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2012年03月22日
英語のリスニング(日本語訳を活用する勉強法)
英語を聞き取れるようになりたいものですが、効果的な学習法があるようです。
「英語のリスニングは、次の5つのステップを踏むと効果的な学習になります。
@ 英文を読む
A 日本語の字幕で聞く
B 英語の字幕で聞く
C セリフを繰り返す
D 同じ速さで繰り返す」(古川武士『30日で人生を変える「続ける」習慣』日本実業出版社 44頁)
洋画を使いながらの勉強法のようですが、洋画でなくても一般的な英語教材でも同じように勉強すればよいでしょう。
まずは、
@英文を読み、
A日本語訳を見ながら英語を聞き、
B英文を見ながら英語を聞き、
C自分でも声に出して話してみて、
Dその速度をネイティブのスピードに合わせていく、ということですね。
英語のリスニングの勉強と思いきや、上記の勉強法は聞くだけでなく、読む、話すも含まれています。
これに書くも加えれば、すべてが揃うことになります。
英語を勉強する際、リスニングであれ、リーディングであれ、結局は、聞く、話す、読む、書く、のすべてに関わってくるものだと思います。
注意したいのは、英語を学ぶときに日本語の字幕、日本語訳、つまり、日本語を使っているというところですね。
最終的には、英語を英語で理解できるレベルを目指すにしても、いきなり英語を英語で理解することはできません。
上手に日本語を使いながら、活用しながら、英語を学ぶことが効果的でしょうね。
つい、学校英語の影響か、英語を日本語に訳すという順序で勉強しがちですが、日本語訳から英語そのものを読む、聞くという順序も大切にした方がよいですね。
試験があるわけでもありませんから、所謂、カンニングのような勉強法の方が英語を身に付けるにはよいでしょう。
意味も分からない英文を聞いたり、読んだりしても、面白くもなんともありません。
日本語で意味を把握したのちに、英文を聞いたり、読んだりすれば、英語ではこのように表現するのかと感じ入りながら学ぶことができます。
中学校、高校の英語の教科書に日本語訳は載っていません。
教育効果をよくよく考えれば、出来の悪い教科書ですね。
教員のための教科書であり、生徒のための教科書ではなかったということですね。
授業や試験をするための教科書であり、英語を習得させようという意思は感じられません。
まあ、そのような意思など元々ないのでしょう。
万一、市販されている英語教材で日本語訳が付いていなければ、欠陥商品として誰も買わないでしょう。
英語の原書でもあるまいし、教材でありながら日本語訳を載せない学校の教科書はふざけているとしか言いようがありませんね。
大人になってからでは、中学校、高校の教科書を使う必要もありませんので、市販されている出来の良い英語教材でしっかりと英語をマスターしたいですね。
とにかく、「続ける」ということですね。
「英語のリスニングは、次の5つのステップを踏むと効果的な学習になります。
@ 英文を読む
A 日本語の字幕で聞く
B 英語の字幕で聞く
C セリフを繰り返す
D 同じ速さで繰り返す」(古川武士『30日で人生を変える「続ける」習慣』日本実業出版社 44頁)
洋画を使いながらの勉強法のようですが、洋画でなくても一般的な英語教材でも同じように勉強すればよいでしょう。
まずは、
@英文を読み、
A日本語訳を見ながら英語を聞き、
B英文を見ながら英語を聞き、
C自分でも声に出して話してみて、
Dその速度をネイティブのスピードに合わせていく、ということですね。
英語のリスニングの勉強と思いきや、上記の勉強法は聞くだけでなく、読む、話すも含まれています。
これに書くも加えれば、すべてが揃うことになります。
英語を勉強する際、リスニングであれ、リーディングであれ、結局は、聞く、話す、読む、書く、のすべてに関わってくるものだと思います。
注意したいのは、英語を学ぶときに日本語の字幕、日本語訳、つまり、日本語を使っているというところですね。
最終的には、英語を英語で理解できるレベルを目指すにしても、いきなり英語を英語で理解することはできません。
