つわものどもが夢の跡
かつて旗本の陣屋があったとされるさいたま市北区の微高地を訪ねました。
<土呂の地蔵堂>とろのじぞうどう
現地をさ迷ったあげくにたどり着いた地蔵堂です。こちらに設置されている説明板で、やっと目的地へ来れた気がしました。それくらい何も残されていない陣屋跡です。
<説明板>
さいたま市の説明板です。以下に抜粋させて頂きます。
『この地蔵堂は、地元の人の話によると、かなり古くからこの地にあって、村民の信仰をあつめていたといわれている。一説には、江戸時代の土呂村領主旗本 初代初鹿野氏が近くにある同家の墓守堂として建てられたものともいわれているが、『新編武蔵風土記稿』には「村民の持」と記されているのみで、その創建や由来については詳かではない。』
とのこと。真ん中の一部を省略して(スミマセン)旗本に関する部分の抜粋を続けさせて頂きます。
『初代初鹿野昌久は甲斐国武田の家臣であったが、主家滅亡後、徳川家康に仕え、天正十八年(1590年)徳川氏の関東入国に伴って土呂村の領主となったもので、この地蔵堂付近に陣屋を築き、以来幕末まで知行した。同氏が甲斐国から勧請したという御嶽社は幾度かの変遷をみて、現在隣の薄田氏屋敷内に祀られている。また、東武線南側の墓地跡には初鹿野氏の墓碑が残っている。』
[抜粋ː現地説明板(さいたま市)]
とても参考にありました。さいたま市さん、ありがとうございます。
文面によれば、陣屋の主は、もともとは甲斐武田の家臣だったのですね。武田信玄の後継者である勝頼が、織田信長・徳川家康連合軍に追い詰められ滅亡したのが天正十年(1582)。代わって甲斐を領した家康は、武田家の遺臣の多くを保護しています。まぁそうでもしないと、五カ国の領主となった家康としては、全てを治めることは困難ですよね。その家康が関東へ移る時に、既に徳川家臣となっていた初鹿野氏も関東へ移った(1590年以降)。そういう理解しました。
■初鹿野信昌■はじかの のぶまさ
家康の関東入国に伴って土呂村の領主となったのが初鹿野信昌(昌久)。Wikiさんから引用させて頂くと、表が香車で裏が成金と記した陣羽織を羽織ったことから香車伝右衛門と呼ばれたそうです。敵陣へ飛び込んで金と成る。勇ましいですね。
この方、元の名は加藤弥五郎といいます。加藤?信昌はもともとは都留郡国衆の加藤氏の出です。実父の加藤虎景はあの武田信玄に兵法を指南したとされる武将。凄いですね。信昌はその六男でした。養子となって武田氏庶流である初鹿野氏を継いだようです(川中島の戦いで初鹿野忠次が戦死したため)。信昌は家康に仕えてからも幾多の戦いに従軍し、その働きがあって幕府の旗本にまでなったわけですね。
ところで
私は「現地をさ迷ったあげくにたどり着いた」と冒頭に触れさせて頂きましたが、実は事前に陣屋跡の目印としていたのは立派な医療施設のビルでした。
<メディカルセンター>
立派です。これなら遠くからも目立ちます。ここを目的地に定め歩いてきました。そして、このビルの正面が土呂陣屋跡!のはずでした。
<駐車場>
あら・・・
遺構がないのは覚悟していましたが、説明板もなく、そして何より、あてにしていた地蔵堂の姿が見えません。
地蔵堂そのものも移転してしまったのでしょうか…
<高低差>
陣屋があったとされる付近は周囲より高い位置にある。半ば諦めながらそれだけを収穫として帰ろうとした時、遠くにそれらしき建物をみつけ、小走りになって地蔵堂へ辿り着きました。
おいおい、こっちだよ
ご苦労さん
まことに勝手なながら、武田一族でもある初鹿野氏が私を呼び寄せてくれたのだと思いました(現地では)。武田も好きですが上杉ファンを自負しているので、なんとなく寛容な扱いを受けた気がしました(おバカな会社員が勝手に感謝したと受けてめて下さい)。
地蔵堂発見後、近くの初鹿野氏ゆかりの神社を訪ねました
<線路越しに見る地蔵堂>
すぐ近くの東武野田線を越えて見上げる地蔵堂。あそこが陣屋跡そのものではないようですが、やはりやや高い位置にあります。そんなことを感じながら北東へ進んでいくと
<御嶽社>
ここですね。線路脇に鎮座する御嶽社。まだ新しい感じがします。どうやら別の場所から移転してここに鎮座しているようです。
<説明板>
なるほど。冒頭だけ以下に抜粋させて頂きます。
『この社は村の鎮守で、関ヶ原の合戦があった慶長5年(1600)に土呂村の領主初鹿野昌久が甲州から同氏の氏神として勧請したものと伝えられています。』
とのこと。初鹿野氏が治めた村の鎮守だったわけですね。
現地探索は以上です
■つわものどもが夢の跡■
甲斐武田家臣の武将が徳川幕府の旗本となって、この地に根をはった。それだけでも感慨深いですが、初鹿野氏の知行が幕末までの長きに渡ったことに重みを感じます。遺構なくともここはその拠点だった場所。訪問して良かったと思えました。
香車が金に成った場所なのかもしれませんね
-------■土呂陣屋■-------
別 名:初鹿野氏館
築城年:(江時時代初期)
築城者:初鹿野信昌(昌久)
屋敷主:初鹿野氏
[埼玉県さいたま市北区土呂町]
・地蔵堂
[北区土呂町]1496
・御嶽社
[大宮区寿能町]2丁目
■参考及び出典
・地蔵堂説明板(さいたま市)
・御嶽社説明板(さいたま市)
・Wikipedia:2021/5/23
お城巡りランキング
2021年05月23日
2021年05月16日
コロナ禍の『旅の日』2021年5月16日
本日5月16日は旅の日。1689年5月16日、松尾芭蕉が河合曾良とともに旅立った日です。日本旅のペンクラブにより1988年に制定されたそうです。
<芭蕉と曾良>
こちらは山形県の山寺で撮影した師弟の画像。5月に旅立った二人がこの地を訪れたのは7月でした。閑さや岩にしみ入る蝉の声。その季節らしい句ですね。
せっかくの『旅の日』ですが、ちょっと身動きがとれない状態が続いています。2020年の春先から既にくすぶり始めていた新型コロナウィルスは、最初の緊急事態宣言を経て一旦は小康状態となりましたが、その後は感染拡大が続いています。第3派と呼ばれる状態のまま2021年を迎えて、現在は第4波の真っ最中です。緊急事態宣言の対象は、本日から9都道府県に拡大。そして、まん延防止等重点措置の適用対象も3県を加えて10県となります。
旅どころではありませんね
延期になっていたオリンピック・パラリンピックも7月には開催されるとのこと。世間ではいろんな意見が飛び交っていますが、まずは自分が出来るこをするしかありません。このさき数ヶ月のことはわかりませんが、来年の『旅の日』には、皆がなんら気がねなく旅に出られるようになっていることを祈ります。
岩にしみ入る蝉の声
2021年5月16日
<芭蕉と曾良>
こちらは山形県の山寺で撮影した師弟の画像。5月に旅立った二人がこの地を訪れたのは7月でした。閑さや岩にしみ入る蝉の声。その季節らしい句ですね。
せっかくの『旅の日』ですが、ちょっと身動きがとれない状態が続いています。2020年の春先から既にくすぶり始めていた新型コロナウィルスは、最初の緊急事態宣言を経て一旦は小康状態となりましたが、その後は感染拡大が続いています。第3派と呼ばれる状態のまま2021年を迎えて、現在は第4波の真っ最中です。緊急事態宣言の対象は、本日から9都道府県に拡大。そして、まん延防止等重点措置の適用対象も3県を加えて10県となります。
