つわものどもが夢の跡
新田義貞率いる軍勢が鎌倉幕府軍と激突した古戦場を訪問しました。
<久米川古戦場碑>くめがわ
■新田義貞の挙兵■
1333年(元弘3年)、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞は、鎌倉幕府を倒すべく上野国で挙兵しました。当初は少人数だったものの、鎌倉に向けて南下するほど人数は増え続け、利根川に至ったところで既に7千騎だったと言われています。各地の武士の心は、既に幕府から離れていた証拠ですね。打倒幕府の口火を切ったのが新田義貞でした。
■現地訪問■
最寄り駅は西武鉄道の東村山。駅を出てまずは伝説となったヒーローにご挨拶
<志村けん銅像>
新型コロナウイルスのため急逝した志村けんさん。背後のコメントの通りです。ありがとうございました。
続いて現地へ向かう途中に通った道
<旧鎌倉古道>
この何気ない道は古道だったようです。鎌倉街道に沿って南下した新田義貞も通った道かもしれません
<勝陣場橋>かつじんばばし
いい名前の橋ですね
<将陣場橋>しょうじんばばし
こんな橋も
<諏訪神社>
地名の由来となった神社です
<丘陵地帯>
ここまで平らな道を歩いてきましたが、低層の山が見えてきました。古戦場跡の石碑まであと少しです。
<久米川古戦場跡>
目的地に到着です。公園の隅に石碑と説明板が設置されています。
<説明板>
一部を抜粋させて頂きます(『』内は原文転記)。
まず『北川と前川の合流するこの地域の低地と狭山丘陵東端の八国山の麓一帯を鎌倉時代には久米川宿といっていた』とのこと。そして『上野国(群馬県)と鎌倉を結ぶ政治的にも経済的にも重要な交通路であった鎌倉街道上の道の主要な宿駅であった』と記されていいます。群馬で挙兵し、鎌倉を目指す新田軍にとって、この地は通るべくして通った場所ということですね。
新田義貞率いる軍が利根川を越えたところで、足利尊氏の嫡子である千寿王が合流します。こういう言い方もなんですが、足利家は当時の新田家より明らかに格上です。有力者の加勢によりますます兵が集まり、新田軍は数万規模になったとされています。
これを迎撃したい幕府軍は、現在の所沢市北野(手指ヶ原)で新田軍と激突しますが敗退。
今回訪問の東村山市諏訪で、再び新田軍に襲い掛かりました。新田軍は奇襲に失敗して苦戦となりましたが、高台に陣を構えて態勢を整えます。
<八国山>
八国山は狭山丘陵の東端に位置し、東村山市と所沢市にまたがる山です。説明板の表現をそのまま引用させて頂くと『駿河(富士)、伊豆(天城山)、相模(箱根・大山)、甲斐(多波山)、信濃(浅間)、上野(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)、の八か国の山』が見渡せたことが名の由来となっています。
新田軍は高低差を味方につけたわけですね。地理的優位を背景に、新田軍の反撃が始まりました。鎌倉幕府軍の激しい抵抗にあいましたが、最後は新田軍が攻めきり、ここでの勝負を決めました。
久米川の戦い
反幕府軍である新田軍の勝利です
これにより、反鎌倉幕府の機運はますます高まりました。次の戦いの場となる分倍河原(府中市)で、鎌倉幕府は実質滅亡しています。
<八国山登山道>
登ってみました
<低層の山中>
森の道を更に奥へ
<将軍塚>
新田義貞ゆかりの将軍塚です。元々ここにあった塚に義貞が旗を立てたことから、将軍塚と呼ばれるようになったといわれています。
鎌倉幕府を倒すことを目標に掲げた新田義貞にとって、久米川の戦いはまだまだ夢の途上での出来事です。最終的には幕府の本隊を滅ぼすことになりますが、この地で勝利を得た夜、どんな思いで次に備えていたのでしょうね。
<将軍塚の石碑>
つわものどもが夢の跡
■訪問:
久米川古戦場碑
[東京都東村山市諏訪町]
将軍塚
[埼玉県所沢市松が丘]
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■参考
現地説明文(東京都教育委員会)
Wikipedia:2024/2/10
2024年02月10日
徳蔵寺塁(東村山市)
東村山市の久米川古戦場跡を訪問した際、すぐ近くに砦跡と関係がありそうな場所があることを知り、足を伸ばしてみました。
<徳蔵寺山門>とくぞうじ
こちらです。住宅地に毅然と佇む山門
事前に調べることもなく、地図に記されていた徳蔵寺塁跡という文字だけが頼りの訪問です。素人の勝手な想像として、塁とつく以上は何らかの痕跡が残されているであろうと…
<高低差>
結論を言うと、徳蔵寺さんの境内及び周辺を探索しましたが、多少の高低差を実感できるのみでした。
<徳蔵寺橋と前川>まえかわ
周辺はすっかり住宅地となり、川も水路のようにコンクリで固められています。ただ、むかしはこの川沿いに低湿地が続き、右手(現在の徳蔵寺)の微高地が浮き島のようになっていたのかもしれませんね。
帰宅してから調べてみると、新田義貞ゆかりの城砦があった、あるいは義貞が戦勝祈願をしたという話を目にしました。しかし出典などが分からず、私としては曖昧なまま終了となりました。
ということで
城跡巡りとしては以上です。
せっかく立派なお寺さんなお邪魔させて頂いたので、迷惑にならない程度にご紹介だけせて頂きます。
<徳蔵寺>
長い歴史を誇る臨済宗大徳寺派の寺院です。創立は永禄3年(1560)、開山年は元和年中(1615〜1623)と伝わる由緒正しい寺院です。
<板碑保存館>
