2020年03月15日

遠ざかる川の記憶 地図から消えた水のなごり

完成間際の浦和の舗道にて
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もう魚が泳いでいた事なんて忘れ去られるのでしょうね

この道はいわゆる暗渠。『あんきょ』と読みます。地下に埋設された川や水路のことですね。6年前(2014年)、たまたまこの区画の暗渠工事を目撃してしまい、それ以降ときどき訪れて撮影を続けてきました。

のどかな流れにボックスカルバートがはめ込まれ、埋められ、舗装されるまで。もうすぐ工事が終了するようなので、本日の撮影で定点観測も終わりにします。

<最初の発見>2014年
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この時点ではまだ、ボックスカルバートと護岸の隙間で魚が暴れていました。

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<そして本日>2020年
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舗装が終了していました

この川の名は高沼用水東縁。水はこの先で鴻沼川と合流します。まぁ水の流れそのものは今後も同じですが、この綺麗に整備された歩道を川跡と気付く人は多くないはず。いや、ほぼいなくなるのかも知れません。

もはや地図からも消えた水のなごり

車道より幅広の歩道、あるいは車止めなどを見て、気付いてくれる人がいたら嬉しいですね。

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これからも
水の流れは人の暮らしに寄り添っています。


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タグ:暗渠

2020年02月24日

多功城のなごり 宇都宮一族の城跡

つわものどもが夢の跡
宇都宮城の出城として機能していた城跡を訪ねました
<多功城跡>たこうじょう
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■宇都宮一族の城■
今回訪問の多功城は、宇都宮頼綱(5代当主)の七男・宗朝により1284年に築かれました。城は宇都宮城の南側に位置し、宗朝はこの城を構えて以降は多功氏を名乗りました。更に南方には、同じ下野国のライバル・小山氏の拠点があります。宇都宮氏にとって、多功城は軍事上極めて重要な出城だったと考えられています。

■上杉謙信を追い返す■
戦国時代に突入すると、多功城の出城としての役割はますます大きくなります。同じく宇都宮氏配下の児山城・上三川城とともに、南側から北上してくる敵を最前線で食い止める役割を担いました。

1558年、あの上杉謙信(当時は長尾景虎)が下野に侵攻し、佐野氏との連合軍となって多功城へ攻め寄せました。これに対し、多功長朝(ながとも)を筆頭に、援軍を含む宇都宮勢2千は奮闘。同族で児山城の城主・児山兼朝など、名だたる武将が多数命を落としましたが、宇都宮勢は負けませんでした。上杉・佐野の連合軍は撤退を余儀なくされました。
更に、多功長朝は敗走する上杉軍への追撃を試みます。最後は太田資正(すけまさ)の仲介により、上杉側と和睦となったようです。


■小田原北条氏にも屈せず■
1585年、関東で勢力を増していた小田原北条氏が宇都宮氏の領内へ侵攻し、この時多功城にも兵が押し寄せました。しかし猛将として知られる多功綱継は、他の宇都宮一族とともにこれを退けています。1589年にも同じく北条氏に攻め込まれますが、綱継は再びこれを退けます。関東制覇間近の北条氏でも、多功城を攻略することはできませんでした

■現地訪問■
<石碑>
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石橋ゴルフガーデン駐車場内にあります

<ゴルフ練習場>
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ここが主郭の跡とされています

<盛り土>
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これも土塁のなごりと思って良いですかね。ゴルフ練習場の北側の遺構が見事と聞き及んでいますので、そちらに向かうことにしました。

<土塁>
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おお、来てよかった

<二重の堀跡>
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<微高地>
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土塁の上から城の外側を撮影。土塁の高さを差し引いても、周辺よりは高い場所のようです。ある程度は・・

<本丸跡を遠くから撮影>
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劇的な高低差はない

<多功城跡全体>
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ほぼ平城です

名だたる勢力の侵攻を何度も撃退している城です。戦歴だけで判断すると難攻不落の城!と言いたいところですが、現地は平坦な土地で、劇的な地の利があるわけではありません。

土塁と出会えたことに感謝しますが、構造としては極めてシンプルな縄張りです。それでも負けなかった。これはもう、よほど宇都宮勢の兵が強かったとしか思えません。城に籠って戦うというより、主に城下の多功ヶ原で激突したようなので、野戦と考えた方が良いのかもしれません

<バス停>
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ところで、その多功ヶ原って具体的にはどこなんですかね?

