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2015年10月31日

細部ではなく、まずは根本をつかむこと

支道林が経を講ずるには細科を捨てて元意を取る
法華取要抄 336頁

仏教研鑽において、細部が気になることがありますが、まずは、仏教の根本をつかむのが大切ですね。

仏教の根本は、凡夫の成仏といえます。

よって、我々が仏の境涯に至るという点は、仏教研鑽において、外してはいけません。

その上で、細部をひとつひとつ押さえていくのが正しい行き方ですね。

仏教の法門は、さまざまな宗派があることから分かるように、膨大な量があります。

細部にこだわっていますと、迷子になるでしょう。

あくまで根本を押さえた上で、細部に至ることですね。

日蓮は、その根本の法を妙法蓮華経の五字に集約しました。

我々としては、妙法蓮華経という点から仏教研鑽を行うことになります。

当然のことながら、法華経の研鑽、御書の研鑽に繋がるのですが、法華経と御書とにおいても、細部にこだわりますと、きりがないですね。

法華経、御書においても、元意を取るよう心掛けながら研鑽する必要があります。

その上で、細部に取り組んでいけば、根本を押さえた上での細部ですから、細部そのものも活きてきます。

細部だけでは意味を為しませんし、細部と細部とを合わせても、所詮、細部の集合にしか過ぎません。

細部ではなく、まずは根本を押さえるという姿勢は、仏教研鑽だけでなく、日常生活においても、職場においても、人生においても応用できることであり、応用すべきですね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月30日

英語の習得範囲を絞ること

英語を母語とする純粋な英語話者が存在するかぎり、英語はけっして平等な国際対話を可能ならしめる「国際語」や「世界共通語」にはなり得ないのである。
斎藤兆史『日本人に一番合った英語学習法』祥伝社 77頁

我々日本人が一生懸命英語を習得したところで、ネイティブにはかないません。

所詮、不平等な中での対話しか為せないのですね。

逆を考えれば分かりやすいですが、純粋な英語話者であるアメリカ人やイギリス人がいくら日本語を習得したといっても、純粋な日本語話者にはかないません。

お互い様と言いたいところですが、そう言えないのですね。

英語の方が世界的に影響力が大きく、日本語は実際のところ、日本でしか通じないという現実があるからです。

純粋な英語話者が日本語を習得しようというモチベーションはないでしょうし、必要性もないといえます。

しかし、純粋な日本語話者である我々にとって、特別に英語を習得しなければならないことはないといえるかもしれませんが、インターネットで使用されている言語のほぼ半数は英語であることを考えると、何もしなくてよいとも言い切れません。

やはり、それなりに英語を習得する必要があると考えるのが妥当でしょう。

では、英語で日常会話するのが大事なのかというとそうでもありません。

日常的な用を足すのに大した英語力は要らない。日常的な英語を流暢に操ることをもって高度な英語力の証だと勘違いしている人がいるが、英語の習得段階からすれば、その辺はまだ初歩の初歩である。
同書 89頁

我々が英語で日常会話をする機会は、まずありません。日本にいるのですから。

我々が英語に接するのは、主にインターネットですね。英語での様々な記事、動画等々があります。ここにおいて、日常英会話は必要ないですね。

それよりも、英語読解力が必要ですし、英語聴取力が必要となります。

まともな英語力といいますか、正統な英語といいますか、お茶を濁す程度の英語でない英語が必要なのですね。

確かに、ネイティブレベルになれないとしても、それなりの英語読解力と英語聴取力は身に付けておきたいですね。

あくまでも情報収集のための英語力を身に付けるという一定の基準を設け、その基準に達するよう、適切な勉強をするのがよいですね。

純粋な英語話者と平等に対話ができるなどという夢想をしないことですね。

英語習得に際し、習得する範囲を絞るのが効率のよい方法といえます。
posted by lawful at 06:00| 英語学習

2015年10月29日

英語で情報収集することが目的であること

本書の読者、そして英語を生業としない日本人にお勧めしたいのは、もう一方の道である。すなわち、基礎的な英語だけは身につけておいて、あとは自分の得意分野に専心するという生き方である。
斎藤兆史『日本人に一番合った英語学習法』祥伝社 177頁

