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2015年11月30日
自らを磨くのが信仰であること
一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり
一生成仏抄 384頁
先を見通せない迷いの心は、汚れた鏡であると言っています。
汚れた鏡は、きれいに磨く必要があります。
きれいに磨きますと、先を見通すことのできる智慧のある人間になるというわけですね。
では、どのようにして磨けばよいのか。
日蓮は、南無妙法蓮華経と唱えよ、と言います。
自らが発する南無妙法蓮華経により、自らの汚れた鏡をきれいに磨くということです。
自分自身には、今までの人生の中において、さまざまな業がへばりついています。所謂、悪業ですね。それを自分の唱題によって、ひとつひとつ取り除いていくわけです。
単に、漫然と南無妙法蓮華経と唱えるのではく、今、自分は自分の汚れを落とすために、自らを磨いているのだと認識したうえで、唱えることが大事です。
所詮、信仰とは、自らを磨くことに他ならず、磨いているという意識なしに南無妙法蓮華経と唱えても、意味はありません。
このように御書には、どのように信仰すればよいかが明確に示されています。
我々としては、御書を研鑽しながら信仰すべきですね。
2015年11月29日
浄土と穢土、衆生と仏との違い
衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり
一生成仏抄 384頁
人間の心根次第で、その土地の境涯が変わります。
穢れた心根の人間が多いところは、さびれるものです。犯罪だらけで、汚い街になっていきます。
心根の清らかな人が多いところは、発展し、豊かであり、美しい街になっていくものです。
所詮は、人の心ということですね。
我々の心根がフラフラして、迷いの状態にある場合、それは衆生の状態であるという。
悟りの状態にあれば、仏の状態であるという。
成仏といっても、我々の心根の状態によるのですね。
フラフラした迷いの状態でなく、覚悟を決めた状態であれば、成仏できるというわけです。
人間とは弱いもので、つい、フラフラした迷いの状態に陥ります。
そこで、御書、法華経を研鑽し、覚悟が決まるほどの人間になることですね。
実のところ、ちょっとした違いなのですね。
我々の心根を悟りの方向、覚悟が決まる方向にもっていくのが信仰といえましょう。
2015年11月28日
法華経への信仰
かつへて食をねがひ・渇して水をしたうがごとく・恋いて人を見たきがごとく・病にくすりをたのむがごとく、みめかたちよき人・べにしろいものをつくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ
上野殿御返事 1558頁
法華経への信仰は、特別なものと考える必要はないですね。
お腹がすけば食べたいと思いますし、のどが渇けば水を飲みたいと思うようなことと同じように考えればよいのですね。
好きな人に会いたいという気持ちと法華経への信仰心は変わりませんよ、と日蓮は言います。
病気を治すために薬を飲み、美人が、より一層、美しくあるために化粧するようなもので、このような至極当然な振る舞いと同じように法華経には信仰心をもって接していきなさいというわけです。
信仰は生活の中に溶け込んでこそ、信仰といえるでしょう。
身に付いていない信仰は、みっともないですね。
あくまでも自分自身を軸として信仰すべきです。
洗脳されての信仰は、他者が軸になっていますので、みっともないわけです。
洗脳というものは、不自然の極みであり、上記の御文のような当たり前のことの逆なのですね。
お腹がすいても食べるな、のどが渇いても水を飲むな、好きな人とは会うな、病気になっても薬を飲むな、美しくなるための化粧をするな等々、このような感じのことを洗脳教団は言います。
冷静に考えれば分かることですが、洗脳教団は、変なことを言っています。
我々としては、正しく、法華経の信仰を行えばよく、法華経を悪用する人間には、近づかないことですね。
2015年11月27日
「南無妙法蓮華経」という文字が本尊であること
問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし
本尊問答抄 365頁
日蓮にとって、本尊とは、法華経の題目ですから、「妙法蓮華経」の五字になります。
その「妙法蓮華経」に「南無」する故に、「南無妙法蓮華経」となるわけですね。
文永年間から、本尊の書写がはじまります。
文永年間の本尊は、筆が細いため、字が細いですね。
建治年間に至り、やや、字が太くなります。