旅どころではありませんね
延期になっていたオリンピック・パラリンピックも7月には開催されるとのこと。世間ではいろんな意見が飛び交っていますが、まずは自分が出来るこをするしかありません。このさき数ヶ月のことはわかりませんが、来年の『旅の日』には、皆がなんら気がねなく旅に出られるようになっていることを祈ります。
岩にしみ入る蝉の声
2021年5月16日
2021年05月15日
寿能城主の名を冠する橋(大宮区)潮田橋
今回はかつてこの付近に存在した城の城主の名を冠する橋の話です。
<潮田橋>うしおだばし
久しぶりの訪問です。どう見ても普通の橋。いや、むしろ地味ですね。初めて訪問した時は何も気付かず通り過ぎてしまいました。
<水路>
橋はこちらの水路に架かっています。ただの水路ではありませんよ。これは江戸時代の治水工事のなごりなのです。
<説明板>
橋の近くに説明板があります。私が下手な説明をするより、こちらをご紹介する方が得策です。ちょっとカラスの糞にやられていますが、読むのに影響はありません。
まずは水路の説明ですね。抜粋させて頂くと『見沼代用水西縁は、江戸時代半ばに8代将軍徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛が、享保13年(1728年)に利根川の水を現在の行田市下中条から引いてつくった農業用水です。』とあります。もう少し説明は続きますが、要するに昨日今日の水路ではないということです。
さて本題に
『「潮田橋」は戦国時代の終わり頃、当地にあった寿能城の城主・潮田出羽守資忠の名に因んで付けられたと思われます』とのこと。はっきりはしてない様子ですが、因んでいることは確かなようですね。
<橋と城跡>
橋と城跡の位置関係です。橋のすぐそばの微高地に、かつての城跡があります。
<寿能城跡>じゅのうじょう
こちらが説明板の地図にあった寿能城跡です。もはやただの公園です。寿能城そのものはもっと広い城でした。ここかつての城の一部に過ぎません。
<資忠の墓碑>
城跡の象徴的な存在となっている潮田資忠(うしおだすけただ)の墓碑です。資忠の子孫(古河藩家老・潮田資方)が、資忠没後150年に建立しました。
寿能城については、当ブログで過去にご紹介させて頂いております。今回は先ほどの説明文の続きをご紹介させて頂きます。
『寿能城は、永禄3年(1560)に岩槻城の支城として築城されましたが、天正18年(1590)に小田原城攻めの豊臣秀吉の軍勢に攻められ落城しました』とのこと。
潮田資忠は城主というだけでなく、寿能城の築城者でもあります。岩槻城の支城として役割を担いますが、豊臣秀吉による小田原征伐の際、岩槻城は北条氏配下であったことから、豊臣軍の攻撃対象となってしまい、支城である寿能城も大軍により攻め落とされました。少し補足すると、城主である資忠本人は、嫡男とともに小田原城に駆けつけ、籠城戦に加わって討死となっています。潮田家は資忠の次男が継いでいます。
<潮田>
天下人の大軍に立ち向かった関東武士の名ということですね
ということで
潮田橋のご紹介でした。ありきたりの景色も、意味を知ると素通りできなくなりますね。
■訪問:潮田橋
[さいたま市大宮区寿能]2丁目
■参考及び出典
・現地説明板(さいたま市)
お城巡りランキング
-----当ブログ過去記事-----
消えた見沼の浮き城 寿能城
[投稿:2018年01月17]
→『記事へすすむ』
寿能城主・潮田資忠の末裔
[投稿:2018年08月01日]
→『記事へすすむ』
<潮田橋>うしおだばし
久しぶりの訪問です。どう見ても普通の橋。いや、むしろ地味ですね。初めて訪問した時は何も気付かず通り過ぎてしまいました。
<水路>
橋はこちらの水路に架かっています。ただの水路ではありませんよ。これは江戸時代の治水工事のなごりなのです。
<説明板>
橋の近くに説明板があります。私が下手な説明をするより、こちらをご紹介する方が得策です。ちょっとカラスの糞にやられていますが、読むのに影響はありません。
まずは水路の説明ですね。抜粋させて頂くと『見沼代用水西縁は、江戸時代半ばに8代将軍徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛が、享保13年(1728年)に利根川の水を現在の行田市下中条から引いてつくった農業用水です。』とあります。もう少し説明は続きますが、要するに昨日今日の水路ではないということです。
さて本題に
『「潮田橋」は戦国時代の終わり頃、当地にあった寿能城の城主・潮田出羽守資忠の名に因んで付けられたと思われます』とのこと。はっきりはしてない様子ですが、因んでいることは確かなようですね。
<橋と城跡>
橋と城跡の位置関係です。橋のすぐそばの微高地に、かつての城跡があります。
<寿能城跡>じゅのうじょう
こちらが説明板の地図にあった寿能城跡です。もはやただの公園です。寿能城そのものはもっと広い城でした。ここかつての城の一部に過ぎません。
<資忠の墓碑>
城跡の象徴的な存在となっている潮田資忠(うしおだすけただ)の墓碑です。資忠の子孫(古河藩家老・潮田資方)が、資忠没後150年に建立しました。
寿能城については、当ブログで過去にご紹介させて頂いております。今回は先ほどの説明文の続きをご紹介させて頂きます。
『寿能城は、永禄3年(1560)に岩槻城の支城として築城されましたが、天正18年(1590)に小田原城攻めの豊臣秀吉の軍勢に攻められ落城しました』とのこと。
潮田資忠は城主というだけでなく、寿能城の築城者でもあります。岩槻城の支城として役割を担いますが、豊臣秀吉による小田原征伐の際、岩槻城は北条氏配下であったことから、豊臣軍の攻撃対象となってしまい、支城である寿能城も大軍により攻め落とされました。少し補足すると、城主である資忠本人は、嫡男とともに小田原城に駆けつけ、籠城戦に加わって討死となっています。潮田家は資忠の次男が継いでいます。
<潮田>
天下人の大軍に立ち向かった関東武士の名ということですね
ということで
潮田橋のご紹介でした。ありきたりの景色も、意味を知ると素通りできなくなりますね。
■訪問:潮田橋
[さいたま市大宮区寿能]2丁目
■参考及び出典
・現地説明板(さいたま市)
お城巡りランキング
-----当ブログ過去記事-----
消えた見沼の浮き城 寿能城
[投稿:2018年01月17]
→『記事へすすむ』
寿能城主・潮田資忠の末裔
[投稿:2018年08月01日]
→『記事へすすむ』
2021年05月12日
天神山城のなごり(三鷹市)
つわものどもが夢の跡
今回は三鷹市の川沿いの丘に残る城のなごりの話です。
<天神山城>てんじんやまじょう
こちらです。斜面を下った先には川が流れています。城に関する詳細は不明ですが、深大寺城の支城として築かれたとする説、小田原北条氏が築いたとする説などがあります。
