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2015年12月06日

『仏教史年表』から創価学会を見る

『仏教史年表』山崎宏・笠原一男監修 法蔵館 1979 から創価学会の歴史を辿ってみましょう。

1930年(昭和5年)11月18日 牧口常三郎、戸田城聖が創価教育学会設立。

この時が創価学会創立の日となっていますが、牧口常三郎が『創価教育学体系』第一巻を発行した日なのですね。書籍の発行日というわけです。よって、創価教育学会という組織ができた日ということではないのですね。

1937年(昭和12年)牧口常三郎、東京で創価教育学会正式発会式を挙行。

事実上、この時に組織体としての創価教育学会が成立したと考えるのがよいでしょうね。現在、創価学会は、創立85年と数えているようですが、マイナス7年と計算して、実際は、創立78年ということでしょう。

1943年(昭和18年)6月20日 創価教育学会弾圧、牧口常三郎・戸田城聖ら検挙。

ここで一旦、創価教育学会の活動が停止します。

1944年(昭和19年)牧口常三郎没(73)。

『仏教史年表』では、日付が書いていませんが、牧口常三郎は、11月18日に亡くなっていますね。

1946年(昭和21年)1月1日 戸田城聖、創価学会再建。

前年の7月3日に釈放されていた戸田城聖が実質的に活動し始めた時ですね。創価教育学会から創価学会と名称が変わったのもこの時ですね。

1951年(昭和26年)5月3日 創価学会会長に戸田城聖就任、折伏大行進展開。

戸田城聖が創価学会を再建してから5年経過し、戸田城聖が会長となります。すぐに会長になっていないのですね。元々、理事長であったということもあるでしょうが、いろいろあったということでしょう。この時から、折伏大行進がはじまります。いつまで続いたのかは、後の年表に出てきます。

1954年(昭和29年)8月8日 創価学会、全国地方折伏を開始。

折伏大行進開始から3年経過したのち、全国に展開しはじめたのですね。戦後の復興と共に創価学会も発展したことが分かります。

1955年(昭和30年)4月23日 都道府県議会議員に創価学会進出。

布教だけでなく、政治の世界にも創価学会は進出します。勢いがありますね。

1957年(昭和32年)7月14日 創価学会大阪大会、北海道炭労の学会反対決議は信教の自由への妨害と宣言。

このころになりますと、創価学会の勢力が強くなり、他の団体と衝突し始めるのですね。社会的な存在になったということですね。

1958年(昭和33年)4月2日 戸田城聖没(51)。

戸田城聖が亡くなります。51歳ではなく、正しくは58歳ですね。それにしても若いですね。歴史に、もし、はありませんが、もし、戸田城聖があと5年、10年長生きした場合、創価学会の姿は全然違うものになっていたことでしょう。

1960年(昭和35年)3月8日 厚生省は故なく創価学会員の埋葬を拒否出来ない旨通達。

創価学会の勢力は急拡大しましたから、どうしてもお墓の問題が出てきます。創価学会や日蓮正宗にしてもすぐに会員、信徒のためのお墓が準備できるわけでもなく、創価学会、日蓮正宗に入った人にとっても、今までの宗派でのお墓しかないわけで、埋葬はそのお墓になります。そこで、他宗派としては、創価学会の拡大はおもしろくなく、創価学会員になった人に対して、埋葬拒否があったということですね。さすがにこれは問題ということで厚生省まで動き始めたということです。

この厚生省通達の約4年前、昭和31年5月「大白蓮華」60号に掲載されたという座談会で戸田城聖さんが当時の状況を語っています。確認してみましょう。

戸田 まさか、いますぐ正宗で墓を全国につくるわけにはいかない。寺だけで大変なのに、墓までつくったらこれまた大変だ。
『戸田城聖全集』第二巻(質問会編) 聖教新聞社 459頁

急成長はいいことばかりではありませんね。衝突が勃発するものです。

1962年(昭和37年)1月17日 創価学会政治連盟、公明政治連盟と改称。

名称が変わっていますが、事実上、公明は創価学会ですね。細かく言うと、創価学会政治部でしょうね。

1964年(昭和39年)5月 大阪の日蓮正宗蓮華寺、大石寺末より離脱。
11月17日 公明党結成大会。

ここでいう蓮華寺は、大阪市北区のお寺のようですね。大阪市淀川区の蓮華寺とは違うようです。大阪市北区の蓮華寺は、日蓮実宗となっているという。日蓮正宗創価学会には、いろいろなことがあるのですね。

