2019年12月29日

道灌の宝刀が受け継がれる六本木の神社 久国神社

今回は太田道灌が奉納した宝刀がいまも受け継がれている神社の話です。

<久国神社>ひさくにじんじゃ
shirononagori394A (5).jpg
名の由来は名工として名高い刀鍛冶・久国。道灌が久国作の刀を寄進した神社です。


■粟田口久国■ あわたぐちひさくに
久国について予備知識がないので、ウィキペディアさんから情報を頂くことにします。
『鎌倉時代の刀工。粟田口派の祖・粟田口国家の子。刀工一家の次男であり、兄弟の国友、国清、国吉、有国、国綱を総称して俗に粟田口六兄弟と呼ばれる。後鳥羽上皇に御番鍛冶として召され、特に師範格の「師徳鍛冶」を拝命した。本名は林藤次郎。受領大隅権守。受領名を授かった最初の刀工である。 』
 [出典: Wikipedia]2019.12.29

凄いですね。粟田口は京都の地名、粟田口派は名高い名工集団です。久国はその祖となった国家の次男ということですね。久国の『現存作のうち1口が国宝、3口が重要文化財に指定されている。』とのこと。そして『東京都六本木に太田道灌が久国の太刀を寄進したことに名を由来する「久國神社」がある。』と説明されています。
[内出典:Wikipedia]

そんな凄い場所に来たのか

実はこれらのことを事前に知って訪問した訳ではなく、赤坂を散策中、独特の地形に魅かれて鳥居をくぐらせて頂きました。あとから知ってびっくりです。太田道灌は好きな武将の一人ですし、その道灌が奉納した刀がいまもこの地で受け継がれているという驚き。知らないということは、こんなにも感動を与えてくれるわけですね。まぁ知らないままだと何もないわけですが。

また、正宗と並ぶ名工とされた藤四郎吉光が、久国の曾孫ということも知ることができました。久国の俗名は藤次郎だったそうです。

<狛犬>
shirononagori394A (2).jpg
shirononagori394A (3).jpg
目が合うと思わず笑みがこぼれてしまう狛犬さんでした

<拝殿>
shirononagori394A (4).jpg
御祭神は倉稲魂命です。ウカノミタマ、つまりお稲荷さんとして信仰される神ですね。ここ久国神社も、古くは久国稲荷神社と呼ばれていました。

神社の創建時期は不明ですが、もともとは現在の皇居内(千代田村紅葉)にあったと伝えられています。道灌が江戸城を築城するにあたり、溜池の鎮守として遷座。江戸城の溜池ということは城の南西になりますので、裏鬼門を意識した結果ということでしょうか?その後もう少し西側に移ることになり、以降この地に鎮座しているそうです。

<境内と地形>
shirononagori394A (1).jpg
それにしても凄い地形です。港区七福神の布袋様も祀られています


赤坂を探索している最中でしたので、住所がお隣の六本木になっていることも後で気付きました。いわゆる繁華街六本木からは想像できないほど静かな場所です。そんな街の秘境のようなところで、道灌の宝刀がいまも受け継がれている。非公開ですので見ることは叶いませんが、そのような所に偶然足を運べたことに感謝したくなりました。

■訪問:久國神社
[東京都港区六本木]


お城巡りランキング


タグ:道灌

2019年12月28日

忠臣蔵名シーンの舞台となった坂道(南部坂 雪の別れ)

今回は忠臣蔵名シーンのひとつ「南部坂 雪の別れ」の舞台となった坂道を訪ねました。場所は港区赤坂です。
<南部坂>なんぶさか
shirononagori394 (3).jpg
現在の南部坂です。付近に南部家の屋敷があったことからそう呼ばれています。

<説明>
shirononagori394 (1).jpg
南部家の中屋敷のこととともに『忠臣蔵で有名である』とも記されています。また、のちには険しい坂道であることから難歩坂とも書かれたそうです。


