今年(2020年)はコロナの影響もあり、城跡巡りどころか、そもそも遠出をしていません。家に引きこもるのもなんなんで、土日は地元さいたま市をプラプラと。今回は良く行く公園に設置されている小さな家をご紹介します。
<ヒヤシンスハウス>
詩人で建築家の立原道造ゆかりの建造物
■立原道造■たちはらみちぞう
以下Wikiさんから抜粋させて頂きます。
立原道造は『1914年(大正3年)7月30日 - 1939年(昭和14年)3月29日)は、昭和初期に活動し24歳で急逝した詩人。また建築家としても足跡を残している。』とのこと。東京帝国大学工学部建築学科卒業で、1学年下にはあの丹下健三さんも在籍していたとのこと。学生時代に建築に関わる賞も取っていたようです。
[出典元・Wikipedia]
歌人として名を馳せますが、建築家としても将来を嘱望される方だったようですね。その立原道造、自分のためのワンルームの別荘を建てる構想を持っており、場所として想定されていたのが浦和の別所沼だったそうです。
<別所沼公園>
しかし
結核のため、24歳の若さでこの世を去り、夢は実現しませんでした。構想はスケッチとして残され、それを具体化したのがこのヒアシンスハウスなのです。
<室内>
小さな部屋にデスクと椅子。奥にはベッド。これに対して窓はかなり大きめです。全開にすると、半分外にいるような気分になります。景色は当時の別所沼です。いまでも緑が豊かですが、当時は別荘地のような景色だったのかもしれませんね。こんな書斎があったらいいですね。
いま以上に『自分の部屋』をもつことは贅沢な夢だったことでしょう。歌人として功績を残した立原道造の『建築家』としての夢のなごりということですね。ここはそれを感じることができる場所。実現に向けて尽力されたみなさんに感謝したいと思います。
■訪問:別所沼公園
[さいたま市南区別所]4丁目
■参考資料
私は立原道造さんに関する予備知識がなく、今回もまたWikiさんのお世話になりました。
[参考:Wikipedia2020/10/4]
-------画像を追記-------
立原道造さんが別荘を夢見た別所沼の画像を追加しておきます。
<初夏の別所沼>
<霧の別所沼>
<晩秋の別所沼>
<雪の別所沼>
2020年10月04日
2020年09月13日
雉子橋見附門のなごり
前回は日本橋川沿いの一ツ橋門跡をご紹介させて頂きました。その数百メートル上流の橋で、こんな説明板を見つけました。
<雉子橋>きじばし
<説明板>
橋の説明かと思いきや見附?
一ツ橋門のすぐそばですが、どうやらこちらにも雉子橋門と呼ばれる城門があったようです。江戸城に近いだけあって、随分厳重に守りを固めていたのですね。城門が設けられたのは『1629年(寛永6年)』とありますから、江戸初期には既に城門があったわけですね。
名前のキジですが、これは『家康が朝鮮からの使節をもてなすための雉をこの附近の鳥小屋で飼育したこと』に由来するのこと。なるほど。キジがご馳走だったわけですね。当時の人が肉を食するイメージがなかったので意外ですが、鳥は比較的よく食べられていたようで、その中でもキジは上等な食材だったようです。そのキジで朝鮮の使節(朝鮮通信使)をもてなす。秀吉の朝鮮出兵を機に日本と朝鮮の関係は悪化していましたが、徳川家康が関係改善に力を注いでいた様子がうかがえる興味深い呼び名ですね。
江戸時代の雉子橋は、いまよりもうちょっと西側にあったそうです(ようするに日本橋川の流路がいまとは違うという意味です)。明治になると城門は撤去され、橋は鉄橋となりました。現在の橋は関東大震災後の大正14年(1925年)日に架けられたものとのこと。
一ツ橋門跡のように城門の石垣が残されている訳ではありませんが、説明板のお陰で足を止めることになり、いろんな想像をさせてもらいました。
<日本橋川の石垣>
見附そのものの痕跡はありませんが、この付近の日本橋川の護岸には、いまでも沢山の石垣が残されています。
■訪問:
雉子橋(雉子橋見附跡)
[東京都千代田区一ツ橋]
■参考資料:現地説明板
お城巡りランキング
-------追 記-------
実は雉子橋のすぐ近くでこんな光景と出会いました。
<街のなかの石垣>
枡形の石垣か?
かなり立派な石ばかりです。もしかしたら、雉子橋見附を取り壊した時の石を積み直したのかもしれません。本文に入れなかったのは、どうもそうらしいというだけで、はっきりしなかったからです(一応調べたのですが確証なく断念)。若干積み方に違和感もありましたが、迫力満点の石垣です。もし雉子橋見附のものなら、残してもらったことに感謝です。
<雉子橋>きじばし
<説明板>
橋の説明かと思いきや見附?
一ツ橋門のすぐそばですが、どうやらこちらにも雉子橋門と呼ばれる城門があったようです。江戸城に近いだけあって、随分厳重に守りを固めていたのですね。城門が設けられたのは『1629年(寛永6年)』とありますから、江戸初期には既に城門があったわけですね。
名前のキジですが、これは『家康が朝鮮からの使節をもてなすための雉をこの附近の鳥小屋で飼育したこと』に由来するのこと。なるほど。キジがご馳走だったわけですね。当時の人が肉を食するイメージがなかったので意外ですが、鳥は比較的よく食べられていたようで、その中でもキジは上等な食材だったようです。そのキジで朝鮮の使節(朝鮮通信使)をもてなす。秀吉の朝鮮出兵を機に日本と朝鮮の関係は悪化していましたが、徳川家康が関係改善に力を注いでいた様子がうかがえる興味深い呼び名ですね。
江戸時代の雉子橋は、いまよりもうちょっと西側にあったそうです(ようするに日本橋川の流路がいまとは違うという意味です)。明治になると城門は撤去され、橋は鉄橋となりました。現在の橋は関東大震災後の大正14年(1925年)日に架けられたものとのこと。
一ツ橋門跡のように城門の石垣が残されている訳ではありませんが、説明板のお陰で足を止めることになり、いろんな想像をさせてもらいました。
<日本橋川の石垣>
見附そのものの痕跡はありませんが、この付近の日本橋川の護岸には、いまでも沢山の石垣が残されています。
■訪問:
雉子橋(雉子橋見附跡)
[東京都千代田区一ツ橋]
■参考資料:現地説明板
お城巡りランキング
-------追 記-------
実は雉子橋のすぐ近くでこんな光景と出会いました。
<街のなかの石垣>
枡形の石垣か?
