
廃城年:1871年
[福島県白河市郭内]
■参考及び抜粋
・現地説明板(白河市)
・Wikipedia:2023/12/10
お城巡りランキング
■当ブログ過去記事■
2018年に訪問した時の投稿です。よかったら覗いてみて下さい。
<小峰城>
『小峰城 戊辰150年の夏』
(クリックで記事に移動します)
■2023年再訪■
白河市の小峰城跡は、2011年の東日本大震災により、石垣崩壊やひび割れなど多大な被害を受けました。深い歴史が刻まれ、盛岡城・若松城とともに東北三名城のひとつとされる名城です。そしてなにより、白河市のシンボルです。本格的な復旧工事が2013年から始まり、2018年に完了しました。
私の前回の訪問は2018年です。戊辰戦争から150年という年であり、復旧作業にも目途がたったという情報を得て、現地を訪問しました。城は見事に復旧していました。ただ、ちょっと早すぎたのか、城の裏側(北側)はまだ立ち入り禁止の状態でした。その時の続きのつもりで、今年再訪しました。
<城山公園入口>
現地到着
<城内案内>
今回はまず矢之門方面へ
<堀跡>
この景色は前回も見ていますが、二の丸の外側の曲輪跡と勘違いしていました。あとから縄張り図を見てびっくり。埋められた堀の跡です。
そして
<城門跡>
堀が途切れるところに城門があります。本丸からみて西側の矢之門の跡です
■小峰城の帯曲輪■
<矢之門跡>やのもん
ここから探索スタートです
<矢之門説明板>
矢之門が『本丸を囲む帯曲輪の北東側の出入口』であることが記されています。右下に再現イメージがありますね。今は石垣だけですが、こういう櫓門が設けられていたようです。
<三重櫓と帯曲輪>おびくるわ
実質天守の三重櫓。正面から見た美しさとは別の魅力です。こちら側から見上げると、妙な迫力がありますね。右に広がるのが今回のお目当ての帯曲輪です。まぁ私が攻め手なら、ここから直接本丸を攻めようとは思いません。
<石垣の説明板>
一部の石垣が、不定形で粗く割った面が表面になっていることから、江戸時代開始前後に築かれたと考えられるとのこと。
<石垣>
石垣の裾野の部分ですね。なるほど。勉強になりました。
<高低差>
平面図で見ればお隣の曲輪同士ですが、実際は凄い高低差。小峰城は標高約370mの丘に築かれた城。本丸を頂点とする山城です。
<帯曲輪>
そして広い帯曲輪。一段低くなった位置から、大切な本丸をととり囲んでいます。帯曲輪というと、主たる曲輪の補助的な施設で、形状は細長いというイメージですが、ここは違うようです。独立した別の曲輪に思えます。
<石垣の再生>
凄いなぁ…壮大な帯曲輪と石垣。前回この景色は見られなかったので、再訪して良かったと思える瞬間でした。
<修復に関する説明板>
石垣崩落したの様子が記されています。写真を見る限りかなり広範囲です。石材の個数だと1201個になるとのこと。
積み上げるだけでも大変ですが、ここ小峰城の修復では、石材に番号をつけ、伝統的な工法に従って石垣を造り直しました。それって、かなり地道な作業になりますよね。その経験値は、熊本地震で石垣が崩落した熊本城の修復作業にも活かされています。
<西側>
この付近も幅にして21mの崩落があったそうですが、見事に修復されています。
<南西角>
城の南西角に設けられた富士見櫓付近です。角を曲がると城の大手側(南側)になります。
<帯曲輪門>
帯曲輪はここまでです。画像は帯曲輪から内部へ通じる虎口に設けられた帯曲輪門跡。
ということで
小峰城の裏側を中心に、帯曲輪をゆっくり見学したというお話でした。
<城の正面>
あいかわらず見事な前門と三重櫓
小峰城は国の史跡に指定され、日本100名城のひとつにも選ばれています。
--------■ 小 峰 城 ■--------
別 名:白河小峰城 白河城
築城年:1340年
築城者:結城親朝
改修者:丹羽長重
城 主:結城氏・丹羽氏
榊原氏・松平氏 他
廃城年:1871年
[福島県白河市郭内]
■参考及び抜粋
・現地説明板(白河市)
・Wikipedia:2023/12/10
お城巡りランキング
■当ブログ過去記事■
2018年に訪問した時の投稿です。よかったら覗いてみて下さい。
<小峰城>
『小峰城 戊辰150年の夏』
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熊谷直実像(熊谷駅前)日ノ本一の剛の者
今回は、源平合戦などで活躍し、源頼朝から「日ノ本一の剛の者」と讃えられた武将の銅像の話です。
<熊谷直実像>くまがいなおざね
ここは熊谷駅の北側のロータリー広場です。
熊谷で下車するのは初めてではありませんし、この銅像の存在は以前から知っていました。ただ、ロータリーが広く遠くから眺めるだけだったので、わざわざ足を止めることはありませんでした。改めてよく見れば、かなり迫力のある銅像ですね。Wikiさんによればこの銅像は北村西望作とのこと。私は彫刻に詳しくないですが、あの有名な長崎平和祈念像を造った方といわれれば納得です。
<熊谷次郎直実>
熊谷直実は現在の熊谷市出身。通称は次郎。源頼朝の御家人となり、鎌倉幕府成立に大きく貢献しました。義経の奇襲として有名な「ひよどり越え逆落とし」にも、畠山重忠や和田義盛らとともに加わっています。この時、敵陣に一番乗りで突入したものの、死にかけたという猛者です。
銅像からも荒々しさが伝わってきます。
ただ、人情味溢れる逸話も伝わっています。
これも源氏と平氏が激突した「一ノ谷の戦い」でのこと。敗走する平家の武将を呼び止め、一騎討ちに至りますが、相手が我が子と歳の変わらぬ若武者であることに気付き、とどめを刺すのを躊躇います。状況からして討ち取らないわけにはいかず、涙ながらに若者の命を奪うことになりました。心の傷となり、この世の無常を感じたことが、のちの出家につながったと伝わります。
少し大ざっぱですが、こんな感じのお話で「平家物語」の中にも描かれています。儚さ、虚しさが漂う悲話ですね。直実が討ち取ったのは、平清盛の甥にあたる敦盛でした。
<熊谷駅北口ロータリー>
冷静沈着というより、人間味溢れる直情型の武将だったのかもしれません。根強い人気の理由かもしれませんね。
■訪問:熊谷直実像
[埼玉県熊谷市筑波]
お城巡りランキング
