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2012年11月28日
不必要なクレジットカードを持たないこと
ネットで買い物をするときに必要になるのがクレジットカードです。
便利ですので、活用していますが、3枚程度でちょうどよいように感じます。
使わなくなったクレジットカードは解約しています。
さて、みなさんは、クレジットカードを何枚ぐらい持っているのでしょうか。
「日本人の1人あたりの平均保有枚数は2・9枚だそうです。また、クレジットカードをいっぱい持つ人は、少ない人の6倍の負債があるというデータもあります」(尾上堅視『あたりまえだけど誰も教えてくれない お金のルール』明日香出版 63頁)
平均で約3枚といったところですね。
妥当な数字と思います。中には1枚も持たないという人もいるでしょうから、たくさんのクレジットカードを持っている人も出てくるわけです。
3枚を超えるクレジットカードは不必要といってもいいかもしれません。
不必要なクレジットカードを持つと負債が増える、簡単に言うと借金が増えるということらしいですね。
6倍とは、聞き捨てならない数字ですね。
ただ単にクレジットカードをたくさん持っているという状態で留まることなく、借金が増えてしまうというのは問題ですね。
カード会社は、何かにつけてクレジットカードを作らせようとしますが、お金を貸し付けようとする魂胆なのですね。
熱心なわけです。
クレジットカードに関して、人間が把握できる枚数は、やはり3枚程度でしょうね。
3枚を超えると把握できなくなるわけですから、よく分からないうちにリボ払いだ、キャッシングだということで借金、負債が増えていくという構図になっているのでしょう。
何でも多ければよいということではないですね。
適切な数量ということを考える必要があります。
特に、お金に関することは、慎重に考えておくことですね。
便利ですので、活用していますが、3枚程度でちょうどよいように感じます。
使わなくなったクレジットカードは解約しています。
さて、みなさんは、クレジットカードを何枚ぐらい持っているのでしょうか。
「日本人の1人あたりの平均保有枚数は2・9枚だそうです。また、クレジットカードをいっぱい持つ人は、少ない人の6倍の負債があるというデータもあります」(尾上堅視『あたりまえだけど誰も教えてくれない お金のルール』明日香出版 63頁)
平均で約3枚といったところですね。
妥当な数字と思います。中には1枚も持たないという人もいるでしょうから、たくさんのクレジットカードを持っている人も出てくるわけです。
3枚を超えるクレジットカードは不必要といってもいいかもしれません。
不必要なクレジットカードを持つと負債が増える、簡単に言うと借金が増えるということらしいですね。
6倍とは、聞き捨てならない数字ですね。
ただ単にクレジットカードをたくさん持っているという状態で留まることなく、借金が増えてしまうというのは問題ですね。
カード会社は、何かにつけてクレジットカードを作らせようとしますが、お金を貸し付けようとする魂胆なのですね。
熱心なわけです。
クレジットカードに関して、人間が把握できる枚数は、やはり3枚程度でしょうね。
3枚を超えると把握できなくなるわけですから、よく分からないうちにリボ払いだ、キャッシングだということで借金、負債が増えていくという構図になっているのでしょう。
何でも多ければよいということではないですね。
適切な数量ということを考える必要があります。
特に、お金に関することは、慎重に考えておくことですね。
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2012年11月27日
『教会法とは何だろうか』ホセ・ヨンパルト
教会法というものがあるということで、どのようなものか気になりました。
教会法とは、当然のことながら、国家の法律ではなく、教会の法律のことですね。
さて、教会の法律とは、どのようなものなのでしょうか。
教会法学者は、トマス・アクィナスの定義及びスアレスの定義を参考にしているようです。
それぞれの法律の定義を確認してみましょう。
「トマス・アクィナスによれば、『法律とは、共同体の責任者によって公布される共通善を目的とする理性の秩序づけである』とされる。スアレスによれば、『法律とは、公正かつ正当な意志の作用であり、その意志は、これこれのことをすべきであると、上位者が下位者に望む意志である』とされている」(『教会法とは何だろうか』ホセ・ヨンパルト 成文堂 128頁)
トマス・アクィナスは、1225ころの生まれで没年が1274年ですから、13世紀の人物です。
スアレスは、1548年生まれで没年が1617年ですから、16世紀から17世紀にかけての人物です。
