2019年11月24日

城用語 本陣

今回は『本陣』について。厳密には城用語とは言えませんが、古戦場などを訪ねると◯◯本陣跡なんていう石碑があったりしますよね。かと思えば、宿場の本陣などという言葉を耳にしたりもします。まぁあまりこだわらず聞き流す方も多いと思いますが、敢えて説明させて頂きます。

■総大将がいる場所■
戦場において総大将がいる場所。これが一般的な本陣です。
<菅沢山本陣>説明板のみ
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こちらは直江兼続が長谷堂城攻めの時に本陣を置いた所とされる菅沢山にて撮影しました。

<菅沢山から見た長谷堂城>
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この時の兼続は約2万の大軍を率いる総大将。独立峰に築かれた長谷堂城を包囲し、自らは戦況を見守れる菅沢山の中腹に陣を敷きました。総大将の陣。つまり本陣です。


■大名などの宿泊場所■
江戸時代における宿場で、大名や公家といった身分の人たちが宿泊した旅宿も『本陣』と呼ばれます。まぁ旗本やある程度の身分の役人なども含みます。

宿といっても、一般人がお世話になる旅籠屋とは全く異なります。地元の名主の家をイメージした方がいいかもしれません(大筋の話として)。かつての宿場町を訪ねて、本陣跡などと標記されていたら、それなりの身分の人たちが宿泊、あるいは休息するための公認の家と思って間違いありません。

公認と敢えていわせてもらったのは、これは参勤交代が始まった時にしっかりと制度化されたものだからです。『本陣役』に指定される。これは名誉なことです。ただし、それなりの代金は受け取れるものの、現実的にはそれ以上の『おもてなし』が必要なため、ある程度の経済力が伴っていないと務まらない役割でした。

<蕨宿本陣跡>観光用
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蕨宿は中山道の宿場として栄えました。説明板によれば『公家大名などが宿泊』とのこと。蕨宿では加兵衛家と五郎兵衛家の2家が代々『本陣役』の大役を勤めました。加兵衛本陣には、あの老中水野忠邦なども宿泊したそうです。

ということで
戦での本陣と宿場での本陣の説明でした。


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城用語 陣屋

今回は陣屋についてです。

<永田陣屋跡>
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こちらはさいたま市西区土屋の陣屋跡。江戸後期創建の長屋門が立派です。徳川家康の家臣で、関東郡代をつとめた伊奈忠次が築いたことに始まります。伊奈陣屋、又は地名から土屋陣屋とも呼ばれています。

よく耳にするこの『陣屋』という言葉。当ブログでは『代官などの館あるいは役所、又は城を持てない大名や旗本の屋敷』といった表現で説明してきました。間違いではないのですが、ちょっと整理してみたいと思います。恒例のようにウィキペディアさんから情報を頂きます。

『一般的に3万石以下の城を持たない大名が陣屋を持った、また上級旗本も知行地に陣屋を構えた。さらに大藩の家老の所領地である知行所の政庁が置かれた屋敷も含まれる。飛地を所領に持つ大名が、現地の出張所として陣屋を設置することもあった。また、箱館奉行所や長崎奉行所なども陣屋として扱われることがある。さらには幕府直轄領地である支配所に置かれた代官所を含む場合もある。領主の領地の居地をあらわす用語は、城主の居城に対して、陣屋を居地とする場合は在所という。』
(出典:Wikipedia 2019/11/24)

とのこと。小大名というイメージでしたが、3万石くらいが目安のようですね。あとはだいたいイメージ通りですが、そう『飛び地』の出張所も陣屋でしたね。

<松山陣屋跡>
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こちらは石碑しかありませんが、埼玉県東松山市にある『前橋藩』の陣屋跡です。埼玉で群馬の前橋?諸事情により、前橋藩には現在の埼玉県内に領地がありました。これにより、藩の出先機関を設ける必要がありました。これも『陣屋』ということですね。

ということで、やはり大筋では
『城を持たない小大名や上級旗本の屋敷』『それなりの役人の詰め所』といった理解で良いかと思います。ただ、これらは概ね江戸時代の呼び方なので、もうちょっと幅のある使い方がされていることや、戦においける陣所のような使われ方もしていることだけ追加しておきます。

