街道の要衝に設けられた見附跡を訪ねました。
<浅草見附跡>
場所は浅草橋駅近く。神田川沿いです。いまでこそ石碑のみですが、かつては江戸城三十六見附の一つに数えられる見附が設けられていました。
<浅草橋>
こちらは神田川にかかる浅草橋です。冒頭の石碑は、この橋のたもとといっても良い場所に設置されています。石碑はちょっと地味で、足を止める人はほとんどいません。わざわざ写真を撮っている私の方が目立ってしまいました。
<現地説明板>
旧浅草橋と題した説明板です。見附と関係があるところを抜粋させて頂くと『江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見付といわれた。』とのこと。
この地は日本橋から北関東や東北地へ繋がる道筋でした。浅草観音方面も同じくここを経由したことから浅草御門と呼ばれたようです。そして警護のために人を配置。いかに重要な場所であったことが伝わってきますね。
その厳重さが裏目に出る悲劇もありました。江戸の大半を焼いたと伝わる明暦の大火(1657年)です。この時、囚人の逃亡を防ぐために門が閉められてしまい、避難しようとする一般庶民まで犠牲になるといったそうです。残念な事件ですね。
しかし浅草橋の交通の便の良さは変わりません。見附の周辺はその後も繁栄し、船宿などが建ち並ぶ賑やかな町であり続けたようです。
<現在の様子>
ということで
奥州街道(日光街道)が通る地点にあった浅草見附跡のお話でした
■訪問:浅草見附跡
(浅草見附跡碑)
[東京都台東区浅草橋]1-1
■参考及び出典
現地説明板『旧浅草橋』
Wikipedia:2022/7/31
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2022年07月31日
2022年07月30日
八幡太郎義家が戦勝祈願した丘(浅草橋)銀杏岡八幡神社
源義家ゆかりの神社を訪ねました。
<銀杏岡八幡神社>いちょうがおか
この地は、源義家が奥州平定へ向かう途上で、休憩のために陣を敷いた場所とされています。この時、義家は川上から流れついた銀杏の枝を、小高い丘だったこの地にさし、勝利を祈願したそうです。このこのとが、この地に鎮座する八幡さまへと繋がっていくわけですが、詳細については、東京都神社庁ホームページの説明を下記にそのまま転記させて頂きます。
『奥州征伐のため下向の折、当地で休憩中川上より銀杏の枝が流れてきた。義家公はその枝を丘の上にさし立て「朝敵退治のあかつきには枝葉栄うべし」と祈願した。奥州平定の後再びこの地に帰り至ったとき銀杏が大きく繁茂していたので公は神恩に感謝し太刀一振を捧げ、八幡宮を勧請したのが、康平五年(1062)で当社の創祀と伝える。』
大願成就ののち、感謝した源義家が武運の神である八幡神をこの地に勧請したことが、銀杏岡八幡神社の起源ということですね。創建が1062年。古い古い歴史の八幡さまです。この地が奥州へつながる古い街道沿いだったことを思えば、義家が行きも帰りも立ち寄ったのは自然なことです。社名の由来にもなった銀杏は大樹となって江戸時代まで存在していたようですが、大火で焼失し、現存はしていないそうです。
浅草橋駅東口を出てすぐです
賑やかな街中の神社ですが、鳥居をくぐると別世界
こぢんまりとした境内には凛とした空気が漂います
こちらは境内社の此葉(このは)稲荷神社
江戸時代、この地は福井藩松平家屋敷となり、神社はその邸内社となっていたとのこと。福井藩といえば、徳川家康の次男であり、武勇の誉れ高い結城秀康が藩祖ですね。そんな名門家の屋敷が長らくあったことも影響してか、この付近はかつて福井町と呼ばれていましたそうです。やがて福井藩の屋敷がなくなり、義家ゆかりの古い神社は地元の産土神、明治時代には村社にもなりました。
今でも浅草橋を代表する神社です
ということで
八幡太郎義家の戦勝祈願から始まる神社のご紹介でした。
■訪問:銀杏岡八幡神社
(銀杏八幡さま)
[東京都台東区浅草橋]1-29-11
■参考及び出典
東京都神社庁ホームページ
・銀杏岡八幡神社
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/taito/3131/
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<銀杏岡八幡神社>いちょうがおか
この地は、源義家が奥州平定へ向かう途上で、休憩のために陣を敷いた場所とされています。この時、義家は川上から流れついた銀杏の枝を、小高い丘だったこの地にさし、勝利を祈願したそうです。このこのとが、この地に鎮座する八幡さまへと繋がっていくわけですが、詳細については、東京都神社庁ホームページの説明を下記にそのまま転記させて頂きます。