上手に日本語を使いながら、活用しながら、英語を学ぶことが効果的でしょうね。
つい、学校英語の影響か、英語を日本語に訳すという順序で勉強しがちですが、日本語訳から英語そのものを読む、聞くという順序も大切にした方がよいですね。
試験があるわけでもありませんから、所謂、カンニングのような勉強法の方が英語を身に付けるにはよいでしょう。
意味も分からない英文を聞いたり、読んだりしても、面白くもなんともありません。
日本語で意味を把握したのちに、英文を聞いたり、読んだりすれば、英語ではこのように表現するのかと感じ入りながら学ぶことができます。
中学校、高校の英語の教科書に日本語訳は載っていません。
教育効果をよくよく考えれば、出来の悪い教科書ですね。
教員のための教科書であり、生徒のための教科書ではなかったということですね。
授業や試験をするための教科書であり、英語を習得させようという意思は感じられません。
まあ、そのような意思など元々ないのでしょう。
万一、市販されている英語教材で日本語訳が付いていなければ、欠陥商品として誰も買わないでしょう。
英語の原書でもあるまいし、教材でありながら日本語訳を載せない学校の教科書はふざけているとしか言いようがありませんね。
大人になってからでは、中学校、高校の教科書を使う必要もありませんので、市販されている出来の良い英語教材でしっかりと英語をマスターしたいですね。
とにかく、「続ける」ということですね。
2012年03月18日
「十七条憲法」に学ぶ:「忿」や「瞋」に気を付けましょう
聖徳太子が役人に対して訓示したのが「十七条憲法」です。
しかし、役人だけのものとする必要もなく、内容に関しては現代にも通用するものばかりですので、民衆にも求められる姿勢が示されている書として読み込めばより価値的でしょう。
「十に曰く、こころのいかり〈忿〉を絶ち、おもてのいかり〈瞋〉を棄てて、人の違うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれば、われは非とす。われ是とすれば、かれは非とす。われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ」(聖徳太子『法華義疏(抄)十七条憲法』中央公論新社 149頁)
「忿」や「瞋」に気を付けるよう訓示していますが、1400年前も今も人間の本質は変わらないようです。
瞋ることが最悪の生命状態であるとの指摘は日蓮も行っていますが、聖徳太子も指摘していたのですね。
また、人はそれぞれ考え方も生き方も違うということを認識し、いちいち違いに目くじらを立ててはいけないと教えています。
一緒でなければならないと考えている方がおかしいといえましょう。
一緒、同じであるならば、別々に存在する必要はありません。
それぞれ違いがあるからこそ、別々に存在しているというのが実相です。
その上で、自分だけが素晴らしいのだ、偉いのだといった勘違いをしないよう教えています。
人は自分に関しては評価が甘くなるものです。
注意したいですね。
その一方で、他人に対しては評価が辛くなり、愚か者と認定したくなるようです。
つまり、相手が愚かであればあるほど、自分だけが聖なる者になると考えているのでしょう。
しかし、どちらかが聖なる者であり、どちらかが愚か者というのではなく、共に凡夫と指摘しています。
実のところ、大差ないということですね。
さほど差がないわけですから、その僅少な差にあくせくするよりは、相手の違いを理解し、その違いを尊重し、学べる点があればさりげなく学んでしまうという、したたかな姿勢が求められます。
しかし、役人だけのものとする必要もなく、内容に関しては現代にも通用するものばかりですので、民衆にも求められる姿勢が示されている書として読み込めばより価値的でしょう。
「十に曰く、こころのいかり〈忿〉を絶ち、おもてのいかり〈瞋〉を棄てて、人の違うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれば、われは非とす。われ是とすれば、かれは非とす。われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ」(聖徳太子『法華義疏(抄)十七条憲法』中央公論新社 149頁)
