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2015年09月23日

晩年の姿

有智の明匠とおぼしき人人の臨終の思うやうにならざるは是大謗法の故なり
題目弥陀名号勝劣事 112頁

智慧があり、第一級の人間と思われている人も、いざ、晩年の姿において、ままならない姿をさらすことがあり、それは大謗法のせいだということですね。

手厳しい指摘ですね。

人間、元気なうちは、ごまかしがきくというものです。

しかし、元気がなくなる晩年、ごまかしがきかなくなり、その人の本来の姿が出てきます。

言い換えると、その人が行ってきたことの集大成が晩年にあらわれるということですね。

大謗法があれば、その大謗法に見合った晩年が待ち受けているわけです。自分の思うようにならない晩年となるのですね。

晩年の姿をみれば、その人が分かるといえましょう。

ある意味、若い時(20代、30代)、勢力がある時(40代、50代)、判断能力が優れている時(60代、70代)はいいのですが、それ以降は、若くもなく、勢力も衰え、判断能力も落ちますから、80代以降は、ほとんど能力でどうにかなる年代ではありません。その人そのものが問われる年代なのですね。

その年代において、どうなるか。

思うようにならない晩年なのか、それとも、思うようになる晩年なのか、ここでその人が幸福であるかどうかが分かります。

厳しい現実でしょうが、考えてみれば、当たり前のことともいえます。

ごまかさずに生きていくということが大切ですね。

まともな信仰、価値のある信仰をすることによって、思うようになる晩年を迎えたいものです。

だいぶ先のことですが、今から考えておくことでしょうね。

死ぬ数年前に考えればよいことだ、などと言う人もありますが、それでは間に合わないでしょう。

そもそも、いつ死ぬか分からないのですから、常に考えておくべき事柄ですね。

思うようにならない晩年になってからでは遅いということです。
posted by lawful at 16:54| 御書

聖地巡礼

イスラム教には、メッカへの巡礼があります。

この聖殿への巡礼は、そこに旅する余裕のあるかぎり、人々にとって神への義務である。
『コーラン』世界の名著17 伴康哉訳 中央公論社 103頁(3:97)

巡礼は、神への義務なのですね。

イスラムの信仰をする上で、「余裕のあるかぎり」との留保はあるものの、サウジアラビアのメッカに行かなければならないようです。

所謂、聖地巡礼が必要ということですね。

では、日蓮仏法においてはどうか。

創価学会が日蓮正宗の信徒団体であったころは、静岡県にある総本山の大石寺への登山というものがありました。

その後、創価学会は日蓮正宗から団体ごと破門されましたので、総本山に行くことはなくなりました。

所謂、聖地巡礼ができなくなったのですね。

では、問題があるかというと、そうでもないようです。

法華経修行の者の所住の処を浄土と思う可し何ぞ煩しく他処を求めんや
守護国家論 72頁

そもそも日蓮仏法においては、これといった聖地がないのですね。

今いる場所が大切であり、そこが聖地と言っているわけです。ほかの所を求めるのは煩わしいこととさえ言っています。

確かに、日蓮の生涯を見ても、特定の土地に聖地を設定した形跡はありません。三大秘法禀承事において、

霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か
三大秘法禀承事 1022頁

とは言っていますが、特定の土地への言及はありません。

その代わり、日蓮は、伊豆、佐渡に流罪になっており、過酷な土地との縁があるようです。日蓮にとっては、どこであっても聖地ですから、困ることはなかったのでしょう。

特に佐渡での日々は苦しかったことと思われます。しかし、その佐渡において「開目抄」、「観心本尊抄」等々の重要な書を認めており、「法華経修行の者の所住の処を浄土と思う可し」を実践していたのですね。