以上
私と同じく、かなり漠然と受け入れてきた方と共有できれば嬉しいです。あと念のためですが、城好き素人のブログに過ぎませんので、その点はご理解下さい。


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2019年11月23日

元府趾 浦和の本太氷川神社にて

今回は地元浦和を散策中に出会った神社の話です。

<鳥居>
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浦和区本太(もとぶと)の氷川神社です。規模は大きくないものの、住宅地にありながら緑に囲まれた素敵な神社です。

<水舎>
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<社殿>
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歴史はかなり古く、創建年は定かではなものの、約1500年は鎮座していると伝わります。柵があって近づけませんでしたが、氷川神社の境内には1650年頃に建てられたと伝わる旧本殿も保存されています。

氷川神社は東京・埼玉の荒川沿いを中心に約280社あります。総本社は大宮に鎮座する武蔵一宮氷川神社。主祭神は建速須佐之男命(すさのおのみこと)です。

さて
たくさんある氷川神社のなかで、今回こちらの氷川神社をご紹介する理由は、下の御由緒に興味を持ったからです。

<御由緒>
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詳しく説明されています

ここに地名に関わる記載があり、これがこの日の最大の関心事となりました。『地名の由来は、当社の鳥居扁額に「元府址(もとふと)」と書かれていることから、国府の出先機関があった』とのこと。

元府趾?

もとは府があったあと

もとふと

なるほど。もう一度冒頭の鳥居を確認すると、確かに『元府趾』となっています。

<扁額>
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説明を読んでからでなかったら、まぁ良く分からない古い文字くらいに受け止めて素通りするところでした。良く見れば確かに元府趾と記載されています。

府、つまりは律令制の政府の出先機関、もっと簡単に言ってしまえば政務を取り扱う役所のようなものがこの地にあったということですね。教科書レベルかそれ以下の知識しかないのでなんとも言えませんが、奈良時代くらいと思って良いでしょうか?いずれにせよ、そうとう古い話ながら、かつてはここ本太は、統治のための拠点だったようです。

中央集権的な支配を目指す大きな流れのなごり

当時の中央から遠く離れたところで、そんなものに出会ったかと思うと、何となく感慨深いものがありました。役人が駐在していたのか、あるいは実質は地元の豪族に任されていたのか分りませんが、統治される側の地元の皆さんは、どんな立ち位置でこれと向き合っていたのでしょうかね。


<明治鳥居>
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本太氷川神社には昭和・室町・明治の3つの鳥居があります。この順番で鳥居をくぐるのがお勧めのようですが、私は逆になってしまいました。元府址の扁額がある鳥居は室町鳥居です。

<昭和鳥居>
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この付近のだけを見ると平坦な地形です。ただ御由緒には『東西に狭く、南北に長い小さな谷』とありました。ゆるやかな低地といった感じなのでしょうか。そして『「ふと」は低地や耕作・居住に適する地上いう意味』もあることから、これが地名の由来とする説もあるそうです。本当のところはどっちなんでしょうかね。

国府の出先機関があったあと
そう受け止めることにして浦和区本太をあとにしました。

■訪問:本太氷川神社
[埼玉県さいたま市浦和区本太]4

2019年11月20日

浦和暗渠散歩 天王川を下る

秋晴れの穏やかな日曜日
浦和の天王川のなごりを感じに行きました。

<天王川>てんのうがわ
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まぁ道ですが、いわゆる『暗渠』です。天王川の暗渠です。地下に埋設されているものの、今でも周辺の水を集めながら流れ続けています。水路のようにも映りますが、もともとあった自然の川。浦和区の針ヶ谷から始まり、長年かけて細長い谷を刻んできました。そもそもこの谷の形が『針ヶ谷』という地名の由来ではないかと考えられています。

さて
城跡巡りもこういった街探索も、普段は独りです。しかしこの日は心強いお仲間がたくさん。地元埼玉だけでなく、千葉・東京・神奈川からも同志が集まってくれました。

何のため?
浦和の暗渠を見るためです。ヘンですかね?

私も暗渠を見るために、わざわざ川崎市の溝ノ口まで行ったことがあります。
その時の投稿→『記事にすすむ

なかなか一般的な感覚では理解しにくいかもしれませんが、マニアとはそういうもの。暗渠に興味を持つかどうかは別として、このブログを読んで頂いているみなさんにも、周囲の人になかなか理解してもらえない趣味とか、拘りとか、美意識とか、あるんじゃないですかね?

