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2013年09月22日

自分の人生の目的

「企業経営の目的は、企業価値の最大化であり、それ以外のものではありえない。従業員の福祉向上や、地域社会への貢献、あるいは顧客の満足度を高めることなどは、企業価値を最大化するための手段であって、目的ではない」(野口悠紀雄『実力大競争時代の「超」勉強法』幻冬舎 206頁)

「企業経営の目的」を「自分の人生の目的」と読み替えた場合、自分の人生の目的は、「自分の価値の最大化」となります。

仏教でいえば、「成仏」となりますね。

「仏」の境涯を得ることとなりますでしょうか。

従業員の福祉向上、地域社会への貢献、顧客の満足といっても、これはすべて、「他者」の話ですね。

他者の福祉向上、他者への貢献、他者の満足ということですね。

他者のために何かをすることを通じて、自分自身が「仏」の境涯を得ることが大切であり、他者のために何かをすることは手段というわけですね。

確かに、他者のために何かをしている人でも、それが身に付いている人を見ると、他者のために何かをすることによって、その人自身が輝いていますね。

所謂、「成仏」の状態に至っています。

しかし、偽善者が他者のために何かをすると、より一層、偽善が際立ち、「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」の生命が滲み出てきます。

他者のために何かをするのを目的とするのではなく、自分自身の「成仏」「仏」の境涯を得ることを目的としなければなりません。

また、「成仏」「仏」の境涯を得れば、存在そのものが他者のためになっていきます。

もう、何かをするという次元ではなく、存在するだけで価値を放出する次元に至るわけですね。

目的を間違うと変な新宗教の団体に絡まれますから、気を付けておくことですね。

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posted by lawful at 16:29| 生き方

文系の数学と理系の数学との違い

数学を学ぶことによって論理的な思考能力がつくと聞くことがあります。

そこで、数学を学ぼうとするのですが、一口に数学といっても幅が広いものです。

「代数学」、「解析学」、「幾何学」、「確率・統計」等々、いろいろな分野があります。

中学校のことを思い起こすと、1学期に方程式等が出てきますので「代数学」、2学期に関数等が出てきますので「解析学」、3学期に図面、図形等が出てきますので「幾何学」を学んでいたと思います。

高等学校では、「数学T」「基礎解析」「代数・幾何」「確率・統計」という科目がありました。

中学、高校とさほど真剣に数学に取り組んでいませんでしたので、数学の知識はほとんどありません。

その反省もあり、数学を学んでみようかと思うのですが、さて、どのような数学を学ぶべきか、どこから手を付けていいのか、数学の全体像がよく分からないため、右往左往している状態でした。

「文系で必要とされる数学は、理系で用いられる数学と同じではない。線形代数学や確率論が中心だが、これは理系ではあまり重要でない数学である。私は工学部の出身なので、経済学で用いられている数学に、最初は違和感を覚えた(その半面で、微分積分学は、物理学のために作られた数学であり、経済学ではあまり重要ではない)」(野口悠紀雄『実力大競争時代の「超」勉強法』幻冬舎 140頁)

簡単にまとめると以下の通りですね。

文系の数学:線形代数学、確率論(特に経済学)

理系の数学:微分積分学(特に物理学)

経済学を学びたい人にとっての数学と、物理学を学びたい人との数学に違いがあるのですね。

自分がどのような分野を学びたいかによって、学ぶ数学が変わってきます。

ただ、数学は積み重ねの学問といわれましても、一から始めるのは、なかなか大変です。

くそまじめに最初から学ぶのも結構ですが、そのような時間も意欲も大してないものです。

「高校で微分法を学ぶとき、関数の連続性や微分可能性についての厳密な議論を経ているわけではない。いくつかの簡単な関数に微分の公式を当てはめているだけである」(同書 147頁)

高校の数学といっても、かいつまんだ感じなのですね。

一々、細かいことをしているのではなく、出来上がった公式を使って、問題を解いているわけで、数学を学ぶというよりは、数学を活用する方法を学んでいるといった方がよいかもしれません。

