アフィリエイト広告を利用しています

2021年12月13日

六国見(浦和区上木崎)赤山街道と中山道が出会う場所

さいたま市内の「赤山陣屋への道」を訪ねてみた記録です。

<六国見>ろっこくみ
Rokkokumi.JPG
JR与野駅の近くに『中山道と六国見』と題した説明板が設置されています。住所だと浦和区上木崎になります。

<説明板>
Rokkokumi-information.JPG
説明文によれば『中山道と赤山道が交差するこのあたりには立場茶屋があり、文化二年(1805年)刊の「木曽路名所図会」には「富士・浅間・甲斐・武蔵・下野日光・上州伊香保などがあざやかに見えたり」とあり、関東六国の山々を見渡せる見晴らしの良い名所としてしられ「六国見」と呼ばれていた。』とのこと。『』内は説明板からの抜粋です。浦和区文化の小径づくの推進委員会さん、ありがとうございます。

<説明板拡大>
Kisokaido-Urawa-Eisen-Rokkokumi-Information.JPG
掲載されている英泉の浮世絵を拡大させて頂きました。「木曽街道六十九次 浦和宿」です。浦和の景色で浅間山も描かれています。

確かにこの付近は周辺よりは小高くなっていますが、都市化が進んであまり意識されません。いまでは高いビルに囲まれてお隣の町内も見通せませんが、かつては景勝地だったのでしょう。

さて
説明文では『中山道と赤山道が交差する』とありました。中山道(厳密には旧中山道)は説明板のすぐ後ろ側の道路。これは一目瞭然ですが、赤山道(赤山街道)はどこでしょう。

<脇道が合流>
Rokkokumi-Nakasendo-Akayamakaido.JPG
説明板のすぐ後ろがむかしの中山道。そこへ奥から脇道が合流していますね。赤い進入禁止が目印。あれが昔の赤山道(赤山街道)です。そんなことを知ってしまうと、ありきたりの脇道が違ったふうに映りませんかね。当ブログに来て頂いた方と、そんな感覚を共有できれば幸いです。

■訪問:六国見
中山道と六国見 説明板
[さいたま市浦和区上木崎]1丁目

■参考及び出典
・現地説明板
(浦和区文化の小径づくの推進委員会)


------■赤山街道とは■------
赤山街道とは、徳川幕府から関東の開発を任された伊奈忠治が、拠点である赤山陣屋と現場との往来を円滑にするために設けた道のことです。道筋によって大宮道越谷道千住道の3つに分類されます。大宮道は、現在のさいたま市西区の永田陣屋と、川口市の赤山陣屋をつなぐ道を指します。

<永田陣屋跡>
shirononagori289 (3).JPG
[さいたま市西区土屋]

<赤山陣屋跡>
Akayama-Jinya.jpg
[埼玉県川口市赤山]


お城巡りランキング

---------追 記---------
追記として「脇道」を進んで行った時の画像を貼っておきます
Akayamakaido-1-entrance.JPG
旧中山道をそれて赤山街道へ

Akayamakaido-2.JPG
左が赤山街道。昔の街道ですからね。道幅はありません

Akayamakaido-3-Kamikizaki-Park.JPG
児童公園(上木崎大けやき公園)

Akayamakaido-4.JPG
公園隅には赤山街道に関する説明板あり

Akayamakaido-5.JPG
しばらく進むと産業道路と合流

Akayamakaido-6-industrial-road.JPG
車の往来が激しい道をそのまま進みます

Akayamakaido-7.JPG
木崎小学校が見えたら産業道路とはお別れ。学校の北側の細い道が赤山街道です

ここからはしばらくは道なりに進むだけです。要所要所で、赤山街道が周囲より高い位置であることを実感します。むかしの街道は低地を避け、できるだけ台地を通過するようにできています。

そして
Akayamakaido-Daito-Children's-Park.JPG
公園に到着。浦和区大東2丁目の大東北児童公園です。古墳のような盛り土が見えますね

Akayamakaido-9-Daitojidokoen.JPG
江戸時代に造られた富士塚です(大東の富士塚)