<関東平野>
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ここまで平なんだから、まぁ見えている範囲内のどこかなんでしょう

いずれにせよ、命掛けで戦う猛者が揃っていたら、攻め手が『ドン退き』となるのは当然のこと。宇都宮勢は死をも恐れぬ勢いで侵入者たちに挑んでいったのかもしれませんね。

■つわものどもが夢の跡■
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宇都宮氏の重要拠点として、戦国時代に幾度となく強敵を退けた多功城ですが、天下人秀吉によって突然宇都宮氏が改易(1597年)され、出城としての役割を終えることになりました。

------■多功城■------
築城者:多功宗朝
築城年:1248年(宝治2)
城 主:多功氏
  (長朝・房朝・綱継)
廃城年:1597年(慶長2)
現 況:石橋ゴルフガーデン他
[栃木県河内郡上三川町大字多功]

-----追 記-----
<帰路>
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来た道を戻るのもなんなんで、低地の畦道を歩きました。

<土塁?>
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雑木林に土を盛ったような気配を感じたものの、気のせいだろうと思い、特に草に分け入ることもなく通り過ぎました。

ところが、この時の様子をTwitterに投稿したところ、城跡巡りの先駆者に、雑木林のなかにも遺構があるとを教えてもらいました。

あらら
そうでしたか

ちょっと残念ですね。でもまぁまた行く機会もあるでしょう。総じて満足な訪問となりました。


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天神館のなごり(上三川町)多功天満宮にて

今回は宇都宮一族の多功城を訪ねた帰りに、何となく立ち寄ってみた高台の話です。場所は栃木県の上三川町。まもなくJR石橋駅というところで、独特の地形に足が止まりました。

<高台と低地>
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これって砦の跡かね?

周辺より高くなっている場所に神社らしき建物が見えた。たったそれだけなのですが、漂う雰囲気に魅かれました。駅はすくそば。もう着いたようなものなので、ちょっとだけ逆戻りとなりますが立ち寄ってみました。

<天満宮>
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天満宮か

祭神はいうまでもなく菅原道真。いい雰囲気ながら、遺構のようなものは見当たりません。

何も無いけど

気のせいかね

結局現地では何もわかれませんでした。しかし帰宅してから念のため調べたところ、詳細不明ながら『天神館』と呼ばれる館が天満宮周辺にあったとする情報を得るに至りました。ただ、それが誰の館なのかはっきりしません。場所は多功城から見て北に位置します。

多功城の出丸?

それもはっきりしません。ただ、地形に足を止めて登ってみた階段の先に、そんな伝承があることに、ちょっとだけ口元が緩みました。

天満宮の付近での遺跡調査の結果、奈良時代のものと思われる瓦や土器が出土しているようです。古くから人が集まった場所ということですね。また、境内には礎石が残され、何らかの建物の土台と考えられています(郡の役所と推定されています)。

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また、この地の天満宮は北条氏の多功城攻めの際に一旦消失しながら、江戸時代になって再興されたことも分りました。戦に巻き込まれて一方的な焼き討ちにあったのか、多功側の兵が防衛の拠点としたため焼かれたのか、ちょっとわかりません。いずれにせよ、訪ねた城の歴史と、関りがあったことは間違いありません。

無駄ではなかった

足を止めた甲斐がありました。

■訪問:天満宮(多功廃寺址)
[栃木県河内郡上三川町天神町]
(旧地名:河内郡上三川町大字多功)


-----追記------
今回はかなり限られた情報しか得られず、更にその多くは推定です。素人会社員が、歴史の痕跡を訪ね歩いて楽しんでいるだけのブログですので、その程度に受けてめて頂きますようお願い申し上げます。

<多功城跡>
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多功城跡訪問記へ続きます


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2020年02月02日

荒子城のなごり 前田利家・慶次 傾奇者ゆかりの城

つわものどもが夢の跡
今回は誰もが知っている戦国武将が、若き日を過ごした城跡の話です。
<前田利家卿御誕生之遺址>
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こちらは前田利家生誕地を示す巨大な石碑です。ここは名古屋市中川区。前田利家が生まれた場所といわれています。