隣接するこの近代的な建物も徳蔵寺の一部です。国の重要文化財を含め、なんと150を越える板碑が保存されています。ホームページからして、新田義貞にゆかりがありそうな印象でしたが、素人会社員が下手な解釈をするのはやめておきます。参考として、徳蔵寺さんのホームページのリンクを下に貼っておきますので、より深く知りたい方はそちらを参考にお願い致します。
拙ブログにお付き合い頂きありがとうございました。
■訪問:徳蔵寺塁
[東京都東村山市諏訪町]1丁目
お城巡りランキング
■参考
・徳蔵寺HP
http://www.tokuzo-ji.com/about/
・城郭図鑑
「板倉屋敷」
http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/012tokyo/159itakura/itakura.html
<徳蔵寺山門>とくぞうじ
こちらです。住宅地に毅然と佇む山門
事前に調べることもなく、地図に記されていた徳蔵寺塁跡という文字だけが頼りの訪問です。素人の勝手な想像として、塁とつく以上は何らかの痕跡が残されているであろうと…
<高低差>
結論を言うと、徳蔵寺さんの境内及び周辺を探索しましたが、多少の高低差を実感できるのみでした。
<徳蔵寺橋と前川>まえかわ
周辺はすっかり住宅地となり、川も水路のようにコンクリで固められています。ただ、むかしはこの川沿いに低湿地が続き、右手(現在の徳蔵寺)の微高地が浮き島のようになっていたのかもしれませんね。
帰宅してから調べてみると、新田義貞ゆかりの城砦があった、あるいは義貞が戦勝祈願をしたという話を目にしました。しかし出典などが分からず、私としては曖昧なまま終了となりました。
ということで
城跡巡りとしては以上です。
せっかく立派なお寺さんなお邪魔させて頂いたので、迷惑にならない程度にご紹介だけせて頂きます。
<徳蔵寺>
長い歴史を誇る臨済宗大徳寺派の寺院です。創立は永禄3年(1560)、開山年は元和年中(1615〜1623)と伝わる由緒正しい寺院です。
<板碑保存館>
隣接するこの近代的な建物も徳蔵寺の一部です。国の重要文化財を含め、なんと150を越える板碑が保存されています。ホームページからして、新田義貞にゆかりがありそうな印象でしたが、素人会社員が下手な解釈をするのはやめておきます。参考として、徳蔵寺さんのホームページのリンクを下に貼っておきますので、より深く知りたい方はそちらを参考にお願い致します。
拙ブログにお付き合い頂きありがとうございました。
■訪問:徳蔵寺塁
[東京都東村山市諏訪町]1丁目
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■参考
・徳蔵寺HP
http://www.tokuzo-ji.com/about/
・城郭図鑑
「板倉屋敷」
http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/012tokyo/159itakura/itakura.html
勝陣場橋(東村山市)古戦場に架かる橋
<勝陣場橋>かつじんばばし
東村山市と所沢市の境を流れる北川に架かる橋です。戦に勝利した軍勢が通ったと伝わる橋です
ここは久米川古戦場跡のすぐ近く。鎌倉幕府を倒すために挙兵した新田義貞の軍勢が、これを阻止せんとする幕府軍と激突した場所です。結果は新田軍の勝利。橋の名は新田義貞にちなんだ呼び名ということになりますね。
<久米川古戦場碑>
この日の目的地です。古戦場碑と説明板が設置されています。古戦場そのものはこの周辺一帯であるといわていますので、先ほどの橋の付近も古戦場と…言えなくもない。
<古戦場跡の橋>
古戦場に架かる橋。せっかく来たので、そう思うことにしました。この付近には他にも将陣場橋、軍勢が勢揃いしたことに由来する勢揃橋があります。いかにも古戦場らしいネーミングですね。
以上です。
歴史素人の会社員ブログですので、その程度に受け止めて頂きますようお願い致します。
■訪問:勝陣場橋
[東京都東村山市久米川町]5
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■参考
・徳蔵寺HP
http://www.tokuzo-ji.com/highlight/
・東京の橋
https://www.djq.jp/bridge_liblary/river_maekita/tokyo_bridge_kita029_katsujinba.php
東村山市と所沢市の境を流れる北川に架かる橋です。戦に勝利した軍勢が通ったと伝わる橋です
ここは久米川古戦場跡のすぐ近く。鎌倉幕府を倒すために挙兵した新田義貞の軍勢が、これを阻止せんとする幕府軍と激突した場所です。結果は新田軍の勝利。橋の名は新田義貞にちなんだ呼び名ということになりますね。
<久米川古戦場碑>
この日の目的地です。古戦場碑と説明板が設置されています。古戦場そのものはこの周辺一帯であるといわていますので、先ほどの橋の付近も古戦場と…言えなくもない。
<古戦場跡の橋>
古戦場に架かる橋。せっかく来たので、そう思うことにしました。この付近には他にも将陣場橋、軍勢が勢揃いしたことに由来する勢揃橋があります。いかにも古戦場らしいネーミングですね。
以上です。
歴史素人の会社員ブログですので、その程度に受け止めて頂きますようお願い致します。
■訪問:勝陣場橋
[東京都東村山市久米川町]5
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■参考
