石川県で震度7を観測した能登半島地震の発生から3日目となりました。亡くなられた方々に心からのお悔やみを申し上げるとともに、被災された方々にお見舞いを申し上げます。
<金沢駅前>
普段は仕事に追われていますので、年末年始は毎日ブログを更新するつもりでした。しかしそのような浮ついた気分は吹き飛ばされ、自然の脅威を実感する正月となりました。
<金沢城>
2023年10月から11月にかけて、金沢城について投稿させて頂きました。今回の地震で石垣の一部が崩れてしまったという話を耳にしました。それはそれで残念ですが、全ては人の命、暮らしがあってのこと。石垣の復旧は先の話で良いと思います。
あまり気の利いたことも言えませんが、またぜひ北陸を旅したいと思っている私にとって、そこで暮らす人たちの平穏が、一日も早くもどってくることが一番の望みです。ただの城好き会社員ですが、そう強く願っております。
2024年1月3日
2024年01月03日
2024年01月01日
2024年(令和6年)の幕開け
今年は辰年ということで、大雪の米沢で撮影した上杉謙信の軍旗を掲げてブログをスタートさせて頂きます。
<懸かり乱れ龍>かかりみだれりゅう
龍の一文字。この流れるような字体の龍は「懸かり乱れ龍」と呼ばれています。
越後の龍と呼ばれた謙信の旗ですから、龍そのものを指していると長らく思っていました。ただ、この文字に込められた本当の意味は不動明王だそうです。謙信の軍旗としてもうひとつ有名なのが「毘」の一文字を記した旗。これはそのまま毘沙門天を表しています。
不動明王と毘沙門天を掲げる
謙信はどのような境地だったのでしょうね
<上杉家御廟所>うえすぎけごびょうしょ
軍旗は上杉家の廟所で撮影したものです
<歴代藩主>
雪に埋もれていますが、謙信のあとを継いだ上杉景勝を筆頭に、米沢藩の歴代藩主の墓が勢ぞろいしています。
<謙信の墓>
廟所の中央は謙信の墓所です。越後の龍は米沢に埋葬されました。
新たな歳となりました。ここ数年続いた新型コロナウィルスの影響はやや緩和されていますが、まだまだ油断はできません。政治・経済、その他諸々、国内だけでもいろんな問題を抱えていますが、世界の情勢はもっと不安定です。こんな弱小ブログで、それに対してどうこう言うつもりもありませんが、せめて自分の手の届く範囲内は、どう振舞えば今よりマシになるのかを考えていきたいと思います。
不動明王は迷いや煩悩を絶ち切る道を示してくれる神です。
2024年1月 元旦 辰年
■画像:上杉家御廟所
[山形県米沢市御廟]
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<懸かり乱れ龍>かかりみだれりゅう
龍の一文字。この流れるような字体の龍は「懸かり乱れ龍」と呼ばれています。
越後の龍と呼ばれた謙信の旗ですから、龍そのものを指していると長らく思っていました。ただ、この文字に込められた本当の意味は不動明王だそうです。謙信の軍旗としてもうひとつ有名なのが「毘」の一文字を記した旗。これはそのまま毘沙門天を表しています。
不動明王と毘沙門天を掲げる
謙信はどのような境地だったのでしょうね
<上杉家御廟所>うえすぎけごびょうしょ
軍旗は上杉家の廟所で撮影したものです
<歴代藩主>
雪に埋もれていますが、謙信のあとを継いだ上杉景勝を筆頭に、米沢藩の歴代藩主の墓が勢ぞろいしています。
<謙信の墓>
廟所の中央は謙信の墓所です。越後の龍は米沢に埋葬されました。
新たな歳となりました。ここ数年続いた新型コロナウィルスの影響はやや緩和されていますが、まだまだ油断はできません。政治・経済、その他諸々、国内だけでもいろんな問題を抱えていますが、世界の情勢はもっと不安定です。こんな弱小ブログで、それに対してどうこう言うつもりもありませんが、せめて自分の手の届く範囲内は、どう振舞えば今よりマシになるのかを考えていきたいと思います。
不動明王は迷いや煩悩を絶ち切る道を示してくれる神です。
2024年1月 元旦 辰年
■画像:上杉家御廟所
[山形県米沢市御廟]
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タグ:山形への旅
2023年12月31日
熊野大社(南陽市)直江兼続も関わった東北の伊勢
2023年の晩秋、東北の伊勢とも呼ばれる山形県南陽市の熊野大社へ行ってきました。
<熊野大社>くまのたいしゃ
和歌山県の熊野三山、長野県の皇大神社とともに、日本三熊野のひとつとされています
熊野大社は806年(大同元年)に平城天皇の勅命で再建されたと伝わる歴史ある神社です。長い歴史のなかには、米沢藩の礎を築いた重臣・直江兼続が大旦那となり、社殿の修復が行われたこともありました。これが1604年(慶長9年)のお話。主である上杉景勝が、徳川家康を敵に回した代償として、会津120万石から米沢30万石に減封された僅か3年後の話です。
上杉家は所領を大幅に減らされながら、家臣の解雇はしませんでした。30万石は決して少ない石高ではありませんが、ピーク時の僅か4分の1です。そんな苦しい状況にあっても、兼続にとって熊野大社への支援は欠かせないことだったのでしょう。
慶長9年の御宮建立棟札に「大旦那直江山城守」の記録が残されているそうです。
ちなみに
熊野大社への支援では、あの伊達政宗も名を連ねています。既に仙台藩主となっており、上杉家とはまだ対立する関係でしたが、政宗は米沢の出身であり、古くからの聖地に思いがあったのではないでしょうか(あくまで個人の想像です)。
<南陽市宮内>
熊野大社の所在地は南陽市宮内。地名が熊野大社の神域に由来することは明らかですね。南陽市はかつての米沢藩の一部。ここから数百メートルのところには、上杉配下の城がありました。守っていたのは家臣の尾崎氏(泉氏)。この尾崎氏は直江兼続の母(蘭子)、つまり父・樋口惣右衛門の妻の実家です。兼続にはこういったご縁もあったわけですね。
<大銀杏>
参道の入口には樹齢900年を超えるといわれる大イチョウ。山形県指定の天然記念物です。私の訪問は11月で、ちょうど見頃でした。源義家の家臣・鎌倉権五郎景政が植えたと伝わりますので、平安時代後期からずっとここに佇んでいるわけですね。ということは、社殿の修復に尽力した直江兼続も見上げたということでしょう。
<石段>
俗世と切り離された別世界へ導かれているようです
<拝殿>
荘厳の拝殿。漂う空気が違いますね。立派な茅葺屋根は平成の大規模改修により、かなり新しく映ります。
<拝殿正面>
熊野大社は上杉家の居城である米沢城の東北にあたることもあり、鬼門の鎮守として大切にされました。正式名称は熊野神社ですが、一般には熊野大社と呼ばれています。
直江兼続を手本として改革に挑み、米沢藩中興の祖となった上杉鷹山も、熊野大社を崇敬し、社殿他の再建に関わったそうです(1778年)。
ところで
<三羽のうさぎ>
