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2014年08月31日
政治思想研究ではなく、日蓮仏法研鑽が目的であること
『藤原保信著作集』第4巻「西洋政治理論史(下)」を所々読んでいましたが、私にとって、西洋政治理論史は必要なのかと考えてしまいました。
取り立てて、ロック、ルソー、ヘーゲル、マルクス、ヴェーバーに関心があるわけではありません。
上記思想家の著作にしても、少々、読んだ程度です。
大して思い入れはないわけですね。
こう言っては何ですが、私の人生にとって、さほど重要ではない人物です。
今となっては、政治思想研究といっても、これといった喜びや利益があるわけでもなく、ちょっとした趣味程度の付き合いでいいような気がします。
私にとっては、あまり価値もなく意味もありません。
西洋思想とは取りも直さずキリスト教と考えてもよいわけで、私の信仰は日蓮仏法ですからキリスト教にさほど思い入れはありません。
藤原保信氏は、クリスチャンですから西洋思想は藤原保信氏の信仰とリンクするでしょうが、私と西洋思想とは直接リンクはしません。
私にとっては、日本、日蓮仏教が直接リンクします。
ただし、藤原保信氏の西洋政治理論史の研究スタイルには、啓発されるものがあります。
つまり、日蓮仏法を研鑽する上で、手法が参考になるわけです。
私が、政治思想を専攻したいと考えたのは、政治学の分野において政治思想が一番、日蓮仏法研鑽に近い分野と感じたからにほかなりません。
目的は、政治思想の研究ではなく、政治思想研究の手法を日蓮仏法研鑽に応用することだったといえるでしょう。
このことから、藤原保信の手法の手堅さに興味をひかれたのだと思います。
他の政治思想研究者からは、大したインスピレーションを受けることもなく、参考になることもありませんでした。
私の目的、関心は、あくまで日蓮であり、日蓮仏法研鑽です。
よって、政治思想史そのものは、多少の関心はあるものの、多大な精力を傾けて取り組む課題にはなり得ません。
とにかく日蓮を読み込むことが私の課題ということです。
取り立てて、ロック、ルソー、ヘーゲル、マルクス、ヴェーバーに関心があるわけではありません。
上記思想家の著作にしても、少々、読んだ程度です。
大して思い入れはないわけですね。
こう言っては何ですが、私の人生にとって、さほど重要ではない人物です。
今となっては、政治思想研究といっても、これといった喜びや利益があるわけでもなく、ちょっとした趣味程度の付き合いでいいような気がします。
私にとっては、あまり価値もなく意味もありません。
西洋思想とは取りも直さずキリスト教と考えてもよいわけで、私の信仰は日蓮仏法ですからキリスト教にさほど思い入れはありません。
藤原保信氏は、クリスチャンですから西洋思想は藤原保信氏の信仰とリンクするでしょうが、私と西洋思想とは直接リンクはしません。
私にとっては、日本、日蓮仏教が直接リンクします。
ただし、藤原保信氏の西洋政治理論史の研究スタイルには、啓発されるものがあります。
つまり、日蓮仏法を研鑽する上で、手法が参考になるわけです。
私が、政治思想を専攻したいと考えたのは、政治学の分野において政治思想が一番、日蓮仏法研鑽に近い分野と感じたからにほかなりません。
目的は、政治思想の研究ではなく、政治思想研究の手法を日蓮仏法研鑽に応用することだったといえるでしょう。
このことから、藤原保信の手法の手堅さに興味をひかれたのだと思います。
他の政治思想研究者からは、大したインスピレーションを受けることもなく、参考になることもありませんでした。
私の目的、関心は、あくまで日蓮であり、日蓮仏法研鑽です。
よって、政治思想史そのものは、多少の関心はあるものの、多大な精力を傾けて取り組む課題にはなり得ません。
とにかく日蓮を読み込むことが私の課題ということです。
2014年08月14日
相手にしない技法を身に付けること
「王位の身なれども思う事をば・たやすく申さぬぞ、孔子と申せし賢人は九思一言とてここのたびおもひて一度申す」(崇峻天皇御書、1174頁)
どうでもいいことや、どうでもいい人のことが思い出され、不愉快になることがありますが、どうにか、このどうでもいいことを思い出す悪い癖を直したいものです。
どうでもいい人のことをいちいち思い返しているようでは、本来、自分がしなければならないことが疎かになってしまいます。
どうでもいい人のことを全く思い返さないというのも現実的ではありませんので、上記の御文のように、九回のうち一回だけは思い返すのもやむなしとするのがよいでしょう。
