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2013年10月26日
日蓮教学研鑽に必要な姿勢
藤原保信氏の『西洋政治理論史』の叙述スタイルについて、「解説」では4つの特徴を指摘しています。
この4つの特徴は、取りも直さず、日蓮教学研鑽に必要な姿勢であると思われます。
以下で4つの特徴を確認してみましょう。
1 「テキストをして語らしめるかのように、原典からの引用を重視」(『藤原保信著作集』第4巻 解説 新評論 387頁)
2 「思想の全体性を統一的に理解しようとする手法」(同書 388頁)
3 「既存の研究の蓄積を踏まえたきわめて正攻法のもの」(同書 同頁)
4 「自らの理論家としての問題関心をストレートに表現」(同書 同頁)
当然のことながら、日蓮教学の研鑽ですから、日蓮の書、御書そのものが第一次資料として重要になります。
まずは、御書の引用が必要です。
その上で、日蓮を一面的に把握するのではなく、全面的に把握することです。「思想の全体性を統一的に理解」するとは、まさにこのことですね。
また、日蓮研究での業績の蓄積がありますから、その業績を確認しながら、オーソドックスな研鑽を心掛けることですね。突拍子もないことを言っても仕方がありません。
しかし、御書を引用し、全体的・統一的に把握し、正攻法の研鑽をするにしても、それだけでは、根本的に何かが欠けていると思われます。
つまり、研鑽者自身の問題関心がなければ、ただの字義解釈に終わってしまいます。
やはり、研鑽者自身の視点、問題関心、生命の充実があってこそ、日蓮教学研鑽は活きてくるものです。
日蓮の御書を鎌倉時代のだけのものにするのではなく、現代に蘇えらせる研鑽が必要です。
結局は、研鑽者自身の境涯がポイントとなります。最初から境涯が高い人はいませんから、日蓮教学を研鑽していきながら、境涯を上げていけばよいでしょう。
この4つの特徴は、取りも直さず、日蓮教学研鑽に必要な姿勢であると思われます。
以下で4つの特徴を確認してみましょう。
1 「テキストをして語らしめるかのように、原典からの引用を重視」(『藤原保信著作集』第4巻 解説 新評論 387頁)
2 「思想の全体性を統一的に理解しようとする手法」(同書 388頁)
3 「既存の研究の蓄積を踏まえたきわめて正攻法のもの」(同書 同頁)
4 「自らの理論家としての問題関心をストレートに表現」(同書 同頁)
当然のことながら、日蓮教学の研鑽ですから、日蓮の書、御書そのものが第一次資料として重要になります。
まずは、御書の引用が必要です。
その上で、日蓮を一面的に把握するのではなく、全面的に把握することです。「思想の全体性を統一的に理解」するとは、まさにこのことですね。
また、日蓮研究での業績の蓄積がありますから、その業績を確認しながら、オーソドックスな研鑽を心掛けることですね。突拍子もないことを言っても仕方がありません。
しかし、御書を引用し、全体的・統一的に把握し、正攻法の研鑽をするにしても、それだけでは、根本的に何かが欠けていると思われます。
つまり、研鑽者自身の問題関心がなければ、ただの字義解釈に終わってしまいます。
やはり、研鑽者自身の視点、問題関心、生命の充実があってこそ、日蓮教学研鑽は活きてくるものです。
日蓮の御書を鎌倉時代のだけのものにするのではなく、現代に蘇えらせる研鑽が必要です。
結局は、研鑽者自身の境涯がポイントとなります。最初から境涯が高い人はいませんから、日蓮教学を研鑽していきながら、境涯を上げていけばよいでしょう。
2013年10月19日
竹内均先生に学ぶ
「私は時間のユニットを十五分単位で考えている。十五分くらい時間があったら、その時間内にできる仕事をやるということである」(竹内均『頭のうまい使い方へたな使い方』三笠書房 34頁)
こま切れ時間を活用することが推奨されていますが、なかなか活用できずにダラダラしてしまうものです。
こま切れ時間といったところで、一体、どれほどの時間なのかと考えることなく、何となくこま切れ時間と考えているから、活用に至らないのでしょう。
竹内均先生によると、「15分」をひとつのユニットと考えられているようです。
具体的に「15分」と時間がはっきりすると、その「15分」でできることは何かと考え始めます。