■参考及び抜粋
・Wikipedia:2023/12/10
・熊谷商工会議所HP
「熊谷次郎直実とは」
https://www.kumagayacci.or.jp/events_information/kumagai_jjiro/
<熊谷直実像>くまがいなおざね
ここは熊谷駅の北側のロータリー広場です。
熊谷で下車するのは初めてではありませんし、この銅像の存在は以前から知っていました。ただ、ロータリーが広く遠くから眺めるだけだったので、わざわざ足を止めることはありませんでした。改めてよく見れば、かなり迫力のある銅像ですね。Wikiさんによればこの銅像は北村西望作とのこと。私は彫刻に詳しくないですが、あの有名な長崎平和祈念像を造った方といわれれば納得です。
<熊谷次郎直実>
熊谷直実は現在の熊谷市出身。通称は次郎。源頼朝の御家人となり、鎌倉幕府成立に大きく貢献しました。義経の奇襲として有名な「ひよどり越え逆落とし」にも、畠山重忠や和田義盛らとともに加わっています。この時、敵陣に一番乗りで突入したものの、死にかけたという猛者です。
銅像からも荒々しさが伝わってきます。
ただ、人情味溢れる逸話も伝わっています。
これも源氏と平氏が激突した「一ノ谷の戦い」でのこと。敗走する平家の武将を呼び止め、一騎討ちに至りますが、相手が我が子と歳の変わらぬ若武者であることに気付き、とどめを刺すのを躊躇います。状況からして討ち取らないわけにはいかず、涙ながらに若者の命を奪うことになりました。心の傷となり、この世の無常を感じたことが、のちの出家につながったと伝わります。
少し大ざっぱですが、こんな感じのお話で「平家物語」の中にも描かれています。儚さ、虚しさが漂う悲話ですね。直実が討ち取ったのは、平清盛の甥にあたる敦盛でした。
<熊谷駅北口ロータリー>
冷静沈着というより、人間味溢れる直情型の武将だったのかもしれません。根強い人気の理由かもしれませんね。
■訪問:熊谷直実像
[埼玉県熊谷市筑波]
お城巡りランキング
■参考及び抜粋
・Wikipedia:2023/12/10
・熊谷商工会議所HP
「熊谷次郎直実とは」
https://www.kumagayacci.or.jp/events_information/kumagai_jjiro/
2023年12月03日
畠山館跡(深谷市)畠山重忠ゆかりの地
つわものどもが夢の跡
清廉潔白な人柄から坂東武士の鑑とまで称された畠山重忠の館跡を訪ねました。
<畠山重忠像>はたけやましげただ
馬を背負う畠山重忠の銅像です。騎馬像は時々見かけますが、馬を背負う像は珍しいですね。
■訪問記■
<永田駅>
最寄り駅は秩父鉄道の永田駅
<荒川の重忠橋>しげただばし
南へ向かって歩くと荒川に出ます。畠山重忠がそのまま橋の名になっています
ところで
<橋沿いの要塞>
何だかかなり重厚な施設がありますね
<六堰頭首工>ろくせきとうしゅこう
水路好きのためしばし見学。どうやら、荒川を一旦せき止めて、周辺の用水路に取り入れる仕組みになっているようです。歴史は古く、江戸時代初期に6つの堰を設け、それぞれの用水に水を供給したことに始まるとのこと。何も知らずに私が渡った重忠橋は、この施設とセット(管理橋)のようです。
再び南へ
<田畑>
先ほどの施設の恩恵を受けているのかもしれません。私の訪問は10月下旬。秋らしいのどかな景色が続きました
そして
<畠山重忠公史跡公園>
目的地に到着しました。入口付近から有名な畠山重忠の銅像が見えています。ここは畠山氏の館跡で、重忠とその家臣の墓と伝わる五輪塔があります。
<鵯越の逆落>ひよどりごえのさかさおとし
訪問した時間が良くなかったのか逆光でうまく撮れず。冒頭の画像はちょっと画像を明るく加工しました。愛馬・三日月を背負う畠山重忠の雄姿です。源義経の奇襲で知られる「鵯越の逆落」の際に、馬が怪我をしないように背負って崖を降りたという伝説にちなんでいます。
この話を聞いた時、いくらなんでも馬を担ぐのは無理なので、それくらい強靭な武将だったのだろうと受け止めました。日本在来馬がいくら小さめでも、裕に300sは越えますからね。
<三日月と重忠>
ただ、この担ぎ方なら何とかできたかもしれませんね?そのまま背負うのではなく、前足の負担を軽くしてやって崖での歩行を楽にしてあげる。それでも、そうとう足腰が丈夫でないとできませんが…。
馬を粗末に扱う武士もいたかもしれませんが、「坂東武士の鑑」がそんなことをするはずはありません。そういう人柄だらこそ、愛馬を担いだという話が語り継がれるのかもしれません。
<石碑と公園>
重忠が生まれたとされる畠山館跡は、市民のための公園として整備されています。右手の石碑は、奥が史蹟保存碑、手前は没後八百年慰霊碑と刻まれています。
<公園奥>
重忠の館といえば、現在の嵐山町の菅谷館が有名ですね。ここ深谷市(旧川本町)の館跡は、菅谷へ移る前の拠点だったようです。
<畠山重忠と家人の墓>
中には五輪塔が六基ならんでいます。中央のひときわ大きな五輪塔が重忠のものとされています。
<板石塔婆>いたいしとうば
こちらの説明板によれば、畠山重忠の百年忌に建立された板碑のようです。重忠の生きざまは百年たっても霞むことがなかった。私はそう受けとめました。
■つわものどもが夢の跡■
秩父平氏の嫡流である畠山重忠は、武蔵国を代表する知勇兼備の武将でした。鎌倉幕府の有力御家人として活躍しましたが、源頼朝の亡き後、執権・北条時政の謀略により謀反の疑いをかけられ、一族ともども滅ぼされました。ここ畠山の地で生を受けたのが1164年、二俣川(横浜市旭区)で亡くなったのが1205年でした(享年42)。
<重忠の幟>
盛土したと思われる僅かな起伏を除くと、館跡に遺構らしきものは残されていません。ただ畠山重忠ゆかりの地であることは存分に味わえました。
<坂東武士の鑑>
埼玉県の英雄です
■訪問:畠山館跡
(畠山重忠公史跡公園)
[埼玉県深谷市畠山]510-2
お城巡りランキング
■出典及び抜粋■
・現地説明板(深谷市)
・現地説明板(埼玉県)
・深谷市観光協会HP
「畠山重忠公史跡公園」
http://www.fukaya-ta.com/midokoro/shigetada/
・埼玉県HP
「六堰頭首工」
> 六堰頭首工って何?