1969年(昭和44年)11月 藤原弘達著「創価学会を斬る」に関し、創価学会の言論妨害に批判高まる。

所謂、言論問題ですが、創価学会は、批判本の出版を妨害しようとして、結局、批判されてしまったということです。

1970年(昭和45年)1月28日 創価学会、折伏目標の達成をもって、折伏中止を発表。

言論問題の後ということもあり、折伏大行進がここで終了したようです。約20年に渡る大行進だったのですね。数百万人の会員を抱え、巨大新宗教団体となった創価学会は、その後、会員が増えていませんので、やはり、この時に行進が止まったというわけです。

1971年(昭和46年)1月27日 創価大学認可。

創価学会は、大学まで作りました。相当なものですね。

1975年(昭和50年)1月26日 創価学会インターナショナル創設。

創価学会の国際組織を立ち上げています。ただ、折伏大行進のようなことはなく、地道に活動しているようです。

『仏教史年表』は、1975年(昭和50年)で終わっており、それ以降の年表はありませんが、実質的に、創価学会の見るべき点は、ここまでといってよいでしょう。これ以後、創価学会に特筆すべきことはないと思われます。

折伏大行進によって、急拡大した創価学会は、昭和の宗教団体といえるでしょう。

折伏大行進が終わった1970年(昭和45年)から会員が増えているわけでもなく、それなりに成熟した団体となりました。

ただ、現在、時代の要請に応えられているかというと、全く応えられていませんね。ある意味、過去の宗教といえるでしょう。

あとは、惰性で組織運営をしていくだけでしょうね。昭和の一時期に大立ち回りをした教団があったという歴史を残したということですね。

年表を辿りますと、今となっては、もの悲しい感じがしますね。栄枯盛衰が強く感じられます。
posted by lawful at 06:00| 新宗教

2015年09月13日

カルトに入る人の特徴――「中悪人」、「大悪人」であること

カルトに入るのはどのような特徴を持った人かとよく聞かれるのですが、純粋な心と善意にあふれた人たちです。そんなバカな。そういう人たちが悪事を働くわけがないではないか。そう思われる方が多いと思いますが、カルトには悪人はいません。なぜなら、カルトは組織のメンバーに悪人を必要としないからです。純粋さ、ひたむきさを持つ善意の人を選んで勧誘し、利用するのです。カルトのターゲットになった人たちだけがカルトに入るので、カルトが必要としない人はカルトにはいないのです。
櫻井義秀「レジアリンス――回復する力」櫻井義秀編著『カルトからの回復』北海道大学出版会 4−5頁

ここでいう「悪人」は、自分は悪いことをしていると認識して、悪いことをしている人間、つまり「小悪人」のことでしょうね。所謂、犯罪者の部類に入る人間のことですね。また、単に素行が悪い人間も「小悪人」といえ、ここでいう「悪人」に該当するでしょう。

カルト教団としては、このような人間は使いにくく、利用価値もないということなのでしょうね。

確かに、ある新宗教教団において、逮捕歴のある人もいましたが、その人は、教団から重用されることもなく、相手にもされていなかったですね。教団としては、献金、寄付だけもらっとけばよいと考えていたのでしょう。下手に動かれて、組織を引っ掻き回されても困るということなのでしょう。

やはり、教団としては、素行が悪くなく、犯罪者でもない人が利用しやすいですね。

その人に「純粋」や「善意」というものがあれば、なおさら、脅しがききやすくなり、便利というものです。

では、このような「純粋」で「善意」のある人がここでいう「悪人」ではないにしても、本当に悪人でないかといえば、そうとも思えません。

「小悪人」ではないけれども、自分は悪いことをしていると認識せずに、悪いことをしている人間、つまり「中悪人」であったり、自分はいいことをしていると認識して、悪いことをしている人間、つまり「大悪人」であったりするのですね。

「小悪人」ではなく、「中悪人」、「大悪人」であるというわけです。「純粋」、「善意」という仮面はかぶっていますが、実は、「小悪人」以上に悪質なのですね。

だからこそ、単なる犯罪者以上にカルトの害悪は、酷く、たちが悪いのです。

表面だけをみると、確かに「小悪人」ではないので、いい人なのかと思いきや、全くそうではないのですね。

カルト教団は、犯罪という類型に入らないよう注意しながら活動していますので、警察としても立件が困難なのですね。

カルト教団の害悪からすると、暴力団の方が良心的に見えてしまいます。明らかに犯罪という中で活動しているのですから。

我々としては、犯罪であるかどうかという低い基準で人を見るのではなく、犯罪という類型に入らなくとも、人間として行ってはならないことをしている「中悪人」、「大悪人」を見抜き、これらの人たちからの害悪を防御しなければなりません。