私は、英語を生業としていませんので、上記のような道になりますね。

まずは、基礎的な英語を身に付けることですね。

では、基礎的な英語とは何か。

英文法でいえば、高等学校までの英文法は基礎的といえるでしょう。英語を読むため、聞くためには、中学英語程度の英文法では不足ですね。やはり、高等学校までの英文法が必要です。

ただし、英会話については、中学英語程度で十分と思われます。そもそも、英会話をする機会もほとんどありませんので、難しいこととまで準備する必要もなく、また、その時間も捻出できませんね。

基礎的な英語というところまでは身に付けて、それでよいとする潔さが必要ですね。

英語をマスターするといっても、ネイティブレベルになれるわけでもなく、そのレベルを目指す必要性すらないわけですから、一定の基準を設定し、その地点に到達することによって、よしとすべきでしょう。

変にネイティブを目指すというのも不自然ですしね。

英語以外では、自分自身がしなければならないことをすればよいでしょう。時間は有限ですからね。

日本人に一番合った英語学習法は、何と言っても素読、暗唱、文法学習、そして多読。これが日本人が高度な英語力を身につけようとする場合、欠かすことのできない基礎訓練となる。
同書 156頁

極めてオーソドックスな学習法です。あまり、英語を話すことに注目しておらず、英語を読みたい、聞きたいと考えておりますので、この学習法がよいでしょうね。

英語を発信するというよりは、英語の情報を取得する方に重点をおいていますので、多読という点は、しっかりと行っていきたいですね。あまり、学習、学習とならず、情報収集と考えておく方がよいでしょうね。

外国語「を」勉強するのではなく、外国語「で」情報を入手するレベルまで、なるべく早く到達するように努力することが大事です。
白井恭弘『外国語学習の科学』岩波新書 166頁

基礎的な英語とは、上記のようなレベルと考えられるでしょう。

お勉強というレベルを超えて、一応、情報収集のレベルに至るということです。
posted by lawful at 06:00| 英語学習

2015年10月28日

財とは必要性を満たすもの

莚三枚・生和布一籠・給い了んぬ。
抑三月一日より四日にいたるまでの御あそびに心なぐさみて・やせやまいもなをり・虎とるばかりをぼへ候上・此の御わかめ給びて師子にのりぬべくをぼへ候。
莚三枚御書 1587頁

莚三枚御書は、真筆を富士大石寺が所蔵していますので、莚とわかめとを供養したのは、南条家、南条時光でしょう。

3月1日から4日まで、南条時光は、日蓮のもとを訪れたようです。

日蓮は、相当、喜んでいるようで、やせ病も治り、虎を捕えられるほど元気になり、わかめを食べ師子に乗るほどの勢いになったようです。

心の細やかな変化を文章にする日蓮は、他の仏教者とは明らかに異なります。

情感豊かな人であったことが窺われます。

さては財はところにより人によつてかわりて候、此の身延の山には石は多けれども餅なし、こけは多けれどもうちしく物候はず、木の皮をはいでしき物とす・むしろいかでか財とならざるべき
同書 同頁

続いて日蓮は、財というものは、ところにより、また、人によって変わるものであると言います。

必要なところに必要なものがあれば、それは財といえます。また、ものを必要とする人にそのものがあれば、それは財ですね。

必要性があってこそ、ものは財となり得ます。

ただ単に、あればよいというものではありません。

身延山にいる日蓮にとって、莚は必要なものだったのですね。

どの程度の莚であったかは分かりませんが、通常、財というほどのものではないでしょう。

しかし、日蓮は、南条時光から供養された筵を財であると言います。

ちょっとしたことですから、あえて文章にすることもないだろうと思うところ、日蓮は、文章にするのですね。

感謝の念を表現するのに躊躇がありません。

極めて実践的な人であることが分かります。

南条時光の訪問といい、必要としていたものを供養してくれたことといい、日蓮にとっては、うれしくて仕方がなかったのでしょうね。

なお、堀日亨編 『日蓮大聖人御書全集』 創価学会 1952 には、莚三枚御書の冒頭の真筆が付されています。参照いただくと分かる通り、「莚三枚」と大書されており、感謝の気持ちが文字にあらわれています。