■忠臣蔵■ちゅうしんぐら
忠臣蔵は赤穂事件を基にした創作であり、あくまでフィクションです。ですから、今回訪問の南部坂でのお話も事実ではありません。ただ、胸が熱くなる思いで観たシーンが忘れられず、近くまできたついでにちょっと足を延ばしてみました。

■瑤泉院■ ようぜんいん
簡潔言うと浅野内匠頭(たくみのかみ)の妻です。阿久里(あぐり)という名でしたが、内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に斬りかかって即日切腹となったのち、瑤泉院と名のりました。嫁ぎ先の赤穂浅野家はお取り潰しとなったので、赤坂の実家に引き取られたそうです。

■雪の別れ■
実家へ戻っていた搖泉院のもとに、浅野家の元筆頭家老・大石内蔵助が訪ねてきます。久しぶりの再会に、搖泉院は夫の無念を晴らしてもらえるものと期待しますが、内蔵助は屋敷内に間者が送り込まれてることを察し、仇討をするつもりなどまったく無いように振る舞います。この態度に腹を立てた搖泉院は、内蔵助を追い払います。内匠頭は主君の霊前に手を合わせることも叶わないまま、吉良邸へ討ち入る浪士たちの連判状を置いて立ち去ることにします。そして屋敷を出ると搖泉院の方に向って深々と頭を下げ、雪が降り続ける坂道を帰ってゆきます。

ちょっと簡単に説明してしまいましたが、どの映画でもドラマでも泣かせるシーンです。作品によって演出は異なるものの、感動的です。これは討ち入り前日の話。大石内蔵助が去ったあと、搖泉院は連判状に気付き、屋敷内の間者のことも、内蔵助が訪ねてきた意図も理解し、忠義の侍を罵ってしまったことを後悔します。

<坂の下から撮影>
shirononagori394 (4).jpg
コンクリで舗装していなければやや険しい坂かもしれません。雪の日なら尚更です。

繰り返しになりますが、忠臣蔵は史実を基にしたフィクションです。しかし瑤泉院の実家がこの坂を登った先にあったことは事実。そういう意味で、やはりこの坂は赤穂事件ゆかりの場所と言えますね。

■訪問:南部坂
[東京都港区赤坂]2丁目付近


お城巡りランキング


2019年12月14日

12月14日 赤穂浪士討入の日

本日12月14日赤穂浪士討入の日
昨年の今日は義士祭を目当てにちょっとだけ泉岳寺に立ち寄りましたが、人が多すぎて墓所までたどり着きませんでした。それでも、いまだにこんなに沢山の人達が集まる事が嬉しかったですね。
<赤穂義士祭>2019.12.14
shirononagori392.jpg
義士祭は港区高輪の泉岳寺で執り行われる供養行事です。毎年12月14日に開催されます。