かなり立派な石ばかりです。もしかしたら、雉子橋見附を取り壊した時の石を積み直したのかもしれません。本文に入れなかったのは、どうもそうらしいというだけで、はっきりしなかったからです(一応調べたのですが確証なく断念)。若干積み方に違和感もありましたが、迫力満点の石垣です。もし雉子橋見附のものなら、残してもらったことに感謝です。
2020年09月10日
高架下の城のなごり (一ツ橋門跡)
今回は日本橋川沿いを歩いていて偶然見つけた城のなごりの話です。
<一ツ橋門跡>
あの形はもしかして
高架下の目立たない所にありますが、明らかに城門の土台となる石垣です。こんなブログをやっていますが、意識して訪問したわけではなく、まったくの偶然でした。この日は真夏日で、江戸城の平川門跡に寄ったあと、強い日差しを避けて高速道路の日陰に逃げ込んだことが幸いしました。
<一ツ橋>ひとつばし
場所は日本橋川に架かる一ツ橋のたもと
<現地地図>
ここです。平川門から信号を渡って日本橋川に向かって歩けばすぐ。現地では川より高速道路の方が目立つので、そちらを目印にした方が良いかもしれません。
冒頭の石垣は一ツ橋を渡った先にあります。古地図などで確認すると、城門は橋とほぼセットで機能していたようです。
<橋の上から撮影>
ちょっと薄い・・・
桝形門という立派な構造だったようです。これだけで原型を想像するのはちょっと難しいので、同じく桝形門だった日比谷見附の石垣を参考までに貼っておきます。
<比較用:日比谷見附跡>
こちらは日比谷見附跡です。門そのものはありませんが、石垣の一部が残っている状態です。あくまで参考です。一ツ橋門の石垣も、きっとこれくらい重厚なものだったことでしょう。
ちなみに
桝形門とは、石垣などで周囲を囲まれた方形の区画を確保して、出入口に門を設ける構造をいいます。ちょっと説明が雑ですかね。城用語を説明した投稿がありますので、良かったら覗いてみて下さい。
桝形・桝形虎口・桝形門
『→記事へすすむ』
<護岸の一部>
桝形門の大半は取り壊されましたが、川に面した部分は護岸の一部として機能しているため、残されたわけですね(推定)。石垣が崩れないように反対側はコンクリで固められています。
橋を渡ってもうちょっと近づいてみました。
<隅石>
立派な隅石です。石垣の強度を保つ上で最も重要視されるのがこの隅っ子の石。比較的大きな石を綺麗な方形に加工し、長短を交互にして積み上げていきます。算木積み(さんぎづみ)という技法で、江戸城に限らず、近世城郭では決して珍しい技法ではありません。ただ、石垣全体がこのような姿になっているだけに、妙に愛おしく感じてしまいます。
後で調べて分かったのですが、残されている部分は枡形の櫓台のようです。さぞりっぱな石垣だったのでしょう。江戸城三十六見附(赤坂見附や虎ノ門といった江戸城の主要な出入口の総称)の一つに数えられる城門でした。その当時の石垣が、目立たない高架下に人知れず残っているわけですね。
さてさて
貴重な歴史の痕跡ではありますが、石垣に関する説明板は見当たりません。ただし一ツ橋についての説明板はありました。そこには『内濠川に架かる見附橋』と記されており、『徳川家康が江戸城に入ったころは、大きな丸木が一本架けられていて、その名で呼ばれていた』とありました。家康が江戸に入る以前から、一ツ橋と呼ばれていたわけですね。橋が『一つ』で一ツ橋。なるほど。これとは別に、橋の付近で二つの川が合流して『一つ』になる地点だったから一ツ橋と呼ばれたというお話もあります。まぁいずれにせよ、架かっていた橋の名はそのまま地名となり、のちには地名に由来して、徳川家の血縁が一ツ橋家と称しました。先ほどの地図の中央下に丸紅東京本社ビルとありますが、こちらは一橋徳川家の屋敷跡です。
<城門のなごり>
明治になって一ツ橋見附は撤去されました。取り除かれなかった石垣が、城門のなごりを留めています。
■訪問:江戸城一ツ橋門跡
[東京都千代田区一ツ橋]
お城巡りランキング
-------追 記-------
文中にあった平川門付近の画像を貼っておきます。こちらは今でも有名な江戸城の出入り口。一ツ橋門見附のご紹介はちょっとマニアックなので、まずはこちらを目当てに訪問されることをお勧めします。
<平川橋>
一橋徳川家の登城口でもありました
<一ツ橋門跡>
あの形はもしかして
高架下の目立たない所にありますが、明らかに城門の土台となる石垣です。こんなブログをやっていますが、意識して訪問したわけではなく、まったくの偶然でした。この日は真夏日で、江戸城の平川門跡に寄ったあと、強い日差しを避けて高速道路の日陰に逃げ込んだことが幸いしました。
<一ツ橋>ひとつばし
場所は日本橋川に架かる一ツ橋のたもと
<現地地図>
ここです。平川門から信号を渡って日本橋川に向かって歩けばすぐ。現地では川より高速道路の方が目立つので、そちらを目印にした方が良いかもしれません。
冒頭の石垣は一ツ橋を渡った先にあります。古地図などで確認すると、城門は橋とほぼセットで機能していたようです。
<橋の上から撮影>
ちょっと薄い・・・
桝形門という立派な構造だったようです。これだけで原型を想像するのはちょっと難しいので、同じく桝形門だった日比谷見附の石垣を参考までに貼っておきます。
<比較用:日比谷見附跡>
こちらは日比谷見附跡です。門そのものはありませんが、石垣の一部が残っている状態です。あくまで参考です。一ツ橋門の石垣も、きっとこれくらい重厚なものだったことでしょう。
ちなみに
桝形門とは、石垣などで周囲を囲まれた方形の区画を確保して、出入口に門を設ける構造をいいます。ちょっと説明が雑ですかね。城用語を説明した投稿がありますので、良かったら覗いてみて下さい。
桝形・桝形虎口・桝形門
『→記事へすすむ』
<護岸の一部>
桝形門の大半は取り壊されましたが、川に面した部分は護岸の一部として機能しているため、残されたわけですね(推定)。石垣が崩れないように反対側はコンクリで固められています。
橋を渡ってもうちょっと近づいてみました。
<隅石>
立派な隅石です。石垣の強度を保つ上で最も重要視されるのがこの隅っ子の石。比較的大きな石を綺麗な方形に加工し、長短を交互にして積み上げていきます。算木積み(さんぎづみ)という技法で、江戸城に限らず、近世城郭では決して珍しい技法ではありません。ただ、石垣全体がこのような姿になっているだけに、妙に愛おしく感じてしまいます。
後で調べて分かったのですが、残されている部分は枡形の櫓台のようです。さぞりっぱな石垣だったのでしょう。江戸城三十六見附(赤坂見附や虎ノ門といった江戸城の主要な出入口の総称)の一つに数えられる城門でした。その当時の石垣が、目立たない高架下に人知れず残っているわけですね。
さてさて
貴重な歴史の痕跡ではありますが、石垣に関する説明板は見当たりません。ただし一ツ橋についての説明板はありました。そこには『内濠川に架かる見附橋』と記されており、『徳川家康が江戸城に入ったころは、大きな丸木が一本架けられていて、その名で呼ばれていた』とありました。家康が江戸に入る以前から、一ツ橋と呼ばれていたわけですね。橋が『一つ』で一ツ橋。なるほど。これとは別に、橋の付近で二つの川が合流して『一つ』になる地点だったから一ツ橋と呼ばれたというお話もあります。まぁいずれにせよ、架かっていた橋の名はそのまま地名となり、のちには地名に由来して、徳川家の血縁が一ツ橋家と称しました。先ほどの地図の中央下に丸紅東京本社ビルとありますが、こちらは一橋徳川家の屋敷跡です。
<城門のなごり>
明治になって一ツ橋見附は撤去されました。取り除かれなかった石垣が、城門のなごりを留めています。
■訪問:江戸城一ツ橋門跡
[東京都千代田区一ツ橋]
お城巡りランキング
-------追 記-------
文中にあった平川門付近の画像を貼っておきます。こちらは今でも有名な江戸城の出入り口。一ツ橋門見附のご紹介はちょっとマニアックなので、まずはこちらを目当てに訪問されることをお勧めします。
<平川橋>
一橋徳川家の登城口でもありました
2020年09月08日
暗渠と城跡27 そこにあったもののなごり
今回は、城跡好きがなぜか暗渠に魅かれる理由(の一つ)をご紹介できればと思い、二つの画像を用意しました。
<護岸の跡>
このコンクリの道はもともと水路でした。道の隅(左手)に残っているのは護岸の跡です。暗渠化工事の際に、構造上の理由から護岸はそのままにして水路が埋められため、こうして跡が残っています。
<見附跡>
川の側面に昔の石垣が残されています。かなり高い位置まで積まれていますね。これは江戸城の城門の跡です。痕跡からして『桝形門』という立派な構造だったと思われます。開発の都合で桝形門の石垣は撤去されましたが、川に面した部分は護岸を兼ねているので、取り壊さなかったわけですね(きっと)。
水路は水の通り道として、城門は城の出入り口として、それぞれ役割を果たしていました。形を失いながら、痕跡だけが残されている。
情緒的に似たものを感じるのは私だけでしようか?
