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2023年12月24日

自我偈の威力

田村芳朗氏は、戦争中の思い出として、
新しい中隊長が赴任してまもなく、中隊は一〇人を残してフィリッピンに転出し、上陸寸前で全滅した。私は一〇人の残り組のほうであったが、中隊長は出発にさいし、戦死者をとむらうための適当な経文を教えてくれと私に頼み、そこで、私は、『法華経』如来寿量品第十六の有名な詩句である自我偈を紙きれに書いて手渡した。それを受けとった中隊長の喜びと安心した顔が、いまでも浮かんでくる。しかし、その中隊長は、それを兵士たちにたむけるいとまもなく、ともどもに死んでいったと思われる。私が書き写した自我偈の紙片も、中隊長の胸ポケットにしまいこまれたまま、散華をともにしたことであろう。
『日蓮に出会う』旺文社 196〜197頁

と書かれています。

悲しげな物語ですね。中隊長は、自我偈を受け取って、喜びと安心した顔をしたということであり、中隊長が仏教における自我偈の位置付けを知っていたとは思えませんが、それでもなお、喜びが溢れ出たというのは、自我偈の威力といえましょうか。また、自我偈は安心をももたらしたのですね。

中隊長に限らず、我々も、自我偈を読誦するなかで喜びを得ていく必要があるように思います。毎日、自我偈を読誦していますと、単なる習慣となり、本来、得ていくべき喜びがなくなっていく懸念があります。なんとなく経文を読誦しているということがあり得るのですね。

やはり、常に、新たに、瑞々しく自我偈を読誦しながら喜びを歓喜を得ていくべきでしょう。また、安心をも得ていくべきでしょうね。現今、不安な世の中になっていますが、こういうときにこそ、信仰が求められますし、その信仰も自我偈を軸にした信仰であるべきです。そして、安心を得ていくことが肝要です。

田村芳朗氏が法華経の中で自我偈を選んだということにあらわれているように、自我偈は、法華経の精髄といえましょう。510字の中に、仏教の根本が詰まっているといえます。分量としては、極めて少ないのですが、内容が濃いのですね。

自我偈は、衆生が仏になれることを示した経文であり、仏教そのものを体現している経文です。仏教を信仰し、仏になれないならば、何の意味もなく、やはり、仏の境涯を自らに得ることが仏教の根本です。

八万法蔵ともいわれる膨大な教典がありますが、我々は、そのすべてを読むことはできません。また、仮に読んだところで仏の境涯を得られるかというと、それも怪しいですね。分量は少なくとも仏教の勘所を押さえた経文を軸にすることが大切です。ぶれないものを持った上で、幅広く学ぶことが重要ですね。

日蓮も、
夫れ、法華経は一代聖教の骨髄なり。自我偈は二十八品のたましいなり。三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす。
『日蓮大聖人御書全集』新版 1425頁 (法蓮抄)

と述べているように、自我偈は、たましいであり、命であり、眼目であるのですね。根本中の根本といえます。

また、日蓮は、
されば、十方世界の諸仏は、自我偈を師として仏にならせ給う。世界の人の父母のごとし。今、法華経寿量品を持つ人は、諸仏の命を続ぐ人なり。我が得道なりし経を持つ人を捨て給う仏あるべしや。もしこれを捨て給わば、仏還って我が身を捨て給うなるべし。これをもって思うに、田村・利仁なんどのようなる兵を三千人生みたらん女人あるべし。この女人を敵とせん人は、この三千人の将軍をかたきにうくるにあらずや。法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは、三世の諸仏を敵とするになるべし。
同書 1426頁 (法蓮抄)

とも述べているように、自我偈によって仏になれるのですね。

このように自我偈は、あまりにも功徳満載の経文ですが、身近にあるだけに、その有り難さを感じることが困難です。しかし、我々としては、その自我偈の威力を常に意識しながらの信仰でありたいと思います。

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posted by lawful at 16:43| 如来寿量品

2023年01月29日

「不自惜身命」の正しい意味

衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山
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「不自惜身命」とありますので、そのまま読めば、自らの命を惜しまないでという意味にとれますが、本当に命を惜しまないでという意味なのでしょうか。

気になりましたので、サンスクリット語からの翻訳を確認してみました。
それらの衆生たちが素直で、柔軟で、温和で、また愛欲を離れた状態になったとき、そこにおいて私は、声聞たちの集団(声聞僧伽)を形成して、グリドラクータ山(霊鷲山)に自身〔の姿〕を現わすのである。
植木雅俊訳『梵漢和対照・現代語訳 法華経』下 岩波書店 239頁

「不自惜身命」に該当すると思われる箇所は、「愛欲を離れた状態」のところですね。

単に命を惜しまないでという意味ではなく、愛欲にまみれた煩悩の命を離れた状態という意味なのですね。

自らの命そのものを捨てるのではなく、煩悩まみれの程度の低い命、愛欲だらけのみっともない命を捨てよというメッセージなのですね。

そうすると、仏と共に霊鷲山に至ることができるという。つまり、成仏できますよということですね。

「不自惜身命」という言葉だけに囚われますと、自らの命を大切にしないという間違った修行をする可能性がありますが、サンスクリット語からの翻訳も確認することで、正しく法華経を理解し、正しく修行することができます。自らの低い境涯を捨て、高い境涯を目指すという仏道修行ができるのですね。

確かに、「不自惜身命」は、力強い表現ですので、インパクトはあるのですが、インパクトがありすぎる分、誤解する人間も出てくると思われます。地道な研鑽を通した上で実践に至りませんと危険ですね。

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posted by lawful at 19:10| 如来寿量品

2022年11月01日

「我此土安穏 天人常充満」の現代語訳を読み比べる

我が此の土は安穏にして 天人は常に充満せり
創価学会教学部編. 妙法蓮華経並開結 (Kindle の位置No.32314-32316). 創価学会. Kindle 版.

