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2015年06月28日

英語をマスターするには基本を繰り返すこと、そして、続けること

日々、英語の勉強をしていますが、1日1時間程度がいいところで、やや、上滑りの勉強になっているのではないかと考えていたところ、参考になる文章に出会いました。

このようなことは何度も読み聞きしているのですが、改めて、確認すると今後の勉強に資するところ多いのではないかと思います。

まず文法のテキストを用意します。問題を解いて、答え合わせをして、理解したら完成した文を一〇回音読、さらにテキストを見ずにその文を使う場面を想像しながら一〇回暗唱。そうしてテキストの最後までいったら、二周目、三周目と繰り返す。五周もやれば基本の文型が瞬時に使えるようになります。
森沢洋介「プレジデント」2015.4.13号 38頁

今、『中学英語でパッと話せる 1秒英会話』を使っていますが、これが、文法のテキストといえるでしょう。

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左ページに日本語があり、右ページに英文があります。まずは、日本語をみて、それを英文にしてみるのがよいですね。

そして、答え合わせをして、間違ったところを確認し、英文を音読するということですね。

それから、使う場面を想像しながらの暗唱を行うという。

これを五周すればよいということですから、みっちり勉強することになりますね。

現在、二周目程度ですから、まだまだというところです。それも、上記のようにみっちり勉強しているわけではありませんので、今後は、上記のとおり、みっちりやってみたいと思います。

上記の本と並行して勉強しているのは、『表現のための実践ロイヤル英文法(例文暗記CD付き)』の中の別冊「英作文のための暗記用例文300」です。

表現のための実践ロイヤル英文法(例文暗記CD付き)

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これも左側に日本語があり、右側に英文があります。まずは、自分で英文を作成し、チェックすることですね。

そして、正しい英文を理解したのち、音読というわけです。これも、使う場面を想像しながらの暗唱というのがポイントですね。

確かに、今までの勉強では、使う場面を想像しながらの暗唱という点がなかったと思います。勉強、勉強という感じであったのでしょう。

「英作文のための暗記用例文300」というぐらいですから、英文が300文あります。上記の『中学英語でパッと話せる 1秒英会話』では、700文以上ありますから、合計1000文以上の英文となります。

この1000文以上の英文を瞬時に使えるようになれば、英語の勉強がはかどるだけでなく、英文を読む際に、引っ掛かりが少なくなるでしょう。

クイックレスポンスができないという点を改善できれば、英語を読む際も、聞く際もストレスがなくなるだろうと思われます。

次はリーディングです。これも中学レベルのテキストを使いましょう。まず、辞書を使わず大まかに読みます。次に単語を調べ、解説を見て、完全に理解したうえで読みます。そして音読。付属CDを使い、一つの文章につき計三〇回、何度も声に出して読んでいきます。
同書 同頁

次にまとまった文章についてですが、あまり、勉強、勉強というのが続くと、嫌になってしまいますので、いかにもテキストというもの、所謂、教材というものを使う気にはなれませんね。

確かに、中学レベルのテキストはたくさんあり、手に取りながら確認をしましたが、正直なところ、そのテキストの文章そのものに興味が持てないのですね。

中学生が勉強するにはちょうどいいかもしれませんが、いい大人の社会人が勉強するには、ふさわしくない内容なのですね。

そもそも、面白くないもの、面白く感じられないものをテキストにしても続かないでしょう。

そこで、この点においては、自分で適切なテキストを探さなければなりません。

ネットでいろいろ探したところ、NHKの「ニュースで英会話」というサイトがありました。

単語の確認もできる、英文一文ずつに解説がある、読みあげの音声もある、確認テストもある、というわけで、これでもかという充実ぶりです。

一年と少し続けていますが、内容が実際にNHKワールドで放送されたものを使用しているだけあって、飽きがこないですね。

常に新鮮に勉強できるというものです。

それに、内容が所謂教材テキストでない分、幅広い単語が出て来て、この言葉は英語ではこういうのかという驚きがあります。

確かに、語彙のレベルは上がりますが、大学受験をするわけでもなく、実際使われている英語を分かるようになろうとしているわけですから、難しかろうとどうであろうと、実際に出てくる単語はすべて重要といわなければなりません。