あとは、すべきことを見つけたら、少しずつ行っていけばよいわけです。
「無理算段をして自分自身の小さい図書館や研究室をつくっているが、個人で作り得る図書館の規模はたかが知れている」(同書 96頁)
この指摘は、その通りですね。
個人でたくさんの蔵書があるという人も、せいぜい数万冊の蔵書でしょう。
確かに、数万冊の蔵書は多いのですが、図書館のようにどこにどの本があるのかコンピューターで管理している人などほとんどいないでしょう。
結局、管理されていない本の集まりにしか過ぎません。
自分の蔵書の中から目当ての本が見つけられないという嘆きを時折見かけますが、これでは話になりませんよね。
大きなお世話ですが、数万冊の蔵書がある人は、自分が死んだ後のことを考えているのでしょうか。
遺族からすると、とんでもないお荷物ですね。稀覯本などほとんどありませんし、だいたい入手可能な本ばかりです。
図書館としても、どんな本でも寄贈で受け付けてくれるわけではありませんし、古本屋としても、欲しい本は一部分でしょう。結局、蔵書処分をすることになります。
また、本は、一冊では大した重さではありませんが、まとめてみると尋常ではない重さになります。
まさか、遺族に肉体労働をさせようという気はないでしょうが、結果的に、肉体労働をさせてしまうことになりますね。
肉体労働の対極にあると思しき「蔵書」という存在で肉体労働となれば、皮肉としか言いようがありませんね。
存命中に死後のことを考えておくべきですね。
失礼ながら、ごみを残して死ぬのはみっともないですね。
やはり、個人の蔵書は、公立図書館の蔵書に比べれば、大したことはなく、問題点も多いと考えるべきでしょう。
市立図書館であれば、20万冊から50万冊程度の蔵書があるものです。
また、県立図書館クラスであれば、80万冊から100万冊程度の蔵書があります。
また、蔵書はコンピューターで管理されており、インターネットで検索も可能であり、そもそも、専門の司書の方がいるわけですから、目当ての本はすぐに準備してくれます。
「情報整理というものの基本は、このように、不要な情報を潔く捨てられる勇気があるかどうかにかかっているのである」(同書 164頁)
ここ数年、断捨離が流行っていますが、やはり、時代でしょうね。
いらないものが多くなりすぎたのでしょう。
私も、もう読まない本は、古本屋に売却したり、資源ごみに出したりしました。
いらないものに囲まれていると、いつの間にか、自分自身もいらないものの一つになってしまうかもしれませんから、注意したいところですね。
不要なものを捨てると、本来は必要であるものがないことに気付き、その必要なものを入手するということがありました。
これは、断捨離の効果でしょうね。
「私が提言したいのは、ビジネスマンでも誰でも、一日一時間だけは自己完成のための時間をとってほしいということである。自分のやりたいことをやったり、自由に思考を巡らしたりする時間を持ってほしいのだ」(同書 196頁)
何かをしたいと思いながら、何もせず、時間だけが過ぎていくということがあるものですが、「1日1時間」と時間を区切ると具体的に何かができるような感じがします。
とにかく「1日1時間」は、自分を磨くための時間として何かをするということですね。
2時間、3時間となると時間の都合がつかず、結局、何もできないということになりそうです。
「1時間」という絶妙な時間がいいのかもしれませね。
もちろん、時間の余裕があるならば、その「1時間」を数セットこなせばいいだけです。
結果、2時間、3時間の研鑽ができたとなれば、それはそれでいいことです。
「1日1時間」を堅持するという姿勢が大切ですね。
「私は、結局、真面目にやった者だけが真面目の程度に応じて生き残っていく、という考えを新たにしたのだった」(同書 229頁)
真面目に物事に対処することが重要ですね。
人生がうまくいっていない人を観察すると、ほとんど、不真面目な人という特徴があります。
なぜ、不真面目なのかはよく分かりませんが、不真面目なのですね。
不真面目の程度の応じた人生を歩んでいますね。
「だいたい、他人というのは身勝手なものだから、あまり当てにはならない。また、自分が自由に生きているなら相手も自由に生きている。だから、必ず利益を与えてくれと強制したりはできない。むしろ、人がどうであるかを考えるよりも前に、自分がその人に対してどれほどためになることができるかを、真っ先に考えるべきなのだ」(同書 230頁)