https://www.pref.saitama.lg.jp/b0906/rokuseki/whatsrokuseki.html
清廉潔白な人柄から坂東武士の鑑とまで称された畠山重忠の館跡を訪ねました。
<畠山重忠像>はたけやましげただ
馬を背負う畠山重忠の銅像です。騎馬像は時々見かけますが、馬を背負う像は珍しいですね。
■訪問記■
<永田駅>
最寄り駅は秩父鉄道の永田駅
<荒川の重忠橋>しげただばし
南へ向かって歩くと荒川に出ます。畠山重忠がそのまま橋の名になっています
ところで
<橋沿いの要塞>
何だかかなり重厚な施設がありますね
<六堰頭首工>ろくせきとうしゅこう
水路好きのためしばし見学。どうやら、荒川を一旦せき止めて、周辺の用水路に取り入れる仕組みになっているようです。歴史は古く、江戸時代初期に6つの堰を設け、それぞれの用水に水を供給したことに始まるとのこと。何も知らずに私が渡った重忠橋は、この施設とセット(管理橋)のようです。
再び南へ
<田畑>
先ほどの施設の恩恵を受けているのかもしれません。私の訪問は10月下旬。秋らしいのどかな景色が続きました
そして
<畠山重忠公史跡公園>
目的地に到着しました。入口付近から有名な畠山重忠の銅像が見えています。ここは畠山氏の館跡で、重忠とその家臣の墓と伝わる五輪塔があります。
<鵯越の逆落>ひよどりごえのさかさおとし
訪問した時間が良くなかったのか逆光でうまく撮れず。冒頭の画像はちょっと画像を明るく加工しました。愛馬・三日月を背負う畠山重忠の雄姿です。源義経の奇襲で知られる「鵯越の逆落」の際に、馬が怪我をしないように背負って崖を降りたという伝説にちなんでいます。
この話を聞いた時、いくらなんでも馬を担ぐのは無理なので、それくらい強靭な武将だったのだろうと受け止めました。日本在来馬がいくら小さめでも、裕に300sは越えますからね。
<三日月と重忠>
ただ、この担ぎ方なら何とかできたかもしれませんね?そのまま背負うのではなく、前足の負担を軽くしてやって崖での歩行を楽にしてあげる。それでも、そうとう足腰が丈夫でないとできませんが…。
馬を粗末に扱う武士もいたかもしれませんが、「坂東武士の鑑」がそんなことをするはずはありません。そういう人柄だらこそ、愛馬を担いだという話が語り継がれるのかもしれません。
<石碑と公園>
重忠が生まれたとされる畠山館跡は、市民のための公園として整備されています。右手の石碑は、奥が史蹟保存碑、手前は没後八百年慰霊碑と刻まれています。
<公園奥>
重忠の館といえば、現在の嵐山町の菅谷館が有名ですね。ここ深谷市(旧川本町)の館跡は、菅谷へ移る前の拠点だったようです。
<畠山重忠と家人の墓>
中には五輪塔が六基ならんでいます。中央のひときわ大きな五輪塔が重忠のものとされています。
<板石塔婆>いたいしとうば
こちらの説明板によれば、畠山重忠の百年忌に建立された板碑のようです。重忠の生きざまは百年たっても霞むことがなかった。私はそう受けとめました。
■つわものどもが夢の跡■
秩父平氏の嫡流である畠山重忠は、武蔵国を代表する知勇兼備の武将でした。鎌倉幕府の有力御家人として活躍しましたが、源頼朝の亡き後、執権・北条時政の謀略により謀反の疑いをかけられ、一族ともども滅ぼされました。ここ畠山の地で生を受けたのが1164年、二俣川(横浜市旭区)で亡くなったのが1205年でした(享年42)。
<重忠の幟>
盛土したと思われる僅かな起伏を除くと、館跡に遺構らしきものは残されていません。ただ畠山重忠ゆかりの地であることは存分に味わえました。
<坂東武士の鑑>
埼玉県の英雄です
■訪問:畠山館跡
(畠山重忠公史跡公園)
[埼玉県深谷市畠山]510-2
お城巡りランキング
■出典及び抜粋■
・現地説明板(深谷市)
・現地説明板(埼玉県)
・深谷市観光協会HP
「畠山重忠公史跡公園」
http://www.fukaya-ta.com/midokoro/shigetada/
・埼玉県HP
「六堰頭首工」
> 六堰頭首工って何?