人が長年語り継ぐ
そこにはそうあって欲しいという人の願いが込められているのだと思います

以下は当ブログでご紹介した 赤穂浪士関連の記事です。よかったら覗いてみてください。

■記事一覧■
松の廊下跡 殿中刃傷のなごり
shirononagori239 (33).JPG
→『記事へすすむ

風さそふ 浅野内匠頭終焉の地
shirononagori320 (1).JPG
→『記事へすすむ

吉良邸跡
清水一学ほか家臣の石碑

shirononagori283 (3).JPG
→『記事へすすむ

もののふの道とばかりを一筋に
赤穂浪士・潮田高教と浅野家

shirononagori253 (1).JPG
→『記事へすすむ

赤穂浪士ゆかりの地
水野監物邸跡
shirononagori290A.JPG
→『記事へすすむ

大石内蔵助 終焉の地
細川家下屋敷跡
shirononagori291a2.JPG
→『記事へすすむ


■番外編■
赤穂事件殉難追悼碑
上杉家にとっての赤穂事件
shirononagori391 (2).JPG
→『記事へすすむ

家老大石家のなごり
笠間市 大石邸跡
shirononagori366 (1).JPG
→『記事へすすむ

以上です


お城巡りランキング



赤穂事件殉難追悼碑 上杉家にとっての赤穂事件

本日12月14日は赤穂浪士討ち入りの日

ということで
今回は米沢城本丸跡にある目立たない石碑をご紹介します。

shirononagori391 (2).JPG
誰も足を止めない石碑

場所は上杉家と関連する刀や甲冑が展示されている人気スポット・上杉神社稽照殿のすぐ近くです。

shirononagori391 (3).JPG
正直、現地ですらすらとは読めません。碑文の文字そのものは綺麗です。ただ光の関係で見えにくいのと、文そのものが難しい(私には)。キーワードを途切れ途切れに拾うと『元禄15年(1702)12月15日黎明・浅野内匠頭家臣数十人・吉良・本所邸・狼藉・急変不意・老中下知・上杉家の不幸後年に及ぶ・・・』などなどと。

吉良と上杉?
吉良上野介の正室は、米沢藩主の娘でした。そして赤穂浪士が実際に討ち入りの時には、上野介の実子が上杉家に養子入りして藩主となっていたのです。この石碑がどんなメッセージを込めて設けられたか分からないものの、赤穂事件について、上杉家側にもそうとう苦悩があったことは伝わってきますね。個人的には、吉良上野介の実子である上杉綱憲に対し、あまり良いイメージがありません。ただ、この人物を藩主として支えねばならなかった家臣団の苦悩、これはちょっと想像できます。碑文後半の『上杉家の不幸後年に及ぶ』が、全てを表しているような気がします。

shirononagori391 (1).JPG
当ブログがきっかけで、足を止めてくれる方がいたら嬉しいです。

■訪問:赤穂事件殉難追悼碑
[山形県米沢市丸の内]


お城巡りランキング


タグ:山形への旅
posted by Isuke at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

上杉の町の武田武士のなごり 屋代町

米沢城本丸跡からの帰り道
小さな標柱に足が止まりました。

sn390 (1).JPG
屋代町?

ここは現在の住所だと米沢市丸の内です。どうやら旧町名が記されているようです。わざわざ記してあるには理由があるのだろう。そう思って側面の説明文を読んでみると、なるほど、納得でした。

sn390 (3).JPG
抜粋すると『信濃の屋代から移ってきた侍が住んでいたとされている』とのこと。その補足説明としてしっかりと『武田氏滅亡後、信玄の6男信清をはじめとして上杉氏に帰属した侍が多くいた』と記されています。地名の由来として他の諸説も記載されていましたが、もう冒頭のこの説明だけで満足してしまいました。

まず
武田信玄の娘である菊姫が上杉景勝の正室となり、武田滅亡後にはその弟・信清が姉の縁を頼って上杉氏に属した。ここまでは有名なお話ですね。直江兼続のお墓があることで知られる林泉寺を訪ねると、境内には武田信清のお墓もあります。信清は甲斐武田家のあとは上杉家の家臣となり、越後・会津を経てここ米沢で没しました。はい。

では標柱の何が満足なのか
武田信清がたった一人でやって来るわけないですよね。仕える者も多かったでしょう。また、信清を頼って集ってくる旧武田武士もいたでしょう。なんといっても、あの武田信玄の血族ですからね。そんな当たり前のことを考えたこともなかったので、妙に新鮮でした。武田信清は明治まで(そして現在も)続く米沢武田家の祖です。それに従う旧武田武士たちが米沢城下で暮らしていた。ごく自然なことです。

sn390 (2).JPG
場所は米沢城本丸跡の南側です。本丸に近いこんな場所に住んでいたのですから、上杉家臣団のなかでも重要な役割を担っていたのでしょうね。



お城巡りランキング


タグ:山形への旅
posted by Isuke at 20:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