『奥州征伐のため下向の折、当地で休憩中川上より銀杏の枝が流れてきた。義家公はその枝を丘の上にさし立て「朝敵退治のあかつきには枝葉栄うべし」と祈願した。奥州平定の後再びこの地に帰り至ったとき銀杏が大きく繁茂していたので公は神恩に感謝し太刀一振を捧げ、八幡宮を勧請したのが、康平五年(1062)で当社の創祀と伝える。』
大願成就ののち、感謝した源義家が武運の神である八幡神をこの地に勧請したことが、銀杏岡八幡神社の起源ということですね。創建が1062年。古い古い歴史の八幡さまです。この地が奥州へつながる古い街道沿いだったことを思えば、義家が行きも帰りも立ち寄ったのは自然なことです。社名の由来にもなった銀杏は大樹となって江戸時代まで存在していたようですが、大火で焼失し、現存はしていないそうです。
浅草橋駅東口を出てすぐです
賑やかな街中の神社ですが、鳥居をくぐると別世界
こぢんまりとした境内には凛とした空気が漂います
こちらは境内社の此葉(このは)稲荷神社
江戸時代、この地は福井藩松平家屋敷となり、神社はその邸内社となっていたとのこと。福井藩といえば、徳川家康の次男であり、武勇の誉れ高い結城秀康が藩祖ですね。そんな名門家の屋敷が長らくあったことも影響してか、この付近はかつて福井町と呼ばれていましたそうです。やがて福井藩の屋敷がなくなり、義家ゆかりの古い神社は地元の産土神、明治時代には村社にもなりました。
今でも浅草橋を代表する神社です
ということで
八幡太郎義家の戦勝祈願から始まる神社のご紹介でした。
■訪問:銀杏岡八幡神社
(銀杏八幡さま)
[東京都台東区浅草橋]1-29-11
■参考及び出典
東京都神社庁ホームページ
・銀杏岡八幡神社
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/taito/3131/
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2022年07月29日
浅草橋の福井町(台東区)福井松平藩邸のなごり
<石碑>
福井松平藩邸跡と刻まれています
この石碑は台東区浅草橋でみつけました。左側には福井中学校の文字。中学?そのなぞは石碑の下に記されている説明文ですぐに解けました。
こちらによれば『この地はかつて越前福井藩邸が置かれたことに由来して福井町と呼ばれ、明治35年に福井尋常小学校が置かれ』たとのこと。大正時代の関東大震災で木造校舎が全焼したり、昭和になって学び舎が復興されたりといった学校の歴史が紹介されています。昭和22年に福井中学校となり、平成3年に蔵前中学校との統合により閉校とのこと(ここに記載はありませんが、合併して浅草中学校となったようです)。そして、最後に校章と校歌が記されています。
この場所は、福井中学校跡地ということのようです。そして、古くは福井松平藩邸だった場所。藩邸は広範囲に及んだと思いますが、ここもその一部であったのでしょう。
説明文にもある通り、この付近は福井藩の江戸屋敷が置かれたことに由来して福井町と呼ばれていました。そう名付けられたのは江戸時代中期のようなので、地元にとっては、現在の浅草橋という住所名より、もしかしたら馴染み深い名前なのかもしれません(勝手な推定)。
福井藩といえば、徳川家康の次男であり、二代将軍秀忠の兄である結城秀康が藩祖です。秀康は名門結城家の養子となり結城を名乗りましたが、越前を与えられたのちに松平性に改め、越前松平家を興しました。越前松平家は御三家に次ぐ家格ということになりますが、秀康の石高は御三家より上です。幼少期から家康に冷遇されていたという話もありますが、やはり格別の扱いであったことは間違いないですね。
武勇の誉れも高い松平秀康が藩祖である福井藩の江戸屋敷がこの地にあった。昭和の住居表示の実施で福井町は浅草橋一丁目に編入となり消滅しましたが、板橋区に前田家の屋敷があったことで加賀という地名が残っているように、ここも何とか『福井』の名は残せませんでしたかね(これも勝手な意見)。
私は通りすがりのよそ者ではありますが、目にした石碑のおかげで、ここがかつて福井町と呼ばれていたことを知りました。伝えたいという思いが形となっていることで、その機会を得たことになります。
歴史を記してくれてありがとうございます
■訪問:福井松平藩邸跡
(区立福井中学校跡地)
[東京都台東区浅草橋]1丁目22
■参考及び抜粋
Wikipedia:2022/7/29
福井中学校跡地説明文
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福井松平藩邸跡と刻まれています
