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2015年07月29日
ちょっとしたことを始め、効率を考えること
人の日常が変わらないのは、最初の一番小さな行動「スモールアクション」ができていないからなのです。そのスモールアクションさえもできていないのに、いきなり大きな行動「ビッグアクション」を求めてしまうため、すぐに挫折してしまうのです。
小山竜央『5分の使い方で人生は変わる』KADOKAWA 24頁
生活、人生が変わるには、小さなことの積み重ねが必要でしょうね。
それにもかかわらず、大きく変えようとして、上手く行かず、結局、何も変わらない。もっと言うと、以前より悪化しているという人が多いかもしれません。
「スモールアクション」という視点は重要ですね。
私の場合、御書を読んでいるわけですが、「スモールアクション」で読んでいますね。勤行の際、2頁を読む程度です。それ以上読むこともありますが、何十ページも読むことはありません。
御書は、1600頁の書ですから、2頁ずつであれば、約2年で読み終わります。
実際、読み終えた時は、1年半かかったように記憶しています。
読むぞ、読むぞと意気込んでいる時は、1頁も読んでいないのですね。
しかし、毎日、2頁程度であれば、10分もあれば読めますので、難しいことではありません。
「スモールアクション」を続けると、物事の完遂が可能です。
成果を出す人の仕事の本質というのは、もっと頑張ろうなどと思わないで、頑張らなくていい方法を考えることにあるように思います。
同書 177頁
無駄な動きをして、忙しそうにしている割には、儲けが少ない社長さんがいるものです。何らの成果も出していないのでしょうね。
忙しいふりをするのが目的なのか、成果を出すこと、つまり、利益を上げることが目的なのか、よく分かっていないのでしょう。
利益を上げることを考えるならば、効率を良くしようという考えに至るのですが、そうならないところを見ると、何も分かっていないということですね。
目的は、成果ですから、成果が上がればよいわけです。より一層、成果を上げようとするならば、時間、エネルギーは有限ですから、頑張らなくてもよい方向に舵を切らざるを得ませんね。
頑張ってどうにかなることには限度があります。限度を超えるためには、頑張るという発想を捨てなければなりません。
しかし、頑張っていると、それなりに充実感があるものですから、その快感に囚われてしまうのでしょう。
目的を明確にしておきませんと、充実感とやらで、道を誤りますので注意しておきましょう。
瞋りと愚癡とを取り除く方法
人間、生きている限り、瞋りの感情に苛まされ、つい、愚癡をこぼしてしまうものです。
そのような時、どうすればよいのか。法華経を見て考えてみましょう。
ポイントは、観世音菩薩を恭敬するというところですね。
いたるところで観音信仰を目にしますが、このような相当な功徳があるからこそ、信仰されているのですね。
この観世音菩薩を大切にすると、瞋りの感情が収まり、愚癡を言わなくてもよい状態になるようです。まさに功徳といえます。
観世音菩薩の力が莫大ということですが、そもそも、この観世音菩薩普門品は、法華経の内、第二十五の品として存在しています。
つまり、法華経を大切にすることは、すなわち、観世音菩薩を大切にしていることに繋がるのですね。
法華経、略さずに言うと妙法蓮華経ですが、この妙法蓮華経に南無することにより、観世音菩薩の功力を得ることができるわけです。
南無妙法蓮華経という題目は、単なるお題目ではなく、妙法蓮華経の中にある事柄を現実化するための題目と考える方がより実践的ですね。
南無ということは、帰依する、帰命するということですが、自らの命を吹き込むことと考えるとより実践的になります。
妙法蓮華経に自らの命を吹き込み、妙法蓮華経から多大な功徳を得る。そして、再び、自らの命を吹き込み、再び多大な功徳を得る。この繰り返しが唱題行なのだと思います。
当然のことながら、法華経を読まなければ、法華経を現実化するといっても、何のことかチンプンカンプンでしょうから、まずは、法華経そのものを読むということが求められます。
南無妙法蓮華経という題目をあげていきながら、観世音菩薩普門品第二十五のとおり、瞋りを鎮め、愚癡を取り除くことが肝要です。そのための題目なのですから。
題目を唱えていながら、瞋りのまま、愚癡だらけであるならば、その人の題目は、偽物と判断してよいでしょう。法華経通りでないのですから。
自分の題目が本物か、偽物か、法華経を読んで確認する作業が欠かせませんね。
そのような時、どうすればよいのか。法華経を見て考えてみましょう。
若し瞋恚多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち瞋を離るることを得ん。若し愚癡多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち癡を離るることを得ん。