<仙川>せんかわ
こちらは城跡の麓をかすめるように流れる仙川。今でこそ護岸をコンクリで固められ、まるで人工の水路のようですが、古くからあった自然の川です。
<仙川と天神山城跡>
仙川を挟んで撮影するとこんな感じです。川が奥でカーブしているとこ、伝わりますでしょうか。
<地図>
こちらの地図で見れば一目瞭然ですね。現在位置(新川天神山青少年広場)が城跡。川は地形に合わせて蛇行し、城は川に向かって突き出た丘陵に築かれました。
<公園入口>
天神山は公園として整備されています。先ほどの地図はここで撮影したものです。
<土塁>
これは土塁跡とみなしてよさそうですね。向こう側(右手奥)は逆に掘り下げられたような跡がありました。
<曲輪>
ここ全体がひとつの曲輪と思われます。ただ、エリアによって微妙な高低差があるので、もともとは複数の曲輪が設けられていたものの、のちの時代に平らにされてしまったのか?などなど、勝手に想像して楽しみました。
<堀切?>
再び仙川を挟んだ画像です。白い塀が見えているお隣(左手)との間は丘が窪んでいます。人の手で削られたのかもしれません。堀切でしょうか?あそこが城の端だと仮定して、小規模な単郭式の砦だったのだろうとか、あるいは城跡らしきところは主郭に過ぎないとか、勝手に想像するのも楽しみ方のひとつです。
さて
冒頭にも触れさせて頂きましたが、あくまで天神山城の詳細は不明です。ただ深大寺城の支城あるいは小田原北条氏の築城だとすれば、時期的には1537年頃と推定するのが妥当ではないでしょうか。というのも、河越(川越)を拠点とする扇谷上杉氏が、小田原の北条氏の進軍に備えるべく、配下の難波田広宗に深大寺城を整備させたのがだいたいその頃。この時、攻め手の北条氏綱は直接深大寺城を攻撃することなく、けん制しながら通り過ぎてしまいました。いわばスルーした訳ですね。この「けん制」のために築いた陣城が今回訪問の天神山城だとしたら、やはり築城は同じ頃ということになりますね。
当時の北条氏は、早雲(伊勢盛時)の後を継いだ氏綱が、相模から関東全体へ勢力を拡大していた時期です。深大寺城を通過した氏綱は、そのまま北上して河越城を見事攻め落としました。これが1537年の出来事です。これにより、既に陰りの見えていた扇谷上杉家は、更に北の松山城(埼玉県吉見町)へ逃れることになりました。
<つわものどもが夢の跡>
北条氏綱の陣城と仮定すると、大きな結果に繋がる重要な役割を担った城跡ということになりますね。伝わる話に素人会社員が仮説を立てて妄想しているだけですが、そんな楽しみ方もあることを共有できれば幸いです。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。
------■ 天神山城 ■------
別 名:天神山砦
築城主:不明(北条?扇谷上杉?)
築城年:不明(1537年頃?)
城 主:不明(北条?扇谷上杉?)
現 状:新川天神山青少年広場
[東京都三鷹市新川]2丁目
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今回は三鷹市の川沿いの丘に残る城のなごりの話です。
<天神山城>てんじんやまじょう
こちらです。斜面を下った先には川が流れています。城に関する詳細は不明ですが、深大寺城の支城として築かれたとする説、小田原北条氏が築いたとする説などがあります。
<仙川>せんかわ
こちらは城跡の麓をかすめるように流れる仙川。今でこそ護岸をコンクリで固められ、まるで人工の水路のようですが、古くからあった自然の川です。
<仙川と天神山城跡>
仙川を挟んで撮影するとこんな感じです。川が奥でカーブしているとこ、伝わりますでしょうか。
<地図>
こちらの地図で見れば一目瞭然ですね。現在位置(新川天神山青少年広場)が城跡。川は地形に合わせて蛇行し、城は川に向かって突き出た丘陵に築かれました。
<公園入口>
天神山は公園として整備されています。先ほどの地図はここで撮影したものです。
<土塁>
これは土塁跡とみなしてよさそうですね。向こう側(右手奥)は逆に掘り下げられたような跡がありました。
<曲輪>
ここ全体がひとつの曲輪と思われます。ただ、エリアによって微妙な高低差があるので、もともとは複数の曲輪が設けられていたものの、のちの時代に平らにされてしまったのか?などなど、勝手に想像して楽しみました。
<堀切?>
再び仙川を挟んだ画像です。白い塀が見えているお隣(左手)との間は丘が窪んでいます。人の手で削られたのかもしれません。堀切でしょうか?あそこが城の端だと仮定して、小規模な単郭式の砦だったのだろうとか、あるいは城跡らしきところは主郭に過ぎないとか、勝手に想像するのも楽しみ方のひとつです。
さて
冒頭にも触れさせて頂きましたが、あくまで天神山城の詳細は不明です。ただ深大寺城の支城あるいは小田原北条氏の築城だとすれば、時期的には1537年頃と推定するのが妥当ではないでしょうか。というのも、河越(川越)を拠点とする扇谷上杉氏が、小田原の北条氏の進軍に備えるべく、配下の難波田広宗に深大寺城を整備させたのがだいたいその頃。この時、攻め手の北条氏綱は直接深大寺城を攻撃することなく、けん制しながら通り過ぎてしまいました。いわばスルーした訳ですね。この「けん制」のために築いた陣城が今回訪問の天神山城だとしたら、やはり築城は同じ頃ということになりますね。
当時の北条氏は、早雲(伊勢盛時)の後を継いだ氏綱が、相模から関東全体へ勢力を拡大していた時期です。深大寺城を通過した氏綱は、そのまま北上して河越城を見事攻め落としました。これが1537年の出来事です。これにより、既に陰りの見えていた扇谷上杉家は、更に北の松山城(埼玉県吉見町)へ逃れることになりました。
<つわものどもが夢の跡>
北条氏綱の陣城と仮定すると、大きな結果に繋がる重要な役割を担った城跡ということになりますね。伝わる話に素人会社員が仮説を立てて妄想しているだけですが、そんな楽しみ方もあることを共有できれば幸いです。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。
------■ 天神山城 ■------
別 名:天神山砦
築城主:不明(北条?扇谷上杉?)
築城年:不明(1537年頃?)
城 主:不明(北条?扇谷上杉?)
現 状:新川天神山青少年広場
[東京都三鷹市新川]2丁目
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2021年05月04日
島屋敷跡と柴田勝家ゆかりの勝淵神社(三鷹市)
つわものどもが夢の跡
今回は徳川幕府に旗本として仕えた柴田勝重の屋敷跡の話です。勝重?でピンとこない方も多いかと思います。祖父の名は勝家。織田信長の重臣で、のちの勢力争いで秀吉に敗れたあの柴田勝家ですね。その孫が勝重です。
<島屋敷跡>
こちらです
<新川団地>
場所は三鷹市新川の団地内。緑が多く、整備された素敵な生活空間です。冒頭の説明板は、団地内のバス亭近くの少し奥まったところにひっそりと設置されています
あれ、遺構は?