・徳蔵寺HP
http://www.tokuzo-ji.com/highlight/
・東京の橋
https://www.djq.jp/bridge_liblary/river_maekita/tokyo_bridge_kita029_katsujinba.php
2024年02月03日
いざ鎌倉への道(東村山市)鎌倉古街道跡
所沢市の古戦場へ向かう途中で、こんな標柱に足が止まりました。
<標柱>
何となく嬉しい標柱でした。この日は、上州から鎌倉街道を南下して鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞を意識しての訪問だったので。
<古道>
東村山駅付近(南側)から府中街道を北上すると、こんな光景が目に入ります。この付近までは右側の道路(府中街道)が鎌倉街道ということになりますが、ここから先は左手の細い道になります。先ほどの標柱もここを入ってすぐのところで撮影しました。
関東統治のため、鎌倉幕府は諸国と鎌倉を結ぶ街道を整備しました。そのうちのひとつ、鎌倉街道上道(かみつみち)は、武蔵国をひたすら北上するように整備された街道です。その通過点である東村山でも、南北に貫くように道が通っています。
<鎌倉古街道>
鎌倉からみれば北上する道ですが、鎌倉へ向かう側にしてみれば南下する道ですね。そのまま新田軍の進軍ルートとなりました。幕府のめだてはなく、幕府を倒すためとなりましたが「いざ鎌倉」への道です。
当たり前のことですが、この時代の関東の中心は小田原でも江戸でもなく、鎌倉なんですよね。
■訪問:鎌倉古街道跡
[東京都東村山市本町]2丁目
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<標柱>
何となく嬉しい標柱でした。この日は、上州から鎌倉街道を南下して鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞を意識しての訪問だったので。
<古道>
東村山駅付近(南側)から府中街道を北上すると、こんな光景が目に入ります。この付近までは右側の道路(府中街道)が鎌倉街道ということになりますが、ここから先は左手の細い道になります。先ほどの標柱もここを入ってすぐのところで撮影しました。
関東統治のため、鎌倉幕府は諸国と鎌倉を結ぶ街道を整備しました。そのうちのひとつ、鎌倉街道上道(かみつみち)は、武蔵国をひたすら北上するように整備された街道です。その通過点である東村山でも、南北に貫くように道が通っています。
<鎌倉古街道>
鎌倉からみれば北上する道ですが、鎌倉へ向かう側にしてみれば南下する道ですね。そのまま新田軍の進軍ルートとなりました。幕府のめだてはなく、幕府を倒すためとなりましたが「いざ鎌倉」への道です。
当たり前のことですが、この時代の関東の中心は小田原でも江戸でもなく、鎌倉なんですよね。
■訪問:鎌倉古街道跡
[東京都東村山市本町]2丁目
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タグ:鎌倉街道
東京の大坂(北区)岩槻街道から板橋街道への抜け道
北区の赤羽駅近くを歩いていたら、こんな坂道と出会いました。
<大坂>おおさか
大坂…東京の北区で?
<標柱>
標柱に説明が記されています。そのまま抜粋させて頂きます。
『この坂は、赤羽駅西口から赤羽台団地へ登る坂で、古くから往来の多い坂です。昔は、赤羽から上の台に登り、旧板橋街道に抜ける坂でした。大坂の名は、その昔「小坂」と呼ばれた清瀧不動の石段に対するものとして付けられました。ここは、狸にまつわる民話が残っているところで、狸坂とも呼ばれます。また政右衛門坂と呼ぶ人もいます。』
小坂と呼ばれた石段に対して、大坂と呼ばれたわけですね納得。いわゆる大阪とは無関係でした。清瀧不動の石段がどこを指すのか分かりませんでしたが、きっとそう遠くないところだったのでしょう。
そして
この坂は旧板橋街道に抜ける道とのこと。私が歩いていたのは中世の岩槻街道です。江戸時代に、将軍が日光に参拝する時に使った街道(日光御成道)でもあります。今回見つけた急な坂道は、そこからそれて板橋街道へ抜ける道ということのようです。
板橋といえば中山道の宿場ですね。板橋街道の正確な道筋がわかりませんが、岩槻街道と板橋宿のある中山道を結ぶ外環道的な街道だったのでしょう。大坂はそこへつながる坂道。わざわざ赤羽の台地を登っていくわけですから、近道だったと受け止めることにしました。
それと
狸にまつわる民話から狸坂とも呼ばれるとのこと。
<坂の途中の稲荷神社>
狐は見つけましたが、狸と縁のありそうなものは見当たりませんでした。狐も狸もむかしは人の暮らしのそばにいた動物。どんな民話なのでしょうね。調べましたが分かりませんでした。政右衛門さんは名前からして侍と思われますが、こちらも手がかりがなく、分かりませんでした。
ということで
中途半端ではありますが、昔の岩槻街道を歩いていたら、脇に急勾配の坂道を見つけ、そこが古くからある板橋街道に抜ける脇道だったというお話でした。拙いブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。
<古道の坂道>
きっと人の行き来の多い坂道だったのでしょう
■訪問:大坂
(別名:狸坂 政右衛門坂)
[東京都北区赤羽西]1丁目
■出典
現地標柱説明文
(東京都北区教育委員会)
<大坂>おおさか
大坂…東京の北区で?