では暗渠を訪ねて何をしたかというと

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源流部を確認しに行ったり

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これも暗渠か?などと疑ったり

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支流を確認したり

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支流から本流をながめたり

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また本流に戻ったり

暗渠だけを見つめるというより、周囲との高低差や、川沿いならではの雰囲気を味わいながら歩きます。川に背を向けた家々、クリーニング屋さんなど。湧水と出会えたら、これはもうちょっとした感動ですね。あと暗渠らしい光景といえば車止めやマンホール、橋の跡や護岸の跡といったところでしょうか。また、暗渠を歩くとなぜか猫とよく合うのも、人によっては楽しみなのかもしれません。私はそうでもないのですが・・・

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他にも、途中で見かける馬頭観音や庚申塔に足を止めたりします。そしてかつての人の営みに思いを馳せてみる。

まぁいずれにせよ、何に拘り何を思うかは人それぞれなので、この日の参加者が足を止める場所もまちまちです。

ただ、蓋をされた川、つまり暗渠だけは共通のテーマ。この共通テーマのもとに集まり、各々が勝手に楽しむ。集団で行動していますが、まぁそんな感じの散策となります。


さてさて
私の拘りはやはり城跡ですね。この日は天王川沿いの三郎山にかつてあったとされる針ヶ谷陣屋跡で足を止めました。そして、参加者の皆さんに生意気にもうんちくをたれました(ちょっと雑でしたが)。実は当ブログに天王川が登場するのは2度目で、以前陣屋跡とセットで『暗渠と城跡』と題してご紹介させて頂いています。

その時の投稿→『記事へすすむ

まぁその時調べたことをしゃべっただけですが、現地でちょっとショックだったのが、私の訪問時にあった説明板が撤去され、近くの公園にバージョンアップした説明板が設置されていたことです。

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うぁ分かり易いし綺麗!

少ない情報をかき集めてブログにまとめたので、説明板がこんな素晴らしい内容だと笑うしかありませんでした。

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針ヶ谷三山?

聞いたことのない針ヶ谷三山という言葉。かつて陣屋があった三郎山は、そのうちの一つということですね。また勉強になりました。浦和区文化の小径づくり推進委員会さん、ありがとうございます。

そして針ヶ谷陣屋のあとは、ちょっと天王川から離れますが戦国武将ゆかりの廓信寺へ

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徳川家康の三河時代からの家臣で、岩付城主となった高力清長。その清長から浦和を任された代官が、清長亡きあと冥福を祈るために創建したことに始まるお寺です。ここも過去にブログにまとているので、良かったら覗いてみて下さい。

廓信寺の投稿→『記事へすすむ

廓信寺のあとは、北浦和駅付近で少し休憩。そして再びみんなそろって天王川へ!

行くはずでした。

が、一人だけ行けず・・・

実は不肖Isuke、信号待ちの間に廓信寺のことをツイートしていたらお仲間を見失うことに!天王川がどのへんか分かっているので追いかけましたが見つけられず・・・そもそも皆さん支流とか寄り道する可能性もありましたので、天王川の暗渠上にいるとも限りません

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まいったなぁ

姿の見えない川を見失うことはよくありますが、お仲間を見失うとは

ということで、ここからは一人
針ヶ谷から始まる天王川は、南下して浦和駒場スタジアム付近で藤右衛門川(谷田川)と合流します。皆さんがそちらを探索中に、大筋で似たような方角へ向い、自分なりにいろんなところで足を止めながら浦和駅方面へ

といっても、ご紹介できるのは浦和区本太(もとぶと)の氷川神社くらいですかね。
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こちらは創建年不詳ながら、約1500年位前から鎮座していると伝わります。

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扁額には元府趾の文字。これは奈良時代の律令制の府がこの地にあったことを示すと考えられています。元は府があったあと=元府趾=もとぶと。そういう受け止め方で良いかと。この地はその当時の統治の中核だったということですね。

そして
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ここでやっとお仲間と再会。浦和の人気店・力(リキ)です。

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互いの本名すら知らない暗渠マニアたちの宴です。

ということで
今回は以上です。暗渠日記のような内容に、最後までお付き合い頂きありがとうございました。

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------お勧め暗渠本------
川崎での暗渠散歩に続き、今回の浦和暗渠でも暗渠ファンの間では有名な方とご一緒させて頂きました。いつもなら暗渠の説明をする立場の方ですが、今回は参加者としてご自身の関心事に集中されていた様子です。著書は沢山ありますが、私のお勧めは「はじめての暗渠散歩」です。著者4名のうちお一人が、今回ご一緒させて頂いた方です。

はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
本田創/山英男/吉村生/三土たつお




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2019年11月17日

大手門番所 掛川城大手門のなごり

つわものどもが夢の跡
今回は城門と番所の位置関係が絶妙な掛川城の大手門の話です。

<大手門の外観>
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威風堂々!立派です!