■荒子城■ あらこじょう
加賀百万石で知られる前田家も、もともとは尾張の地元豪族。今回の訪問地は、そんな時代に築かれた前田家の居城跡です。築城者は前田利昌(利春)。前田利家の父です。織田家に仕えて荒子の地を与えられ、城を築きました(1544年)。

<富士権現社>荒子城跡
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荒子城の鎮守とされたと伝わります。右手の標柱には「冨士大権現 天満天神宮」と刻まれています。現在の正式名は冨士天満社。

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御祭神は木花開耶姫命、菅原道真

城跡といっても、遺構は残されていません。そもそも平らな土地で、城として地の利があったとは言い難い場所です。文献によれば、平地に柵と堀を巡らしたシンプルな構造だったようなので、屋敷に近いものだったのかもしれませんね。

とはいえあの前田家が拠点とした場所。それだけで来た甲斐はあります。ちなみに、荒子という地名には、開墾まもない田という意味があったようです。


■前田利家ゆかりの地■
前田利昌が亡くなると、まず長男の利久が荒子城主を継ぎました。これは順当ですね。ただ利久はあまり体が丈夫な方ではなく、更に実子がなかったことから、織田信長は利家に前田家の当主となることを命じます。利家は四男ですが、この頃既に信長の下で活躍が認められていたからでしょう。主君の命により、利家は自身が生まれた城の城主となりました。

<石碑と説明板>
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<説明板>
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のちに大出世する利家が、初めて一城の主となった場所ということですね。

<荒子観音山門>仁王門
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荒子城跡近くの荒子観音です。1576年に前田利家によって本堂が再建され、この時に前田利家自身の甲冑も寄贈しているそうです。


■前田慶次ゆかりの城■
『花の慶次』のファンです。荒子城もちょっと関係しているので、触れさせて頂きます。
●前田慶次郎利益●とします
利家の兄である利久は、家督を継いだ際に妻の実家である滝川氏(信長の重臣・滝川一益の一族)から、利益を養子に迎えています。この人物こそ、いわゆる『花の慶次』の前田慶次郎利益ですね。異風を好む傾奇者(かぶきもの)として描かれる慶次が、当時どのような暮らしぶりだったかは分かりませんが、ここ荒子城で過ごしたことは間違いありません。つまり、この地は前田慶次にとってもゆかりの地ということになります。

義理の叔父にあたる前田利家は、『花の慶次』ではちょっと情けないオジサン武将として登場しますが、若いころは派手好みで喧嘩早い傾奇者だったそうです。そう考えると、『花の慶次』における二人の関係は、生涯傾奇者の慶次と、変わってしまった元傾奇者の利家という構図なわけですね。

●奥村助右衛門●
ちなみにですが、その当時の前田家の家老は奥村永福。一般的にはマイナーな武将かも知れませんが、『花の慶次』では助右衛門の名で気骨ある武将として描かれ、慶次の親友とされています。奥村永福は利久に仕えて荒子城の城代を務めていました。信長の命で荒子城が利家のものとなっても、利久の指示があるまで城は渡せないとして抵抗したそうです。主の指示で城を明け渡すと、浪人する道を選びました。(のちに帰参し、前田家のために再び奮闘します)。

■廃城■
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前田利家が1575年に越前国府中(福井県越前市)に移り、続いて利家の長男・利長も1581年に越前に移ったことで、荒子城は廃城となったようです。


■つわものどもが夢の跡■
前田慶次や奥村助右衛門にまで言及させて頂きましたが、やはり荒子城と言えばこの男で締めた方が良いですね。
<前田又左衞門利家>またざえもんとしいえ
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荒子駅前ロータリーの前田利家像です。槍の又左と呼ばれた利家らしい姿です。

<利家とまつ>
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まつもここで幼少期を過ごしています

利家は15歳で織田信長に仕え、赤母衣衆の一員に抜擢され頭角を現します。短気なところもあり、出奔して浪人となった時期もありますが、信長の許しもないまま勝手に桶狭間の戦いに参戦して活躍し、帰参を許されています。利家が兄に代わって荒子城主となるのは、その直後のことでした。まだ傾奇者だった頃ですね。