2019年12月13日

軍神の亡骸が祀られた御堂 上杉謙信祠堂跡 

今回は上杉謙信の遺骸が納められていた御堂の話です。場所は米沢城本丸跡です。

■上杉謙信祠堂跡■うえすぎけんしんしどう
上杉謙信の居城といえば越後の春日山城ですね。戦国最強の武将といわれた謙信は、春日山城で生まれ、春日山城で没しました(49歳)。遺骸は城内に祀られましたが、継承者の上杉景勝が豊臣秀吉から国替えを命じられて会津120万石を領することになると、越後の地を離れることになります。やがて関ヶ原の戦いで西軍に組した上杉家が、徳川家康の命で出羽米沢30万石へ削封されると、謙信の亡骸も米沢へと移されました。

上杉景勝の命により、米沢城の本丸に謙信公祠堂が創設されます。それ以降、謙信の遺骸を納めた御堂は、米沢城内の特別な場所であり続けました。

<上杉謙信公祠堂跡>
shirononagori390 (3).JPG
この階段の先ですね

<祠堂跡の石碑>
shirononagori390 (1).JPG
ありました。平城の米沢城としては最も高い場所です

<説明板>
shirononagori390 (4).JPG
亡くなった謙信の遺骸は『甲冑を着せ甕に納め、漆で密閉したと言われている』とのこと。甲冑姿のままカメに収められたようです。また『遺骸の左右に善光寺如来と泥足毘沙門天像が置かれ』たと記されています。謙信とともに祀られていたということですね。ひとつは、いわゆる長野の善光寺に由来する阿弥陀如来像。そして泥足毘沙門天像ですが、こちらは謙信ファンの方の間では有名な話に由来する仏像です。ある時、戦から帰って毘沙門堂へ上がった謙信が見たものは、毘沙門天像まで続く泥の足跡でした。謙信は毘沙門天が共に戦ってくれたと受け止め、その毘沙門天像を泥足毘沙門天と呼ぶようになった。 幼少より深い信仰心を持っていた謙信らしい逸話です。御堂はなくなり、善光寺如来像と泥足毘沙門天像は、現在米沢市内の法音寺に祀られています。

<上杉謙信公祠堂跡>うえすぎけんしんしどう
shirononagori390 (2).JPG
城下を見渡せる場所に祀られていたわけですね。上杉謙信の遺骸は、江戸時代を通してここに安置されていました。ずっと上杉の町を見守っていた。そんな印象を受けました。

<高台>
shirononagori390 (5).JPG
城外から撮影。一番高い位置が御堂があった場所です。城に出入りする者たちにとって、特別な意味を持つ場所だったのでしょう。上杉謙信は最強の戦国武将であっただけでなく、死してなお長きに渡って上杉家臣団の心の支えであり続けたわけですね。

やがて明治になり、米沢城は廃城。謙信の遺骸は上杉家歴代の墓所に移されます。そして、ずっと米沢城とともにあった謙信の魂を祀るべく、上杉神社が建立されました。


<上杉家廟所>うえすぎけびょうしょ
sirononsgori 151UESUGI (7).jpg
亡骸は米沢藩歴代藩主たちの墓所へ

<上杉神社>
shirononagori389 (13).JPG
謙信の魂が祀られています

上杉謙信は本来越後の人
でもここ米沢にいると受け止めています

■訪問:上杉謙信公祠堂跡
米沢城本丸跡(松が岬公園)
[山形県米沢市丸の内]
posted by Isuke at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

米沢詣で 上杉の町へ

令和元年の年末も押し迫った12月中旬
無理矢理休暇を取って米沢を訪ねました。
<米沢駅>
shirononagori389 (1).jpg
この日は朝から霧が濃く、遠くの山々はもちろん、米沢の街並みも霞んで見えました。夏から秋にかけて訪問することが多いので、ちょっと不思議な光景でしたが、地元の方にお聞きすると、この時期はよくあるとのこと。

<米沢城本丸跡>
shirononagori389 (5).JPG
戦国最強の武将として語り継がれる上杉謙信の軍旗「毘」「龍」が見えました。「毘」は謙信が信仰していた毘沙門天、「龍」は不動明王を表しています。ここはかつての米沢城の本丸跡。このまま堀を渡って直進すれば謙信を祀る上杉神社。本丸への入り口が、そのまま長い長い参道になっています。


平凡な会社員ですので、予算にも時間にも余裕がありません。そのわりに、同じ場所に何度も行くので、周囲からは不思議がられます。

何があるの?