他人に期待することは、ある意味、ないものねだりであり、厚かましくさえありますね。
心配しなくても、他人は何もしてくれません。
そのことを気に病んでストレスをためても仕方がありませんね。
万一、他人が自分のために何かをしてくれたならば、あり得ないことが起こったわけですから「有難うございます」と言って、感謝すればよいのです。
あとは、他人がどうというよりは、自分が何かをするということですね。
間違っても、自分が何かをしたからといって、相手に感謝を求めてはいけません。
感謝がないといって一人で怒ってストレスをためている人がいますが、人間観察が雑で何も見えていない人間であることを証明しているだけですから、傍から見ていると滑稽です。
やはり、自分自身に確固としたものを持ち、周りを適切に観察し、目配りしながら、為すべきことを粛々と為していくことが大切ですね。
こま切れ時間を活用することが推奨されていますが、なかなか活用できずにダラダラしてしまうものです。
こま切れ時間といったところで、一体、どれほどの時間なのかと考えることなく、何となくこま切れ時間と考えているから、活用に至らないのでしょう。
竹内均先生によると、「15分」をひとつのユニットと考えられているようです。
具体的に「15分」と時間がはっきりすると、その「15分」でできることは何かと考え始めます。
あとは、すべきことを見つけたら、少しずつ行っていけばよいわけです。
「無理算段をして自分自身の小さい図書館や研究室をつくっているが、個人で作り得る図書館の規模はたかが知れている」(同書 96頁)
この指摘は、その通りですね。
個人でたくさんの蔵書があるという人も、せいぜい数万冊の蔵書でしょう。
確かに、数万冊の蔵書は多いのですが、図書館のようにどこにどの本があるのかコンピューターで管理している人などほとんどいないでしょう。
結局、管理されていない本の集まりにしか過ぎません。
自分の蔵書の中から目当ての本が見つけられないという嘆きを時折見かけますが、これでは話になりませんよね。
大きなお世話ですが、数万冊の蔵書がある人は、自分が死んだ後のことを考えているのでしょうか。
遺族からすると、とんでもないお荷物ですね。稀覯本などほとんどありませんし、だいたい入手可能な本ばかりです。
図書館としても、どんな本でも寄贈で受け付けてくれるわけではありませんし、古本屋としても、欲しい本は一部分でしょう。結局、蔵書処分をすることになります。
また、本は、一冊では大した重さではありませんが、まとめてみると尋常ではない重さになります。
まさか、遺族に肉体労働をさせようという気はないでしょうが、結果的に、肉体労働をさせてしまうことになりますね。
肉体労働の対極にあると思しき「蔵書」という存在で肉体労働となれば、皮肉としか言いようがありませんね。
存命中に死後のことを考えておくべきですね。
失礼ながら、ごみを残して死ぬのはみっともないですね。
やはり、個人の蔵書は、公立図書館の蔵書に比べれば、大したことはなく、問題点も多いと考えるべきでしょう。
市立図書館であれば、20万冊から50万冊程度の蔵書があるものです。
また、県立図書館クラスであれば、80万冊から100万冊程度の蔵書があります。
また、蔵書はコンピューターで管理されており、インターネットで検索も可能であり、そもそも、専門の司書の方がいるわけですから、目当ての本はすぐに準備してくれます。
「情報整理というものの基本は、このように、不要な情報を潔く捨てられる勇気があるかどうかにかかっているのである」(同書 164頁)
ここ数年、断捨離が流行っていますが、やはり、時代でしょうね。
いらないものが多くなりすぎたのでしょう。
私も、もう読まない本は、古本屋に売却したり、資源ごみに出したりしました。
いらないものに囲まれていると、いつの間にか、自分自身もいらないものの一つになってしまうかもしれませんから、注意したいところですね。
不要なものを捨てると、本来は必要であるものがないことに気付き、その必要なものを入手するということがありました。
これは、断捨離の効果でしょうね。