結局、数学を専門にする人以外にとっては、数学を活用できればよいわけで、その視点から、数学を学ぶ方がよいでしょうね。

論理的思考能力を付けたい場合は、端的に「論理学」を学べばよいでしょう。

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posted by lawful at 14:52| 雑感

2013年09月15日

還著於本人 観世音菩薩普門品第二十五

「呪詛・諸の毒薬に、身を害せんと欲られん者、彼の観音の力を念ぜば、還って本人に著きなん」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』下 岩波書店 508頁)

「還著於本人」を含む法華経観世音菩薩普門品第二十五の文です。

簡単に意味を見ていきましょう。

呪詛ですから、呪いですね。

また、さまざまな毒薬が出てきます。

この呪いや毒薬によって危害を加えられようとしている人がいるわけです。

ということは、呪いや毒薬によって危害を加えようとしている人もいるわけです。

危害を加えられようとしている人は、そのままでは、呪いや毒薬にやられてしまいます。

そこで、観音の力を念ずることを法華経は教えています。

そうするとどうなるか。危害を加えようとしていた人が発した呪いや毒薬がそのまま、その危害を加えようとしていた人に戻っていくのですね。

所謂、「還著於本人」(還って本人に著きなん)ですね。

注目したいのは、危害を加えられようとしていた人がしているのは、観音の力を念ずることだけです。

直接に、危害を加えようとしていた人に何かをしているわけではありません。

まあ、考えてみれば、危害を加えようとしている人に接するとろくなことがありませんし、どうでもいい火の粉をかぶる可能性も大いにあります。

さて、危害を加えようとしていた人の呪いや毒薬とはどのようなものか。

少し考えてみたいと思います。

自分にとって、この人は気持ち悪いなと思う人や、この人は不愉快だなと思う人がいますが、これらの人は、何がしらの悪意、毒素を発しているものです。

その悪意、毒素が気持ち悪さや、不愉快さを発生させているといえるでしょう。

直感的に嫌だと思うことは、往々にして正しく、変に理屈をこねて嫌だと思わないようにしようとする必要はないでしょう。

「世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴で埋っている」(夏目漱石『草枕』小学館文庫 163頁)わけですが、このような不愉快な人々が発する呪い、悪意、毒素等々にやられてしまってはいけません。

そうはいっても直接に手を下すのは好ましくなく、手を汚すことなく処理したいものです。

そこで、法華経の文を活用しようというわけです。

観音の力、もっと言えば、法華経そのものの力を念ずることにより、その呪い、悪意、毒素をその不愉快な人々にお返しするわけです。

呪い、悪意、毒素をお返しすれば、こちらとしては、もう、何もすることはありません。

その呪い、悪意、毒素によって、不愉快な人がどうなろうと、それは、その不愉快な人の自業自得であり、そちらで始末を付けてくださいというだけのことです。

お返しする時に、「倍返し」「10倍返し」「100倍返し」となるかは、不愉快な人の呪い、悪意、毒素の具合によって決まるでしょう。

こちらとしては、不愉快な人々という変な人たちの相手をすることなく、ただただ、法華経の信仰を透徹させていけばいいだけです。

呪いをかけたい、悪意を持ちたい、毒素を発したいという人は、好きにすればよいでしょう。

勝手にすればよいことです。

こちらは法華経の行者として、その呪い、悪意、毒素を、お返しするだけです。

簡単なことですね。

ただ、注意しなければならないのは、不愉快な人々に仕返しをしようとしたり、懲らしめようとしたりしないことです。

その気持ちそのものが、ある意味、呪いであり、悪意であり、毒素でありますから、こちらがそのような呪い、悪意、毒素を出す必要はありません。

ただただ、法華経通りの信仰をしていけばいいのですね。

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posted by lawful at 23:14| 法華経並開結