https://www.pref.saitama.lg.jp/b0906/rokuseki/whatsrokuseki.html
2023年11月25日
金沢城のなごり
つわものどもが夢の跡
加賀百万石の居城を訪ねました。
<金沢城>
ひときわ目をひく五十間長屋
■ 城のはじまり ■
金沢城といえば加賀前田家の居城ですね。ただ、城が築かれた丘の軍事利用は、それよりずっと以前、加賀一向一揆の拠点が築かれた時(1546年)から既に始まっていました。あくまで浄土真宗の寺院(金沢御堂)でしたが、二本の川に挟まれた台地上という地の利に加えて、堀や石垣を廻らすことで要塞と化しており、ほぼ「城」だったと伝わります。
このほぼ「城」の寺院は、織田信長の命を受けた柴田勝家率いる軍によって攻略され、跡地に、勝家配下の佐久間盛政が新たに城を築きました(1580年)。これが金沢城のはじまりです。
<甚右衛門坂>じんえもんざか
金沢城と城下をつなぐ坂道です。織田軍が金沢御堂に攻めかかった際、一揆側の浪士・平野甚右衛門が坂道で奮闘して討死を遂げたことから「甚右衛門坂」と呼ばれています。一揆側のヒーローの名が坂の名として残っている。壮絶な歴史を感じさせますね。
<本丸付近の石垣>
加賀一向一揆の拠点はその後の金沢城の本丸付近だったと考えられています
■前田利家の居城■
金沢を任された佐久間盛政でしたが、織田信長の死後、柴田勝家が羽柴秀吉と争った賤ヶ岳の戦い(1583年)で敗れ、斬首となりました。代わって能登から金沢に入ったのが前田利家でした。
利家は当初は柴田勝家に従っていましたが、賤ヶ岳の戦いにおいては、布陣しながら出撃せず。戦わないで帰ってしまい、間接的に秀吉の勝利に貢献しています。利家が秀吉に降伏するのは後の話になりますが、既に秀吉と通じていた、あるいは迷う状態に追い込まれていたようです。
いずれにせよ、利家がこの時に秀吉との対立を回避しなければ、のちの前田家の繁栄はありませんでした。
<尾上神社の前田利家像>
利家が赤母衣衆として活躍した頃の姿ですね。血気盛んだった若武者も、金沢城に入った時には既に40歳を越えていました。最後は知恵を使って生き残った感じですね。ここ尾上神社は、もともとは金沢城の出丸です。そういう意味では、かつての城内で撮影したことになります。ちなみに、金沢城と兼六園の間の道には、もう少し大人びた利家の像が立っています(私は撮影できませんでした)。
<二の丸の石垣と水堀>
金沢城に天守はありませんでした。正確に言うと、利家の時代に5重6階の天守が築かれたのですが、落雷が原因で焼失(1602年)。以後は再建されませんでした。幕府への遠慮と思われます。時を経た1759年の火災をきっかけに、金沢城の中枢は本丸から二の丸へと移されました。幕末の金沢城の縄張り図を見ると、二の丸が一番充実しています。
■前田家の金沢城■
城主となった前田利家は改修工事に着手し、城を拡張しました(先述の通り天守も築きました)。まだ戦国時代の真っただ中です。念には念をいれた強固な城造りだったことでしょう。築城の名手とされる高山右近を招いて、指導を仰いだとも伝えられています。利家は金沢城を尾山城と改名しましたが、あまり普及せず、のちに元の名に戻りました。
<大手堀>
金沢城の大手口は北側でした。堀の多くは埋められてしまいましたが、ここは形を残しています。
<新丸>
大手堀の脇から坂を登ると、まず新丸と呼ばれる曲輪に出ます。ここは利家のあとを継いだ利長が拡張した曲輪です。
<三の丸石垣と河北門>
新丸より一段上にあるのが三の丸。金沢城が丘城であることを改めてと実感するポイントです。守りが強固なのはここからです。
<河北門>かほくもん
実質の大手門とも呼ばれる正面の出入り口。構造はいわゆる枡形門で、二重の門と、壁に囲まれた方形の区画がセットになっています。
<五十間長屋>ごじっけんながや
金沢城のシンボルのようにそびえ立つ五十間長屋。倉庫と防壁を兼ねた建物を金沢城では長屋と呼びます。
<橋爪門>はしずめもん
橋爪門も構造は枡形門です。金沢城は1759年(宝暦9)の火災で大打撃を受け、その後の再建では二の丸を城の中核とする整備が行われました。この門はその出入り口であり、金沢城で最も格式の高い門でした。
<橋爪門続櫓>はしづめもんつづきやぐら
一の門を見下ろす位置にある櫓も立派です。橋爪門を通って城の中枢へ向かう人を監視するための櫓です。
<石川門>いしかわもん
石川郡の方を向いていたので石川門と呼ばれたそうです。石川郡はそのまま県名となっていますね。1759年(宝暦9年)に焼失したものの1788年(天明8年)には再建。金沢城三御門のうち、河北門と橋爪門は復元ですが、石川門は江戸時代に建てられた門が現存しており、国の重要文化財に指定されています。ここも門の型式はいわゆる桝形門。兼六園側から金沢城公園に入ろうとするとまるで玄関口のようですが、城が現役の頃は搦手門、つまり大手門の逆で裏口にあたる門でした。
<三十間長屋>さんじっけんながや
本丸附段のやや地味な区画にひっそりと佇む三十間長屋。石川門と同じく国の重要文化財に指定されています。
<百間堀跡>ひゃっけんぼり
埋められて姿を消しましたが、こちらは金沢城最大の外堀跡です。城は前田利家・利長により強固な城に改修されますが、この堀は、築城者である佐久間盛政の時代に既に開削が始まっていたそうです。金沢城にとっていかに克服すべき場所だったかが伝わってきますね。丘伝いに攻め込まれないよう、台地を断ち切るようにして設けた堀でした。
<兼六園>けんろくえん
堀を挟んで金沢城に隣接する兼六園。こちらは第五代藩主の前田綱紀が造った蓮池庭から始まり、以降の藩主たちにより設備されていった庭園です。あくまで庭園ですので、城を拡張したことにはなりません。ただ管理しているのは加賀藩であり、本部は金沢城です。外敵に攻められることを全く想定していないとは考えにくいですね。
■つわものどもが夢の跡■
加賀藩の藩祖・前田利家以降、長男で初代藩主となった利長から最後の藩主・慶寧(よしやす:13代)まで、金沢城は約260年にわたって加賀藩主前田家の居城であり続けました。戦国時代に名をあげた外様大名家が、明治までずっと同じ場所で存続したわけです(前田家はその後も続きます)。これは凄いことですね。