単語のレベルが高いので中学レベルのテキストでないと思われるところ、文章の構造を見てみると、ほとんど中学英語文法のレベルで英文が構成されており、実際には、中学レベルのテキストといっても問題はないでしょう。

この英文の文章も何度も音読せよとのアドバイスですから、音読しようと思いますが、月曜から金曜までで5つのニュースが出てきますので、全部を30回音読というのは、時間的な問題で難しいですね。

とりあえず、全部を勉強し、まずは、それぞれ、数回程度の音読をしておくことですね。

そこで、全部30回の音読をやろうとするのではなく、この5つのニュースのうち、一つを選び、その一つのニュースに関しては、30回の音読をするというメリハリが必要でしょうね。

いままでの勉強の失敗を思い返してみると、あれもしよう、これもしようと欲張り過ぎて、結局、できないので嫌になり、そして、勉強そのものをしなくなるという、冷静に考えれば、くだらない負のループにはまり込んでいたように思います。

まずは、続ける。そして、続けるためには、何を削り、何に集中すべきかを考えることですね。

全部しようと考えず、大事なところに集中するという態度がよいでしょうね。

そうしませんと続きませんから。

続かないと何事も為せませんから、続けるための工夫をすることですね。
posted by lawful at 17:43| 英語学習

2015年06月27日

英語脳になるには6年かかる

英語を勉強しておりますが、なかなか上達しないものです。英語をマスターするには時間がかかるとは分かっていても、では一体、何年ぐらいが必要なのか、よく分かりません。

「プレジデント」を読んでいますと、興味深い記事がありました。明確に年数が示されているのですね。

意識することなく自然に英語を読んで話せる省エネ脳に切り替わるまでに、およそ六年かかるということがわかってきました。一方、母語から遠い外国語を仕事で使えるくらいにまで読めて話せるようになるには、二二〇〇時間の学習が必要だというデータがあります。
酒井邦嘉 東京大学大学院教授 「プレジデント」2015.4.13号 34頁

英語脳になるには、6年かかるということです。

まだまだということですね。

また、仕事で英語を活用できるには、2200時間が必要ということです。

仮に、2200時間を6年で割ると、約366時間です。1日にすると約1時間ですね。少なくとも、1日1時間の身の濃い勉強を6年続けると、英語脳になると考えてよさそうですね。

1日1時間は、確かに少ないですが、実際に6年間続けるとなると、難しいかもしれませんね。慌てず、じっくりと1日1時間の勉強に集中すべきでしょう。

やれ、1日2時間だ、3時間だと気合を入れても、数日後には、1日0時間という日が続くということが多いわけですから、まずは、1日1時間を6年と考えておくのがよいですね。

その上で、都合がつくときに、1日2時間、3時間の勉強をするのはよいことでしょう。

勉強だけでなく、ネットでは、アメリカのトーク番組もアップされており、英語の記事などは数え切れないほどありますので、興味の赴くまま見て、読んでみるのもいいでしょうね。

あまり、勉強、勉強と気負わずに、生活の中に英語を取り込んでいきたいものです。
posted by lawful at 13:47| 英語学習

2015年06月24日

歎くべきことを歎き、どうでもいいことを放置すること

日々の生活、日々の仕事において、嫌なこと、不愉快なことが出てきます。

その都度、気分が悪くなります。

ほとんどは、人に関することで、嫌な奴が原因なのですね。

冷静に考えてみれば、相手にする必要のないくだらない人間ですから、ほっとけばいいのですが、一応、関わりを持ってしまうと、へばりついてくるようです。

よって、気分が重くなり、嫌な気持ちになるのですね。

そこで、相手にしないようにしようとするのですが、そのくだらない人間の記憶は、そう簡単に消えません。さも、この記憶が重要であると思わせるのですね。実際は、取るに足らない記憶であり、それこそ、どうでもいいわけです。