つまり、九回のうち八回は思い出されても相手にしないということです。
このような、相手にしない技法を身に付ける必要があります。
ただ、実際に、仕事等でどうでもいい人を相手にしなければならない際は、無駄なことは一切、話さず、どうしても話さなければならないことを、それこそ、九回のうち一回だけ、当たり障りのないことのみを話すというのがよいですね。
どうでもいい人は、自分が悪く思われている、自分のことを悪く言われているということには、特に敏感です。
へたに絡まれないよう、不必要なことは一切、話さず、かわしておくことですね。
思いっていることをいちいち言っているようでは、恨みを買うだけです。
この世の中は、忌憚なく話ができる人などほとんどいません。
多くの人は、妬み、嫉みの塊です。
ちょっとでも、気に障ることがあると興奮します。そして、暴発、暴走します。
そして、理解力が乏しい。所謂、アホであり、バカなのですね。
人に絡むことでしか自己表現ができないつまらない人間が多いものです。
世の中に不幸を撒き散らし、毒素を撒き散らすとんでもない人間です。
このような人間に対しては、とにかく、相手にしないということを徹底することです。
いろいろ思うことがあり、腹立たしいことがあるでしょうが、上記の御文のように、いちいち思うことを口にしてはいけません。
王位の者ですら、たやすくものが言えないわけですから、市井の人である我々としては、より一層、注意する必要があります。
せいぜい、九回に一回、適切な言葉を発するぐらいがちょうどいいでしょう。
とにかく、危害を加えてくる恐れのある人間は相手にしないことです。
どうしても相手にしなければならない場合は、上記の御文を思い出し、細心の注意を払うことです。
どうでもいいことや、どうでもいい人のことが思い出され、不愉快になることがありますが、どうにか、このどうでもいいことを思い出す悪い癖を直したいものです。
どうでもいい人のことをいちいち思い返しているようでは、本来、自分がしなければならないことが疎かになってしまいます。
どうでもいい人のことを全く思い返さないというのも現実的ではありませんので、上記の御文のように、九回のうち一回だけは思い返すのもやむなしとするのがよいでしょう。
つまり、九回のうち八回は思い出されても相手にしないということです。
このような、相手にしない技法を身に付ける必要があります。
ただ、実際に、仕事等でどうでもいい人を相手にしなければならない際は、無駄なことは一切、話さず、どうしても話さなければならないことを、それこそ、九回のうち一回だけ、当たり障りのないことのみを話すというのがよいですね。
どうでもいい人は、自分が悪く思われている、自分のことを悪く言われているということには、特に敏感です。
へたに絡まれないよう、不必要なことは一切、話さず、かわしておくことですね。
思いっていることをいちいち言っているようでは、恨みを買うだけです。
この世の中は、忌憚なく話ができる人などほとんどいません。
多くの人は、妬み、嫉みの塊です。
ちょっとでも、気に障ることがあると興奮します。そして、暴発、暴走します。
そして、理解力が乏しい。所謂、アホであり、バカなのですね。
人に絡むことでしか自己表現ができないつまらない人間が多いものです。
世の中に不幸を撒き散らし、毒素を撒き散らすとんでもない人間です。
このような人間に対しては、とにかく、相手にしないということを徹底することです。
いろいろ思うことがあり、腹立たしいことがあるでしょうが、上記の御文のように、いちいち思うことを口にしてはいけません。
王位の者ですら、たやすくものが言えないわけですから、市井の人である我々としては、より一層、注意する必要があります。
せいぜい、九回に一回、適切な言葉を発するぐらいがちょうどいいでしょう。
とにかく、危害を加えてくる恐れのある人間は相手にしないことです。
どうしても相手にしなければならない場合は、上記の御文を思い出し、細心の注意を払うことです。
2014年08月12日
夢の正しい使い方
「設ひ・いかなる・わづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし」(兄弟抄、1088頁)
日々の生活、仕事の中で、「わづらはしき事」が多いものです。
これでもか、これでもかと「わづらはしき事」が出てきます。
正直なところ、参ってしまうわけですが、参っているだけではどうしようもありませんので、どうにかするわけですね。
時間が経てば、それなりにストレスは解消しますが、強烈な「わづらはしき事」の場合、そう簡単に消えてはくれません。
そこで、日蓮は、そのような「わづらはしき事」は、夢にしてしまえと指摘しています。