ということで
今回はあまりくどくど説明しません。画像だけ見比べて頂ければと思います。何を感じるかはその人次第。思い浮かべるものが、その人らしさということで良いと思っています。
埋もれている痕跡を見つけて何かを想像してみる。そのきっかけになれば嬉しいです。
お城巡りランキング
-------追 記-------
ほぼ同じ内容で、もうちょっと意見を言わせてもらった投稿があります。良かったら覗いてみて下さい。
街の中で痕跡に気付く
[投稿:2017年12月17日]
『→記事へすすむ』
<護岸の跡>
このコンクリの道はもともと水路でした。道の隅(左手)に残っているのは護岸の跡です。暗渠化工事の際に、構造上の理由から護岸はそのままにして水路が埋められため、こうして跡が残っています。
<見附跡>
川の側面に昔の石垣が残されています。かなり高い位置まで積まれていますね。これは江戸城の城門の跡です。痕跡からして『桝形門』という立派な構造だったと思われます。開発の都合で桝形門の石垣は撤去されましたが、川に面した部分は護岸を兼ねているので、取り壊さなかったわけですね(きっと)。
水路は水の通り道として、城門は城の出入り口として、それぞれ役割を果たしていました。形を失いながら、痕跡だけが残されている。
情緒的に似たものを感じるのは私だけでしようか?
ということで
今回はあまりくどくど説明しません。画像だけ見比べて頂ければと思います。何を感じるかはその人次第。思い浮かべるものが、その人らしさということで良いと思っています。
埋もれている痕跡を見つけて何かを想像してみる。そのきっかけになれば嬉しいです。
お城巡りランキング
-------追 記-------
ほぼ同じ内容で、もうちょっと意見を言わせてもらった投稿があります。良かったら覗いてみて下さい。
街の中で痕跡に気付く
[投稿:2017年12月17日]
『→記事へすすむ』
2020年09月06日
用水路の暗渠と雨乞いの石碑(旧浦和市)
今回は川沿いをウォーキング中に見つけた石碑の話です。
<石碑>
これはなんの石碑だろう?
なるほど
ちょっと冒頭を抜粋させて頂きます
『この碑は、かつてこの地域が農業盛んであった時代のもので、水の恵みを預かる様、雨乞い祈願したものと云い伝えられてきました』
雨乞い祈願
の石碑だったのですね
いまではそんな雰囲気は漂いませんが、この付近は江戸時代の半ば頃までは低湿地、その後は水路の整備で沼地の水が抜かれ、水田へと姿を変えました。これにより食べ物の生産性は飛躍的に向上することになりますが、雨不足は豊かになったはずの暮らしにそのまま直撃する深刻な問題です。場合によっては、致命的な被害となったことでしょう。
天気は人の力ではどうしようもないことです。個々の祈りが集まり、形となったのがこの石碑なのでしょう。
ところで
もはや周囲に水田はありません。でも水路は残されています。もっとも、地表からは姿を消しましたが
<鴻沼川の旧流路>こうぬまがわ
さきほどの石碑のすぐそばです。立ち入り禁止のこの空き地は、かつての川跡です。川の名は鴻沼川。現在のさいたま市を流れるこの川は、自然の河川ではなく、江戸時代の新田開発の際に開削された水路、いわば人口の川です。ながらくここを流れていましたが、のちに流路変更されました。
<鴻沼川の旧流路の暗渠>
道を挟んだこちらもかつての鴻沼川の川跡です。地下からはゴーゴーという水の音が聞こえます。いわゆる暗渠ですね。
<鴻沼川東縁の暗渠>
こちらは石碑の真ん前の道路です。左手のアパートの脇に石碑があります。ここもただの道ではなく、いわゆる暗渠。正確に言うと、一番左手は歩道、真ん中が水路だった暗渠、右手は水路沿いの道です。
鴻沼川の本流ではなく、同時期に設けられた鴻沼川東縁の暗渠です。道路ではないので、耐久性の問題から車止めが設けられています。水はいまでも地下を流れ、本流である鴻沼川へ合流します。
画像だけ見るとコンクリばかりですね。でもとらえ方によっては、ここは今でも水辺なのです。
都市開発が進み、水田の多くは姿を消し、現在でも我々の生活に役立っている水路まで、地上から姿を消しつつあります。水道の蛇口をひねれば、水は確保できるのですから、その存在を意識する機会は減りましたよね。石碑の説明文の最後には『いつの世も水を大切にする心は重要です』と記されています。水に不自由しないということが、実はとても大切なことなんだと、この石碑が伝えてくれているような気がしました。
<鴻沼川>
流路変更された現在の鴻沼川です
■訪問:雨乞いの石碑
[さいたま市南区関]
■お勧め本■
静かなブームになりつつある『暗渠』に関する本のご紹介です。当ブログでは下記をお勧め致します。
暗渠パラダイス!(朝日新聞出版)
著者:高山英男/吉村生
はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
著者:本田創/山英男/吉村生/三土たつお
暗渠マニアック ! (柏書房)
著者:吉村生/山英男
※広告掲載期限切れのため書名のみ
<石碑>
これはなんの石碑だろう?
なるほど
ちょっと冒頭を抜粋させて頂きます
『この碑は、かつてこの地域が農業盛んであった時代のもので、水の恵みを預かる様、雨乞い祈願したものと云い伝えられてきました』
雨乞い祈願
の石碑だったのですね
いまではそんな雰囲気は漂いませんが、この付近は江戸時代の半ば頃までは低湿地、その後は水路の整備で沼地の水が抜かれ、水田へと姿を変えました。これにより食べ物の生産性は飛躍的に向上することになりますが、雨不足は豊かになったはずの暮らしにそのまま直撃する深刻な問題です。場合によっては、致命的な被害となったことでしょう。
天気は人の力ではどうしようもないことです。個々の祈りが集まり、形となったのがこの石碑なのでしょう。
ところで
もはや周囲に水田はありません。でも水路は残されています。もっとも、地表からは姿を消しましたが
<鴻沼川の旧流路>こうぬまがわ
さきほどの石碑のすぐそばです。立ち入り禁止のこの空き地は、かつての川跡です。川の名は鴻沼川。現在のさいたま市を流れるこの川は、自然の河川ではなく、江戸時代の新田開発の際に開削された水路、いわば人口の川です。ながらくここを流れていましたが、のちに流路変更されました。
<鴻沼川の旧流路の暗渠>
道を挟んだこちらもかつての鴻沼川の川跡です。地下からはゴーゴーという水の音が聞こえます。いわゆる暗渠ですね。
<鴻沼川東縁の暗渠>
こちらは石碑の真ん前の道路です。左手のアパートの脇に石碑があります。ここもただの道ではなく、いわゆる暗渠。正確に言うと、一番左手は歩道、真ん中が水路だった暗渠、右手は水路沿いの道です。
鴻沼川の本流ではなく、同時期に設けられた鴻沼川東縁の暗渠です。道路ではないので、耐久性の問題から車止めが設けられています。水はいまでも地下を流れ、本流である鴻沼川へ合流します。
画像だけ見るとコンクリばかりですね。でもとらえ方によっては、ここは今でも水辺なのです。
都市開発が進み、水田の多くは姿を消し、現在でも我々の生活に役立っている水路まで、地上から姿を消しつつあります。水道の蛇口をひねれば、水は確保できるのですから、その存在を意識する機会は減りましたよね。石碑の説明文の最後には『いつの世も水を大切にする心は重要です』と記されています。水に不自由しないということが、実はとても大切なことなんだと、この石碑が伝えてくれているような気がしました。
<鴻沼川>
流路変更された現在の鴻沼川です
■訪問:雨乞いの石碑
[さいたま市南区関]
■お勧め本■
静かなブームになりつつある『暗渠』に関する本のご紹介です。当ブログでは下記をお勧め致します。
暗渠パラダイス!(朝日新聞出版)
著者:高山英男/吉村生
はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
著者:本田創/山英男/吉村生/三土たつお
暗渠マニアック ! (柏書房)
著者:吉村生/山英男
※広告掲載期限切れのため書名のみ
タグ:暗渠
2020年08月31日
岩槻探索のおまけ(久伊豆神社)遺構に思えた盛り土
今月は岩槻探索ばかり投稿してきましたが、最後に『土塁かと思って後から調べたけど根拠がみつからなかった』盛り土をご紹介します。
<盛り土>
こちらです。右手は低地になっており、盛り土は低層の台地上にありました。
<久伊豆神社>
場所は南下新井の久伊豆神社付近。盛り土はこちらの境内の西側の道にありました。
神社そのものが周囲より高い位置にあります。
ここからは邪推に過ぎませんが、この付近が何らかの砦または屋敷跡だったのではないか?と現地で勝手に想像し、帰宅していろいろと調べました。しかし神社そのものの説明ばかりで、砦や屋敷に結び付く資料はみつけられませんでした。
室町時代末には勧請されていたとされる歴史ある神社です。
現地説明板なども確認しましたが、地元豪族の屋敷とか、そんな記載はいっさいありません。
まぁしっかりとした裏付けのある史跡を自分の目で見て回るという探索も楽しいですが、よくわからないものに足を止めて、勘違いも含めて楽しむのも、それはそれで楽しいです。
ということで
ちょっと中身のないお話となりました。ただ、似たような思いで地元探索などをしている方が共感してくれれば嬉しいです。
個人的にはいまでも砦かなにかの『土塁』と思っています
お城巡りランキング
<盛り土>
こちらです。右手は低地になっており、盛り土は低層の台地上にありました。
<久伊豆神社>
場所は南下新井の久伊豆神社付近。盛り土はこちらの境内の西側の道にありました。
神社そのものが周囲より高い位置にあります。
ここからは邪推に過ぎませんが、この付近が何らかの砦または屋敷跡だったのではないか?と現地で勝手に想像し、帰宅していろいろと調べました。しかし神社そのものの説明ばかりで、砦や屋敷に結び付く資料はみつけられませんでした。
室町時代末には勧請されていたとされる歴史ある神社です。
現地説明板なども確認しましたが、地元豪族の屋敷とか、そんな記載はいっさいありません。
まぁしっかりとした裏付けのある史跡を自分の目で見て回るという探索も楽しいですが、よくわからないものに足を止めて、勘違いも含めて楽しむのも、それはそれで楽しいです。
ということで
ちょっと中身のないお話となりました。ただ、似たような思いで地元探索などをしている方が共感してくれれば嬉しいです。
個人的にはいまでも砦かなにかの『土塁』と思っています
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2020年08月29日
城主に代わって天下軍2万と戦った宿老(岩槻太田氏家臣)伊達房実
つわものどもが夢の跡
今回は岩槻城に2千の兵で立て籠り、豊臣軍2万を迎え撃った武将の話です。
<岩槻城跡>
豊臣秀吉による小田原征伐の際、ここ岩槻城には2万の兵が押し寄せました。城主は小田原城に詰めていて不在。代わりに指揮をとったのが今回ご紹介する伊達房実(ふさざね)です。
■岩槻太田氏家臣■
以下はwikiさんの『岩槻城』からの抜粋です。
『1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、氏房が小田原城に詰めたため、氏房付の宿老である伊達房実の指揮の下、2000の兵が岩付城に籠城するが、浅野長吉等が率る約2万の兵に攻められ、1000余の犠牲を出して数日後に降伏落城した。』
[出典:Wikipedia 2020/8/29]
壮絶な戦いです。文中の『氏房』は本来の岩槻城主・北条氏房。まぁ既に太田氏を継いでいたわけですから太田氏房ですかね。あと、ここでは『浅野長吉』となっていますが、浅野長政と言ったほうがピンとくる方が多いような気がします。石田三成らとともに、豊臣政権下で五奉行の一角だった武将ですね。秀吉から信頼の厚い大物が率いる天下軍2万が、岩槻城に襲い掛かりました。
指揮をとった伊達房実は、岩槻太田氏に仕える古参にして、岩槻城の西を守る伊達城の城主です。改修により総構えとなっていた岩槻を守るべく、2千の兵を指揮して善戦しますが、最終的には落城となりました。伊達房実はここで討ち死にしたのではないかという説もありますが、降伏して助命されたとするのが一般的です。
<伊達城推定地の台地>
こちらはさいたま市見沼区大和田町の伊達城跡の推定地です。伊達城の正確な位置まではわかりません。ただ、この付近だったようです。
■江戸幕府旗本■
豊臣軍に屈した伊達房実は、のちに徳川家康に召し抱えられています。250石の旗本となり、江戸三番町角屋敷を与えられ、かつて自らの居城だった伊達城付近を知行し、陣屋を構えました。
<大和田陣屋>
こちらは先ほどの伊達城近くの陣屋跡です。土塁が確認できます。画像は2018年のもので、それまであった民家が取り壊された状態でした。ちょっと地味ではありますが、これも立派な痕跡。大和田伊達氏のなごりです。
■徳川家康との縁■
戦国末期の岩槻太田氏の家臣は、すなわち小田原北条氏に与した者たちということになります。伊達房実も、主君であり城主である北条氏房(太田氏房)に代わって岩槻城を守り、豊臣軍と戦いました。豊臣方の徳川家康としては、直接の戦いはないものの、敵方の武将だったわけですね。
敵であっても、戦が終われば家臣に迎え入れる。これは日本の場合はよくある話です。ただ、ある程度のポジションになると、やはり家柄や力量が認められるとか、あるいは信用できる者の血縁とか、なんらかの裏付けが必要になる気がします。
旗本になるのはそう簡単なことではありません。『伊達』を名乗っていますが、伊達政宗と結び付けるには、そうとうご先祖様まで遡る必要があります。当人同士はほぼ無関係で、あまり効力があるとは思えません。では、なにが背景となっているのでしょう。
■駿河伊達氏の出か■
伊達房実の出自については、ある程度有力な説もありながら諸説があり、更に資料も乏しい状態です。ということで、またwikiさんにお世話になります。以下はwikiさんの『伊達 房実』からの抜粋です。
『駿河伊達氏とされるが、『寛政重修諸家譜』に拠れば、伊達政充が北条氏康に仕え、その子の宗春(宗綱)は今川氏、次いで徳川家臣であった。小笠原信興配下の高天神衆として姉川の合戦に従軍し、姉川七本槍に数えられた。のち徳川家康の次女の督姫が天正11年(1583年)8月に北条氏直に嫁いだ際、同行して北条氏傘下に入ったと伝わる。』
[出典:Wikipedia 2020/8/29]
『伊達政充』は祖父、『宗春』は父です。そして小笠原信は高天神城の城主を務めた武将。個人的に、ここが一番興味深いところです。
<高天神城>
この城は武田に対抗するための徳川の城でした。つまり、城を守る者たちは全て徳川の家臣です。しかし、武田勝頼率いる大軍に攻められた時、浜松城にいる家康に助けを求めたものの援軍は来ませんでした。援軍が出せる状態ではなかったという表現の方が家康にとっては良い言い回しでしょうか。しかし籠城して奮闘する者たちからみれば、見捨てられたことに代わりありません。城主の小笠原信興は武田に降伏するとともに、徳川家康を見限って武田に降る道を選びました。
この時、城を守る中に伊達房実がいたとしたら、これが家康との縁、しかも古い縁ということになりますね。徳川家康は過去の失敗を教訓としていつまでも忘れないタイプの武将です。再会するに至り、見捨てた城の生き残りにそれ相応の対応をした。これにより、江戸幕府の旗本にまでなれた。そんな想像はちょっと乱暴過ぎますかね?