はい、ありません。立派な説明板だけが唯一の手掛かりです。
<島屋敷遺跡>
ちょっと見にくくてすみません。ここに『島屋敷』と発掘調査の実績が記されています。この団地内に遺構が確認されたことは事実のようです。
<新川・島屋敷通り>
通りの名にもかつて屋敷があったなごりが漂います。その屋敷の主が、柴田勝重ということになります。
柴田勝重は、関ヶ原の戦いで初陣を飾り、大坂の陣での働きが認められて、仙川村付近を含む5百石を加増されました。既に2千石を与えられていたので計3500石です。凄いですね。越前や加賀を支配した祖父と比較しては元もこもありませんが、決して少なくありません。
あと、厳密なことを言えば、勝重は柴田勝家の直系の孫ではありません。勝重の父は柴田勝家の姉の子であり、武勇が認められて柴田家の養子となりました。ただ、血縁者であることに変わりはありませんね。
<周辺>
高台というほどではないですが、近くを流れる仙川の谷と比較すると、明らかに高い位置にあります。先ほどの説明板によれば、この高低差こそが『島屋敷』と呼ばれる由来ということになります。また、柴田勝重が屋敷を構える以前から、この地には武蔵七党のひとつ村山党の金子氏居館があったことも記されていました。低湿地に囲まれた島のような微高地は、拠点を構えるのに何かと都合が良かったのでしょう。
<説明板>
周辺を散策していたら別の説明板を見つけました。向こう側は土塁?いやいや、団地として造成した時のなごりでしょう
<仙川>せんかわ
近くを流れる川。多摩川水系野川支流の仙川です。現在の仙川の上流は人工の川ですが、この付近は昔からある自然の川。地形に合わせて蛇行して流れます。
<丸池公園>
屋敷から仙川を渡って数百メートルのところにある丸池公園
<丸池>
こちらはかつてこの付近にあった「丸池」と呼ばれる池を復元したものです。台地から低地へ変わるこの付近からはたくさん水が湧き出していたことから「千釜」と呼ばれ、それが仙川の名の由来といわれています(諸説あり)。
そして
<低地から見た台地>
かつて湿地帯だったなごりの丸池からすぐ近くの丘に神社があります
<勝淵神社>かつぶち
ここにはもともと水を司る神の祠があったとのこと。この地を柴田勝重が領したことで、柴田家ゆかりの神社として生まれ変わりました。
<柴田勝家の兜>
仙川に陣屋を構えた勝重は、屋敷近くのこの地に神社を建立し、祖父・勝家の兜を埋納したと伝わります。先祖の大切な宝を地中に納める。この地で生きてゆく覚悟のような思いを想像するのは私だけでしょうか。54歳で没した勝重の墓も、同じく三鷹市新川にあります。
<つわものどもが夢の跡>
■訪問■
島屋敷遺跡
[東京都三鷹市新川]4丁目25
勝淵神社
[東京都三鷹市新川]3丁目20
■参考■
・Wikipedia:2021/5/4
・現地説明板
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今回は徳川幕府に旗本として仕えた柴田勝重の屋敷跡の話です。勝重?でピンとこない方も多いかと思います。祖父の名は勝家。織田信長の重臣で、のちの勢力争いで秀吉に敗れたあの柴田勝家ですね。その孫が勝重です。
<島屋敷跡>
こちらです
<新川団地>
場所は三鷹市新川の団地内。緑が多く、整備された素敵な生活空間です。冒頭の説明板は、団地内のバス亭近くの少し奥まったところにひっそりと設置されています
あれ、遺構は?
はい、ありません。立派な説明板だけが唯一の手掛かりです。
<島屋敷遺跡>
ちょっと見にくくてすみません。ここに『島屋敷』と発掘調査の実績が記されています。この団地内に遺構が確認されたことは事実のようです。
<新川・島屋敷通り>
通りの名にもかつて屋敷があったなごりが漂います。その屋敷の主が、柴田勝重ということになります。
柴田勝重は、関ヶ原の戦いで初陣を飾り、大坂の陣での働きが認められて、仙川村付近を含む5百石を加増されました。既に2千石を与えられていたので計3500石です。凄いですね。越前や加賀を支配した祖父と比較しては元もこもありませんが、決して少なくありません。
あと、厳密なことを言えば、勝重は柴田勝家の直系の孫ではありません。勝重の父は柴田勝家の姉の子であり、武勇が認められて柴田家の養子となりました。ただ、血縁者であることに変わりはありませんね。
<周辺>
高台というほどではないですが、近くを流れる仙川の谷と比較すると、明らかに高い位置にあります。先ほどの説明板によれば、この高低差こそが『島屋敷』と呼ばれる由来ということになります。また、柴田勝重が屋敷を構える以前から、この地には武蔵七党のひとつ村山党の金子氏居館があったことも記されていました。低湿地に囲まれた島のような微高地は、拠点を構えるのに何かと都合が良かったのでしょう。
<説明板>
周辺を散策していたら別の説明板を見つけました。向こう側は土塁?いやいや、団地として造成した時のなごりでしょう
<仙川>せんかわ
近くを流れる川。多摩川水系野川支流の仙川です。現在の仙川の上流は人工の川ですが、この付近は昔からある自然の川。地形に合わせて蛇行して流れます。
<丸池公園>
屋敷から仙川を渡って数百メートルのところにある丸池公園
<丸池>
こちらはかつてこの付近にあった「丸池」と呼ばれる池を復元したものです。台地から低地へ変わるこの付近からはたくさん水が湧き出していたことから「千釜」と呼ばれ、それが仙川の名の由来といわれています(諸説あり)。
そして
<低地から見た台地>
かつて湿地帯だったなごりの丸池からすぐ近くの丘に神社があります
<勝淵神社>かつぶち
ここにはもともと水を司る神の祠があったとのこと。この地を柴田勝重が領したことで、柴田家ゆかりの神社として生まれ変わりました。
<柴田勝家の兜>
仙川に陣屋を構えた勝重は、屋敷近くのこの地に神社を建立し、祖父・勝家の兜を埋納したと伝わります。先祖の大切な宝を地中に納める。この地で生きてゆく覚悟のような思いを想像するのは私だけでしょうか。54歳で没した勝重の墓も、同じく三鷹市新川にあります。
<つわものどもが夢の跡>
■訪問■
島屋敷遺跡
[東京都三鷹市新川]4丁目25
勝淵神社
[東京都三鷹市新川]3丁目20
■参考■
・Wikipedia:2021/5/4
・現地説明板
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2021年05月03日
砦があったとされる調布市柴崎の丘(柴崎陣屋)
つわものどもが夢の跡
かつて武士の砦があったと伝わる調布市の丘を訪ねました。
<柴崎稲荷神社>しばさき
最寄り駅は京王線の柴崎駅。徒歩圏内の住宅地の小高い丘に鎮座するこの稲荷神社周辺が、砦跡ではないかと言われています。
■現地訪問■
<柴崎稲荷神社参道>
ここから入ります
<坂道>
左手側に見えている鳥居が今回の目的地。それにしとも右側の道はかなりの急こう配です。
<急こう配>
横からみるとこんな感じです。徒歩以外で登るのはちょっと厳しいですね。神社の境内がそのまま砦跡だと仮定すると、丘の中腹を造成して築かれた?そんな感じになりますかね
<鳥居>
砦跡のつもりで訪問していますが、当然一礼して潜らせて頂きました。旧柴崎村の鎮守です。よそ者がお邪魔致します。
<稲荷神社>
稲荷神社です。祭神は倉稲魂命ですね。高台に鎮座しています。
<拝殿>
大きすぎず小さすぎず。綺麗に管理されていて、凛とした空気が漂います。創建年代は不詳ですが、小田原北条氏の時代に社地の寄進を受けていたとのこと(参考サイト『猫の足あと』)。つまり戦国時代には既に存在していたわけですね。では砦だったというお話は、それよりもっと以前ということでしょうか…
<周囲との高低差>
まぁ砦であってもおかしくない地形ですが…なんとも言えません
現地に城に関する説明板などはありません。武蔵七党のひとつ、与野党の柴崎氏(地名のままですね)の砦跡、あるいは江戸氏一族で、太田道灌に追われて現在の世田谷区喜多見に逃れた木田見(喜多見)氏の砦跡ではないかと言われています。
調布市と言えば深大寺城が有名ですね。ここから比較的近いのですが、支城?だったとか、何となく関係がありそうですがはっきりしません。
<丘の麓>
鳥居の手前は一段と低くなっています
<暗渠>あんきょ
蓋をされていますが水路ですね。かつての堀のなごり?という期待を込めて眺めましたが、開発途上で造られた用水路のなごりですね(たぶん)。
通りから奥に入った場所ですが、思いのほか人目につきます。階段を登ったり降りたり、はたまた水路に入り込んだりと、どう考えても怪しい行動をしているので、早々に立ち去りました。
かつてこの丘に何らかの砦があったのだろう
確証はないのですが、地形だけは納得ししました。少なくとも、むかしは見晴らしが良く、低地を遠くまで見渡せる場所だったのでしょう。それを実感できただけで満足です。
------■ 柴崎陣屋 ■------
別 名:柴崎城・柴崎館
築城主:不明(柴崎氏?)