梵漢和対照・現代語訳『法華経』下 岩波書店 496頁
ポイントは、観世音菩薩を恭敬するというところですね。
いたるところで観音信仰を目にしますが、このような相当な功徳があるからこそ、信仰されているのですね。
この観世音菩薩を大切にすると、瞋りの感情が収まり、愚癡を言わなくてもよい状態になるようです。まさに功徳といえます。
観世音菩薩の力が莫大ということですが、そもそも、この観世音菩薩普門品は、法華経の内、第二十五の品として存在しています。
つまり、法華経を大切にすることは、すなわち、観世音菩薩を大切にしていることに繋がるのですね。
法華経、略さずに言うと妙法蓮華経ですが、この妙法蓮華経に南無することにより、観世音菩薩の功力を得ることができるわけです。
南無妙法蓮華経という題目は、単なるお題目ではなく、妙法蓮華経の中にある事柄を現実化するための題目と考える方がより実践的ですね。
南無ということは、帰依する、帰命するということですが、自らの命を吹き込むことと考えるとより実践的になります。
妙法蓮華経に自らの命を吹き込み、妙法蓮華経から多大な功徳を得る。そして、再び、自らの命を吹き込み、再び多大な功徳を得る。この繰り返しが唱題行なのだと思います。
当然のことながら、法華経を読まなければ、法華経を現実化するといっても、何のことかチンプンカンプンでしょうから、まずは、法華経そのものを読むということが求められます。
南無妙法蓮華経という題目をあげていきながら、観世音菩薩普門品第二十五のとおり、瞋りを鎮め、愚癡を取り除くことが肝要です。そのための題目なのですから。
題目を唱えていながら、瞋りのまま、愚癡だらけであるならば、その人の題目は、偽物と判断してよいでしょう。法華経通りでないのですから。
自分の題目が本物か、偽物か、法華経を読んで確認する作業が欠かせませんね。
自らに仏を観ること、本仏を見ること
仏と申す事も我等の心の内にをはします・譬へば石の中に火あり珠の中に財のあるがごとし、我等凡夫はまつげのちかきと虚空のとをきとは見候事なし、我等が心の内に仏はをはしましけるを知り候はざりけるぞ
十字御書 1491頁
仏法の根本は、自らの内に仏があることを観て、その仏を開いていくことです。
しかし、凡夫は、自分の中に仏があることを知らず、あっちふらふら、こっちふらふらという状態です。
知らないのですから開きようがありません。
あなたの中に仏があると言っても、「そんなものがあるものか」と悪態をつくのが関の山でしょう。
信仰とは何かというと、自らの仏の存在を信じることができるかどうか、ということですね。
他人を信じるのではなく、他人の集団である組織体を信じるのではなく、あくまでも自分の中にある仏を信じるということです。
単に、自分を信じるというわけでもないのですね。自分の中の取るに足りないところは、信ずるに値しませんから、信仰の対象になり得ません。
そうはいっても、仏なるもの、本仏なるものを認識することは困難です。
よって、信仰の次元での事柄となるわけです。
認識できるならば、認識しておればよいので、信仰する必要はありません。
「石の中に火あり珠の中に財のあるがごとし」とあるように、仏とは不思議なものなのですね。信仰を通してしか接点が得られないといえましょう。
自らの仏を信仰し得たならば、その後はどのように信仰を続けていけばよいのか。日蓮の言葉を見てみましょう。
我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・なにのなげきか有るべき、きさきになりても・なにかせん天に生れても・ようしなし
富木尼御前御返事 976頁
自らの仏を疑わないならば、何らの嘆きもありませんよと言われています。
女性信徒宛ての手紙ですから、妃を例えにして、妃になったところで成仏が叶わないならば、意味がないと言っています。
また、天に生まれたにしても、成仏が不能であれば、価値はないと言っているわけですね。
世間的な位がいくら高くても、楽園のようなところがありそこに生まれることができたにしても、あくまでも根本は成仏ですから、その成仏という観点からすると、妃や天など、もはや議論にならない次元のことという姿勢が窺われます。
目指すべきは、仏、本仏、成仏というわけですね。
この信仰が透徹していくならば、嘆きなし、ということですから、嘆きがある場合、自分の信仰はまだまだであると分かります。その都度、自らの仏に立ち返り、信仰に磨きをかけ続けるというのが大事になります。
2015年07月28日
「法水写瓶」「血脈相承」を検討する
日蓮正宗の教義に日蓮本仏論があり、その本仏からの「法水写瓶」「血脈相承」ということで、代々の法主に受け継がれ、法主は特別であると強調されることがあります。
