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2020年08月01日

城跡に思えた丘 岩槻太田氏ゆかりの地(知楽院)

今回の訪問は岩槻太田氏ゆかりの寺です。

<知楽院>
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さいたま市岩槻区城町の知楽院さんです。岩槻太田氏ゆかりの由緒あるお寺です。

<六地蔵>
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今年はコロナで大変ですからね。私もマスクをしての訪問です。

<本堂>
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臨済宗円覚寺派の寺院

<合城山>
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山号は合城山

<合城山知楽院>
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知楽院の名は、太田資頼(すけより)の法号に由来します。資頼は知楽斎道可と号しました。あの太田道灌の孫にあたり(諸説あり)、もともとは扇谷上杉氏に仕えていましたが、小田原北条氏に寝返って岩槻城を攻め落とした実績があります。岩槻太田氏の祖ともいうべき人物ということですね。岩槻の戦国武将として名高い太田 資正(三楽斎)は資頼の次男です。

訪れて良かった

岩槻太田氏ゆかりの地を訪ねたことに満足し、岩槻城方面へ向かうことにしました。境内を出て待っていたのは坂道。振り返って撮影するとこんな感じでした。

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知楽院は高台にあるのだなぁ

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谷の方は何かあんのかな

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麓にありがちな水路か

城へ向かうのに低地へ降りた。起伏があるのは当たり前ですので、特筆するようなことではないでしょう。

ただ知楽院さんの位置や方角、そして太田資頼ゆかりの寺といった背景まで加味すると、あの丘の一帯は戦と関連ある何らかの拠点だったのではないか?という思いがこみ上げ、何度も振り返ることになりました。

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台地の隅か

岩槻城の出城?を想像したのではなく、その逆です。岩槻城を攻める陣城として最適な場所だと感じました。あくまで個人的に

<岩槻城の縄張り>
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[出典:岩槻城址公園説明板]
蛇行する元荒川を天然堀とする岩槻城は、南側が手薄になります。知楽院さんの高台は、まさに城の南側。昔は湿地だったであろう低地を挟んで、岩槻城と対峙するのに丁度いい場所になります。

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太田資頼が岩槻城を攻めた時
あの高台を拠点としたのでは?

などと考えさせられました。そして、岩槻城はこの方角から攻められることを想定して、のちの時代に新曲輪と呼ばれる新たな出丸が拡張されたのではないかと。

まぁただ証拠はありません。専門家でもない城好きの会社員が、現地でそんな気がしたというだけの内容です。その程度に解釈願います。ただ、私と同じく、徐々に拡張していった岩槻城の縄張りや周辺の地形から、それはあり得るのではないかと思ってくてる人がいたら幸いです。

<知楽院入口>
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坂道を下った先は岩槻城。新曲輪が待っています。

■訪問:知楽院
[さいたま市岩槻区城町]


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posted by Isuke at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]

2020年07月31日

暗渠と城跡26 堀跡を歩く(岩槻)

<堀跡>
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城下町ごと堀や土塁で囲む岩槻城の大構え。ここは岩槻城大構えの最南端の堀跡です。場所は富士浅間神社の西側の道です。

前回の投稿と同じ場所では?
はい、同じです
→『記事へすすむ

前回はお仲間と訪問していたので、探索はここまででした。日を改めて独りで訪問し、もうちょっと奥まで歩いてみました。この日は他も回りたかったので、本当にちょっとだけですが

<富士浅間神社>ふじせんげんじんじゃ
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岩槻太田氏ゆかりの神社です。

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この付近は岩槻としては比較的高い台地の上です。富士浅間神社は更に高台となっており、城下で最も標高が高いといわれています。

<富士浅間神社と堀>
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[出典:岩槻城址公園の説明板]
知楽院の下の富士浅間神社が現在位置。その下をカーブしながら左へ向かう水色が岩槻城大構えの堀です。

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左手が堀跡で右手が富士浅間神社

では
前回の続きをここから始めます。そのために来ました。方向で言うと北西に向かうことになります。

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右手が堀の内側ということですね。かつては土塁があったのでしょう。ここは岩槻城そのものの堀跡ではなく、岩槻城大構えの堀跡。城から比較的近い場所です。

府内という立派な町名からして、かつて国府が置かれた場所とか?これについては帰宅後に調べましたが、はっきりしたことは分かりませんでした。

さて

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てくてく歩き続けましたが、だいたいこんな感じで住宅街を進むだけ。やがて大きな通り(国道16号)に出て、そろそろやめようかと思いましたが、道の向こう側も堀跡がはまだまだ続くようなので、歩道橋を渡ってもうちょっとだけ進むことにしました。

そして

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堀跡の進行方向右手、つまり大構えの内側に普通の住宅ではないなにかを見つけました

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何かの跡地か?