そう問われても、ちょっと困りますね。上杉家にまつわる史跡やゆかりの地が、市内に数多く存在するのは事実ですが、何度も行く理由はそれだけでは説明できません。


<上杉神社一の鳥居>
shirononagori389 (11).JPG
何度目か分かりませんが、今年は来れないと思っていたので感慨深かったです

<二の鳥居>
shirononagori389 (12).JPG
初めて訪問した時のような新鮮さでした。こちらの鳥居は木造です

<神門>
shirononagori389 (13).JPG
もうここで空気吸えただけでいいや
今回はそんな気分でした

<狛犬>
shirononagori389 (14).JPG
shirononagori389 (15).JPG
神門前の狛犬です。

<拝殿>
shirononagori389 (16).JPG
もともとは上杉謙信と上杉鷹山を祭神としていました。現在の祭神は謙信のみです。取り囲む透かし塀も含め、派手過ぎず、威厳のある空間です。もともとの拝殿は大正8年の米沢大火で失われましたが、大正12年に再建され現在に至っています。


次に松岬神社へ

<松岬神社一の鳥居>まつがさきじんじゃ
shirononagori389 (2).JPG
こちらは上杉神社と比べて地味ですが、私としては足を運ばざるを得ない場所です。

<松岬神社境内>
shirononagori389 (4).JPG
米沢は雪国。冬支度ですね。松岬神社の敷地は、もともとは上杉景勝の屋敷があった場所です。屋敷の庭のなごり?かもしれません。

<二の鳥居と拝殿>
shirononagori389 (3).JPG
祭神は米沢藩の礎を造った上杉景勝と直江兼続、中興の祖・上杉鷹山。そして鷹山の師である細井平洲と、鷹山に抜擢され藩政改革に尽力した竹俣当綱と莅戸善政です。

祀られているのは全て、逆境と向き合った人たちばかり。神格化された上杉謙信とは異なり、泥臭く地味に現実と向き合った人たちです。

人が人を祀る。そして語り継がれる。
そこには、人が心惹かれる何かがあるのでしょうね。


<本丸周辺を散策>
shirononagori389 (6).JPG
shirononagori389 (20).JPG

<昼になったので>
shirononagori389a (1).JPG
米沢城跡の目の前といっていい場所にある上花輪さん

<米沢ラーメン>
shirononagori389a (2).JPG
上花輪さんは味噌が人気のようですが、醤油のチャーシュー麺にしました。ここはむかし家族と来た店。親の趣味につき合わされた子供にとっては、あまり楽しい旅ではなかったようですが、この店では笑みがこぼれていました。今回は独りですが、気を使わなくてすむからでしょうか?ラーメンそのものは更に美味しく感じました。
上花輪さん、あの日も今回もありがとうございます。


こんな感じで午前の部は終了しました。

結局のところ
どこどこへ行った事があるとか、なになにを食べた事があるとか、どうでも良いことのように思えます。どんな気持ちでそこにいたか。どんな気持ちでそれを食べたか。自分にとってそれが満たされたものなら、もう充分です。

■つわものどもが夢の跡■
必死に生き抜いた偉人たちゆかりの地です。そして、それにまつわる物語がある町。人が長く語り継ぐには訳があり、それを感じるためだけに足を運んでいる。そんな気がします。

shirononagori389 (9).JPG
shirononagori389 (10).JPG
shirononagori389 (8).JPG

お邪魔しました。
また来ますからね!