ただ、日蓮仏法からすると、釈尊も本仏であり、日蓮も本仏であり、凡夫も本仏ということですから、当然、我々も信仰を透徹させることによって本仏となります。
これといった差はないわけですね。所詮、信仰心次第ということです。
文証は、本尊抄にある通りですね。
受持すれば、信仰すれば、因果の功徳が得られるということで、別の言い方をすると本仏たり得るということです。
それも、思いもかけず宝の集まりが降ってくるというイメージですね。
日蓮は、重ねて、法華経方便品の文を以て、釈尊と一切衆生とが共に仏であること、もっと言えば、本仏であることを強調しています。
「法水写瓶」「血脈相承」というのが日蓮正宗の特徴をあらわす教義ですが、我々からすれば、別にどうでもいいわけです。
日蓮正宗が「法水写瓶」「血脈相承」を主張することは、日蓮正宗の内部のことですから、お好きにどうぞ、というところですね。
我々の態度としては、あくまでも、「御書」「法華経」を軸に信仰をするだけですね。
そうはいっても、一時期は、日蓮正宗の教義におんぶにだっこで甘えていたことは確かであり、大御本尊だ、法水写瓶だ、血脈相承だ、伝統があるんだ、総本山だ等々と言って、安心しきっていたわけで、思考停止信仰者であったことは、反省しなければなりません。
どこかに確実なもの、絶対なものを欲するのが人間である以上、日蓮正宗の教義は、そのような人々にとって魅力的でありました。また、便利でもありました。
取るに足らない自分を誤魔化すためには、確実な絶対な何がしらのものが必要です。
このようなものを欲する態度は、まさに、他力本願であり、浄土宗、念仏宗の態度に近いですね。
日蓮は、守護国家論、立正安国論で、このような他力本願の態度を強烈に批判しました。誤魔化さずに自らの信仰によって自らの仏を開けと主張していたわけです。
日蓮にとっては、秘儀は必要ないでしょうね。日蓮は、とにかく、文字で法門を綴った人です。ある時は大胆に、ある時はこと細やかに法門を明らかにしていった人です。秘すという態度はありません。書いているのですから。物証を残しているのですね。
そもそも、一切経、大蔵経は、すべて公開されており、比叡山に行けば、全部参照でき、読めるわけで、その比叡山にて研鑽をしてきた日蓮ですから、このような開かれた中で連綿と仏教が引き継がれてきたという伝統の中にいた人が、あえて秘すという発想にはならなかったでしょう。
密教だなんだといって、秘密の法門と言いたい人もいるでしょうが、このような人は、真言密教の気があるといえますね。
日蓮は、このような真言密教的な態度も執拗に批判しました。なぜ、明らかにしないのか、ということですね。日蓮は、何かにつけ、文証を出せですからね。秘密の法門などと言うと、日蓮から笑われるでしょう。
また、秘儀などと言いたい人の心理を考えますと、自分だけは素晴らしいものを持っていると言いたいのでしょうね。ほかの人にはないけれども、自分には秘儀なるものがあるといい気になりたいのでしょう。
このような態度は、自分だけがすごいと思う自惚れた態度ですから、やや禅的ですね。日蓮は、このような禅の態度も厳しく批判しました。自分だけでどうする、ということですね。
日蓮にとっては、「法華経」という根本となる経典があったわけで、念仏的、真言密教的、禅的な態度は必要なく、法華経的な態度で十分でした。
それこそ、余計なことをする必要はないという考え方なのですね。「正直捨方便・不受余経一偈」という態度ですね。
そう考えますと、「法水写瓶」「血脈相承」とは、余計なものに見えてきますね。
日蓮的ではないですね。もっと言うと、日興的でもないともいえましょう。
そうしますと、一体、日蓮正宗とは、誰を始祖としているのでしょうか。よく分からなくなりますね。
「御書」を読み、「法華経」を読めば、答えは出ており、豊潤な法門を目の当たりにすることができます。「法水写瓶」「血脈相承」という、言ってみれば、小ネタなど、どうでもよいことであるということに気付くでしょう。
日蓮仏法は、矮小な仏法ではなく、広がりのある仏法です。
日蓮その人も捉えどころがないほどの大きな人物です。その日蓮からすれば、小さい湯呑のお茶を別の小さい湯呑に注いで喜んでいる姿は想像できませんね。
法華経薬草喩品にあるように「世間に充足すること雨の普く潤すが如し」「我れは法雨を雨らして世間に充満す」というのが法華経のスケールであり、日蓮的といえるでしょう。規模が違うということですね。
ただ、日蓮仏法からすると、釈尊も本仏であり、日蓮も本仏であり、凡夫も本仏ということですから、当然、我々も信仰を透徹させることによって本仏となります。
これといった差はないわけですね。所詮、信仰心次第ということです。
文証は、本尊抄にある通りですね。