このままでは、しょうもない記憶に振り回されますので、視点を変える必要があります。

その際、適切な御文がありますので、確認してみましょう。

世間にまさる歎きだにも出来すれば劣る歎きは物ならず
佐渡御書 961頁

くだらない記憶、しょうもない記憶は、世間の歎きといえるでしょう。

しかし、世間の歎き以上のものといえば、まさしく、生老病死ですね。

仏法の根幹の歎きに思いを馳せれば、くだらない記憶、しょうもない記憶など吹き飛んでしまいますね。

世間の歎きなど、あまりにも取るに足らない。

やはり、生老病死という観点や、低い境涯にある自分自身の現状を大いに歎き、生老病死を超え、また、境涯を高めることですね。

このような観点を持てば、くだらない人間のことなど気にならなくなります。というよりは、気になっている場合かと思えてくるでしょう。

我々の人生において、肝心なことは、境涯アップであり、どうでもいいただの他人はほっておけばよいのです。

落ち着いて考えますと、くだらない人間は、我々の人生にとって、何らの価値を生みません。時間を奪い、財を奪う存在にしか過ぎません。

叩き潰す対象といってもいいでしょう。ただ、相手にする価値がないほどの人間ですから、放置するというわけです。相手にするだけ、時間と労力との無駄というものです。

あくまでも、我々は、御書、法華経を土台として、境涯を上げていくことに専念すべきです。
posted by lawful at 22:03| 御書

2015年06月14日

世界のきびしい悪意といった様なもの

今までの人生を振り返るとき、ターニングポイントとなるときがあることに気付きます。

人生でのターニングポイントなど何度もあるわけではなく、一度、二度といったものです。

死ぬまでのことを考えると、三度程度ではないかと思われます。

いずれにしても、今までの間に、ターニングポイントがあったのですが、そのターニングポイントにおいて、人生行路を誤ったがために、せっかくの上昇気流に乗れず、下降気流に押し流されてしまったことがあります。

その影響は20数年経った今でも引きずっているものです。

通常であれば、上昇気流に乗れるところを、なぜ、下降気流の流されたのか。

私の努力不足という側面があるにしても、通常であれば、上昇気流に乗れたわけですから、私の努力不足というのも理由の一つではあるにしても、主原因ではないですね。そこには何かがあると思われます。

中島敦の「牛人」という短編に、その何からしいものを表現した言葉があります。見てみましょう。

世界のきびしい悪意といった様なもの
中島敦『李陵 山月記』小学館文庫 130頁

そうですね。「世界のきびしい悪意といった様なもの」があったように思われます。

特定の誰かではないのですね。「世界」なのですね。

単ある悪意でもないのですね。「きびしい悪意」なのですね。

また、それがそのものとして輪郭をもって存在しているのではなく「といった様なもの」という風にファジーなものであり、掴みどころがないものなのですね。

よって、今まで、よく分からなかったのです。

しかし、中島敦の「牛人」のこの言葉によって、おぼろげながら、私が人生のターニングポイントにおいて、下降気流に流された主原因が掴めたように思います。

人生においては、どうしようもないことがあり、それはそれで引き受けざるを得ません。

その理由も明確なものではなく、「世界のきびしい悪意といった様なもの」が原因というのですから、対応のしようがありません。

自分自身の根本的な何かと「世界のきびしい悪意といった様なもの」とが結びついたとき、人間の力など何の役にも立たないでしょう。

やはり、宗教的な何かを求めたくなります。

今は、「世界のきびしい悪意といった様なもの」にやられてしまうのではなく、日頃から注意を怠らず、精進しているところです。

いくら「世界のきびしい悪意といった様なもの」が強烈であったにしても、常に襲いかかってくるものではありません。

また、日頃からの習慣という長期間にわたる努力の積み重ねがあれば、「世界のきびしい悪意といった様なもの」も近づいてこられないでしょう。

「世界のきびしい悪意といった様なもの」に対決するには、「御書」「法華経」という劇薬を用いるほかないと考えます。

もちろん、劇薬ですから、使い方を間違って、おかしくなる人が続出しますが、そうならないよう、注意を怠らないことですね。

いずれにしても、中島敦「牛人」の中の「世界のきびしい悪意といった様なもの」という言葉は、まさに、キーワードですね。
posted by lawful at 15:35| 文学