本殿裏側のこの見事な彫刻には、うさぎが三羽いるそうです。三羽すべてを見つけると、願い事が叶うとのこと。熱心な方は二羽目まではみつけるそうですが、三羽目が難しいのだそうです。しかも、見つけても人に教えてしまうとご利益はないそうです。
秘密にする以前に
私は一羽しか見つけられませんでした。しかも、周りの人のひそひそ話を耳にして見つけただけです。
<結うさぎ>ゆわいうさぎ
三羽のうさぎにちなんだ置物。境内でおみくじ付きの兎も購入できます
兎年の2023年もあとわずかです。
大晦日になると、来年は良くなりますようにと願いますが、今年も大した成果はありませんでした。個人的にも、そして世の中も。
大それたことを願うつもりはありませんが、苦しい状況に立ち向かって生きた先人たちを見習って、少しずつマシにしていく一年を始めたいと思います。
<熊野大社の鐘>
拙ブログは2024年も続けていきますので、宜しくお願い致します。
<拝殿の龍>
2023年(令和5年)12月31日
お城巡りランキング
■参考
・現地説明板(熊野大社)
・Wikipedia:2023/12/31
・熊野大社HP
https://kumano-taisha.or.jp/
<熊野大社>くまのたいしゃ
和歌山県の熊野三山、長野県の皇大神社とともに、日本三熊野のひとつとされています
熊野大社は806年(大同元年)に平城天皇の勅命で再建されたと伝わる歴史ある神社です。長い歴史のなかには、米沢藩の礎を築いた重臣・直江兼続が大旦那となり、社殿の修復が行われたこともありました。これが1604年(慶長9年)のお話。主である上杉景勝が、徳川家康を敵に回した代償として、会津120万石から米沢30万石に減封された僅か3年後の話です。
上杉家は所領を大幅に減らされながら、家臣の解雇はしませんでした。30万石は決して少ない石高ではありませんが、ピーク時の僅か4分の1です。そんな苦しい状況にあっても、兼続にとって熊野大社への支援は欠かせないことだったのでしょう。
慶長9年の御宮建立棟札に「大旦那直江山城守」の記録が残されているそうです。
ちなみに
熊野大社への支援では、あの伊達政宗も名を連ねています。既に仙台藩主となっており、上杉家とはまだ対立する関係でしたが、政宗は米沢の出身であり、古くからの聖地に思いがあったのではないでしょうか(あくまで個人の想像です)。
<南陽市宮内>
熊野大社の所在地は南陽市宮内。地名が熊野大社の神域に由来することは明らかですね。南陽市はかつての米沢藩の一部。ここから数百メートルのところには、上杉配下の城がありました。守っていたのは家臣の尾崎氏(泉氏)。この尾崎氏は直江兼続の母(蘭子)、つまり父・樋口惣右衛門の妻の実家です。兼続にはこういったご縁もあったわけですね。
<大銀杏>
参道の入口には樹齢900年を超えるといわれる大イチョウ。山形県指定の天然記念物です。私の訪問は11月で、ちょうど見頃でした。源義家の家臣・鎌倉権五郎景政が植えたと伝わりますので、平安時代後期からずっとここに佇んでいるわけですね。ということは、社殿の修復に尽力した直江兼続も見上げたということでしょう。
<石段>
俗世と切り離された別世界へ導かれているようです
<拝殿>
荘厳の拝殿。漂う空気が違いますね。立派な茅葺屋根は平成の大規模改修により、かなり新しく映ります。
<拝殿正面>
熊野大社は上杉家の居城である米沢城の東北にあたることもあり、鬼門の鎮守として大切にされました。正式名称は熊野神社ですが、一般には熊野大社と呼ばれています。
直江兼続を手本として改革に挑み、米沢藩中興の祖となった上杉鷹山も、熊野大社を崇敬し、社殿他の再建に関わったそうです(1778年)。
ところで
<三羽のうさぎ>
本殿裏側のこの見事な彫刻には、うさぎが三羽いるそうです。三羽すべてを見つけると、願い事が叶うとのこと。熱心な方は二羽目まではみつけるそうですが、三羽目が難しいのだそうです。しかも、見つけても人に教えてしまうとご利益はないそうです。
秘密にする以前に
私は一羽しか見つけられませんでした。しかも、周りの人のひそひそ話を耳にして見つけただけです。
<結うさぎ>ゆわいうさぎ
三羽のうさぎにちなんだ置物。境内でおみくじ付きの兎も購入できます
兎年の2023年もあとわずかです。
大晦日になると、来年は良くなりますようにと願いますが、今年も大した成果はありませんでした。個人的にも、そして世の中も。
大それたことを願うつもりはありませんが、苦しい状況に立ち向かって生きた先人たちを見習って、少しずつマシにしていく一年を始めたいと思います。
<熊野大社の鐘>
拙ブログは2024年も続けていきますので、宜しくお願い致します。
<拝殿の龍>
2023年(令和5年)12月31日
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■参考
・現地説明板(熊野大社)
・Wikipedia:2023/12/31
・熊野大社HP
https://kumano-taisha.or.jp/
タグ:山形への旅
2023年12月30日
武蔵へ下った清和源氏のなごり(鴻巣市)伝源経基館跡
鴻巣市の微高台地に築かれた館跡を訪問しました。
<伝源経基館跡>でんみなもとのつねもと
源経基が行政官として坂東に赴いた時の館と推定されています。あくまで、そう「伝」えられている場所ですが、埼玉県指定史跡となっている貴重な館跡です。
<微高台地>
一定の高低差のある台地上に築かれているようなので、分類すると山城ということになります。
<低地>
逆側(西側)は低地です。むかしは荒川の湿地帯が広がっていたと思われます。低湿地に面した台地上に館を構えたわけですね。
<内部>
入口付近より高い位置へ登ると視界が開けます
<郭>
なるほど。中世の館に相応しく単郭式の城跡ですね。東西約95m、南北約85mとのこと
<土塁>
縄張り図はありませんが、ほぼ方形の区画の周囲に、こういう堀を巡らせていたのでしょう
<堀跡>
低湿地に面した西側を除く三方に土塁と空堀をめぐらしたようです。
国司として武蔵国へ入ったといっても、地場の領主や領民が諸手を挙げて歓迎してくれるわけではありません。万が一備えた念入りな館を設備したのでしょう。
<館跡の北側>
フェンスの向こう側は県立高校です
<堀と土塁>
土塁の上に塀または柵を設けていたと思われます
<六孫王経基城阯>ろくそんおうつねもとじょうし
立派な石碑です。皇族の時に六孫王と名乗ったとされる源経基の城跡であることが記されています。経基は清和天皇の皇子の子で、第6子であったことから六孫王と称したと伝わります。
源経基は、清和源氏の中で最も子孫が族繁栄した経基流清和源氏の初代です。具体的に言うと、東国における源氏勢力の基盤をつくった源義家、鎌倉幕府を開いた源頼朝、足利将軍家やその一門の祖となった人物です。
そんな人物がここを拠点とした。
そう思えば、遺構のひとつひとつが奥深いです。
<つわものどもが夢の跡>
まだまだ環境の整わない武蔵へ下った経基は、ここで何を思いましたかね?
