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2020年07月21日

世田谷区に2つの城向橋(暗渠と城跡24) 橋跡に漂う城のなごり

今回は橋跡というだけで川のなごりと城のなごりが漂う場所の話です。

まずは
<城向橋>しろむかいばし
ShiroAnkyo452 (1).jpg
世田谷区豪徳寺の烏山川緑道です。緑道沿いには、暗渠化される前の川のなごりとして、複数の橋の名前が残っています。この橋跡もその一つです。

次に
<城向橋>しろむかいばし
sn Okusawa Ankyo (8).JPG
こちらは世田谷区自由が丘の九品仏川緑道です。道と交差する地点に「城向橋」の標識があります。この道が川を渡るための橋が架けられていたのでしょうね。これも川のなごりです。

城向橋とは、城の向かいの橋、あるいは城へ向かう途中の橋というのが名の由来でしょうか。いずれにせよ、かつてそこに城があったことに由来する名前ですね。そして川があるが故の橋。橋が架かっていた川は暗渠化され姿は見えませんが、かつては水が流れ、城の天然堀の役割を担っていたのでしょう。いわば城にとっての『地の利』ですね。


■烏山川と世田谷城■
<烏山川>からすやまがわ
ShiroAnkyo452 (3).jpg
緑道となった目黒川の支流

<世田谷城跡>
ShiroAnkyo452 (2).jpg
城跡はいまは豪徳寺


■九品仏川と奥沢城■
<九品仏川>くほんぶつがわ
sn Okusawa Ankyo (9).JPG
緑道となった呑川水系の支流

<奥沢城跡>
sn Okusawajo (20).JPG
城跡はいまは九品仏浄真寺


世田谷城は吉良氏の居城。奥沢城はその支城です。かつて栄華を誇った名門吉良氏の城は、ともに寺院へと姿を変えました。そして、それぞれの城を掠めるように流れていた川は、ともに緑道に姿を変えました。

城や川と同じく姿を消した橋の名が、それらのなごりを今に留めています。

■訪問:城向橋
[世田谷区豪徳寺]
[世田谷区自由が丘]


------ブログ過去記事------
当ブログの過去記事のご紹介です。

暗渠(あんきょ)とは地下に埋設された川のこと。暗渠に気付くアンテナがあると、街の中の城跡巡りが一層楽しくなる。天然の堀だった川のなごりを感じることは、城のなごりを感じるのと同じ。

だいたいそういう内容です。
ブログを始めたばかりの頃の記事でお恥ずかしいですが、良かったら覗いてみて下さい。

暗渠と城跡 1 奥沢城のなごり
→『記事へすすむ

暗渠と城跡 2 世田谷城のなごり
→『記事へすすむ



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posted by Isuke at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 暗渠と城跡

2020年07月19日

暗渠と城跡23 渋谷川と渋谷城

都内にもあるつわものどもが夢の跡。今回の舞台は渋谷です。こんな若者の街に城跡が?と思われる方が大半かと思います。でも実際に存在していました。遠い昔、中世のことですが。

<渋谷城跡>
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渋谷3丁目の金王八幡宮の一帯が渋谷城跡と推定されています。当ブログで二度目の投稿となりますが、今回はもうちょっと渋谷の地形を加味してご案内できればと思っています。

■現地訪問■
最寄り駅はJR渋谷駅。そもそもこの駅自体が『渋谷』という名が示す通り谷にあります。谷には川が流れ、複数の突き出た台地に囲まれている状態です。その台地の一つに渋谷城が築かれました。
<歩道橋から撮影>
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渋谷駅付近から六本木りを撮影。高低差があることは伝わると思います。コンクリの街なので『台地』を実感しにくいですが、渋谷駅周辺には道玄坂や宮益坂といった有名な坂が多いですよね。それらは全て谷から台地へ登る道なのです。画像の坂ですが、登りきる手前に鎮座する金王八幡宮付近が、かつての城跡の中心部分と言われています。台地の高低差、そして天然堀の役割を果たした川が、渋谷城の『地の利』ということになります。

渋谷で川?

はい。渋谷川という川が谷を流れています。多くの人が渋谷を訪れますが、この川を見かける人は少ないかもしれません。理由は、かなりの部分が地下に埋設されているからです。いわゆる暗渠(あんきょ)ですね。これでは目にするのは無理。ただし、一部のエリアを除いてです。

<稲荷橋>
sn451Ankyo.jpg
橋があるのに川の姿がありませんね。ただ、この地下はいまでも現役の川なのです。

<現在位置>
shirononagori451c.jpg
稲荷橋付近に川はありませんね。でもちょっと南側(左下)から川が始まっています。

<暗渠の出口>
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暗渠の出口です。地図の上ではここから渋谷川が始まります。こういう状態(普通に見えている状態)を、暗渠に対して開渠(かいきょ)といいます。ここから先の渋谷川はいまでも開渠なのです。