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土が盛ってある

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大構えの土塁跡?

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ここは城町竹林公園。総じて平坦な敷地内の堀跡側にだけ土が盛ってあるので、土塁のなごりではないかと期待して調べましたが、確証は得られませんでした。

<城町竹林公園>しろまちちくりんこうえん
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屋敷跡が公園になった?などとも期待しましたが良くわからず。雰囲気は漂いますが残念です。ただ、見事な竹林にしばし癒されましたので、歩いた甲斐はありました。


ということで
岩槻探索中に堀跡を歩いてみたというだけの内容でした。堀跡はこの先まだまだ直線のまま続きます。そして

<住吉神社>
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こちらの岩槻住吉神社さんの敷地に突き当たり、ようやく方向を変えます。

住吉神社まで一気に進むのも良いですね。そこより先は昔の武家地。そんなことをことを感じながら。

ただ、私は先ほどの城町竹林公園から数百メートル北東にある『知楽院』さんを経由したかったので、竹林を眺めたのち、一旦堀跡に別れを告げました。

<次の訪問地>
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次の投稿へ続きます

■訪問:
富士浅間神社
[さいたま市岩槻区府内]
城町竹林公園
[さいたま市岩槻区城町]
岩槻住吉神社
[さいたま市岩槻区仲町]

■用語:大構え:
現地で見た表示:大構(『え』はなし)
同じ意味の用語:
総構え(そうがまえ)惣構(そうがまえ)


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タグ:暗渠と城跡
posted by Isuke at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 暗渠と城跡

2020年07月28日

暗渠と城跡25 岩槻城大構え最南端の堀跡

つわものどもが夢の跡
街ごと堀と土塁で囲んだ岩槻城総構え。今回はその最南端の堀跡と高台の話です。

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■大構え■おおがまえ
城だけでなく、城下町も含めて外周を堀や土塁で囲んだ構造のことを総構え(そうがまえ)、あるいは総曲輪(そうぐるわ)といいます。小田原が有名ですが、ここ岩槻も同じ。岩槻では大構え(おおがまえ)と呼んでいますが、意味は同じです。現地での表示を見ると『え』は不要で『大構』で良いようです。
<岩槻城の縄張り>
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岩槻城址公園で撮影しました。城の北側は天然の川として、南側については、城下町を取り囲むように堀が設けられています。これが大構です。

さて
今回のご紹介はその『大構え』の最も南側に位置する堀跡です。上の図だと南側が切れてしまっているので、画像を追加します。

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ここが大構えの最南端の堀。堀は既に埋められて存在していませんが、すぐ上(北)の富士浅間神社を目印に、位置を確認することはできます。

<富士浅間神社>ふじせんげんじんじゃ
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岩槻太田氏ゆかりの神社です。社殿は1991年に再建されたものです。

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説明によれば、当神社は岩槻城主の太田氏が、城下で最も標高の高い当地に冨士山頂から神霊を勧請したことに始まるようです。

そもそもこの付近一帯が台地の上に位置しています。更に高台にある富士浅間神社の境内が、城下最高峰ということですね。

そして
地図にも記されていた通り、富士浅間神社の南側が大構えの堀です

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こちらがかつての堀の現在の姿です。右手の斜面が富士浅間神社です。

すっかり埋められていますね。蓋をされた水路だけが、かつて水堀だったなごりをそれとなく留めています。大構の堀の内側は基本的には土塁。この地点においては、富士浅間神社が鎮座する城下最高峰の丘がその役割を担っていたのでしょう。岩槻城大構えの最南端にして、最も高い土の壁が立ちはだかった場所ということですね。

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地図で堀がカーブしている地点

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その先はしばらく直線だったわけですね

以上
岩槻城大構えの最南端の堀跡でした。岩槻を散策してみたいという人の参考になれば嬉しいです。

■訪問:富士浅間神社
[さいたま市岩槻区府内]


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posted by Isuke at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 暗渠と城跡