暴力団のように、いかつい格好をしていませんので、見分けが困難ですが、注意深く見ていくと分かるものです。

この世の中で、確かに「小悪人」は悪い人間ですが、それ以上に「中悪人」、「大悪人」が悪いということを、しっかりと認識しておくことですね。
posted by lawful at 17:50| 新宗教

2015年06月08日

正しい言葉遣い

創価学会では、部活動者会というのがあるそうです。部活というようですが、学校の部活とは全く違います。

ある人に「部活、部活と仰っていますが、何をされているのですか」と聞いたところ、その人は、「新聞を読む」と仰いました。

私は、「ああ、日本経済新聞ですか」と言ってみました。

その方は、「違う、違う」と大慌ての風情であり、ちょっと滑稽でしたね。

もちろん、創価学会で新聞といえば、聖教新聞なのですが、新聞とは即ち聖教新聞というその雰囲気が馴染めなく、「日本経済新聞ですか」などと言ってみたわけです。

とにかく、創価学会の中では、新聞は聖教新聞のみというほどの圧があります。

また、他の人で「選挙、選挙」という人がいましたので、私は、「立候補されるのですか」と聞いてみました。

その人は、同じく「違う、違う」と大慌ての風情でした。

創価学会で選挙といえば、公明党の票集めのことです。

選挙即ち公明党の票集めというその感覚が私には合わないのですね。

会員の方は、新聞、選挙という単語だけで会話が成り立っており、独特な空間を形作っています。

特殊な団体、閉鎖的な団体には、世間一般とは違う感覚で言葉を使います。

やれ「折伏」だ、「新聞啓蒙」だと言っていますが、正しくは「勧誘」でしょう。

「財務」と言っていますが、正しくは、「寄付」「献金」でしょう。

「F」だ「Z」だと言っているようですが、正しくは、「票」でしょう。

このような言葉遣いになれることは好ましくないと思いますね。

思考が歪に硬直する危険性があります。私が創価学会に違和感を持つのは、このような言葉遣いをするからですね。

正しく言葉を使う習慣を身に付けるべきですね。
posted by lawful at 07:14| 新宗教

2015年06月06日

創価学会の日蓮正宗に対する態度

最近は、「聖教新聞」紙上で日蓮正宗(創価学会では「日顕宗」と言っていますが、「日顕宗」という宗教法人はありません)に対する熱烈な憎悪に基づく悪口が影をひそめましたが、一時は、強烈でしたね。

