2020年02月02日

荒子城のなごり 前田利家・慶次 傾奇者ゆかりの城

つわものどもが夢の跡
今回は誰もが知っている戦国武将が、若き日を過ごした城跡の話です。
<前田利家卿御誕生之遺址>
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こちらは前田利家生誕地を示す巨大な石碑です。ここは名古屋市中川区。前田利家が生まれた場所といわれています。

■荒子城■ あらこじょう
加賀百万石で知られる前田家も、もともとは尾張の地元豪族。今回の訪問地は、そんな時代に築かれた前田家の居城跡です。築城者は前田利昌(利春)。前田利家の父です。織田家に仕えて荒子の地を与えられ、城を築きました(1544年)。

<富士権現社>荒子城跡
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荒子城の鎮守とされたと伝わります。右手の標柱には「冨士大権現 天満天神宮」と刻まれています。現在の正式名は冨士天満社。

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御祭神は木花開耶姫命、菅原道真

城跡といっても、遺構は残されていません。そもそも平らな土地で、城として地の利があったとは言い難い場所です。文献によれば、平地に柵と堀を巡らしたシンプルな構造だったようなので、屋敷に近いものだったのかもしれませんね。

とはいえあの前田家が拠点とした場所。それだけで来た甲斐はあります。ちなみに、荒子という地名には、開墾まもない田という意味があったようです。


■前田利家ゆかりの地■
前田利昌が亡くなると、まず長男の利久が荒子城主を継ぎました。これは順当ですね。ただ利久はあまり体が丈夫な方ではなく、更に実子がなかったことから、織田信長は利家に前田家の当主となることを命じます。利家は四男ですが、この頃既に信長の下で活躍が認められていたからでしょう。主君の命により、利家は自身が生まれた城の城主となりました。

<石碑と説明板>
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<説明板>
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のちに大出世する利家が、初めて一城の主となった場所ということですね。

<荒子観音山門>仁王門
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荒子城跡近くの荒子観音です。1576年に前田利家によって本堂が再建され、この時に前田利家自身の甲冑も寄贈しているそうです。


■前田慶次ゆかりの城■
『花の慶次』のファンです。荒子城もちょっと関係しているので、触れさせて頂きます。
●前田慶次郎利益●とします
利家の兄である利久は、家督を継いだ際に妻の実家である滝川氏(信長の重臣・滝川一益の一族)から、利益を養子に迎えています。この人物こそ、いわゆる『花の慶次』の前田慶次郎利益ですね。異風を好む傾奇者(かぶきもの)として描かれる慶次が、当時どのような暮らしぶりだったかは分かりませんが、ここ荒子城で過ごしたことは間違いありません。つまり、この地は前田慶次にとってもゆかりの地ということになります。

義理の叔父にあたる前田利家は、『花の慶次』ではちょっと情けないオジサン武将として登場しますが、若いころは派手好みで喧嘩早い傾奇者だったそうです。そう考えると、『花の慶次』における二人の関係は、生涯傾奇者の慶次と、変わってしまった元傾奇者の利家という構図なわけですね。

●奥村助右衛門●
ちなみにですが、その当時の前田家の家老は奥村永福。一般的にはマイナーな武将かも知れませんが、『花の慶次』では助右衛門の名で気骨ある武将として描かれ、慶次の親友とされています。奥村永福は利久に仕えて荒子城の城代を務めていました。信長の命で荒子城が利家のものとなっても、利久の指示があるまで城は渡せないとして抵抗したそうです。主の指示で城を明け渡すと、浪人する道を選びました。(のちに帰参し、前田家のために再び奮闘します)。

■廃城■
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前田利家が1575年に越前国府中(福井県越前市)に移り、続いて利家の長男・利長も1581年に越前に移ったことで、荒子城は廃城となったようです。


■つわものどもが夢の跡■
前田慶次や奥村助右衛門にまで言及させて頂きましたが、やはり荒子城と言えばこの男で締めた方が良いですね。
<前田又左衞門利家>またざえもんとしいえ
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荒子駅前ロータリーの前田利家像です。槍の又左と呼ばれた利家らしい姿です。