この石碑は台東区浅草橋でみつけました。左側には福井中学校の文字。中学?そのなぞは石碑の下に記されている説明文ですぐに解けました。
こちらによれば『この地はかつて越前福井藩邸が置かれたことに由来して福井町と呼ばれ、明治35年に福井尋常小学校が置かれ』たとのこと。大正時代の関東大震災で木造校舎が全焼したり、昭和になって学び舎が復興されたりといった学校の歴史が紹介されています。昭和22年に福井中学校となり、平成3年に蔵前中学校との統合により閉校とのこと(ここに記載はありませんが、合併して浅草中学校となったようです)。そして、最後に校章と校歌が記されています。
この場所は、福井中学校跡地ということのようです。そして、古くは福井松平藩邸だった場所。藩邸は広範囲に及んだと思いますが、ここもその一部であったのでしょう。
説明文にもある通り、この付近は福井藩の江戸屋敷が置かれたことに由来して福井町と呼ばれていました。そう名付けられたのは江戸時代中期のようなので、地元にとっては、現在の浅草橋という住所名より、もしかしたら馴染み深い名前なのかもしれません(勝手な推定)。
福井藩といえば、徳川家康の次男であり、二代将軍秀忠の兄である結城秀康が藩祖です。秀康は名門結城家の養子となり結城を名乗りましたが、越前を与えられたのちに松平性に改め、越前松平家を興しました。越前松平家は御三家に次ぐ家格ということになりますが、秀康の石高は御三家より上です。幼少期から家康に冷遇されていたという話もありますが、やはり格別の扱いであったことは間違いないですね。
武勇の誉れも高い松平秀康が藩祖である福井藩の江戸屋敷がこの地にあった。昭和の住居表示の実施で福井町は浅草橋一丁目に編入となり消滅しましたが、板橋区に前田家の屋敷があったことで加賀という地名が残っているように、ここも何とか『福井』の名は残せませんでしたかね(これも勝手な意見)。
私は通りすがりのよそ者ではありますが、目にした石碑のおかげで、ここがかつて福井町と呼ばれていたことを知りました。伝えたいという思いが形となっていることで、その機会を得たことになります。
歴史を記してくれてありがとうございます
■訪問:福井松平藩邸跡
(区立福井中学校跡地)
[東京都台東区浅草橋]1丁目22
■参考及び抜粋
Wikipedia:2022/7/29
福井中学校跡地説明文
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2022年07月26日
神田橋門のなごり(千代田区)高架下の石垣
今回は高速の高架下で見かけた石垣と江戸城の城門の話です。
<石垣>
城好きとしてはなんとなくいとおしい光景です
<神田橋>
場所は千代田区の神田橋付近。冒頭の画像は日本橋川に架かるこの橋の上から撮影しました。かつてここには神田橋御門と呼ばれる江戸城の門がありました。いわゆる江戸城三十六見附の一つです。
<橋の近く>
橋のすぐそばの小さな公園に千代田区による説明板が設置されていました。
<説明板>
説明文によれば、ここは『芝崎口門・神田口門・大炊殿橋門とも呼ばれ、将軍が上野の寛永寺に参詣に行くための御成道となるため、門の警備は厳重でした』とのこと。寛永寺は増上寺と並ぶ徳川家の菩提寺ですね。さらに、この道は将軍家が日光東照宮へ向かう時の通り道でもあったので、警備が厳しいは当然かもしれません。芝崎と神田は地名由来として、大炊殿橋門?これは土井大炊頭(おおいのかみ)の屋敷が近くにあったことと関係があるようです。古河藩主、そして大老にまでなった土井利勝のことです。
また『門は1629年(寛永6年)に下野真岡藩藩主稲葉正勝により構築され』たと記されています。稲葉正勝はのちに小田原藩主、そして老中を務めた大名です。母である春日局の方が有名ですかね?この縁もあり、正勝は幼少期より、のちに3代将軍となる徳川家光に仕えていました。
<説明板の地図>
神田橋は赤丸〇の位置です。日本橋川は下流で隅田川と合流するため、江戸城築城の際には、建築材料などの荷揚げが橋のすぐそばでおこなわれました。いかに重要な門であったか伝わってきます。あと、ちょっと話がそれますが、この地図は高低差が色分けされていて見やすいですね。平地の城と思われがちな江戸城ですが、実は山城であることが見てとれます。
<説明板の写真>
1871年(明治4年)の神田橋門。現地の説明文には『1873年(明治6年)に櫓門が撤去され』と記されていましたので、その直前の様子ということになります。「旧江戸城写真帖」とありますので、これは当時の写真師が絵師の協力を得て完成させたものです。少し筆が入っているのがわかりますね。
いまはこういった雰囲気は漂いませんが、橋は姿を変えて今でも現役であり、石垣の一部はそのまま残されています。
<高速の下>
首都高速道路の高架下であるため目立ちませんが