Akayamakaido-Daito-Fujitsuka.JPG
塚の頂上には庚申塔。普通は道沿いにありますが?経緯はわかりません

Daito-Fujitsuka.JPG
街道沿いで暮らしたひとたちの思いが形として残っています

赤山陣屋への道はまだまだ続きますが、今回はここまでにします。
タグ:赤山街道
posted by Isuke at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道

与野を通過する赤山街道(中央区本町東から下落合)

赤山街道がさいたま市内を流れる鴻沼川を渡り、更に東へ向かう道のりを歩いてみました。

<赤山街道>
Akayama-Kaido.JPG
Akayamabashi.JPG
[中央区本町東4丁目]
赤山街道とは、徳川幕府から関東の開発を任された伊奈忠治が、自らの拠点である赤山陣屋と現場との往来を円滑にするために設けた道のことです。今回の訪問地は、現在のさいたま市西区と川口市赤山をつなぐ「大宮道」と呼ばれる区間の一部で、さいたま市中央区(旧与野市)付近です。赤山橋を渡り、そのまままっすぐ進んで与野中央通りを通過すると、JR埼京線の高架下に到着します。

<埼京線高架下>
Akayama-Kaido-Kitayono.JPG
[中央区上落合2丁目]
北与野駅はもうちょっと北になりますが、ほぼ駅に着いたようなものです。

<与野の歴史>
Yono-History-Kitayono.JPG
与野の歴史に関する説明板が設置されていました。一部ご紹介します。

正和3年(1314)に作られた融通念佛縁起絵巻という絵巻に与野郷とあることから、当時既に与野の名は遠い京都にまで知られていたとあります。そして、与野の『「本町通り」は甲州街道から中山道、日光街道に抜ける要路として旅人や物資の輸送に重要な役割を果たし繁栄しました』とのこと(『』内は転記です)。古くからの賑わいが伝わってきますね。途中省略しますが、かつてあった鴻沼が八代将軍吉宗の新田開発政策により新田が開かれ、鴻沼用水路(鴻沼川)が与野の水田を潤したことも記されています。勉強になりました。

更に東へ向かいます

Akayama-Kaido-Kitayono2.JPG
[中央区下落合4丁目]

Yono-Akayama-Kaido (5).JPG
[中央区下落合4丁目]

Yono-Akayama-Kaido (6).JPG
現在の中山道と赤山街道が交差する地点まできました。更に東へ進みます

Yono-Akayama-Kaido (7).JPG
中山道を横断しながら南(巣鴨・戸田)方面を撮影

Yono-Akayama-Kaido (8).JPG
[中央区下落合3丁目]
道幅が急に狭くなりました。古道らしい雰囲気が漂う道です

Yono-Akayama-Kaido (9).JPG
[中央区下落合3丁目]
(左手は上落合1丁目)

Yono-Akayama-Kaido (10).JPG
[浦和区上木崎1丁目]
上木崎まできました。旧与野市を通過して旧浦和市に入りました

Yono-Akayama-Kaido (11).JPG
赤山街道はこの先で京浜東北線を越える橋を渡り切ったところで旧中山道と合流します。

ということで
赤山街道大宮道のうち、中央区(旧与野市)付近を歩いてみた時の記録でした。

訪問:赤山街道大宮道
さいたま市中央区
本町東4丁目〜下落合3丁目



お城巡りランキング
タグ:赤山街道
posted by Isuke at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道

赤山橋と石橋供養塔 鴻沼川を渡る赤山街道

赤山街道がさいたま市内を流れる鴻沼川を渡る地点を訪問しました。

<川沿いの石橋供養塔>
Stone-bridge-Memorial-tower-Yono.JPG
今回の訪問地

赤山街道とは、徳川幕府から関東の開発を任された伊奈忠治が、自らの拠点である赤山陣屋と現場との往来を円滑にするために設けた道のことです。今回の訪問地は、現在のさいたま市西区と川口市赤山をつなぐ「大宮道」と呼ばれる区間の一部で、台地上の道が川に差し掛かる地点です。

<赤山街道>
Akayama-Kaido-Chuoku.JPG
ここはさいたま市中央区。西区から始まり、大宮区を経由して南下してきた赤山街道が、東に向きを変えて、さいたま新都心方面に向かう通りです