「忿」や「瞋」に気を付けるよう訓示していますが、1400年前も今も人間の本質は変わらないようです。
瞋ることが最悪の生命状態であるとの指摘は日蓮も行っていますが、聖徳太子も指摘していたのですね。
また、人はそれぞれ考え方も生き方も違うということを認識し、いちいち違いに目くじらを立ててはいけないと教えています。
一緒でなければならないと考えている方がおかしいといえましょう。
一緒、同じであるならば、別々に存在する必要はありません。
それぞれ違いがあるからこそ、別々に存在しているというのが実相です。
その上で、自分だけが素晴らしいのだ、偉いのだといった勘違いをしないよう教えています。
人は自分に関しては評価が甘くなるものです。
注意したいですね。
その一方で、他人に対しては評価が辛くなり、愚か者と認定したくなるようです。
つまり、相手が愚かであればあるほど、自分だけが聖なる者になると考えているのでしょう。
しかし、どちらかが聖なる者であり、どちらかが愚か者というのではなく、共に凡夫と指摘しています。
実のところ、大差ないということですね。
さほど差がないわけですから、その僅少な差にあくせくするよりは、相手の違いを理解し、その違いを尊重し、学べる点があればさりげなく学んでしまうという、したたかな姿勢が求められます。
違いが分かる人間になること(「当たり前」とは何か)
「私たちがおこなっている行為や考え方のかなりの部分は自分で選んだものではなく、日本の文化の中で成長する過程で身につけてきたものである。日常生活において、多くのことは一々理由を考えず、当たり前のこととしておこなっているが、それはある文化の中で共有されている「当たり前」であり、別な宗教から生み出された別の文化にはまったく異なる「当たり前」が存在する」(吉村均『神と仏の倫理思想』北樹出版 17頁)
大人になるにしたがって、自分が生きている国で「当たり前」とされていることが、他の国では「当たり前」ではないということに気付き始めます。
海外旅行に行くことも多いでしょうし、身近に他の国の文化に触れると「違い」を感じることができます。
また、書籍、テレビ等で外国の事情を見聞きする中で、いろいろな文化、習慣があるものだと認識するに至ります。
一般的な文化に関しては理解できても、宗教が絡みはじめると理解できなくなる場合があるようです。
自分が信仰している宗教が絶対であると凝り固まっている人にとっては、他の宗教の言説のすべてが間違いであり、腹立たしさを引き起こす源となっているようです。
ある新宗教の人にイギリス人の学者の文章を読ましたところ、段々と怒りが込み上げてきているようでした。
自分と違う国、宗教の人の文章を受け付けないという感じでしたね。
その後、その文章について話をしようとしましたが、その人は怒りにまかせてイギリス人学者の著者の悪口を言うばかりでまともな話になりませんでした。
その人に言わせるとイギリス人の学者は「分かっていない」ということだそうです。
国や宗教が違えば、「当たり前」とすることが違うのであり、その違いを理解することが重要という意図でその文章を素材にして話をしようとしたのですが、その人にとっては、「分かっていない」の一言でおしまいです。
その人は不勉強な人なので、おせっかいながらも勉強の素材を提供したのですが、不勉強な人は偏狭な考え方に留まるばかりで、勉強が嫌なようであり、違いを理解したくないようです。
「分かっていない」のはその人なのですが、その人がそのことに気付くことはないでしょう。
違いが分からないということは、恥ずかしいことですね。
傍目から見て、こちらが恥ずかしくなるぐらいのみっともなさでした。
世界には、いろいろな「当たり前」があるということ、それぞれの国、宗教には違いがあるということをしっかりと分かり、認識した上で、自分自身の考え方、信仰に磨きをかけていきたいですね。
大人になるにしたがって、自分が生きている国で「当たり前」とされていることが、他の国では「当たり前」ではないということに気付き始めます。
海外旅行に行くことも多いでしょうし、身近に他の国の文化に触れると「違い」を感じることができます。