お城巡りランキング


posted by Isuke at 06:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

2019年12月08日

コンクリの街の秘境 赤羽の細道

高度に都市化された街にも秘境がある。今回は街探索のお仲間と歩いた北区赤羽のお話です。
<街の秘境>
sn388.JPG
よそ者は通らない谷です。そこへ入り込んでいる人の暮らし。絶景と感じるのは私だけでしょうか。


■赤羽台の細道■
訪問したのは北区の赤羽台。表通りから奥へ入れば、街の喧騒から切り離された独特の世界が広がります。以下はその時撮影した画像です。
sn388akabane 1.JPG
人ひとりが通るのが精一杯の細道

sn388akabane 15.JPG
急勾配ですが、人が暮していれば道はできます。赤羽台の奥の細道

sn388akabane 3.JPG
暮らしと細道

sn388akabane 6.JPG
段差のある細道

sn388akabane 7.JPG
狭所の細道

sn388akabane 5.JPG
コンクリの壁と細道

sn388akabane 16.JPG
コンクリの壁に納まらない木と細道

人の暮らしを支える構造物と、それらと関係なく命を謳歌する苔や草木。造成しきれなかった元々の地形を舞台に、両者がせめぎあったり、何となく調和していたりと、何とも不思議な空間ではないですか!

コンクリの街の秘境
私にはそんな風に映りました。


■その他の秘境■
最も心に残った赤羽台を最初にご紹介しましたが、この日の街探索は赤羽西から桐ヶ丘を経由して赤羽台へ北上するルート。その途上で撮影した画像も以下に貼っておきます。

<稲付川>
sn388akabane 8.JPG
sn388akabane 8v.JPG
[北区赤羽西]2丁目付近
こちらは当ブログで何度かご紹介済の稲付川。道?はい。地下に埋設され、いわゆる暗渠になっています。

<支流>
sn388akabane 9.JPG
誰も通らないこの細道もちょっとした秘境。こういったところの水を集めながら、稲付川は赤羽から東へ向かって流れ、隅田川へ合流します。


<稲付城跡>
sn388akabane 9b.JPG
[北区赤羽西]1-22
こちらは太田道灌が築城したと伝わる稲付城跡です。
sn388akabane 9c (1).JPG
現在は静勝寺。道灌ゆかりの地であることは確かですが、位置的にもともとは宿敵・豊島氏の拠点だったのではないかと個人的には思っています。あくまで個人的に。
sn388akabane 9c (2).JPG
分類すると山城です。23区内に残る貴重な城のなごり。

続きまして

<田んぼと民家>
sn388akabane 10.JPG
[北区赤羽西]5-2
これはどこの田舎か?

ここも赤羽。北区の秘境です。大昔ならどこにでもありそうな光景ですが、いまとなっては景勝地。それにしても、丘にも谷にも住宅がひしめく北区で、一体どうやってこんな敷地が確保できたのでしょうか?

実はここ、もともとは自衛隊の駐屯地だったそうです。跡地が『赤羽自然観察公園』として整備されています。

sn388akabane 10b.jpg
この公園は1999年の開園とのこと。もともとこのエリアに生息していた植物を植栽し、過度に人の手は加えないでこの環境を維持しているようです。

sn388akabane 17.jpg
遠くへ行かなくても、綺麗な景色はあるものです

sn388akabane 11.JPG
田んぼあり、湧水や小川ありの素敵な場所でした。


最後に謎の細道

<北区立赤羽緑道公園>
sn388akabane 13 (2).JPG
また暗渠か?
ではなく、むかしの線路の跡です。赤羽にはかつて軍事基地がありました。似たような幅で続くこの道は、軍事物資専用線路のなごりです。

sn388akabane 13 (1).JPG
線路の模様が描かれています。

sn388akabane 13b.JPG
こちらは鉄橋を模したモニュメント。この位置に橋があったかは不明です。

いまでは住みたい街ランキングで上位に名を連ねる赤羽ですが、よく探せば、かつて軍都と呼ばれたなごりを感じることもできます。


ということで
脈略ないですが赤羽の細道、秘境あるいは街に溶け込んでいるむかしのなごりのご紹介でした。最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