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、四大声聞の領解に云く「無上宝聚・不求自得」云云、我等が己心の声聞界なり、「我が如く等くして異なる事無し我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」、妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや
如来滅後五五百歳始観心本尊抄 246頁
受持すれば、信仰すれば、因果の功徳が得られるということで、別の言い方をすると本仏たり得るということです。
それも、思いもかけず宝の集まりが降ってくるというイメージですね。
日蓮は、重ねて、法華経方便品の文を以て、釈尊と一切衆生とが共に仏であること、もっと言えば、本仏であることを強調しています。
「法水写瓶」「血脈相承」というのが日蓮正宗の特徴をあらわす教義ですが、我々からすれば、別にどうでもいいわけです。
日蓮正宗が「法水写瓶」「血脈相承」を主張することは、日蓮正宗の内部のことですから、お好きにどうぞ、というところですね。
我々の態度としては、あくまでも、「御書」「法華経」を軸に信仰をするだけですね。
そうはいっても、一時期は、日蓮正宗の教義におんぶにだっこで甘えていたことは確かであり、大御本尊だ、法水写瓶だ、血脈相承だ、伝統があるんだ、総本山だ等々と言って、安心しきっていたわけで、思考停止信仰者であったことは、反省しなければなりません。
どこかに確実なもの、絶対なものを欲するのが人間である以上、日蓮正宗の教義は、そのような人々にとって魅力的でありました。また、便利でもありました。
取るに足らない自分を誤魔化すためには、確実な絶対な何がしらのものが必要です。
このようなものを欲する態度は、まさに、他力本願であり、浄土宗、念仏宗の態度に近いですね。
日蓮は、守護国家論、立正安国論で、このような他力本願の態度を強烈に批判しました。誤魔化さずに自らの信仰によって自らの仏を開けと主張していたわけです。
日蓮にとっては、秘儀は必要ないでしょうね。日蓮は、とにかく、文字で法門を綴った人です。ある時は大胆に、ある時はこと細やかに法門を明らかにしていった人です。秘すという態度はありません。書いているのですから。物証を残しているのですね。
そもそも、一切経、大蔵経は、すべて公開されており、比叡山に行けば、全部参照でき、読めるわけで、その比叡山にて研鑽をしてきた日蓮ですから、このような開かれた中で連綿と仏教が引き継がれてきたという伝統の中にいた人が、あえて秘すという発想にはならなかったでしょう。
密教だなんだといって、秘密の法門と言いたい人もいるでしょうが、このような人は、真言密教の気があるといえますね。
日蓮は、このような真言密教的な態度も執拗に批判しました。なぜ、明らかにしないのか、ということですね。日蓮は、何かにつけ、文証を出せですからね。秘密の法門などと言うと、日蓮から笑われるでしょう。
また、秘儀などと言いたい人の心理を考えますと、自分だけは素晴らしいものを持っていると言いたいのでしょうね。ほかの人にはないけれども、自分には秘儀なるものがあるといい気になりたいのでしょう。
このような態度は、自分だけがすごいと思う自惚れた態度ですから、やや禅的ですね。日蓮は、このような禅の態度も厳しく批判しました。自分だけでどうする、ということですね。
日蓮にとっては、「法華経」という根本となる経典があったわけで、念仏的、真言密教的、禅的な態度は必要なく、法華経的な態度で十分でした。
それこそ、余計なことをする必要はないという考え方なのですね。「正直捨方便・不受余経一偈」という態度ですね。
そう考えますと、「法水写瓶」「血脈相承」とは、余計なものに見えてきますね。
日蓮的ではないですね。もっと言うと、日興的でもないともいえましょう。
そうしますと、一体、日蓮正宗とは、誰を始祖としているのでしょうか。よく分からなくなりますね。
「御書」を読み、「法華経」を読めば、答えは出ており、豊潤な法門を目の当たりにすることができます。「法水写瓶」「血脈相承」という、言ってみれば、小ネタなど、どうでもよいことであるということに気付くでしょう。
日蓮仏法は、矮小な仏法ではなく、広がりのある仏法です。
日蓮その人も捉えどころがないほどの大きな人物です。その日蓮からすれば、小さい湯呑のお茶を別の小さい湯呑に注いで喜んでいる姿は想像できませんね。
法華経薬草喩品にあるように「世間に充足すること雨の普く潤すが如し」「我れは法雨を雨らして世間に充満す」というのが法華経のスケールであり、日蓮的といえるでしょう。規模が違うということですね。
2015年07月26日
断捨離は永遠に続くこと
まず仕事部屋の本と雑誌を選別した。まとめてみると、読もうと思ってとっておいたけれど、ついに読まなかった本、雑誌、ビデオがこんなにあったのかと、ため息が出た。「いつかきっと資料になるだろう」と思ってとってあった本や雑誌は、その大半が二度と役に立つこともないと知った。