<利家とまつ>
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まつもここで幼少期を過ごしています

利家は15歳で織田信長に仕え、赤母衣衆の一員に抜擢され頭角を現します。短気なところもあり、出奔して浪人となった時期もありますが、信長の許しもないまま勝手に桶狭間の戦いに参戦して活躍し、帰参を許されています。利家が兄に代わって荒子城主となるのは、その直後のことでした。まだ傾奇者だった頃ですね。

------■荒子城■------
築城主:前田利昌
築城年: 1544年
城 主:前田利昌
   利久・利家・利長
廃城年:1581年頃
現 況:富士権現社(天満天神宮)
[愛知県名古屋市中川区荒子]4


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2020年01月26日

蛇行する荒川のなごりと水塚に鎮座する村の鎮守(浮間ヶ池と浮間氷川神社)

今回は川のなごりです。荒川の蛇行のなごりを感じに北区を散策してきました。
<浮間氷川神社>
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荒川流域に多く分布する氷川神社。かつての荒川はこの付近で大きく蛇行し、周辺に広がる湿地はたび重なる洪水に悩まされていました。村の鎮守であり続けたこちらの氷川神社は、盛土の上に鎮座しています。

■川のなごり■
<浮間舟渡駅>うきまふなど
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今回下車した駅は埼京線の浮間舟渡駅です。駅名は地名の浮間舟渡を合わせたもので、更に細かいことをいうと浮間は北区で舟渡は板橋区。つまり区にまたがった場所に位置する駅なのです。この一見どうでも良い話が、荒川のかつての蛇行と関係しています。

<区境>
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下車して目的地へ向かう途中、道路を撮影。工事の管轄が違うからでしょうか。区境に線が入っています。向こうに見えている池も、この線の延長線上が北区と板橋区の境になります。

<浮間公園>
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目的地到着。といっても改札を出てから徒歩1分です。

<浮間ヶ池>
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この大きな池がかつての荒川のなごり。蛇行する荒川はかつてここを流れていました。そのままなら、川がかつての村境、そして区と区の境だったわけですね。
ところで、いろんな野鳥がいることで有名な公園ですが、なんとカモメが沢山いるではないですか。海からはけっこう離れていますがね。荒川沿いを内陸へ向かって移動してきたのでしょうか?ちょっと不思議な光景でした。

<風車>
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風車はこの公園のシンボル的な存在です。花も見応えがある公園なのですが、私の訪問は1月下旬のためちょっと地味に映りますかね。私の関心事は花より左手の土塁。これは昔の堤防をそのまま残したのでしょうか?調べたもののはっきりしないので、勝手にそう思うことにしました。

<説明板>
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ちょっと疲れた説明板ですが、充分読み取れます。浮間ヶ池が荒川の一部だったこと、現在の荒川は公園北側の土手の向こう側を流れていることなどが記載されています。洪水が多かったようですね。この対策として着手された流路変更の大工事は、明治44年から昭和5年にかけて行われたようです。

<別な説明板>
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こちらは別の説明板の地図。昭和3年とありますから、改修工事の途中の地図ということですね。大きく南に蛇行していた荒川の流路が、北側で直線に変えられているのがわかります。『浮間』の名は、川に突き出た地形が浮島のように映ったことに由来します。地図を見る限り、まさにそんな感じだったのでしょう。お隣の『舟渡』も水辺を思わせる名。地名は貴重な手がかりですね。

<公園北側>
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公園の北側は荒川の堤防になっています。

<堤防>
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高いなぁ。まぁせっかくだから登ってみますかね

<荒川>
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堤防の上です。昔の荒川は幅が狭いうえに蛇行が多かったようですが、今は幅広でまっすぐ。川の向こうに見えてるのは川口市の高層ビルです。この巨大な堤防により遮断され、浮間ヶ池が再び荒川と交じり合うことはありません。


■低湿地のなごり■
工事前は荒川の氾濫に悩まされた浮間。いまでは湿地の面影もありませんが、冒頭にご紹介の神社にそのなごりを確認し、今回の探索の締めとしました。
<浮間氷川神社鳥居>
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創建時期は不詳ながら、江戸時代には浮間村の鎮守だったと伝わります。