<更に東へ>
Akayama-Kaido.JPG
手前に橋が見えてきました

<鴻沼川>こうぬまがわ
Akayamabashi.JPG
市内を北から南へ向かって流れる鴻沼川です

<赤山橋>
Akayama-Bridge.JPG
赤山街道の橋だから赤山橋。分かり安い

<石碑>
foot-of-bridge.JPG
橋のたもとには石造りの碑が建てられています

<石橋供養塔>
Hashinonagori.JPG
石橋供養塔と記されています。ここにかつて石の橋が架かけられていたということですね。橋の供養塔には何らかの信仰や、道しるべを兼ねたものもありますね。こちらの供養塔は文字が主体で、純粋に橋への思い・感謝などを込めて建てられたもののようです。供養塔には建立の年月日とともに、多くの村の名や個人名が刻まれています。いかに重要で、多くの人に感謝される橋だったかが伝わってきます。


ところで
石橋供養塔が建てられたのは享保11(1726)年とのこと。ほぼ同時期まで、下流には大きな沼が存在していました。沼は徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛によって干拓され、田畑に姿を変えました(享保13年)。赤山街道の石橋がこの付近に架かっていたことに変わりはありませんが、川は現在のような流路ではなく、沼へと注いでいたようです。

干拓された沼の名は鴻沼といいます。これが一筋の流れに変更され、鴻沼川となりました。鴻沼川の上流部分、つまり今回訪問した付近を霧敷川(きりしきがわ)という別名で呼ぶには、そんな歴史の違いがあったわけですね。

ということで
赤山街道が鴻沼川(霧敷川)を渡る地点の橋のご紹介でした。当ブログがきっかけで、石橋供養塔に足を止める人がいたら嬉しいです。


■訪問:赤山橋
 石橋供養塔
[さいたま市本町東] 4丁目
JR北与野駅から約500m

■参考
さいたま市ホームページ
与野郷土資料館展示web解説(その2)

https://www.city.saitama.jp/004/005/004/005/yono/yonokyodo_tenjikaisetsu/p073585.html



お城巡りランキング
タグ:赤山街道
posted by Isuke at 06:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 街道・古道

2021年12月12日

伊奈氏の街道を勉強させて頂いた川口市のイベント「“みち”との出会い〜赤山街道〜」

2020年12月12日
川口市立文化財センター分館 郷土資料館で開催されていた「“みち”との出会い〜赤山街道〜」にお邪魔させて頂きました。川口市教育委員会主催のイベントです。
<入口>
Event-Akayamakaido.JPG
新型コロナウィルス対策で手の消毒は勿論、体温検査もしっかり行ってもらいました。

<冊子と地図>
Akayamakaido-map.JPG
入場料は100円です。たった100円で冊子と地図まで頂きました。ありがたいです。

<イベント会場>
Event-Michitonodeai.JPG
会議室の入口のようですね。なかが充実しています。

<展示室>
Michitonodeai.JPG
係りの人のお話では、文書以外は撮影可ということでしたので、まずは全体を撮影。展示物の全てはご紹介できませんが、関東代官の伊奈忠治が拠点とした赤山陣屋、そしてそこに至る道として整備された赤山道赤山街道)をテーマとした『教材』が展示されていました。パネルやジオラマで丁寧な説明がなされており、とても勉強になりました。

<ジオラマ>
Diorama-Michitonodeai.JPG
Diorama-Hatogaya.JPG
城でもそうですが、地図で見れば分かるといっても、立体的なジオラマはやはり実感が湧いていいですね。

<鳩ヶ谷宿と本陣>
Hatogaya-Map.JPG
Honjin-Model.JPG
私は、治水で名を馳せた伊奈忠治と赤山街道を意識して訪問しました。ただ、こういった展示によって日光御成道や宿場にも興味を持ちました。この日の思いが、のちの日光御成道の宿場跡訪問につながっています。

■赤山街道について■
赤山街道とは、徳川幕府から関東の開発を任された伊奈氏が、拠点である陣屋と現場との往来を円滑にするために設けた道のことです。道筋によって大宮道越谷道千住道の3つに分類されます。このうち大宮道は、現在の川口市の赤山陣屋からさいたま市西区の永田陣屋までを指します。陣屋跡として赤山陣屋も永田陣屋も訪問したことはありますが、それらをつなぐ『みち』を強く意識するに至りました。