<日比谷通り>
日比谷通りの一部であり、重要な役割を担う橋です
<古い護岸>
<むかしの石垣>
いいですね
ということで
都市に埋もれている神田橋門のなごりのご紹介でした。
■訪問:神田橋
[千代田区大手町]1丁目
[ 〃 神田錦町]1丁目
■参考及び出典
現地説明板(千代田区)
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<石垣>
城好きとしてはなんとなくいとおしい光景です
<神田橋>
場所は千代田区の神田橋付近。冒頭の画像は日本橋川に架かるこの橋の上から撮影しました。かつてここには神田橋御門と呼ばれる江戸城の門がありました。いわゆる江戸城三十六見附の一つです。
<橋の近く>
橋のすぐそばの小さな公園に千代田区による説明板が設置されていました。
<説明板>
説明文によれば、ここは『芝崎口門・神田口門・大炊殿橋門とも呼ばれ、将軍が上野の寛永寺に参詣に行くための御成道となるため、門の警備は厳重でした』とのこと。寛永寺は増上寺と並ぶ徳川家の菩提寺ですね。さらに、この道は将軍家が日光東照宮へ向かう時の通り道でもあったので、警備が厳しいは当然かもしれません。芝崎と神田は地名由来として、大炊殿橋門?これは土井大炊頭(おおいのかみ)の屋敷が近くにあったことと関係があるようです。古河藩主、そして大老にまでなった土井利勝のことです。
また『門は1629年(寛永6年)に下野真岡藩藩主稲葉正勝により構築され』たと記されています。稲葉正勝はのちに小田原藩主、そして老中を務めた大名です。母である春日局の方が有名ですかね?この縁もあり、正勝は幼少期より、のちに3代将軍となる徳川家光に仕えていました。
<説明板の地図>
神田橋は赤丸〇の位置です。日本橋川は下流で隅田川と合流するため、江戸城築城の際には、建築材料などの荷揚げが橋のすぐそばでおこなわれました。いかに重要な門であったか伝わってきます。あと、ちょっと話がそれますが、この地図は高低差が色分けされていて見やすいですね。平地の城と思われがちな江戸城ですが、実は山城であることが見てとれます。
<説明板の写真>
1871年(明治4年)の神田橋門。現地の説明文には『1873年(明治6年)に櫓門が撤去され』と記されていましたので、その直前の様子ということになります。「旧江戸城写真帖」とありますので、これは当時の写真師が絵師の協力を得て完成させたものです。少し筆が入っているのがわかりますね。
いまはこういった雰囲気は漂いませんが、橋は姿を変えて今でも現役であり、石垣の一部はそのまま残されています。
<高速の下>
首都高速道路の高架下であるため目立ちませんが
<日比谷通り>
日比谷通りの一部であり、重要な役割を担う橋です
<古い護岸>
<むかしの石垣>
いいですね
ということで
都市に埋もれている神田橋門のなごりのご紹介でした。
■訪問:神田橋
[千代田区大手町]1丁目
[ 〃 神田錦町]1丁目
■参考及び出典
現地説明板(千代田区)
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2022年07月23日
新しくなった将門塚(大手町)
千代田区大手町の将門塚に久しぶりに訪問しました。
<将門塚碑>
ここは平安時代の豪族・平将門の首を祀っている場所です。都の指定旧跡となっています。
2021年4月にリニューアルしました。私の訪問は2022年7月ですが、普段からよく管理されているせいか、まだ新しい感じがします。
リニューアル前と比べると、やや重厚感のようなものが薄れた気もしますが、以前にも増して凛とした空気が漂います。手を合わせる人たちの真剣さが、なおさら私にそう思わせたのかもしれません。
一部の貴族が政治の中心だった千年以上前、国府を次々に追放して関東を制覇した平将門。
その天下はわずか2ケ月程度であったようですが、武芸をもって既存の秩序を打破した実績は、のちの時代に武士たちが切り開くことになる道筋とつながっています。
敗れた将門の首は、藤原秀郷により京都四条河原に晒されましたが、故郷である東国へ向かって飛んでいき、落下したのがこの地であると伝わります。
将門塚と呼ばれているだけあって、実際に塚があった時期もありましたが、旧大蔵省仮庁舎建設時に崩されてしまいました。将門には祟りの話がついてまわることが多く、工事の最中に当時の大蔵大臣が急死したり、官僚や工事関係が少なからず亡くなったことが話題となったそうです。
平将門の評価は、時代とともに大きく変わります。また、現在においても、どの視点で見るかで評価は大きく変わります。日本三大怨霊(ほかは菅原道真・崇徳天皇)に数えられたりもしますが、ではなぜ、いまだに多くの人がこの地を訪れるのでしょうか?