------■荒子城■------
築城主:前田利昌
築城年: 1544年
城 主:前田利昌
   利久・利家・利長
廃城年:1581年頃
現 況:富士権現社(天満天神宮)
[愛知県名古屋市中川区荒子]4


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2020年01月26日

蛇行する荒川のなごりと水塚に鎮座する村の鎮守(浮間ヶ池と浮間氷川神社)

今回は川のなごりです。荒川の蛇行のなごりを感じに北区を散策してきました。
<浮間氷川神社>
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荒川流域に多く分布する氷川神社。かつての荒川はこの付近で大きく蛇行し、周辺に広がる湿地はたび重なる洪水に悩まされていました。村の鎮守であり続けたこちらの氷川神社は、盛土の上に鎮座しています。

■川のなごり■
<浮間舟渡駅>うきまふなど
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今回下車した駅は埼京線の浮間舟渡駅です。駅名は地名の浮間舟渡を合わせたもので、更に細かいことをいうと浮間は北区で舟渡は板橋区。つまり区にまたがった場所に位置する駅なのです。この一見どうでも良い話が、荒川のかつての蛇行と関係しています。

<区境>
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下車して目的地へ向かう途中、道路を撮影。工事の管轄が違うからでしょうか。区境に線が入っています。向こうに見えている池も、この線の延長線上が北区と板橋区の境になります。

<浮間公園>
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目的地到着。といっても改札を出てから徒歩1分です。

<浮間ヶ池>
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この大きな池がかつての荒川のなごり。蛇行する荒川はかつてここを流れていました。そのままなら、川がかつての村境、そして区と区の境だったわけですね。
ところで、いろんな野鳥がいることで有名な公園ですが、なんとカモメが沢山いるではないですか。海からはけっこう離れていますがね。荒川沿いを内陸へ向かって移動してきたのでしょうか?ちょっと不思議な光景でした。

<風車>
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風車はこの公園のシンボル的な存在です。花も見応えがある公園なのですが、私の訪問は1月下旬のためちょっと地味に映りますかね。私の関心事は花より左手の土塁。これは昔の堤防をそのまま残したのでしょうか?調べたもののはっきりしないので、勝手にそう思うことにしました。

<説明板>
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ちょっと疲れた説明板ですが、充分読み取れます。浮間ヶ池が荒川の一部だったこと、現在の荒川は公園北側の土手の向こう側を流れていることなどが記載されています。洪水が多かったようですね。この対策として着手された流路変更の大工事は、明治44年から昭和5年にかけて行われたようです。

<別な説明板>
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こちらは別の説明板の地図。昭和3年とありますから、改修工事の途中の地図ということですね。大きく南に蛇行していた荒川の流路が、北側で直線に変えられているのがわかります。『浮間』の名は、川に突き出た地形が浮島のように映ったことに由来します。地図を見る限り、まさにそんな感じだったのでしょう。お隣の『舟渡』も水辺を思わせる名。地名は貴重な手がかりですね。

<公園北側>
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公園の北側は荒川の堤防になっています。

<堤防>
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高いなぁ。まぁせっかくだから登ってみますかね

<荒川>
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堤防の上です。昔の荒川は幅が狭いうえに蛇行が多かったようですが、今は幅広でまっすぐ。川の向こうに見えてるのは川口市の高層ビルです。この巨大な堤防により遮断され、浮間ヶ池が再び荒川と交じり合うことはありません。


■低湿地のなごり■
工事前は荒川の氾濫に悩まされた浮間。いまでは湿地の面影もありませんが、冒頭にご紹介の神社にそのなごりを確認し、今回の探索の締めとしました。
<浮間氷川神社鳥居>
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創建時期は不詳ながら、江戸時代には浮間村の鎮守だったと伝わります。

洪水の多い低地では、周辺より高く盛土をして倉など設けておく水塚(みづか)の跡をみかけることがあります。ここ浮間の鎮守は、水塚の上に鎮座しています。

<浮間氷川神社拝殿>
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水害が多かったであろう村の神社です。想像ですが、緊急時には避難場所にもなっていたのかもしれませんね。

ということで
荒川の古い流路とかつての湿地を散策したというお話でした。最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。