<標柱>
標柱に説明が記されています。そのまま抜粋させて頂きます。
『この坂は、赤羽駅西口から赤羽台団地へ登る坂で、古くから往来の多い坂です。昔は、赤羽から上の台に登り、旧板橋街道に抜ける坂でした。大坂の名は、その昔「小坂」と呼ばれた清瀧不動の石段に対するものとして付けられました。ここは、狸にまつわる民話が残っているところで、狸坂とも呼ばれます。また政右衛門坂と呼ぶ人もいます。』
小坂と呼ばれた石段に対して、大坂と呼ばれたわけですね納得。いわゆる大阪とは無関係でした。清瀧不動の石段がどこを指すのか分かりませんでしたが、きっとそう遠くないところだったのでしょう。
そして
この坂は旧板橋街道に抜ける道とのこと。私が歩いていたのは中世の岩槻街道です。江戸時代に、将軍が日光に参拝する時に使った街道(日光御成道)でもあります。今回見つけた急な坂道は、そこからそれて板橋街道へ抜ける道ということのようです。
板橋といえば中山道の宿場ですね。板橋街道の正確な道筋がわかりませんが、岩槻街道と板橋宿のある中山道を結ぶ外環道的な街道だったのでしょう。大坂はそこへつながる坂道。わざわざ赤羽の台地を登っていくわけですから、近道だったと受け止めることにしました。
それと
狸にまつわる民話から狸坂とも呼ばれるとのこと。
<坂の途中の稲荷神社>
狐は見つけましたが、狸と縁のありそうなものは見当たりませんでした。狐も狸もむかしは人の暮らしのそばにいた動物。どんな民話なのでしょうね。調べましたが分かりませんでした。政右衛門さんは名前からして侍と思われますが、こちらも手がかりがなく、分かりませんでした。
ということで
中途半端ではありますが、昔の岩槻街道を歩いていたら、脇に急勾配の坂道を見つけ、そこが古くからある板橋街道に抜ける脇道だったというお話でした。拙いブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。
<古道の坂道>
きっと人の行き来の多い坂道だったのでしょう
■訪問:大坂
(別名:狸坂 政右衛門坂)
[東京都北区赤羽西]1丁目
■出典
現地標柱説明文
(東京都北区教育委員会)
タグ:岩槻街道
駅からすぐの武家屋敷の門(武蔵浦和駅)細淵家住宅長屋門
武蔵浦和駅近くに有形文化財の長屋門があると聞いて訪問してみました。
<細淵家住宅長屋門>ほそぶちけ
市街地に突然現れる重厚な長屋門。国登録有形文化財に指定されています。長屋門とは江戸時代の城郭や屋敷などでよくみられる門の形式。この長屋門も、江戸時代の武家屋敷のものだそうです。
さいたま市のHPによれば、明治期にこの地に移築されたそうです。向かって右側には潜り戸、番所を持ち、左側は納屋につながっているとのこと。歴史的価値の高い門です。
<豪邸>
あくまで門を見に来ましたが、敷地の広さに愕然としました。ちょっと一般人からは遠い世界。もともとこの地域の豪農、笹目領沼影村名主の家柄のようです。
<現地>
現地はJR武蔵浦和駅西口から徒歩3分程度です。御屋敷は駅前から続く田島通りに面していますが、門はこの路地を入った右手になります。
<個人の家>
あくまで個人宅です。見て良いのは外観のみ。敷地の外といっても、マナーは守って見学しましょう!
■訪問:細淵家住宅長屋門
[埼玉県さいたま市南区沼影]1丁目
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■参考
さいたま市HP
「文化財紹介 細淵家住宅長屋門」
https://www.city.saitama.lg.jp/004/005/006/001/016/p002493.html
<細淵家住宅長屋門>ほそぶちけ
市街地に突然現れる重厚な長屋門。国登録有形文化財に指定されています。長屋門とは江戸時代の城郭や屋敷などでよくみられる門の形式。この長屋門も、江戸時代の武家屋敷のものだそうです。
さいたま市のHPによれば、明治期にこの地に移築されたそうです。向かって右側には潜り戸、番所を持ち、左側は納屋につながっているとのこと。歴史的価値の高い門です。
<豪邸>
あくまで門を見に来ましたが、敷地の広さに愕然としました。ちょっと一般人からは遠い世界。もともとこの地域の豪農、笹目領沼影村名主の家柄のようです。
<現地>
現地はJR武蔵浦和駅西口から徒歩3分程度です。御屋敷は駅前から続く田島通りに面していますが、門はこの路地を入った右手になります。
<個人の家>
あくまで個人宅です。見て良いのは外観のみ。敷地の外といっても、マナーは守って見学しましょう!
■訪問:細淵家住宅長屋門
[埼玉県さいたま市南区沼影]1丁目
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■参考
さいたま市HP
「文化財紹介 細淵家住宅長屋門」
https://www.city.saitama.lg.jp/004/005/006/001/016/p002493.html
2024年01月27日
佐枝氏館のなごり(岩槻)龍門寺境内の土塁跡
戦国時代の館跡を訪ねました。
<佐枝氏館跡>さえだしやかた
場所はさいたま市岩槻区の龍門寺境内です。佐枝若狭守館土塁であることが記されています。
<土塁跡>
昔はもっと高かったのでしょう。土塁が途切れるところもありますが、虎口の跡なのか、何らかの都合で取り崩したものなのかはわかりませんでした。
<墓所付近の土塁>
こちらは墓所との間をブロック塀で隔てていますが、土塁がよく見えています。迫力があります。
<龍門寺>
お邪魔させて頂いた龍門寺は、1550年に北条家臣の佐枝若狭守秀成が、自身の居館敷地内に開山した寺院です。地形の話をすると、元荒川のかつての流路沿いの微高地に位置しています。元荒川は岩槻城にとって重要な天然堀。佐枝氏の館は、岩槻城の外郭の守りを担っていたと考えられています。
<土塁>