井形慶子『イギリス式お金をかけず楽しく生きる!』講談社 154頁
「いつかきっと資料になるだろう」というのがキーワードですね。
そう、資料になると思ってしまうのですね。しかし、資料にはなり得ない。つまり、ただのゴミというわけです。
本や書類は、紙であり、一枚一枚は軽量ですが、重なると相当な重みのあるものと化します。収集する時は、大したことがなくても、処分する時には、重労働を強いられます。知性の象徴である本で重労働とは、皮肉なものです。
以前の私もたくさんの本がありました。いずれ読むだろうという本もたくさんありましたが、読むこともなく、処分しましたね。
CD、DVDにしても、ほとんどは、再び聴かず見ずですから、処分しました。一度も見ることがなかったDVDもあったのですから、あきれるばかりです。ものを買うことに快感があったのでしょうか。若しくは、収集癖があったのでしょう。
本を収集している時は、あとで役に立つだろうと思うのですね。いつか、いずれ、あとで、という言葉に象徴されるように、今ではないのですね。全部、先々なのですね。
先々というのは未来志向であり、それはそれで結構なのですが、その未来の見通しが甘いという致命的な欠陥があるのですね。
読み切れないほどの本を買っておきながら、いずれ読めると勘違いするのですね。なぜでしょうね。
本の冊数と自分の残された時間を考えると、どう考えても読み切れないのですが、本を収集している時は、読めると思うのですね。
ある時に猛烈に本が読めるときが来ると夢想していたのかもしれません。
しかし、今、読めないものが、どうして先々読めるようになるのか。自分の中で突然変異が起こるとでも思っていたのでしょう。分かりやすく言うと、ただのおバカさんということですね。
自分をただのおバカさんと認めるのは辛いことですが、事実は事実として認識するほかありません。誤魔化しても、意味がありませんからね。
大半の本を処分したとはいえ、それでも数十冊は蔵書があります。その中で、読んでいない本が3冊あったので、まずは、読みました。なかなか参考になる良書ではありましたが、再び読むかと自問したところ、二度目はないと感じましたので、処分することにしました。
多くの本を処分したと思っていても、やはり、処分しなければならない本が出てくるのですね。
本以外でも、もう使うことのない紙袋、3つもあるイヤホン、もう使うことがないアダプター、うまく作動しないプリンタなども処分しましたが、断捨離をしているようで、まだまだということでしょう。細かく再点検すると、いろいろ出てきます。
生きている限り、何がしらのものを購入しますので、その都度、使用後は処分しておかないと、家が要らないものだらけになります。
油断するとものが増えるという時代ですから、出口も大事ですが、入口の時点で要注意しておくことですね。
株の買い方
株というものは毎日見る立場になると浜辺に立って海を見ているようなものですから波の高い低いだけが目についてしまいます。うっかりすると波の高い低いが海の動きだと錯覚を起こしてしまいます。
しかし、海を見て最も大切なことは潮の流れがどう変化するかということです。魚は潮の流れの中にいるのであって波打際にいるわけではありません。それと同じように証券界の潮の流れを見る場合も、証券界と一定の距離をおいて遠くから見る方がより正確にキャッチできるというのが私の意見です。
邱永漢『損をして覚える株式投資』PHP新書 172頁
この波と潮の流れとの譬えは絶妙ですね。
近視眼的になると肝心なことが見えなくなることをあらわしています。
確かに、波打際に魚はいませんね。潮の流れの中には数え切れないほどの魚がいます。
魚が欲しいのに波打際でうろうろしても仕方がないでしょう。海水浴ではないのですから。
そう考えますと、本物の投資家は漁師のようなもので、板子一枚下は地獄とばかりに身銭を切り、ある意味、命がけで投資をします。
しかし、偽物の投資家は、波打際で海水浴です。魚を手にすること、つまり、利益を上げることはありません。それどころか、波打際に行くまでの交通費だけ損をしているだけです。
株価を見て、株を買うと、その株は値下がりします。
会社を見て、株を買うと、その株は値上がりします。
なぜ、このようなことになるのだろうかと思っていましたが、株価を見るとは、波打際で波の高い低いだけを見ているということであり、会社を見るとは、潮の流れを見ているということだからなのでしょうね。
株を買う場合、あくまでも会社を見て株を買うべきであり、株価のみに囚われないようにすることですね。
目先の利益を追う時は、損をするものです。
キャピタルゲインを目指すのではなく、インカムゲインを目指す方がよいですね。
毎年の配当も10年続けば、それなりの金額になります。
2015年07月25日
整理・整頓とは
整理・整頓の定義そのものは、きわめてシンプル。次のようなものです。