■訪問:
浮間公園〔浮間ヶ池〕
[東京都北区浮間]2丁目
[東京都板橋区舟渡]2丁目

浮間氷川神社
[東京都北区浮間]2丁目19-6


-----追 記-----

桜の時期に再訪した浮間公園の画像を貼っておきます。

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地元の人たちの憩いの場です

2020年01月13日

榎下城のなごり(横浜市)舊城寺

つわものどもが夢の跡
横浜市の城跡を訪ねました

<榎下城跡>えのしたじょう
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■榎下城の縄張り■
いわゆる舌状台地の先端を利用して築かれた山城です。最も高い位置に本丸を設け、その南と北に曲輪を配置し、周囲を空堀が廻らす構造になっています。城跡は現在寺院となっています。

<現地到着>
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あまり予習しないで訪問したので、立派な山門にやや躊躇しました。高野山真言宗の寺院です。

<舊城寺>きゅうじょうじ
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恥ずかしながら舊が読めず。ようするに『旧』の旧字体ですね。つまり旧城寺。とりあえず、古くは城だった寺と受け止め、山門をくぐりました。奥の本堂も立派ですが、城跡として訪問しているので、右手に見えている土塁のせいで足早になりました。

<説明板>
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入ってすぐの土塁の前に説明板があります。冒頭でご紹介した城の立地とともに、この土塁がいわゆる食い違い虎口のなごりであることが記載されています。歴史についても触れられいますが、それは後述するとして、縄張り図が分りやすく、しばし凝視しました。

<縄張り>
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いま私がいるのは右手の入り口付近。本丸より一段低い曲輪にいるわけですね。つまり舊城寺の山門と本堂は、かつての二の丸ということになります。そして外側の谷になっているところには空堀が設けられていた。なるほどです。これはシンプルで分かり易い。

大筋分かれば、あとそれを感じながら歩き回るだけ

<外側>
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まず城の外側ですが、あの道もかつての堀跡ですね

<高低差>
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一旦境内を出て、外を探索することにしました

<堀跡>
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堀のなごり。住宅地の舗装された道ではありますが、そこは想像で補う

再び境内へ

<土塁跡>
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土塁のなごり

<高低差>
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曲輪と曲輪の高低差

<弓道道>
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こちらは本丸へ進むとすぐに現れる現役の弓道場。本丸の西側部分です。

<竹林>
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本丸の奥の方(北側)まで進むと竹林になっています。この付近が城で最も高い位置。更に進むとまた谷状になっており、下った先は縄張り図にもあった北側の曲輪(的場)です。ただし、既に宅地となっているようなので、探索はここまでです。

<本丸跡>
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■榎下城と宅間上杉氏■
榎下城は宅間上杉氏憲清によって築かれたと考えられています。宅間上杉氏は山内上杉氏や扇谷上杉氏などと同様に上杉氏の諸家のひとつで、相模国を基盤に勢力を拡大しました。

鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に始まる永享の乱(1438年~1439年)に際しては、上杉憲清の子・憲直鎌倉公方に味方して榎下城を守りますが、関東管領側に攻められ、城から退いたあとも追い討ちをかけられ自害に追い込まれています。上杉憲直以降の城主については、あまりよく分かっていないようです。

その後の宅間上杉氏は勢いを失い、やがては小田原北条氏の傘下に組み込まれることになります。榎下城は小田原北条氏配下の小机城の支城として利用されることになりました。つまり、少なくとも戦国末期までは城として機能していたわけですね。

■つわものどもが夢の跡■
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1590年の秀吉による小田原征伐ののち、小机城は廃城となっています。ここ榎下城もその頃に城としての役割を終えたと考えられます。戦乱の世が終息へ向った江戸時代初期、城跡は舊城寺となりました。

------■榎下城■------
別 名:久保城
築城主:上杉憲清(宅間上杉氏)
築城年:詳細不明(室町時代)
城 主:宅間上杉氏
廃城年:詳細不明(1600年前後)
現 況:舊城寺
[神奈川県横浜市緑区三保町]


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2020年01月05日

樹齢千年の道しるべ 与野の大カヤ

今回は旧与野市の巨木の話です。

<与野の大カヤ>よののおおかや
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国の天然記念物に指定されいます。住宅地のこじんまりとした敷地内であることから、全体を撮影するのも一苦労です。