■訪問:伝源経基館跡
(別称:箕田城)
[埼玉県鴻巣市大間]
お城巡りランキング
■参考
・Wikipedia:2023/12/30
<伝源経基館跡>でんみなもとのつねもと
源経基が行政官として坂東に赴いた時の館と推定されています。あくまで、そう「伝」えられている場所ですが、埼玉県指定史跡となっている貴重な館跡です。
<微高台地>
一定の高低差のある台地上に築かれているようなので、分類すると山城ということになります。
<低地>
逆側(西側)は低地です。むかしは荒川の湿地帯が広がっていたと思われます。低湿地に面した台地上に館を構えたわけですね。
<内部>
入口付近より高い位置へ登ると視界が開けます
<郭>
なるほど。中世の館に相応しく単郭式の城跡ですね。東西約95m、南北約85mとのこと
<土塁>
縄張り図はありませんが、ほぼ方形の区画の周囲に、こういう堀を巡らせていたのでしょう
<堀跡>
低湿地に面した西側を除く三方に土塁と空堀をめぐらしたようです。
国司として武蔵国へ入ったといっても、地場の領主や領民が諸手を挙げて歓迎してくれるわけではありません。万が一備えた念入りな館を設備したのでしょう。
<館跡の北側>
フェンスの向こう側は県立高校です
<堀と土塁>
土塁の上に塀または柵を設けていたと思われます
<六孫王経基城阯>ろくそんおうつねもとじょうし
立派な石碑です。皇族の時に六孫王と名乗ったとされる源経基の城跡であることが記されています。経基は清和天皇の皇子の子で、第6子であったことから六孫王と称したと伝わります。
源経基は、清和源氏の中で最も子孫が族繁栄した経基流清和源氏の初代です。具体的に言うと、東国における源氏勢力の基盤をつくった源義家、鎌倉幕府を開いた源頼朝、足利将軍家やその一門の祖となった人物です。
そんな人物がここを拠点とした。
そう思えば、遺構のひとつひとつが奥深いです。
<つわものどもが夢の跡>
まだまだ環境の整わない武蔵へ下った経基は、ここで何を思いましたかね?
■訪問:伝源経基館跡
(別称:箕田城)
[埼玉県鴻巣市大間]
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■参考
・Wikipedia:2023/12/30
箕田源氏の祖が神のおつげで創建した神社(鴻巣市)大野神社
鴻巣市の大野神社にお邪魔させて頂きました。
創建は938年。嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏の祖・源仕(みなもとのつこう)が建立したと伝わる神社です。
源仕は武蔵国の国司として関東に下向しました。官物の横領や国府の襲撃を働いたという物騒な話も伝わりますが、処分されたという記録もないそうです。何か深い事情でもあったのでしょうか?
源仕は任期終了後も京都へは戻らず、そのまま箕田(現在の鴻巣市北部)に土着し、豪族となりました。清和源氏3代目・源頼光に従事した四天王の筆頭・渡辺綱(わたなべのつな)はその孫です。
源仕が大国主命のおつげにより神社を造営したことに始まります
御由緒には『嵯峨源氏の末流の渡部仕』と記されていますね。もともとは氷川神社として創建されましたが、明治になって大間地区と北中野地区から文字(大と野)をとって大野神社に改称されたようです。
氷川山大野神社です。
こちらの「大野神社記」には『鎌倉末期に改築されその後文禄年中に北條の家臣道祖士満兼が再建に努力されました』とあります。
鎌倉末期の改築はよいとして、文禄は戦国末期ですので、既に小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされています。よって、武蔵国に定着していた元家臣ということになりますね。道祖土という名は全国的には珍しいですが、埼玉県では時々耳にする苗字です。遡ると下野の名族那須氏の一族と言われていますが、ここに登場した満兼の祖先についてはよくわかりません。
現在の祭神は大国主命・須佐之男命・奇稲田姫の3柱です。
ということで
箕田源氏による建立から始まる大野神社のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。
<大願成就>
理屈抜きにいいですね!
■訪問:大野神社
[埼玉県鴻巣市大間]2丁目
お城巡りランキング
■参考及び出典
・現地説明板(大野神社御由緒)
・現地説明板(大野神社記)
・猫の足あと「大野神社」
https://tesshow.jp/saitama/konosu/shrine_oma_ono.html
創建は938年。嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏の祖・源仕(みなもとのつこう)が建立したと伝わる神社です。
源仕は武蔵国の国司として関東に下向しました。官物の横領や国府の襲撃を働いたという物騒な話も伝わりますが、処分されたという記録もないそうです。何か深い事情でもあったのでしょうか?