晩年、身延に移りますが、ここも決して聖地といえるほどの土地ではありません。波木井実長が自らの領地に迎えたのであって、取り立てていい場所ということはありません。

日蓮にとって、聖地といえるほどの土地には縁がなかったといえますが、日蓮のいるところが聖地であったということでしょう。

我々も同様で、我々のいる場所が聖地なのですね。日蓮仏法の特色は、この点にあるといってよいでしょう。
posted by lawful at 16:09| 御書

大妄語をいくら集めても、所詮、大妄語であること

大妄語を集めて仏と・がうすとも但無間大城なり
報恩抄 311頁

嘘を100回言えば、本当になるとよく言われます。

確かに、愚人に対しては効果覿面でしょうが、賢人に対して効果はないでしょうね。

賢人からすれば、嘘はどこまで行っても嘘ですから、ごまかせないのですね。

それと同じように、大妄語をいくら集めても、大妄語であり、所詮、地獄界の境涯を出ることはありません。

この大妄語を集めて、仏であるぞ、と豪語しても、当然のことながら、仏にはなりません。

先程言ったように、愚人に対しては、ごまかしがきくでしょうが、賢人はごまかされません。

新宗教教団を観察しますと、ここでいう大妄語だらけであったりします。

いい加減なこと、間違ったこと、価値のないこと、意味不明なこと、本人もよく分かっていないこと、他者に害悪をもたらすこと等々、大妄語のてんこ盛りです。

その割には、「仏法です」と言うのですね。どう考えても、大妄語だらけですから「地獄法です」でしょう。

教団はごまかせると思っているのでしょう。実際、ごまかせているという現状があるので、調子に乗っているのでしょうね。

しかし、みんながみんな愚人ではなく、賢人たちは、その教団に愛想を尽かし、相手にしなくなります。

教団としては、こういっては何ですが、愚人が一定数いれば、教団運営ができ、教団の組織維持が図れるので、それでいいのですね。

日蓮の指摘は、当たり前のことを当たり前に言っているだけなのですが、愚人にはこの当たり前が通用しないのですね。洗脳とは、恐ろしいものです。
posted by lawful at 13:37| 御書

2015年09月21日

勤行において如来寿量品第十六を読誦する意義

勤行において、妙法蓮華経の如来寿量品第十六を読誦しますが、その意義について考えてみたいと思います。

なぜ、読誦するのかという根本的なところを明確にした上で、読誦すればより価値的です。

日蓮の言葉を確認しながら、考えてみましょう。

問うて云く法華経修行の者何の浄土を期す可きや、答えて云く法華経二十八品の肝心たる寿量品に云く「我常に此の娑婆世界に在り」亦云く「我常に此処に住し」亦云く「我が此土は安穏」文此の文の如くんば本地久成の円仏は此の世界に在り此の土を捨てて何の土を願う可きや、故に法華経修行の者の所住の処を浄土と思う可し何ぞ煩しく他処を求めんや
守護国家論 71−72頁

寿量品は、法華経二十八品のなかで一番重要な品と位置付けられています。最高の品であり、肝心の品というわけですね。

まずこの点において、寿量品を読誦する意義が見出せます。

日蓮は、その寿量品にある文を3つあげています。

「我常に此の娑婆世界に在り」と「我常に此処に住し」と「我が此土は安穏」との3つです。

ここでいう「我」とは、仏のことですが、この仏が常にこの世の中に存在していると言っています。

仏とは、遠くに存在するのではなく、今、ここにいると言っているのですね。

その仏も、「本地久成の円仏」ということです。本来の仏であり、久遠に成仏した仏、言い換えると永遠の仏であり、円満で完全無欠の仏というわけですね。

簡単に言うと、本仏といってよいでしょう。

この本仏が、今いる場所に存在すること強調し、他の場所を求めるのではなく、自分が今いる場所において、本仏となるよう修行に励むことを勧めています。

寿量品を読誦する意義とは、自らが本仏たり得るためといえるでしょう。

寿量品の最後に、

毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして
無上道に入り 速かに仏身を成就することを得しめんと
妙法蓮華経 如来寿量品第十六 493頁