<渋谷川>
shirononagori451e.jpg
コンクリで固められ、まぁちょっと窮屈な状態ですが、間違いなく川です。しかも昨日今日の川ではなく、古くからの水の流れです。現在の新宿御苑付近を水源とし、多くの支流の水を集める川でした。開発の都合で多少の流路変更もありましたが、渋谷の谷底であることに変わりありません。また、かつての支流はその大半が下水道として暗渠化され、よほどの大雨以外は水が渋谷川に流れ込むこともなくなりました(下水は地下で別のルートに流されるようになっています)。よって水量も減りましたが、本流そのものの流れはずっと続いているのです。

shirononagori451f.jpg
だいぶ姿は変わっても、かつての城にとっての天然堀、あるいは物資運搬の手段のなごりとして受けとめて良いと思います。

さて『地の利』を確認できたところで
具体的な城跡へ

<金王八幡宮>
shirononagori451g.jpg
ここが城跡の一部とされる場所です。渋谷駅から500mくらいでしょうか。渋谷城そのものはもっと広範囲だったと考えられています。渋谷駅からここへ来るまでに、既にかつての城跡を歩いていたのかもしれませんね。もちろん石垣も天守もありません。中世のお話ですから、土塁や堀で区画を囲った館のようなものをイメージしたもらった方が良いかもしれません。

渋谷城そのものの築城年代は分かっておらず、諸々のことが推定であり、諸説あるようです。ただ、渋谷氏の先祖にあたる河崎基家が、源義家よりこの地を与えられたというのはどの説にも共通しています。この河崎基家は桓武平氏・秩父氏の一族で(秩父基家)、源義家が奥州・安倍一族と戦った際に従軍し、功績を上げたことで河崎荘(神奈川県川崎市)の所領を与えられ、河崎氏を名乗りました。

秩父平氏は支流が多く、すべて把握できませんが、武蔵国各地で頭角を現した武士団だと畠山氏や稲毛氏、あと豊島氏などが思い出されます(他にも多数)。河崎氏も祖を辿れば同じということですね。

この神社は河崎基家により建立され、その子である渋谷重家がこの地に館を築いたのが渋谷城の始まりと考えられています。河崎基家は河崎荘のみならず、広範囲に所領を与えられ、現在の渋谷区も含まれていたと受け止めて良いのですかね?一方で、同じく河崎基家の子孫で、神奈川(相模国)の渋谷荘を治めて渋谷氏を名乗っていた一族が、ここ(武蔵国)に移り住んだという話もあります。ちょっと順序というか、経緯がはっきりしませんが、とにかく河崎基家を祖とする渋谷一族がここに城を構えたことだけは事実のようです。

ちなみに、金王八幡宮の金王は、渋谷重家の子である渋谷常光に由来します。常光はこの神社に祈願し、金剛夜叉明王の化身となったことにより金王丸と称したとされています。金王丸は源義朝(頼朝の父ですね)に従い功績をあげました。そして、金王丸の名を後世に残すべく、神社は金王八幡宮とされたと伝わります。

史実と言い伝えがうまく分けられず恐縮です。渋谷城は源氏に従った渋谷氏の居城から始まると受け止めて下さい。

<入口付近の説明板>
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説明文の一部を使わせて頂きました。

せっかくですので金王八幡宮を簡単に

<神門(赤門)>
sn451ad.jpg

<狛犬>
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shirononagori451h3.jpg

<神楽殿>
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<社殿>
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江戸時代には将軍家の信仰を得て、家光の乳母である春日局と守役である青山伯耆守忠俊により社殿が造営されました。家光の将軍決定のお礼ということですね。渋谷区指定有形文化財です。

<玉造稲荷社>たまつくりいなりしゃ
sn451ad2.jpg

詳細省略で恐縮ですが、境内はこんな感じです。

<説明板>
shirononagori451i.jpg
こちらの説明板には、城に関する記載がありました。後半の一部をそのまま抜粋させて頂きます。
『このあたり一帯の高台には、渋谷氏の居館があったと伝わり、帯にだと、東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、城館を囲んでいた』とのこと。低層の台地ながら谷には水が集まり、天然の要害だったのでしょう。付近から湧き水があったことにも言及されています。

説明の最後には、1524年に城館は『北条氏の一軍に焼き払われてしまった』とあります。諸説ありますが、今回はこれを城の最後と思うことにします。北条氏綱と扇谷上杉朝興が高輪で激突した戦いがありました(高輪原の戦い)。北条氏綱が上杉氏を圧倒して終わるこの戦いのなかで、北条氏の別動隊が渋谷城にも襲い掛かったということですね。北条軍は渋谷城の東の鎌倉道を通って江戸へ攻め進んだようです。

<砦の石>
shirononagori451j.jpg
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これも城のなごりということでしょうか。中世の城で石垣は実感が湧かないので、参考程度に受け止めておきます。