岩槻城は戦国末期(1590年)に豊臣軍によって攻め落とされます。土塁はその時に備えたものか、あるいはそれ以前から館の土塁として存在していたのかは分かりません。豊臣軍来襲時には、館を築いた佐枝秀成は既に亡くなっていたので、後継者の嫡男(佐枝植行)が土塁を築いた可能性もあるわけですね。私個人は、直線の土塁が直角に折れ曲がるところを見て、方形館の土塁を想像しました。まぁいずれにせよ、いまでも生々しい土塁が、戦国時代のなごりであることは間違いありません。素晴らしい遺構です。
最後に
ご先達の方々の城ブログを見ると、龍門寺さんが立ち入りを規制している時期もあったようです。龍門寺さんは岩槻藩主大岡氏の菩提寺でもあり、歴史的に興味深い寺院であることに間違いありませんが、著名な方だけでなく、一般の方々の墓所でもあります。門が開かれていても、寺の関係者ではないことを意識し、マナーを守った見学が望まれます。
<有形文化財の山門>
龍門寺さんのご厚意に感謝申し上げます
■訪問:佐枝氏館
(龍門寺境内 佐枝若狭守館土塁)
[さいたま市岩槻区日の出町]
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■参考及び出典
・Wikipedia:2024/1/27
・猫の足あと「龍門寺」
https://tesshow.jp/saitama/saitama/temple_iwa_ryumon.html
<佐枝氏館跡>さえだしやかた
場所はさいたま市岩槻区の龍門寺境内です。佐枝若狭守館土塁であることが記されています。
<土塁跡>
昔はもっと高かったのでしょう。土塁が途切れるところもありますが、虎口の跡なのか、何らかの都合で取り崩したものなのかはわかりませんでした。
<墓所付近の土塁>
こちらは墓所との間をブロック塀で隔てていますが、土塁がよく見えています。迫力があります。
<龍門寺>
お邪魔させて頂いた龍門寺は、1550年に北条家臣の佐枝若狭守秀成が、自身の居館敷地内に開山した寺院です。地形の話をすると、元荒川のかつての流路沿いの微高地に位置しています。元荒川は岩槻城にとって重要な天然堀。佐枝氏の館は、岩槻城の外郭の守りを担っていたと考えられています。
<土塁>
岩槻城は戦国末期(1590年)に豊臣軍によって攻め落とされます。土塁はその時に備えたものか、あるいはそれ以前から館の土塁として存在していたのかは分かりません。豊臣軍来襲時には、館を築いた佐枝秀成は既に亡くなっていたので、後継者の嫡男(佐枝植行)が土塁を築いた可能性もあるわけですね。私個人は、直線の土塁が直角に折れ曲がるところを見て、方形館の土塁を想像しました。まぁいずれにせよ、いまでも生々しい土塁が、戦国時代のなごりであることは間違いありません。素晴らしい遺構です。
最後に
ご先達の方々の城ブログを見ると、龍門寺さんが立ち入りを規制している時期もあったようです。龍門寺さんは岩槻藩主大岡氏の菩提寺でもあり、歴史的に興味深い寺院であることに間違いありませんが、著名な方だけでなく、一般の方々の墓所でもあります。門が開かれていても、寺の関係者ではないことを意識し、マナーを守った見学が望まれます。
<有形文化財の山門>
龍門寺さんのご厚意に感謝申し上げます
■訪問:佐枝氏館
(龍門寺境内 佐枝若狭守館土塁)
[さいたま市岩槻区日の出町]
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■参考及び出典
・Wikipedia:2024/1/27
・猫の足あと「龍門寺」
https://tesshow.jp/saitama/saitama/temple_iwa_ryumon.html
岩槻城大手門のなごり
岩槻城のかつての大手門付近を探索しました。
<岩槻城大手門跡>
ここは大手門があった場所です。正確な位置が分からないので、とりあえずこのプレートを目指して歩いてきました。柵の向こう側はかつての大手門の堀跡になります。
<堀跡>
内部は私有地(宗教法人敷地)となっているため、立ち入ることはできません。道から見える範囲で撮影しました。今でも結構な高低差があります。この堀は三ノ丸・二の丸・本丸といった城の中核部を取り囲む巨大沼と繋がっていました。沼の水が堀まで入ってきていたのか、それとも空堀の状態だったのかは分かりません。
<堀の上部>
こちらも道から見える範囲で撮影。土が露わになっているため、いかにも城跡という雰囲気が漂います。
岩槻城の歴史は室町時代の末期から始まりますが、江戸時代も存続した近世城郭です。さいたま市のホームページに記載がある通りで、岩槻城は戦国時代の関東の歴史において欠かすことのできない重要な城郭でありながら、今では江戸時代の面影さえも失われつつあります。急速な近代化の波に飲み込まれ、跡形もなく取り壊されてしまったわけですね。それはそれで仕方のないことですが、人が手を加えた地形がそのまま残っているということは、とても貴重なことだと思えます。姿を消した城のなごりですね。
<付近の地形>
大手門跡のすぐ近くで撮影しました。縄張り図を見る限り、マンションの駐車場となっているこの窪みも、別の堀のなごりと思われます。
私には難しい文献を解読する力がありませんが、専門の方々の研究の成果を、実際に足を運んで感じるくらいのことならできます。情報を得るだけならネットで充分ですが、現地へ行ってみると、思ったより距離があったとか、距離はないが高低差があったとか、現地ならではの発見があったりします。
<大手口>
こちらは大手門へ通じる大手口の跡です。古い街並みが残っているわけではないので、石柱がなければただ通り過ぎたことでしょう。こうして記してもらうだけでありがたいです。こういう目印と有難い古地図とを見比べ、あとは勝手に想像する。それだけで満足とまでは言いませんが、来れて良かったという気持ちにはなります。
街のなかの城跡巡り
似たような感覚をお持ちの方と共有できれば幸いです。
<城のなごり>
大手門付近の城のなごりです
■訪問:岩槻城大手門跡
[埼玉県さいたま市岩槻区太田]1丁目5
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■参考
・Wikipedia:2024/1/27
・さいたま市HP