洪水の多い低地では、周辺より高く盛土をして倉など設けておく水塚(みづか)の跡をみかけることがあります。ここ浮間の鎮守は、水塚の上に鎮座しています。

<浮間氷川神社拝殿>
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水害が多かったであろう村の神社です。想像ですが、緊急時には避難場所にもなっていたのかもしれませんね。

ということで
荒川の古い流路とかつての湿地を散策したというお話でした。最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。


■訪問:
浮間公園〔浮間ヶ池〕
[東京都北区浮間]2丁目
[東京都板橋区舟渡]2丁目

浮間氷川神社
[東京都北区浮間]2丁目19-6


-----追 記-----

桜の時期に再訪した浮間公園の画像を貼っておきます。

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地元の人たちの憩いの場です

2020年01月13日

榎下城のなごり(横浜市)舊城寺

つわものどもが夢の跡
横浜市の城跡を訪ねました

<榎下城跡>えのしたじょう
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■榎下城の縄張り■
いわゆる舌状台地の先端を利用して築かれた山城です。最も高い位置に本丸を設け、その南と北に曲輪を配置し、周囲を空堀が廻らす構造になっています。城跡は現在寺院となっています。

<現地到着>
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あまり予習しないで訪問したので、立派な山門にやや躊躇しました。高野山真言宗の寺院です。

<舊城寺>きゅうじょうじ
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恥ずかしながら舊が読めず。ようするに『旧』の旧字体ですね。つまり旧城寺。とりあえず、古くは城だった寺と受け止め、山門をくぐりました。奥の本堂も立派ですが、城跡として訪問しているので、右手に見えている土塁のせいで足早になりました。

<説明板>
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入ってすぐの土塁の前に説明板があります。冒頭でご紹介した城の立地とともに、この土塁がいわゆる食い違い虎口のなごりであることが記載されています。歴史についても触れられいますが、それは後述するとして、縄張り図が分りやすく、しばし凝視しました。

<縄張り>
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いま私がいるのは右手の入り口付近。本丸より一段低い曲輪にいるわけですね。つまり舊城寺の山門と本堂は、かつての二の丸ということになります。そして外側の谷になっているところには空堀が設けられていた。なるほどです。これはシンプルで分かり易い。

大筋分かれば、あとそれを感じながら歩き回るだけ

<外側>
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まず城の外側ですが、あの道もかつての堀跡ですね

<高低差>
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一旦境内を出て、外を探索することにしました

<堀跡>
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堀のなごり。住宅地の舗装された道ではありますが、そこは想像で補う

再び境内へ

<土塁跡>
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土塁のなごり

<高低差>
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曲輪と曲輪の高低差

<弓道道>
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こちらは本丸へ進むとすぐに現れる現役の弓道場。本丸の西側部分です。

<竹林>
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本丸の奥の方(北側)まで進むと竹林になっています。この付近が城で最も高い位置。更に進むとまた谷状になっており、下った先は縄張り図にもあった北側の曲輪(的場)です。ただし、既に宅地となっているようなので、探索はここまでです。

<本丸跡>
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■榎下城と宅間上杉氏■
榎下城は宅間上杉氏憲清によって築かれたと考えられています。宅間上杉氏は山内上杉氏や扇谷上杉氏などと同様に上杉氏の諸家のひとつで、相模国を基盤に勢力を拡大しました。

鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に始まる永享の乱(1438年~1439年)に際しては、上杉憲清の子・憲直鎌倉公方に味方して榎下城を守りますが、関東管領側に攻められ、城から退いたあとも追い討ちをかけられ自害に追い込まれています。上杉憲直以降の城主については、あまりよく分かっていないようです。

その後の宅間上杉氏は勢いを失い、やがては小田原北条氏の傘下に組み込まれることになります。榎下城は小田原北条氏配下の小机城の支城として利用されることになりました。つまり、少なくとも戦国末期までは城として機能していたわけですね。

■つわものどもが夢の跡■
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1590年の秀吉による小田原征伐ののち、小机城は廃城となっています。ここ榎下城もその頃に城としての役割を終えたと考えられます。戦乱の世が終息へ向った江戸時代初期、城跡は舊城寺となりました。

------■榎下城■------
別 名:久保城
築城主:上杉憲清(宅間上杉氏)
築城年:詳細不明(室町時代)
城 主:宅間上杉氏
廃城年:詳細不明(1600年前後)
現 況:舊城寺
[神奈川県横浜市緑区三保町]