地形を見に来たようなものです。外も見て回りました。
かつては付近に湧き水も出て、小川水も豊かな地だった模様です。

shirononagori451k0.jpg
ああいうのは台地を削った堀切のなごりでしょうか?確証はなく、ほぼ想像で楽しみました

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堀切跡?かもしれない道を挟んだお隣は稲荷神社です。こちらも渋谷城の一部だったのでしょう

<豊栄稲荷神社>とよさかいなりじんじゃ
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神秘的な参道。鳥居を前にすると心が凛とします。
<社殿>
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コンパクトにまとまったこの美しい神社は、実は渋谷氏ゆかりの神社です。渋谷高重によって創建されたと田中稲荷神社と、別の場所(道玄坂)にあった豊澤稲荷神社が昭和になって合祀され、現在の社殿が建立されました。

田中稲荷神社はもともと渋谷駅近くに鎮座していたとのこと。渋谷駅付近、つまり地形で説明すると谷底ですね。渋谷川が渋谷城の堀として利用されたため『堀の外稲荷』と称されたという話が伝わっています。こういった話にも、当時の城、そして川が城に果たした役割を感じることができます。

<傾斜>
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豊栄稲荷神社から低い場所へと続く道。どうせなら来た時とは違う道で戻りますかね

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明治通りに出ました。通りの向こうに橋らしき姿が見えています。

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また会いましたね。渋谷川です。現地説明では城の『西には渋谷川がながれ』とありましたが、西側は既に暗渠化されて姿は見えません。ただ渋谷川は駅付近で緩やかにカーブし、城跡の南側に回り込んでいます。こちらはまだ暗渠化されておらず、水面を見ることができます。

暗渠を渡って城跡がある東へ向かい、帰りは高台から南の低地へ降りて開渠に出た。非常に分かり易い結末で、この日の探索は終了しました。

<つわものどもが夢の跡>
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地形に納得し、渋谷川とも出会えました。城跡の一部が神社であるが故に、都市化から外されていることにも助けられ、城のなごりを感じることができました。決定的な遺構はありませんが満足な訪問でした。

-------■渋谷城■-------
別 名:金王丸城
築城年: 不明(平安末期)
築城者:渋谷重家
城 主:渋谷氏
廃城年:不明(1524年?)
現 状 : 金王八幡宮
[東京都渋谷区渋谷]


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posted by Isuke at 20:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 暗渠と城跡

2020年07月17日

中山道関元屋のお助け井戸(旧浦和市)震災の避難民の喉を潤した水 

今回の訪問は旧浦和市内の中山道沿い。関元屋さんの井戸の話です。
<関元屋商店>せきもとやしょうてん
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関元屋はお米屋さんです。かつて中山道の宿場町として栄えた浦和には、街道沿いに多くの老舗が軒を連ねていました。関元屋さんもそのひとつで、古き良き中山道沿いのなごりをいまに留めています。屋敷は中山道側より奥に向かって長細い造りになっていて、いかにも街道沿いの商家らしい構造。左手奥に空が見えていますが、実は2011年の震災前には敷地内に同様の建物がありました。関元屋さんの倉庫と思われます。

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現地の説明文によると、関元屋さんは元々は材木商だったようです。この建物自体は大正時代の建築らしいので、そうとう古いですね。

さて
ご紹介するのはその関元屋さんにいまも形を残すこの井戸です

<井戸>
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古い建屋に昔の井戸。それだけでいい雰囲気ですが、説明板に心惹かれるものがありました。

<説明板>
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浦和文化の小径として紹介されています。説明の後半部分だけ抜粋させて頂きます。
『店先の井戸は「お助け井戸」と呼ばれ、関東大震災や東京大空襲で逃げ延びた人々の喉を潤しました』

お助け井戸とはそういうことだったのですね。中山道の宿場でいうと、浦和は板橋・蕨に続いて3番目。東京から遠すぎるということはありません。関東大震災が広範囲に被害をもたらしたことは言うまでもありませんが、東京よりは被害が少ない埼玉へ、中山道や奥州街道などを経由して避難民が移動した話は耳にしたことがあります。大惨事から逃れた人たちが、中山道沿いのこの店で喉を潤したことがあったのですね。

浦和というと平らな土地をイメージする方も多いかもしれませんが、実際には低地と台地が複雑に入り組んでいて、あちらこちらに坂があります。関元屋さんの付近は高台となっており、東京方面からくる場合は、ちょっとした坂道(焼米坂)を上らなければなりません。つまり低地から台地の上へ登る必要があります。長い道のりを歩き、更に坂を上ったところでようやく飲む井戸の水。さぞ喜ばれたことでしょう。

むかしむかし、傷ついたり疲れ切った人たちを癒したであろう井戸。それがいまでも形として残っていることが嬉しかったですね。

■訪問:関元屋の井戸
 ( お助け井戸 )
[さいたま市浦和区岸町]


-------補 足-------
この日は地元のお仲間と浦和区を中心に街探索。以下は同じ日に撮影したものです。本日ご紹介の関元屋さんを通過して、中山道を更に北へ向かうと、地元では有名な調神社が見えてきます。

