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2019年11月24日
岩波国語辞典で仏教用語を引く
岩波国語辞典を所々読んでみますと、日蓮が出てきました。
祖師、開祖というところで、例として、日蓮が上げられていますが、やはり、祖師、開祖にふさわしい人物とみなされているということでしょうね。それだけ、強烈な印象を与えた人物ということでしょう。
せっかくですから、仏教関連の語句を引いてみました。
通常、曼荼羅は、上記の説明の通り、絵や図のことを表わします。ただ、日蓮の曼荼羅は、絵や図ではなく、文字なのですね。文字曼荼羅となっています。
文字によって、仏の悟った境地を表わし、仏の境地に備わる功徳を表わしています。
また、文字曼荼羅を掛けるところは、道場や壇となります。壇ということですから、「戒壇」であるわけですが、岩波国語辞典で引いてみましょう。
戒を授けられる場が戒壇ということですね。
文字曼荼羅を掛けたところが戒壇となり、その場で勤行、唱題を行う者は、戒を授けられていると考えてもよいでしょう。
その後、我々としては、どうあるべきか。再び、岩波国語辞典を引いてみましょう。
戒を授けられただけでは、仏の次元に至りませんので、仏の次元に至るよう修行をしなければなりません。
それも菩薩の修行というわけですね。この菩薩の修行を行うことを波羅蜜という。
そして、波羅蜜は、仏の次元に至ることも表わしており、まさに、波羅蜜を行い、波羅蜜であるべきということです。
仏教信仰において、根本の目的は仏の次元に至ることです。波羅蜜を外して仏教信仰はあり得ないですね。
そし【祖師】
最初に教えを垂れた人。宗派の開祖。特に、禅宗で達磨、日蓮宗で日蓮のこと。「お―様」
祖師、開祖というところで、例として、日蓮が上げられていますが、やはり、祖師、開祖にふさわしい人物とみなされているということでしょうね。それだけ、強烈な印象を与えた人物ということでしょう。
せっかくですから、仏教関連の語句を引いてみました。
まんだら【曼陀羅・曼荼羅】
@色彩があざやかな絵図。「愛欲―」▽(2)の転。
A〔仏〕仏の悟った境地や、その境地に備わる功徳を絵にしたもの。また、悟りのための道場や壇。▽梵語。
通常、曼荼羅は、上記の説明の通り、絵や図のことを表わします。ただ、日蓮の曼荼羅は、絵や図ではなく、文字なのですね。文字曼荼羅となっています。
文字によって、仏の悟った境地を表わし、仏の境地に備わる功徳を表わしています。
また、文字曼荼羅を掛けるところは、道場や壇となります。壇ということですから、「戒壇」であるわけですが、岩波国語辞典で引いてみましょう。
かいだん【戒壇】
〔仏〕僧尼となる者に戒を授けるために作った壇。
戒を授けられる場が戒壇ということですね。
文字曼荼羅を掛けたところが戒壇となり、その場で勤行、唱題を行う者は、戒を授けられていると考えてもよいでしょう。
その後、我々としては、どうあるべきか。再び、岩波国語辞典を引いてみましょう。
はらみつ【波羅蜜】
〔仏〕迷いの世界である此岸(=俗世)から仏陀の悟りの境地である彼岸に至ること。仏になるための菩薩の修行。▽梵語。「波羅蜜多」とも言う。
戒を授けられただけでは、仏の次元に至りませんので、仏の次元に至るよう修行をしなければなりません。
それも菩薩の修行というわけですね。この菩薩の修行を行うことを波羅蜜という。
そして、波羅蜜は、仏の次元に至ることも表わしており、まさに、波羅蜜を行い、波羅蜜であるべきということです。
仏教信仰において、根本の目的は仏の次元に至ることです。波羅蜜を外して仏教信仰はあり得ないですね。
2019年11月23日
『草枕』に出てくる「梵論字」、「虚無僧」を岩波国語辞典で引く
明治の小説では、現代ではなじみのない言葉が出てきます。
「梵論字」、「虚無僧」など、せいぜい時代劇で見かける程度であり、その時代劇ですら、最近ではあまり見かけなくなりました。
岩波国語辞典第八版で「梵論字」と「虚無僧」とが見出し語として存在するのか、確認してみました。
ちゃんと見出し語で出ています。
「梵論字」を引くと「虚無僧」に繋がり、「虚無僧」では、「ぼろんじ」と示しており、「梵論字」に戻ります。双方が同じものを表わしていることが分かります。また、「尺八を吹きながら」とありますので、時代劇を思い出して「ああ、あれか」と分かるわけです。
との編集方針である岩波国語辞典ですから、明治後半である明治39年発表の『草枕』は、岩波国語辞典の現代語の枠内というわけですね。
「すると、ある日、一人の梵論字が来て・・・・・・」
「梵論字と云うと虚無僧の事かい」
「はあい。あの尺八を吹く梵論字の事で御座んす。(後略)」
夏目漱石『草枕』新潮文庫 132頁
「梵論字」、「虚無僧」など、せいぜい時代劇で見かける程度であり、その時代劇ですら、最近ではあまり見かけなくなりました。
岩波国語辞典第八版で「梵論字」と「虚無僧」とが見出し語として存在するのか、確認してみました。
ぼろんじ【梵論字】
虚無僧。ぼろ。
こむそう【虚無僧】
普化宗の有髪の僧。深編笠をかぶり、尺八を吹きながら諸国をまわって托鉢する。薦僧。ぼろんじ。