<説明板>
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高さは21.5mです。根回りは13mもあります。そして推定樹齢1000年。風雪にさらされながら、ずっとこの地で生きてきたわけですね。凄い生命力です。

<妙行寺金毘羅堂>
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ここは妙行寺金毘羅堂の境内です。

■旅人の道しるべ■
今回訪問の妙行寺金毘羅堂は、むかしなら低湿地がひろがっていたであろうエリアの台地上に位置しています。簡単に言えば目立つ場所です。そこに更に高々とそびえ立つカヤの木。さいたま市のホームページからそのまま転記させて頂くと『旅人のよき道標であったと伝えられています。』とのこと。なんとなく納得できる話です。現地の説明板にも記されていますが、平安時代中期植えられ『室町時代の応永年間(1394年から1427年)には、既に関東随一の巨木として知られいました』とのこと。[情報:さいたま市ホームページ]

長い間、旅人の道しるべだったということですね。

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周辺は関東平野の低地です。天に伸びた巨木は遥か遠くからも見えたことでしょう

道しるべはただ方角を示すためだけでなく、歩んできた道が間違いでないことを知らせてくれるもの。この巨木を見て、どれだけたくさんの旅人が安堵したしょうか。自分が方向音痴なためか、とても頼もしく感じました。

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■訪問:与野の大カヤ
(妙行寺金毘羅堂)
[埼玉県さいたま市中央区鈴谷]4

2020年01月04日

江戸へ繋がる塩の道 平井の渡し跡

今回は中川の渡し場の話です。

<平井の渡しの説明板>
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冒頭だけ抜粋すると『平井の渡しは、行徳道が下平井村で中川を渡る渡船場でした。対岸は葛西川村でした。』とのこと。

<江戸名所図会>
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平井聖天宮(正式名は燈明寺)とともに中川、そして平井の渡しも描かれています。

■平井の渡し■
中川(現在の旧中川)を船で渡るための渡し場です。江戸と下総(千葉県)の行徳を繋ぐ道筋が中川と交差する地点に設けられました。平井の渡しから東南に下り、今井の渡しで江戸川を渡ることで行徳へと繋がっていたようです。 この道筋は行徳道と呼ばれ、人の往来もさることながら、物資輸送の重要なインフラでした。特に江戸初期においては、行徳塩の重要な輸送路だったと考えられています。

■行徳の塩■
行徳は関東屈指の塩の産地。行徳の塩田で作られる塩は行徳塩と呼ばれ、小田原北条氏が関東覇者の時代には既に製塩が行なわれていました。北条氏滅亡後、関東に入った徳川家康は行徳を自身の所領(天領)に組み込みます。当時は当然のようにまだ戦国時代の緊張感が続いています。この雰囲気を背景に、家康は自力で塩を調達できることに拘ったのでしょう。塩は軍用第一の品とまで言っています。新たな居城・江戸城での籠城戦をも想定し、領内での塩の確保のため、行徳の塩業を保護しました。その大切な塩を、江戸まで運ぶ輸送路が平井の渡しを含む行徳道だったわけです。いわば塩の道でもあったわけです。

■塩の道■
海から内陸へ塩が運ばれる道のことを「塩の道」と呼んだりしますね。塩作りを海辺の塩田に頼っていた時代には、海と山を結ぶ塩の道は重要な役割を担っていました。全国各地にあるなかで、有名なところでは新潟の糸魚川と長野の松本をつなぐ千国街道(ちくにかいどう)でしょう。上杉謙信の「敵に塩を送る」は、まさにこの道筋を経由して武田信玄に塩を送った逸話です。『義』を重んじる謙信らしい美談で、好きな逸話です。

逸話と言ってしまってからなんですが、内陸の武田が、駿河の今川と相模の北条の同盟で海側から遮断されていたことは事実です。謙信が塩を送ったことが逸話だとしても、今川・北条が武田にとっての塩の道を断つことはありえなくはない話です。人質として今川で過ごした経験のある徳川家康が、この時期に「塩の道」の大切さを肌で感じたなんてこともありえますよね?更には、家康は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣していますので、兵糧が断たれる北条側の痛みも思い知ったことでしょう。そういう意味で、行徳と江戸を繋ぐ行徳道、そして川を渡るための平井の渡しも、関東へ入ったばかりの家康が強く意識するインフラだったのではないでしょうか?!(ちょっと私個人の主観が入っています)