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2020年01月05日

樹齢千年の道しるべ 与野の大カヤ

今回は旧与野市の巨木の話です。

<与野の大カヤ>よののおおかや
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国の天然記念物に指定されいます。住宅地のこじんまりとした敷地内であることから、全体を撮影するのも一苦労です。

<説明板>
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高さは21.5mです。根回りは13mもあります。そして推定樹齢1000年。風雪にさらされながら、ずっとこの地で生きてきたわけですね。凄い生命力です。

<妙行寺金毘羅堂>
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ここは妙行寺金毘羅堂の境内です。

■旅人の道しるべ■
今回訪問の妙行寺金毘羅堂は、むかしなら低湿地がひろがっていたであろうエリアの台地上に位置しています。簡単に言えば目立つ場所です。そこに更に高々とそびえ立つカヤの木。さいたま市のホームページからそのまま転記させて頂くと『旅人のよき道標であったと伝えられています。』とのこと。なんとなく納得できる話です。現地の説明板にも記されていますが、平安時代中期植えられ『室町時代の応永年間(1394年から1427年)には、既に関東随一の巨木として知られいました』とのこと。[情報:さいたま市ホームページ]

長い間、旅人の道しるべだったということですね。

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周辺は関東平野の低地です。天に伸びた巨木は遥か遠くからも見えたことでしょう

道しるべはただ方角を示すためだけでなく、歩んできた道が間違いでないことを知らせてくれるもの。この巨木を見て、どれだけたくさんの旅人が安堵したしょうか。自分が方向音痴なためか、とても頼もしく感じました。

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■訪問:与野の大カヤ
(妙行寺金毘羅堂)
[埼玉県さいたま市中央区鈴谷]4

2020年01月04日

江戸へ繋がる塩の道 平井の渡し跡

今回は中川の渡し場の話です。

<平井の渡しの説明板>
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冒頭だけ抜粋すると『平井の渡しは、行徳道が下平井村で中川を渡る渡船場でした。対岸は葛西川村でした。』とのこと。

<江戸名所図会>
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平井聖天宮(正式名は燈明寺)とともに中川、そして平井の渡しも描かれています。

■平井の渡し■
中川(現在の旧中川)を船で渡るための渡し場です。江戸と下総(千葉県)の行徳を繋ぐ道筋が中川と交差する地点に設けられました。平井の渡しから東南に下り、今井の渡しで江戸川を渡ることで行徳へと繋がっていたようです。 この道筋は行徳道と呼ばれ、人の往来もさることながら、物資輸送の重要なインフラでした。特に江戸初期においては、行徳塩の重要な輸送路だったと考えられています。

■行徳の塩■
行徳は関東屈指の塩の産地。行徳の塩田で作られる塩は行徳塩と呼ばれ、小田原北条氏が関東覇者の時代には既に製塩が行なわれていました。北条氏滅亡後、関東に入った徳川家康は行徳を自身の所領(天領)に組み込みます。当時は当然のようにまだ戦国時代の緊張感が続いています。この雰囲気を背景に、家康は自力で塩を調達できることに拘ったのでしょう。塩は軍用第一の品とまで言っています。新たな居城・江戸城での籠城戦をも想定し、領内での塩の確保のため、行徳の塩業を保護しました。その大切な塩を、江戸まで運ぶ輸送路が平井の渡しを含む行徳道だったわけです。いわば塩の道でもあったわけです。

■塩の道■
海から内陸へ塩が運ばれる道のことを「塩の道」と呼んだりしますね。塩作りを海辺の塩田に頼っていた時代には、海と山を結ぶ塩の道は重要な役割を担っていました。全国各地にあるなかで、有名なところでは新潟の糸魚川と長野の松本をつなぐ千国街道(ちくにかいどう)でしょう。上杉謙信の「敵に塩を送る」は、まさにこの道筋を経由して武田信玄に塩を送った逸話です。『義』を重んじる謙信らしい美談で、好きな逸話です。