伊奈氏は幕領を管轄する関東郡代を代々継承する一族で、未開発地の多い関東のインフラ整備で徳川幕府を下支え続けました。

<イベントのポスター>
Inaway-Akayamakaido.JPG
赤山陣屋を中心に三方へ広がる道。とても素晴らしい企画展でした。

川口市教育委員会さん
そしてこのイベントに関わった全ての皆さん
ありがとうございました。

■企画展
“みち”との出会い〜赤山街道〜
2020年10月20日〜12月20日
※終了しています

■訪問:
川口市立文化財センター分館
郷土資料館
[埼玉県川口市鳩ヶ谷本町]


------■参考画像■-------
(当ブログの過去記事より)
<赤山陣屋跡>
Akayama-Jinya.jpg
[埼玉県川口市赤山]

<永田陣屋跡>
shirononagori289 (3).JPG
[さいたま市西区土屋]


お城巡りランキング
タグ:赤山街道
posted by Isuke at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道

2021年12月07日

街の中の土塁跡 山形城三ノ丸のなごり

今回は山形市の市街地に取り残された城のなごりの話です。
<土塁>
Sannomaru-Earthworks.JPG
立派な土塁です。それにしても、山形城址である霞城公園からはかなり遠いところです。出城の土塁でしょうか?

<三の丸土塁跡>
Yamagata-Castle-Earthworks.JPG
三の丸?こんなところまで城の内側だったということですね

あまり知られていませんが、山形城は全国でも屈指の広さを誇る平城でした。基本構造は本丸・二ノ丸・三ノ丸と外へ向かって広がる輪郭式。縄張りそのものは複雑ではありませんが、スケールが違います。三ノ丸は東西が約1.5q、南北約2qもの広さだったそうです。広々とした三ノ丸には、武家屋敷が立ち並んでいたようです。しかし明治の廃城令により城は取り壊され、堀も大半が埋められました。特にもっとも外側の曲輪となる三ノ丸は市街地化のため姿を消しました。

そんな状況でありながら
土塁がこうして残っている

街に埋もれながらも
取り除かれることなく今日まで残っている

素晴らしいですね!

山形城といえば、私にとっては最上義光の居城です。三ノ丸を含めた城の拡張は最上義光の時代になされました。そして最上家改易後、山形へ入った鳥居忠政らの手で近世らしい城郭となりました。復原工事によるものではなく、そのなごりが形となって残っているわけです。

<つわものどもが夢の跡>
Earthworks-Yamagata-Castle.JPG


■訪問:
山形城三ノ丸土塁跡

[山形県山形市十日町]


お城巡りランキング


------- ■ 追 記 ■-------

2023年に再訪した時の画像を貼っておきます
<三ノ丸土塁>
Revisit2023-Sannomaru-Dorui- Yamagatajo.JPG
夏の訪問のため緑が濃いです

<現地説明板>
Revisit2023-Sannomaru-Guide-plate.JPG
Revisit2023-Sannomaru-Map.JPG
設置されている説明板の一部です。地図に記されているように、ここは広い三ノ丸の一番外側ですので、本丸からは遠いわけですよね

そして

<土塁跡と堀跡>
Revisit2023-Sannomaru-Yamagata.JPG
今回は土塁の向こう側(神社境内)からも撮影しました。つまり三ノ丸の外側から眺めていることになります。手前は堀のなごりです
タグ:山形への旅
posted by Isuke at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

2021年12月06日

山形城のなごり(霞城公園)進化し続ける城址公園

<晩秋の山形城跡>
Yamagata-Castle-Moat.JPG
久しぶりに訪問しました

■霞城公園■ かじょう
山形駅から徒歩圏内の山形城跡。かつての本丸・二ノ丸が城址公園として整備されています。久しぶりに訪問してみると、内部へ行くほど様子が変わっており、着々と進む復原工事や、丁寧な説明板の設置に驚かされました。