築城年:不明(柴崎氏?)
城 主:不明(柴崎氏?)
現 状:柴崎稲荷神社
[東京都調布市柴崎]2-11-4
■参考■
・Wikipedia:2021/5/3
・猫の足あと
https://tesshow.jp/tama/chofukomae/shrine_chofu_shibasaki.html
お城巡りランキング
かつて武士の砦があったと伝わる調布市の丘を訪ねました。
<柴崎稲荷神社>しばさき
最寄り駅は京王線の柴崎駅。徒歩圏内の住宅地の小高い丘に鎮座するこの稲荷神社周辺が、砦跡ではないかと言われています。
■現地訪問■
<柴崎稲荷神社参道>
ここから入ります
<坂道>
左手側に見えている鳥居が今回の目的地。それにしとも右側の道はかなりの急こう配です。
<急こう配>
横からみるとこんな感じです。徒歩以外で登るのはちょっと厳しいですね。神社の境内がそのまま砦跡だと仮定すると、丘の中腹を造成して築かれた?そんな感じになりますかね
<鳥居>
砦跡のつもりで訪問していますが、当然一礼して潜らせて頂きました。旧柴崎村の鎮守です。よそ者がお邪魔致します。
<稲荷神社>
稲荷神社です。祭神は倉稲魂命ですね。高台に鎮座しています。
<拝殿>
大きすぎず小さすぎず。綺麗に管理されていて、凛とした空気が漂います。創建年代は不詳ですが、小田原北条氏の時代に社地の寄進を受けていたとのこと(参考サイト『猫の足あと』)。つまり戦国時代には既に存在していたわけですね。では砦だったというお話は、それよりもっと以前ということでしょうか…
<周囲との高低差>
まぁ砦であってもおかしくない地形ですが…なんとも言えません
現地に城に関する説明板などはありません。武蔵七党のひとつ、与野党の柴崎氏(地名のままですね)の砦跡、あるいは江戸氏一族で、太田道灌に追われて現在の世田谷区喜多見に逃れた木田見(喜多見)氏の砦跡ではないかと言われています。
調布市と言えば深大寺城が有名ですね。ここから比較的近いのですが、支城?だったとか、何となく関係がありそうですがはっきりしません。
<丘の麓>
鳥居の手前は一段と低くなっています
<暗渠>あんきょ
蓋をされていますが水路ですね。かつての堀のなごり?という期待を込めて眺めましたが、開発途上で造られた用水路のなごりですね(たぶん)。
通りから奥に入った場所ですが、思いのほか人目につきます。階段を登ったり降りたり、はたまた水路に入り込んだりと、どう考えても怪しい行動をしているので、早々に立ち去りました。
かつてこの丘に何らかの砦があったのだろう
確証はないのですが、地形だけは納得ししました。少なくとも、むかしは見晴らしが良く、低地を遠くまで見渡せる場所だったのでしょう。それを実感できただけで満足です。
------■ 柴崎陣屋 ■------
別 名:柴崎城・柴崎館
築城主:不明(柴崎氏?)
築城年:不明(柴崎氏?)
城 主:不明(柴崎氏?)
現 状:柴崎稲荷神社
[東京都調布市柴崎]2-11-4
■参考■
・Wikipedia:2021/5/3
・猫の足あと
https://tesshow.jp/tama/chofukomae/shrine_chofu_shibasaki.html
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2021年04月27日
まち歩きが楽しくなる 水路上観察入門(お勧め本)
<細長い児童公園>
今回はお勧め本のご紹介です。その名も「まち歩きが楽しくなる 水路上観察入門」
2021年4月27日発売
著者:吉村生 著者:高山英男
まぁ内容そのものはタイトルのままですね。ただ「水路の上」には水面があるだけと思っている方に、ちょっとだけ補足させて頂きます。
<水路>
この本で言うところの水路とはこういう道のことです。
<橋の跡>
進んで行くと橋の跡があります。これは飾りモノではなく、本物の橋です。かつてここには水が流れていました。橋はそのなごりです。
<一の橋>
一の橋と記されています。二とか三もあるのですかね?