2020年07月27日

奥東京湾のなごり(岩槻)真福寺貝塚

今回は岩槻区の南部を探索した時に出会った貝塚の話です。

<真福寺貝塚>しんぷくじかいづか
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この説明板によれば、縄文時代後期から晩期の貝塚・集落跡とのこと。直径100mの円形に貝塚が分布しているようです。

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ここは埼玉の岩槻。海がこんな奥地まで侵入していたわけですね。そして海の水が退いた跡には、広大な湿地が広がった。現在確認できる地形から、何となく大昔の情景が想像できます。あくまで想像の域ですが。

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細かく砕けた貝が確認できます

発掘調査の結果、土偶や打製石斧など多数の遺物が出土したそうです。ここで発見されたみみずく土偶は国の重要文化財に指定されています。

みみずく土偶?

<みみずく土偶>
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こちらは本物ではありません。駅前で撮影しました。この土偶がほぼ完全な形で見つかったそうです。

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人間の姿を模した素焼きの人形、つまり土偶。その顔がミミズクに似ていることからこの名前がつけられているとのこと。 なるほど。

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参考になりました

それにしても
岩槻でも貝塚か

おおむかし、海岸線が関東平野の奥まで達していたことはよく知られていますね。いわゆる奥東京湾です。埼玉の南部において、貝塚はそんなに珍しくはありません。

では
関東で最北の貝塚はどこなんだろう?

調べてみたら、最も内陸の貝塚は栃木にあるそうです。えっ!と思いましたが、現在の渡良瀬遊水地付近と聞くと、なんとなく納得してしまいました。ただ、関東がいかに平野か思い知った気がしました。

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ちなみに、この付近の台地の標高は10m強と言われています。貝塚はその台地の隅で、人が暮らしていたなごり。ついそこまで海が迫っていたなごりですね。

■訪問:真福寺貝塚
[さいたま市岩槻区城南]3丁目

2020年07月26日

岩槻の低い丘と浅い谷 浮城と呼ばれた岩槻城の情景に思いを馳せる

今回は浮き城と呼ばれた城の『地の利』を実感するため、街探索のお仲間と岩槻区内を散策したという内容です。地形が分かると、築城者の思惑までも分かる。そんな気がして

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湿地のなごり

■低い丘と浅い谷■ 
この日は現地に詳しいさんのご案内で、『岩槻台地の浅い谷と湧水を巡る』と題した探索に参加させて頂きました。岩槻台地とは大きな意味では大宮台地の一部です。しかし、同じ大宮台地でも、私の慣れ親しんだ浦和付近とは随分事情が異なります。岩槻は総じて平で、低層の台地と深くはない谷により構成されていることを実感。また、地下水位が浅いのか、ほぼ平坦と言っていい緩やかな斜面から透明な水が湧き出しているのを目の当たりにして、この土地の特徴を、ほんの少しとはいえ肌で感じることができました。以下はその時の画像です。岩槻城からはちょっと離れた南側のエリアです。

<元荒川と川沿い>
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探索のスタート地点(岩槻区村国)付近の元荒川

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元荒川沿いの低層の台地

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台地を縁取るカーブ

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整備された水の路

次にやや元荒川からは離れた場所。住所だと岩槻区城南3丁目付近です。

<真福寺貝塚>しんぷくじかいづか
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縄文時代後期から晩期の集落跡です。海がこんな奥地まで侵入していたわけですね。そんなはるか昔にまでは思いが及びませんが、微妙な高低差を感じながら、戦国時代のこの付近の情景を想像して楽しみました。

次にまたちょっと街中に。岩槻区府内の富士浅間神社です。

<富士浅間神社> ふじせんげんじんじゃ
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岩槻太田氏ゆかりの神社です。地形で特筆すべきは、この神社の高台が、岩槻城下で最も高台に当たるということです。この高さで最高峰。岩槻の台地がいかに低層か実感します。
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そしてこの位置が岩槻城の総構えの最南端となります。この道は堀のなごりでしょう。

最後に
かなり南へ移動して

<久伊豆神社> ひさいずじんじゃ
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元荒川流域を中心に分布する久伊豆神社は、岩槻区内にも複数存在します。こちらは南下新井の久伊豆神社です。
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そしてこの神社の近くの里山

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透明な水の流れ。もっと高低差のある台地の麓から水が湧き出る光景は何度も目にしていますが、かなり緩やかな斜面から湧き出ているのが新鮮でした。岩槻城からはかなり離れた場所ですが、市街地化が進む前は、城の周辺の台地上はこんな感じだったのではないでしょうか。