<調神社>つきじんじゃ
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狛犬ならぬ狛ウサギが出迎えてくれます。

神社の詳細は省略しますが、関元屋さんと同じく台地上です。この付近は大宮台地が南に突き出た部分。浦和の宿場は、低地から高台に上ったところに設けられたわけですね。そんなことを肌で感じるための探索でした。

<低地>
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逆に低地の小川や暗渠を訪ねたり

<古道>
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街道とは一味違う魅力の古道(らしき道)を訪ねたり

<湧き水>
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造成地から水が湧き出ていることに感動したり

ざっとそんな感じの探索でした。

2020年は日本中が遠出を自粛する雰囲気にあります。
我々も地元から出ない方法で休日を楽しみました。

同じくさいたま市在住の方の参考になれば嬉しいです。
posted by Isuke at 23:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 街道・古道

醫王寺の梵鐘(旧浦和市)戦時の回収をまぬがれた西堀村の鐘 

今回は旧浦和市において、戦時供出をまぬがれた梵鐘の話です。
<醫王寺の鐘>いおうじ
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こちらです。戦争中は金属資源の不足を補うため、国主導で寺の鐘や大仏像などが回収になったといいますが、旧浦和市内でそれをまぬがれたまぬがれた唯一の梵鐘とのこと。私のような素人には分かりにくいですが、技法も凝ったもののようです。

<醫王寺の入口>
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この日は市内を流れる鴻沼川の支流に合流する暗渠を探索。まぁ道ですが、地下には水が流れています。歩道が途切れるところで、寺院があることに気づきました。

<山門>
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真言宗智山派の寺院です

<本堂>
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<大日堂>
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塚の上の大日堂は普段は非公開。大日如来坐像が安置されています。

さて
今回の注目はこちらです
<鐘楼>
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普通の鐘楼に映りましたが、説明文を読んで感じるものがありました。

<説明板>
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以下に転記します。

『江戸時代中期、宝暦十四年(一七六四)に造られたものです。その銘文から、かつて西堀にあった宝性寺の慈観が願主となり、西堀村中が施主となって江戸神田の鋳物師長谷川国重に鋳造させたものであることがわかります。
江戸時代中期ころ、梵鐘が盛んに造られましたが、この銅鐘は撞座が四カ所あること、百個ある乳の上に梵字を陽刻していることなどの特色があり、見るべきところの多い貴重なものです。また、市内にある梵鐘としては、戦時供出をまぬがれた唯一の例です。
宗教法人医王寺・浦和市教育委員会掲示』

[出典:現地説明板]

なるほど
まず、江戸中期に造られたというだけで貴重だと思いました。どのような鐘の音なのでしょうか。江戸時代の西堀村には既にあったのでしょうから、この地で暮らす人たちが、代々この鐘の音を耳にしてきたわけですね。鳴ってなお残る余韻を感じながら、それぞれの時代のそれぞれの人たちは、何を思ったのでしょうね。

また、神田の鋳物師に鋳造させた見どころの多い梵鐘とのこと。それがひっそりとここにある。

もっと有名でも良いのになぁ

などと勝手に感動してしまいました。


ただ、私が知らなかっただけで、知る人が知る鐘のようです。あとから調べたところ、ここ醫王寺の大日堂の木造大日如来坐像は、国認定の重要美術品であり埼玉県指定有形文化財に指定されているようです。そして私が見た銅鐘も、市の指定有形文化財とのこと。あまり良くわからないまま、すごいお寺を訪ねていたのですね。お恥ずかしい。でも知らないということは、時と場合によっては感動に繋がります。

sn449 (8).jpg

俗人がお邪魔しました。
ありがとうございます。

■訪問:上宮山醫王寺
 ( 西堀医王寺 )
[さいたま市桜区西堀2丁目]

2020年07月15日

高天神城のなごり

つわものどもが夢の跡
武田勝頼徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた城跡を訪ねました。

<高天神城本丸>たかてんじんじょう
shirononagori443 (1).JPG

■三方が断崖絶壁■
高天神城は三方が断崖絶壁という天然の要害です。麓からの比高約100m強の山に築かれたこの城は、激戦を繰り返すごとに進化を遂げ、最終的には東西二つのエリアに分かれた一城別格(中核となる曲輪が二か所ある)の構造となりました。

<高天神城の全体図>
shirononagori437b.JPG
[現地撮影:高天神城想像図]
東側の峰がもともとの高天神城で、本丸が配置されています。西側の峰がどの時代にどの程度利用されたかはわかりませんが、武田勝頼が城を拡張した時に、ひとつの城として完成したようです。大きな山城ではありませんが、とにかく斜面が垂直に近い急こう配となっており、比較的緩やかな西側には堀切や横堀が設けられています。

<平面図>縄張り
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[現地撮影]
城好きの人がこの平面図だけを見たら、普通の縄張りと思うでしょうね。でも現地で実感するそれぞれの高低差を加味して眺めると、巧みな配置と思えます。