私は、前回訪問の時に現地で目にした『弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました』という神田明神さんによる説明文が忘れられません。
ということで
新しくなった将門塚のご紹介でした
■訪問:将門塚
(平将門の首塚)
[千代田区大手町]1-2-1
■参考及び出典
Wikipedia:2022/7/23
現地説明板(2019年時点)
お城巡りランキング
■当ブログ過去のご紹介
リニューアルする前に訪問した時の投稿です。良かったら覗いてみて下さい。
<画像>
タイトル:ビルの谷間の将門塚
投稿:2019年04月22
→『記事へすすむ』
<将門塚碑>
ここは平安時代の豪族・平将門の首を祀っている場所です。都の指定旧跡となっています。
2021年4月にリニューアルしました。私の訪問は2022年7月ですが、普段からよく管理されているせいか、まだ新しい感じがします。
リニューアル前と比べると、やや重厚感のようなものが薄れた気もしますが、以前にも増して凛とした空気が漂います。手を合わせる人たちの真剣さが、なおさら私にそう思わせたのかもしれません。
一部の貴族が政治の中心だった千年以上前、国府を次々に追放して関東を制覇した平将門。
その天下はわずか2ケ月程度であったようですが、武芸をもって既存の秩序を打破した実績は、のちの時代に武士たちが切り開くことになる道筋とつながっています。
敗れた将門の首は、藤原秀郷により京都四条河原に晒されましたが、故郷である東国へ向かって飛んでいき、落下したのがこの地であると伝わります。
将門塚と呼ばれているだけあって、実際に塚があった時期もありましたが、旧大蔵省仮庁舎建設時に崩されてしまいました。将門には祟りの話がついてまわることが多く、工事の最中に当時の大蔵大臣が急死したり、官僚や工事関係が少なからず亡くなったことが話題となったそうです。
平将門の評価は、時代とともに大きく変わります。また、現在においても、どの視点で見るかで評価は大きく変わります。日本三大怨霊(ほかは菅原道真・崇徳天皇)に数えられたりもしますが、ではなぜ、いまだに多くの人がこの地を訪れるのでしょうか?
私は、前回訪問の時に現地で目にした『弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました』という神田明神さんによる説明文が忘れられません。
ということで
新しくなった将門塚のご紹介でした
■訪問:将門塚
(平将門の首塚)
[千代田区大手町]1-2-1
■参考及び出典
Wikipedia:2022/7/23
現地説明板(2019年時点)
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■当ブログ過去のご紹介
リニューアルする前に訪問した時の投稿です。良かったら覗いてみて下さい。
<画像>
タイトル:ビルの谷間の将門塚
投稿:2019年04月22
→『記事へすすむ』
増上寺の土塀
<築地塀>ついじべい
こちらは芝増上寺の土塀です。土を厚く塗って固めた築地塀です
増上寺は何度も訪問していますが、壁に足を止めたのは初めてです。先日投稿させて頂いた熱田神社の「信長塀」を知ったことも影響しているのかもしれません。
こういった土壁は、江戸時代なら武家屋敷とか寺院などでよく見られたそうです。ただ明治以降は武家屋敷の多くが取り壊され、残った屋敷も震災や戦災の影響で姿を消しました。今となっては、街中でこういった塀を見られる場所は極めて少ないですね。増上寺は見どころが多いですが、当ブログがきっかけで土壁を眺める人がいたら嬉しいです。
ということで
増上寺の土壁のご紹介でした。
■訪問:増上寺
[東京都港区芝公園]4丁目
お城巡りランキング
■当ブログ過去記事のご紹介
下記は文中の『信長塀』に関する投稿です。良かったら覗いてみて下さい。
<信長塀>のぶながべい
投稿:2022年05月01日
→『記事へすすむ』
こちらは芝増上寺の土塀です。土を厚く塗って固めた築地塀です
増上寺は何度も訪問していますが、壁に足を止めたのは初めてです。先日投稿させて頂いた熱田神社の「信長塀」を知ったことも影響しているのかもしれません。
こういった土壁は、江戸時代なら武家屋敷とか寺院などでよく見られたそうです。ただ明治以降は武家屋敷の多くが取り壊され、残った屋敷も震災や戦災の影響で姿を消しました。今となっては、街中でこういった塀を見られる場所は極めて少ないですね。増上寺は見どころが多いですが、当ブログがきっかけで土壁を眺める人がいたら嬉しいです。
ということで
増上寺の土壁のご紹介でした。
■訪問:増上寺
[東京都港区芝公園]4丁目
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■当ブログ過去記事のご紹介
下記は文中の『信長塀』に関する投稿です。良かったら覗いてみて下さい。
<信長塀>のぶながべい
投稿:2022年05月01日
→『記事へすすむ』
2022年07月09日
菅谷北城のなごり(上尾市)
上尾市の土塁跡を訪ねました
<菅谷北城跡>
こちらです
ちょっとこれだけだと分かりにくいですが、発掘調査により、少なくとも三方向に土塁堀が巡らされていたと推定されています。ただ、現在は宅地化により、全体像を想像することは難しいです。
それでも要所要所に漂う城のなごり
堀跡か…?