また、書籍、テレビ等で外国の事情を見聞きする中で、いろいろな文化、習慣があるものだと認識するに至ります。
一般的な文化に関しては理解できても、宗教が絡みはじめると理解できなくなる場合があるようです。
自分が信仰している宗教が絶対であると凝り固まっている人にとっては、他の宗教の言説のすべてが間違いであり、腹立たしさを引き起こす源となっているようです。
ある新宗教の人にイギリス人の学者の文章を読ましたところ、段々と怒りが込み上げてきているようでした。
自分と違う国、宗教の人の文章を受け付けないという感じでしたね。
その後、その文章について話をしようとしましたが、その人は怒りにまかせてイギリス人学者の著者の悪口を言うばかりでまともな話になりませんでした。
その人に言わせるとイギリス人の学者は「分かっていない」ということだそうです。
国や宗教が違えば、「当たり前」とすることが違うのであり、その違いを理解することが重要という意図でその文章を素材にして話をしようとしたのですが、その人にとっては、「分かっていない」の一言でおしまいです。
その人は不勉強な人なので、おせっかいながらも勉強の素材を提供したのですが、不勉強な人は偏狭な考え方に留まるばかりで、勉強が嫌なようであり、違いを理解したくないようです。
「分かっていない」のはその人なのですが、その人がそのことに気付くことはないでしょう。
違いが分からないということは、恥ずかしいことですね。
傍目から見て、こちらが恥ずかしくなるぐらいのみっともなさでした。
世界には、いろいろな「当たり前」があるということ、それぞれの国、宗教には違いがあるということをしっかりと分かり、認識した上で、自分自身の考え方、信仰に磨きをかけていきたいですね。
2012年03月16日
自分の立場から自由になることについて
「自分の立場からの視点が持つ限界を超えることの必要性は、道徳哲学、政治哲学と法学において重要である。自分の立場から自由になるのは、常に簡単に行なえるわけではない。しかし、それは、倫理的政治的法学的思考がやらなければならない挑戦である」(アマルティア・セン『正義のアイデア』池本幸生訳 明石書店 236頁)
自分の立場から物事を考えて、相手方、反対側の人を安易に非難することがありますが、相手方、反対側の人の立場に立って物事を考えた場合、自分自身の考えが決して正しいと言い切れないものであることに気付きます。
相手方、反対側の人の意見、考え方にも十分な論拠があり、一刀両断できるわけではありません。
ただ単に立場が違うだけということが多いものです。
めぐりあわせによって、自分がどの立場になるかなど流動的であり、現段階での立場に固執することは価値的ではありません。
さまざまな立場から物事を見る癖を付けておく必要があるでしょう。
道徳的な事柄においても、人それぞれの道徳観があり、自分の道徳観を押し付けることはみっともないことといえるでしょう。
自分の立場だけでなく相手の立場をも包含して止揚(アウフヘーベン)する態度が本来的な道徳的態度といえます。
また、政治的なことに関しても、説得はあるにしろ、強制はなじまないと思われます。
民主主義の場合、最終的には多数決ですが、説得作業をした上での多数決決定という形が妥当でしょう。
違いがあるのが当たり前であり、その上で物事を決定するという大変な決断が政治であると認識しておく必要があるでしょう。
法的なことにおいても、自分が権利を主張する論拠を持っているのと同じように相手も権利を主張する論拠を持っており、それぞれに一理ありという事案がほとんどです。
それ故、当事者間でそれぞれの論拠を照らし合わせて妥当な結論を導き、それぞれ譲るところは譲り和解して解決するということが多いですね。
しかし、和解に至らない場合、最終的には、裁判所にて解決するほかありませんが、裁判所においては、双方の論拠を精査するという手続きが整っており、勝ち負けがあるにしても、一方的にならないよう制度的な工夫がなされています。
ただ、運用する人間によって、いい加減になってしまう場合もありますが、それはそれで別途改善するほかないでしょう。
まずは、相手の立場から物事を見て、自分の立場を改めて見つめ直すという作業を行えば、より一層、適切な考えを得ることができます。