<橋のなごり>
sn388akabane 14.JPG
それに気付けば見る目も変わります



お城巡りランキング


2019年11月30日

名門・南部家のなごり 金地院にて

まもなく師走という土曜日
半日仕事を終えて東京タワー方面へ。といっても展望台へ登るわけではなく、お目当てはすぐお隣りの古い寺院。こちらに大名家の大規模墓所がそのまま残ると聞き及び、足を運びました。
<金地院>こんちいん
shirononagori386bb (8).jpg
東京タワーに隣接する金地院です。こちらには盛岡南部家、八戸南部家、七戸南部家の墓所があります。南部ゆかりの地なのです。

<墓所>
shirononagori386bb (7).jpg
重厚です

nagori386ad.JPG
お墓そのものの撮影は苦手なので下段を。雰囲気は伝わると思います。

shirononagori386bb (4).JPG
部分的に朽ちてしまっていますが、苔と相まって長い歴史を感じさせます

shirononagori386bb (5).JPG
ちょと墓碑が映ってしまいますが、全体はこんな感じです。地方にある大名家の墓所なら分りますが、ここは東京都港区。とても貴重です。

■名門南部家■
南部家は武田家と同じく甲斐源氏の一族です。甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門、もうちょっと具体的に言うと八幡太郎義家の弟・源義光から始まる一族です。南部家というと、南部鉄ではないですが、まず東北をイメージしますよね。それで正解なのですが、もともとは甲斐国の南部郷(現在の山梨県南部町)から始まり、源頼朝に従軍(1189年)して陸奥国糠部五郡の土地を与えられ、家臣とともに移住(1191年頃)した一族なのです。

その後枝分かれして勢力を拡大。鎌倉時代の名族が、戦国時代に姿を消す例は多いですが、南部家は江戸時代を通して存続。そしてそのなごりが、今回訪問の金地院にいまも残されているのです。

訪問時にはどなたの墓碑かわかりませんでしたが、あとで調べてみたところ、藩主本人のお墓はここにはなく、江戸で暮らすことを運命づけられた藩主の正室や側室などの墓碑が並んでいるそうです。亡くなった場合は、そのまま江戸で埋葬されたということですね。

<向鶴>むかいづる
shirononagori386bb (6).JPG
南部家の家紋です


■以心崇伝創建の寺■ いしんすうでん
今回訪問の金地院についてもちょっとだけご紹介させて頂きます。こちらは勝林山と号する臨済宗南禅寺派寺院です。徳川家康の国造りに深く関わった以心崇伝和尚により江戸城内創建され、1639年(寛永16年)にこの地へ移転しました。以心崇伝は南禅寺などの住職を務めた高僧で、京都南禅寺金地院と江戸の金地院を兼務していました。

<金地院の入り口>
sn386 (2).JPG
左の石標には『臨済宗 金地禅院』と刻まれています。右には『江戸三十三観音札所二十八番』の文字。墓所には昔のなごりが漂う一方で、奥に見えている本堂は近代的な鉄筋造りです。

<境内>
shirononagori386bb (3).JPG

<三葉葵>
shirononagori386bb (2).JPG
家康に重用された臨済宗の高僧が創建した寺です。冒頭で東京タワーのすぐそばとご紹介しましたが、徳川将軍家菩提寺・増上寺のすぐそばとご紹介すると、何となく雰囲気が伝わりますかね。


ということで
徳川将軍家とも関わりの深いお寺ですが、江戸時代も存続した南部家のなごりを感じに足を運んだというお話でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。