とあるように、仏の願いは、衆生に仏身を成就させることであり、その仏も本仏であることから、衆生に成就させる仏身も本仏の身となります。

つまり、我々が本仏たり得るために寿量品が存在し、その寿量品を読誦することを通して、我々が自らの中から、本来の仏、本仏を開くということですね。

本仏を成就するために寿量品を読誦するという点を明確にしたうえで、読誦に勤しむのがよいですね。
posted by lawful at 14:30| 御書

2015年09月20日

余計なことは言わないこと

王位の身なれども思う事をば・たやすく申さぬぞ、孔子と申せし賢人は九思一言とてここのたびおもひて一度申す
崇峻天皇御書 1174頁

たとえ最高権力者の王であっても、いちいち思っていることを口にはせず、孔子ほどの賢人も思うことが九つあっても、実際に口に出すのはそのうちの一つだけということです。

余計なことは言わないということですね。

余計なことを言うと不必要なトラブルを招きます。

王や孔子ほどの人間であっても、言ってはいけないことがあるわけですから、我々凡夫などは、言ってはいけないことだらけといってよいでしょう。

ほとんど言うに値しない言葉ばかりであり、黙っておけばよいという次元でしょうね。

いずれにしても、言葉にするときは、必要なことだけを話すようにしなければなりません。

吟味に吟味を重ね、余計なことは言わず、重要なこと、大切なことを言うようにすることですね。

悪口などは言わず、流しておくことですね。

このことは取りも直さず、悪口の対象となる人のことを話題にしないということであり、そもそも、思考の段階において、不必要と認定し、脳内で削除しておくことですね。

一応、不必要と認定する段階で、悪口の対象となる人の好からぬ点を検討して、今後、その害悪が来た場合、対処できる準備は整えるものの、その準備が完了したのちは、削除でよいでしょう。

脳内に悪口の対象となる人が存在している限り、口に出してしまうという虞があります。

脳内において処理をしておくと「九思一言」が我々においても実現できます。

「九思一言」が実践できれば、余計なことが脳内になく、口にする必要もなくなりますので、自分自身も晴れやかな気持ちになれ、いいことだらけですね。

賢人たれば、僥倖が巡ってくるといえましょう。
posted by lawful at 16:04| 御書

2015年09月19日

忍辱の心を起こすことが功徳

無量義経の十功徳品第三には、十の功徳が説かれていますが、その第一の功徳の中に六波羅蜜の功徳があり、その中のひとつが「忍辱」ですね。

瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起こさしめ
無量義経 十功徳品第三 44頁

瞋りの感情が盛んな人間に対しては、耐え忍ぶ心を起こさせる必要があります。

瞋りとは地獄界の状態ですから、いつまでも地獄界で蠢くのではなく、まともな人間の世界に至れというわけですね。

正直なところ、瞋ったところで、何も得るものはありません。より一層、不愉快になるだけです。

耐え忍ぶということは、実践するのが難しく、つい、瞋ってしまいます。

しかし、そこを瞋らず、忍辱で乗り越えるために、無量義経があるということですね。

もっと言えば、無量義経よりも高位にある法華経に基けば、より一層、忍辱を身に付けることができるでしょう。

このように自分自身の感情をコントロールできることそれ自体が功徳です。

世間一般や迷走している教団がいう功徳とは大違いです。

本来、功徳とは、その人の生命状態そのものが仏であることを意味します。

仏が瞋ったままということはありえず、瞋ったにしても、次の瞬間は忍辱を行じているものです。

そのために無量義経、法華経を自分のものにすることです。
posted by lawful at 18:55| 法華経並開結

陀羅尼、呪文の本来の意味

自他ともの幸福を説く仏教においては、他者に不幸をもたらすことを願う「のろい」は容認されない。天台が『法華文句』で陀羅尼について「よく善を持し、よく悪を遮す」(国訳一切経四八一頁)と述べているように、仏菩薩の名を称える称名も陀羅尼も、善悪を区別しない盲目的な行為ではなく、悪を克服して善をもたらすための祈りであり「明呪」というべきである。
須田晴夫『新法華経論』ラピュータ 384頁

陀羅尼は、もともと、経典を記憶する力、善法を保持する力を意味していることから、「のろい」とは相容れないものですね。

あくまでも善を称揚するものなのですね。

陀羅尼は、呪文の意としても用いられるようになりますが、呪文も、本来は、教法や教理を記憶し保持するために用いたものであって、「のろい」とは関係しませんね。

陀羅尼、呪文は、もともと、善なるものを希求するためのものであり、悪とは正反対のものなのですね。

それにもかかわらず、呪という言葉に「のろい」という意味があるがために、呪文や陀羅尼にマイナスイメージが付きまといます。

もともとの意味を調べますと、全く違うわけで、言葉は正しく認識しておきたいものです。

その上で、言葉に対する信仰、文字信仰が成り立つと思いますね。

仏教といっても経典によって成り立っており、陀羅尼、呪文がたくさんあります。すべて言葉であり、文字なのですね。

よって、仏教信仰者は、言葉を信仰しているといえ、また、文字を信仰しているといえます。

その言葉、文字も「よく善を持し、よく悪を遮す」ものを信仰しているのであって、決して、「のろい」の言葉、文字を信仰しているのではありません。

時折、「のろい」を御祈念項目にしている人を見かけますが、少なくとも、それらの人々は仏教信仰者ではないですね。何教信仰者なのでしょうか。

いずれにしても、陀羅尼、呪文を唱えるならば、最高のものを唱えるべきですね。

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posted by lawful at 15:25| 仏教