相手の立場から物事を見るというのは、相手のためというよりは、むしろ、自分のためといえます。
自分の立場を強固にして自分の思い通りにすることが自由なのではなく、自分の立場から自由になるというのが本当の自由といえるでしょう。
凝り固まった状態は自由から程遠く、柔軟性がある状態が自由というにふさわしいですね。
自分の立場から物事を考えて、相手方、反対側の人を安易に非難することがありますが、相手方、反対側の人の立場に立って物事を考えた場合、自分自身の考えが決して正しいと言い切れないものであることに気付きます。
相手方、反対側の人の意見、考え方にも十分な論拠があり、一刀両断できるわけではありません。
ただ単に立場が違うだけということが多いものです。
めぐりあわせによって、自分がどの立場になるかなど流動的であり、現段階での立場に固執することは価値的ではありません。
さまざまな立場から物事を見る癖を付けておく必要があるでしょう。
道徳的な事柄においても、人それぞれの道徳観があり、自分の道徳観を押し付けることはみっともないことといえるでしょう。
自分の立場だけでなく相手の立場をも包含して止揚(アウフヘーベン)する態度が本来的な道徳的態度といえます。
また、政治的なことに関しても、説得はあるにしろ、強制はなじまないと思われます。
民主主義の場合、最終的には多数決ですが、説得作業をした上での多数決決定という形が妥当でしょう。
違いがあるのが当たり前であり、その上で物事を決定するという大変な決断が政治であると認識しておく必要があるでしょう。
法的なことにおいても、自分が権利を主張する論拠を持っているのと同じように相手も権利を主張する論拠を持っており、それぞれに一理ありという事案がほとんどです。
それ故、当事者間でそれぞれの論拠を照らし合わせて妥当な結論を導き、それぞれ譲るところは譲り和解して解決するということが多いですね。
しかし、和解に至らない場合、最終的には、裁判所にて解決するほかありませんが、裁判所においては、双方の論拠を精査するという手続きが整っており、勝ち負けがあるにしても、一方的にならないよう制度的な工夫がなされています。
ただ、運用する人間によって、いい加減になってしまう場合もありますが、それはそれで別途改善するほかないでしょう。
まずは、相手の立場から物事を見て、自分の立場を改めて見つめ直すという作業を行えば、より一層、適切な考えを得ることができます。
相手の立場から物事を見るというのは、相手のためというよりは、むしろ、自分のためといえます。
自分の立場を強固にして自分の思い通りにすることが自由なのではなく、自分の立場から自由になるというのが本当の自由といえるでしょう。
凝り固まった状態は自由から程遠く、柔軟性がある状態が自由というにふさわしいですね。
2012年03月01日
モンスター・ペアレントの状態とは(十界論の観点から)
現今、モンスター・ペアレントやクレーマーに関する報道を目にすることが多くなりました。
さすがにモンスター・ペアレントが増殖しすぎたのか、対策本が出ています。
クレーマーに関する本を読んだことがあるのですが、モンスター・ペアレントに関する本は読んでいませんでしたので、読んでみました。
「「モンスター」という鎧をまとった人には、残念ながらコーチングのアプローチでは限界があるのです」(本間正人『モンスター・ペアレント』中経出版 28頁)
本間正人氏は、モンスター・ペアレントに対して、通常の対応では無理があると指摘しています。
相手が通常の状態ではなく、異常な状態になっているという現実をしっかりと認識することですね。
モンスター・ペアレントになっている人の特徴を十界論から分析してみましょう。
まず、怒りの状態にある人が多いですね。
怒ってばかりです。
地獄界の状態ですね。
次に、あれをしろ、これをしろと要求ばかりです。
欲しいものだらけなのですね。
貪欲な感じがあります。
餓鬼界の状態に陥っています。
言っていることはトンチンカンであったり、屁理屈であったりと愚かしい限りです。
頭がおかしくなっている状態ですね。
弱い立場の人には襲いかかり、強い人には何も言えません。
畜生界そのものです。