<二ノ丸南大手門>
South-Gate.JPG

<城門跡の石垣>
ishigaki-sumiishi.JPG

<本丸の堀>
honmaru-moat.JPG

<本丸枡形虎口の石垣>
Stone-wall-corner.JPG

<本丸一文字門大手橋>
Yamagata-jo-Honmaru-Gate.JPG

<二ノ丸東大手門>
rehabilitation.JPG
Gate.JPG

山形城は明治の廃城後、建物の取り壊しだけでなく、本丸の堀も埋められました。山形市により整備された城址公園内は、一部で遺構と呼べるものもありますが、目をひくものの大半は復原です。国指定の史跡ですので、これらはしっかりとした調査・研究の裏付けがあってのこと。この辺りが、城郭ファンをも魅了するポイントなのかもしれませんね。

山形城跡は市民のための公園でもあるので、城郭ファンのみならず、お城入門者にも楽しんでもらえる工夫が随所に施されています。

<説明板と展示物>
Explanation-board- (1).JPG
Stone-Exhibits.JPG
Explanation-board-Ishihiki.JPG
Exhibits-Ishihiki.JPG

城にほぼ無関心でも、とくつろげる場所です

<二ノ丸曲輪>
strong-hold.JPG
市民の憩いの場です


■東北最大の城■
最上家初代となる斯波兼頼が山形城を築いたのが1357年(延文2年)。最上家の勢力は第11代当主の義光の時にピークとなり、江戸時代初期には57万石の大大名にまで上り詰め、居城の山形城も東北最大の城に拡張されました。

<最上義光公騎馬像>
Gajo-koen-Mogomi-Yoshiaki.JPG
山形城は最上義光が城主の時に拡張したものが原型とされています。そして、のちに山形へ入った鳥居忠政により改修がなされ、近世城郭として完成されたと考えられています。

<山形藩の藩主に関する説明板>
Guide-Plate-History.JPG
最上家57万石から始まり、鳥居忠政の時は22万石です。その後少しずつ石高は減り続け、江戸末期の水野家の時は5万石だったようです。最上義光が拡張した山形城は、5万石の居城としては広すぎます。説明文の最後には、三ノ丸の一部は田畑として利用されていたと記されています。

その三ノ丸も、今ではすっかり市街地化されています。城の中心だった二ノ丸堀の内側が、かつての姿を今に伝える城址公園となっており、日本100名城にも選定されています。今後さらに復原工事が進められるとのことですので、ますます魅力的な城跡となることでしょう。

<石垣>
corner-stone.JPG
復原は江戸期の城郭をイメージしているようです。城の原形を築いたのは最上義光の時には石垣はまだなく、いわゆる『土の城』でした。

<二ノ丸外周の堀と土塁>
yamagatajo-shirononagori.JPG
最上時代はこんな感じだったのかもしれませんね(勝手な想像です)。

-------■ 山形城 ■-------
別 名:霞ヶ城・霞城(かじょう)
築城年:1357年
築城者:斯波(最上)兼頼
改修者:最上義光・鳥居忠政
城 主:最上代・鳥居氏・水野氏他
廃城年:1871年(明治4)
[山形県山形市霞城町]

■参考及び出典
・現地説明板
・Wikipedia:2021/12/6


■当ブログ過去記事■
山形城については別途投稿したことがあります。よかったら覗いてみて下さい
最上家歴代当主の居城 山形城
→記事へすすむ

山形城追記
出羽の虎将 最上義光
→記事へすすむ


お城巡りランキング
タグ:山形への旅
posted by Isuke at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

2021年12月04日

身を捨てて藩を守った若き家老 水野元宣 (山形市・豊烈神社)

藩主不在の山形藩で指揮をとり、責任を全て引き受けた家老の話です。

<水野元宣>みずのもとのぶ
Mizuno-Motonobu.JPG
山形城からの帰り道に立ち寄らせて頂きました

<豊烈神社境内>ほうれつじんじゃ
Horetsu-Shrine-Mizuno-Motonobu.JPG
場所は神社の境内です

水野元宣は幕末の山形藩の筆頭家老だった人物です。藩主の不在時に戊辰戦争に巻き込まれ、国元を預かる者として奮闘し、最後は奥羽越列藩同盟に参加した責任を負って処刑されました