<二の橋>
ありましたありました
<三の橋>
続いているわけですね
<谷端川>やばたがわ
このちょっと変わった道は、谷端川と呼ばれる川でした。いや、正確に言えば今も川です。護岸をコンクリで固められ、更には地下に埋設され、ほぼ人工の水路となっていますが、やはり川なのです。本来の姿なら、蛇行もするし溢れることもあったでしょう。そんな歴史を重ねた川が、いまは道となって静かに街に溶け込んでいます。
景色をもうちょっとご紹介しますかね
<細長い公園>
冒頭の細長い公園です。ある程度の面積は確保されていますが、形としては不自然ですね。これは蓋をした水路の上を有効活用した結果です。こういう言い方が正しいかどうかわかりませんが、まずは水路ありきで、公園は後付けなのです。ちょっとヘンな公園も、そういうことなら仕方ないですね。事情がわかると、この景色に漂う仕方なさのようなものが、何となく愛おしくなりませんかね?(この感想は個人的なものです)
別なところも見てみますかね
寂しいような楽しいような微妙な空間です
いたって真面目
こちらも
まぁ小さな子にはきっと素敵な遊び相手となるでしょう。この付近は住宅密集地です。育児をする親にとっても心強い味方ですね。こういう水路上は、入口に車止めが設置してあるので、なおさら安心です。
地下に埋葬された水の流れ。そこには暗渠化される以前の長い長い歴史があります。今回は橋跡と遊具のみのご紹介でしたが、水辺だった頃に相応しい景色が、水路となったいまでも道沿いに残されているかもしれませんね。
ということで
本のご紹介というより『道になった水路』の説明でした。それをどう受け止めるのか。それはその人次第です。川だった道沿いの景色に何を思うか。それもその人次第です。「まち歩きが楽しくなる 水路上観察入門」はそのヒントを教えてくれるいわばガイドブック。この本がきっかけで、その人ならではの世界が広がっていくのだと思います。
今回はお勧め本のご紹介です。その名も「まち歩きが楽しくなる 水路上観察入門」
2021年4月27日発売
著者:吉村生 著者:高山英男
まぁ内容そのものはタイトルのままですね。ただ「水路の上」には水面があるだけと思っている方に、ちょっとだけ補足させて頂きます。
<水路>
この本で言うところの水路とはこういう道のことです。
<橋の跡>
進んで行くと橋の跡があります。これは飾りモノではなく、本物の橋です。かつてここには水が流れていました。橋はそのなごりです。
<一の橋>
一の橋と記されています。二とか三もあるのですかね?
<二の橋>
ありましたありました
<三の橋>
続いているわけですね
<谷端川>やばたがわ
このちょっと変わった道は、谷端川と呼ばれる川でした。いや、正確に言えば今も川です。護岸をコンクリで固められ、更には地下に埋設され、ほぼ人工の水路となっていますが、やはり川なのです。本来の姿なら、蛇行もするし溢れることもあったでしょう。そんな歴史を重ねた川が、いまは道となって静かに街に溶け込んでいます。
景色をもうちょっとご紹介しますかね
<細長い公園>
冒頭の細長い公園です。ある程度の面積は確保されていますが、形としては不自然ですね。これは蓋をした水路の上を有効活用した結果です。こういう言い方が正しいかどうかわかりませんが、まずは水路ありきで、公園は後付けなのです。ちょっとヘンな公園も、そういうことなら仕方ないですね。事情がわかると、この景色に漂う仕方なさのようなものが、何となく愛おしくなりませんかね?(この感想は個人的なものです)
別なところも見てみますかね
寂しいような楽しいような微妙な空間です
いたって真面目
こちらも
まぁ小さな子にはきっと素敵な遊び相手となるでしょう。この付近は住宅密集地です。育児をする親にとっても心強い味方ですね。こういう水路上は、入口に車止めが設置してあるので、なおさら安心です。
地下に埋葬された水の流れ。そこには暗渠化される以前の長い長い歴史があります。今回は橋跡と遊具のみのご紹介でしたが、水辺だった頃に相応しい景色が、水路となったいまでも道沿いに残されているかもしれませんね。
ということで
本のご紹介というより『道になった水路』の説明でした。それをどう受け止めるのか。それはその人次第です。川だった道沿いの景色に何を思うか。それもその人次第です。「まち歩きが楽しくなる 水路上観察入門」はそのヒントを教えてくれるいわばガイドブック。この本がきっかけで、その人ならではの世界が広がっていくのだと思います。
価格:2200円 |
タグ:暗渠
2021年04月24日
太田道灌が植えた槇の木(荻窪八幡神社)
今回は太田道灌が進軍の途上で植えたとされる槇の木の話です。
<道灌槇>どうかんまき
こちらです。太田道灌が植えた木が五百年以上の時を経て、今なお佇んでいます。凄いことですね。道灌槇と呼ばれています。
<荻窪八幡神社>おぎくぼはちまん
お邪魔したのは杉並区の荻窪八幡神社です。
<鳥居>
<神門>
<境内>
神門の先の境内
<狛犬>
<拝殿>
創建は寛平年間(889年-898年)と言われています。
河内源氏2代目棟梁である源頼義が、奥州の騒乱を平定すべく北上する途上、この地に宿陣して戦勝を祈願したと伝わります。9年にも及ぶ長期戦に勝利したのち、源頼義は神恩感謝のため、帰路もこの地に立ち寄りました。
源氏の棟梁が戦勝祈願し、苦戦のあげくに勝利し、そのご利益に感謝した神社です。
道灌の話はそれから5百年近くあとの話になります。
源頼義の故事にちなんで、太田道灌も決戦を前にこの地で戦勝祈願しました。
<説明板>
現地説明板です。こちらに『荻窪八幡神社のコウヤマキ(道灌槇)』と題して詳しい説明が記されていますので、以下に抜粋させて頂きます。
『関東官領であり、武蔵の領主であった、上杉定政に対し、家臣の長尾景春が武蔵を侵さんとして石神井城主・豊島泰経及びその甥の平塚城主・豊島泰明と款を通じて反逆した。
之を激怒した上杉定政は江戸城主太田道灌に出陣を命じた。
道灌は文明9年(1477)4月13日平塚城を攻撃し四囲より火を放った。この急報に豊島泰経は道灌軍の背後を突き、江戸城へ進撃せんとして江古田、沼袋の線で石神井城へ進撃する道灌勢と遭遇し後世「江古田の合戦」と伝えられる戦斗を開いたが豊島軍利あらず、道灌軍は騎虎の勢をもって石神井城に迫った。
文明9年(1477)4月16日、道灌軍は東及南より石神井城を攻撃するに当って、道灌は当社に詣で戦捷を祈願して軍神祭を行ない、槇樹一株を献植した。
これが今当社に伝わる道灌槇で、一根二幹であったが昭和9年(1934)の暴風雨で一幹折損し一幹となり、樹齢500年を経た今なお、「千年の社・百尺の高野槇」と称えられている。
昭和61年(1986)3月、杉並区・天然記念物(植物)に指定された。
荻窪八幡神社社務所』
とても参考になりました。ありがとうございます。
まず道灌の進軍の背景として、関東で長期間続いた争乱『長尾景春の乱』があるわけですね。関東管領は、幕府から関東を統括管理すべく任命される役職で、その職にある上杉定正に命じられて太田道灌が出陣。豊島氏と激突した『江古田の合戦』のことが記されています。道灌は野戦で勝利した勢いで、そのまま豊島氏の居城に迫り、落城させました。この途上、武運の神として崇敬を集める八幡神に祈り、槇の木を植えたというお話になります。
<本殿前の高野槇>こうやまき