教会法にとっては、13世紀や16世紀、17世紀というのは、遠い過去ではなく、現在とつながっている時代のようですね。
独特の伝統があるのですね。
現在は、1983年発効の「カトリック教会法典」が現行法のようです。
国家法との違いが分かる条文がありますので、見てみましょう。
「Can.27 慣習は、法律の最善の解釈者である。」(同書 132頁)
英訳では、「Can. 27 Custom is the best interpreter of laws.」となります。
このような考え方が「スコラ学者の伝統的な考え方である」(同書 133頁)だそうです。
慣習、伝統、歴史といったものが教会法の特徴なのでしょうね。
カトリックの奥深さを感じます。
カトリックの教会法だけでなく、プロテスタントや他の様々な教派の教会法もあるようですが、伝統や歴史といった観点からすれば、教会法というとカトリックという感じがしますね。
正直なところ、キリスト教の知識がほとんどないために、教会法といっても大した理解が出来そうもありません。
キリスト教の知識とは、すなわち、聖書でしょうから、とにかく読むことによって、知識を得ることでしょうね。
西洋を理解するためには、聖書を読むのがよいようですが、あまり馴染みがないですね。
文語訳、新共同訳、英訳と書籍は揃っているのですが、ほんの少し、所々読んでいるにすぎません。
これからも結局は、所々読む程度になりそうですが、意識はしておきたいですね。
教会法とは、当然のことながら、国家の法律ではなく、教会の法律のことですね。
さて、教会の法律とは、どのようなものなのでしょうか。
教会法学者は、トマス・アクィナスの定義及びスアレスの定義を参考にしているようです。
それぞれの法律の定義を確認してみましょう。
「トマス・アクィナスによれば、『法律とは、共同体の責任者によって公布される共通善を目的とする理性の秩序づけである』とされる。スアレスによれば、『法律とは、公正かつ正当な意志の作用であり、その意志は、これこれのことをすべきであると、上位者が下位者に望む意志である』とされている」(『教会法とは何だろうか』ホセ・ヨンパルト 成文堂 128頁)
トマス・アクィナスは、1225ころの生まれで没年が1274年ですから、13世紀の人物です。
スアレスは、1548年生まれで没年が1617年ですから、16世紀から17世紀にかけての人物です。
教会法にとっては、13世紀や16世紀、17世紀というのは、遠い過去ではなく、現在とつながっている時代のようですね。
独特の伝統があるのですね。
現在は、1983年発効の「カトリック教会法典」が現行法のようです。
国家法との違いが分かる条文がありますので、見てみましょう。
「Can.27 慣習は、法律の最善の解釈者である。」(同書 132頁)
英訳では、「Can. 27 Custom is the best interpreter of laws.」となります。
このような考え方が「スコラ学者の伝統的な考え方である」(同書 133頁)だそうです。
慣習、伝統、歴史といったものが教会法の特徴なのでしょうね。
カトリックの奥深さを感じます。
カトリックの教会法だけでなく、プロテスタントや他の様々な教派の教会法もあるようですが、伝統や歴史といった観点からすれば、教会法というとカトリックという感じがしますね。
正直なところ、キリスト教の知識がほとんどないために、教会法といっても大した理解が出来そうもありません。
キリスト教の知識とは、すなわち、聖書でしょうから、とにかく読むことによって、知識を得ることでしょうね。
西洋を理解するためには、聖書を読むのがよいようですが、あまり馴染みがないですね。
文語訳、新共同訳、英訳と書籍は揃っているのですが、ほんの少し、所々読んでいるにすぎません。
これからも結局は、所々読む程度になりそうですが、意識はしておきたいですね。
2012年11月06日
表面に現れない怒りの感情に注意すること
「感情表現を明確にする人、例えば始終プンプン怒っているような人と、いつも静かそうに見えるけどすごくネガティブな感情を持っている人との間には、実質的にあまり区別はないんですよ。どちらも、その人の生き方をある種、破壊している。そういう意味では一緒。怒りは外に発散しても容易に消えませんし、内にとどめても消えませんから」(名越康文『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』角川SSC新書 94頁)
表面は冷静でも中身がネガティブであれば、プンプン人間と同じとは、手厳しい指摘です。
一本取られたといったところでしょうか。胸に突き刺さります。
怒りの感情を表に出すことが好ましくないことは容易に理解できます。
しかし、表に出ないからといって怒りの感情がないというわけではないのですね。
逆に、表に出ていなくとも怒りの感情が鬱積している方が余程危険といえるでしょう。