仏の言葉遣い

仏法を信仰しているならば、仏のような言葉遣いをすべきですね。

では、仏はどのような言葉遣いをするのでしょうか。

法華経方便品第二の文で確認してみましょう。

言辞柔軟にして衆の心を悦可せしむ。
梵漢和対照・現代語訳『法華経』上 岩波書店 78頁

仏は、言葉遣いが柔らかいということですね。

圧迫するような言葉遣い、乱暴な言葉遣いではないのですね。

そして、ただ単に言葉遣いが柔らかいというだけではなく、その言葉遣いによって、人々の心を喜ばせ安心させるという特質があるようです。

柔らかい言葉遣いの中に、豊潤な内容が含まれているということですね。

いくら柔らかな物腰でも、中身のないことをベラベラ話されても困りますからね。

我々自身のことを考えてみますと、果たして、柔らかい言葉遣いで人を喜ばせ安心させているだろうかと考えますと、適当な生返事をしてみたり、つっけんどんな話し方をしてみたり、決して柔らかではない言葉遣いをしてみたり、といった感じで仏の言葉遣いとは似ても似つかない話し方をしているものです。

仏法を信仰しておきながら、これでは、何の意味もないですね。

やはり、柔らかな言葉遣いをしながら、相手を喜ばすほどの話し方を身に付けるべきですね。

これは、単に言葉遣いだけの問題ではなく、全人格的な問題につながってきますね。

自分自身の根本を仏の境涯としておかなければ、「言辞柔軟にして衆の心を悦可せしむ」とはなりません。

ちょうどこの文は、勤行の際に読誦しますので、毎日、自分自身を省みることができます。

よく、経典の現代語訳を読んで、経典といっても大したことがないと悪態をつく人がいますが、この文は大したことを言っていると思いますね。

大体、悪態をついている人は、「言辞柔軟にして衆の心を悦可せしむ」と正反対なわけですから、分からないのでしょうね。

経典もいろいろあるわけですから、いい経典と縁があればよいということです。

我々としては、法華経と縁があるわけで、その法華経の豊潤な法門をひとつひとつ自身の中で展開すればよいですね。
posted by lawful at 15:10| 法華経並開結

2015年06月13日

九界から仏界、仏界から九界という往復運動

九界から仏界へという方向性と仏界から九界へという方向性の2つの方向性があります。

通常の感覚でいうと、九界の衆生たる我々が仏の境涯を目指すという方向性になりますね。

我々の中に仏たるものがあるから仏の境涯になれるというわけです。

御書を拝してみましょう。

法華経第一方便品に云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云是は九界所具の仏界なり
如来滅後五五百歳始観心本尊抄 240頁

細かいことですが、方便品は「第二」ではなかったかと思われる向きにご説明しますと、法華経は28品ありますが、巻としては、8巻に分かれています。

そのうち、妙法蓮華経巻第一には、序品と方便品とが入っているのですね。よって、「法華経第一方便品」という言い方になっているわけです。

我々の中に仏があり、それを開くことによって、九界の我々が仏界に至ります。

この文証が方便品にあります。ここから、法華経の中において、方便品がいかに重要であるかが分かります。

では、仏界に至ればそれで終了なのか。

そうではないのですね。

仏界から九界へという方向性があります。御書を拝してみましょう。

寿量品に云く「是くの如く我成仏してより已来甚大に久遠なり寿命・無量阿僧祇劫・常住にして滅せず諸の善男子・我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云云此の経文は仏界所具の九界なり
同書 同頁