>文化財>知って楽しむ文化財>深掘り文化財>
「岩槻城跡を探る」
https://www.city.saitama.lg.jp/004/005/006/013/002/p078002.html
<岩槻城大手門跡>
ここは大手門があった場所です。正確な位置が分からないので、とりあえずこのプレートを目指して歩いてきました。柵の向こう側はかつての大手門の堀跡になります。
<堀跡>
内部は私有地(宗教法人敷地)となっているため、立ち入ることはできません。道から見える範囲で撮影しました。今でも結構な高低差があります。この堀は三ノ丸・二の丸・本丸といった城の中核部を取り囲む巨大沼と繋がっていました。沼の水が堀まで入ってきていたのか、それとも空堀の状態だったのかは分かりません。
<堀の上部>
こちらも道から見える範囲で撮影。土が露わになっているため、いかにも城跡という雰囲気が漂います。
岩槻城の歴史は室町時代の末期から始まりますが、江戸時代も存続した近世城郭です。さいたま市のホームページに記載がある通りで、岩槻城は戦国時代の関東の歴史において欠かすことのできない重要な城郭でありながら、今では江戸時代の面影さえも失われつつあります。急速な近代化の波に飲み込まれ、跡形もなく取り壊されてしまったわけですね。それはそれで仕方のないことですが、人が手を加えた地形がそのまま残っているということは、とても貴重なことだと思えます。姿を消した城のなごりですね。
<付近の地形>
大手門跡のすぐ近くで撮影しました。縄張り図を見る限り、マンションの駐車場となっているこの窪みも、別の堀のなごりと思われます。
私には難しい文献を解読する力がありませんが、専門の方々の研究の成果を、実際に足を運んで感じるくらいのことならできます。情報を得るだけならネットで充分ですが、現地へ行ってみると、思ったより距離があったとか、距離はないが高低差があったとか、現地ならではの発見があったりします。
<大手口>
こちらは大手門へ通じる大手口の跡です。古い街並みが残っているわけではないので、石柱がなければただ通り過ぎたことでしょう。こうして記してもらうだけでありがたいです。こういう目印と有難い古地図とを見比べ、あとは勝手に想像する。それだけで満足とまでは言いませんが、来れて良かったという気持ちにはなります。
街のなかの城跡巡り
似たような感覚をお持ちの方と共有できれば幸いです。
<城のなごり>
大手門付近の城のなごりです
■訪問:岩槻城大手門跡
[埼玉県さいたま市岩槻区太田]1丁目5
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■参考
・Wikipedia:2024/1/27
・さいたま市HP
>文化財>知って楽しむ文化財>深掘り文化財>
「岩槻城跡を探る」
https://www.city.saitama.lg.jp/004/005/006/013/002/p078002.html
2024年01月20日
総構えの北の守り(岩槻市)新正寺曲輪のなごり
今回は岩槻城の北側の守りの要だった新正寺曲輪の話です。
<新正寺曲輪跡>
岩槻城の歴史は長いですが、今回訪問の新正寺曲輪が注目されるのは戦国時代末期。1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の時です。秀吉は小田原城を大軍で包囲するとともに、別働隊で関東に点在する北条配下の城を落としていきました。当時北条配下だった岩槻城は、その別働隊によって攻め落とされます。
「別働隊」といっても小隊ではなく、約2万の大軍です。いくら堅固な城といっても、2万の攻め手に対し、守る側は2千です。更に、城主・太田(北条)氏房と主力は小田原城へ移っていたため、兵力の差は明らか。城を任された家老・伊達房実を中心に岩槻城は奮闘しますが、城兵約1千の死傷者を出して、降伏となりました。
岩槻城を攻め落としたのは浅野長政率いる豊臣軍ということになりますが、本多忠勝や鳥居元忠といった徳川勢も加勢しています。守りの固かった当時の岩槻城に対し、豊臣軍は北側からの攻撃を選びました。秀吉からの催促もあり、持久戦にはしませんでした。
<新正寺曲輪石柱>
こちらは岩槻区宮町の久伊豆神社前の新正寺曲輪の石柱です。新正寺曲輪は岩槻城本丸から巨大な沼を隔てた北側に設けられた防衛施設。石柱を設置してもらったお陰で、かつての城跡にいることが実感できます。
<石柱の説明文>
側面に岩槻市教育委員会による説明が記されています。平成元年のものですね。この10年後、岩槻市はさいたま市岩槻区となっています。内容を以下に転記させて頂きます。
『元荒川沿いに広がり、沼を隔てて本丸を南に望む。西は新正寺口より田中町に続き、東は明戸口より岩槻城主郭に連なる。曲輪内には岩槻城総鎮守・久伊豆神社がある。』
説明文に登場する新正寺は、久伊豆神社の別当・光明院の寺号で、曲輪の名の由来でもありますが現在は存在しません。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
こちらは別の日に岩槻城址公園で撮影した説明板です。ご覧の通り、岩槻城は沼地を利用した平城です。近くに元荒川が流れる台地上に、城の中核がありました。岩槻城は江戸時代を通して存続しましたが、城の中核と地形は戦国末期も同じです。
大きくカーブしている元荒川の内側に、新正寺曲輪があります。川と沼にはさまれた微高地だったのでしょう。ここをあえて曲輪とする理由は、まずは天然の堀である元荒川を敵が渡ろうとするのを妨害するため。そして、川を越えられてしまった場合は、敵が久伊豆神社の境内を含む広々とした微高地を足場にしかねないため、予め城に内包して守りを強化しておく必要があった。そんな感じでしょうか(他にもいろんな評価があるかと思います)。
そんな守る側の心配が的中したのでしょうか。豊臣軍はこの新正寺曲輪から攻め込んだと伝わります。結果は先述の通りです。多大な犠牲者を出しながらの抵抗は3日で終了しました。