「私が提言したいのは、ビジネスマンでも誰でも、一日一時間だけは自己完成のための時間をとってほしいということである。自分のやりたいことをやったり、自由に思考を巡らしたりする時間を持ってほしいのだ」(同書 196頁)
何かをしたいと思いながら、何もせず、時間だけが過ぎていくということがあるものですが、「1日1時間」と時間を区切ると具体的に何かができるような感じがします。
とにかく「1日1時間」は、自分を磨くための時間として何かをするということですね。
2時間、3時間となると時間の都合がつかず、結局、何もできないということになりそうです。
「1時間」という絶妙な時間がいいのかもしれませね。
もちろん、時間の余裕があるならば、その「1時間」を数セットこなせばいいだけです。
結果、2時間、3時間の研鑽ができたとなれば、それはそれでいいことです。
「1日1時間」を堅持するという姿勢が大切ですね。
「私は、結局、真面目にやった者だけが真面目の程度に応じて生き残っていく、という考えを新たにしたのだった」(同書 229頁)
真面目に物事に対処することが重要ですね。
人生がうまくいっていない人を観察すると、ほとんど、不真面目な人という特徴があります。
なぜ、不真面目なのかはよく分かりませんが、不真面目なのですね。
不真面目の程度の応じた人生を歩んでいますね。
「だいたい、他人というのは身勝手なものだから、あまり当てにはならない。また、自分が自由に生きているなら相手も自由に生きている。だから、必ず利益を与えてくれと強制したりはできない。むしろ、人がどうであるかを考えるよりも前に、自分がその人に対してどれほどためになることができるかを、真っ先に考えるべきなのだ」(同書 230頁)
他人に期待することは、ある意味、ないものねだりであり、厚かましくさえありますね。
心配しなくても、他人は何もしてくれません。
そのことを気に病んでストレスをためても仕方がありませんね。
万一、他人が自分のために何かをしてくれたならば、あり得ないことが起こったわけですから「有難うございます」と言って、感謝すればよいのです。
あとは、他人がどうというよりは、自分が何かをするということですね。
間違っても、自分が何かをしたからといって、相手に感謝を求めてはいけません。
感謝がないといって一人で怒ってストレスをためている人がいますが、人間観察が雑で何も見えていない人間であることを証明しているだけですから、傍から見ていると滑稽です。
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2013年10月18日
テキスト中心主義の観点からの日蓮教学研鑽
テキスト中心主義という言葉がありますが、どのような意味なのかを確認してみましょう。
「ここでいうテキスト中心主義とは、歴史を超えた普遍的な価値基準の存在および永遠の問いとそれへの回答の可能性を信じ、現代の問題に対する示唆や解答を求めてテキストとの直接的対話を行う方法のことである」(『藤原保信著作集』第4巻 解説 新評論 371頁)
規範的なものを求めながら、テキスト、所謂、古典を読み込んでいくということですね。
日蓮教学の観点からいえば、「御書」と「法華経」とを読み込んでいくということになります。
とにかく、「御書」と「法華経」とを繰り返し読み、自分自身のものにしていくわけです。
その上で、「御書」と「法華経」とから汲み出したものを自分自身の現在の生活に活かしていくわけですから、至って実践的です。
しかし、「実はテキスト中心主義がともすると抽象の世界にこもり、コンテキスト主義とは違った意味で実践から後退する危険性をはらんでいる」(同書 372頁)ということですから、話はそう簡単ではないようです。
「御書」と「法華経」とを読み込んでいくにしても、抽象の世界で読んでいくならば、つまり、自分自身の問題として読まないならば、また、単なる昔話として読んでしまうならば、実践的ではなく、「御書」と「法華経」とが宙に浮いた感じになってしまいます。
こうなってしまっては意味がありませんね。あくまでも自分自身と「御書」、自分自身と「法華経」という観点から読み込んでいくべきです。
単なる字面の解釈だけでは、お勉強になってしまいます。実践的に読むという観点がどうしてもはずせません。
そのことから以下の視点は重要ですね。