<境内の説明板>
Mizuno-Motonobu-Guide-Plate.JPG
こちらに詳細が記されています。私は予備知識もなかったので、現地で非常に助かりました。少し長いので、まず冒頭を抜粋させて頂きます。
『水野三郎右エ門元宣は、天保十四年(1843)、遠州浜松に生れ藩主のお国替えにより弘化三年(1846)、四才のとき山形に移住し、二十二才の若さで家老職を継いだ。文武両道にすぐれ家中藩士の信頼を一身に集めた。』とのこと。
藩主と同族の家系ではありますが、若くして抜擢されたわけですね。当時の22歳ですから今とは覚悟も違うし、家柄からして特別な教育も受けていたとは思いますが、それでも若いですね。

説明文の続きを要約すると、明治維新の際には藩主が京都にいて不在だったため、首席家老となっていた26歳の元宣が、国元を仕切っていたようです。そして慶応4年(1868年)春、官軍が山形に迫ります。山形藩は、官軍の命に従って庄内征伐のため進撃することとなりました。庄内藩は石高でも武器の近代化でも山形藩を大幅に上回る強豪です。敗走となり、戦火は山形市街地の目前にまで迫りました。説明文には、この時元宣が『領民を救うため苦心惨憺身を挺して奔走し山形市民を兵火の災害から救った。』と記されています。また『山形藩は当初官軍についたが、薩長軍の参謀世良修蔵の横暴さに憤慨した仙台、米沢の両藩の呼びかけに応じ、東北各藩とともに奥羽同盟を結成し官軍に反抗することとなった。』とあります。つまり山形藩も東北諸藩の軍事同盟に加わったわけですね。しかし結果は官軍の勝利。明治政府から反逆の罪に問われますが、元宣は『山形藩の責任はすべて自分一人にあり』と申し出て、他の者には寛容の処置を求める嘆願書を提出したそうです。責任を一身に負った水野元宣は、長源寺庭において処刑されることとなりました(明治2年)。

山形藩と聞くと、江戸初期のかなり大きな藩を連想してしまいますが、江戸末期は全盛期の10分の1以下の五万石だったそうです。五万石は決して少ない石高ではないですが、仙台藩・会津他周辺の大きな藩には及びません。つまり発言力も及びません。説明文でも『官軍と隣接大藩との板ばさみにあい山形藩をいかに保全するか元宣の苦悩は大変なものであった』と記されています。自分の思いだけでは方針を決められなかった。しかし、明治政府から突き付けられた罪は一身に背負った。本当のリーダーだったのですね。説明文の後半には『山形市民の大恩人と称すべきである。』と記されています。

<豊烈神社>
Horetsu-Shrine-Yamagata.JPG
旧山形藩士達らが豊烈神社の分霊を勧請したことに始まります(1880年)。

豊烈神社とは、浜松城の城主だった水野忠邦が、城内に祖である水野忠元を祀ったことに始まる神社です。以降水野家の氏神とされてきました。水野家は古くから徳川家に仕えた譜代大名の一つ。そして水野忠邦といえば、老中にまでなった幕府の中核。天保の改革を思い浮かべる方も多いかと思います。この改革の失敗により忠邦は隠居し、家督を継いだ忠精(ただきよ)が藩主の時に、遠江浜松藩から出羽山形藩に移封となります(1845年)。この際に、豊烈神社も山形城へ移されました。
ちょっと話が長くなりますが、水野家は所領のつながりから下総山川(現在の茨城県結城市)と縁が深く、豊烈神社はその後下総山川に移されることになります。旧山形藩を思う元藩士たちの働きかけで、その分霊が勧請され、山形に再び豊烈神社が建立されました。

<由緒>
Guide-Plate-Horetsu-Shrine.JPG
御祭神として水野忠元、中興の祖・水野忠邦とともに『明治維新殉難者二十四柱』と記されています。そのなかに『水野三郎エ門元宣』も含まれています。身を捨てて藩を守った若き家老の霊は、ここにあると受け止めさせて頂きました。