土が盛ってあるような…
現地の地形からして、微高地に築かれた比較的小規模な城だったのでしょう
では
誰が何のために築いたのでしょうか
戦国時代に菅谷村を領した春日八郎行光の築城という説があります。素人なりに調べたものの、なかなか有効な情報源にたどり着かず、ここでは推定ということにしておきます。
ということで
宅地に漂う菅谷北城のなごりのご紹介でした。
<土塁のなごり>
-------■菅谷北城■-------
築城年:南北朝時代
築城者:詳細不明(春日行光)
城 主:詳細不明(春日氏)
廃 城:詳細不明
[埼玉県上尾市菅谷]2丁目
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<菅谷北城跡>
こちらです
ちょっとこれだけだと分かりにくいですが、発掘調査により、少なくとも三方向に土塁堀が巡らされていたと推定されています。ただ、現在は宅地化により、全体像を想像することは難しいです。
それでも要所要所に漂う城のなごり
堀跡か…?
土が盛ってあるような…
現地の地形からして、微高地に築かれた比較的小規模な城だったのでしょう
では
誰が何のために築いたのでしょうか
戦国時代に菅谷村を領した春日八郎行光の築城という説があります。素人なりに調べたものの、なかなか有効な情報源にたどり着かず、ここでは推定ということにしておきます。
ということで
宅地に漂う菅谷北城のなごりのご紹介でした。
<土塁のなごり>
-------■菅谷北城■-------
築城年:南北朝時代
築城者:詳細不明(春日行光)
城 主:詳細不明(春日氏)
廃 城:詳細不明
[埼玉県上尾市菅谷]2丁目
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北条時宗夫人・覚山尼ゆかりの寺(上尾市)少林寺
今回は城跡巡りの途中で立ち寄った歴史ある寺院の話です。
<少林寺山門>
<本堂>
臨済宗の寺院で、鎌倉の円覚寺の末寺です
上尾市のホームページには『同寺は江戸時代の初めに「門前村」という村名が生じたほどの大寺であり、鎌倉時代の正応元(1288)年創建という市域随一の古刹(こさつ)でもある。』とあります。同ページの情報によれば、開山は鎌倉の円覚寺第二世を務めた高僧・仏源禅師、開基は鎌倉幕府執権・北条時宗夫人の覚山尼(かくざんに)とのこと。覚山尼は縁切寺としても知られる鎌倉の東慶寺の開基ともいわれています。武家政権の中心地である当時の鎌倉と、深い関りのあった寺院ということですね。
<境内の様子>
歴史の古い少林寺ですが、幕末動乱期に火災で本堂他が焼失してしまいました。山門と鐘楼堂が難を免れ、いまに至るようです。
<四脚門>
上尾市指定文化財に指定されています
<鐘楼堂>
立派な佇まいです。嘉永年間に建立されたものを解体・修理して現在に至ります
ということで
幕府があった頃の鎌倉と深い関りのある少林寺のご紹介でした。拙ブログで魅力の全てはお伝えできませんが、雰囲気だけでも伝われば幸いです。
<県道沿い>
少林寺は県道上尾・久喜線沿いです。山門は少し奥まったところにあるため、こちらを目印にすると素通りせずにすみます。
おじゃま致しました
■訪問:少林寺
[埼玉県上尾市西門前] 399
■参考及び出典■
境内説明板(少林寺)
上尾市教育委員会ホームページ
>上尾の寺社3少林寺(西門前)
https://www.city.ageo.lg.jp/site/iinkai/064110110106.html
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<少林寺山門>
<本堂>
臨済宗の寺院で、鎌倉の円覚寺の末寺です
上尾市のホームページには『同寺は江戸時代の初めに「門前村」という村名が生じたほどの大寺であり、鎌倉時代の正応元(1288)年創建という市域随一の古刹(こさつ)でもある。』とあります。同ページの情報によれば、開山は鎌倉の円覚寺第二世を務めた高僧・仏源禅師、開基は鎌倉幕府執権・北条時宗夫人の覚山尼(かくざんに)とのこと。覚山尼は縁切寺としても知られる鎌倉の東慶寺の開基ともいわれています。武家政権の中心地である当時の鎌倉と、深い関りのあった寺院ということですね。
<境内の様子>
歴史の古い少林寺ですが、幕末動乱期に火災で本堂他が焼失してしまいました。山門と鐘楼堂が難を免れ、いまに至るようです。
<四脚門>
上尾市指定文化財に指定されています
<鐘楼堂>
立派な佇まいです。嘉永年間に建立されたものを解体・修理して現在に至ります
ということで
幕府があった頃の鎌倉と深い関りのある少林寺のご紹介でした。拙ブログで魅力の全てはお伝えできませんが、雰囲気だけでも伝われば幸いです。