2013年09月01日

英語を学ぶ際心得るべき3つの点

英語の命は「音と語順」である。その両方を手に入れるには、とりあえず聞きまくり、読みまくるしかない。これこそ英語を「内在化」する最も効率的な方法である。たとえ、少しばかり時間と労力がかかるとしても」(『英語ベストセラー本の研究』晴山陽一 幻冬舎 229頁)

英語は日本語と「音」の面で大きく違いがあります。

日本人としては、なかなか英語が聞き取れないという問題点があります。

結局、英語をたくさん聞くしかないわけですが、英語学習において、「音」の面を強調しても強調しすぎることはありません。

昔は、英語教材にCDが付いていることなどなく、どうやって「音」を確認するのだろうかといぶかしく思っていましたが、今は、インターネットをはじめ、電子辞書、英語教材にはもれなくCDやDVDが付いてきますから、「音」を確認するにはいい時代となったといえるでしょう。

あと、英語と日本語との大きな違いは「語順」であり、また、日本語と違い英語の「語順」は厳密であるということですね。

単語の順番を間違うと英語として成立しませんから、日本語の感覚とは大きく違います。

英文法の知識が必要になる意味が分かります。

英語の「音」「語順」を身に付けるには、やはり、練習、訓練としての音読、暗誦が必要になります。

「音」を聞くだけでなく、「音」を発する必要があり、「語順」(英文法)を学習するだけでなく、その「語順」(英文法)を口に出すことによって、体に覚えこませる(内在化)必要があります。

上記の点を3つにまとめると以下の通りになるでしょうか。

1 「音」:英語教材は、CD、DVDが付いているものを用いるべし。
2 「語順」:基礎的な英文法をマスターすべし。
3 「内在化」:英文の音読、暗誦を繰り返すべし。

とにかく、英語をマスターすべく、楽しく学んでいきたいものです。

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posted by lawful at 23:27| 英語学習

根拠は3つ

「たとえば小論文を書くときには、最終的に必ず自分の結論を考えますが、できれば根拠を3つ挙げる訓練をしたほうがいいでしょう。これは現実にフランスの教育現場で行われていることです。

誰でも1つ目、2つ目くらいまでは思いつくのですが、3つ目を挙げることは意外に難しいものです。なかなか大変ですが、あらかじめあれこれ多角的に研究し、根拠を挙げる思考訓練をすることは、能力開発に有効です」(『テレビに破壊される脳』和田秀樹 徳間書店 223頁)

何がしらの主張をする場合、その結論に至った根拠を示す必要がありますが、たった1つの根拠で判断すると、ちょっとした反論でグダグダになるものです。

2つでも弱いでしょう。

よって、根拠は3つ欲しいところです。

4つ以上になると主張する人間も混乱するでしょう。

根拠が3つあれば、反論にもそれなりに対応できます。

3つの根拠をすべて覆すほどの反論など、なかなかないものです。

万一、3つの根拠すべてを覆すほどの反論があった場合、その3つの根拠そのものが根拠として破綻しているからだといえるでしょう。

反論に備えるために3つの根拠を揃えるというよりは、自分自身の主張、結論に問題がないかを自ら検証するために3つの根拠を準備すると考えた方がよいでしょうね。

フランスの教育現場では、根拠を3つ挙げる訓練をしているようですが、いい心掛けですね。

道理でフランス人の発言は理路整然としています。

我々もフランスに習い、根拠を3つ挙げる癖をつけておきたいですね。

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posted by lawful at 22:59| 雑感

佳い書物を読むこと

「佳書とは、それを読むことによって、我々の呼吸・血液・体液を清くし、精神の鼓動を昂めたり、沈着かせたり、霊魂を神仏に近づけたりする書のことであります。
 
佳い食物もよろしい。佳い酒もよろしい。佳いものは何でも佳いが、結局佳い人と佳い書と佳い山水との三つであります。
 
然し佳い人には案外会えません。佳い山水にもなかなか会えません。ただ佳い書物だけは、いつでも手に執れます」(『安岡正篤一日一言』致知出版社 156頁)