あと、どういうわけか、偉くないのに偉そうにしています。
みっともないのに偉そうにしています。
自分が強いと思いたいのでしょう。
ひん曲がった心根です。
修羅界の様相を呈しています。
まとめますと、十界論の中で「四悪趣」といわれている地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の状態をぐるぐる回っているのがモンスター・ペアレントですね。
道理で話が通じないわけです。
苦労しますね。
また、この「四悪趣」の状態になっているモンスター・ペアレントから発せられる「息」には強烈な毒素が含まれています。
よって、本間正人氏が「力を注ぐべきことは「モンスターの破壊力によって、自分の心を壊されないようにする」ことです」(同書 36頁)と教えてくれているように、自分を守ることが大切です。
くだらない人に潰されてはいけません。
こちらも心して対応しなければなりません。
モンスター・ペアレントは、独特の思考回路を持っています。
そのため、こちらは混乱させられることが多々あり、適切な対応になっていないことがあります。
本間正人氏はモンスター・ペアレントとどう接すればよいのかをケース・スタディを通して教えてくれています。
驚愕する事例ばかりであり、情けない大人が多いものだと呆れますが、呆れてばかりもいられませんので、他人事と思わず勉強させていただきました。
モンスター状態の「四悪趣」の人間に負けない強靭な自己を作り上げることですね。
さすがにモンスター・ペアレントが増殖しすぎたのか、対策本が出ています。
クレーマーに関する本を読んだことがあるのですが、モンスター・ペアレントに関する本は読んでいませんでしたので、読んでみました。
「「モンスター」という鎧をまとった人には、残念ながらコーチングのアプローチでは限界があるのです」(本間正人『モンスター・ペアレント』中経出版 28頁)
本間正人氏は、モンスター・ペアレントに対して、通常の対応では無理があると指摘しています。
相手が通常の状態ではなく、異常な状態になっているという現実をしっかりと認識することですね。
モンスター・ペアレントになっている人の特徴を十界論から分析してみましょう。
まず、怒りの状態にある人が多いですね。
怒ってばかりです。
地獄界の状態ですね。
次に、あれをしろ、これをしろと要求ばかりです。
欲しいものだらけなのですね。
貪欲な感じがあります。
餓鬼界の状態に陥っています。
言っていることはトンチンカンであったり、屁理屈であったりと愚かしい限りです。
頭がおかしくなっている状態ですね。
弱い立場の人には襲いかかり、強い人には何も言えません。
畜生界そのものです。
あと、どういうわけか、偉くないのに偉そうにしています。
みっともないのに偉そうにしています。
自分が強いと思いたいのでしょう。
ひん曲がった心根です。
修羅界の様相を呈しています。
まとめますと、十界論の中で「四悪趣」といわれている地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の状態をぐるぐる回っているのがモンスター・ペアレントですね。
道理で話が通じないわけです。
苦労しますね。
また、この「四悪趣」の状態になっているモンスター・ペアレントから発せられる「息」には強烈な毒素が含まれています。
よって、本間正人氏が「力を注ぐべきことは「モンスターの破壊力によって、自分の心を壊されないようにする」ことです」(同書 36頁)と教えてくれているように、自分を守ることが大切です。
くだらない人に潰されてはいけません。
こちらも心して対応しなければなりません。
モンスター・ペアレントは、独特の思考回路を持っています。
そのため、こちらは混乱させられることが多々あり、適切な対応になっていないことがあります。
本間正人氏はモンスター・ペアレントとどう接すればよいのかをケース・スタディを通して教えてくれています。
驚愕する事例ばかりであり、情けない大人が多いものだと呆れますが、呆れてばかりもいられませんので、他人事と思わず勉強させていただきました。
モンスター状態の「四悪趣」の人間に負けない強靭な自己を作り上げることですね。