<つわものどもが夢の跡>
兼六園から見た石川門
金沢を任され、子孫の繁栄を願ってこの世を去った藩祖・前田利家も、200年以上先のことまでは考えていなかったかもしれませんね。
--------■ 金沢城 ■--------
別 称:尾山城 尾上城
築城年:1580年(天正8)
築城者:佐久間盛政
城 主:佐久間氏・前田氏
改修者:前田利家・利長
廃城年:1871年(明治4)
現 況:金沢城公園
[石川県金沢市丸の内]1-1
お城巡りランキング
■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/11/25
・金沢城公園HP
https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/kahoku_gate/
https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/
・石川県HP
https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kenzoubutu/9.html
加賀百万石の居城を訪ねました。
<金沢城>
ひときわ目をひく五十間長屋
■ 城のはじまり ■
金沢城といえば加賀前田家の居城ですね。ただ、城が築かれた丘の軍事利用は、それよりずっと以前、加賀一向一揆の拠点が築かれた時(1546年)から既に始まっていました。あくまで浄土真宗の寺院(金沢御堂)でしたが、二本の川に挟まれた台地上という地の利に加えて、堀や石垣を廻らすことで要塞と化しており、ほぼ「城」だったと伝わります。
このほぼ「城」の寺院は、織田信長の命を受けた柴田勝家率いる軍によって攻略され、跡地に、勝家配下の佐久間盛政が新たに城を築きました(1580年)。これが金沢城のはじまりです。
<甚右衛門坂>じんえもんざか
金沢城と城下をつなぐ坂道です。織田軍が金沢御堂に攻めかかった際、一揆側の浪士・平野甚右衛門が坂道で奮闘して討死を遂げたことから「甚右衛門坂」と呼ばれています。一揆側のヒーローの名が坂の名として残っている。壮絶な歴史を感じさせますね。
<本丸付近の石垣>
加賀一向一揆の拠点はその後の金沢城の本丸付近だったと考えられています
■前田利家の居城■
金沢を任された佐久間盛政でしたが、織田信長の死後、柴田勝家が羽柴秀吉と争った賤ヶ岳の戦い(1583年)で敗れ、斬首となりました。代わって能登から金沢に入ったのが前田利家でした。
利家は当初は柴田勝家に従っていましたが、賤ヶ岳の戦いにおいては、布陣しながら出撃せず。戦わないで帰ってしまい、間接的に秀吉の勝利に貢献しています。利家が秀吉に降伏するのは後の話になりますが、既に秀吉と通じていた、あるいは迷う状態に追い込まれていたようです。
いずれにせよ、利家がこの時に秀吉との対立を回避しなければ、のちの前田家の繁栄はありませんでした。
<尾上神社の前田利家像>
利家が赤母衣衆として活躍した頃の姿ですね。血気盛んだった若武者も、金沢城に入った時には既に40歳を越えていました。最後は知恵を使って生き残った感じですね。ここ尾上神社は、もともとは金沢城の出丸です。そういう意味では、かつての城内で撮影したことになります。ちなみに、金沢城と兼六園の間の道には、もう少し大人びた利家の像が立っています(私は撮影できませんでした)。
<二の丸の石垣と水堀>
金沢城に天守はありませんでした。正確に言うと、利家の時代に5重6階の天守が築かれたのですが、落雷が原因で焼失(1602年)。以後は再建されませんでした。幕府への遠慮と思われます。時を経た1759年の火災をきっかけに、金沢城の中枢は本丸から二の丸へと移されました。幕末の金沢城の縄張り図を見ると、二の丸が一番充実しています。
■前田家の金沢城■
城主となった前田利家は改修工事に着手し、城を拡張しました(先述の通り天守も築きました)。まだ戦国時代の真っただ中です。念には念をいれた強固な城造りだったことでしょう。築城の名手とされる高山右近を招いて、指導を仰いだとも伝えられています。利家は金沢城を尾山城と改名しましたが、あまり普及せず、のちに元の名に戻りました。
<大手堀>
金沢城の大手口は北側でした。堀の多くは埋められてしまいましたが、ここは形を残しています。
<新丸>
大手堀の脇から坂を登ると、まず新丸と呼ばれる曲輪に出ます。ここは利家のあとを継いだ利長が拡張した曲輪です。
<三の丸石垣と河北門>
新丸より一段上にあるのが三の丸。金沢城が丘城であることを改めてと実感するポイントです。守りが強固なのはここからです。
<河北門>かほくもん
実質の大手門とも呼ばれる正面の出入り口。構造はいわゆる枡形門で、二重の門と、壁に囲まれた方形の区画がセットになっています。
<五十間長屋>ごじっけんながや
金沢城のシンボルのようにそびえ立つ五十間長屋。倉庫と防壁を兼ねた建物を金沢城では長屋と呼びます。
<橋爪門>はしずめもん
橋爪門も構造は枡形門です。金沢城は1759年(宝暦9)の火災で大打撃を受け、その後の再建では二の丸を城の中核とする整備が行われました。この門はその出入り口であり、金沢城で最も格式の高い門でした。
<橋爪門続櫓>はしづめもんつづきやぐら
一の門を見下ろす位置にある櫓も立派です。橋爪門を通って城の中枢へ向かう人を監視するための櫓です。
<石川門>いしかわもん
石川郡の方を向いていたので石川門と呼ばれたそうです。石川郡はそのまま県名となっていますね。1759年(宝暦9年)に焼失したものの1788年(天明8年)には再建。金沢城三御門のうち、河北門と橋爪門は復元ですが、石川門は江戸時代に建てられた門が現存しており、国の重要文化財に指定されています。ここも門の型式はいわゆる桝形門。兼六園側から金沢城公園に入ろうとするとまるで玄関口のようですが、城が現役の頃は搦手門、つまり大手門の逆で裏口にあたる門でした。
<三十間長屋>さんじっけんながや
本丸附段のやや地味な区画にひっそりと佇む三十間長屋。石川門と同じく国の重要文化財に指定されています。
<百間堀跡>ひゃっけんぼり