源仕は任期終了後も京都へは戻らず、そのまま箕田(現在の鴻巣市北部)に土着し、豪族となりました。清和源氏3代目・源頼光に従事した四天王の筆頭・渡辺綱(わたなべのつな)はその孫です。
源仕が大国主命のおつげにより神社を造営したことに始まります
御由緒には『嵯峨源氏の末流の渡部仕』と記されていますね。もともとは氷川神社として創建されましたが、明治になって大間地区と北中野地区から文字(大と野)をとって大野神社に改称されたようです。
氷川山大野神社です。
こちらの「大野神社記」には『鎌倉末期に改築されその後文禄年中に北條の家臣道祖士満兼が再建に努力されました』とあります。
鎌倉末期の改築はよいとして、文禄は戦国末期ですので、既に小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされています。よって、武蔵国に定着していた元家臣ということになりますね。道祖土という名は全国的には珍しいですが、埼玉県では時々耳にする苗字です。遡ると下野の名族那須氏の一族と言われていますが、ここに登場した満兼の祖先についてはよくわかりません。
現在の祭神は大国主命・須佐之男命・奇稲田姫の3柱です。
ということで
箕田源氏による建立から始まる大野神社のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。
<大願成就>
理屈抜きにいいですね!
■訪問:大野神社
[埼玉県鴻巣市大間]2丁目
お城巡りランキング
■参考及び出典
・現地説明板(大野神社御由緒)
・現地説明板(大野神社記)
・猫の足あと「大野神社」
https://tesshow.jp/saitama/konosu/shrine_oma_ono.html
2023年12月29日
本多忠勝の娘・小松姫のお墓(鴻巣市)勝願寺
本多忠勝の娘・小松姫は、政治的な理由を背景に、真田昌幸の長男・真田信幸に嫁ぎました。
一般的には、利発ではきはきとした才色兼備の女性と伝わっています。勇敢な逸話として、関ヶ原直前に夫の信幸と袂を分かつことになった真田昌幸と信繁が沼田城に立ち寄ろうとしたところ、留守を預かる小松姫がこれを門前払いしたという話が伝わっています。さすがは本多忠勝の娘ですね。
<勝願寺本堂>
徳川家と縁の深い埼玉県鴻巣市の勝願寺です。ここには小松姫の墓があります。
なぜ鴻巣に?
<眞田小松姫の墓の説明板>
小松姫は生前、勝願寺住職の円誉不残に深く帰依していました。その縁から、一周忌に際して信幸(信之)の次女・松姫(見樹院)が分骨し、境内にお墓を建てたようです。本廟は長野県上田市の芳泉寺にあると記されています。
ここに記載はありませんが、小松姫は病気を患ったため、療養のため江戸屋敷から草津温泉に向かう途中、鴻巣で没したそうです(48歳没)。鴻巣は中山道の中でも比較的大きな宿場。ここで体を休めたものの、病気が悪化したということでしょうか。
<小松姫の説明板>
小松姫は本多忠勝の娘ですが、徳川家康の養女となってから真田家に嫁いだという説が有力です。言い換えると、家康の家臣の娘ではなく、家康の娘として真田の嫁となりました。
ところで
信幸(信之)と小松姫の子として信重の名が記されていますね。信重は信濃埴科藩第2代藩主になりましたが三男で、兄も姉もいました。なぜ信重だけが…?
実は、真田信重も亡くなったのは鴻巣でした。そしてここ勝願寺に墓があります。小松姫が亡くなったのは1620年、信重はずっと後の1648年ですので、直接は関係ありません。
ただ
こんな偶然もあるのですね
<墓所>
やや離れたところから撮影したうえに、墓石にはぼかしを入れさせて頂きました。大きな墓が並んでいる雰囲気は伝わると思います。一番手前は、小諸藩主にまでなった仙石秀久の墓。こちらも江戸から小諸へ帰る途中に発病し、鴻巣で亡くなったそうです。
そして中央の大小2基が真田信重と正室(鳥居忠政の娘)の墓です。夫婦の墓が並んでいるわけですね。そして、その更に奥が小松姫の墓となります。母と子供夫婦の墓が並んで建てられている構図になります。
小松姫の遺骨は、今回ご紹介の勝願寺と上田の芳泉寺、そして沼田の正覚寺の三か寺に分骨されたとのことです。
■訪問:
眞田小松姫の墓(勝願寺)
[埼玉県鴻巣市本町]8丁目
お城巡りランキング
■参考及び出典
・現地説明板(勝願寺)
・現地説明板(鴻巣市観光協会)
・Wikipedia:2023/12/29
一般的には、利発ではきはきとした才色兼備の女性と伝わっています。勇敢な逸話として、関ヶ原直前に夫の信幸と袂を分かつことになった真田昌幸と信繁が沼田城に立ち寄ろうとしたところ、留守を預かる小松姫がこれを門前払いしたという話が伝わっています。さすがは本多忠勝の娘ですね。
<勝願寺本堂>
徳川家と縁の深い埼玉県鴻巣市の勝願寺です。ここには小松姫の墓があります。
なぜ鴻巣に?
<眞田小松姫の墓の説明板>
小松姫は生前、勝願寺住職の円誉不残に深く帰依していました。その縁から、一周忌に際して信幸(信之)の次女・松姫(見樹院)が分骨し、境内にお墓を建てたようです。本廟は長野県上田市の芳泉寺にあると記されています。
ここに記載はありませんが、小松姫は病気を患ったため、療養のため江戸屋敷から草津温泉に向かう途中、鴻巣で没したそうです(48歳没)。鴻巣は中山道の中でも比較的大きな宿場。ここで体を休めたものの、病気が悪化したということでしょうか。
<小松姫の説明板>
小松姫は本多忠勝の娘ですが、徳川家康の養女となってから真田家に嫁いだという説が有力です。言い換えると、家康の家臣の娘ではなく、家康の娘として真田の嫁となりました。
ところで
信幸(信之)と小松姫の子として信重の名が記されていますね。信重は信濃埴科藩第2代藩主になりましたが三男で、兄も姉もいました。なぜ信重だけが…?