だいたい以上です
当日は他にもいろいろと見て回りましたが、全てはご紹介できないので抜粋させて頂きました。


■城好き目線で見た岩槻■
岩槻城を強く意識している私は、台地と低地と水辺の関係を強く意識して探索しました。
<岩槻城の縄張り図>
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[撮影:岩槻城址公園]
岩槻城址公園で撮影したかつての岩槻城です。蛇行する元荒川が見事に天然の堀の役割を果たしていますね。そしてその内側が岩槻城の中心部分。沼に浮かぶ島を城としたわけですね。もともとの地形を活かした縄張り。逆の言い方をすると、この縄張り図が『ほぼ』この付近の高低差を現しているのでしょう。

川でも沼でもないところは台地。沼や河川沿いはそれより低い平坦な土地が開け、更に低いところへは水が入り込むか沖積平野になっている。これらに極端な高低差はなく、複雑に組み合わさった状態。これが浮き城と呼ばれた岩槻城の『地の利』なのでしょう。

いまでは元荒川の流路も変わり、大きな沼も姿を消して、その頃の面影もだいぶ失われました。ただ今回、比較的自然が豊かな郊外を探索させてもらい、むかしの景色を思い浮かべる想像力をちょっとだけ頂けたような気がします。本当にちょっとだけですが。


探索を企画したさんは勿論、現地でお世話になった皆さん、あと私と一緒に浦和から参加したお仲間二人にも感謝したいと思います。

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また来ますかね


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posted by Isuke at 05:19| Comment(2) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]

2020年07月25日

玄奘塔 あの三蔵法師の霊骨が埼玉に(旧岩槻市)慈恩寺

今回はあの三蔵法師の霊骨が分骨されているという岩槻の寺院を訪ねた話です。

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三蔵法師といえば西遊記を思い出す方が大半ではないでしょうか?孫悟空や沙悟浄、猪八戒の顔まで連想してしまいます(世代的に夏目雅子と堺正章・岸部シロー・西田敏行になってしまいますが)。
そんなドラマや映画で親しんだ三蔵法師の遺骨がさいたま市にある。初めて聞いた時は驚きでした。そもそも日本にあると思っていませんし、更に奈良でも京都でもなく埼玉ということが意外でした。

ということで
お邪魔させて頂きました

■現地訪問■
私は東武鉄道野田線の豊春駅から徒歩で現地へ向かいました。迷わず歩いて30分弱でしょうか。豊春は春日部市。目指す慈恩寺は旧岩槻市。両市の境目あたりに位置しています。

<豊春橋>
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豊春という住所はなく、これはかつての村の名前です。駅名や地区名が、かつての村の名をいまに留めています。

<道のり>
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穏やかな道のり

そして

<現地到着>
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こちらですね。到着です。慈恩寺の本堂は離れたところにあり、ここは石塔のみです。ではお邪魔致します。

<玄奘塔>げんじょうとう
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遺骨を奉安した塔。ここに収められているのですね。独特の雰囲気に息をのみました

<玄奘塔>
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高さ18m。十三重の石塔です

<説明>
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三蔵法師については言うまでもありませんが、中国の唐の時代の僧侶ですね。長安を出発して、長い長い年月を費やし、インドのナーランダ寺院から経典を持ち帰った高僧です。経典といっても言語が違いますので、サンスクリット語から漢語へコツコツと訳し続けました。

<玄奘西城紀行図>
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砂漠や山脈を越えて行ったのですね。いや、更に戻ってきたわけです。

あと、ちょっと正確に言うと、三蔵法師というのは経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶のこと。我々が思い浮かべる三蔵法師の固有名詞ではありません。玄奘三蔵といった場合の玄奘(げんじょう)はご本人の戒名ですので、こちらを使う方が良いのかも知れませんね。

さて
では玄奘三蔵の遺骨がどうして岩槻に

遺骨は宋の時代に長安から南京にもたらされたのち、太平天国の乱で行方不明となっていました。戦争中に南京を占領していた日本軍が、土木作業中に頭骨を納めた石箱を偶然発見。南京政府に戻されましたが、日本へも分骨されるに至りました。

当初は増上寺に安置されたようです。これは納得。しかし当時の東京は空襲の被害が広がっており、一時埼玉県蕨市の三学院に移され、のちに三蔵法師の建立した中国の大慈恩寺にちなんで命名された岩槻の慈恩寺に移されました