仏界に至ればそれでおしまいではなく、仏界の中にも九界があり、仏の境涯を踏まえて、九界に生きていくということですね。

九界と仏界との間を往復するイメージですね。

実際、生きていきますと、仏だけなどという状態があるわけではなく、怒り、貪り、愚かさという状態もあれば、闘争に明け暮れ、または、平穏な状態もあり、喜んで有頂天になったり、読書をしたり、芸術に親しんだり、人助けをしたりするものです。所謂、九界ですね。

この九界も、ただ九界というのではなく、仏界を土台としての九界となると、ただの九界とは質が変わってくるのですね。

瞋り、貪欲、癡という状態ですら、意味のあるもの、価値のあるものになってくるわけです。ある意味、無駄がなくなるといえましょうか。

九界から仏界へという方向性も大切ですが、仏界から九界へという方向性の方が、より重要ですね。

仏界から九界への方向性の文証は、寿量品からでした。

法華経の中で、方便品を凌ぐ重要性を持つのが寿量品ですから、やはり、その寿量品に文証があるということですね。

方便品と寿量品とは、法華経の中で最重要の品であり、勤行において読誦する経典となっています。

毎日、この方便品と寿量品とに触れているわけですから、我々は、実生活において、九界から仏界、仏界から九界という往復運動をしながら、価値的に生きていきたいものですね。

それが、信仰をしているということの証左といえるでしょう。
posted by lawful at 17:31| 御書

鼻の功徳

法華経信仰によって、八百の鼻の功徳が得られるといいます。

法華経法師功徳品第十九の文を確認してみましょう。

復次に、常精進よ、若し善男子・善女人、是の経を受持し、若しは読み、若しは誦し、若しは解説し、若しは書写せば、八百の鼻の功徳を成就せん。
梵漢和対照・現代語訳『法華経』下 岩波書店 320頁

八百の鼻の功徳といっても多いので、その中の一つを見てみましょう。

香を聞ぐ力を以ての故に男女の所念・染欲・癡・恚の心を知り、亦善を修する者を知らん。
同書 326頁

鼻の功徳を得ると、男性の考えていること、女性の考えていることが分かるといいます。

他者が何を目指しているか、何を欲しているかが分かるというのですから、相当な力といえますね。

また、欲望、おろかさ、瞋りの心を見通すことができるようです。

十界論でいうと、地獄、餓鬼、畜生の心を知ることができるのですね。

それだけでなく、善いことをする人も見分けられるということです。

このような力がありますと、悪意のある人間を排除し、善人とお近づきになれますね。

また、相手の意向を知ることができるのですから、ビジネス上でも有利ですね。

プライベートの面でもトラブルが少なくなるでしょう。

鼻の功徳とは、途轍もなく多大な功徳ですね。

方便品、寿量品を読誦するにも力が入るというものです。

法華経信仰の真髄は、このような鼻の功徳を得ることにあります。

仏法は、誰かが助けてくれるという救世主的な宗教ではなく、自らの力を発揮する宗教です。

助けてくれないからといって、怒っても仕方がありません。宗教はそのようなものではないのですから。

宗教というと、万能なものと勝手に考えてしまう人がいますが、そもそも、宗教が万能なわけもなく、間違った認識ですね。

偽善者の宗教家が万能、万能と吹聴しているからかもしれませんが、そのような悪い人間を見分けるために、自分の鼻が利くようになるという功徳を得る法華経信仰があるのですね。

何でも可能だ、などという愚かな思考をしている場合ではありません。

自分の鼻が利くだけでも、相当な功徳だと思いますね。これで十分というほどの功徳です。

あれも欲しい、これも欲しいという貪欲の状態はみっともないですね。

上記のとおり、地獄、餓鬼、畜生の状態とならず、明確に、これは地獄界の状態、餓鬼界の状態、畜生界の状態と分かるのが、鼻の功徳というわけです。

大体、不幸せな人は、地獄、餓鬼、畜生の境涯ですから、我々としては、仏の境涯を目指し、鼻の功徳を得ればいいだけですね。
posted by lawful at 16:41| 法華経並開結