ちょっと殺伐とした内容で終わってしまうので、簡単ではありますが、かつての新正寺曲輪に現在も鎮座する久伊豆神社をご紹介しておきます。
<久伊豆神社参道>ひさいずじんじゃ
岩槻城を築城した太田道灌が、城の鎮守としたと伝わります。
<鳥居>
久伊豆神社は元荒川沿いに多く、埼玉県では有名な神社です。創建はかなり古く6世紀頃とされています。
<拝殿>
この日も多くの人で賑わっていました。人を避けての撮影は無理だったので、ちょっと画像を加工させて頂きました。
<本殿>
ここが本社と勘違いするほど立派な神社です(本社は加須市)。岩槻の総鎮守として地元民に親しまれています。
■訪問:新正寺曲輪石柱
(久伊豆神社鳥居前)
[埼玉県さいたま市岩槻区宮町]2
お城巡りランキング
■参考及び出典
・新正寺曲輪石柱説明文
・岩槻城址公園説明板
・Wikipedia:2024/1/20
・MY神社HP 埼玉の神社一覧
「武州岩槻総鎮守 久伊豆神社」
https://myjinja.com/jinja/detail/id/15
・久伊豆神社HP
【説話】岩槻城落城伝説と久伊豆神社
https://www.hisaizu.jp/infomation03/269/
<新正寺曲輪跡>
岩槻城の歴史は長いですが、今回訪問の新正寺曲輪が注目されるのは戦国時代末期。1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の時です。秀吉は小田原城を大軍で包囲するとともに、別働隊で関東に点在する北条配下の城を落としていきました。当時北条配下だった岩槻城は、その別働隊によって攻め落とされます。
「別働隊」といっても小隊ではなく、約2万の大軍です。いくら堅固な城といっても、2万の攻め手に対し、守る側は2千です。更に、城主・太田(北条)氏房と主力は小田原城へ移っていたため、兵力の差は明らか。城を任された家老・伊達房実を中心に岩槻城は奮闘しますが、城兵約1千の死傷者を出して、降伏となりました。
岩槻城を攻め落としたのは浅野長政率いる豊臣軍ということになりますが、本多忠勝や鳥居元忠といった徳川勢も加勢しています。守りの固かった当時の岩槻城に対し、豊臣軍は北側からの攻撃を選びました。秀吉からの催促もあり、持久戦にはしませんでした。
<新正寺曲輪石柱>
こちらは岩槻区宮町の久伊豆神社前の新正寺曲輪の石柱です。新正寺曲輪は岩槻城本丸から巨大な沼を隔てた北側に設けられた防衛施設。石柱を設置してもらったお陰で、かつての城跡にいることが実感できます。
<石柱の説明文>
側面に岩槻市教育委員会による説明が記されています。平成元年のものですね。この10年後、岩槻市はさいたま市岩槻区となっています。内容を以下に転記させて頂きます。
『元荒川沿いに広がり、沼を隔てて本丸を南に望む。西は新正寺口より田中町に続き、東は明戸口より岩槻城主郭に連なる。曲輪内には岩槻城総鎮守・久伊豆神社がある。』
説明文に登場する新正寺は、久伊豆神社の別当・光明院の寺号で、曲輪の名の由来でもありますが現在は存在しません。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
こちらは別の日に岩槻城址公園で撮影した説明板です。ご覧の通り、岩槻城は沼地を利用した平城です。近くに元荒川が流れる台地上に、城の中核がありました。岩槻城は江戸時代を通して存続しましたが、城の中核と地形は戦国末期も同じです。
大きくカーブしている元荒川の内側に、新正寺曲輪があります。川と沼にはさまれた微高地だったのでしょう。ここをあえて曲輪とする理由は、まずは天然の堀である元荒川を敵が渡ろうとするのを妨害するため。そして、川を越えられてしまった場合は、敵が久伊豆神社の境内を含む広々とした微高地を足場にしかねないため、予め城に内包して守りを強化しておく必要があった。そんな感じでしょうか(他にもいろんな評価があるかと思います)。
そんな守る側の心配が的中したのでしょうか。豊臣軍はこの新正寺曲輪から攻め込んだと伝わります。結果は先述の通りです。多大な犠牲者を出しながらの抵抗は3日で終了しました。
ちょっと殺伐とした内容で終わってしまうので、簡単ではありますが、かつての新正寺曲輪に現在も鎮座する久伊豆神社をご紹介しておきます。
<久伊豆神社参道>ひさいずじんじゃ
岩槻城を築城した太田道灌が、城の鎮守としたと伝わります。
<鳥居>
久伊豆神社は元荒川沿いに多く、埼玉県では有名な神社です。創建はかなり古く6世紀頃とされています。
<拝殿>
この日も多くの人で賑わっていました。人を避けての撮影は無理だったので、ちょっと画像を加工させて頂きました。
<本殿>
ここが本社と勘違いするほど立派な神社です(本社は加須市)。岩槻の総鎮守として地元民に親しまれています。
■訪問:新正寺曲輪石柱
(久伊豆神社鳥居前)
[埼玉県さいたま市岩槻区宮町]2
お城巡りランキング
■参考及び出典
・新正寺曲輪石柱説明文
・岩槻城址公園説明板
・Wikipedia:2024/1/20
・MY神社HP 埼玉の神社一覧
「武州岩槻総鎮守 久伊豆神社」
https://myjinja.com/jinja/detail/id/15
・久伊豆神社HP
【説話】岩槻城落城伝説と久伊豆神社
https://www.hisaizu.jp/infomation03/269/
天然と人工の二重堀(岩槻城総構え北側)赤間堀緑地
岩槻市の赤間堀緑地を訪ねました。
<赤間堀緑地>
この付近は岩槻城総構えの北側に位置し、古くは荒川(のちの元荒川)が流れていました。
<窪んだ地形>
ということは、この窪みが川跡ということだな
ごく自然にそう思いました。しかし、この日は岩槻の地形や湧水に詳しい方と散策していたので、そうではないことを教えて頂きました。
<元荒川沿いの堀川>
元々の荒川(以下元荒川)はこの緑地よりもう少し北側、この画像だと右手の道路より更に先を流れていたようです。ではこの窪みは何かというと、川に沿うように設けられた堀でした。もう少し具体的に言うと、岩槻城の堀と繋がって、水路の役割を担っていたようです。
どんな堀だったのでしょうね?