弘安年間に至って、現在、我々が認識している本尊の形態に仕上がっていきます。
「南無妙法蓮華経」や「日蓮」や「四天王」等は、非常に太い字で書かれています。
全て文字というところが日蓮本尊の特徴ですね。
仏像や絵像が本尊ではないのですね。
我々からすると、本尊とは文字本尊ですから、違和感はありませんが、仏像等を本尊と認識している人からすると、珍しく感じられるのでしょうね。
本尊から考えますと、日蓮仏法は、知識のある人の宗教という側面があります。文字ですから。読めない人には、分からないですからね。
ただ、鎌倉時代と違って、現在の日本において、字が読めない人は、ほとんどいません。
よって、現代においては、すべての人のための宗教といえます。
文字本尊の宗教にとって、ハンデはないのですが、御書、法華経を研鑽しながらの信仰ですから、単に信じればよいというわけでもなく、やはり、知識を踏まえての信仰であることから、知識のある人の宗教であり、そう簡単に広まる宗教ではないですね。
2015年11月26日
人は変化しないものと心得ておくほうがよいこと
時代に合わせて行き方を変えることのできぬ理由として、次の二つがあげられるだろう。第一に、生まれ持った性格にはどうしても逆らえない。第二に、いったんある方法を用いて上々に成功した人物に対して、こんどは別の方法を採用したほうがうまくいくと信じさせるのは至難のわざだ。
『マキァヴェッリ全集』第2巻 永井三明訳 筑摩書房 326頁
人は、なかなか変わらないものです。
マキァヴェッリが指摘するように、生まれ持った性格は如何ともしがたいですね。
また、それなりに成功した場合や、上手く行った場合、そのやり方に固執し、変化を拒む傾向があるようです。
大成功とはいわなくとも、それなりに生きてこられた場合、まずますの成功とはいえます。
例えば、60歳までどうにか生きてきた場合、つまり、還暦を超えることができた場合、それ以降の人生において、別のやり方や、別の生き方をしようとする人は、ほとんどいないでしょう。
まず、変化はあり得ないと考えるのが妥当でしょうね。
よって、還暦を過ぎた人に対して、変化を求めることは意味のないことです。
どうせ変わりはしないのですから、ほっておくしかないですね。
ただ、変化に対応できない人と関わっていますと、変転極まりないこの世の中においては、こちらとしても不都合が生じます。
その際は、こちらで対応できる分は対応するにしても、それ以上のことはできません。
ある程度までは、不都合を許容するにしても、許容範囲を超えた場合は、その変化をしない還暦を過ぎた人を排除するしかないですね。
変化しない人を変化させようとするのではなく、変化しない人を違う人に替えるということですね。
人はたくさんいるわけですから、少しでもましな人に替えればよいのです。
ただ、このようなことができない場合、自らが違う場に移動するということも検討しなければなりません。
変化しない人を相手にしないですむような所に移動するということです。
そうはいっても、どこに行っても変化しない人だらけでしょうから、良くなる保証はありません。
人がどうのこうのといっても、こちらでコントロールできないわけですから、こちらが境涯を上げることによって、徐々にではあっても、変化できない人との関わりを薄くしていくことですね。
そして、変化できるほどの人との接点が増えるよう、こちらが精進していくことですね。
2015年11月25日
賢明な態度とは
人間がとりうるなによりも賢い態度の一つは、相手に対して脅かすような言辞を吐いたり、侮辱するような言葉を決して口にせぬようにつつしむことだと思う。
『マキァヴェッリ全集』第2巻 永井三明訳 筑摩書房 262頁
言葉には強い力があります。
特に、脅し文句や侮辱などは、マイナスのエネルギーが充満しています。
刃物や銃よりも危険といってよいでしょう。
しかし、人は、安易に脅しの言葉や侮辱の言葉を発します。
極めて由々しきことですね。
マキァヴェッリも、脅し文句や侮辱を口にするな、慎めと教えています。
我々としては、脅かすような言辞、侮辱するような言葉を使わないよう、細心の注意を払うことですね。
ただ、瞋りの感情が出た時が一番危険です。
瞋ったにしても、すぐに冷静さを取り戻すようにしなければなりません。そうしませんと、脅かすような言辞、侮辱するような言葉がスルスルと出てきます。
単に、脅かすような言辞、侮辱するような言葉を言うなといっても、それだけでは上手く行かないですね。
瞋りの状態になった時であっても、脅かすような言辞、侮辱するような言葉を出さないという強い心掛けが必要です。
とにかく、我々としては、言ってはダメであるということを徹底するしかありません。