■復元された大手門■
実はこの門の存在を事前に知っていたわけではなく、掛川城から駅までの帰り道に偶然みつけました。行きとは違う道で帰ろう。そう思ったことが幸いしました。むかしのものではないことはなんとなく察知しましたが、とても雰囲気のある門です。

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見えないところもしっかりと

現地の説明板で、復元であること、そして本来の場所よりちょっとだけ北側に再建されたことは頭に入りましたが、既に歩き疲れていたので、帰宅してからちゃんと調べ直すことにしました。以下は掛川市のホームページからの転記です。
『平成7年(1995年)に復元されたもので、大きさは間口7間(約12.7メートル)、奥行3間(約5.4メートル)の二階建です。掛川城の表玄関にふさわしい楼門造りの本格的な櫓門は、木造日本瓦葺き入母屋づくりになっています。白壁で板ひさしが配され、棟の上にはシャチ瓦が飾られた勇壮な構えです。実際は現在地より50メートルほど南にありました。』
[出典:掛川市HP(2019/11現在)]

なるほど
復元ながら情緒も漂っていたのは、既に20年以上経過しているせいかもしれません。


■大手門番所■
さて
大きな櫓門に見惚れる一方で、奥に見えている建物が、何となく気になっていました。
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あれはいったい何でしょう?

<木造>
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いわく付の建物であろうことは予想できたのですが、その正体は?

<説明>
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番所ですか・・・

この番所は復元ではなく、江戸時代末期のものを移設したそうです。嘉永7年(1854年)に地震で倒壊してしまったので、安政6年(1859年)に建てなおしたもの。ギリギリとはいえ江戸時代の建物ですね。貴重です。そもそもの話として、比較的簡易的な建物である番所が、廃棄されずに保存され続けていること自体が珍しい。

この番所は大手門を通って出入りする者を監視する役人の詰め所。そして城と掛川宿とを連絡する唯一の番所だったと言われています。人が出たり入ったり。結構忙しかったのではないでしょうか

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番所の建物が出入り口に近すぎるような?

門と番所の位置関係、個人的にはにちょっと違和感がありました。しかしこれは発掘調査の裏付けがあることらしく、これで良いそうです。まぁこれだけ接近していると、こっそり通ることは出来ませんね。


ところで
現地の説明板にもありましたが、実際の大手門はもうちょっと南にあったとのこと。どうせ南へ向かって帰るだけなので、目印を探しながらゆっくりと移動すると

<大手門跡>
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ありましたありました。本来はここにあったわけですね。大手門も番所も。道路脇の小さな石碑ですが、これはまた別の意味で立派な痕跡。かつてあった大手門のなごりです。

■訪問:掛川城大手門
[静岡県掛川市城下]27番地


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2019年11月16日

掛川城のなごり

つわものどもが夢の跡
山内一豊の居城として知られている掛川市の山城を訪ねました。
<山頂の復元天守>
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■中世から始まる城■
始まりは駿河の守護大名今川氏が、勢力拡大を目論んで築かせた山城でした。築城者は今川氏の重臣・朝比奈泰煕(やすひろ)。以降代々朝比奈氏が城を守っていました。当初は子角山(ねずみやま)と呼ばれる丘陵に築かれていましたが、のちに龍頭山(りゅうとうざん)に移転。この龍頭山は、現在の復元天守が佇む山です。すぐ南側には逆川が流れ、天然の堀として機能していたようです。

<逆川>さかがわ
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現在の逆川

<掛川城公園>
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龍頭山と復元天守。典型的な山城です。独立峰に築かれていますので、正確には平山城ですかね。比高で30mくらいの山です。