ということで
伊達房実が駿河伊達氏の出ということにも確証ないままのお話でした。今回は一般的に言われている内容でもないことから、最後に出典元を明記させて頂きます。その他の部分は、ただの城好き・戦国武将好き会社員の想像が盛り込まれていますので、その程度に受け止めて下さい。ただ、そんな視点で歴史を楽しんでいる方と共有できれば幸いです。
<岩槻城裏門>
つわものどもが夢の跡
■参考及び抜粋■
Wikipedia−伊達 房実
Wikipedia−岩槻城
[検索日2020/8/29]
------- 補 足 -------
今回登場した伊達城跡・大和田陣屋跡、そして高天神城については別途投稿していますので、良かったら覗いてみて下さい。
伊達城跡
→『記事へすすむ』
大和田陣屋跡
→『記事へすすむ』
高天神城跡
→『記事へすすむ』
お城巡りランキング
今回は岩槻城に2千の兵で立て籠り、豊臣軍2万を迎え撃った武将の話です。
<岩槻城跡>
豊臣秀吉による小田原征伐の際、ここ岩槻城には2万の兵が押し寄せました。城主は小田原城に詰めていて不在。代わりに指揮をとったのが今回ご紹介する伊達房実(ふさざね)です。
■岩槻太田氏家臣■
以下はwikiさんの『岩槻城』からの抜粋です。
『1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、氏房が小田原城に詰めたため、氏房付の宿老である伊達房実の指揮の下、2000の兵が岩付城に籠城するが、浅野長吉等が率る約2万の兵に攻められ、1000余の犠牲を出して数日後に降伏落城した。』
[出典:Wikipedia 2020/8/29]
壮絶な戦いです。文中の『氏房』は本来の岩槻城主・北条氏房。まぁ既に太田氏を継いでいたわけですから太田氏房ですかね。あと、ここでは『浅野長吉』となっていますが、浅野長政と言ったほうがピンとくる方が多いような気がします。石田三成らとともに、豊臣政権下で五奉行の一角だった武将ですね。秀吉から信頼の厚い大物が率いる天下軍2万が、岩槻城に襲い掛かりました。
指揮をとった伊達房実は、岩槻太田氏に仕える古参にして、岩槻城の西を守る伊達城の城主です。改修により総構えとなっていた岩槻を守るべく、2千の兵を指揮して善戦しますが、最終的には落城となりました。伊達房実はここで討ち死にしたのではないかという説もありますが、降伏して助命されたとするのが一般的です。
<伊達城推定地の台地>
こちらはさいたま市見沼区大和田町の伊達城跡の推定地です。伊達城の正確な位置まではわかりません。ただ、この付近だったようです。
■江戸幕府旗本■
豊臣軍に屈した伊達房実は、のちに徳川家康に召し抱えられています。250石の旗本となり、江戸三番町角屋敷を与えられ、かつて自らの居城だった伊達城付近を知行し、陣屋を構えました。
<大和田陣屋>
こちらは先ほどの伊達城近くの陣屋跡です。土塁が確認できます。画像は2018年のもので、それまであった民家が取り壊された状態でした。ちょっと地味ではありますが、これも立派な痕跡。大和田伊達氏のなごりです。
■徳川家康との縁■
戦国末期の岩槻太田氏の家臣は、すなわち小田原北条氏に与した者たちということになります。伊達房実も、主君であり城主である北条氏房(太田氏房)に代わって岩槻城を守り、豊臣軍と戦いました。豊臣方の徳川家康としては、直接の戦いはないものの、敵方の武将だったわけですね。
敵であっても、戦が終われば家臣に迎え入れる。これは日本の場合はよくある話です。ただ、ある程度のポジションになると、やはり家柄や力量が認められるとか、あるいは信用できる者の血縁とか、なんらかの裏付けが必要になる気がします。
旗本になるのはそう簡単なことではありません。『伊達』を名乗っていますが、伊達政宗と結び付けるには、そうとうご先祖様まで遡る必要があります。当人同士はほぼ無関係で、あまり効力があるとは思えません。では、なにが背景となっているのでしょう。
■駿河伊達氏の出か■
伊達房実の出自については、ある程度有力な説もありながら諸説があり、更に資料も乏しい状態です。ということで、またwikiさんにお世話になります。以下はwikiさんの『伊達 房実』からの抜粋です。
『駿河伊達氏とされるが、『寛政重修諸家譜』に拠れば、伊達政充が北条氏康に仕え、その子の宗春(宗綱)は今川氏、次いで徳川家臣であった。小笠原信興配下の高天神衆として姉川の合戦に従軍し、姉川七本槍に数えられた。のち徳川家康の次女の督姫が天正11年(1583年)8月に北条氏直に嫁いだ際、同行して北条氏傘下に入ったと伝わる。』
[出典:Wikipedia 2020/8/29]
『伊達政充』は祖父、『宗春』は父です。そして小笠原信は高天神城の城主を務めた武将。個人的に、ここが一番興味深いところです。
<高天神城>
この城は武田に対抗するための徳川の城でした。つまり、城を守る者たちは全て徳川の家臣です。しかし、武田勝頼率いる大軍に攻められた時、浜松城にいる家康に助けを求めたものの援軍は来ませんでした。援軍が出せる状態ではなかったという表現の方が家康にとっては良い言い回しでしょうか。しかし籠城して奮闘する者たちからみれば、見捨てられたことに代わりありません。城主の小笠原信興は武田に降伏するとともに、徳川家康を見限って武田に降る道を選びました。
この時、城を守る中に伊達房実がいたとしたら、これが家康との縁、しかも古い縁ということになりますね。徳川家康は過去の失敗を教訓としていつまでも忘れないタイプの武将です。再会するに至り、見捨てた城の生き残りにそれ相応の対応をした。これにより、江戸幕府の旗本にまでなれた。そんな想像はちょっと乱暴過ぎますかね?