純粋に水を引き込むためだけなのか、物資の運搬に耐えうるものなのか、あるいは、土塁も兼ね備えて防衛施設としての堀を兼ねたものだったのか、勝手な想像だけが膨らみました。
まぁどうであれ
岩槻城は城の外側に防衛ラインを拡張したいわゆる総構えだったわけですから、大きな意味では防衛施設と言えなくもないですね。
<自然堤防>
周囲の状況からして、赤間堀緑地そのものが元荒川により形成された自然堤防です。
ということで
岩槻城の天然堀により形成された自然堤防には、更に人工の堀があったというお話でした。
訪問は2024年の1月中旬で、とても寒い日でした。豊臣軍の岩槻城攻めのルートを訪ねてみようということで、私を含めた4名で岩槻の街を歩き回りました。ご紹介の赤間堀緑地内に人の手による堀があったことは事実として、今回の投稿内容には私個人の妄想も多分に含まれます。その点はご理解をお願いします。
<久伊豆神社>ひさいず
こちらは緑地のすぐ南側に鎮座する久伊豆神社です。この付近は新正寺曲輪と呼ばれ、岩槻城の北側を守る重要な防衛施設でした。地形的には元荒川に接する台地の端っこです。そして、豊臣秀吉による小田原征伐(1590年)の際に、豊臣軍の別働隊が当時北条配下だった岩槻城へ攻め込む時に突破した曲輪跡でもあります。神聖な神社の境内ですが、当ブログがきっかけで、そんなことを思い出してくれる方がいれば嬉しいです。
<赤間堀跡>
■訪問:赤間堀緑地
[埼玉県さいたま市岩槻区宮町]1丁目
お城巡りランキング
--------追 記--------
文中の「岩槻の地形や湧水に詳しい方」のブログを紹介させて頂きます。「大宮台地の湧水巡り」を中心に、街歩きを含む探索を続けている『いこ〜』さんのブログです。ご紹介は、たくさんある記事のほんの一例に過ぎませんが、ご興味のある方はのぞいてみて下さい。
さいたま市岩槻区南下新井「宮前の湧水」
https://iko.hatenablog.jp/entry/2020/12/12/230519
<赤間堀緑地>
この付近は岩槻城総構えの北側に位置し、古くは荒川(のちの元荒川)が流れていました。
<窪んだ地形>
ということは、この窪みが川跡ということだな
ごく自然にそう思いました。しかし、この日は岩槻の地形や湧水に詳しい方と散策していたので、そうではないことを教えて頂きました。
<元荒川沿いの堀川>
元々の荒川(以下元荒川)はこの緑地よりもう少し北側、この画像だと右手の道路より更に先を流れていたようです。ではこの窪みは何かというと、川に沿うように設けられた堀でした。もう少し具体的に言うと、岩槻城の堀と繋がって、水路の役割を担っていたようです。
どんな堀だったのでしょうね?
純粋に水を引き込むためだけなのか、物資の運搬に耐えうるものなのか、あるいは、土塁も兼ね備えて防衛施設としての堀を兼ねたものだったのか、勝手な想像だけが膨らみました。
まぁどうであれ
岩槻城は城の外側に防衛ラインを拡張したいわゆる総構えだったわけですから、大きな意味では防衛施設と言えなくもないですね。
<自然堤防>
周囲の状況からして、赤間堀緑地そのものが元荒川により形成された自然堤防です。
ということで
岩槻城の天然堀により形成された自然堤防には、更に人工の堀があったというお話でした。
訪問は2024年の1月中旬で、とても寒い日でした。豊臣軍の岩槻城攻めのルートを訪ねてみようということで、私を含めた4名で岩槻の街を歩き回りました。ご紹介の赤間堀緑地内に人の手による堀があったことは事実として、今回の投稿内容には私個人の妄想も多分に含まれます。その点はご理解をお願いします。
<久伊豆神社>ひさいず
こちらは緑地のすぐ南側に鎮座する久伊豆神社です。この付近は新正寺曲輪と呼ばれ、岩槻城の北側を守る重要な防衛施設でした。地形的には元荒川に接する台地の端っこです。そして、豊臣秀吉による小田原征伐(1590年)の際に、豊臣軍の別働隊が当時北条配下だった岩槻城へ攻め込む時に突破した曲輪跡でもあります。神聖な神社の境内ですが、当ブログがきっかけで、そんなことを思い出してくれる方がいれば嬉しいです。
<赤間堀跡>
■訪問:赤間堀緑地
[埼玉県さいたま市岩槻区宮町]1丁目
お城巡りランキング
--------追 記--------
文中の「岩槻の地形や湧水に詳しい方」のブログを紹介させて頂きます。「大宮台地の湧水巡り」を中心に、街歩きを含む探索を続けている『いこ〜』さんのブログです。ご紹介は、たくさんある記事のほんの一例に過ぎませんが、ご興味のある方はのぞいてみて下さい。
さいたま市岩槻区南下新井「宮前の湧水」
https://iko.hatenablog.jp/entry/2020/12/12/230519