隆盛を極めた今川氏も、桶狭間で今川義元が討ち死にして以降は勢力を失い、掛川城は徳川家康の支配するところとなります。

<霧噴き井戸>
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天守丸の井戸。この井戸には逸話があります。今川義元亡きあと、後継者の氏真が家臣の朝比奈氏を頼って掛川城へ逃げ込みますが、徳川家康に城が包囲されると、この井戸から霧が出て城を守ったとのこと。掛川城の別名『雲霧城』はこの逸話に由来します。
実際に霧が影響したかは別として、今川氏の忠臣・朝比奈泰朝は、掛川城に籠城して5ヶ月ものあいだ徳川軍の攻撃に耐え続けました。既に多くの重臣が武田或いは徳川に寝返っている状況で、立派な家臣ですね。ただいくら頑張っても、もう今川氏真救援のために掛川城へ駆けつけてくれる仲間はいません。朝比奈泰朝は主君である氏真の身の安全を条件に開城を決めました。

この攻防戦で、掛川城の守りの堅さを認識した家康は、徳川十六神将の1人に数えられる石川家成に城を守らせます。そして家康が秀吉の命で関東へ移封されたのち、あの山内一豊が掛川城へ入城することとなります。


■山内一豊の大改修■
戦国末期に入城した山内一豊は、掛川城の大規模改修に着手します。現在確認できる掛川城の縄張りは、ほぼ一豊の時代に造られたものです。

山内一豊は10年間在城しました。その間、城の改修に加えて城下町の整備、そして治水工事にも注力しました。城下町掛川の基礎を造ったわけですね。

<天守>
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木造による復元天守閣の先駆けです。掛川のシンボルです。1994年(平成6年)に再建されました。

天下分け目の戦に際し、一豊が徳川家康にこの城の提供を申し出た逸話は有名ですね。関ヶ原の戦い後、功績を認められた一豊は土佐国9万8千石を与えられ、掛川城を去ります。


■太田氏の城■
豊臣秀吉の直臣だった山内一豊が去ると、家康の異父弟・松平定勝に始まり、家康と関係が深い大名が次々と藩主となって掛川城に入りました。めまぐるしく藩主が変わる状況は、上野国館林藩より太田氏が入って以降は安定。太田氏は幕末まで7代にわたって藩主を務めました。

<全体図>
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■掛川城のなごり■
<復元天守閣>
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<天守丸>
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本丸より高い位置の天守丸にて

<忍び返し>
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鉄剣による『忍び返し』は高知城にもありますね

<狭間>
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向うに見えているのは二の丸御殿

<天守下門跡>
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<腰櫓台跡>
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<荒和布櫓>あらめやぐら
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<四足門>
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絵図を元に復元された四足門

<三日月堀跡>
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麓に設けた堀の跡

<二の丸御殿>
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書院造りの二の丸御殿は国の重要文化財に指定されています


■廃城■
やがて明治となり、廃城令によって城郭の建物の大半は壊されました。ただ、城郭の御殿が現存する例は珍しく、とても貴重な文化財として評価されています。1994年に再建された天守も、鉄筋などを使わない復元です。城の縄張りも実感できましたし、とても満足な探索となりました。

<つわものどもが夢の跡>
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-------■ 掛川城 ■-------
別 名:懸川城 雲霧城 松尾城
築城年:15世紀後半(1469〜1487)
築城者:朝比奈泰煕(今川家臣)
改修者:山内一豊
城 主:朝比奈氏 山内氏 太田氏
廃 城:1871年(明治4)
[静岡県掛川市掛川]1138-24


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欠川と呼ばれた川 掛川城下の逆川にて

この日は駅から徒歩で掛川城へ。まもなく到着というところで、橋を渡ることになりました。

<松尾橋>
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山頂に築かれた掛川城天守閣が既に見えていましたが、しばしここで足を止めました。城好きなら当然想像するであろうことを味わうために。

これが天然堀だったわけか

<逆川>さかがわ
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川の名は逆川。掛川城の南側を流れる天然の川です。この川はいわゆる暴れ川で、しばしば氾濫したそうです。堤防が欠けるということから欠川とも呼ばれ、それが当地の地名の由来となっています。

<逆川改修記念碑>
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松尾橋近くの記念碑です。生々流転の逆川と刻まれています。現地の説明板によれば『昭和57年9月10日、台風18号は掛川市に異常な豪雨を斉らし』て市の中心部に氾濫する濁流が溢れたようです。このため『明治橋より馬喰橋に至る1,800mの区間』『総額39,7億円』『昭和57年〜61年に至る5ヶ年事業により改修が完成した。』とのこと。
[出典:逆川改修おぼえがき]