なるほど
いわば戦時中の疎開がきっかけだったわけですね。その後、岩槻の慈恩寺から台湾の玄奘寺や奈良の薬師寺へも分骨されたとのこと

来てみて良かった
納得して豊春駅へ戻りました


最後に
実は個人的にどうしても訪ねたい理由がありました
<大雁塔>だいがんとう
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玄奘三蔵が持ち帰った経典などを保存するために、長安の大慈恩寺に建てられた塔です。古い古い写真で恐縮です。学生時代に中国を旅した時に撮影したものです。優雅な旅?とんでもありません。服はボロボロ、バックパッカーの貧乏旅行です。今では観光スポットですが、当時は人影もまばらでした。若い頃にここを訪ねた記憶に突き動かされ、駅からてくてくと歩いたような気がします。

<玄奘塔>
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玄奘三蔵の霊骨が眠る場所です

■訪問:慈恩寺の玄奘塔
[さいたま市岩槻区大字慈恩寺]


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2020年07月24日

追記 元荒川の旧流路(暗渠と城跡22岩槻城の天然堀のなごり)

2ヶ月ほど前に、元荒川の旧流路に気づいて川跡を追った記事を投稿しました。

暗渠と城跡22
岩槻城の天然堀のなごり
[投稿:2020年05月31日]
→『記事へすすむ

-------■概 要■-------
岩槻の龍門寺というお寺を訪問し、その近くで川跡の雰囲気を醸し出す空き地をみかけた。それは岩槻城にとっての天然堀・元荒川のむかしの流路だと分かった。

<川跡>
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<龍門寺>
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龍門寺[さいたま市岩槻区日の出町]

ざっとそんな内容でした。


-------■追 記■-------
あれから約2ヶ月
コロナの影響で遠出をひかえているせいもあり、家から比較的近い岩槻区にお邪魔する機会が増えました。
久しぶりに訪ねた岩槻城址公園の説明板で、元荒川と龍門寺の位置関係を改めて確認できたので、その画像を貼っておきます。
<説明板>
shirononagoriMAPiwatsukijo.jpg

<元荒川の旧流路と龍門寺>
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龍門寺を見つけました。すぐそばを流れる元荒川も。間違いありません。ちょっと付け加えるなら、この位置で川は再びカーブするのですから、龍門寺は少し高い位置にあるということですね。現地では極端な高低差は実感できませんでしたが、お隣の新正寺曲輪と同様、低層の台地上に位置しているようです。

<岩槻区内の元荒川>
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まぁ最初からすべて分かっていたら、空き地を見てあんなには燃えなかったことでしょう。かといって、川の蛇行について漠然としたイメージすらなければ、素通りしていたでしょう。

知り尽くしてしまうと面白さもない

学校や職場の試験じゃないんだから、趣味は60点くらいの感覚でよしとしますかね。人にもよりますが、私はその程度の方がずっと楽しめるような気がします。

以上

過去記事の追記でした


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2020年07月23日

コロナに負けるな!(2020年7月) 岩槻駅にて

岩槻駅でこんな行灯を目にしました

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医療従事者に感謝
コロナに負けるな!

新型コロナウイルスと戦う人たちへのエールです。医療従事者は勿論、介護従事者の皆さんなど『途切れたら人の命に係わる仕事』で奮闘する人たちには、感謝と敬意をはらいたいですね。

そして

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がんばれ!岩槻

こんな方も参加されていました。この方は岩槻太田家を代表する勇猛果敢な武将。岩槻城主の太田資正です。関東を席巻する小田原北条氏に歯向かった反骨の男です。城を追い出されても抵抗し続けました。

ギブアップしない

私にとってはそんなイメージの戦国武将です。


2020年は新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、春頃から外出自粛や県をまたぐ移動の自粛の呼びかけがなされてきました。その期間に限れば一定の成果はあったのではないでしょうか。

しかし緊急事態宣言が解除され、感染者数は再び増加傾向にあります。本日新たに確認された感染者は東京だけで366人、全国では900人超とのこと。更に、消費喚起を目的に、人の動きを促進するような計画までも実行されようとしています。こんなところで政治に関わる発言はしませんが、私個人は従来通り『むかし訪問した城跡』か、あるいは『地元埼玉』を中心とした活動でブログを更新していこうと思います。