夢の使い方が、通常の使い方と違いますね。
普通、夢といった場合、「夢を持て」やら「夢を実現する」という使い方をしますが、夢を持つといっても、夢見人でない限り、そう簡単に夢を持つことはできませんし、ましてや、夢を実現するといっても、ほとんど実現できないものです。
夢を持ったり、夢を実現しようとしたりしたところで、これといった実益はありません。
それこそ、単なる夢でおしまいであり、儚く消えていきます。
しかし、日蓮の夢の使い方は、「わづらはしき事ありとも夢になして」ですから、「わづらはしき事」を夢のように儚いものとして消してしまえ、気にするなという意味で使っています。
夢は、持つものではなく、実現するものではなく、「わづらはしき事」を夢になす、つまり、「わづらはしき事」を消してしまうためにあるのですね。
このような使い方であれば、毎日、使えます。
毎日毎日「わづらはしき事」ばかりですから。
その時に、日蓮が言うように、「わづらはしき事ありとも夢になして」を実践すればよいのですね。
「わづらはしき事」が消えるわけですから、実益そのものですね。
そして、日蓮は、法華経のことを思索せよ、と言います。
根本的に重要な事柄に時間とエネルギーとを使いなさいということですね。
言ってみれば「わづらはしき事」など、実のところ、どうでもいいことです。
気にする必要のない事柄です。
このどうでもいい事柄に囚われている境涯の低さを改善すること、つまり、境涯を上げることが重要ですね。
そのために法華経を研鑽するというわけですね。
日々の生活、仕事の中で、「わづらはしき事」が多いものです。
これでもか、これでもかと「わづらはしき事」が出てきます。
正直なところ、参ってしまうわけですが、参っているだけではどうしようもありませんので、どうにかするわけですね。
時間が経てば、それなりにストレスは解消しますが、強烈な「わづらはしき事」の場合、そう簡単に消えてはくれません。
そこで、日蓮は、そのような「わづらはしき事」は、夢にしてしまえと指摘しています。
夢の使い方が、通常の使い方と違いますね。
普通、夢といった場合、「夢を持て」やら「夢を実現する」という使い方をしますが、夢を持つといっても、夢見人でない限り、そう簡単に夢を持つことはできませんし、ましてや、夢を実現するといっても、ほとんど実現できないものです。
夢を持ったり、夢を実現しようとしたりしたところで、これといった実益はありません。
それこそ、単なる夢でおしまいであり、儚く消えていきます。
しかし、日蓮の夢の使い方は、「わづらはしき事ありとも夢になして」ですから、「わづらはしき事」を夢のように儚いものとして消してしまえ、気にするなという意味で使っています。
夢は、持つものではなく、実現するものではなく、「わづらはしき事」を夢になす、つまり、「わづらはしき事」を消してしまうためにあるのですね。
このような使い方であれば、毎日、使えます。
毎日毎日「わづらはしき事」ばかりですから。
その時に、日蓮が言うように、「わづらはしき事ありとも夢になして」を実践すればよいのですね。
「わづらはしき事」が消えるわけですから、実益そのものですね。
そして、日蓮は、法華経のことを思索せよ、と言います。
根本的に重要な事柄に時間とエネルギーとを使いなさいということですね。
言ってみれば「わづらはしき事」など、実のところ、どうでもいいことです。
気にする必要のない事柄です。
このどうでもいい事柄に囚われている境涯の低さを改善すること、つまり、境涯を上げることが重要ですね。
そのために法華経を研鑽するというわけですね。
2014年08月10日
『葬式は、要らない』
『葬式は、要らない』を読了しました。
概ね、島田氏の主張に賛同しますね。
葬式、戒名、僧侶の読経、お布施等々、必要ないでしょうね。
葬式にしても、直葬、若しくは、家族葬でよいでしょうね。
世間体について論じられていましたが、確かに、世間体とやらは、厄介ですね。人は、どうしても世間体なるものが気になるものです。
しかし、世間体といっても、身近な人や知り合いの集合体であり、ほとんどの人は、赤の他人とは言わないまでも、ただの他人です。
実のところ、何も気にすることはないのですね。
しかし、気にしてしまう。ここが世間体なるものの恐ろしさですね。
どうでもいいものを恐れてしまう病気ともいえましょう。
境涯が上がりますと、世間体を気にするという病気から解放されます。
必要なものと必要でないものとが見分けられるようになりますね。
そうしますと、葬式、戒名等は、排除されますね。