掛川城の天然の堀だった時代は勿論のこと、昭和の終わりごろになっても荒々しい川であり続けていたわけですね。

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コンクリの護岸が欠けるということはもう無いでしょう。ただ欠川という呼び名には、今後とも引き継ぐべき深いメッセージがあるのかもしれませんね

■訪問:松尾橋
[静岡県掛川市掛川]


(次の投稿)
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松尾橋を渡れば山城が待っています


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2019年11月11日

千代と一豊と駿馬 清水銀行掛川支店にて

掛川城へ向かう途上、古風な建物と出会いました。

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城下町を思わせるこの素敵な外観。良く見たら銀行でした。清水銀行掛川支店です。建物も魅力的ですが、外壁のレリーフがひときわ目をひきます。場所が場所ですから、あの武将は掛川城主にもなった山内一豊?ですよね。お隣は遠くからはよく分からず、個人的にモーゼを思い出してしまいました。そんな組み合わせあり得ませんが・・・

<外壁のレリーフ>
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こて絵でしょうか?良くできています。モーゼに見えた人物の正体は一豊の妻・千代でした。千代と馬に跨る一豊です。ということは、この馬はただの馬ではありませんね。駿馬です。このレリーフは有名な逸話を表現したものだったわけです。

逸話とは

ある時、織田信長が配下の武将を集めての大馬揃えを行うことになりました。大馬揃えとは、まぁ簡単に言ってしまえば騎馬の優越を競いあう軍事パレードのようなものです。山内一豊は信長に仕えていましたが、あまり裕福な方ではなく、人前で披露するような馬を用意することはできそうにありません。周囲の者達も、一豊は欠席するのではないのかと噂したそうです。事情を知った妻・千代は大金を差し出し、一豊に駿馬を買うよう勧めました。一豊は、その大金が『夫の一大事に備えよ』と千代の母が嫁ぐ娘に持たせたものだと知ります。
大馬揃え当日、一豊は駿馬にまたがって現れます。周囲の驚きは当然のこと、その姿は信長の目にもとまりました。いきさつを知った信長は、「この馬を織田家中の者が買うことが出来ず、他家の者が手に入れようものなら物笑いの種になったであろう。よくぞ織田家の恥を未然に防いでくれた」と褒めたたえました。

ちょっと省略しましたが、だいたいこんなお話です。

これ以降、一豊は信長、そして秀吉に重く用いられるようになります。掛川城の城主となれたのは、秀吉の小田原征伐に加わった時の功績によるもの。のちには徳川家康に従い、やがて土佐国9万8千石を与えられます。この大出世の陰に、妻の千代あり。司馬遼太郎の小説で描かれた世界ですね。

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内助の功、妻のへそくり、銀行預金・・・いろいろと考えさせられる光景でした。清水銀行さん、粋な演出ありがとうございました。


■訪問:清水銀行掛川支店
[静岡県掛川市中町]2-5


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2019年11月10日

駿府城下 上石町のなごり

城下町を訪ねると、職業や身分に由来する地名をよく見聞きしますよね。鍛冶屋さんが住んだであろう鍛冶町、人形を作る職人又は扱う商人が住んだであろう人形町、染物商(紺屋)が多く住んだであろう紺屋町、呉服町、材木町、大工町などなど。身分だと鉄砲足軽が集結していたと思われる鉄砲町、同心町などなど。

今回訪問した駿府城の城下でも、職人や商人を職業ごとに分けて住まわせたなごりを感じることができました。呉服町、両替町などなど。そんななか「え?あぁそういうことだったのか」と思った名がありましたので、ご紹介させて頂きます。

■上石町■ かみごくちょう
<上石町>
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まず直感的に「かみいし」と読みました。城下町で石、ならば石材の職人集まった町だったのかな?

漠然と石工を想像しながら脇の説明を読んだら、由来はまったく別のものでした。

<説明>
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かみごくちょう?