■その後■
やがて江戸城下には水路が整備され、行徳・江戸間には航路も開かれたそうです。そうなってくると、塩の道も多様化しますね。平井の渡しが、いつくらいまで塩の道として重宝されたのか、ちょっとわかりません。それでも、川がある限り、渡しを経由した人や物資の行き来は続きます。当時はまだ、中川や江戸川に橋を架けることは許されていませんでした。やがて明治になり、渡し場の東側に平井橋が架けられたことで、平井の渡しは役割を終えたそうです。

<現在の様子>
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現地で出会ったのは、冒頭の説明板と現在の中川だけです。それでも、歴史の一部に触れることができ、更には勝手に想像して楽しむこともできました。塩の道ほかについて、素人の個人的な見解が入っていますので、その点はご了承ください。 ただ、当ブログがヒントになって、似たような感覚で川を眺める人がいたら嬉しいです。

■訪問:平井の渡し跡
[東京都江戸川区平井]

2020年01月03日

道灌が橋を架けたと伝わる場所(台東区)橋場

つわものどもが夢の跡
太田道灌進軍ルートの途上で橋を架けたと伝わる台東区橋場。地名そのものに期待が高まり、年末の寒い時期にも関わらず足を運びました。

■橋場と隅田川■はしば
<白鬚橋>しらひげばし
shirononagori405 (3).JPG
この辺りですかね

画像は隅田川に架かる白髭橋です。昔から橋があったわけではなく、この付近に渡し、つまり渡船場がありました。

ここは武蔵と下総の境目。下総の千葉氏と争うことになった道灌は、軍事的な理由でこの付近の隅田川(古利根川)に橋を架けたと伝わります。そして、それがこの地が橋場と呼ばれる理由。そう聞くと、橋場という地名自体に惚れ込んでしまいそうです。いいですね!

名門・千葉氏は、内紛により宗家が追い出されるに至り、武蔵に逃れた嫡流の兄弟(武蔵千葉氏)は道灌を頼りました。道灌は本来宗家であるべき武蔵千葉氏を味方につけて、下総の千葉氏と対立。境界線に橋を架けたとしたら、きっとその時期でしょう。

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隅田川の対岸を見つめ、ひとり妄想しました。何の先入観もなければ、川向うは普通に墨田区です。

<説明板>
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近くで説明板も発見。荒川区教育委員会さんによる橋場の渡しに関する説明です。荒川区?実は白鬚橋のたもとは、台東区橋場と荒川区南千住の境でもあります。

『対岸の墨田区寺島とを結ぶ, 約160メートルの渡しで, 「白髭の渡し」ともいわれていた。
『江戸名所図会』に依ると, 古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ, 『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。 しかし, 渡しの位置は, 幾度か移動したらしく, はっきりしていない。
大正3年(1914)に白髭木橋が架けられるまで, 多くの人々に利用された。』

[出典:荒川区教育委員会]

ん?そうですか・・・

在原業平が舟で川を渡ったことは記されていますが、太田道灌のことは特に触れられていないのですね。まぁ在原業平ですから平安時代のお話として、江戸時代よりずっと以前から、人はこの付近にあった渡しを使って向こう岸を目指したということは実感できました。それはすなわち、古くからここへ繋がる道があったということでしょう。道灌もその道を通ったのですかね。

さて
いつものように「とりあえず行ってみた」ものの、現地での情報はここまででした。念のため帰宅してから調べ直すと、期待していたのとは違う情報をみつけてしまいました。

それは
橋を架けたのは太田道灌ではなく、源頼朝だというお話です。しかも橋そのものを架けたのではなく、数千の船を浮かべて「船の橋」を架けたというものでした。そして、それこそが橋場の地名の由来であるとのこと。

これにはちょっと困惑しました。ただ、冷静に受け止めてみると、それはそれで面白い話ですよね。数千はおおげさとしても、船を並べて橋の代わりとする話はよく耳にします。軍を率いる源頼朝がそれをやった。なるほど・・・