ビジネス書を読みますと、やれ人脈だとうるさいわけですが、本当に人脈といえるような人と出会うことなど、まずないと思っておいた方がよいですね。

もちろん、佳い人と出会えれば、それはそれで結構なことであり、幸運、僥倖なことですが、佳い人との出会いはないというのが通常でしょう。

ましてや、佳い山水など、現代社会では、皆無といってよいでしょう。

佳い山水に出会っても、いざ、生活するとなると生活できません。

やはり、残されているのは、佳い書物だけですね。

この佳い書物だけは、格安の値段で手に入れることができます。

時代でいえば、古代から可能ですし、場所でいえば全世界から取り寄せ可能です。

安岡正篤氏が言うように、「我々の呼吸・血液・体液を清くし、精神の鼓動を昂めたり、沈着かせたり、霊魂を神仏に近づけたりする書」としての佳書を見つければよいだけですね。

では、どのような書物が佳書といえるでしょうか。

人それぞれですが、どうしても古典から選ぶことになるでしょう。

時代の荒波を潜り抜けてきた書物でないと佳書にはなり得ませんからね。

それと神仏次元に至るということを考えれば、宗教書になってしまうでしょうね。

私の場合、日蓮の「御書」であり、「法華経」となりますね。

クリスチャンの人からすれば「聖書」になりますね。

宗教という枠にこだわらない場合は、中国の古典等々も佳い書物として数えることができるでしょうね。

結局、佳い書物といっても数えるほどしかないものですね。

それを読むかどうかだけの話といえましょう。

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posted by lawful at 14:59| 読書

正しく信仰することが大切であること

「誤った推論や間違った信念をわずかとはいえ許容し続けているかぎり、一般的な思考習慣にまでその影響が及ばないという保証が得られるだろうか?」(『人間この信じやすきもの』トーマス・ギロビッチ著 訳 守一雄・守秀子 新曜社 10頁)

新宗教の活動に熱心な人の中には、誤った推論や間違った信念を持っている人がいます。

最初は、さほどその新宗教に影響されていなくとも、長年、その新宗教の活動に熱心に取り組み続けると、誤った推論に慣れてしまい、また、間違った信念が強固になっていきます。

いつの間にか、その新宗教が持っている誤った推論をそのまま真に受けてしまい、また、その新宗教の間違った信念を自分の信念としてしまっている場合があります。

徐々に悪化していきますので注意が必要ですね。

そうしますと、新宗教による誤った推論や間違った信念が普段の生活にも影響を与えてきます。

一般的な思考習慣にまで影響するわけですね。

一例をあげれば、間違った推論の癖が付いていますから、詐欺に引っ掛かりやすくなります。

通常であれば、詐欺と分かる場合でも、間違った推論の故、詐欺と見破ることができず、損害を受けるわけですね。

あと、間違った信念が強固になってしまうと、世の中がそれなりに正しくある場合、間違った信念の故、世の中から浮いてしまいます。

世の中から浮いてしまうとは、つまり、世の中のお金の流れから取り残されることを意味すると考えてよいでしょう。

金銭的に不遇となる懸念があります。

金銭的な面から考えても、誤った推論や間違った信念にいいことは一つもありません。

もちろん、人間関係の面、精神的な面から考えても、誤った推論や間違った信念は、悪い影響を与えます。

変な人との接点が増えてしまうこともありますし、鬱などの精神的病に苛まされることがあります。

新宗教の活動に熱心で、かつ、誤った推論や間違った信念が身に付いてしまっている人は、金銭的に恵まれず、いい人との接点はなく、鬱状態の人が多いですね。

せっかく新宗教なりの宗教をするならば、正しく信仰すればよいのにと思うのですが、そうならないのですね。

やはり、根本的に不真面目なのでしょう。それ故、誤った推論を行い、間違った信念を持つのでしょうね。

気を付けたいものです。
posted by lawful at 14:24| 新宗教

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