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■今川から徳川■
城の始まりについては定かではありません。鎌倉時代に地頭の砦が築かれたという説もありますが、一般的は駿河の守護・今川家が遠江攻略のために城を築いたのが始まりとされています。今川家の勢力は駿河遠江三河の三ヶ国に及びましたが、桶狭間の戦い(1560年)で当主・今川義元が討たれて以降、徐々に衰えていきます。1568年には武田信玄が駿河に進攻、同時期に徳川家康が遠江に進攻して高天神城を占領しました。家康は今川に服従していた城主・小笠原長忠をそのまま家臣とし、今後は対武田の前線基地となるであろう高天神城を守らせました。

駿河と遠江の国境に位置する高天神城。城主・小笠原長忠の守りは堅く、1571年には武田信玄が大軍で攻めかかりましたが、僅かな兵で籠城し、これを凌いでいます。あの武田信玄でも落とせなかった城ということですね。高天神城は難攻不落の城として世に知られるようになります。

<高天神城からの眺め>
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■武田勝頼対徳川家康の争奪戦■
いわゆる『高天神城の戦い』とは、武田勝頼VS徳川家康という構図で行われた重要拠点をめぐる2度の攻防戦の総称です。

(1574年:第一次高天神城の戦い)
武田信玄が1573年に没したのち、今度は跡を継いだ勝頼が高天神城を攻めます。勝頼はこの城の攻略の為に拠点として諏訪原城を築いたうえで、2万5千の大軍で高天神城をとり囲みました。城主の小笠原長忠は籠城で耐えながら、浜松城の徳川家康に助けを求めます。しかし、援軍は来ませんでした。その間にも武田勢の力攻めにより、曲輪は次々に落とされていきます。残すは本丸のみとなった長忠は、城兵の助命と引き換えに降伏しました。

勝頼の寛大な措置で、城に立て籠った城兵のうち、希望する者たちは武田への帰属が許され、去る者の身柄が拘束されることもありませんでした。城主の長忠は、助けに来なかった徳川を見限り、武田へ降る道を選びました。

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武田勝頼は遠江をほぼ手中におさめることに成功しました。高天神城は武田の手により改修され、旧今川家臣の岡部元信が城将として入りました。

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さて
ここまでは勢いのあった武田勝頼ですが、1575年の長篠の戦い織田徳川連合軍に大敗。優秀な家臣たちをまとめて失った上に、とりまく環境(上杉や北条との外交関係)も変化し、勢いを失っています。


(1581年:第二次高天神城の戦い)
勢いを失った武田に対し、徳川の反撃が始まります。守りの堅い高天神城に対し、徳川勢は力攻めはせず、兵糧攻めを行います。周囲に砦を築いて包囲し、補給路を断ちました。城は本国の武田勝頼に救援を求めますが、援軍は来ません。多く城兵が餓死し、最後は城将の岡部元信らが城から討って出て、率いた兵とともに討ち死に。高天神城は落城となりました。

援軍を送れなかった

徳川家康にも事情があったように、武田勝頼にも苦しい事情がありました。しかし奪ったはずの城を奪い返され、更に援軍を送れなかったことは、武田の威信を失墜させました。その後の家臣団離反の一因になったとも考えられています。高天神城は城そのものの機能だけでなく、それくらい重要な意味を持つ拠点でした。

家康が奪還後、高天神城は城としての役割を終えました。


■現地訪問■
<石碑>
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城の北側から登りました

<搦手門跡> からめてもん
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大手とは逆側です

<登山道>
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ひたすら登る

<三日月井戸>
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いわゆる井戸というより岩肌から水が湧き出て溜まるところなのでしょう。これも貴重な水の手。なぜか金魚が泳いでいました。

<もうすぐ曲輪>
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曲輪への入り口が見えました

<井戸曲輪>
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名の通りで貴重な水を確保している区画です。籠城の際、飲み水を供給できる井戸曲輪は生き残りをかけた生命線となります。
<井戸>
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『かな井戸』と呼ばれる井戸。『かな』は鉄分と関係がありそうです

<西の丸への階段>
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二つの峰の西側へ、登った先は高天神社です

<高天神社>たかてんじんじゃ
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西の丸付近に鎮座している天神社。もともとは別の曲輪(御前曲輪)に鎮座していましたが、江戸時代にこちらへ移されました。高い所にある天神さまということで高天神と呼ばれています。

<西の丸>
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西側の峰の頂上です

<堀切>ほりきり
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西の丸から馬場平へ向かう途中の堀切です。西の丸側から撮影していますので、奥が馬場平です。

<馬場平>
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ここは険しい山城の上層に位置しています。見張番所があったと考えられています。

<細い尾根道>
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犬戻り・猿戻りと言われる難所です。本国の武田勝頼に敗戦を知らせるべく、家臣が駆け抜けたと伝わります