ということで
伊達房実が駿河伊達氏の出ということにも確証ないままのお話でした。今回は一般的に言われている内容でもないことから、最後に出典元を明記させて頂きます。その他の部分は、ただの城好き・戦国武将好き会社員の想像が盛り込まれていますので、その程度に受け止めて下さい。ただ、そんな視点で歴史を楽しんでいる方と共有できれば幸いです。
<岩槻城裏門>
つわものどもが夢の跡
■参考及び抜粋■
Wikipedia−伊達 房実
Wikipedia−岩槻城
[検索日2020/8/29]
------- 補 足 -------
今回登場した伊達城跡・大和田陣屋跡、そして高天神城については別途投稿していますので、良かったら覗いてみて下さい。
伊達城跡
→『記事へすすむ』
大和田陣屋跡
→『記事へすすむ』
高天神城跡
→『記事へすすむ』
お城巡りランキング
2020年08月23日
岩槻城のなごり
つわものどもが夢の跡
関東の覇権争いで常に緊張にさらされ続けた重要拠点を訪ねました。
<岩槻城跡>いわつきじょう
鍛冶曲輪の道灌橋
■築城者・太田道灌■
岩槻城は川越城・江戸城の築城者でもある太田道灌により築かれたとされています。当時の関東は、既に勢力争いの混迷期に突入していました。関東管領の扇谷上杉持朝が、古河公方に抵抗すべく家臣である道灌に築城を命じたことが岩槻城のはじまりです。古河に対する前線基地のような存在だったわけですね。
<白鶴城址碑>
岩槻城の別名は白鶴城。太田道灌の築城秘話に由来する呼び名です。
実は築城者については諸説あります。道灌と父である太田道真による築城とする説。これなら築城主が扇谷上杉氏という点では同じですが、古河公方に与する成田氏の築城とする説もあります。成田氏は『のぼうの城』の舞台となった忍城の築城でも知られる武蔵国の士族ですね。これも興味深い話ですが、当ブログでは太田道灌ということで通します。
■岩槻太田氏対小田原北条氏■
小田原北条氏第2 代当主の氏綱は、扇谷上杉氏の居城・江戸城を攻め落とすと(1524年)、その勢いで北上し、岩槻にも進攻しました。岩槻城は北条の配下となりますが、太田資頼(すけより)が岩槻城を攻略(1530年)。城は資頼の長男・資顕(すけあき)、次男の資正(すけまさ)に受け継がれます。
三楽斎の名でも知られる太田資正は、勢力を増す北条氏へ靡こうとした兄とは逆に、あくまで扇谷上杉氏に仕え続けます。その扇谷上杉氏が滅びると越後の上杉謙信と結び、小田原の北条氏に対抗し続けました。
しかし、里見氏とともに北条氏と戦って破れたのち(1564年)、子である氏資に裏切られ、岩槻城を追い出されることとなりました(同じく反北条の佐竹氏を頼って落ち延びました)。岩槻城は氏資は受け継がれたものの戦で討ち死にし、城には北条一族の氏房が入城することとなりました。氏房は第5代当主である氏直の弟です。ちょっと長くなりましたが、結果としては北条配下の城となりました。
<堀跡と沼>
<岩槻城址ノ記>
■秀吉の北条征伐■
1590年、豊臣秀吉が大軍を率いて小田原征伐に乗り出します。関東覇者となっていた北条氏は、これに備えて主要な城の強化を図ります。岩槻城もこの時に拡張・改修されました。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
こちらが岩槻城の縄張り図です。城の防衛において、元荒川の果たした役割は大きいですね。岩槻城には七つの曲輪があったとされ、本丸から沼を挟んだ南側の部分は秀吉による小田原征伐の際に出丸として拡張されたと考えられています。また、この時に岩槻の城下町にも堀や土塁が設けられ、いわゆる総構えとなったとされています。もともとの地形、つまり台地と低地と川をうまく利用した城という感じですね。
<元荒川>
新曲輪橋から眺めた元荒川です。岩槻城にとっての天然の堀です。
<岩槻愛宕神社>いわつきあたごじんじゃ
[さいたま市岩槻区本町]
かつて城下町の外周を囲んでいた土塁はほとんど姿を消しましたが、ここは神社が祀られていることで壊されずにすみました。貴重な総構えのなごりです。
<総構えの堀跡>
[さいたま市岩槻区府内]
こちらは城下の堀の跡です
実際に天下軍が押し寄せた時、城主の北条氏房(太田氏房)は、小田原城の籠城戦に参陣していました。代わりに城を守ったのは家臣の伊達房実。2千の兵で籠城し、浅野長政が指揮する天下軍2万の攻撃に耐えますが、数日後に落城。千人以上の犠牲者が出たそうです。
<ふるさと散策路>
岩槻城址公園へ繋がる散歩道、堀の跡です。
■譜代大名の城■
北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入ると、江戸から比較的近い岩槻城は北の重要拠点と位置付けられ、高力清長を筆頭に、以降も譜代大名が城主を務めました、めまぐるしく城主は変わりましたが、江戸時代中期に9代将軍徳川家重から信頼の厚かった大岡忠光(大岡忠相の遠縁です)が藩主として入城すると、以降は明治まで、岩槻城は大岡氏の居城でした。
■岩槻城のなごり■
<本丸跡>
岩槻城の本丸や二の丸といった主郭部分は、開発により姿を消しました。向こう側に見えているのはマミーマートです。この付近一帯がかつての本丸でした。
<岩槻城址公園>
新曲輪・鍛冶曲輪付近が公園として整備され、城のなごりを今に留めています。岩槻城址公園はかつての城の主郭部分ではなく、出丸的な役割を担ったエリアです。
<かつての沼>
埋め立てにより現在は広場となっていますが、ここはかつては水の中。主郭部分を取り囲む沼でした。
<菖蒲池と八ツ橋>
巨大な沼は姿を消しましたが、残された水辺に、そのなごりを感じることができます。橋はかつての岩槻城とは無関係ながら、朱塗りの橋が見事で、訪れる人の目を楽しませてくれます。
<鍛冶曲輪周辺の堀跡>
見事な遺構です。今でも充分な高低差ですが、昔はもっと深かったのでしょう。
右折する堀。横矢が掛けられています。
<鍛冶曲輪>かじくるわ
<堀障子が確認された場所>
発掘調査の結果、鍛冶曲輪と新曲輪の間の堀で、堀障子が確認されたそうです。調査が終わると保存のために埋めてしまうので、いまはご覧の通りです(現地には説明板あり)。
<新曲輪付近>
この付近には櫓があったとされています
<城門>
黒門と呼ばれるかつての城門。形としては長屋門です。
<裏門>
こちらは岩槻城の裏門とされています。門の形式は薬医門。先ほどの黒門もそうですが、かつての城郭のどこに設けられていたかははっきりしていません。
■つわものどもが夢の跡■
室町末期に築かれた岩槻城は、戦国時代を通して緊張にさらされ続け、江戸時代には統治の城として存続しました。かつての城の大半は失われましたが、一部が城址公園として整備され、その一角で役割を終えた2棟の門が静かに佇んでいます。
------■ 岩槻城 ■------
別 名:白鶴城 岩付城
築城主:太田道灌(諸説あり)
築城年:1457年(長禄元年)
改修者:北条氏房
城 主:太田氏・北条氏
高力氏・大岡氏他
廃城年:1871年(明治4年)
[さいたま市岩槻区太田]
お城巡りランキング
--------追 記--------
再訪したところ、本丸跡はリニューアル工事中でした。
<2024年2月撮影>
本丸跡の象徴だったマミーマートは、2023年12月8日をもって営業を終了したそうです。敷地が今後どのように活用されるのかは分かりませんが、岩槻城本丸跡であることはゆるぎない事実。また様子を見に訪問しようと思います。
関東の覇権争いで常に緊張にさらされ続けた重要拠点を訪ねました。
<岩槻城跡>いわつきじょう
鍛冶曲輪の道灌橋
■築城者・太田道灌■
岩槻城は川越城・江戸城の築城者でもある太田道灌により築かれたとされています。当時の関東は、既に勢力争いの混迷期に突入していました。関東管領の扇谷上杉持朝が、古河公方に抵抗すべく家臣である道灌に築城を命じたことが岩槻城のはじまりです。古河に対する前線基地のような存在だったわけですね。
<白鶴城址碑>
岩槻城の別名は白鶴城。太田道灌の築城秘話に由来する呼び名です。
実は築城者については諸説あります。道灌と父である太田道真による築城とする説。これなら築城主が扇谷上杉氏という点では同じですが、古河公方に与する成田氏の築城とする説もあります。成田氏は『のぼうの城』の舞台となった忍城の築城でも知られる武蔵国の士族ですね。これも興味深い話ですが、当ブログでは太田道灌ということで通します。