説明によれば、ここは『本石町』とも呼ばれていたようです。『石』は『穀』の意味といわれており、実際にこの付近には豪商の米座があったとのこと。米座(こめざ)とは、まぁお米商人連合組合のようなものです。

駿府城跡で石垣を見たばっかりだったので、普通に石を想像しましたが、穀物の穀だったとは。米の単位を石で現わす場合がありますが、これと関連付けて受けとめてよいのかもしれません。いわゆる何万石といった時に使う『石』です。ちなみに、1石は大人ひとりの1年分の米の量にほぼ一致すると言われています。

説明の続きによれば、徳川家康の駿府在城時に、穀物販売を上石町と下石町に限定したことにより、穀物商人が集まったようです。

なるほど
駿府の場合、上は北で下は南。ここ上石町の南側が下石町だったわけですね。

これは面白いと思い、帰宅してから調べ直したところ、上石町も下石町も区画整理によりその名は無くなったそうです。歴史の裏付けがある素敵な名と思えたので、ちょっと残念。ただまぁ、だからこそ石碑に記したのですね。


<駿府城公園の家康像>
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江戸の町を築いたことで知られる家康さん。ここ駿府においても城下の町づくりに注力していたわけですね。。

ということで
駿府城公園からの帰り道のちょっとした気付きでした。小さなことでも、新たな発見は嬉しいものです。


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2019年11月04日

駿府城のなごり

つわものどもが夢の跡
今回の訪問は天守台の発掘調査真っ最中の駿府城跡です。一般人も見学できると聞き、訪問しました。

shirononagori365.JPG
こちらは復元された駿府城の櫓です

■近世城郭■
戦国の世に終止符を打ち、江戸幕府を開いた徳川家康は、将軍職を三男の秀忠に譲り駿府へ移住しました。古い歴史の駿府城は、この時に家康の手によって近世城郭として築城し直されます。
<家康像>
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駿府城内で撮影。まぁ分かり易く言えば、駿府城は大御所の拠点ということですね。

<大手門跡>
Isuku2020 SNa.JPG
城の南側の大手門跡。食い違い虎口になっています。

<縄張り図>
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三重の堀を持つ輪郭式平城です。近代城郭らしく石垣を廻らせました。本丸の北西には5重7階の天守を配置したと伝わります。

天守はのちの火災(1635年)で焼失してしまい、その後再建されることはありませんでした。でも石垣で固められた天守台は残ります。明治時代に軍の誘致で取り壊され、堀も埋められてしまいますが、今回の発掘調査で地中に埋もれていた天守の基礎部分が明らかにされようとしています。

<発掘調査>
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一般人も見学できます。予約も必要なく無料です!

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埋められてしまったことが幸いしたとも言えますね。上部が取り壊されても、土中には基底部分が残されていました。
今回の調査で、天守台の下層から別の天守台も発見されたようです。別の天守?

<2つの天守台>
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2016年からの発掘調査により、まず家康が築いた天守台が見つかりました。更に、その天守台とは別の天守台が確認されました。これは豊臣時代のもの?というのが有力です。駿府城を築城した家康は、その後関東に国替えしています。もうひとつの天守台は、その後城に入った秀吉の家臣・中村一氏が築いたものとみられています。

奥が深いですね


■駿府城公園■
縄張り図では堀が三重になっていましたが、内側の堀は埋められ、外側の堀は一部埋められ、中堀が当時を思わせる雰囲気で残っている状態です。中堀の内側、つまり二の丸と本丸が駿府城公園として整備され、遺構と復元された櫓により、かつての城のなごりを楽しむことができます。城好きの方々からは厳しい言葉も聞かれますが、都市開発の波のなかで、平城を良くここまで残してくれているなと私は感心しました。

<中堀>
shirononagoriSunpu (11).JPG

<巽櫓>
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<二の丸>
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<坤櫓>ひつじさるやぐら
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二ノ丸の南西の方角に復元された櫓です。未(ひつじ)と申(さる)は方角を表しています。

公園を中心にご紹介しましたが、外にも断片的に城のなごりが漂います

shirononagoriSunpu22.JPG


■つわものどもが夢の跡■
長らく埋められていたことで確認できる遺構。正真正銘のなごりですね。
shirononagoriSunpu (34).JPG

-------■ 駿府城 ■-------
別 名:府中城 静岡城
築城年:1589年(天正17)
(今川氏居館時代除く)
築城者:徳川家康
改修年:1607年(慶長12)
改修者:徳川家康
城 主:徳川氏 中村氏
内藤氏(松平氏)
廃 城:1869年(明治2)
[静岡県静岡市葵区駿府城公園]



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posted by Isuke at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]
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