<県道沿い>
少林寺は県道上尾・久喜線沿いです。山門は少し奥まったところにあるため、こちらを目印にすると素通りせずにすみます。
おじゃま致しました
■訪問:少林寺
[埼玉県上尾市西門前] 399
■参考及び出典■
境内説明板(少林寺)
上尾市教育委員会ホームページ
>上尾の寺社3少林寺(西門前)
https://www.city.ageo.lg.jp/site/iinkai/064110110106.html
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2022年07月03日
もうひとつの栗橋関所跡(日光街道)房川渡中田関所跡
日光街道の栗橋関所はじまりの地を訪ねました。
<中田御関所跡>
こちらです。場所は現在の古河市中田。関所はまずここに設けられ、のちに利根川対岸の栗橋に移されたそうです。
<説明板>
こちらに『房川渡と中田御関所跡』と題して詳細な説明が記されています。古河市教育委員会さんの文を以下に転記させて頂きます。
『江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から、大河川には橋をかけることを許さず、また、交通上の要地には関所を設けていた。当地は日光街道の重要地点で、街道中唯一の関所と渡船場の両方があったところである。
利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流れの部分を『房川』(理由は諸説あって不明)とよび、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。やがて、関所は対岸の栗橋側の水辺に移されたので、普通には、『栗橋の関所』の名で知られていた。
四人の番士が交代で、関所手形を改め、旅人や荷物を厳しく監視した関所は、明治2年(1869)の廃止令でなくされたが、二艘の渡し船と五艘の茶船を操る船頭たちによって、およそ40間(約70m)の流れを渡した渡船場の方は、大正13年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。』
関東平野にはたくさんの川がありますが、そこ横断する日光街道において、関所と渡船場が併設されていたのはここだけだったようです。利根川のうち、ここ中田と対岸の栗橋の間の流れを房川(ぼうせん)とよんだことから、渡船場は房川渡(ぼうせんのわたし)と呼ばれ、関所は渡とセットで房川渡中田関所と呼ばれていたと解釈しました。やがて関所は対岸の栗橋側に移されることになり、栗橋関所と呼ばれましたが、正式名称は房川渡中田御関所のままであったようです。いずれにせよ、江戸の北の守りを長きに渡って担った関所の始まりは、この地点だったわけです。
関所跡をかすめるこの道はそのまま旧中田宿のメインストリートになります
ということで
房川渡中田関所跡のご紹介でした
日光街道が利根川と交差する地点の関所はここから始まりました
■訪問:
房川渡中田関所跡
(房川渡と中田御関所跡)
[茨城県古河市中田]
■参考及び出典
現地説明板(古河市教育委員会)
お城巡りランキング
<中田御関所跡>
こちらです。場所は現在の古河市中田。関所はまずここに設けられ、のちに利根川対岸の栗橋に移されたそうです。
<説明板>
こちらに『房川渡と中田御関所跡』と題して詳細な説明が記されています。古河市教育委員会さんの文を以下に転記させて頂きます。
『江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から、大河川には橋をかけることを許さず、また、交通上の要地には関所を設けていた。当地は日光街道の重要地点で、街道中唯一の関所と渡船場の両方があったところである。
利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流れの部分を『房川』(理由は諸説あって不明)とよび、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。やがて、関所は対岸の栗橋側の水辺に移されたので、普通には、『栗橋の関所』の名で知られていた。
四人の番士が交代で、関所手形を改め、旅人や荷物を厳しく監視した関所は、明治2年(1869)の廃止令でなくされたが、二艘の渡し船と五艘の茶船を操る船頭たちによって、およそ40間(約70m)の流れを渡した渡船場の方は、大正13年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。』