逸話と言ってしまってからなんですが、内陸の武田が、駿河の今川と相模の北条の同盟で海側から遮断されていたことは事実です。謙信が塩を送ったことが逸話だとしても、今川・北条が武田にとっての塩の道を断つことはありえなくはない話です。人質として今川で過ごした経験のある徳川家康が、この時期に「塩の道」の大切さを肌で感じたなんてこともありえますよね?更には、家康は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣していますので、兵糧が断たれる北条側の痛みも思い知ったことでしょう。そういう意味で、行徳と江戸を繋ぐ行徳道、そして川を渡るための平井の渡しも、関東へ入ったばかりの家康が強く意識するインフラだったのではないでしょうか?!(ちょっと私個人の主観が入っています)

■その後■
やがて江戸城下には水路が整備され、行徳・江戸間には航路も開かれたそうです。そうなってくると、塩の道も多様化しますね。平井の渡しが、いつくらいまで塩の道として重宝されたのか、ちょっとわかりません。それでも、川がある限り、渡しを経由した人や物資の行き来は続きます。当時はまだ、中川や江戸川に橋を架けることは許されていませんでした。やがて明治になり、渡し場の東側に平井橋が架けられたことで、平井の渡しは役割を終えたそうです。

<現在の様子>
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現地で出会ったのは、冒頭の説明板と現在の中川だけです。それでも、歴史の一部に触れることができ、更には勝手に想像して楽しむこともできました。塩の道ほかについて、素人の個人的な見解が入っていますので、その点はご了承ください。 ただ、当ブログがヒントになって、似たような感覚で川を眺める人がいたら嬉しいです。

■訪問:平井の渡し跡
[東京都江戸川区平井]

2020年01月03日

道灌が橋を架けたと伝わる場所(台東区)橋場

つわものどもが夢の跡
太田道灌進軍ルートの途上で橋を架けたと伝わる台東区橋場。地名そのものに期待が高まり、年末の寒い時期にも関わらず足を運びました。

■橋場と隅田川■はしば
<白鬚橋>しらひげばし
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この辺りですかね

画像は隅田川に架かる白髭橋です。昔から橋があったわけではなく、この付近に渡し、つまり渡船場がありました。

ここは武蔵と下総の境目。下総の千葉氏と争うことになった道灌は、軍事的な理由でこの付近の隅田川(古利根川)に橋を架けたと伝わります。そして、それがこの地が橋場と呼ばれる理由。そう聞くと、橋場という地名自体に惚れ込んでしまいそうです。いいですね!

名門・千葉氏は、内紛により宗家が追い出されるに至り、武蔵に逃れた嫡流の兄弟(武蔵千葉氏)は道灌を頼りました。道灌は本来宗家であるべき武蔵千葉氏を味方につけて、下総の千葉氏と対立。境界線に橋を架けたとしたら、きっとその時期でしょう。

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隅田川の対岸を見つめ、ひとり妄想しました。何の先入観もなければ、川向うは普通に墨田区です。

<説明板>
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近くで説明板も発見。荒川区教育委員会さんによる橋場の渡しに関する説明です。荒川区?実は白鬚橋のたもとは、台東区橋場と荒川区南千住の境でもあります。

『対岸の墨田区寺島とを結ぶ, 約160メートルの渡しで, 「白髭の渡し」ともいわれていた。
『江戸名所図会』に依ると, 古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ, 『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。 しかし, 渡しの位置は, 幾度か移動したらしく, はっきりしていない。
大正3年(1914)に白髭木橋が架けられるまで, 多くの人々に利用された。』

[出典:荒川区教育委員会]

ん?そうですか・・・

在原業平が舟で川を渡ったことは記されていますが、太田道灌のことは特に触れられていないのですね。まぁ在原業平ですから平安時代のお話として、江戸時代よりずっと以前から、人はこの付近にあった渡しを使って向こう岸を目指したということは実感できました。それはすなわち、古くからここへ繋がる道があったということでしょう。道灌もその道を通ったのですかね。

さて
いつものように「とりあえず行ってみた」ものの、現地での情報はここまででした。念のため帰宅してから調べ直すと、期待していたのとは違う情報をみつけてしまいました。

それは
橋を架けたのは太田道灌ではなく、源頼朝だというお話です。しかも橋そのものを架けたのではなく、数千の船を浮かべて「船の橋」を架けたというものでした。そして、それこそが橋場の地名の由来であるとのこと。