2015年09月18日

忘れる技法

嫌なこと、鬱陶しいことは忘れるに限ります。

いちいち思い出しても仕方がないことは忘れるようにしなければなりません。

その割には、英単語はよく忘れます。

逆にすべきですね。

人生の時間は有限であり、しょうもないことに時間をかける暇などないのです。

嫌なこと、鬱陶しいことといっても、ほとんど、その原因となる人間のことですが、そもそも、その人間を思い出す必要があるのかと問えば、その必要性は全くないというのが答えになります。

忘れる義務があると考えておくのがよいですね。

忘れる技法を身に付けたいものです。
posted by lawful at 08:30| 雑感

2015年09月17日

苦楽ともに思い合せて

苛立たしい人に対しては,瞋るのではなく,呆れ果てるという対応が適切です。

また、瞋りの感情も時間が経てば、薄まっていきます。

どうでもいいことがはっきりしてきます。

一時の感情は、所詮、一時のことですから、長い目で見ていくことです。

いかに瞋らないか、という技術を得ることが重要ですね。

ストレスを貯めてはいけません。貯めていいのはお金だけです。

結局、境涯が低いと何事もうまくいきません。

境涯を上げていきましょう。

そのために信仰があるということですね。

ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず
四条金吾殿御返事 1143頁

賢人、聖人ですら、苛立たしい人間に絡まれるわけですから、凡夫たる私に苛立たしい人間が絡んでくるのは当たり前ですね。

ただただ、まともに相手にせず、ほっておくことですね。苛立たしい人間のために貴重な時間、エネルギーを使う必要はありません。

苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ
同書 同頁

苛立たしい人間に絡まれることは、苦しいことですが、楽しいことだけでなく、この苦しいことをも含めて南無妙法蓮華経と唱えることを日蓮は勧めています。

単なる題目で終わらせるのではなく、このように苦しいことをも、それはそれとして受け止めながら、より高い次元に至るための唱題行でありたいものです。
posted by lawful at 21:03| 御書

2015年09月16日

腹立たしい人間に対して瞋らないこと

仕事をしていますと腹立たしい人間と接することがあり、不愉快になるものです。

腹立たしい人間の生命状態は、十界論でいうところの地獄界、餓鬼界、畜生界であり、そもそも相手にするほどの人間ではないのですが、仕事であるため、全く相手にしないわけにもいかないのが辛いところです。

こちらも相手と同じように地獄界、餓鬼界、畜生界の生命になってしまっては何にもなりません。

よって、腹立たしい人間に対しては瞋らないということを徹底することですね。

瞋ったところで何ら得るものはありません。より一層、瞋った自分に嫌悪感を持つだけです。

まあ一寸腹が立つと仮定する。腹が立った所をすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちが既に他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。
夏目漱石『草枕』新潮文庫 38頁

ブログは、十七字の俳句ではありませんが、ブログを書くことにより、「既に他人に変じている」、つまり、第三者の地位に立つことができ、精神衛生上、好ましいと思いますね。

腹立たしい人間の土俵に上がるのではなく、あくまで自分の土俵で勝負すべきですね。相手のペースに乗らず、こちらのペースを堅持することです。

そのためにも、文章を書くことは、優れた対処法といえます。

腹立ちという感情の事柄を言語化することにより、客観的に見る癖をつけておきたいものです。

客観的に見ると、腹立たしい人間が、いかに取るに足らない人間かが明確になり、このような人間をまともに相手にしてどうするのだという気持ちが湧いてきます。

とにかく、瞋らず、冷静に対処する習慣を身に付けることですね。

大体、第一級の人間は、皆、そのようにしていますものね。

我々も第一級の人間になるべきですね。仏教的に言いますと、本仏となりますでしょうか。困難であっても、目指すべき道だと思います。
posted by lawful at 21:28| 文学

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