「学ぶことの意味それ自体を絶えず自問し、学生たちにも学問の社会的責任や実践的な問題意識をもつことの重要性を説き続けた藤原にとって、本質的に実践的であるはずの政治学をやりながら没政治的になるというのは明らかに矛盾であった。それゆえに、藤原は単純な意味でのテキスト中心主義者にはなりえない」(同書 同頁)
日蓮教学を研鑽する意味それ自体を常に自分自身に問い掛けるという姿勢が大切です。
また、社会的責任を果たすといった観点から日蓮教学研鑽を見直すことも必要でしょう。
そもそも、日蓮の「立正安国論」などは、社会的責任を果たそうとしてしたためられた書であり、社会的な観点を外しての日蓮教学研鑽はあり得ないといえましょう。
自分自身の問題を解決するために日蓮教学を研鑽するという点だけでなく、社会的な問題を解決するために日蓮教学を研鑽するという点も忘れてはなりません。
そして、実践的に日蓮教学を研鑽することですね。
ただし、「実践、実践」と言いながら、「御書」と「法華経」とはどこかに置き忘れ、手足をバタバタさせているだけの人もいますから、このような人には惑わされないようにすることですね。
また、「御書」と「法華経」とを単なる古文・漢文としてしか認識できないようでは、実践的以前の問題といえます。
日蓮仏法は、本質的に実践的ですから、日蓮教学を研鑽しながら実践的でない状態になることは自己矛盾です。
そうならないためにも、自分自身という軸と「御書」と「法華経」とのつながりを確固としたものにする必要があります。別々になってはいけません。
実践といっても、「御書」と「法華経」とが自分自身の人生に滲み出てくればよいわけで、そんなに難しいことではありません。
常日頃からの自分の振る舞いの中に「御書」と「法華経」とを体現していくことが実践ということです。
特別なことをするのが実践なのではありません。誰かから言われたことをするのが実践なのではありません。
自分の生命から湧き出るものが実践の元であり、その上で活力ある生活をすることが取りも直さず実践ということです。
そこで「信仰」という側面が重要視されます。「御書」と「法華経」とを自分自身の生命と一体化することが、「信仰」の作用といえましょう。
自分自身の古典として、「御書」と「法華経」とを読み込んでいきながら、実践的であり続けるようなテキスト中心主義であれば、バランスのとれた好ましい状態といえるでしょう。
「ここでいうテキスト中心主義とは、歴史を超えた普遍的な価値基準の存在および永遠の問いとそれへの回答の可能性を信じ、現代の問題に対する示唆や解答を求めてテキストとの直接的対話を行う方法のことである」(『藤原保信著作集』第4巻 解説 新評論 371頁)
規範的なものを求めながら、テキスト、所謂、古典を読み込んでいくということですね。
日蓮教学の観点からいえば、「御書」と「法華経」とを読み込んでいくということになります。
とにかく、「御書」と「法華経」とを繰り返し読み、自分自身のものにしていくわけです。
その上で、「御書」と「法華経」とから汲み出したものを自分自身の現在の生活に活かしていくわけですから、至って実践的です。
しかし、「実はテキスト中心主義がともすると抽象の世界にこもり、コンテキスト主義とは違った意味で実践から後退する危険性をはらんでいる」(同書 372頁)ということですから、話はそう簡単ではないようです。
「御書」と「法華経」とを読み込んでいくにしても、抽象の世界で読んでいくならば、つまり、自分自身の問題として読まないならば、また、単なる昔話として読んでしまうならば、実践的ではなく、「御書」と「法華経」とが宙に浮いた感じになってしまいます。
こうなってしまっては意味がありませんね。あくまでも自分自身と「御書」、自分自身と「法華経」という観点から読み込んでいくべきです。
単なる字面の解釈だけでは、お勉強になってしまいます。実践的に読むという観点がどうしてもはずせません。
そのことから以下の視点は重要ですね。
「学ぶことの意味それ自体を絶えず自問し、学生たちにも学問の社会的責任や実践的な問題意識をもつことの重要性を説き続けた藤原にとって、本質的に実践的であるはずの政治学をやりながら没政治的になるというのは明らかに矛盾であった。それゆえに、藤原は単純な意味でのテキスト中心主義者にはなりえない」(同書 同頁)
日蓮教学を研鑽する意味それ自体を常に自分自身に問い掛けるという姿勢が大切です。