関東平野にはたくさんの川がありますが、そこ横断する日光街道において、関所と渡船場が併設されていたのはここだけだったようです。利根川のうち、ここ中田と対岸の栗橋の間の流れを房川(ぼうせん)とよんだことから、渡船場は房川渡(ぼうせんのわたし)と呼ばれ、関所は渡とセットで房川渡中田関所と呼ばれていたと解釈しました。やがて関所は対岸の栗橋側に移されることになり、栗橋関所と呼ばれましたが、正式名称は房川渡中田御関所のままであったようです。いずれにせよ、江戸の北の守りを長きに渡って担った関所の始まりは、この地点だったわけです。
関所跡をかすめるこの道はそのまま旧中田宿のメインストリートになります
ということで
房川渡中田関所跡のご紹介でした
日光街道が利根川と交差する地点の関所はここから始まりました
■訪問:
房川渡中田関所跡
(房川渡と中田御関所跡)
[茨城県古河市中田]
■参考及び出典
現地説明板(古河市教育委員会)
お城巡りランキング
タグ:日光街道
利根川橋を歩いて渡る(日光街道)房川に架かる橋
<利根川橋>
利根川に架かる利根川橋です。そのままですね。今回はそこを歩いて渡ってみたというだけのお話です。
この日は埼玉県久喜市の栗橋関所跡を訪問しました。満足しかけた時、現地でのネット検索で、利根川を渡った先にも関所跡があることを知り、橋を渡ることとなりました。
<利根川>
ここは埼玉と茨城の県堺
橋を渡る途中
欄干に備えつけられたレリーフに足が止まりました
<埼玉県の県の鳥>
シラコバトか
私は埼玉県民なので、県の鳥がシラコバトであることは知っています。この橋は埼玉と茨城を結ぶ橋ですので、次に現れるであろう光景に少しだけ期待が膨らみました。長い橋をただ歩いているだけです。普通なら気にもとめないことが、ちょっとした楽しみに感じられました。
県境付近
そして
<茨城県の県の鳥>
やはりあったか
予想通り。ただ、茨城の県の鳥がヒバリということは知りませんでした
利根川のこの付近、つまり埼玉県久喜市と茨城県古河市の間の流れは、かつて房川(ぼうせん)と呼ばれていました。江戸時代には軍事的な意味から橋が架けられなかったため、房川には渡船場が設けられました。そして、人の出入りを監視する関所も。関所は江戸時代を通して栗橋宿(現在の久喜市)側にありましたが、最初は対岸の中田宿(古河市)側にあり、房川渡中田関所と呼ばれていたそうです。
<中田宿へ続く道>
利根川橋を渡ってすぐに左折すると、目的地が見えてきました。道が折れ曲がったところが関所跡です。このご紹介は次の投稿にします。
ということで
かつての栗橋宿と中田宿の間に架かる橋を、歩いて渡ってみたというだけのお話でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。
■訪問:利根川橋
[埼玉県久喜市栗橋北]
[茨城県古河市中田]
利根川に架かる利根川橋です。そのままですね。今回はそこを歩いて渡ってみたというだけのお話です。
この日は埼玉県久喜市の栗橋関所跡を訪問しました。満足しかけた時、現地でのネット検索で、利根川を渡った先にも関所跡があることを知り、橋を渡ることとなりました。
<利根川>
ここは埼玉と茨城の県堺
橋を渡る途中
欄干に備えつけられたレリーフに足が止まりました
<埼玉県の県の鳥>
シラコバトか
私は埼玉県民なので、県の鳥がシラコバトであることは知っています。この橋は埼玉と茨城を結ぶ橋ですので、次に現れるであろう光景に少しだけ期待が膨らみました。長い橋をただ歩いているだけです。普通なら気にもとめないことが、ちょっとした楽しみに感じられました。
県境付近
そして
<茨城県の県の鳥>
やはりあったか
予想通り。ただ、茨城の県の鳥がヒバリということは知りませんでした
利根川のこの付近、つまり埼玉県久喜市と茨城県古河市の間の流れは、かつて房川(ぼうせん)と呼ばれていました。江戸時代には軍事的な意味から橋が架けられなかったため、房川には渡船場が設けられました。そして、人の出入りを監視する関所も。関所は江戸時代を通して栗橋宿(現在の久喜市)側にありましたが、最初は対岸の中田宿(古河市)側にあり、房川渡中田関所と呼ばれていたそうです。
<中田宿へ続く道>
利根川橋を渡ってすぐに左折すると、目的地が見えてきました。道が折れ曲がったところが関所跡です。このご紹介は次の投稿にします。
ということで
かつての栗橋宿と中田宿の間に架かる橋を、歩いて渡ってみたというだけのお話でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。
■訪問:利根川橋
[埼玉県久喜市栗橋北]
[茨城県古河市中田]
タグ:日光街道