■岩槻太田氏対小田原北条氏■
小田原北条氏第2 代当主の氏綱は、扇谷上杉氏の居城・江戸城を攻め落とすと(1524年)、その勢いで北上し、岩槻にも進攻しました。岩槻城は北条の配下となりますが、太田資頼(すけより)が岩槻城を攻略(1530年)。城は資頼の長男・資顕(すけあき)、次男の資正(すけまさ)に受け継がれます。
三楽斎の名でも知られる太田資正は、勢力を増す北条氏へ靡こうとした兄とは逆に、あくまで扇谷上杉氏に仕え続けます。その扇谷上杉氏が滅びると越後の上杉謙信と結び、小田原の北条氏に対抗し続けました。
しかし、里見氏とともに北条氏と戦って破れたのち(1564年)、子である氏資に裏切られ、岩槻城を追い出されることとなりました(同じく反北条の佐竹氏を頼って落ち延びました)。岩槻城は氏資は受け継がれたものの戦で討ち死にし、城には北条一族の氏房が入城することとなりました。氏房は第5代当主である氏直の弟です。ちょっと長くなりましたが、結果としては北条配下の城となりました。
<堀跡と沼>
<岩槻城址ノ記>
■秀吉の北条征伐■
1590年、豊臣秀吉が大軍を率いて小田原征伐に乗り出します。関東覇者となっていた北条氏は、これに備えて主要な城の強化を図ります。岩槻城もこの時に拡張・改修されました。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
こちらが岩槻城の縄張り図です。城の防衛において、元荒川の果たした役割は大きいですね。岩槻城には七つの曲輪があったとされ、本丸から沼を挟んだ南側の部分は秀吉による小田原征伐の際に出丸として拡張されたと考えられています。また、この時に岩槻の城下町にも堀や土塁が設けられ、いわゆる総構えとなったとされています。もともとの地形、つまり台地と低地と川をうまく利用した城という感じですね。
<元荒川>
新曲輪橋から眺めた元荒川です。岩槻城にとっての天然の堀です。
<岩槻愛宕神社>いわつきあたごじんじゃ
[さいたま市岩槻区本町]
かつて城下町の外周を囲んでいた土塁はほとんど姿を消しましたが、ここは神社が祀られていることで壊されずにすみました。貴重な総構えのなごりです。
<総構えの堀跡>
[さいたま市岩槻区府内]
こちらは城下の堀の跡です
実際に天下軍が押し寄せた時、城主の北条氏房(太田氏房)は、小田原城の籠城戦に参陣していました。代わりに城を守ったのは家臣の伊達房実。2千の兵で籠城し、浅野長政が指揮する天下軍2万の攻撃に耐えますが、数日後に落城。千人以上の犠牲者が出たそうです。
<ふるさと散策路>
岩槻城址公園へ繋がる散歩道、堀の跡です。
■譜代大名の城■
北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入ると、江戸から比較的近い岩槻城は北の重要拠点と位置付けられ、高力清長を筆頭に、以降も譜代大名が城主を務めました、めまぐるしく城主は変わりましたが、江戸時代中期に9代将軍徳川家重から信頼の厚かった大岡忠光(大岡忠相の遠縁です)が藩主として入城すると、以降は明治まで、岩槻城は大岡氏の居城でした。
■岩槻城のなごり■
<本丸跡>
岩槻城の本丸や二の丸といった主郭部分は、開発により姿を消しました。向こう側に見えているのはマミーマートです。この付近一帯がかつての本丸でした。
<岩槻城址公園>
新曲輪・鍛冶曲輪付近が公園として整備され、城のなごりを今に留めています。岩槻城址公園はかつての城の主郭部分ではなく、出丸的な役割を担ったエリアです。
<かつての沼>
埋め立てにより現在は広場となっていますが、ここはかつては水の中。主郭部分を取り囲む沼でした。
<菖蒲池と八ツ橋>
巨大な沼は姿を消しましたが、残された水辺に、そのなごりを感じることができます。橋はかつての岩槻城とは無関係ながら、朱塗りの橋が見事で、訪れる人の目を楽しませてくれます。
<鍛冶曲輪周辺の堀跡>
見事な遺構です。今でも充分な高低差ですが、昔はもっと深かったのでしょう。
右折する堀。横矢が掛けられています。
<鍛冶曲輪>かじくるわ
<堀障子が確認された場所>
発掘調査の結果、鍛冶曲輪と新曲輪の間の堀で、堀障子が確認されたそうです。調査が終わると保存のために埋めてしまうので、いまはご覧の通りです(現地には説明板あり)。
<新曲輪付近>
この付近には櫓があったとされています
<城門>
黒門と呼ばれるかつての城門。形としては長屋門です。
<裏門>
こちらは岩槻城の裏門とされています。門の形式は薬医門。先ほどの黒門もそうですが、かつての城郭のどこに設けられていたかははっきりしていません。
■つわものどもが夢の跡■
室町末期に築かれた岩槻城は、戦国時代を通して緊張にさらされ続け、江戸時代には統治の城として存続しました。かつての城の大半は失われましたが、一部が城址公園として整備され、その一角で役割を終えた2棟の門が静かに佇んでいます。
------■ 岩槻城 ■------
別 名:白鶴城 岩付城
築城主:太田道灌(諸説あり)
築城年:1457年(長禄元年)
改修者:北条氏房
城 主:太田氏・北条氏
高力氏・大岡氏他
廃城年:1871年(明治4年)
[さいたま市岩槻区太田]
お城巡りランキング
--------追 記--------
再訪したところ、本丸跡はリニューアル工事中でした。
<2024年2月撮影>
本丸跡の象徴だったマミーマートは、2023年12月8日をもって営業を終了したそうです。敷地が今後どのように活用されるのかは分かりませんが、岩槻城本丸跡であることはゆるぎない事実。また様子を見に訪問しようと思います。
2020年08月21日
静かに佇む城のなごり(岩槻城)裏門と黒門
つわものどもが夢の跡
今回は岩槻城址に佇む2棟の城門の話です。
<裏門と黒門>
城のなごりをいまに留める岩槻城址公園には、かつて実際に使われていた2棟の門がひっそりと佇んでいます。手前が裏門。そして奥の方に見えるのが黒門とよばれるかつての城門です。
まずは岩槻城の裏門だったと伝わる門から
<裏門>
大手門に対するいわゆる搦手門だったのでしょうか。門の形式は薬医門です。さいたま市のホームページによれば『江戸時代の明和7年(1770年)に当時の岩槻城主大岡氏が建立し、文政6年(1823年)に補修の手が加えられた』そうです。市の有形文化財に指定されています。
<裏門の裏>
ちょっと裏から失礼します。かなり傷んでいるようですね。人により受け止め方は異なると思いますが、やや疲れているとはいえ哀れさのようなものは感じません。移築された門ですので、ここが本来の場所ではありません。
役割を終えて、静かに佇んでいる
そんなふうに受けとめました。
つづいて
<黒門>
こちらは黒門の名で親しまれ城門です。見ての通りで、黒く塗られていることからそう呼ばれているそうです。
現地説明板によれば、城郭のどの場所に設けられていたかは不明とのこと。ただ、さいたま市のホームページによれば『城内での本来の位置は不明だが、三の丸藩主居宅の長屋門の可能性が高いと思われる。』とのこと。市指定有形文化財(建造物)です。
<現地説明板>
埼玉県庁に移されて正門として利用された時期もあったようですね。
<長屋門>
こちらも裏から失礼します。左右に部屋がある長屋門のような構造です。あくまで個人的な感想ですが、城門としての威圧感のようなものは感じられません。
岩槻城は室町時代の末期から始まりますが、江戸時代も存続した近世城郭です。江戸から近いこともあり、譜代大名が城主を歴任する幕府にとっての重要拠点でもありました。
明治の廃城後、岩槻城は跡形もなく取り壊されてしまったので、建造物が残っているのは極めて稀なケースです。歴史を刻んだ貴重な遺構が、かつての出丸付近を整備した城址公園の一角で、今も静かに佇んでいます。
つわものどもが夢の跡
■訪問:
岩槻城裏門
岩槻城城門(黒門)
[さいたま市岩槻区太田]3丁目
■参考:さいたま市ホームページ
『文化財紹介 岩槻城裏門』
『文化財紹介 岩槻城城門(黒門)』
お城巡りランキング
今回は岩槻城址に佇む2棟の城門の話です。
<裏門と黒門>