目に見えないだけに扱いが難しい。
表面を取り繕っても、自分自身の内面が怒りの感情に囚われているならば、他人をごまかすことができても自分をごまかすことはできません。
なにせ、自分の人生を破壊している状態になっているわけですからね。
怒りの感情は、発散などでどうにかなるようなものではありませんね。
根本的に対処するべきものです。
怒りの感情は、自分自身の内部において適切に処理しておかなければなりません。
ある意味、他者がどうにかしてくれるという問題ではなさそうです。
他者の言葉、言ってみれば、宗教の始祖たちの言葉を参考にする場合もあるでしょう。
しかし、その言葉を自分自身のものにしなければ、怒りの感情を処理することはできません。
結局、自分次第ということですね。
仏教の十界論からすれば、怒りの感情は地獄界の境涯、最底辺の状態を現しています。
表面を仏の顔でごまかしても、中身は地獄のままです。
どうにかしなければなりませんね。
表面に現れようと現れまいと、地獄は地獄と明らかに見て、まずは、ごまかさない姿勢をとることですね。
その後、地獄の生命の中にも仏があるという十界互具の法理に基づき、自分自身の中にある仏、仏性を呼び出すことでしょう。
そんなものはないと言ってしまえばそれまでですが、地獄の状態にあり苦しいわけですから、そんなことを言っている暇はありません。
とにかく、あくまでも自分自身の中から処理するということが大切です。
他者がどうにかしてくれるという甘い考えは、より一層、地獄の深みに入る原因となりますから、特に注意しなければなりません。
表面を取り繕って、それでよしとするのではなく、生命の奥底からの変革を目指すべきですね。
表面は冷静でも中身がネガティブであれば、プンプン人間と同じとは、手厳しい指摘です。
一本取られたといったところでしょうか。胸に突き刺さります。
怒りの感情を表に出すことが好ましくないことは容易に理解できます。
しかし、表に出ないからといって怒りの感情がないというわけではないのですね。
逆に、表に出ていなくとも怒りの感情が鬱積している方が余程危険といえるでしょう。
目に見えないだけに扱いが難しい。
表面を取り繕っても、自分自身の内面が怒りの感情に囚われているならば、他人をごまかすことができても自分をごまかすことはできません。
なにせ、自分の人生を破壊している状態になっているわけですからね。
怒りの感情は、発散などでどうにかなるようなものではありませんね。
根本的に対処するべきものです。
怒りの感情は、自分自身の内部において適切に処理しておかなければなりません。
ある意味、他者がどうにかしてくれるという問題ではなさそうです。
他者の言葉、言ってみれば、宗教の始祖たちの言葉を参考にする場合もあるでしょう。
しかし、その言葉を自分自身のものにしなければ、怒りの感情を処理することはできません。
結局、自分次第ということですね。
仏教の十界論からすれば、怒りの感情は地獄界の境涯、最底辺の状態を現しています。
表面を仏の顔でごまかしても、中身は地獄のままです。
どうにかしなければなりませんね。
表面に現れようと現れまいと、地獄は地獄と明らかに見て、まずは、ごまかさない姿勢をとることですね。
その後、地獄の生命の中にも仏があるという十界互具の法理に基づき、自分自身の中にある仏、仏性を呼び出すことでしょう。
そんなものはないと言ってしまえばそれまでですが、地獄の状態にあり苦しいわけですから、そんなことを言っている暇はありません。
とにかく、あくまでも自分自身の中から処理するということが大切です。
他者がどうにかしてくれるという甘い考えは、より一層、地獄の深みに入る原因となりますから、特に注意しなければなりません。
表面を取り繕って、それでよしとするのではなく、生命の奥底からの変革を目指すべきですね。
2012年11月05日
過去の呪縛を超え、現在、未来に生きること
「二流の人は過去に生きる傾向がある。
一流の人は現在に生きることを信条とし、明るい未来を夢見る」(スティーブ・シーボルド『一流の人に学ぶ自分の磨き方』弓場隆訳 かんき出版 60頁)
最近、過去にこだわってしまう傾向があり、好ましくないと思っておりましたが、やはり、好ましくなかったのですね。
二流なのですから。
確かに、過去を振り返ることは大事なことです。
現在の自分のあり様を確認するためには、過去を確認しなければなりません。
しかし、過去は、所詮、過去であり、過去の事実を変えることはできません。
あくまでも確認するにとどめておくべきですね。
歴史の解釈と同様、自分自身の過去も解釈次第でいかようにも変化するという側面があるにしても、やはり、いいように解釈するのにも限界があります。
単なる解釈だけでは過去は変わりません。
「不幸なことに、二流の人の意識は過去に呪縛されていることが多い。『もしあのときこうしていたら、きっと成功していたのに残念だ』『もしあれがうまくいっていたら、幸せになれたはずだが、今となってはもう遅い』といった調子だ」(同書同頁)