・整理する=「いるもの」と「いらないもの」を分け、「いらないもの」は捨てる
・整頓する=「必要なもの」を「必要なとき」に「必要なだけ」取り出せるようにする
トヨタの片づけのすべては、ここから始まります。
(株)OJTソリューションズ『トヨタの片づけ』中経出版 44頁
言い尽くされていますね。
まずは、「いらないもの」を捨てる。
これで、片付けのほとんどは、完了していると言っても過言ではありません。
必要なものを必要な時に必要なだけ取り出せるというのは、極めて高度なことといえます。
高度なことを目指すためにも、最初に「いらないもの」をあぶり出し、捨てることですね。
「いるもの」と「いらないもの」とを区別するのが大変と思われる人もいるとは思いますが、心配しなくとも、ほとんどのモノは「いらないもの」です。
「いるもの」と勘違いしているだけです。
そもそも、モノが多すぎるという事実に目を向けるべきでしょう。そんなにいらないでしょう、というのが私の感想です。
実際に使っているものは、捨てる必要はありません。使っているのですから、捨てようがありません。
自分の体はひとつですから、使うといっても数は限られます。そう、その分だけでよいのですね。それ以外のモノは捨てればよいですね。
そうしますと、結果的に、必要なものを必要な時に必要なだけ取り出すことができます。
結果的にそうなるのですね。もちろん、捨てに捨てての話ですが。
ほとんどのモノは要りません。必要なものは、極めて少数です。それで困ることはありません。
このことが分かれば、片付けは可能です。分からなければ、片付けは不可能です。
所詮、片付ける人が理解できているか、腹の底から納得しているかにかかっているといえるでしょう。
分かっていれば、あとは、捨てるという行動を起こすだけでよいのですから。
整理には3つの効果があること
整理には大きく分けて3つの効果があります。
@ 時間的効果
A 経済的効果
B 精神的効果
大法まみ『頭がよくなる整理術』主婦と生活社 16頁
モノを捨てて、片付けを行うと、気分がすっきりする効果がありますが、もう少し詳しくみてみると、時間的効果、経済的効果、精神的効果があることが分かります。
モノを捨てておけば、そもそもモノが存在しませんから、そのモノに対して使う時間は存在しません。よって、時間の余裕ができます。
また、新たにモノを買わなければ、お金を使いませんので、お金が貯まります。まさに経済的というわけです。
時間とお金とであれば、明確に認識できるものですから、分かりやすいですが、その分かりやすいことよりも、もっと重要なのは精神的な効果なのでしょう。
先程、気分がすっきりすると書きましたが、この効果、つまり、精神的効果が一番重要なのかもしれません。
確かに、時間も大切であり、お金も大切ですが、人間にとって精神的に安定していることが最も大切です。
モノを捨てる、片付けるということは、単なる整理整頓という話ではなく、人間の本質に関わる次元の事柄であると認識しておくことですね。
2015年07月19日
ドストエフスキーよりも日蓮を読む方がよいこと
ドストエフスキーの傑作『カラマーゾフの兄弟』を読んだことがあるだろうか?
未読の人には声を大にして言いたい。
「とにかく今すぐに読み始めろ!」「そうすれば人生が開けるから」と。
なかにし礼 『人生の教科書』ワニブックス 36頁
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が世界最高の小説ということで、学生時代に読み始めたことがあります。
新潮文庫では、上巻、中巻、下巻と3冊でしたね。3冊とも購入し、読み始めたのですが、上巻の真ん中あたりまで読んだところで、ストップしてしまいました。
正直なところ、面白みが感じられず、興味も続かなかったのですね。『罪と罰』は最後まで読み進めたのですが、『カラマーゾフの兄弟』は、途中でプツンと途切れたという感じでしたね。
いずれ読み続けるだろうと思いながら、結局、読み続けることもなく、後日、本は処分しましたね。
処分する前に本を確認したところ、中巻の一部分を丹念に読み込んでいた形跡がありました。何かの本を読んだ際、中巻のその部分が関連しており、そこだけ確認して読んだのでしょう。
いずれにしても、私にとって、『カラマーゾフの兄弟』は、その程度の縁しかなかったということですね。
結局、有名な「大審問官」の部分を読むことなく、それぎりです。
なかにし礼さんは、とにかく読め、と強調されます。理由として、『カラマーゾフの兄弟』が大作であることをあげ、続いて以下の理由をあげられています。
言わずと知れた世界文学史上に燦然と輝く大作家、ドストエフスキー。彼は帝政ロシア時代の革新派で、逮捕されて死刑宣告を受けたあと、シベリアへ流刑となった。結局獄中で殺されることはなかったが、銃殺刑寸前まで追いつめられたこともあるという。そんな彼の処刑を前にした心の動きというのはもの凄いものがあって、思想を、神を、人生の矛盾を、愛を、世界のことを考え抜いた大作家の知見がつまった本を2週間かけて読むと、ドストエフスキーが一生かけて学んだ膨大な知識と、喜怒哀楽など、彼の人生の追体験ができることになる。