■訪問:金地院
[東京都港区芝公園]3-5-4


お城巡りランキング




----- 追 記 -----
当ブログではお墓の撮影を極力避ける方針でここまでやってきましたが、友人から『史跡は良いのではないか』と助言され、何となくそう思えるようになりました。今後も一般の方のお墓は避けるようにしますが、名だたる武将や歴史に名を残す偉人については、ご本人を批判するような場合を除き、投稿させて頂きたいと思います。

2019年11月24日

城用語 本陣

今回は『本陣』について。厳密には城用語とは言えませんが、古戦場などを訪ねると◯◯本陣跡なんていう石碑があったりしますよね。かと思えば、宿場の本陣などという言葉を耳にしたりもします。まぁあまりこだわらず聞き流す方も多いと思いますが、敢えて説明させて頂きます。

■総大将がいる場所■
戦場において総大将がいる場所。これが一般的な本陣です。
<菅沢山本陣>説明板のみ
shirononagori385a.jpg
こちらは直江兼続が長谷堂城攻めの時に本陣を置いた所とされる菅沢山にて撮影しました。

<菅沢山から見た長谷堂城>
sirononagori20sakenobe2028729.jpg
この時の兼続は約2万の大軍を率いる総大将。独立峰に築かれた長谷堂城を包囲し、自らは戦況を見守れる菅沢山の中腹に陣を敷きました。総大将の陣。つまり本陣です。


■大名などの宿泊場所■
江戸時代における宿場で、大名や公家といった身分の人たちが宿泊した旅宿も『本陣』と呼ばれます。まぁ旗本やある程度の身分の役人なども含みます。

宿といっても、一般人がお世話になる旅籠屋とは全く異なります。地元の名主の家をイメージした方がいいかもしれません(大筋の話として)。かつての宿場町を訪ねて、本陣跡などと標記されていたら、それなりの身分の人たちが宿泊、あるいは休息するための公認の家と思って間違いありません。

公認と敢えていわせてもらったのは、これは参勤交代が始まった時にしっかりと制度化されたものだからです。『本陣役』に指定される。これは名誉なことです。ただし、それなりの代金は受け取れるものの、現実的にはそれ以上の『おもてなし』が必要なため、ある程度の経済力が伴っていないと務まらない役割でした。

<蕨宿本陣跡>観光用
shirononagori385 (2).JPG
shirononagori385 (1).JPG
蕨宿は中山道の宿場として栄えました。説明板によれば『公家大名などが宿泊』とのこと。蕨宿では加兵衛家と五郎兵衛家の2家が代々『本陣役』の大役を勤めました。加兵衛本陣には、あの老中水野忠邦なども宿泊したそうです。

ということで
戦での本陣と宿場での本陣の説明でした。


お城巡りランキング


タグ:城用語
posted by Isuke at 01:14| Comment(2) | TrackBack(0) | その他
検索
記事ランキング
[アクセスランキング]
  1. 1. 伊奈一族の拠点 伊奈氏屋敷跡(伊奈町) 
  2. 2. 永田陣屋 伊奈忠次が築いた陣屋跡
  3. 3. 神流川の戦い 滝川一益vs北条氏邦・氏直
  4. 4. 上州のおんな城主・妙印尼輝子(新田金山城)
  5. 5. 諏訪大明神を祀った城 諏訪原城のなごり
  6. 6. 難航不落 金山城のなごり
  7. 7. 空に吸われし十五の心  (不来方のお城)
  8. 8. 鮭延秀綱の軌跡(鮭延城から鮭延寺)
  9. 9. 関東の連れ小便・政宗白装束の舞台 (石垣山城)
写真ギャラリー
カテゴリーアーカイブ
最新記事
プロフィール
Isukeさんの画像
Isuke
もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、てくてくと歩き始めた記録です。
プロフィール

お城巡りランキングに参加中 [参加させて頂いた雑誌]
[当サイトお勧め本]

Kindle for PC (Windows) [ダウンロード]