「我此土安穏 天人常充満」の書き下し文は、上記のとおりですが、通解や現代語訳では、どのようになっているのでしょうか。確認してみましょう。
私の住むこの国土は安穏であり、つねに喜びの天界・人界の衆生で満ちている。
池田大作『新版 法華経 方便品・自我偈講義』聖教新聞社 414頁

わたくしのいるこの国土は安穏であって、天・ひとびとがつねに満ちみちている。
三枝 充悳『法華経現代語訳(全)』第三文明社 379頁

私が住するこの仏国土は安穏であり、天の諸神や清浄な人々で充ち満ちている。
日蓮正宗宗務院『日蓮正宗 勤行要典の解説』大日蓮出版 52頁

また、法華経のサンスクリット語からの翻訳も見てみましょう。
私のこのブッダの国土は、神々と人間たちで満たされているのだ。
植木雅俊訳『梵漢和対照・現代語訳 法華経』下 岩波書店 241頁

私のこの仏陀の国土は神々や人間で満たされている。
松濤誠廉/丹治昭義/桂紹隆 訳『大乗仏典5 法華経U』中央公論新社 116頁

漢文では、「此の土」となっており、仏の国土とは書いていませんが、サンスクリット語の翻訳では、「ブッダの国土」、「仏陀の国土」となっており、仏の国土であることが明確になっています。よって、日蓮正宗宗務院の訳では、「仏国土」となっているのですね。

「我」とは、釈尊のことですから、「我此土」で仏国土を表現できると鳩摩羅什は考えたのかもしれません。

この「我」ですが、私としては、釈尊一人に限定するのではなく、すべての人々を包含していると考えたいと思います。我々の仏国土と捉えながら信仰をするのが適切と思われるのですね。

「天人常充満」では、「天」と書かれていますので、漢文からの現代語訳では、「天界」、「天」と表現していますが、サンスクリット語からの翻訳では、「神々」となっています。よって、日蓮正宗宗務院の翻訳では、「天の諸神」としており、サンスクリット語を意識した翻訳となっています。

八百万の神と共に我々がいるという感覚が大切であることに気付きます。また、我々といっても、日蓮正宗宗務院の翻訳にあるように「清浄な人々」との解釈が妥当だと思われます。俗悪な人間は仏国土にいないと思うのですね。「天人常充満」は、麗しい人間関係、充実した人間関係のことといえるでしょう。

我々の住む地域が仏の国土であり,安穏、平安、安全であり、神々に守られながら、素晴らしい人々と共に生きていくことができるということが「我此土安穏 天人常充満」なのですね。素晴らしい経文であると思います。

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posted by lawful at 07:57| 如来寿量品

2021年02月01日

そばにいるよ

法華経の中で一番重要とされているのが如来寿量品ですが、如来寿量品を一言でまとめると、「そばにいるよ」となるのではと思います。

「常説法教化」であり、「常住此説法」であり、「我常住於此」であり、「常在此不滅」ですので、仏は衆生のそばにいるのですね。

信仰心のない衆生には仏が見えず、仏がそばにいても、いない状態となってしまうのに対し、信仰心のある衆生の前に仏は現われます。元々、そばにいるのですから、そばにいるのが明らかになった、ということですね。

仏は遠くにあるのではなく、そばにいる。それが分かることが信仰といえましょう。
posted by lawful at 19:31| 如来寿量品

2020年08月22日

祈りの言葉は法華経の如来寿量品から取る

我此土安穏 天人常充満

我が此の土は安穏にして 天人は常に充満せり

妙法蓮華経 如来寿量品 第十六

祈りをなすときに、何を祈るかが重要となります。祈るのであれば根本的なところを祈るのがよいでしょうね。

その意味で、法華経そのものから、祈りの言葉を引き出すのがよいでしょう。

法華経の中でも根本とされる品である如来寿量品には、「我此土安穏 天人常充満」との言葉が出てきます。

私自身が存するこの場所は安穏であり、神々や人々で満ちている、ということですね。

まず、自分のいるところが安穏、安全でなければなりません。危険地域では話になりません。

そして、さまざまな人々との接点も必要です。それだけでなく神々まで身の回りにいるというのが心強いところです。

正直なところ、「我此土安穏 天人常充満」であれば、何の問題もなく、これだけでも祈りは完了しているといえるでしょう。それ以上に何を求めるのかともいえます。

もちろん他にも祈りたいことがあれば、祈ればいいのですが、枝葉末節の祈りの前に、まずは、根本的なところを祈るのが大切でしょう。

その祈りの言葉も、法華経から、それも如来寿量品から取るというのが、より根本的であるといえましょう。

posted by lawful at 17:21| 如来寿量品

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