それこそ、仏のように落ち着きながら、瞋りの状態をコントロールするほどの人間にならなければなりません。
これが賢明な態度といえます。
2015年11月24日
謙虚よりも我が道を行く方が安全であること
ひかえめな態度は、なんの益もないばかりでなく、むしろ有害であるということは、よく体験されることである。とくに嫉妬やそのほかの理由で、こちらに憎悪感をいだいている横柄な人物に対しては、〔こちらが下手に出るばあいは〕なおさらだ。
『マキァヴェッリ全集』第2巻 永井三明訳 筑摩書房 211頁
日本人は、謙虚を重んじます。
控えめな態度が好まれるのですね。
まあ、周りが善人だらけであれば、それでよいでしょう。問題はありません。
しかし、我々が生きている世界は、嫌な奴で溢れかえっています。
謙虚も結構なのですが、それだけでは心許ない。
然るべき人間洞察が必要です。そう、マキァヴェッリです。
横柄な人物、我々に憎悪感をいだいている人物に対しては、謙虚は使えないどころか、有害であるという。
なかなか強烈な分析です。
ただ、今までの人生を思い返した場合、丁寧に対応しても、相手が横柄であり、不愉快になったことが多々ありました。
その時、咄嗟に対応を変え、丁寧さをやめ、強く出たところ、横柄な相手が怯んだことがあります。
所詮、横柄な人間など大した人間ではなく、こちらが強く出ただけで崩れるのですね。
つまり、我々としては、力強く我が道を行けばよいだけなのですね。
多少の摩擦はやむを得ないでしょう。
変に、謙虚であれば上手く行くだろうなどという甘い考えは捨てておくことですね。上手くは行きません。
ただ、無用な摩擦は避けるべきですから、どうしようもない横柄な奴や、我々に強い嫌悪感を持っている人間の場合、相手にしないことに限りますね。
変に、強く出る必要もなく、謙虚にする必要もなく、ただただ、必要最小限の対応にとどめ、お引き取り頂くのがよいですね。
いずれにしても、マキァヴェッリの知見を我がものとして、あらゆる事態に対応できるようになっておきたいですね。
また、嫌なこと、不愉快なことがあっても、そういうこともあるだろうという深い洞察に基づき、それらを許容できるほどの余裕を持ちたいですね。
2015年11月23日
マキァヴェッリの人間洞察から自らの行動を律する
すべての人間はよこしまなものであり、勝手きままに振舞えるときはいつなんどきでも、すぐさま本来の邪悪な性格を発揮するものだと考えておく必要がある。
『マキァヴェッリ全集』第2巻 永井三明訳 筑摩書房 20頁
マキァヴェッリの指摘の通り、勝手気ままに振る舞えるときになると、横柄になる人がいます。
元々、そのような程度の低い人なのですが、いやらしさが滲み出ており、不愉快ですね。
相手にしたくないのですが、仕事の都合で、ある程度は相手にしなければならないのですね。
困ったものですが、やむを得ません。
ただ、マキァヴェッリの洞察を知った上であれば、人間など、所詮、一皮むけば獣であり、相手に道徳、礼儀、信頼、倫理などを求めても意味がないことが分かります。
我々としては、安易なものの考え方でお茶を濁すのではなく、マキァヴェッリのような鋭い分析を基に行動していくことです。
冷徹なものの見方も必要です。
相手に期待するのではなく、自分自身の智慧に期待すべきですね。
智慧を得るためには、マキァヴェッリのような古典を読む必要があります。
その上で、獲得した智慧を基に、常に最高の行動がとれるよう、日々精進することですね。
2015年11月22日
改善する気がない人を相手にしても意味がないこと
機とは仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし
教機時国抄 438頁
仏道修行をする者としては、機根を知ることが大切です。
相手の機根を見て、対応しなければなりません。
何でもかんでも一本調子というわけにはいきません。
変化が必要なのですね。
職場を例にして考えてみましょうか。
職場には、改善すべきところが多いものです。
日々、ビジネス環境は変化していますから、常に改善を求められます。
しかし、無能な上司は、改善すべき点があろうとも、改善する気はありません。
改善する気はありませんから、改善への行動は一切ありません。
ただ、これでは、仕事のレベルが低いままになってしまいます。
とは言いつつ、無能な上司は、改善しない。改善する気すらない。もしかすると、改善すべきことすら理解していないかもしれない。否、理解していないだろう。
仏教的観点からすると、無能な上司には改善する機根がないことが分かります。