<二の丸ほか>
以下は西側の峰の周辺の画像です。改修により補強された西側には、戦闘を強く意識した防衛施設が集中しています。天然の地の利に頼らず、人が意識して設けた仕掛けが盛りだくさんです。
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東側へ移動

<的場曲輪>
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<本丸虎口と土塁>
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<本丸>
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高天神城の本丸。東側の峰の頂上です

<元天神社>もとてんじんしゃ
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天神社は元々こちらにありました

<御前曲輪>
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本丸の南側の区画です

<三の丸と土塁>
sn477d (1).JPG
sn477d (2).JPG

以上です

■つわものどもが夢の跡■
「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝。ここで勝つか負けるかは、武田勝頼と徳川家康のその後の運命にも大きく影響しました。
<元天神社>
shirononagori477x.JPG

------■高天神城■------
別 名:鶴舞城
築城主:福島氏
築城年:詳細不明(16世紀初頭)
改修者:武田勝頼
城 主:小笠原氏・岡部氏
廃城年:1581年(天正9)
[静岡県掛川市上土方・下土方]



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2020年07月13日

最後の改修者のなごり 高天神城の横堀

今回は高天神城に残る長い横堀の話です。
<横堀>よこぼり
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この堀は徳川から奪い取った城跡を、武田勝頼が改修した時に掘られた横堀です。

<説明板>
sn455a (4).JPG
武田による堀であることが記されています

高天神城は三方が崖であるのに対し、西側の斜面だけはやや緩やかになっています。この弱点を見極め、高天神城を西から攻め落とした勝頼は、城を手中にするとこの弱点を克服すべく城を改修しました。

<高天神城の全体図>
shirononagori437b.JPG
[現地撮影:高天神城想像図]
この図は一城別郭(いちじょうべっかく)の代表例として扱われる高天神城が完成した状態。いわば城の能力がピークの時です。ご覧のように、西側(左手)の峰と東側の峰で、まったく別の城があるかのような構造になっています。

城は東側の峰に砦が築かれたことから始まります。城が拡張される過程で、西側の峰がどのように利用されていったか詳細は分かりませんが、勝頼の改修時に『ひとつの城』として完成しました。

<西側の守り>
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sn455r (2).JPG
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冒頭の堀のみならず、後から補強された西側には、戦闘を強く意識した防衛施設が集中しています。天然の地の利に頼らず、人が意識して設けた仕掛けが盛りだくさんです。この付近で言うと堀に加えて土塁や切岸(土の壁)、そして堀切といった防衛施設が散りばめられています。あまり大きな城ではないだけに、これらを一気に見て回れるところが城好きにうけるのかもしれません。

<つわものどもが夢の跡>
砦から始まり、今川・徳川・武田それぞれの手で改修されてきた城跡です。家康は高天神城を武田から奪還すると廃城としましたので、最後の改修者は武田勝頼ということになります。

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勝頼の思いが形となって残っています。

■訪問:高天神城
(二の丸〜袖曲輪付近)
[静岡県掛川市]


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2020年07月11日

活動自粛の夏(2020年)訪問済の城跡でブログ更新中

2020年は新型コロナウイルスの影響でほとんど城巡りをしていません。『緊急事態宣言』は解除されましたし、県境をまたぐ移動自粛も解除はされていますが、まだ自由に旅したりする雰囲気ではありません。

<高天神城跡>
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ここ何回かに分けて投稿させて頂いたこの城も、実際には昨年の訪問です。この時は諏訪原城とセットでの訪問でした。

<諏訪原城跡>
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こちらについては昨年投稿済です

私の城跡巡りはほぼ独り。ただ時々お仲間と訪問することもあります。この時も会社のお仲間2人と。運転の上手な両名に助けられ、貴重な体験をすることができました。

<高天神城にて>
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自分も含め、あまり人の画像は投稿しないようにしていますが、今回は特別に。後ろ姿ならOKというご本人たちの了承も得ています。登ったり下りたり、こんなのに付き合ってくれる友人は稀です。感謝しています。


移動自粛は解除されましたが、コロナの影響そのものは長引くような気がしています。人に迷惑とならないよう今後も自主的に注意を払うつもりですが、長期の構えになることを考えれば、様子をみながら、そろそろ活動を再開しようかと思っています。そもそも城跡は人が少ないですし、私はもともと単独行動が基本なので。

ただ、とりあえずはひっそりと活動を開始しますが、またいつか、お仲間と語り合いながら城を訪問してみたいですね。早くそういう時が訪れますように。

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[撮影:高天神城跡(掛川市)]

2020年7月11日


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城用語 御前曲輪 御前とは(高天神城 御前曲輪)

要害の地に築かれた高天神城の本丸付近に『御前曲輪』と呼ばれる曲輪があります。この御前は、身分の高い武将に対する敬称ではなく、神仏を指すと受け止める方が適切のようです。曲輪とは城の区画のことですので、それに御前がつくということは、何らかの祭祀の場と思われます。