なぜ、日蓮仏法が広まったのか。日蓮のこのような人間性が大きく影響しているでしょう。

全知全能の神の宗教でもなく、無機質な宗教でもなく、一人の人間として情感豊かであり、その人の宗教だからこそ、人を引き付けたのでしょうね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月27日

人間は環境によって変わりますが、変わらないものを持つべきです

代の末になり候へば・かんばちえきれい大雨大風ふきかさなり候へば広き心も・せばくなり道心ある人も邪見になるとこそ見へて候へ
兵衛志殿御書 1095頁

心が広く、道を求める人間であったにしても、経済的に困窮すると、心も狭くなり、ものの見方も曲がってくるということです。

人間は、環境によって、たやすく変わってしまうものです。

よって、どのような状態になっても、変わらない軸が必要でしょうね。

古来、その軸となってきたのが宗教といえるでしょうね。

どの宗教であれ、困難を乗り越えるために出てきたものであり、宗教それ自身も困難を乗り越えてきたという歴史があります。

経済的なことも大切ですが、その経済的なことを超えたところに宗教の意義があります。

仏教、キリスト教、イスラム教等々、経済的な救済よりは、魂の救済を目指しています。

経済的に困窮したからといって変わってしまうものではないのですね。

それどころか、経済的に裕福であるほうが宗教を保持し得ないようです。

キリスト教の知見を見てみましょう。

イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」
『聖書』 日本聖書協会 マタイによる福音書 19.23−24

お金持ちであるばっかりに、信仰できないということがあるようです。

こう考えますと、お金持ちになるのも考えものですね。

経済的に裕福になることは大切なのですが、それよりも大切なのは自らの命を仏にすることであり、そのための信仰がもっと大切なのですね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月26日

たった一言で命を落とす危険があります

一生が間・賢なりし人も一言に身をほろぼすにや
兄弟抄 1085頁

口は災いの元といいますが、その通りですね。

長年、言葉に気を付けて、賢人の名をとるほどの人間になったにしても、たった一言、口を滑らしたばかりに、命を落とすことがあると日蓮は指摘します。

そう、たった一言なのですね。多言は必要ないということです。

口を滑らすことは恐ろしいということですね。

賢人ではない凡人は、常に口を滑らしていますが、これでは、いつ命を落としてもおかしくないでしょう。

たまたま、天が忙しいので助かっているだけかもしれませんね。

いざとなると、すぐに天からの援助がなくなり、飢え死にすることになるでしょうね。

常に、美しい言葉、価値のある言葉、面白い言葉、麗しい言葉、楽しい言葉等々を口にする人間になっておきたいですね。

そのためにも読書は欠かせません。

御書、法華経をはじめとして、さまざまな文学、思想等々の本を読んでいくことが大切ですね。

人間は言葉によって生きている側面があります。

その言葉が充実することによって、人生の充実もあるのですね。

どうでもいい言葉は脇に置き、豊潤な言葉をひとつひとつ積み上げていくことですね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月25日

臨終の時、どのような相になるか

我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず
顕立正意抄 537頁

信心しているから大丈夫と安易に考えていると、臨終の時、阿鼻獄の相になってしまうようです。

そして、日蓮を恨もうとすると、日蓮は、私を恨んではいけません、と言います。

所詮、信仰とは、自分自身が行い、その結果はすべて自分自身が受け取ることに尽きます。

あの人が悪い、この人が悪いと言ったところで、何にもならないのですね。

あくまでも、自分自身の信仰の厚薄によるということです。

信仰が厚ければよいのですが、ほとんどの人は薄い。

よって、臨終の時、阿鼻獄の相になる。

何のために信仰しているか分かりませんね。

中途半端な信仰は、意味がありませんね。

信仰するならば、臨終の時、成仏の相になるように信仰しなければなりません。厚い信仰心が求められます。

そのためにも、御書、法華経の研鑽は外せませんね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月24日

先祖供養の効力はどこまでか

目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う、上七代・下七代・上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給う
盂蘭盆御書 1430頁