葬式をしたい、戒名が欲しい(もちろん、院殿号)という人は、それでいいでしょう。その人の自由ですから。
ただ、まともにものを考える習慣のある人間からすると、滑稽に見えますね。
やはり、常に勉強する人間でないと、どうでもいいものに振り回されてしまいます。
これからは、不必要なものにお金と時間とを使わないことが大切になりますね。
葬式は、要らない、と同様に、さまざまなものについて、これは、要らないと検討することですね。
そうしますと、
新宗教団体への寄付は、要らない。
機関誌も、不必要な部数は、要らない。
新宗教団体へのボランティアは、要らない。
お酒は、要らない。
煙草は、要らない。
すぐゴミになるモノは、要らない。
どうでもいい会合とやらは、要らない。
意味不明なセミナーは、要らない。
見栄は、要らない。
どや顔は、要らない。
嫉妬は、要らない。
精神的にいってしまっている人との付き合いは、要らない。
儲けにならない顧客は、要らない。
このように考えますと、お金と時間とが増えていきます。
「幸せになってしまうじゃないですか」という声が聞こえてきそうですが、それでいいんじゃないでしょうか。
そして、必要な事柄には、お金と時間とを注ぎ込んでいきたいですね。
所謂、投資ということになりますでしょうか。
本書も出版された当初は、刺激的だったと思いますが、今読みますと、違和感はありません。
4年半の月日の流れで、日本が変わっているという証左ですね。
8月1日にPL教団の花火があるとは貴重な情報ですが、もう過ぎてしまっていますね。残念です。
「新宗教の教団はたいがい閉鎖的で、信者だけの利益を追求することになりがちである。その点では、葬式の代わりに花火を派手にあげるのは、一種の社会貢献である」(本書 176頁)
ただ、ある新宗教団体になると、信者の利益はなく、教団職員の利益だけを追求していますので、この点は要注意ですね。
概ね、島田氏の主張に賛同しますね。
葬式、戒名、僧侶の読経、お布施等々、必要ないでしょうね。
葬式にしても、直葬、若しくは、家族葬でよいでしょうね。
世間体について論じられていましたが、確かに、世間体とやらは、厄介ですね。人は、どうしても世間体なるものが気になるものです。
しかし、世間体といっても、身近な人や知り合いの集合体であり、ほとんどの人は、赤の他人とは言わないまでも、ただの他人です。
実のところ、何も気にすることはないのですね。
しかし、気にしてしまう。ここが世間体なるものの恐ろしさですね。
どうでもいいものを恐れてしまう病気ともいえましょう。
境涯が上がりますと、世間体を気にするという病気から解放されます。
必要なものと必要でないものとが見分けられるようになりますね。
そうしますと、葬式、戒名等は、排除されますね。
葬式をしたい、戒名が欲しい(もちろん、院殿号)という人は、それでいいでしょう。その人の自由ですから。
ただ、まともにものを考える習慣のある人間からすると、滑稽に見えますね。
やはり、常に勉強する人間でないと、どうでもいいものに振り回されてしまいます。
これからは、不必要なものにお金と時間とを使わないことが大切になりますね。
葬式は、要らない、と同様に、さまざまなものについて、これは、要らないと検討することですね。
そうしますと、
新宗教団体への寄付は、要らない。
機関誌も、不必要な部数は、要らない。
新宗教団体へのボランティアは、要らない。
お酒は、要らない。
煙草は、要らない。
すぐゴミになるモノは、要らない。
どうでもいい会合とやらは、要らない。
意味不明なセミナーは、要らない。
見栄は、要らない。
どや顔は、要らない。
嫉妬は、要らない。
精神的にいってしまっている人との付き合いは、要らない。
儲けにならない顧客は、要らない。
このように考えますと、お金と時間とが増えていきます。
「幸せになってしまうじゃないですか」という声が聞こえてきそうですが、それでいいんじゃないでしょうか。
そして、必要な事柄には、お金と時間とを注ぎ込んでいきたいですね。
所謂、投資ということになりますでしょうか。
本書も出版された当初は、刺激的だったと思いますが、今読みますと、違和感はありません。
4年半の月日の流れで、日本が変わっているという証左ですね。
8月1日にPL教団の花火があるとは貴重な情報ですが、もう過ぎてしまっていますね。残念です。
「新宗教の教団はたいがい閉鎖的で、信者だけの利益を追求することになりがちである。その点では、葬式の代わりに花火を派手にあげるのは、一種の社会貢献である」(本書 176頁)
ただ、ある新宗教団体になると、信者の利益はなく、教団職員の利益だけを追求していますので、この点は要注意ですね。