<御前曲輪近くの鳥居>
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こちらは高天神城の御前曲輪に隣接する天神社です。江戸時代に別の曲輪へ移されましたが、もともとはここ鎮座していました。

<元天神社>もとてんじんしゃ
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いわゆる天神さまですね。城の守護を担う神社として創建されたことに始まりますが、廃城後も地元の人の信仰を集め現在に至ります。

<高天神社>たかてんじんじゃ
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こちらは現在の天神社で、西の丸付近に鎮座しています。

ちなみに、城も地名も『高天神』と呼んでいますが、「高い所にある天神様」という意味ですので、こちらの神社は高という呼び名の天神社ということですね(ちょっと理屈っぽいですかね)。

<御前曲輪>ごぜんくるわ
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高天神城の御前曲輪はこの観光用の城主パネルが目印です。これを見てしまうと、「ご老公の御前である!」ではないですが、高位の武士やその側室の『御前』を連想してしまいませんかね。そうではなく、当時の天神社のすぐ目の前の曲輪だから御前曲輪ということですね。

<縄張り図>
sn443c.JPG
高天神城の御前曲輪は、城の中核である本丸とほぼ一体となった区画です。本丸付近の祭祀の場だったと受け止めるのが自然ですね。

ということで
『御前』の意味についてでした。全国の城すべてに共通かどうかまで調べていませんが、高天神城を訪れる方が、そんな目で御前曲輪と天神社を眺めてくれると嬉しいです。


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タグ:城用語
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2020年07月10日

荒々しい山城で出会ったほのぼのパネル武将(高天神城 御前曲輪)城主・小笠原信興のなごり

武田と徳川による壮絶な争奪戦のなごりを留める高天神城。歴史的な重みに加えて、かなり特徴的な縄張りと見事な遺構、そして荒々しい山肌。それほど大きくはありませんが、城マニアをうならせる『中世の土の城』です。そんな城跡ですから、あまり『観光地』という雰囲気は漂いません。それだけに、若干違和感があるのが下の画像です。

shirononagori442a.jpg
本丸の南側の御前曲輪で撮影。武将とお姫様を象った顔出しパネルです。

明らかに異質です。ちなみに、背後のコンクリートもこの城跡にあっては異質。では駄目なのか?いや、そういう意味ではなく、ちょっと浮いた感じがするのは事実です。

ただまぁせっかくですので(何が?)、現地で素通りしたとか、まったく興味がわかなかった方のために、あえてご紹介させて頂きます。無機質なコンクリートの方を先に説明すると、これは戦前に地元出身の軍医少将が『模擬天守』を建てたなごりです。建物は落雷で焼失し、土台だけが残ったものとのこと(現地説明板より)。ではひと際目立つあのパネルは?こちらはこの城を守った英雄です。

■小笠原信興■ おがさわらのぶおき
この方は地元に根をはる豪族であり、高天神城の城主です。通称は与八郎。もともと今川の家臣でしたが、今川に代わって遠江国の支配者となった徳川家康に属し、対武田の最前線にあたる高天神城の城主を任されました。

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ここでは『小笠原与八郎長忠』と記されています。姫様は『奥方』のようですね。

高天神城は『高天神を制する者は遠江を制す』とまで言われた重要拠点です。1571年には、あの武田信玄が大軍を率いて高天神城に攻め掛かったこともありました。しかし与八郎こと信興は、わずかな兵で籠城し、武田軍を撃退しました。

凄いですね!

これにより、高天神城は難攻不落の城として知られるようになります。

しかし、これで終わりではありません。信玄亡き後の1574年、今度は武田勝頼がまた大軍を率いて高天神城に攻め掛かりました。繰り返しますがここは徳川の『最前線』なのです。攻める武田も必死です。小笠原信興は籠城しながら浜松城の徳川家康に助けを求めます。しかし、援軍が来ることはありませんでした。

家康にも事情があったとは思いますが、信興にしてみれば、約2ヵ月間も持ち堪えながら、誰も助けにこなかったことは重い事実。最後は城兵の助命を条件に降伏しました。

武田勝頼の寛大な措置で、城に立て籠った城兵のうち、希望する者たちは武田への帰属が許されました。小笠原信興は最前線で奮闘する自分たちに援軍をよこさなかった徳川を見限り、武田に降る道を選びました。

まぁ家康に反旗を翻したことになりますが、籠城した兵たちの無駄死にを避けたという結果を伴っており、武将として筋が通らない話とは思えませんね。更に、小笠原氏はもともと地元の豪族ですから、自然な流れとも言えます。

■つわものどもが夢の跡■
<高天神城からの眺め>
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小笠原信興も眺めたであろう景色です

武田に降ったあとの小笠原信興の消息については、諸説あってはっきりしていません。ただ、直後の徳川勢との闘いで、小笠原信興が武田勢の先鋒だったという記録があります。

ということで
冒頭のパネル武将は、この城ゆかりの凄い武将だったというお話でした。

■訪問:高天神城 御前曲輪
[静岡県掛川市]