ちゃんと見出し語で出ています。
「梵論字」を引くと「虚無僧」に繋がり、「虚無僧」では、「ぼろんじ」と示しており、「梵論字」に戻ります。双方が同じものを表わしていることが分かります。また、「尺八を吹きながら」とありますので、時代劇を思い出して「ああ、あれか」と分かるわけです。
「現代語といっても、明治の後半ぐらいからを念頭に置く」
との編集方針である岩波国語辞典ですから、明治後半である明治39年発表の『草枕』は、岩波国語辞典の現代語の枠内というわけですね。
2019年11月22日
岩波 国語辞典 第八版
岩波国語辞典の第八版が発売されました。早速、中身を確認しておりますが、まずは、しんせい【新生】を引いてみました。
国語辞典も数年に一度、改訂があるように、我々も常に新しく生まれ出ることが肝要ですね。
いくら年を重ねようとも、常に生まれ変わった気持ちが必要であり、常に再出発であるべきでしょう。
また、新しく生まれ出るにしても、生まれ変わった気持ちになるにしても、再出発するにしても、その根本には、信仰がなければなりません。信仰に基づき、単なる過去からの延長上の再出発ではなく、自身の心が激変するほどの状態に至る必要があるでしょう。
岩波国語辞典では、新生について、信仰の観点からの説明があり、適切な語釈と思いますね。単に変わるといっても、信仰の裏付けのない変化は弱々しいものです。
岩波国語辞典で、「日蓮」、「法華経」の見出し語はありませんが、「日蓮宗」との見出し語があります。
「日蓮宗」の語釈の中に、「日蓮」、「法華経」がしっかりと組み込まれています。
そのほかの言葉も見ていきましょう。
端的に仏教の説明がなされています。いかにも国語辞典といった安定感ですね。
岩波国語辞典は、オーソドックスな語釈であり、安心して使用できます。
しんせい【新生】
@ 新しく生まれ出ること。
A 生まれ変わった気持で人生に再出発すること。特に、信仰によって心が一変した状態。
国語辞典も数年に一度、改訂があるように、我々も常に新しく生まれ出ることが肝要ですね。
いくら年を重ねようとも、常に生まれ変わった気持ちが必要であり、常に再出発であるべきでしょう。
また、新しく生まれ出るにしても、生まれ変わった気持ちになるにしても、再出発するにしても、その根本には、信仰がなければなりません。信仰に基づき、単なる過去からの延長上の再出発ではなく、自身の心が激変するほどの状態に至る必要があるでしょう。
岩波国語辞典では、新生について、信仰の観点からの説明があり、適切な語釈と思いますね。単に変わるといっても、信仰の裏付けのない変化は弱々しいものです。
岩波国語辞典で、「日蓮」、「法華経」の見出し語はありませんが、「日蓮宗」との見出し語があります。
にちれんしゅう【日蓮宗】
日蓮を祖とする、法華経信仰による仏教の宗派。
「日蓮宗」の語釈の中に、「日蓮」、「法華経」がしっかりと組み込まれています。
そのほかの言葉も見ていきましょう。
ぶっきょう【仏教】
釈迦牟尼が説いた教え。それに基づく宗教。現世の迷いを去り、悟りを開いて仏陀(=宗教的自覚者)になることが目的。インドに起こり、主に東アジア・東南アジアに広がっている。教派が多い。
端的に仏教の説明がなされています。いかにも国語辞典といった安定感ですね。
岩波国語辞典は、オーソドックスな語釈であり、安心して使用できます。
2019年11月19日
すべて仏と考える
摩訶止観には、以下の言葉があります。
魔の事柄が起きようとも、仏の事柄に転じていくということです。
このようになれば、理想的ですね。
しかし、魔事は、魔事のままで、人生を振り回されるのが凡夫というものです。ここに信仰が要請されるのでありましょう。
信仰をする中で、仏事という次元を見出し、魔事の次元に留まらないという発想を得て、魔事を転じながら仏事に至るという生き方が可能となります。
どのようなことが起きようとも仏の次元、仏事と転じていくのが信仰というものでしょう。
何のための信仰か。それは、仏を得るためですから、事柄としては仏事でなければなりません。魔事であろうが何であろうが、転じることによって、仏事とする。ここに信仰の根幹があるように思えてなりません。
結局、すべて仏であると達観するのが仏教信仰者の道といえましょう。
魔事を転じて仏事と為す
『国訳一切経 (和漢撰述部 諸宗部 3)』大東出版社 149頁
魔の事柄が起きようとも、仏の事柄に転じていくということです。
このようになれば、理想的ですね。
しかし、魔事は、魔事のままで、人生を振り回されるのが凡夫というものです。ここに信仰が要請されるのでありましょう。
信仰をする中で、仏事という次元を見出し、魔事の次元に留まらないという発想を得て、魔事を転じながら仏事に至るという生き方が可能となります。
どのようなことが起きようとも仏の次元、仏事と転じていくのが信仰というものでしょう。
何のための信仰か。それは、仏を得るためですから、事柄としては仏事でなければなりません。魔事であろうが何であろうが、転じることによって、仏事とする。ここに信仰の根幹があるように思えてなりません。
結局、すべて仏であると達観するのが仏教信仰者の道といえましょう。