そうすれば、今自分が悩んでいることがいかに小さいか、人生とはなんと深いものかということが理解できる。
同書 37−38頁
流刑に遭い、処刑寸前のこともあった人物の書を読むことにより、膨大な知識と喜怒哀楽に触れることができ、自分の悩みがいかに小さく、人生の深さを理解することができるといいます。
確かに、『カラマーゾフの兄弟』は気になる小説であり、傑作で大作であろうとは思いますが、以前のこともあり、読む価値があるのだろうかと訝しく思えます。
なぜ、このように思うのかといいますと、実は、ドストエフスキー以上の強烈な人物の書を読んでいるからですね。
その人は、日蓮なのですが、まさに、日蓮は、流刑に遭い、それも2回です。もうこの点でドストエフスキーを超えています。
また、竜口の頚の座があり、処刑寸前という経験もしています。
松葉ケ谷の法難について分かりやすく言うと、これは放火ですから、命の危険に遭っており、小松原の法難は、所謂、テロに遭ったようなもので、殺されそうになっています。
命の危険という観点からすると、3回も殺されそうなことに遭っているのですね。これまた、ドストエフスキーを超えています。
日蓮は、比叡山に修行に行っていますので、一代聖教を読み、各種仏教書を読み込んで膨大な知識を得た人物です。
日蓮の書を読めば分かりますが、これほど喜怒哀楽を文章で表現し得る仏教者はいないだろうという程の人であり、多作の人でありました。
日蓮の人生からすると、我々の人生はあまりにも小さい。
日蓮の書を読むと、そのことを痛感します。
別に、ロシアの人でなくとも、日本に然るべき人がいるではないか、と思えるのですね。
100年前の人でなく、700年も前の人がいるではないか、ということです。
キリスト教を土台とした西洋文学よりも、日本人であるならば、日本の仏教者の書を読むべきだろうと思います。私の場合、日蓮ですが、その他にも仏教者はいますし、重要な書を探すのに苦労することはないでしょう。
日本の伝統を知らずして、どうするのかというところです。
自らの依って立つべきところを固めた上で、キリスト教を土台とした西洋の書を読むことは重要だろうとは思いますが、まずは、日本の先人に学ぶことでしょう。
自分自身を形作っている日本の伝統を知った上で、西洋の書を読むのがよいですね。
あと、宗教的なことを言うと、日蓮を読むことは、即、私の信仰に関わってきます。読んだ瞬間に私の信仰と響きあうのですね。
これがドストエフスキーであった場合、なるほど、西洋のものの考え方、神とは、愛とは、ということを知り得ますが、知識としてそれらを得るだけであって、私そのものに響くかといいますと、そう響かないと思われます。
それは、私の信仰が仏教であるからでしょう。やはり、宗教は重要なファクターですね。
クリスチャンであるならば、逆の結果になるでしょう。
何を信仰しているかで、その人の方向性は、ある程度、決まるものですね。
私の場合、日蓮仏法を基軸に方向性が決まるというわけです。よって、日蓮の書が根本になるということです。
ドストエフスキー程の人であっても、私にとっては、さほど重要な人ではないのですね。
私の場合、「とにかく日蓮の書(御書)を読め」「そうすれば仏が開かれるから」となりますでしょうか。
根本となる書は、一度読んでおしまいではなく、何度も読み返すことによって味わいが出てくるものです。
人生の時間が有限である以上、あれもこれもという態度では、時間が足りません。自分自身にとって必要な書に焦点を定めることが大切です。
そして、その書を何度も読むことです。これが本当の読書といえるでしょう。
社説とは何か:「社説」政党には政権担当能力がないこと
社説とは何かについて、早坂茂三氏が書かれた文章があります。まずは、確認してみましょう。
元々、『オヤジとわたし』は、1987年(昭和62年)1月に発行されていますから、今から28年も前の本です。
しかし、ここで述べられていることは、今でも見受けられることです。
何にも変わっていないということでしょう。
子供の頃、学生時代、20代の頃はよく分からなかったけれども、年を取るにしたがって、世の中のことが分かってくるものです。
特に、政権交代があった後、より一層、世の中が見えてきたように思います。
政権交代の前、野党は言いたい放題でありました。
政権を取った後、どうであったか。それなりに頑張ったでしょうが、政権担当能力のないことを証明しただけでした。
政権を取って、すっかり舞い上がってしまったのですね。舞い上がってどうする、ということなのですが、本人たちは、いい気になり、お気楽でありました。簡単に言うと、無責任であったのですね。