よって、仏教信仰者としては、無能な上司に改善を求めても意味がなく、相手にしないという行動をとればよいのですね。
ところが、仏教的観点がない場合、無能な上司の機根に考えが及ばず、改善しなければならない点だけに目が行ってしまい、無能な上司に対して、改善を要求し始めるのですね。要求とまで行かなくても、改善の提案をしてしまいます。
それで改善がなされればよいですが、無能な上司ですから改善がなされるわけがなく、かえって、無能な上司から疎まれ、嫌がられるだけです。
もっと悪くなると、無能な上司から、余計なことをしやがってということで攻撃される可能性すらあります。
自分は、良かれと思ってやっていることでも、それは、無能な上司には通じないのですね。
良かれと思って物事をするのではなく、本当に良いことをすべきなのですね。
自分が良かれと思うことは、単に自分がそう思っているだけで、結果が良くなるという保証はありません。というよりは、良かれと思ってやっていることは、ほとんど自己満足次元のことであり、結果は、悪い方向に行くものです。
すべきことは、本当に良いことであって、良かれと思ってという思いなどはどうでもいいことなのですね。
本当に良いことをするために仏教思想の知見を活用すればよいのですね。
そう、機根を知るということです。
相手の機根を知った上で、行動すればよいのですね。
無能な上司の場合、相手にしなければよいのです。もっとも、全く相手にしないわけにもいきませんので、仕事上、最低限の接点だけ持っておくということです。
改善する気のない人間を相手にしても意味がありません。相手にしないことです。時間の無駄です。仏教においても、明確に説かれており、我々としては、その知見を活用すればよいのですね。
ともあれ、いずれは、無能な上司との縁も切れます。我々としては、自分自身の境涯を上げ、無能な上司のような人との関わりが少なくなるよう精進に励めばよいのです。
相手の機根が上がる見込みはありませんので、相手にせず、自分の機根、境涯を上げればよいのですね。
2015年11月21日
悪口を言わない方法
仏教には、十悪業が説かれています。
まずは、その十個を確認してみましょう。
@ 殺生
A 偸盗
B 邪淫
C 妄語
D 綺語
E 悪口
F 両舌
G 貪欲
H 瞋恚
I 愚癡
この中でよくしてしまうのは、悪口でしょう。
つい、悪口を言ってしまうのですね。
しかし、十悪業のひとつですから、安易に考えるわけにはいきません。
やはり、悪口を言わないようにしなければなりませんね。
では、どうすればよいか。
悪口とは、誰かさんのことについて言うことですから、その誰かさんを話題にしなければよいのですね。
話題にするから、悪口につながるわけです。
そもそも、話題にしても悪口しか出てこないような人は、相手にする必要がなく、話題にする必要がないのですね。
話題にしなければ、悪口が出てくる余地がありませんので、悪口を言わなくて済みます。
十悪業から逃れることができるのですね。
話題にしないという点を守れば、どうにかなります。もっと言うと、悪口を言ってしまう人など、そもそも思い出す必要すらないのですね。
万一、思い出しても、話題にしなければよいだけです。
捨てておけばよいでしょう。
わざわざ、どうでもいい人の悪口を言って十悪業を積む必要はありません。
賢明に生きていくことですね。
そのために仏教思想があるといえましょう。どんどん活用することですね。
まずは、その十個を確認してみましょう。
@ 殺生
A 偸盗
B 邪淫
C 妄語
D 綺語
E 悪口
F 両舌
G 貪欲
H 瞋恚
I 愚癡
この中でよくしてしまうのは、悪口でしょう。
つい、悪口を言ってしまうのですね。
しかし、十悪業のひとつですから、安易に考えるわけにはいきません。
やはり、悪口を言わないようにしなければなりませんね。
では、どうすればよいか。
悪口とは、誰かさんのことについて言うことですから、その誰かさんを話題にしなければよいのですね。
話題にするから、悪口につながるわけです。
そもそも、話題にしても悪口しか出てこないような人は、相手にする必要がなく、話題にする必要がないのですね。
話題にしなければ、悪口が出てくる余地がありませんので、悪口を言わなくて済みます。
十悪業から逃れることができるのですね。
話題にしないという点を守れば、どうにかなります。もっと言うと、悪口を言ってしまう人など、そもそも思い出す必要すらないのですね。
万一、思い出しても、話題にしなければよいだけです。
捨てておけばよいでしょう。
わざわざ、どうでもいい人の悪口を言って十悪業を積む必要はありません。
賢明に生きていくことですね。
そのために仏教思想があるといえましょう。どんどん活用することですね。