これにはちょっと困惑しました。ただ、冷静に受け止めてみると、それはそれで面白い話ですよね。数千はおおげさとしても、船を並べて橋の代わりとする話はよく耳にします。軍を率いる源頼朝がそれをやった。なるほど・・・

まぁ道灌であろうと頼朝であろうと、進軍がきっかけで、この地に橋場という名が残ったことに変わりがありません。

どっちもありかな

ちょっといい加減ですが、どちらの話も魅力的なので、その程度で納得しました。


■橋場探索■
せっかくなので周辺も散策しました。一番印象的だった橋場不動尊をご紹介します。
<山門>
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砂尾山と不動院の文字。一般には橋場不動尊の名で親しまれていますが、正式名は砂尾山橋場寺不動院といいます。760年に寂昇上人によって開山されたとのこと。

<不動院本堂>
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浅草寺の末寺を経て現在は比叡山延暦寺末とのこと。ご本尊は不動明王です。智恵により煩悩を絶ち切る道を示してくれる不動明王。煩悩だらけという負い目からか、境内にいる時だけは神妙な気持ちになりました。

<七福神>
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年末年始だからでしょうか?それともいつもこんな感じなのでしょうか?勢ぞろいしています

ここは浅草七福神巡りのうち布袋さまも祀られているところ。この地の七福神巡りは歴史は古く、江戸時代には既に行われていたようです。普通なら7社ですが、福禄人と寿老人が2社ずつのため計9ヶ所になるそうです。

<御授地蔵尊>
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地蔵尊の右手前には百度石。百日詣の代わりに、山門などとの間を百度往復して願い事を叶える時の目印というか、標識として立てられている石のことですね。

簡単で恐縮ですが以上です


つわものどもが夢の跡
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現在の橋の名は向う岸の白鬚神社に因むものです

私は道灌ゆかりの地?という理由だけで訪問を決めましたが、仮に源頼朝に由来するとしても、橋場という名は兵を率いる武将が川を渡ろうとしたなごり。それだけで充分です。奥深い寺院とも出会えましたので、満足な訪問となりました。

■訪問
●白髭橋
[台東区 橋場]2丁目
[荒川区南千住]3丁目
●橋場不動尊
(砂尾山橋場寺不動院)
[台東区橋場]2丁目


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2020年01月02日

太田資長のなごり お正月の静勝寺にて

当ブログに何度も登場している北区の稲付城跡。赤羽駅から近いので、時々訪問しています。何度も行ってしまう理由は、やはりそこが太田道灌ゆかりの地だからでしょう。本日(2020年1月2日)は比較的暖かい日でしたので、赤羽散歩も兼てまた訪問してきました。

<太田道灌堂>
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道灌が築城したと伝わる稲付城跡は現在は静勝寺となっており、境内には太田道灌の坐像が納められた御堂があります。いつもは扉が閉じていますが、お正月と毎月27日には開かれ、道灌像と対面することができます。

実は昨年の今日、まったく同じことをして、静勝寺をご紹介させて頂いてます。簡単な説明ではありますが、よかったら覗いてみて下さい。
タイトル
静勝寺の太田道灌堂
→『記事へすすむ

そこでも触れさせて頂きましたが、ここはもともとは道灌寺と呼ばれていました。名前そのままですね。その方が人気も出そうですが、現在の名である静勝寺の静勝は、道灌の戒名にちなんだ名なので、意味としては同じということになります。そもそも、私を含め大半の方は道灌という名に慣れ親しんでいますが、これも法名で、元の名は太田資長(すけなが)です。

時々思うのですが、父は太田資清(すけきよ)で嫡男は資康(すけやす)、子孫も代々にわたって通字の「」を用いているので、道灌も最初から太田資長とインプットしておけば都合が良かったのかもしれません。何の都合?理由は?これはもう個人的な事情ですが、好きな武将の一人でありながら、 私はスケナガという名がとっさに出ません。いまさらもう馴染めないのです。歴史の専門の方々に笑われそうですが、素人の感覚としてお許し下さい。

<静勝寺山門>
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年末は寒い日が続いていましたが、令和二年のお正月は元日、そして今日も穏やかな日でした。来年のお正月にまた来れるかどうかわかりませんが、とりあえず本年が良い年となりますことを祈願して『太田資長』ゆかりの寺をあとにしました。