まずは、お金が大事であること

設い正法を持てる智者ありとも檀那なくんば争か弘まるべき
四条金吾殿御返事 1148頁

いくら正法を持っている優れた知性のある人がいても、布施をしてくれる人がいなければ、法は広がりません。

やはり、重要なのは財力ということでしょう。

法がいくら素晴らしくとも、法だけでは広がらず、人によって広がっていきます。

しかし、その人に金銭的余裕がなければ、法が広がるという以前にその人の生活が破綻してしまいます。

法を広げる人その人が財力を持つか、若しくは、法を広げる人を財政的に支える人がいるかですべてが決まってしまいます。

正しければ法は広まるというお花畑の思考では、何事も為すことができません。

まずは、お金という側面を無視してはいけませんね。

そもそも、お金に困っている仏などいないわけで、財力があることによって、その人が仏を開いているとの証明になります。

信仰をしていなくとも財力がある人がいますが、仏法的観点から考えると、善い先業があるからといえるでしょう。

善業を持っている人とそうでない人との差は大きいですね。

人を羨むのではなく、今から、然るべき財力を得るべく、正しい信仰に勤しむというのがよいですね。

先業による差は、如何ともしがたいわけですから、まさに、今からという感覚で日々を過ごすべきでしょう。

そして、自分が智者になると共に檀那となるように精進したいですね。
posted by lawful at 15:52| 御書

2015年06月11日

存分食えばあとが不愉快だ

調子に乗って、パクパク食べ続けていきますと、体重が少しずつ増えていきます。

お腹が出て来て、ベルトに食い込み始めます。

しんどくなるのですね。

『草枕』の一節を思い出します。

うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。
夏目漱石『草枕』新潮文庫 7頁

おいしい、おいしいと喜んで食べるのは結構なのですが、少しではもの足りなくなり、たくさん食べると体に負担がかかります。

「存分食えばあとが不愉快だ」という状態になります。

このままでは、ただのデブになってしまいますので、食生活を改善する必要があります。

朝食は、そのままにしておきます。朝に食べる分は、日中、エネルギーとして消費されますので、少なくする必要がありません。

ただ、昼食は、少なくすべきでしょうね。昼に食べ過ぎますと、仕事に差し支えます。

夕食も少なくすべきですね。夜、たくさん食べても、寝てしまうわけですから、エネルギーとして消費することができません。

また、お腹いっぱいになってしまうと、風呂に入る際、体への負担が大きくなります。要は、不健康なのですね。

よって、朝はそのまま、昼と夜との食事に制限を加えるのがよいですね。

痩せるのが目的ではなく、適切なパフォーマンスを確保するのが目的であり、不必要な脂肪を貯めこまないことが目的ですから、大幅な食事制限をしてはいけません。

「存分食えばあとが不愉快だ」にならないよう注意しておくことですね。

そうしますと、快調な生活を迎えることができます。
posted by lawful at 19:24| 文学

2015年06月10日

まともに相手をしないこと

仕事をしていますと、困った人間に出会ってしまうものです。仕事上のことであるので、全く相手にしないわけにもいかず、ストレスがたまるというものです。

散々、嫌な目に遭わされるわけですが、いちいちまともに相手をしていてはこちらの身が持ちませんので、適当にあしらうほかありません。

それにしても、ムカムカするのですが、このような時に中島敦の『李陵』の一節を思い返すとよいでしょう。

こんな手合は恨みを向けるだけの値打さえない。
中島敦『李陵 山月記』小学館文庫 39頁

まさにこの通りですね。

相手のレベル、相手の境涯に合わせてはいけません。

自分が目指す境涯に照らすと、あまりにも話にならない低レベル、低い境涯であるわけですから、まともに相手にしないことであり、それこそ、「恨みを向けるだけの値打さえない」としっかりと認識しておくことですね。

そうしますと、必要以上にムカムカすることもなくなります。

最低限の対応だけにしておき、深入りしないことですね。

今までのことを思い返しますと、値打のないものに、いちいち関わっていました。この点は、深く反省するところです。

誠実であるのは結構なのですが、かたくなで馬鹿正直なのはいただけません。
posted by lawful at 21:50| 文学

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