また、社会的責任を果たすといった観点から日蓮教学研鑽を見直すことも必要でしょう。
そもそも、日蓮の「立正安国論」などは、社会的責任を果たそうとしてしたためられた書であり、社会的な観点を外しての日蓮教学研鑽はあり得ないといえましょう。
自分自身の問題を解決するために日蓮教学を研鑽するという点だけでなく、社会的な問題を解決するために日蓮教学を研鑽するという点も忘れてはなりません。
そして、実践的に日蓮教学を研鑽することですね。
ただし、「実践、実践」と言いながら、「御書」と「法華経」とはどこかに置き忘れ、手足をバタバタさせているだけの人もいますから、このような人には惑わされないようにすることですね。
また、「御書」と「法華経」とを単なる古文・漢文としてしか認識できないようでは、実践的以前の問題といえます。
日蓮仏法は、本質的に実践的ですから、日蓮教学を研鑽しながら実践的でない状態になることは自己矛盾です。
そうならないためにも、自分自身という軸と「御書」と「法華経」とのつながりを確固としたものにする必要があります。別々になってはいけません。
実践といっても、「御書」と「法華経」とが自分自身の人生に滲み出てくればよいわけで、そんなに難しいことではありません。
常日頃からの自分の振る舞いの中に「御書」と「法華経」とを体現していくことが実践ということです。
特別なことをするのが実践なのではありません。誰かから言われたことをするのが実践なのではありません。
自分の生命から湧き出るものが実践の元であり、その上で活力ある生活をすることが取りも直さず実践ということです。
そこで「信仰」という側面が重要視されます。「御書」と「法華経」とを自分自身の生命と一体化することが、「信仰」の作用といえましょう。
自分自身の古典として、「御書」と「法華経」とを読み込んでいきながら、実践的であり続けるようなテキスト中心主義であれば、バランスのとれた好ましい状態といえるでしょう。
2013年10月02日
新聞の読み方
「新聞を読むのは、新聞を読んで何らかの投資行動を起こすためではありません。(中略)要は、「その情報をみんなが知っているのかどうか」「誰が知っている可能性があるのか」を知るために、新聞を読むのです」(松本大『「お金の流れ」はこう変わった!』ダイヤモンド社 121頁)
新聞を読んでさまざまな情報を得て、株を買ったりすることがあると思いますが、新聞を読んで投資しているようでは損失を被るようですね。
新聞に記事が載っている段階で、その情報は古いと考えておく必要があるようです。
では、なぜ、古い情報を載せている新聞を読むのか。
それは、ほとんどの人、多くの人が知るに至った情報は何であるかを確認するためなのですね。
新聞を読むことによって、世の中の流れを見るわけですが、その流れは、もうとっくの昔から始まっているということを確認するわけですね。
新聞で新しい情報を得るというのではなく、世の中に出回っている情報(所謂、古い情報)は何なのかを確認するために、新聞を読むということですね。
一応、世の中の流れを確認するために新聞を活用するのであって、自分自身が本当に欲する情報は、新聞という媒体ではなく、直接、自分で体験するなり、人と会って話をするなり、まとまった書籍を読むなりして得ていかなければなりませんね。
新聞を読んでさまざまな情報を得て、株を買ったりすることがあると思いますが、新聞を読んで投資しているようでは損失を被るようですね。
新聞に記事が載っている段階で、その情報は古いと考えておく必要があるようです。
では、なぜ、古い情報を載せている新聞を読むのか。
それは、ほとんどの人、多くの人が知るに至った情報は何であるかを確認するためなのですね。
新聞を読むことによって、世の中の流れを見るわけですが、その流れは、もうとっくの昔から始まっているということを確認するわけですね。
新聞で新しい情報を得るというのではなく、世の中に出回っている情報(所謂、古い情報)は何なのかを確認するために、新聞を読むということですね。
一応、世の中の流れを確認するために新聞を活用するのであって、自分自身が本当に欲する情報は、新聞という媒体ではなく、直接、自分で体験するなり、人と会って話をするなり、まとまった書籍を読むなりして得ていかなければなりませんね。