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まだお地蔵さんもこんな状態ですからね。撮影したのは岩槻区の知楽院さんです。

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岩槻太田氏ゆかりの寺院です。同じ埼玉県でありながらまだまだ知らないことばかり。

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知楽院は高台にあるのだなぁ

遠出できないのは不便ではありますが、地元をゆっくりと味わう機会を得たのだと思い、普通なら素通りしてしまいそうなことに足を止めて楽しみたいと思います。当面は行動範囲の狭い拙ブログですが、今後とも宜しくお願い致します。

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谷の方は何かあんのかな

2020年7月23日


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城跡として訪ねる豪徳寺(世田谷城)

今回の訪問は世田谷区の豪徳寺です。大名井伊家の菩提寺として知られている一方で、招き猫発祥の地としても知られ、縁起の良いスポットとして人気です。

■豪徳寺の概要■ごうとくじ
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曹洞宗の寺院です。当地は戦国時代には吉良家の居城・世田谷城でした。城主の吉良政忠が、亡くなった伯母の菩提のために創建した臨済宗弘徳院が豪徳寺の前身と言われています。江戸時代に井伊家菩提寺となり、豪徳寺と改号されました。

<井伊家菩提寺>
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<井伊家墓所>
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この先が彦根藩主井伊家墓所です。なかの撮影は遠慮させて頂きました。13 代藩主・井伊直弼のお墓もこちらです。

<鐘楼>
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<三重塔>
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そして人気のスポット

<松福庵(招福庵)>
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はい
詳細は省略しますが境内はだいたいこんな感じです。


■城跡として訪ねる豪徳寺■
では
ここからは城跡目線で

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まず参道です。世田谷城は丘の上に築かれたほぼ単郭(主郭のみ)の城です。現在の豪徳寺の境内がほぼそのまま主郭と思って間違いないです。ここは曲輪の南側の虎口(入口)です。両脇の黒松も見事ですが、土が盛ってあることを意識すると、いかにも城への侵入口であること感じることができます。ちょっと思い込みも必要ですが

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塀でわかりにくいですが、土塁のなごり

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塀の向こう側はもっと分かりやすい。主郭の虎口(入口)へ向かう道の両側に土塁があり、たぶんその途中に門が設けられていたのでしょう。

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境内ギリギリまで土塁

次に境内

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境内の起伏ですが『首塚碑』がありましてので参考程度に

では
城の外周も見て回りますかね

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豪徳寺東門です。正確にこの位置かどうか分かりませんが、この付近にも城への侵入口があったと思われます。
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東門を入った左手。整備されて境内に溶け込んでいますが、石は別として、これがかつての土塁のラインであろうと受け止めました。つまりここより右手(北側)が主郭であろうと。あくまで個人的見解です。

次に北側へ

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豪徳寺裏門です。南側・東側に続き、この付近にも城への侵入口があったと思われます。しかも主郭に直結する虎口だったと思います。また個人的に

ではちょっと豪徳寺を離れて

南側へもう一度戻って坂を下ります。繰り返しますが世田谷城の主郭(豪徳寺)は丘の上ですので、谷へ移動することになります。そんなことも実感しながら移動すると

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世田谷城阯公園です。

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二重堀の跡でしょうか。いわゆる城の遺構です。ここだけが城跡と思っている方も多いようですね。主郭は丘の上の豪徳寺として、ここは麓の出城のような存在だったのでしょう。

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説明板に地図があります。ちょっと拡大してみてみますかね

sn452GOTOKOJI (19).jpg
北側の高台が豪徳寺。現在位置の世田谷城阯公園は南側の麓。こういう構造です。

地図をよく見ると、世田谷城阯公園より更に南側に緑色の線が入っていますね。これはかつての川で、現在は緑道となっています。この川(緑道)が、ここで一旦ゆるやかに南側へ蛇行しているのは、豪徳寺がある高台が南側の低地へ向かって突き出ているから。いわゆる舌状台地ということですね。

城にとっての川
天然堀ということです

どうせここまで来たのですから、この城にとっての『地の利』までも味わうことをお勧めします!