■訪問
自得山静勝寺
(稲付城跡)
[北区赤羽西]1-21-17


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上杉謙信の軍旗 毘沙門天と懸かり乱れ龍

今回は戦国最強の武将と言われる上杉謙信の軍旗についてです。

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毘・龍の文字。見覚えがある方もおおいのではないでしょうか。毘は文字として分りやすいとして、流れるような字体の龍は「懸かり乱れ龍」と言われています。「毘」はご推察の通り、毘沙門天を表しています。そして「龍」ですが、これはいわゆる龍ではなく、不動明王を表しています。

■毘沙門天■
毘沙門天は別名で多聞天。仏法を守る四天王の一人として呼ぶ場合は多聞天、単独で呼ぶ場合は毘沙門天とするのが一般的です。北方の守護神、そして戦の神様。いかにも越後の上杉謙信らしいですね。謙信が毘沙門天を深く崇拝していたことはとても有名な話です。

■不動明王■
さて、一方の不動明王ですが、まず『正しい智恵により迷いの世界から煩悩を絶ち切る道を示してくれる神』と受け止めて良いかと思います。仏像の多くが穏やかな姿をしているのに対し、不動明王は龍が巻きついた剣を持ち、恐ろしい表情をしている場合が多いですね。闘神?まぁ戦う姿ではあると思いますが、仏の道に導き救済することありきであって、そのために悪を絶つ姿をされていると受け止めたいと思います。

ざっくりではありますが、個別の旗が意味するところはそんな感じです。ここでちょっと興味深い点は、毘と龍の軍旗は常に対で掲げられていたことでしょうか。各々に充分な意味が込められていると思われます。しかし、上杉謙信にとってはセットでなければいけなかった。諸説あるようですが、私にはなるほどと思えるものがなく、いまだに謎を抱えたままです。

<米沢城址>松が岬公園
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こちらは米沢城本丸跡への入り口、そして上杉謙信を祀る上杉神社の参道でもあります。いつ訪れても、左右に掲げられた毘と龍の軍旗が出迎えてくれます。

この毘と龍の軍旗、実は上杉軍が総攻撃を仕掛ける時にだけ本陣に掲げられたと伝わります。ちょっと別な見方をすれば、全軍が総がかりで敵と激突する場面というのはそうそうあるものではないので、戦場に毘・龍の旗がたなびくことは滅多になっかたのかもしれませんね。

<上杉家御廟所>うえすぎけごびょうしょ
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謙信は米沢藩歴代当主たちとともにここにいます。


■訪問:米沢城本丸跡
[山形県米沢市丸の内]

   :上杉家廟所
[山形県米沢市御廟]
posted by Isuke at 21:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

2020年01月01日

鷹山が向き合った上杉家の氏神 春日神社

今回は米沢市の春日神社と上杉鷹山の話です。
<春日神社>
shirononagori401k.jpg
場所は上杉神社の向かって左手になります。謙信を祀った上杉神社と比較して地味ではありますが、春日明神は上杉家の氏神であり、歴代米沢藩主、特に上杉鷹山が熱心に信仰しました。

shirononagori401j.jpg
スケールより、この凛とした姿が印象的です。

■創建■
上杉謙信が大和の春日大社より分霊して越後の春日山城に創設したことに始まります。謙信(当時は長尾影虎)が名を継ぐことになった上杉家は藤原家の家系で、その藤原家の氏神が春日神だったことが背景にあるようです。謙信本人はのちに改宗していますが、謙信亡き後、上杉家は越後から会津を経てここ米沢へ移ることになり、これにともなって春日神社も米沢へ移されました。当初、同じく越後から米沢へ移った林泉寺の境内に鎮座していたそうです。

■春日明神と鷹山■
米沢藩の財政難を立て直すことになる上杉鷹山(治憲)は、藩主となる際、決意表明を記した誓詞を春日神社に奉納しました。その内容は

民の父母の心構えを第一とする
学問・武術を怠らない
質素・倹約を忘れぬ
賞罰は正しく行う

この誓詞は鷹山が亡くなっただいぶあと、林泉寺の火災がきっかけで公になったそうです。つまり、政治家が民に対して掲げる公約ではなく、人知れず己に課したことです。

神社でお願い事をする人の話をよく耳にしますが、私個人にあまりそういう感覚が無く、どちらかというと「ありがとうございます」とか、感謝を伝えるだけです。しかし上杉鷹山の場合は、そのどちらでもないようです。自分がなすべきことを誓う。その証人となってもらう。そんな場なのだと感じました。