実は、真田信重も亡くなったのは鴻巣でした。そしてここ勝願寺に墓があります。小松姫が亡くなったのは1620年、信重はずっと後の1648年ですので、直接は関係ありません。
ただ
こんな偶然もあるのですね
<墓所>
やや離れたところから撮影したうえに、墓石にはぼかしを入れさせて頂きました。大きな墓が並んでいる雰囲気は伝わると思います。一番手前は、小諸藩主にまでなった仙石秀久の墓。こちらも江戸から小諸へ帰る途中に発病し、鴻巣で亡くなったそうです。
そして中央の大小2基が真田信重と正室(鳥居忠政の娘)の墓です。夫婦の墓が並んでいるわけですね。そして、その更に奥が小松姫の墓となります。母と子供夫婦の墓が並んで建てられている構図になります。
小松姫の遺骨は、今回ご紹介の勝願寺と上田の芳泉寺、そして沼田の正覚寺の三か寺に分骨されたとのことです。
■訪問:
眞田小松姫の墓(勝願寺)
[埼玉県鴻巣市本町]8丁目
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■参考及び出典
・現地説明板(勝願寺)
・現地説明板(鴻巣市観光協会)
・Wikipedia:2023/12/29
2023年12月28日
参道の脇の土塁は何なのか(鴻巣市)勝願寺
鴻巣市の勝願寺にお邪魔させて頂いた帰り、気になる光景に足が止まりました。
<盛り土>
この盛り上がりは何だろう?
場所は勝願寺の参道沿いです。何かの塚?古墳?あるいは治水のための堤の跡か?
あと思いつくのは防衛のための土塁。というより、一度そう思ったら、そういうふうにしか見えなくなりました。寺が軍事的な意味を持ち、まるで砦の如く土塁や堀が設けられている例はたくさんありますよね。
<勝願寺惣門>
勝願寺は古い歴史の寺です。大昔はそんな意味があったのではないか?
陣城として利用されたことがあっても不思議ではなく、更に、あの徳川家康が何度も訪れた寺ですので、警護のための土塁が設けられても不思議ではありません。
結論を言うと
調べに調べましたが、そんな証拠は見つけられませんでした。
じゃこれなに…
現地に説明板でもあれば、ここまで考え込むこともなかったでしょう。城跡巡りを趣味にしていると、土塁にしか見えなかった。もっと正直に言うと、土塁と思いたかった。それだけの話です。成果はありませんが、現地で似たような感覚をお持ちになる人がいるのではないかと思い、投稿させて頂きました。
古墳ですかね?
以上、勝願寺訪問の追記でした。妄想にお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:勝願寺
[埼玉県鴻巣市本町]8丁目
<盛り土>
この盛り上がりは何だろう?
場所は勝願寺の参道沿いです。何かの塚?古墳?あるいは治水のための堤の跡か?
あと思いつくのは防衛のための土塁。というより、一度そう思ったら、そういうふうにしか見えなくなりました。寺が軍事的な意味を持ち、まるで砦の如く土塁や堀が設けられている例はたくさんありますよね。
<勝願寺惣門>
勝願寺は古い歴史の寺です。大昔はそんな意味があったのではないか?
陣城として利用されたことがあっても不思議ではなく、更に、あの徳川家康が何度も訪れた寺ですので、警護のための土塁が設けられても不思議ではありません。
結論を言うと
調べに調べましたが、そんな証拠は見つけられませんでした。
じゃこれなに…
現地に説明板でもあれば、ここまで考え込むこともなかったでしょう。城跡巡りを趣味にしていると、土塁にしか見えなかった。もっと正直に言うと、土塁と思いたかった。それだけの話です。成果はありませんが、現地で似たような感覚をお持ちになる人がいるのではないかと思い、投稿させて頂きました。
古墳ですかね?
以上、勝願寺訪問の追記でした。妄想にお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:勝願寺
[埼玉県鴻巣市本町]8丁目
伊奈忠次・忠治墓所(鴻巣市)勝願寺
徳川家康の国造りの陰の功労者である伊奈忠次・忠治親子の墓所を訪ねました。
<惣門>
鴻巣市の勝願寺です。号は天照山良忠院。浄土宗の寺院です。
<栴檀林>ぜんだんりん
僧侶の養成所を意味しています。勝願寺は関東における浄土宗の僧侶養成のための十八カ寺(関東十八檀林)のひとつです。
<仁王門>
もともとは結城城から移設された仁王門がありましたが明治に焼失。再建された際に秩父の三峯神社から贈られた仁王像が立ち並んでいます。
<鐘楼>
屋根をよく見ると、三つ葉葵の紋があります。
<本堂>
鎌倉時代創建の古い寺院です。16世紀末期に清巌上人によって中興されました。
こんなにも立派な寺院を拙ブログではご紹介できませんので、のちに深い関りを持つことになる徳川家康、そして伊奈氏との接点に話を絞ると、戦国時代末期ということなります。鷹狩りの際に勝願寺を訪れた家康は、住職(円誉不残)の教養と徳の高さに感銘を受けます。自ら帰依するとともに、同行していた伊奈忠政と伊奈忠家らに檀家になるように命じました。忠政は伊奈忠次の長男、忠家は父です。勝願寺と伊奈氏の関係は、おそらくこの時から始まったわけですね。
<伊奈忠次・忠治墓>いなただつぐ・ただはる
こちらが伊奈氏墓所です。周囲の墓と比べれば大きく立派なため目立ちますが、関東郡代(厳密にいうと関東代官頭)という役割を担ったことを思うと、やや地味な印象です。ただ、この辺りが、いかにも庶民に信頼された役人という感じもします。4基の墓(宝筺塔)が並んでいるので、忠次と忠治、他も伊奈家当主のものかと思いましたが、それぞれの妻のものとのこと。この時代にして、夫婦が並んでいるという構図です。
<説明板>
伊奈忠次と忠治に関する説明が記されています。私の主観も入りますが、引用(『』内)を含めながら簡単に説明させて頂きます。
まず初代の伊奈忠次について
『三河国幡豆郡 小鳥の城主伊奈忠家の嫡子』として生まれ、徳川家康の近習を経て関東郡代に任ぜられ、武蔵国鴻巣・小室で一万石を賜わったと記されています。のちのち関東郡代を継承した伊奈一族始まりということですね。忠次は『関東各地を検地し桑・麻・楮の栽培や水利の便を開く等、関八州は彼によって富む』といわれたそうです。茨城県の特産物として有名な結城紬が、忠次の奨励によるものという話は初めて聞きました。きっとこれも功績の一例に過ぎないのでしょうね。