ということで川跡へ

sn452GOTOKOJI (29).jpg
烏山川の跡です。緑道となっていますが、かつての川です。ここには『城下橋』と名付けられた橋が架かっていたようです。

ShiroAnkyo452 (1).jpg
ここには『城向橋』という橋が架かっていたようです。川がないので橋もなくなりましたが、こうやって記してくれることが嬉しいですね。

ShiroAnkyo452 (3).jpg
正確に言うと、烏山川はなくなったのではなく、地下に埋設されただけ。地上からは姿を消しましたが、見方を変えると現役の川なのです。蓋をされた川。いわゆる暗渠ですね。

以上です
こんな風な目線で豪徳寺を訪ねる人もいる。城好きの人と、それが共有できれば幸いです。

■世田谷城について■
世田谷城の築城については詳細不明ながら、吉良治家が1366年に築城したと考えられています。足利一門の名族だけに、周囲からは一目置かれる存在だったそうです。15世紀後半には、あの太田道灌と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として繁栄しました。やがて小田原の北条氏が関東の覇者として君臨しますが、吉良頼康の代に北条氏と縁戚関係をもち、実質は配下でありながら、他とは異なる待遇だったようです。
1590年の秀吉による北条征伐後、吉良氏は上総国生実(現在の千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城となりました。

つわものどもが夢の跡
sn452GOTOKOJI (1).jpg

------■世田谷城■------
築城主:詳細不明(吉良治家)
築城年:詳細不明(1366年)
城 主:吉良氏
廃城年:1590年頃
現 況:豪徳寺・世田谷城址公園
[東京都世田谷区豪徳寺]2丁目

shirononagori452 (1).jpg
豪徳寺駅からは徒歩で10分程度です。世田谷線の宮の坂駅が最寄り駅で徒歩5分程度。今回は城の北側の地形も見たかったので豪徳寺駅を利用しました。



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posted by Isuke at 05:30| Comment(4) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

2020年07月21日

世田谷区に2つの城向橋(暗渠と城跡24) 橋跡に漂う城のなごり

今回は橋跡というだけで川のなごりと城のなごりが漂う場所の話です。

まずは
<城向橋>しろむかいばし
ShiroAnkyo452 (1).jpg
世田谷区豪徳寺の烏山川緑道です。緑道沿いには、暗渠化される前の川のなごりとして、複数の橋の名前が残っています。この橋跡もその一つです。

次に
<城向橋>しろむかいばし
sn Okusawa Ankyo (8).JPG
こちらは世田谷区自由が丘の九品仏川緑道です。道と交差する地点に「城向橋」の標識があります。この道が川を渡るための橋が架けられていたのでしょうね。これも川のなごりです。

城向橋とは、城の向かいの橋、あるいは城へ向かう途中の橋というのが名の由来でしょうか。いずれにせよ、かつてそこに城があったことに由来する名前ですね。そして川があるが故の橋。橋が架かっていた川は暗渠化され姿は見えませんが、かつては水が流れ、城の天然堀の役割を担っていたのでしょう。いわば城にとっての『地の利』ですね。


■烏山川と世田谷城■
<烏山川>からすやまがわ
ShiroAnkyo452 (3).jpg
緑道となった目黒川の支流

<世田谷城跡>
ShiroAnkyo452 (2).jpg
城跡はいまは豪徳寺


■九品仏川と奥沢城■
<九品仏川>くほんぶつがわ
sn Okusawa Ankyo (9).JPG
緑道となった呑川水系の支流

<奥沢城跡>
sn Okusawajo (20).JPG
城跡はいまは九品仏浄真寺


世田谷城は吉良氏の居城。奥沢城はその支城です。かつて栄華を誇った名門吉良氏の城は、ともに寺院へと姿を変えました。そして、それぞれの城を掠めるように流れていた川は、ともに緑道に姿を変えました。

城や川と同じく姿を消した橋の名が、それらのなごりを今に留めています。

■訪問:城向橋
[世田谷区豪徳寺]
[世田谷区自由が丘]


------ブログ過去記事------
当ブログの過去記事のご紹介です。

暗渠(あんきょ)とは地下に埋設された川のこと。暗渠に気付くアンテナがあると、街の中の城跡巡りが一層楽しくなる。天然の堀だった川のなごりを感じることは、城のなごりを感じるのと同じ。

だいたいそういう内容です。
ブログを始めたばかりの頃の記事でお恥ずかしいですが、良かったら覗いてみて下さい。

暗渠と城跡 1 奥沢城のなごり
→『記事へすすむ

暗渠と城跡 2 世田谷城のなごり
→『記事へすすむ



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posted by Isuke at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 暗渠と城跡
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