高野山でお供えの花の代りとして用いられたことに由来して高野槇と呼ばれるそうです。道灌が植えた高野槇は、荻窪八幡神社の御神木としていまも境内に佇んでいます。
ということで
太田道灌が戦勝祈願した神社と献植した槇の木のご紹介でした。
<つわものどもが夢の跡>
道灌はのちに主君である上杉定正により暗殺されてしまうので、天命を全うすることはありませんでした。しかしそのなごりは、今も形となって残り続けています。
■訪問:荻窪八幡神社
[東京都杉並区上荻]
■参考及び出典資料
・現地説明板
(荻窪八幡神社社務所)
・Wikipedia:2021/4/24
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<道灌槇>どうかんまき
こちらです。太田道灌が植えた木が五百年以上の時を経て、今なお佇んでいます。凄いことですね。道灌槇と呼ばれています。
<荻窪八幡神社>おぎくぼはちまん
お邪魔したのは杉並区の荻窪八幡神社です。
<鳥居>
<神門>
<境内>
神門の先の境内
<狛犬>
<拝殿>
創建は寛平年間(889年-898年)と言われています。
河内源氏2代目棟梁である源頼義が、奥州の騒乱を平定すべく北上する途上、この地に宿陣して戦勝を祈願したと伝わります。9年にも及ぶ長期戦に勝利したのち、源頼義は神恩感謝のため、帰路もこの地に立ち寄りました。
源氏の棟梁が戦勝祈願し、苦戦のあげくに勝利し、そのご利益に感謝した神社です。
道灌の話はそれから5百年近くあとの話になります。
源頼義の故事にちなんで、太田道灌も決戦を前にこの地で戦勝祈願しました。
<説明板>
現地説明板です。こちらに『荻窪八幡神社のコウヤマキ(道灌槇)』と題して詳しい説明が記されていますので、以下に抜粋させて頂きます。
『関東官領であり、武蔵の領主であった、上杉定政に対し、家臣の長尾景春が武蔵を侵さんとして石神井城主・豊島泰経及びその甥の平塚城主・豊島泰明と款を通じて反逆した。
之を激怒した上杉定政は江戸城主太田道灌に出陣を命じた。
道灌は文明9年(1477)4月13日平塚城を攻撃し四囲より火を放った。この急報に豊島泰経は道灌軍の背後を突き、江戸城へ進撃せんとして江古田、沼袋の線で石神井城へ進撃する道灌勢と遭遇し後世「江古田の合戦」と伝えられる戦斗を開いたが豊島軍利あらず、道灌軍は騎虎の勢をもって石神井城に迫った。
文明9年(1477)4月16日、道灌軍は東及南より石神井城を攻撃するに当って、道灌は当社に詣で戦捷を祈願して軍神祭を行ない、槇樹一株を献植した。
これが今当社に伝わる道灌槇で、一根二幹であったが昭和9年(1934)の暴風雨で一幹折損し一幹となり、樹齢500年を経た今なお、「千年の社・百尺の高野槇」と称えられている。
昭和61年(1986)3月、杉並区・天然記念物(植物)に指定された。
荻窪八幡神社社務所』
とても参考になりました。ありがとうございます。
まず道灌の進軍の背景として、関東で長期間続いた争乱『長尾景春の乱』があるわけですね。関東管領は、幕府から関東を統括管理すべく任命される役職で、その職にある上杉定正に命じられて太田道灌が出陣。豊島氏と激突した『江古田の合戦』のことが記されています。道灌は野戦で勝利した勢いで、そのまま豊島氏の居城に迫り、落城させました。この途上、武運の神として崇敬を集める八幡神に祈り、槇の木を植えたというお話になります。
<本殿前の高野槇>こうやまき
高野山でお供えの花の代りとして用いられたことに由来して高野槇と呼ばれるそうです。道灌が植えた高野槇は、荻窪八幡神社の御神木としていまも境内に佇んでいます。
ということで
太田道灌が戦勝祈願した神社と献植した槇の木のご紹介でした。
<つわものどもが夢の跡>
道灌はのちに主君である上杉定正により暗殺されてしまうので、天命を全うすることはありませんでした。しかしそのなごりは、今も形となって残り続けています。
■訪問:荻窪八幡神社
[東京都杉並区上荻]
■参考及び出典資料
・現地説明板
(荻窪八幡神社社務所)
・Wikipedia:2021/4/24
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タグ:太田道灌
2021年04月17日
戦国大名今川家のなごり(観泉寺) 高家今川家菩提寺
戦国時代屈指の名門大名・今川家ゆかりの寺を訪ねました
<観泉寺>かんせんじ
ここは東京都杉並区です。こちらのお寺は駿河に君臨したあの今川家の菩提寺です。
■足利の一門の名家■
今川家は足利一門の名家。駿河国守護を代々継承し、戦国時代には大大名になっていました。11代当主の今川義元を思い出す方が多いのではないでしょうか。今川家は義元の時には駿河国・遠江国を支配する巨大勢力となっていましたが、圧倒的有利と思われた桶狭間の戦いで織田信長に敗北。当主本人が討たれてしまい、それ以降今川家は徐々に衰退することになります。
■今川氏真■うじざね
今川義元の跡を継いだ12代当主となった氏真も、よくよく調べてみれば復権を目指していろいろと画策したようですが、大きな流れは変えられませんでした。やがては妻の実家である小田原の北条氏を頼り、最終的には徳川家康を頼ります。
今川家からみれば、家康はかつての家臣であり、更に桶狭間の戦いで今川家を見限った男です。その家康を頼る。誇り高き今川家の当主としては、そうとうな屈辱を感じたかもしれませんね。あるいは、既に疲れ果てたあげくの心境だったのかもしれません(あくまで素人の想像です)。
■今川直房■なおふさ
氏真が生き延びたことで、今川家の歴史は続きます。氏真の次男は名を品川氏と改め、幕府の儀式や典礼を司る高家となっています。高久の兄は徳川幕府に仕えませんでしたが、その子である直房は旗本となり、高家今川家の祖となりました。格式の高く権勢のある家柄として扱われたわけですね。名門家に相応しい役割です。直房は今川家中興の祖といえます。
■井草村と今川家■
今川直房は高家としての職務が徳川家光に認められ、もともとの所領とは別に井草村を含む3か村五百石を加増されました。これにより今川家の家禄は千石となりました。直房は井草村の観音寺を観泉寺と改め、今川家の菩提寺と定めます。
<寺号標>
門前にある立派な石碑です。右手は杉並区教育委員会による説明が記されています。
<今川氏累代墓の石碑>
石碑に記されている通り、境内には今川家代々のお墓があります。
<杉並区今川>
今川は地名にもなっています。幕末まで今川家の所領でした。
あの今川家の末裔の菩提詩が杉並区にある。それだけで感慨深いものがあります。全ては国を追われながら落ち延びた今川氏真あってのこと。直房は早くに父を亡くしたため、祖父である氏真に養われたそうです。氏真の墓は当初別な場所にありましたが、井草村を与えられた直房により、ここ観泉寺に移されました。
<観泉寺山門>
観泉寺は今川家の菩提寺であるとともに、知行地支配の拠点にもなり、年貢の取立てなども寺の門前で行われたそうです。世俗から切り離されたような寺ではなく、領民が集まる場所だったわけですね。
<本堂>
<本堂の扁額>
観泉禅寺の文字。曹洞宗のお寺です。山号は宝珠山。
<鐘楼>
<庭園>
そして
今川家墓所
<今川氏累代の墓>
すみません。当ブログはお墓の撮影が苦手のため、遠くから撮影しました。画像の中央、手前の石仏の奥が今川氏累代の墓所となります。
<説明板>