忠次は江戸幕府の財政の基盤造ったことで知られていますが、検地検税は忠次が採用した方法が基本となったようです。やがて『従五位下に叙せられ備前守に任ぜられた(のち大正元年正五位を追贈)』とあります。忠次が築いた水路が備前堀などと呼ばれるのは、この官職に由来しているわけですね。
次に伊奈忠治について
ここには記されていませんが、忠次には先ほど名をあげさせて頂いた忠政という兄がいました。関東郡代の2代目である忠政は、大坂冬の陣では外堀を埋め立てる際に奉行を任されるなど、徳川の家臣として既に活躍し始めていました。
ただ、忠政は34歳の若さで亡くなってしまいます。本家の家督はまだ幼い忠政の子が引き継ぎ、事業は弟である忠治が引き継ぎました。忠治はすでに独立していたので、実家(現在の伊奈町)とは別の足立郡赤山(現在の川口市)を拠点に活動しました。
続きは鴻巣市教育委員会さんの説明を転記させて頂きます。
『元和四年(一六一八)関東郡代を嗣ぎ、武蔵国赤山(現埼玉県川口市)に陣屋を構え七千石を領し、父忠次と同じく新田の開拓、河川の付け替え、港湾の開さく等に努めた。その在任は三十五年の長さに及び、幕府の統治体制確立の重要な時期に郡代兼勘定奉行として民政に尽くした功績はきわめて大きい。』
絶賛されていますね。初代の忠次あってのことですが、次男で3代目の忠治によって、伊奈氏の関東郡代としての地位は盤石なものとなりました。幕府直轄領約30万石を管轄する関東郡代・伊奈氏は、12代(約2百年)続くことになります。
<関東郡代の墓所>
伊奈忠次・忠治親子は、全国的にはあまり有名ではありませんが、徳川家康から絶大な信頼を得ていました。幕府のおひざ元である関東において、治水や新田開発、検地といった仕事で国造りに関わった影の功労者の墓です。
■訪問:伊奈氏墓(勝願寺)
[埼玉県鴻巣市本町]8丁目
お城巡りランキング
■参考及び出典
・現地説明板(鴻巣市教育委員会)
・Wikipedia:2023/12/28
・こうのす広場HP
「勝願寺にでかけよう」
https://kounosu-portal.jp/article/shoganji_kounosu
・鴻巣商工会HP
「勝願寺」
https://www.syokoukai.or.jp/syokokai/kohnosu/060/20140403180048.html
<惣門>
鴻巣市の勝願寺です。号は天照山良忠院。浄土宗の寺院です。
<栴檀林>ぜんだんりん
僧侶の養成所を意味しています。勝願寺は関東における浄土宗の僧侶養成のための十八カ寺(関東十八檀林)のひとつです。
<仁王門>
もともとは結城城から移設された仁王門がありましたが明治に焼失。再建された際に秩父の三峯神社から贈られた仁王像が立ち並んでいます。
<鐘楼>
屋根をよく見ると、三つ葉葵の紋があります。
<本堂>
鎌倉時代創建の古い寺院です。16世紀末期に清巌上人によって中興されました。
こんなにも立派な寺院を拙ブログではご紹介できませんので、のちに深い関りを持つことになる徳川家康、そして伊奈氏との接点に話を絞ると、戦国時代末期ということなります。鷹狩りの際に勝願寺を訪れた家康は、住職(円誉不残)の教養と徳の高さに感銘を受けます。自ら帰依するとともに、同行していた伊奈忠政と伊奈忠家らに檀家になるように命じました。忠政は伊奈忠次の長男、忠家は父です。勝願寺と伊奈氏の関係は、おそらくこの時から始まったわけですね。
<伊奈忠次・忠治墓>いなただつぐ・ただはる
こちらが伊奈氏墓所です。周囲の墓と比べれば大きく立派なため目立ちますが、関東郡代(厳密にいうと関東代官頭)という役割を担ったことを思うと、やや地味な印象です。ただ、この辺りが、いかにも庶民に信頼された役人という感じもします。4基の墓(宝筺塔)が並んでいるので、忠次と忠治、他も伊奈家当主のものかと思いましたが、それぞれの妻のものとのこと。この時代にして、夫婦が並んでいるという構図です。
<説明板>
伊奈忠次と忠治に関する説明が記されています。私の主観も入りますが、引用(『』内)を含めながら簡単に説明させて頂きます。
まず初代の伊奈忠次について
『三河国幡豆郡 小鳥の城主伊奈忠家の嫡子』として生まれ、徳川家康の近習を経て関東郡代に任ぜられ、武蔵国鴻巣・小室で一万石を賜わったと記されています。のちのち関東郡代を継承した伊奈一族始まりということですね。忠次は『関東各地を検地し桑・麻・楮の栽培や水利の便を開く等、関八州は彼によって富む』といわれたそうです。茨城県の特産物として有名な結城紬が、忠次の奨励によるものという話は初めて聞きました。きっとこれも功績の一例に過ぎないのでしょうね。
忠次は江戸幕府の財政の基盤造ったことで知られていますが、検地検税は忠次が採用した方法が基本となったようです。やがて『従五位下に叙せられ備前守に任ぜられた(のち大正元年正五位を追贈)』とあります。忠次が築いた水路が備前堀などと呼ばれるのは、この官職に由来しているわけですね。
次に伊奈忠治について
ここには記されていませんが、忠次には先ほど名をあげさせて頂いた忠政という兄がいました。関東郡代の2代目である忠政は、大坂冬の陣では外堀を埋め立てる際に奉行を任されるなど、徳川の家臣として既に活躍し始めていました。
ただ、忠政は34歳の若さで亡くなってしまいます。本家の家督はまだ幼い忠政の子が引き継ぎ、事業は弟である忠治が引き継ぎました。忠治はすでに独立していたので、実家(現在の伊奈町)とは別の足立郡赤山(現在の川口市)を拠点に活動しました。
続きは鴻巣市教育委員会さんの説明を転記させて頂きます。
『元和四年(一六一八)関東郡代を嗣ぎ、武蔵国赤山(現埼玉県川口市)に陣屋を構え七千石を領し、父忠次と同じく新田の開拓、河川の付け替え、港湾の開さく等に努めた。その在任は三十五年の長さに及び、幕府の統治体制確立の重要な時期に郡代兼勘定奉行として民政に尽くした功績はきわめて大きい。』