埋められて姿を消しましたが、こちらは金沢城最大の外堀跡です。城は前田利家・利長により強固な城に改修されますが、この堀は、築城者である佐久間盛政の時代に既に開削が始まっていたそうです。金沢城にとっていかに克服すべき場所だったかが伝わってきますね。丘伝いに攻め込まれないよう、台地を断ち切るようにして設けた堀でした。
<兼六園>けんろくえん
堀を挟んで金沢城に隣接する兼六園。こちらは第五代藩主の前田綱紀が造った蓮池庭から始まり、以降の藩主たちにより設備されていった庭園です。あくまで庭園ですので、城を拡張したことにはなりません。ただ管理しているのは加賀藩であり、本部は金沢城です。外敵に攻められることを全く想定していないとは考えにくいですね。
■つわものどもが夢の跡■
加賀藩の藩祖・前田利家以降、長男で初代藩主となった利長から最後の藩主・慶寧(よしやす:13代)まで、金沢城は約260年にわたって加賀藩主前田家の居城であり続けました。戦国時代に名をあげた外様大名家が、明治までずっと同じ場所で存続したわけです(前田家はその後も続きます)。これは凄いことですね。
<つわものどもが夢の跡>
兼六園から見た石川門
金沢を任され、子孫の繁栄を願ってこの世を去った藩祖・前田利家も、200年以上先のことまでは考えていなかったかもしれませんね。
--------■ 金沢城 ■--------
別 称:尾山城 尾上城
築城年:1580年(天正8)
築城者:佐久間盛政
城 主:佐久間氏・前田氏
改修者:前田利家・利長
廃城年:1871年(明治4)
現 況:金沢城公園
[石川県金沢市丸の内]1-1
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■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/11/25
・金沢城公園HP
https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/kahoku_gate/
https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/
・石川県HP
https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kenzoubutu/9.html
2023年11月23日
河北門(金沢城)本格的な防衛ラインの枡形門
広大な金沢城にあって、ここより先が本格的な防衛施設と実感する場所があります。
<河北門>かほくもん
三の丸の虎口に設けられた河北門です。石川門、橋爪門と共に、金沢城三御門と呼ばれる重要な城門です。
金沢城は北側が大手口です。そこから金沢城公園へ入って「いよいよ金沢城に入ったなぁ」と実感するのが新丸と呼ばれる広々とした曲輪です。
<新丸広場>しんまる
広いです。この曲輪は、前田利長が城を拡張した時に造られました。現在は広場として設備されています。もともとは藩の重臣たちが屋敷を構える区画でしたが、のちには細工所が設けられ、職人たちによって甲冑や武器類の製造・修理などが行われていたとのこと。重臣たちの屋敷は徐々に城下へと移ったようです。
<新丸説明板>
今でこそ真っ平ですが、昔は南北に伸びる堀があり、大手堀ともつながっていたのですね。また、この説明によれば、建築に関わる仕事や、藩士たちの食事の支度をする仕事など、区画ごとの役割があったようです。
さて
新丸も城内であることに間違いありませんが「これが金沢城だぁ」と強く意識するのはこの先、三の丸の入り口からになります。
<三の丸の石垣>
石垣の上が三の丸になります。新丸も周辺の平地よりは高い場所に位置していますが、三の丸はもっともっと上。金沢城が丘城であることを実感します。
そして
<河北坂>
丘へ続く坂道。坂の上の門が三の丸の正面玄関である河北門になります。河北門へ通じる道は他にありませんので、大軍で攻め寄せても、ここより先はこの坂の幅に合わせ、縦長になって進むしかありませんね。そして、攻め手を待ち受ける河北門の構造は、いわゆる枡形門。二重の門と、壁に囲まれた方形の区画がセットになった守りの堅い城門となっています。
<一の門>
最初の門は高麗門。高すぎず屋根が小さめなのは、城内からの死角を減らすためです
<枡形>ますがた
一の門を通過すれば壁に囲まれた区画。まるで巨大な枡の中にいるようです。枡形門と呼ばれる所以ですね。一の門を潜ってこの区画を左に曲がれば次の門です
<二の門>
二の目の門は上部が櫓になっている櫓門。一の門と違ってこちらは大きいです。これ以上は通さないという構えですね
<枡形の出口(二の門)>
枡形を出て二の門を撮影。私はすんなり通り抜けましたが、枡形門は侵入者を拒むために考案された城門です。私が攻め手で、仮に一の門を突破できても、閉ざされた二の門の前で勢いを削がれ、自由の利かない枡形のなかで仕留められていたでしょう。いや、一の門の奥が枡形と分かった時点で、逃げ帰るかもしれません。死地に飛び込むようなものですからね。
<河北門二の門内部>
二の門内部が一般公開されています。新品?と思わせるような綺麗さです
<二の門断面図>
土台の大柱や二階中央の柱はケヤキが使われているようです。私は構造を何となく納得したという程度。建築に精通した方なら、もっと楽しめたのかもしれません
<復元門>
河北門は江戸時代に復元したものが明治まで残っていましたが撤去されてしまった(1882年)ため、130年ぶりに復元したものです。模擬ではなく、あくまで調査結果を踏まえた上での再構築です。中央の城門の奥(左手)の建物はご紹介した二の門の櫓です。一方、手前(右手)は建物ではなく土塀に出窓(出し)を付けた造りで、内側は城兵が待機できる小規模な区画になっています。もともと(宝暦の大火より前)は2 層の櫓があったせいか「ニラミ櫓台」と呼ばれています。迫力がありますね。
ところで
<河北門付近の石垣>
ややマニアックな話になりますが、河北門付近の石垣は場所によって雰囲気が異なりますよね。石の加工具合で分類すると、少なくとも3種類あります[色分けさせて頂きました]。土台となっている下の方[紫]は自然の石をそのまま積み上げる「野面積み」、城門近く[青]は四角に整形した石を密着させて積む「切込み接ぎ」、そして右隣[オレンジ]は、石の角や表面をたたいて平たくし、なるべく隙間の無いように積む「打込み接ぎ」です。城好きの人はこんなところも見ています。