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2020年07月09日

信玄でも落とせなかった山城を攻略した武田勝頼 (高天神城) 

今回は偉大な父の跡を継いだ武田勝頼の話です。

■武田家を滅亡させたイメージ■
勝頼は武田信玄の息子であり後継者ですが、カリスマ武将の父との比較で、評価はあまり高くありません。武田家は勝頼の代で滅亡したことは事実ですから仕方ないですかね。ただ、まるで無能だったかのような扱いで描かれている映画や小説を目にすると気の毒で、当ブログでは何度か勝頼を庇うような論調で投稿させて頂いております。良かったら覗いてみて下さい

⇒武田勝頼は弱くない!(蒲原城)
→『記事へすすむ

⇒諏訪四郎勝頼のなごり(諏訪原城)
→『記事へすすむ

今回もほぼ同じ内容です。
ただ、舞台は高天神城です。

<高天神城>たかてんじんじょう
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山城

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曲輪

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土塁

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城内からの眺め

要害の地に築かれた山城です。ここは遠州を征するのに欠かせない拠点。武田と徳川の激しい争奪戦が繰り広げられた場所です。あの武田信玄が大軍で攻めても落とせなかった難攻不落の城ですが、信玄の跡を継いだ勝頼により、一旦は武田の城となりました。

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山城の西側の斜面のこの横堀は、武田時代に設けられました。高天神城を西から攻め落とした勝頼が、弱点を補うために構築した跡です。


■出戻り四男の当主■
武田勝頼は信玄の四男。母は信濃国の諏訪家当主・頼重の娘で、信玄が諏訪領を攻略したのち、諏訪家へ送りこまれました。諏訪四郎勝頼を名乗り、武田配下の一勢力として武功を挙げたと伝わります。

そのまま何事なければ、勝頼は諏訪家の当主として、父や兄をサポートする役割を担ったはずです。しかし嫡男である兄・義信が、謀反の疑いで武田家を継ぐ権利をはく奪されるに至り、他の二人の兄が候補者に成り得なかったことから、勝頼は諏訪家から武田家へ戻ることになりました。

勝頼は信玄の実の子です。ただ、一旦は諏訪四郎勝頼を名乗った男。家臣団の間で既に諏訪家当主として浸透してしまっている立場から、武田家当主となるのは順当な流れではありません。名門武田家では、将軍から偏諱をもらい、官位を受けるのが普通。しかし勝頼にはそれもなく、名前に武田家の通字である「信」もありません(勝頼の『頼』は諏訪家の通字です)。明らかに従来の『お屋形様』と比較して異質な存在でした。

1573年に武田信玄が亡くなり、勝頼はここで初めて武田姓に戻し、武田家の第20代当主となりました。信玄の死は突然のことで、残した課題はたくさんありました。勝頼は身内からの信頼も不安定なまま、信玄の死を機に巻き返しを図ろうとする織田信長や徳川家康と激突します。

信玄亡きあとの武田家は弱い?

とんでもありません。武田勝頼率いる武田軍は快進撃を続けました。身内をまとめるのに一番役に立つ方法は、外の敵と向き合い、更に勝利すること。勝頼は信玄の拡大路線を引き継ぐ一方で、このことも意識していたのではないでしょうか。華々しい戦歴のすべてはご紹介できませんが、その代表例が、信玄でも落とせなかった高天神城の攻略です。


■第一次高天神城の戦い■1574年
高天神城の戦い』とは、武田勝頼VS徳川家康という構図で行われた重要拠点をめぐる2度の攻防戦の総称です。
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第一次』と呼ばれるのは1574年5月の戦い。武田側が勝利しました。勝頼は、信玄にも仕えた重臣・馬場信房を遠江に派遣し、高天神城を落とすための拠点として諏訪原城を築かせます。そのうえで、2万5千の大軍で押し寄せ、徳川方の小笠原信興(のぶおき)が千人で守る山城を落城させます。浜松の徳川家康は、援軍を出すことができませんでした。

信玄でも落とせなかった城を攻略

織田信長に「天下一強い」と言わしめた武将でも落とせなかった高天神城を、勝頼は落としました。勿論これだけで比較するつもりはありませんが、決して弱い戦国武将などではないのです。

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この時、勝頼は籠城して抵抗した敵の諸将の命を奪いませんでした。将兵の助命と引き換えに降伏した城主との約束を守ったわけですね。希望する者は自らの家臣とし、去る者は追わなかったそうです。


■つわものどもが夢の跡■
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高天神城を攻略できたことで勝頼は自信過剰になり、家臣の助言を受け入れなくなり、それが原因でやがて滅亡したという考え方があります。実際はどうなんでしょうね。出戻りで嫡男でもなかった勝頼は、自信過剰になれるほどの余裕もなく、ただただ勝ち続けることでしか武田家を束ねられなかったような気がします。

■訪問:高天神城
[静岡県掛川市上土方嶺向]


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