<水野元宣像>
Watching-over.JPG
山形城跡のすぐ近くです。きっと今も山形城下を見守っているのですね。

■訪問:水野元宣像
(豊烈神社)
[山形県山形市桜町]7番

■参考及び出典
・現地説明板
 水野三郎右衛門像の記
 豊烈神社由緒



お城巡りランキング
posted by Isuke at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2021年11月30日

城用語 隅石(すみいし)

今回は石垣の話でよく耳にする隅石(すみいし)という言葉についてです。簡単に言えば、
石垣の面と面が出合う角に据え付けられた石のことです。

〈山形城の石垣〉
Stone-wall-corner.JPG
見事な石垣です。石を組み上げて作られた壁が石垣、角に位置する石を隅石といいます。『角石』と表記して、意味も読み方も同じように扱っている場合もあります。ただ、角石は厳密には『かくいし』と読み、四角い石材のことを指しています。

<山形城の説明板>
Guide-plate-Stone-wall.JPG
この説明板がきっかけで隅石をブログで紹介しようと思いました。冒頭を抜粋させて頂きます。

『隅石は石垣の角に使われる長方形の切石です。石垣は出隅を算木(隅石の交互積み)として高さに耐える構造とするほか、稜線部には「江戸切り」とよぶ先端を鋭利にみせる加工を施しています。』
とのこと。出隅(でずみ)は二つの面が出合う角の部分。算木(さんぎ)は縦横交互にという意味で受け止めて下さい。ここでは長方形の石を揃えて積むのではなく、長辺と短辺を交互に組み合わせて積むことが説明されています。稜線(りょうせん)は山でいうと尾根のことですので、この場合は石垣の角そのもののことですね。「江戸切り」はあまり耳にしない言葉ですが、石の面の仕上げ方の一種で、縁を平らにするのに対し、中央を少し高くして凹凸をつける手法のようです。これだと、石垣の角が尖っているように映りますね。

<算木積み>
corner-stone.JPG
算木積みは隅石の部分に使われる技法です。石が長辺と短辺を交互に組み合わせて積まれていることがわかりますね

説明文は山形城の一文字門の石垣に関する解説が続きますが、ここでは省略させて頂きます。文の後半に『隅石は石垣の要であり、石垣造りにおいて最も慎重さが必要だったと思われます』と記されています。まさにその通りで、隅石は石垣全体の強度がアップする重要ポイントとなります。

ちょっと当ブログで力学的な説明は難しいですが、熊本地震の直後、崩壊した熊本城の石垣で角に残った石が建物を支えていた光景は記憶に新しいですね。

石を積む技術は時代とともに進化していきましたので、訪れる城によって石垣の姿はまちまちです。算木積みが普及するのは関ヶ原の戦いより後と思われます。積み方だけでなく、石を切る技術の進化具合も影響しています。

<二の丸の石垣>
Yamagatajo-Ninomaru.JPG
こちらは山形城西門付近。隅石の稜線がシャープですね

ついでに

<隅石と隅脇石>すみわきいし
ishigaki-sumiishi.JPG
隅石の隣に寄り添うように供えられた石を隅脇石といいます。隅石とセットで、角を強固にする役割を担っています。

ということで

石垣は角が重要!
そこに積まれた石材を隅石という

というお話でした。

■撮影:山形城跡
 ( 霞城公園 )
[山形県山形市霞城町]

■参考及び出典
・現地説明板
・Wikipedia:2021/11/30



お城巡りランキング
タグ:城用語
posted by Isuke at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 城用語

城用語 雁木(がんぎ)

雁木(がんぎ)とは、塁の上へ昇り降りするための石段のことです。

<雁木>
Yamagata-Castle-5.JPG
山形城跡で撮影しました。近世城郭ではよく見かける光景ですね

まぁ石段で良いのですが、雁の群れが斜めに並んで飛んでいる時のようなギザギザの形からそのように呼ばれています。城に限らず、河原に降りる階段などにも使われる言葉です。

では城用語ではないではないか?