<防衛ライン>
三の丸は眼下に広がる新丸とは明らかに一線を画す曲輪となります。右手の池はもともと水堀でした。金沢城は城下町全体を堀などで囲う総構えの構造ですが、城そのものの防衛ラインは、ここから始まるという印象を受けました。河北門はその出入り口に設けられた城門です。
■訪問:金沢城河北門
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]
お城巡りランキング
■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/11/23
・金沢城公園HP
https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/kahoku_gate/
<河北門>かほくもん
三の丸の虎口に設けられた河北門です。石川門、橋爪門と共に、金沢城三御門と呼ばれる重要な城門です。
金沢城は北側が大手口です。そこから金沢城公園へ入って「いよいよ金沢城に入ったなぁ」と実感するのが新丸と呼ばれる広々とした曲輪です。
<新丸広場>しんまる
広いです。この曲輪は、前田利長が城を拡張した時に造られました。現在は広場として設備されています。もともとは藩の重臣たちが屋敷を構える区画でしたが、のちには細工所が設けられ、職人たちによって甲冑や武器類の製造・修理などが行われていたとのこと。重臣たちの屋敷は徐々に城下へと移ったようです。
<新丸説明板>
今でこそ真っ平ですが、昔は南北に伸びる堀があり、大手堀ともつながっていたのですね。また、この説明によれば、建築に関わる仕事や、藩士たちの食事の支度をする仕事など、区画ごとの役割があったようです。
さて
新丸も城内であることに間違いありませんが「これが金沢城だぁ」と強く意識するのはこの先、三の丸の入り口からになります。
<三の丸の石垣>
石垣の上が三の丸になります。新丸も周辺の平地よりは高い場所に位置していますが、三の丸はもっともっと上。金沢城が丘城であることを実感します。
そして
<河北坂>
丘へ続く坂道。坂の上の門が三の丸の正面玄関である河北門になります。河北門へ通じる道は他にありませんので、大軍で攻め寄せても、ここより先はこの坂の幅に合わせ、縦長になって進むしかありませんね。そして、攻め手を待ち受ける河北門の構造は、いわゆる枡形門。二重の門と、壁に囲まれた方形の区画がセットになった守りの堅い城門となっています。
<一の門>
最初の門は高麗門。高すぎず屋根が小さめなのは、城内からの死角を減らすためです
<枡形>ますがた
一の門を通過すれば壁に囲まれた区画。まるで巨大な枡の中にいるようです。枡形門と呼ばれる所以ですね。一の門を潜ってこの区画を左に曲がれば次の門です
<二の門>
二の目の門は上部が櫓になっている櫓門。一の門と違ってこちらは大きいです。これ以上は通さないという構えですね
<枡形の出口(二の門)>
枡形を出て二の門を撮影。私はすんなり通り抜けましたが、枡形門は侵入者を拒むために考案された城門です。私が攻め手で、仮に一の門を突破できても、閉ざされた二の門の前で勢いを削がれ、自由の利かない枡形のなかで仕留められていたでしょう。いや、一の門の奥が枡形と分かった時点で、逃げ帰るかもしれません。死地に飛び込むようなものですからね。
<河北門二の門内部>
二の門内部が一般公開されています。新品?と思わせるような綺麗さです
<二の門断面図>
土台の大柱や二階中央の柱はケヤキが使われているようです。私は構造を何となく納得したという程度。建築に精通した方なら、もっと楽しめたのかもしれません
<復元門>
河北門は江戸時代に復元したものが明治まで残っていましたが撤去されてしまった(1882年)ため、130年ぶりに復元したものです。模擬ではなく、あくまで調査結果を踏まえた上での再構築です。中央の城門の奥(左手)の建物はご紹介した二の門の櫓です。一方、手前(右手)は建物ではなく土塀に出窓(出し)を付けた造りで、内側は城兵が待機できる小規模な区画になっています。もともと(宝暦の大火より前)は2 層の櫓があったせいか「ニラミ櫓台」と呼ばれています。迫力がありますね。
ところで
<河北門付近の石垣>
ややマニアックな話になりますが、河北門付近の石垣は場所によって雰囲気が異なりますよね。石の加工具合で分類すると、少なくとも3種類あります[色分けさせて頂きました]。土台となっている下の方[紫]は自然の石をそのまま積み上げる「野面積み」、城門近く[青]は四角に整形した石を密着させて積む「切込み接ぎ」、そして右隣[オレンジ]は、石の角や表面をたたいて平たくし、なるべく隙間の無いように積む「打込み接ぎ」です。城好きの人はこんなところも見ています。
<防衛ライン>
三の丸は眼下に広がる新丸とは明らかに一線を画す曲輪となります。右手の池はもともと水堀でした。金沢城は城下町全体を堀などで囲う総構えの構造ですが、城そのものの防衛ラインは、ここから始まるという印象を受けました。河北門はその出入り口に設けられた城門です。
■訪問:金沢城河北門
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]
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■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/11/23
・金沢城公園HP
https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/kahoku_gate/
2023年11月19日
雁木坂跡(金沢城)橋爪門から御殿へ向かう石段のなごり
<雁木坂>がんぎざか
二の丸の正門である橋爪門を通り抜けたところで撮影しました。
<説明板>
城にはありがちな段差と思って素通りしそうになりましたが、説明板が設置されていたため足が止まりました。
<説明板拡大>
以下は説明文です[『』内原文]。
『このあたりには、橋爪門続櫓に接する雁木坂と呼ばれる石段がありました。橋爪門二の門を抜けると御番所と石垣台に仕切られた広場があり、そこから右手の雁木坂を登ると、石畳、そして二の丸御殿の玄関へ至ります。』