絶賛されていますね。初代の忠次あってのことですが、次男で3代目の忠治によって、伊奈氏の関東郡代としての地位は盤石なものとなりました。幕府直轄領約30万石を管轄する関東郡代・伊奈氏は、12代(約2百年)続くことになります。
<関東郡代の墓所>
伊奈忠次・忠治親子は、全国的にはあまり有名ではありませんが、徳川家康から絶大な信頼を得ていました。幕府のおひざ元である関東において、治水や新田開発、検地といった仕事で国造りに関わった影の功労者の墓です。
■訪問:伊奈氏墓(勝願寺)
[埼玉県鴻巣市本町]8丁目
お城巡りランキング
■参考及び出典
・現地説明板(鴻巣市教育委員会)
・Wikipedia:2023/12/28
・こうのす広場HP
「勝願寺にでかけよう」
https://kounosu-portal.jp/article/shoganji_kounosu
・鴻巣商工会HP
「勝願寺」
https://www.syokoukai.or.jp/syokokai/kohnosu/060/20140403180048.html
2023年12月24日
中山道鴻巣宿 将軍ゆかりの宿場町
<鴻巣本陣跡>こうのすほんじんあと
鴻巣宿の本陣跡です。中山道六十九次のうち、日本橋から数えて7番目の宿場でした。
WIKIさんによれば、江戸末期(1843年)の調べで、宿場内の人口は2千人以上、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠58軒とのこと。69ある中山道の宿場のなかで、比較的大きい方だったようです。
<旧中山道>
この街並みは宿場として栄えたなごりです。鴻巣宿はもともと北本市にあり、中山道が整備された時に、北本宿を鴻巣宿として移設してできたとのこと。
また
鴻巣宿は将軍家ゆかりの宿場でもあります。徳川家康に始まり、秀忠、家光が鷹狩りの際に利用した鴻巣御殿もありました。
<鴻巣御殿跡>
地元豪族所有の土地に建てられた将軍の為の御殿。跡地には東照宮が祀られました
<御成町>
将軍が御成りになった街です
<勝願寺>
境内のあちらことらに三つ葉葵の紋。徳川ゆかりの寺院です。
鴻巣宿は桶川宿と熊谷宿の間に位置し、将軍ゆかりの宿場であるとともに、忍行田道・松山道といった街道の分岐点でもあました。交通の要衝として栄えた鴻巣は、古くから雛人形の生産地としても知られています。
<本陣跡の標石>
長きに渡って重要な役割を担った街なのです
私を含めた埼玉県民にとって、鴻巣は運転免許センターのある街です。用事だけ済ませて帰ってしまう方が多いと思いますが、せっかくですので、長くて深い鴻巣の歴史に触れてみては如何でしょうか。
拙ブログがそのきっかけになれば幸いです。
■訪問:鴻巣本陣跡の碑
[埼玉県鴻巣市本町]4丁目6-21
お城巡りランキング
■参考
Wikipedia:2023/12/24
-------- 追 記 --------
宿場と直接関係しませんが、鴻巣は古くから源氏ゆかりの地でした。
<伝源経基館跡>
武蔵介となって関東へ下った源経基が館を構えたのは現在の鴻巣市でした
<大野神社>
古くは源仕(みなもとのつこう)が社を造営したと伝わります
また近年では花火も有名です
<鴻巣駅前>
四尺玉打ち上げで元世界一(重さ)
鴻巣宿の本陣跡です。中山道六十九次のうち、日本橋から数えて7番目の宿場でした。
WIKIさんによれば、江戸末期(1843年)の調べで、宿場内の人口は2千人以上、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠58軒とのこと。69ある中山道の宿場のなかで、比較的大きい方だったようです。
<旧中山道>
この街並みは宿場として栄えたなごりです。鴻巣宿はもともと北本市にあり、中山道が整備された時に、北本宿を鴻巣宿として移設してできたとのこと。
また
鴻巣宿は将軍家ゆかりの宿場でもあります。徳川家康に始まり、秀忠、家光が鷹狩りの際に利用した鴻巣御殿もありました。
<鴻巣御殿跡>
地元豪族所有の土地に建てられた将軍の為の御殿。跡地には東照宮が祀られました
<御成町>
将軍が御成りになった街です
<勝願寺>
境内のあちらことらに三つ葉葵の紋。徳川ゆかりの寺院です。
鴻巣宿は桶川宿と熊谷宿の間に位置し、将軍ゆかりの宿場であるとともに、忍行田道・松山道といった街道の分岐点でもあました。交通の要衝として栄えた鴻巣は、古くから雛人形の生産地としても知られています。
<本陣跡の標石>
長きに渡って重要な役割を担った街なのです
私を含めた埼玉県民にとって、鴻巣は運転免許センターのある街です。用事だけ済ませて帰ってしまう方が多いと思いますが、せっかくですので、長くて深い鴻巣の歴史に触れてみては如何でしょうか。
拙ブログがそのきっかけになれば幸いです。
■訪問:鴻巣本陣跡の碑
[埼玉県鴻巣市本町]4丁目6-21
お城巡りランキング
■参考
Wikipedia:2023/12/24
-------- 追 記 --------
宿場と直接関係しませんが、鴻巣は古くから源氏ゆかりの地でした。
<伝源経基館跡>
武蔵介となって関東へ下った源経基が館を構えたのは現在の鴻巣市でした
<大野神社>
古くは源仕(みなもとのつこう)が社を造営したと伝わります
また近年では花火も有名です
<鴻巣駅前>
四尺玉打ち上げで元世界一(重さ)
タグ:中山道
小さな東照宮(鴻巣市)鴻巣御殿のなごり
埼玉県鴻巣市の「小さな東照宮」にお邪魔させて頂きました。
<東照宮>
私の知る限り、もっとも小規模な東照宮です
<紫の幟>
通りにこの幟がなければ、素通りしてしまったでしょう。
<東照宮入口>
石柱に「東照宮入口」の文字。この奥で間違いなさそうです。ただ、足を踏み入れて良いものか躊躇しました。
<狭い参道>
狭い…本当に通ってよいものか…。奥にも幟が立っていますので、とりあえず進んでいきした。なんとなく速足で…
<境内>
ここは個人宅の敷地?のようにも思えたのですが、説明板が設置してあるのでホッとしました。
<説明板>
鴻巣市教育委員会さんによる説明文です。標題は「東照宮」ではなく「鴻巣御殿跡」です。これはどういうことでしょう?