まぁ道灌であろうと頼朝であろうと、進軍がきっかけで、この地に橋場という名が残ったことに変わりがありません。

どっちもありかな

ちょっといい加減ですが、どちらの話も魅力的なので、その程度で納得しました。


■橋場探索■
せっかくなので周辺も散策しました。一番印象的だった橋場不動尊をご紹介します。
<山門>
shirononagori405 (6).JPG
砂尾山と不動院の文字。一般には橋場不動尊の名で親しまれていますが、正式名は砂尾山橋場寺不動院といいます。760年に寂昇上人によって開山されたとのこと。

<不動院本堂>
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浅草寺の末寺を経て現在は比叡山延暦寺末とのこと。ご本尊は不動明王です。智恵により煩悩を絶ち切る道を示してくれる不動明王。煩悩だらけという負い目からか、境内にいる時だけは神妙な気持ちになりました。

<七福神>
shirononagori405 (1).JPG
年末年始だからでしょうか?それともいつもこんな感じなのでしょうか?勢ぞろいしています

ここは浅草七福神巡りのうち布袋さまも祀られているところ。この地の七福神巡りは歴史は古く、江戸時代には既に行われていたようです。普通なら7社ですが、福禄人と寿老人が2社ずつのため計9ヶ所になるそうです。

<御授地蔵尊>
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地蔵尊の右手前には百度石。百日詣の代わりに、山門などとの間を百度往復して願い事を叶える時の目印というか、標識として立てられている石のことですね。

簡単で恐縮ですが以上です


つわものどもが夢の跡
shirononagori405 (5).JPG
現在の橋の名は向う岸の白鬚神社に因むものです

私は道灌ゆかりの地?という理由だけで訪問を決めましたが、仮に源頼朝に由来するとしても、橋場という名は兵を率いる武将が川を渡ろうとしたなごり。それだけで充分です。奥深い寺院とも出会えましたので、満足な訪問となりました。

■訪問
●白髭橋
[台東区 橋場]2丁目
[荒川区南千住]3丁目
●橋場不動尊
(砂尾山橋場寺不動院)
[台東区橋場]2丁目


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2020年01月02日

太田資長のなごり お正月の静勝寺にて

当ブログに何度も登場している北区の稲付城跡。赤羽駅から近いので、時々訪問しています。何度も行ってしまう理由は、やはりそこが太田道灌ゆかりの地だからでしょう。本日(2020年1月2日)は比較的暖かい日でしたので、赤羽散歩も兼てまた訪問してきました。

<太田道灌堂>
shirononagori402 (1).jpg
道灌が築城したと伝わる稲付城跡は現在は静勝寺となっており、境内には太田道灌の坐像が納められた御堂があります。いつもは扉が閉じていますが、お正月と毎月27日には開かれ、道灌像と対面することができます。

実は昨年の今日、まったく同じことをして、静勝寺をご紹介させて頂いてます。簡単な説明ではありますが、よかったら覗いてみて下さい。
タイトル
静勝寺の太田道灌堂
→『記事へすすむ

そこでも触れさせて頂きましたが、ここはもともとは道灌寺と呼ばれていました。名前そのままですね。その方が人気も出そうですが、現在の名である静勝寺の静勝は、道灌の戒名にちなんだ名なので、意味としては同じということになります。そもそも、私を含め大半の方は道灌という名に慣れ親しんでいますが、これも法名で、元の名は太田資長(すけなが)です。

時々思うのですが、父は太田資清(すけきよ)で嫡男は資康(すけやす)、子孫も代々にわたって通字の「」を用いているので、道灌も最初から太田資長とインプットしておけば都合が良かったのかもしれません。何の都合?理由は?これはもう個人的な事情ですが、好きな武将の一人でありながら、 私はスケナガという名がとっさに出ません。いまさらもう馴染めないのです。歴史の専門の方々に笑われそうですが、素人の感覚としてお許し下さい。

<静勝寺山門>
shirononagori402 (2).jpg

年末は寒い日が続いていましたが、令和二年のお正月は元日、そして今日も穏やかな日でした。来年のお正月にまた来れるかどうかわかりませんが、とりあえず本年が良い年となりますことを祈願して『太田資長』ゆかりの寺をあとにしました。

■訪問
自得山静勝寺
(稲付城跡)
[北区赤羽西]1-21-17


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