墓所入口の説明板です。東京都教育委員会さんの説明によれば、墓碑は今川氏真以降の当主や一族出身の女性や子供など多岐にわたるとのこと。また寺が年貢の徴収や裁判の拠点となっていたことも記されています。
<つわものどもが夢の跡>
ここ観泉寺は、戦国大名今川家のなごり、そして高家として再興した今川家の確かな足跡ですね。
■訪問:
宝珠山観泉寺
[東京都杉並区今川]2-16
■出典及び参考
・現地説明板
(東京都教育委員会)
(杉並区教育委員会)
・Wikipedia:2021/4/17
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<観泉寺>かんせんじ
ここは東京都杉並区です。こちらのお寺は駿河に君臨したあの今川家の菩提寺です。
■足利の一門の名家■
今川家は足利一門の名家。駿河国守護を代々継承し、戦国時代には大大名になっていました。11代当主の今川義元を思い出す方が多いのではないでしょうか。今川家は義元の時には駿河国・遠江国を支配する巨大勢力となっていましたが、圧倒的有利と思われた桶狭間の戦いで織田信長に敗北。当主本人が討たれてしまい、それ以降今川家は徐々に衰退することになります。
■今川氏真■うじざね
今川義元の跡を継いだ12代当主となった氏真も、よくよく調べてみれば復権を目指していろいろと画策したようですが、大きな流れは変えられませんでした。やがては妻の実家である小田原の北条氏を頼り、最終的には徳川家康を頼ります。
今川家からみれば、家康はかつての家臣であり、更に桶狭間の戦いで今川家を見限った男です。その家康を頼る。誇り高き今川家の当主としては、そうとうな屈辱を感じたかもしれませんね。あるいは、既に疲れ果てたあげくの心境だったのかもしれません(あくまで素人の想像です)。
■今川直房■なおふさ
氏真が生き延びたことで、今川家の歴史は続きます。氏真の次男は名を品川氏と改め、幕府の儀式や典礼を司る高家となっています。高久の兄は徳川幕府に仕えませんでしたが、その子である直房は旗本となり、高家今川家の祖となりました。格式の高く権勢のある家柄として扱われたわけですね。名門家に相応しい役割です。直房は今川家中興の祖といえます。
■井草村と今川家■
今川直房は高家としての職務が徳川家光に認められ、もともとの所領とは別に井草村を含む3か村五百石を加増されました。これにより今川家の家禄は千石となりました。直房は井草村の観音寺を観泉寺と改め、今川家の菩提寺と定めます。
<寺号標>
門前にある立派な石碑です。右手は杉並区教育委員会による説明が記されています。
<今川氏累代墓の石碑>
石碑に記されている通り、境内には今川家代々のお墓があります。
<杉並区今川>
今川は地名にもなっています。幕末まで今川家の所領でした。
あの今川家の末裔の菩提詩が杉並区にある。それだけで感慨深いものがあります。全ては国を追われながら落ち延びた今川氏真あってのこと。直房は早くに父を亡くしたため、祖父である氏真に養われたそうです。氏真の墓は当初別な場所にありましたが、井草村を与えられた直房により、ここ観泉寺に移されました。
<観泉寺山門>
観泉寺は今川家の菩提寺であるとともに、知行地支配の拠点にもなり、年貢の取立てなども寺の門前で行われたそうです。世俗から切り離されたような寺ではなく、領民が集まる場所だったわけですね。
<本堂>
<本堂の扁額>
観泉禅寺の文字。曹洞宗のお寺です。山号は宝珠山。
<鐘楼>
<庭園>
そして
今川家墓所
<今川氏累代の墓>
すみません。当ブログはお墓の撮影が苦手のため、遠くから撮影しました。画像の中央、手前の石仏の奥が今川氏累代の墓所となります。
<説明板>
墓所入口の説明板です。東京都教育委員会さんの説明によれば、墓碑は今川氏真以降の当主や一族出身の女性や子供など多岐にわたるとのこと。また寺が年貢の徴収や裁判の拠点となっていたことも記されています。
<つわものどもが夢の跡>
ここ観泉寺は、戦国大名今川家のなごり、そして高家として再興した今川家の確かな足跡ですね。
■訪問:
宝珠山観泉寺
[東京都杉並区今川]2-16
■出典及び参考
・現地説明板
(東京都教育委員会)
(杉並区教育委員会)
・Wikipedia:2021/4/17
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2021年04月10日
徳川綱重ゆかりの水盤舎(増上寺)
今回は増上寺境内の水盤舎の話です。
■水盤舎■すいばんしゃ
こちらが増上寺の水盤舎です。参拝者が身を浄めるための場所ですね。「ちょうずや(手水舎)」という呼び方の方が一般的でしょうか。
説明板があります。こちらはもともと徳川綱重の霊廟にあったものだそうです。
綱重?
説明板にもある通り、この方は甲斐甲府藩主で、三代将軍徳川家光の三男です。五代将軍綱吉の兄、そして六代将軍徳川家宣の父でもあります。随分豪華な父・兄・息子ですね。綱重は甲斐甲府藩主ではありますが、将軍家の一員として江戸の屋敷で生活していたそうです。
徳川家の家紋が随所に刻まれています
綱重は1678年に35歳という若さで逝去し(死因については諸説ありますが今回は省略します)、当初は小石川伝通院に埋葬されましたが、家宣が将軍の時に徳川家菩提寺である増上寺へ移されました。霊廟は増上寺本堂の裏手にあったようですが、昭和の戦火で建物はほとんどが焼失したそうです。難を逃れた水盤舎が、現在も増上寺境内で使用されているというわけです。
私のような素人目にも凝った造りですが、もっと深い意味で、貴重な建造物なのですね
ということで
増上寺の水盤舎のお話でした。徳川家の菩提寺である増上寺は見どころが多いですが、当ブログがきっかけで、手を清める時に意識してもらえたら嬉しいです。
■訪問:増上寺水盤舎
[東京都港区芝公園]4-7-35
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■水盤舎■すいばんしゃ
こちらが増上寺の水盤舎です。参拝者が身を浄めるための場所ですね。「ちょうずや(手水舎)」という呼び方の方が一般的でしょうか。
説明板があります。こちらはもともと徳川綱重の霊廟にあったものだそうです。
綱重?
説明板にもある通り、この方は甲斐甲府藩主で、三代将軍徳川家光の三男です。五代将軍綱吉の兄、そして六代将軍徳川家宣の父でもあります。随分豪華な父・兄・息子ですね。綱重は甲斐甲府藩主ではありますが、将軍家の一員として江戸の屋敷で生活していたそうです。
徳川家の家紋が随所に刻まれています
綱重は1678年に35歳という若さで逝去し(死因については諸説ありますが今回は省略します)、当初は小石川伝通院に埋葬されましたが、家宣が将軍の時に徳川家菩提寺である増上寺へ移されました。霊廟は増上寺本堂の裏手にあったようですが、昭和の戦火で建物はほとんどが焼失したそうです。難を逃れた水盤舎が、現在も増上寺境内で使用されているというわけです。
私のような素人目にも凝った造りですが、もっと深い意味で、貴重な建造物なのですね
ということで
増上寺の水盤舎のお話でした。徳川家の菩提寺である増上寺は見どころが多いですが、当ブログがきっかけで、手を清める時に意識してもらえたら嬉しいです。
■訪問:増上寺水盤舎
[東京都港区芝公園]4-7-35
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