どのような状態であれ、過去に呪縛されていることが問題でしょうね。
歴史に「もし」がないように、自分の過去にも「もし」は不必要と考えておくべきですね。
過去に呪縛され、後悔するのは、あまりにも非生産的であり、疲れるだけです。
反省するのも結構ですが、後悔と同じように、これといって生産的ではありません。
やはり、疲れます。結局、何にもならないということが多いですね。
最近、異常に疲れておりましたが、過去にこだわり、過去の呪縛に苛まされていたからでしょう。
頻繁に過去の出来事が脳裏に浮かんできていました。
それも、嫌な、苦しい思い出ばかりです。
何かがあるのかもしれませんが、程度というものがあります。
過去は過去として、「ああ、そうですか」といった態度であっさり対処するのがよさそうです。
もっと言えば、後悔、反省などしている暇があったら、現在に生きるべきでしょう。
また、未来に向かって生きるべきでしょう。
現在、未来は、これからいかようにも形作っていくことができます。
不思議なことに、現在、未来を志向すると、嫌な気分も晴れ、苦しくもなくなり、疲れはなくなります。
方向性が過去であれば、嫌な気分になり、苦しくなり、疲れるということでしょうね。
ある意味、厚かましく生きるというのもありでしょう。
否、厚かましくあるべきなのかもしれません。
特段、人に迷惑をかけるわけでもない人間にとっては、適度に厚かましいというのは、生きる上で必須のスキルといえます。
過去の呪縛に疲れ果ててしまいました。
もう、過去などどうでもよくなりました。
何をするにしても、もう遅いなどという戯言を排していきたいですね。
全然、遅くはありませんよといった気持ちでいたいものです。
今後は、現在に生き、未来に射程を定め、価値のある人生になるような精進、修練、研鑽をしていきたいと思います。
一流の人は現在に生きることを信条とし、明るい未来を夢見る」(スティーブ・シーボルド『一流の人に学ぶ自分の磨き方』弓場隆訳 かんき出版 60頁)
最近、過去にこだわってしまう傾向があり、好ましくないと思っておりましたが、やはり、好ましくなかったのですね。
二流なのですから。
確かに、過去を振り返ることは大事なことです。
現在の自分のあり様を確認するためには、過去を確認しなければなりません。
しかし、過去は、所詮、過去であり、過去の事実を変えることはできません。
あくまでも確認するにとどめておくべきですね。
歴史の解釈と同様、自分自身の過去も解釈次第でいかようにも変化するという側面があるにしても、やはり、いいように解釈するのにも限界があります。
単なる解釈だけでは過去は変わりません。
「不幸なことに、二流の人の意識は過去に呪縛されていることが多い。『もしあのときこうしていたら、きっと成功していたのに残念だ』『もしあれがうまくいっていたら、幸せになれたはずだが、今となってはもう遅い』といった調子だ」(同書同頁)
どのような状態であれ、過去に呪縛されていることが問題でしょうね。
歴史に「もし」がないように、自分の過去にも「もし」は不必要と考えておくべきですね。
過去に呪縛され、後悔するのは、あまりにも非生産的であり、疲れるだけです。
反省するのも結構ですが、後悔と同じように、これといって生産的ではありません。
やはり、疲れます。結局、何にもならないということが多いですね。
最近、異常に疲れておりましたが、過去にこだわり、過去の呪縛に苛まされていたからでしょう。
頻繁に過去の出来事が脳裏に浮かんできていました。
それも、嫌な、苦しい思い出ばかりです。
何かがあるのかもしれませんが、程度というものがあります。
過去は過去として、「ああ、そうですか」といった態度であっさり対処するのがよさそうです。
もっと言えば、後悔、反省などしている暇があったら、現在に生きるべきでしょう。
また、未来に向かって生きるべきでしょう。
現在、未来は、これからいかようにも形作っていくことができます。
不思議なことに、現在、未来を志向すると、嫌な気分も晴れ、苦しくもなくなり、疲れはなくなります。
方向性が過去であれば、嫌な気分になり、苦しくなり、疲れるということでしょうね。
ある意味、厚かましく生きるというのもありでしょう。
否、厚かましくあるべきなのかもしれません。
特段、人に迷惑をかけるわけでもない人間にとっては、適度に厚かましいというのは、生きる上で必須のスキルといえます。
過去の呪縛に疲れ果ててしまいました。
もう、過去などどうでもよくなりました。
何をするにしても、もう遅いなどという戯言を排していきたいですね。
全然、遅くはありませんよといった気持ちでいたいものです。
今後は、現在に生き、未来に射程を定め、価値のある人生になるような精進、修練、研鑽をしていきたいと思います。