以下に転記させて頂きます。
『鴻巣御殿は文禄二(一五九三)年、徳川家康によって鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として建てられ、その敷地は一町四反歩(約一・四ヘクタール)に及んだ。その後、秀忠、家光の三代にわたって将軍家の鷹狩の際の休泊所として利用されたが、寛永七(一六三〇)年頃を最後として、以後使用されなくなった。明暦三(一六五七)年の江戸大火後は、その一部を解体して江戸城に運ばれ、天和二(一六八二)年頃には残りの建物も腐朽して倒壊し、元禄四(一六九一)年には御殿地に東照宮を祀り除地とした。その東照宮も明治三十年代に鴻神社に合祀され、旧御殿地はその後民有地となった。』
将軍の鷹狩りの際の休憩所がまずあって、その跡地に東照宮ができたという順番のようです。つまり遡ればここは将軍の休憩所。
鴻巣は中山道の宿場町です。街道を移動した将軍も、この地で休憩したのでしょう。将軍の鷹狩の話はよく耳にしますが、説明文にもある通り、領内の視察を兼ねています。ただの遊びではなく、仕事の一環。環境を整えて、警備もいき届いた御殿で、その疲れを癒したのでしょうね。
<江戸図屏風>
名の通り御殿ですね。警備も厳重だったのでしょう。この絵で分かるだけでも、奥まで進むには三つの門を潜る必要があります。
将軍による鷹狩り兼視察の頻度が減った頃、明暦の大火(1657年)で大打撃を受けた江戸の復興のため、御殿の一部が解体され江戸へ運ばれたようです。なるほど。以前訪問した越谷市の御殿跡でも、似たような話を耳にしました。ここ鴻巣からわざわざ運んででも、建築材を確保する必要があったのですね。
やがて御殿は姿を消し、跡地に東照宮が祀られた。
説明文の続きによれば『最近まで鴻巣御殿跡地の比定地も明らかでなかったが、平成六年の試掘調査によってその一部が確認された。』とのこと。ここが御殿跡と判明したのは平成になってからということですね。
<石碑>
東照宮 敷地奉納記念碑
<石祠>せきし
石の祠と、どなたかのお供え。説明文によれば、東照宮は明治30年代に市内の鴻神社へ合祀されたとのこと。しかし今もこうして人が訪れます。
無宗教のため、私には厳密なことは分かりませんが、いまも人が訪れて、思いを馳せたり願いを込めたりすることに意義があるのだと思います。
<御成町>おなりちょう
将軍が御成りになった町です
■訪問:御成町東照宮
(鴻巣御殿跡)
[埼玉県鴻巣市本町]4丁目8-26
お城巡りランキング
■参考及び出典
・現地説明板
(鴻巣市教育委員会)
・鴻巣市HP
「鴻巣御殿模型について」
https://www.city.kounosu.saitama.jp/page/2369.html
<東照宮>
私の知る限り、もっとも小規模な東照宮です
<紫の幟>
通りにこの幟がなければ、素通りしてしまったでしょう。
<東照宮入口>
石柱に「東照宮入口」の文字。この奥で間違いなさそうです。ただ、足を踏み入れて良いものか躊躇しました。
<狭い参道>
狭い…本当に通ってよいものか…。奥にも幟が立っていますので、とりあえず進んでいきした。なんとなく速足で…
<境内>
ここは個人宅の敷地?のようにも思えたのですが、説明板が設置してあるのでホッとしました。
<説明板>
鴻巣市教育委員会さんによる説明文です。標題は「東照宮」ではなく「鴻巣御殿跡」です。これはどういうことでしょう?
以下に転記させて頂きます。
『鴻巣御殿は文禄二(一五九三)年、徳川家康によって鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として建てられ、その敷地は一町四反歩(約一・四ヘクタール)に及んだ。その後、秀忠、家光の三代にわたって将軍家の鷹狩の際の休泊所として利用されたが、寛永七(一六三〇)年頃を最後として、以後使用されなくなった。明暦三(一六五七)年の江戸大火後は、その一部を解体して江戸城に運ばれ、天和二(一六八二)年頃には残りの建物も腐朽して倒壊し、元禄四(一六九一)年には御殿地に東照宮を祀り除地とした。その東照宮も明治三十年代に鴻神社に合祀され、旧御殿地はその後民有地となった。』
将軍の鷹狩りの際の休憩所がまずあって、その跡地に東照宮ができたという順番のようです。つまり遡ればここは将軍の休憩所。
鴻巣は中山道の宿場町です。街道を移動した将軍も、この地で休憩したのでしょう。将軍の鷹狩の話はよく耳にしますが、説明文にもある通り、領内の視察を兼ねています。ただの遊びではなく、仕事の一環。環境を整えて、警備もいき届いた御殿で、その疲れを癒したのでしょうね。
<江戸図屏風>
名の通り御殿ですね。警備も厳重だったのでしょう。この絵で分かるだけでも、奥まで進むには三つの門を潜る必要があります。
将軍による鷹狩り兼視察の頻度が減った頃、明暦の大火(1657年)で大打撃を受けた江戸の復興のため、御殿の一部が解体され江戸へ運ばれたようです。なるほど。以前訪問した越谷市の御殿跡でも、似たような話を耳にしました。ここ鴻巣からわざわざ運んででも、建築材を確保する必要があったのですね。
やがて御殿は姿を消し、跡地に東照宮が祀られた。
説明文の続きによれば『最近まで鴻巣御殿跡地の比定地も明らかでなかったが、平成六年の試掘調査によってその一部が確認された。』とのこと。ここが御殿跡と判明したのは平成になってからということですね。
<石碑>
東照宮 敷地奉納記念碑
<石祠>せきし
石の祠と、どなたかのお供え。説明文によれば、東照宮は明治30年代に市内の鴻神社へ合祀されたとのこと。しかし今もこうして人が訪れます。
無宗教のため、私には厳密なことは分かりませんが、いまも人が訪れて、思いを馳せたり願いを込めたりすることに意義があるのだと思います。
<御成町>おなりちょう
将軍が御成りになった町です
■訪問:御成町東照宮
(鴻巣御殿跡)
[埼玉県鴻巣市本町]4丁目8-26
お城巡りランキング
■参考及び出典
・現地説明板
(鴻巣市教育委員会)
・鴻巣市HP
「鴻巣御殿模型について」
https://www.city.kounosu.saitama.jp/page/2369.html