上杉鷹山は養子です。親戚関係ではありますが、いわばよそ者です。

よそ者が名門上杉家を継ぐ

挑む覚悟の証として、敢えて上杉家の氏神に宣言をしたのかも知れませんね。

■訪問:春日神社
[山形県米沢市丸の内]


(補足)
当ブログは平凡な会社員が思うことを記しているだけです。なるべく下調べなどもしておりますが、所詮は素人ですので、内容の不適切はご容赦下さい。宜しくお願い致します。

為せば成る 名君といわれる鷹山からのメッセージ

<松が岬公園の鷹山像>
shirononagori400 (2).JPG

為せば成る
為さねば成らぬ何事も


広く知られた上杉鷹山の言葉です。どなたでも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。ただこの言葉、実は続きにこそ深い意味が込められています。

為せば成る
為さねば成らぬ何事も
成らぬは人の為さぬなりけり

つまり『ことが実現しないのは、人が成し得ようとしないからだ』とも受け止められます。名君といわれる鷹山の言葉、実は結構厳しいメッセージですね。もっと極端な言い方をすると『実は本気でやってないんだろ?』くらいにも感じられます。冒頭の『為せば成る』は、やればなんとかなるといった軽いものではなく、覚悟してことにあたれば成し得るという強い意味なのですね。

強くあらねばと思う時、励みになる名言です。

■ゆかりの地訪問記■
以下は昨年の年末年始に連続してご紹介した上杉鷹山ゆかりの地です。私と同じく、童門冬二さんの小説『上杉鷹山』に感銘を受けたという友人と二人で、米沢を旅した時の記録です。ご興味のあるところだけでも、覗いて頂けたら嬉しいです。

@米沢藩上杉家跡記事へすすむ 
sirononagori169 (2).jpg
改革は江戸屋敷から始まりました

A晩秋の米沢城記事へすすむ
sirononagori170yozan (1).jpg
米沢藩は破産寸前でした

B籍田の碑記事へすすむ
sirononagori171Yozan.jpg
苦難続きの農民たちを励ましました

C白子神社記事へすすむ
sirononagori172shirako (1).jpg
神罰を受ける覚悟でした

D原方衆屋敷跡記事へすすむ
sirononagori173 (1).JPG
半農の下級武士とともに歩みました

E山中の塩田跡記事へすすむ
sirononagori174onogawa (1).jpg
多くの経済政策を試みました

F普門院記事へすすむ
sirononagori175Yozan (2).jpg
鷹山にも師と仰ぐ人がいました

G餐霞館跡記事へすすむ
sirononagori170yozan (2).jpg
隠居してからも戦いました

H上杉顕孝の廟記事へすすむ
sn177uesugike (2).jpg
悲しみを背負って生きました

I松岬神社記事へすすむ
sirononagori178Yozan.jpg
中興の祖として祀られています

以上です
最後に鷹山を尊敬した大統領の話を

■ケネディが尊敬した日本人■
かつてジョン・F・ケネディ大統領が、日本人記者から「もっとも尊敬する日本人は?」と聞かれ、鷹山の名前を挙げたという話はよく知られています。時を経て、駐日米大使となった長女のキャロライン・ケネディが山形県米沢市を訪問しています。

shirononagori400 (1).JPG
大使からのメッセージが記されています。以下に言葉を抜粋します。
『父が敬愛していた上杉鷹山は、領民に対し力を尽くし、教育に献身し、そして、一人一人に世の中を良くする力があるという信念を貫いたリーダーです。』
(中略)
『父は「人は一人でも世の中を変えることができる、皆やってみるべきだ」とよく言っておりました。しかし、鷹山ほど端的にそれを言い表した人はいません。「なせばなる」と・・・。』



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■参考本
上杉鷹山
[著者:童門冬二]

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もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、てくてくと歩き始めた記録です。
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