先祖を供養するにあたって、法華経を以て供養しますが、どこまで効力があるのか、少し気になるところです。

よく、上七代と言われますが、日蓮からすると、その上七代を踏まえながらも、上無量生まで効果があると言います。

何代目までという区切りがないのですね。

どこまでも先祖は供養されるということです。どこまでも遡れるわけですね。

圧倒的な功徳であり、圧倒的な供養です。

もちろん、上だけでなく、子孫も、下無量生ということで、法華経は永遠に効果があるようです。

ここで注意しなければならないのは、目連尊者が法華経を信じ、その大善によって仏になったことが前提である点です。

まずは、自分が仏にならなければ、先祖供養は成り立たないのですね。

万一、自分が魔性に取りつかれているならば、先祖も魔性に取りつかれるというわけです。

先程、確認したように、何代目までという区切りがありませんので、すべての先祖が魔性に取りつかれるわけですから、とんでもないことになりますね。

自分自身の信仰が研ぎ澄まされておりませんと、自分だけでなく、先祖にも悪い影響がありますので、気を付けなければなりませんね。

もちろん、自身が法華経の行者であり、仏たり得るならば、先祖にいい影響が与えられますので、申し分ないということです。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月23日

追善供養の際、念じる御文

此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし
報恩抄 329頁

追善供養を行う際、どのように念じるのが価値的なのか、いろいろ考えたところ、上記の御文の「故道善房」のところに、追善する人の名前を入れて追善するのがよいでしょう。

「此の功徳」とは、南無妙法蓮華経の功徳のことであり、自身が南無妙法蓮華経と唱えて得た功徳をそのまま追善すべき人に集中させるわけですね。

まずは、自分自身に功徳がなければ、追善は不可能です。

南無妙法蓮華経という根本たる法をもってして、追善が可能というわけです。

先祖を供養する宗教的振る舞いをしていく中で、我が身の源流に思いを馳せ、命そのものの価値を深く感じながら、雑多なものを取り払うことが肝要です。

生きていきますと、どうでもいいものがまとわりついてくるものです。

命そのものの価値を忘れがちになります。

しかし、先祖と自分自身との繋がり、つまり、その繋がりは命そのものの繋がりということですが、この繋がりから、命から物事を見た時に、ほとんどのことは副次的であり、雑多なものであることが分かります。

なぜ、先祖供養が大切なのか。それは、根本たる命を軸に生きていくためであり、どうでもいいことを灌ぎ落すためといえるでしょう。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月22日

あれこれするよりも、一番問題のあることをやらないことが効率的であること

如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには
立正安国論 24頁

人生においても、仕事においても、さまざまな問題が起こり、その対処のため、何かをしなければならないと考えることが多いですね。

しかし、あれこれといろいろなことをするよりは、一番問題のあることをやめてみるのがよいかもしれません。

あれもしよう、これもしようという態度ではなく、とにかく、しないという態度が大切と思うのですね。

実のところ、バタバタしたところで大したことができるわけでもなく、根本的な問題解決にならないことの方が多く、むしろ、問題がこじれる懸念さえあります。

とにかく、問題を分析していく中で、しなくてもよい事柄が見つかりますので、その中で、一番問題となっている事柄を見つけ、それをしないということが重要です。

やるのではなく、しないというのが重要なのですね。

作為ではなく、不作為で対処する方法です。

いつもこの方法が有効ということはないでしょうが、あれこれしてしまい、混乱状態が続く場合、視点を変えて、やらなくてよいこと、もっと言えば、やってはいけないことを見つけ、それを排除することの方がいい場合があります。

日蓮を読む場合、法然の念仏がどうのこうのという点だけでなく、日蓮の思考フレームを取り出し、それを現代の我々の事柄に応用すると価値的です。
posted by lawful at 06:00| 御書

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