城のなごりをいまに留める岩槻城址公園には、かつて実際に使われていた2棟の門がひっそりと佇んでいます。手前が裏門。そして奥の方に見えるのが黒門とよばれるかつての城門です。
まずは岩槻城の裏門だったと伝わる門から
<裏門>
大手門に対するいわゆる搦手門だったのでしょうか。門の形式は薬医門です。さいたま市のホームページによれば『江戸時代の明和7年(1770年)に当時の岩槻城主大岡氏が建立し、文政6年(1823年)に補修の手が加えられた』そうです。市の有形文化財に指定されています。
<裏門の裏>
ちょっと裏から失礼します。かなり傷んでいるようですね。人により受け止め方は異なると思いますが、やや疲れているとはいえ哀れさのようなものは感じません。移築された門ですので、ここが本来の場所ではありません。
役割を終えて、静かに佇んでいる
そんなふうに受けとめました。
つづいて
<黒門>
こちらは黒門の名で親しまれ城門です。見ての通りで、黒く塗られていることからそう呼ばれているそうです。
現地説明板によれば、城郭のどの場所に設けられていたかは不明とのこと。ただ、さいたま市のホームページによれば『城内での本来の位置は不明だが、三の丸藩主居宅の長屋門の可能性が高いと思われる。』とのこと。市指定有形文化財(建造物)です。
<現地説明板>
埼玉県庁に移されて正門として利用された時期もあったようですね。
<長屋門>
こちらも裏から失礼します。左右に部屋がある長屋門のような構造です。あくまで個人的な感想ですが、城門としての威圧感のようなものは感じられません。
岩槻城は室町時代の末期から始まりますが、江戸時代も存続した近世城郭です。江戸から近いこともあり、譜代大名が城主を歴任する幕府にとっての重要拠点でもありました。
明治の廃城後、岩槻城は跡形もなく取り壊されてしまったので、建造物が残っているのは極めて稀なケースです。歴史を刻んだ貴重な遺構が、かつての出丸付近を整備した城址公園の一角で、今も静かに佇んでいます。
つわものどもが夢の跡
■訪問:
岩槻城裏門
岩槻城城門(黒門)
[さいたま市岩槻区太田]3丁目
■参考:さいたま市ホームページ
『文化財紹介 岩槻城裏門』
『文化財紹介 岩槻城城門(黒門)』
お城巡りランキング
2020年08月20日
岩槻城本丸跡 地形だけで楽しむ城跡探索
つわものどもが夢の跡
深い歴史が刻まれた名城・岩槻城の本丸跡を訪ねました
<本丸跡>
民家の塀に設置された本丸跡の証です。
<場所>
お隣はマミーマート。この付近一帯がかつての本丸でした。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
こちらが岩槻城の縄張り図です。岩槻城は室町時代末に築かれ、拡張や改修を繰り返しながら江戸時代も存続した城です。しかし明治の廃城以降は街の開発が進み、現在は曲輪の一部が城址公園として残るのみとなっています。
<マミーマート>
本丸跡には他の建物もありますが、ここが一番目立ちますね。裏には駐車場も確保され、まとまった敷地ですので、ここを本丸跡と思うことにします。
さて
縄張り図だと、本丸は水堀の役割を果たした沼に浮かぶ島のようなところだったようですね。遺構はありませんが、こういう時は地形を感じるようにしています。
<北側>
マミーマートの広い駐車場を抜けて北側へ移動しました。この付近から谷になるようです。
<高低差>
沼が埋め立てられ宅地化される前は、もうちょっと高低差があったのかもしれません。
<坂道>
別方向にも高い所から降る坂があります。複雑な地形を実感します。住所表記だと低い所も含めて『本丸』ということになります。現在の住所でいう『本丸』は実際の本丸跡より広範囲で、一部の高台を除けば、かつては概ね沼地だったのでしょう。
この付近はこの程度にして
次に南側へ移動することにしました。方向でいうと現在の岩槻城址公園へ向かうことになります。
<下り坂>
もしかしたら気付かないうちに二の丸を通過していたのかもしれませんが、とにかく低い方へ向かって進みました。
<暗渠>
この付近の水が集まるところというサインですね。つまり一番低い場所
<暗渠の行先>
岩槻城址公園へ到着です。
<かつての沼>
ここは曲輪跡ではなくかつての沼の底。本丸や二の丸といった主郭部分と、出丸である新曲輪の間の沼です。私は沼と表現していますが、これを『濠』とみなすと、国内の城では最大級の水堀だったことになります。
<沼の底>
公園内のこの水路は先ほど見た暗渠と繋がっています。
ということで
今回は本丸跡を訪ね、遺構はないのでその北側と南側の低地、つまりかつての沼を実感するために歩いたという内容でした。
<本丸跡>
つわものどもが夢の跡
■訪問:岩槻城本丸跡
[さいたま市岩槻区本丸]3丁目
お城巡りランキング
--------追 記--------
再訪したところ、本丸跡はリニューアル工事中でした。
<2024年2月撮影>
本丸跡の象徴だったマミーマートは、2023年12月8日をもって営業を終了しました。オープンは2003年12月9日だったとのこと。ちょうど20年で幕引きとなったわけですね。敷地が今後どのように活用されるのかは分かりませんが、ここが岩槻城本丸跡であることは変わりません。また様子を見に訪問しようと思います。
深い歴史が刻まれた名城・岩槻城の本丸跡を訪ねました
<本丸跡>
民家の塀に設置された本丸跡の証です。
<場所>
お隣はマミーマート。この付近一帯がかつての本丸でした。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
こちらが岩槻城の縄張り図です。岩槻城は室町時代末に築かれ、拡張や改修を繰り返しながら江戸時代も存続した城です。しかし明治の廃城以降は街の開発が進み、現在は曲輪の一部が城址公園として残るのみとなっています。
<マミーマート>
本丸跡には他の建物もありますが、ここが一番目立ちますね。裏には駐車場も確保され、まとまった敷地ですので、ここを本丸跡と思うことにします。
さて
縄張り図だと、本丸は水堀の役割を果たした沼に浮かぶ島のようなところだったようですね。遺構はありませんが、こういう時は地形を感じるようにしています。
<北側>
マミーマートの広い駐車場を抜けて北側へ移動しました。この付近から谷になるようです。
<高低差>
沼が埋め立てられ宅地化される前は、もうちょっと高低差があったのかもしれません。
<坂道>
別方向にも高い所から降る坂があります。複雑な地形を実感します。住所表記だと低い所も含めて『本丸』ということになります。現在の住所でいう『本丸』は実際の本丸跡より広範囲で、一部の高台を除けば、かつては概ね沼地だったのでしょう。
この付近はこの程度にして
次に南側へ移動することにしました。方向でいうと現在の岩槻城址公園へ向かうことになります。
<下り坂>
もしかしたら気付かないうちに二の丸を通過していたのかもしれませんが、とにかく低い方へ向かって進みました。
<暗渠>
この付近の水が集まるところというサインですね。つまり一番低い場所
<暗渠の行先>
岩槻城址公園へ到着です。
<かつての沼>
ここは曲輪跡ではなくかつての沼の底。本丸や二の丸といった主郭部分と、出丸である新曲輪の間の沼です。私は沼と表現していますが、これを『濠』とみなすと、国内の城では最大級の水堀だったことになります。
<沼の底>
公園内のこの水路は先ほど見た暗渠と繋がっています。
ということで
今回は本丸跡を訪ね、遺構はないのでその北側と南側の低地、つまりかつての沼を実感するために歩いたという内容でした。
<本丸跡>
つわものどもが夢の跡
■訪問:岩槻城本丸跡
[さいたま市岩槻区本丸]3丁目
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--------追 記--------
再訪したところ、本丸跡はリニューアル工事中でした。
<2024年2月撮影>
本丸跡の象徴だったマミーマートは、2023年12月8日をもって営業を終了しました。オープンは2003年12月9日だったとのこと。ちょうど20年で幕引きとなったわけですね。敷地が今後どのように活用されるのかは分かりませんが、ここが岩槻城本丸跡であることは変わりません。また様子を見に訪問しようと思います。