そのことから、再び、政権交代となり、保守政党が政権に戻りました。
保守政党に問題点があるとはいえ、政権担当能力がありますので、一応、評価できます。
野党に戻った政党は、相変わらず、所謂、「社説」議論でお茶を濁しています。
当分、保守政党の政権が続くことになるでしょう。
健全な政権交代を望んでいたのですが、そうはならなかったですね。
残念ですが、無責任政党で、「社説」政党では、話にならないということです。
ただ単に言うだけでなく、実現可能性を踏まえながらの言説を望みたいですね。
別に難しいことを要求しているわけではありませんので、もう少し、まともに議論をしてほしいものです。
やはり、「社説」レベルでは、何事も変わりません。単なるポーズですから。
格好が悪いのに、自分では格好が良いと勘違いしているのが、「社説」の人々といえます。
いつまでもイメージや印象操作でどうにかなるという、間違った考え方を改め、責任のある政党として精進してもらいたいところですが、精進しないでしょうね。
ある一定期間は、無責任な野党の時代が続くでしょう。その人たちが亡くなった後、まともな野党を作り上げる人が増えていけば、いずれ、政権交代が可能になるでしょう。
10年、20年、30年単位で考えざるを得ないですね。
今後、政治を観察する際、この政治家は、まともな議論をしているのか、それとも、「社説」議論をしているのか、早坂茂三氏の分析を参考に見抜いていくことですね。
野党の政治家には、「社説」議論が多く辟易しているところです。
野党に安住することなく、政権を目指す気概が欲しいですね。
そうしませんと、保守政党も活性化しませんからね。
社説とは何か。自分の顔や名前を知られることのない安全地帯にいる偉いインテリが、自分で責任をとる必要のないお説教をしている。空調設備の行き届いた高層ビルの一角で、無辜の人民を見下しながら、ああではないか、いや、こうすればいいかも知れない、自分で血や汗や涙を流す心配のないお経を気楽に書いている。だから、新聞の社説なんて忙しい人は誰も読まない。千人に一人もいるかどうか。書いている本人と、論説主幹と、同業者と、役人――それと、並みの政治家。これが社説を読む人たちです。おおかたの政治家が一席ぶつネタは、新聞の社説だと思ったらいい。特に野党の皆さんがそうです。
早坂茂三『オヤジとわたし』集英社文庫 58頁
元々、『オヤジとわたし』は、1987年(昭和62年)1月に発行されていますから、今から28年も前の本です。
しかし、ここで述べられていることは、今でも見受けられることです。
何にも変わっていないということでしょう。
子供の頃、学生時代、20代の頃はよく分からなかったけれども、年を取るにしたがって、世の中のことが分かってくるものです。
特に、政権交代があった後、より一層、世の中が見えてきたように思います。
政権交代の前、野党は言いたい放題でありました。
政権を取った後、どうであったか。それなりに頑張ったでしょうが、政権担当能力のないことを証明しただけでした。
政権を取って、すっかり舞い上がってしまったのですね。舞い上がってどうする、ということなのですが、本人たちは、いい気になり、お気楽でありました。簡単に言うと、無責任であったのですね。
そのことから、再び、政権交代となり、保守政党が政権に戻りました。
保守政党に問題点があるとはいえ、政権担当能力がありますので、一応、評価できます。
野党に戻った政党は、相変わらず、所謂、「社説」議論でお茶を濁しています。
当分、保守政党の政権が続くことになるでしょう。
健全な政権交代を望んでいたのですが、そうはならなかったですね。
残念ですが、無責任政党で、「社説」政党では、話にならないということです。
ただ単に言うだけでなく、実現可能性を踏まえながらの言説を望みたいですね。
別に難しいことを要求しているわけではありませんので、もう少し、まともに議論をしてほしいものです。
やはり、「社説」レベルでは、何事も変わりません。単なるポーズですから。
格好が悪いのに、自分では格好が良いと勘違いしているのが、「社説」の人々といえます。
いつまでもイメージや印象操作でどうにかなるという、間違った考え方を改め、責任のある政党として精進してもらいたいところですが、精進しないでしょうね。
ある一定期間は、無責任な野党の時代が続くでしょう。その人たちが亡くなった後、まともな野党を作り上げる人が増えていけば、いずれ、政権交代が可能になるでしょう。
10年、20年、30年単位で考えざるを得ないですね。
今後、政治を観察する際、この政治家は、まともな議論をしているのか、それとも、「社説」議論をしているのか、早坂茂三氏の分析を参考に見抜いていくことですね。
野党の政治家には、「社説」議論が多く辟易しているところです。
野党に安住することなく、政権を目指す気概が欲しいですね。
そうしませんと、保守政党も活性化しませんからね。