城の中核となっていた二の丸御殿へ向かうには、橋爪門を潜ったあと、右手へ曲がって雁木坂を登るという動線となっていたわけですね。雁木は雁の群れが斜めに並んで飛ぶ様子からきた言葉。傾斜に沿うよう規則正しい石段が設けられていたのでしょう。
<橋爪門二の門と雁木坂>
橋爪門を抜けると五十間長屋の裏手に沿うように石段が続いていたわけですね
以上
橋爪門の追記でした。
■訪問:金沢城雁木坂跡
(金沢城公園内橋爪門付近)
[石川県金沢市丸の内]
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■参考及び抜粋
現地説明板(金沢市)
二の丸の正門である橋爪門を通り抜けたところで撮影しました。
<説明板>
城にはありがちな段差と思って素通りしそうになりましたが、説明板が設置されていたため足が止まりました。
<説明板拡大>
以下は説明文です[『』内原文]。
『このあたりには、橋爪門続櫓に接する雁木坂と呼ばれる石段がありました。橋爪門二の門を抜けると御番所と石垣台に仕切られた広場があり、そこから右手の雁木坂を登ると、石畳、そして二の丸御殿の玄関へ至ります。』
城の中核となっていた二の丸御殿へ向かうには、橋爪門を潜ったあと、右手へ曲がって雁木坂を登るという動線となっていたわけですね。雁木は雁の群れが斜めに並んで飛ぶ様子からきた言葉。傾斜に沿うよう規則正しい石段が設けられていたのでしょう。
<橋爪門二の門と雁木坂>
橋爪門を抜けると五十間長屋の裏手に沿うように石段が続いていたわけですね
以上
橋爪門の追記でした。
■訪問:金沢城雁木坂跡
(金沢城公園内橋爪門付近)
[石川県金沢市丸の内]
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■参考及び抜粋
現地説明板(金沢市)
城の中核を担った二の丸の正門(金沢城)橋爪門
加賀前田家の居城・金沢城で、最も格式の高い門とされるのが橋爪門です。
<橋爪門>はしずめもん
立派です。ここは二の丸の正門です。手前の説明板には『高麗門型式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門型式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模ほ誇ります』と記されています。
金沢城に天守はありませんでした。正確に言うと、前田利家の時代に5重6階の天守が築かれましたが、落雷が原因で焼失。以後は再建されませんでした。本丸に代わって政治の中枢を担ったのが二の丸。御殿が造営され(1631年)、この時に橋爪門も造られました。いわば藩政の中心地へ至る最後の門ということになります。二の丸は1808年に焼失してしまいますが、翌年には再建。現在の橋爪門はその時の姿を忠実に復元したものです。
<一の門>
高麗門型式の一の門
<枡形>
一の門を通過すれば壁に囲まれた方形の区画
<二の門>
重厚な櫓門型式の二の門
金沢城で特に重要な役割を担ったここ橋爪門、そして石川門と河北門を金沢城三御門と呼びます。石川門は江戸時代のものが現存し、国の重要文化財に指定されているのに対し、橋爪門と河北門は復元です。ただ、史実に沿った復元となるよう研究を重ねて整備されたものです。
<橋爪門続櫓>はしづめもんつづきやぐら
この付近だと、どうしてもこの櫓が目立ちますよね。ただ、門そのものもじっくり見る価値があります。
<1808年頃の雰囲気>
金沢城のなごりを後世に伝えるべく、専門家の英知と職人の技がつぎ込まれた城門の姿です。
■訪問:金沢城橋爪門
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]
お城巡りランキング
■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/11/19
・金沢城公園HP
https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/hashizume-gate/
<橋爪門>はしずめもん
立派です。ここは二の丸の正門です。手前の説明板には『高麗門型式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門型式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模ほ誇ります』と記されています。
金沢城に天守はありませんでした。正確に言うと、前田利家の時代に5重6階の天守が築かれましたが、落雷が原因で焼失。以後は再建されませんでした。本丸に代わって政治の中枢を担ったのが二の丸。御殿が造営され(1631年)、この時に橋爪門も造られました。いわば藩政の中心地へ至る最後の門ということになります。二の丸は1808年に焼失してしまいますが、翌年には再建。現在の橋爪門はその時の姿を忠実に復元したものです。
<一の門>
高麗門型式の一の門
<枡形>
一の門を通過すれば壁に囲まれた方形の区画
<二の門>
重厚な櫓門型式の二の門
金沢城で特に重要な役割を担ったここ橋爪門、そして石川門と河北門を金沢城三御門と呼びます。石川門は江戸時代のものが現存し、国の重要文化財に指定されているのに対し、橋爪門と河北門は復元です。ただ、史実に沿った復元となるよう研究を重ねて整備されたものです。
<橋爪門続櫓>はしづめもんつづきやぐら
この付近だと、どうしてもこの櫓が目立ちますよね。ただ、門そのものもじっくり見る価値があります。
<1808年頃の雰囲気>
金沢城のなごりを後世に伝えるべく、専門家の英知と職人の技がつぎ込まれた城門の姿です。
■訪問:金沢城橋爪門
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]
お城巡りランキング
■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/11/19
・金沢城公園HP
https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/hashizume-gate/