はい。城の専門用語ではありませんが、知っている方が城を楽しめるなぁと思ったものは、ちょっと解説を加えながらご紹介させて頂いております。

<説明板>
Gangi-Guide-Plate.JPG
冒頭の画像は山形城二ノ丸南大手門の雁木。土中に埋まっていましたが、発掘調査を経て復元されたようです。冒頭には『雁木とは、石垣や土塁に登るための石造りの階段です』としっかり記されています。これくらい丁寧に解説してくれると、お城の初心者でも城跡を楽しむことができますね。

ということで
雁木のご紹介でした。

Gangi.JPG

■撮影:山形城跡
 ( 霞城公園 )
[山形県山形市霞城町]

■参考及び出典
・現地説明板
・Wikipedia:2021/11/30



お城巡りランキング
posted by Isuke at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 城用語

2021年11月29日

城用語 石曳(いしひき)・修羅と呼ばれるソリ

今回は「石曳き」についてです。城用語に分類するのもちょっとヘンですが、石垣関連の話で時々耳にする言葉であることと、意味は何となく分かりながら、具体的な方法がイメージしにくいかと思い、あえて紹介させて頂きます。

では
いきなり説明板の絵図を

<石曳きの説明板>
Explanation-board-Ishihiki.JPG
こちらは山形城に展示される石曳きの絵図です。一目瞭然ですね。石垣に使用する石材を人の手でひいて運ぶ。だから石曳き石引き)。意味は言葉のままですね。問題は具体的な方法。絵図には、石材を木製のソリのような運搬具に乗せ、地面に敷いた丸太の上を滑らせている様子が描かれています。説明文によれば、このソリのような運搬具を「修羅」と呼ぶようです。

<展示されている修羅>
Exhibits-Ishihiki.JPG
修羅と呼ばれる運搬具です

運搬の方法は他にもあるかと思いますが、修羅による石曳きは結構メジャーな方法なのではないでしょうか。ちなみに、大きな石、つまり大石はタイシャクとも読めるため、これを帝釈天に例えて、対抗すべく修羅と名付けられたようです。

ということで
簡単ではありますが石曳きと修羅のご紹介でした。



<展示されている石材>
Stone-Exhibits.JPG
山形城への訪問は久しぶりです。以前はなかったと思いますが、かつての二ノ丸には石垣の石が展示され、石を割る方法やら矢穴・刻印といった城用語に関する説明がなされていました。

<石垣石の加工の説明>
Explanation-board- (1).JPG
こちらも絵図で分かりやすかったです。

<矢穴>やあな
2011米沢山形日帰り分 (61).JPG
矢穴とは、石を切り出す作業の都合で彫られた痕です。矢は弓矢の矢ではなくクサビのことです。

こういった工夫を凝らしてくれると、城の予備知識がなくても楽しむことができますね。人によっては、城に興味を持つきっかけになるかもしれません。いいですね。

今回はその一部を紹介させて頂きました。

■撮影:山形城跡
霞城公園二ノ丸広場
[山形県山形市霞城町]

■参考及び出典
・現地説明板
・Wikipedia:2021/11/29



お城巡りランキング
タグ:城用語
posted by Isuke at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 城用語
検索
記事ランキング
[アクセスランキング]
  1. 1. 上杉謙信の軍旗 毘沙門天と懸かり乱れ龍
  2. 2. 近世小田原城のなごり
  3. 3. 関東の連れ小便・政宗白装束の舞台 (石垣山城)
  4. 4. 刑場近くの橋のなごり 泪橋と思川
  5. 5. 金沢城のなごり
  6. 6. 火の玉不動 大宮宿の水路と刑場のなごり
  7. 7. 足柄城のなごり
  8. 8. 近藤勇ゆかりの地(米沢市)高国寺
  9. 9. 大石内蔵助 終焉の地 細川家下屋敷跡
  10. 10. 大多喜城のなごり
  11. 11. 高岡城のなごり
写真ギャラリー
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
Isukeさんの画像
Isuke
もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、てくてくと歩き始めた記録です。
プロフィール
X (Twitter) Twitter-Isuke.JPG Isuke@shirononagori
最新記事

お城巡りランキングに参加中 [参加させて頂いた雑誌]

アクティブライフ・シリーズ009 クルマで行く 山城さんぽ 100【電子書籍】[ 交通タイムス社 ]

[当サイトお勧め本]

小説 上杉鷹山 全一冊 (集英社文庫(日本)) [ 童門 冬二 ]


感想(39件)