なぜ、このようになるのだろうかと思っていましたが、それなりの理由があったのですね。

ホッファーの言葉を参考にして考えてみましょう。

熱烈な憎悪は、空虚な人生に意味と目的とを与えることができる。
エリック・ホッファー『大衆運動』高根正昭訳 紀伊国屋書店 112頁

平成に入ってから、創価学会と日蓮正宗との対立が激しくなるわけですが、その中で、創価学会は、日蓮正宗に対して、これでもかというぐらいの悪口を投げかけました。

通常であれば、しらけるだろうと思われるところ、しらけるどころか、より一層、悪口がひどくなり、盛り上がっていましたね。

つまり、創価学会員自身の人生が空虚であったということでしょう。

熱烈な憎悪を掻き立てることにより、自分自身のつまらない人生をごまかし、意味と目的とを得ようと必死だったのでしょう。

思い返しますと、痛々しいですね。

そこで人生の目的を失って悩んでいる人びとは、自分自身を神聖な大義に献げるだけでなく、狂信的な不満を育てて新しい満足を見出そうとする。
同書 同頁

狂信的というところが、言い得て妙ですね。

単に、空虚な人生に意味と目的とを見出すだけでなく、不満に基づいた歪な感情を育み、新しい満足を得ようとするのですから、気持ち悪いですね。

確かに、この通りでしたね。

ホッファーの指摘を自分自身に当てはめ、至らぬ点を改善することですね。

また、劣等な創価学会員の振る舞いを他山の石としておくことですね。
posted by lawful at 15:28| 新宗教

創価学会の評価が低い理由

社会における創価学会の評価は芳しくありません。

教団自身は、平和、文化、教育に貢献していると訴えていますが、貢献しているようには見受けられません。

もちろん、それなりの貢献はあるでしょうが、教団が強調するほどの貢献はないですね。

それよりも、問題点の方が多く、評価されない点が、多々、見受けられます。

なぜ、このようになってしまうのでしょうか。

ホッファーの言葉から考えてみましょう。

民族や国家、あるいはどのようなものであれ、明瞭な輪郭をもった集団は、そのもっとも劣等な成員によって評価される傾向がある。明らかに不当ではあるけれども、この傾向には、若干の理由がないわけではない。というのは、一つの集団の性格と運命は、その構成分子の中でも劣等なものによって決定される場合が多いからである。
エリック・ホッファー『大衆運動』高根正昭訳 紀伊国屋書店 27頁

ホッファーの言う通り、劣等な構成員によって教団の性格と運命が決定づけられている側面があり、教団の悪いところは、悉く、劣等な構成員による振る舞いが原因となっています。

創価学会の中にも、優れた人がいるにしても、劣等な構成員の影響力の方が強くなってしまい、その影響が社会に反映し、低い評価につながるわけです。

また、創価学会の構成員の中で、劣等な構成員が幅を利かせているという現実があり、まともな人が離れていっています。

当初はさほどひどくはなかったものが、劣等な構成員の割合が増えることにより、教団が劣化しています。

御書で指摘すると以下の通りですね。

南岳大師の四安楽行に云く「若し菩薩有りて悪人を将護して治罰すること能わず、其れをして悪を長ぜしめ善人を悩乱し正法を敗壊せば此の人は実に菩薩に非ず、外には詐侮を現じ常に是の言を作さん、我は忍辱を行ずと、其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん」
南部六郎殿御書 1374頁

劣等な構成員をそのままにして、逆に守ってしまい、懲らしめることをせず、より一層、劣等な状態にして、まともな人、優れた人を困らせ、肝心の法門を捨てておく人は仏法者などではないということですね。

仏法者でない状態でありながら、外面だけ整えて中身がなく、信仰心がそもそもないにもかかわらず、人には「信心で捉えてくれ」などと言って、現状のままでよいという姿勢をとります。彼らにとっては、それが忍辱ということなのでしょう。

まさに、劣等な構成員だらけですが、南岳によると、その他の悪人と共に地獄行きということですから、放置しておきましょう。相手にするだけ時間の無駄というものです。

教団として、組織はしっかりしていますから、当面、今のままでしょうが、劣等な構成員をそのままにしていては、上記の御文の通りとなるでしょう。

ただ、教団の規模が大きいので、時間はかかるでしょうね。
posted by lawful at 14:19| 新宗教

ユートピア、楽園、お花畑

なぜ、新宗教が発展したのでしょうか。

さまざまな要因がある中で、一つの理由として、教団は、自らの教団がユートピアであり、楽園であり、お花畑であると演出し、その演出に人々が魅せられたということがあげられるでしょう。

現実の世の中は厳しい世界であり、苦しく、貧困な状態ですが、教団は、うちの教団は違いますよとアピールします。

まだ、教団に入っていない人からすると、その教団が怪しく見えるのですが、その人の気持ちとしては、現在の自分の生活はままならず、取るに足りない人生であるところ、もしかするとユートピア、楽園、お花畑があるのではないかと夢想し、そのような世界があるならば、そこに入りたいと思っているのですね。

冷静に考えれば分かることも、分からなくなってしまうのですね。

最初は教団に対して、怪しいと感じていながらも、自身の持っている夢想の方が強く出てしまい、結局、教団に入ってしまうわけです。

教団に入って、自分の人生が好転すればよいのですが、そうでない人々がほとんどです。

そうしますと、教団をすぐ辞めるのかと思いきや、辞めないのですね。

教団の中で、この教団はユートピアであり、楽園であり、お花畑であるというふりをし始めるのですね。そして、教団の言う通り、勧誘します。同じような人が一定数いますから、その人たちが教団に加入します。

ただ、一定数の人だけですから、定数に達するともう増えません。

また、時代が変わると人も変わりますから、教団の構成員の数も減ってきます。

それでも、教団で熱心に活動する人がいますが、これは、現実を見るのが辛く、夢を見続けたいから、活動を続けるのですね。

この教団にいれば大丈夫と思いたいのですね。実際に大丈夫かといいますと、大丈夫ではないのですが、一旦、足を踏み入れてしまうと、なかなか、抜け出せないようです。

教団にユートピアを見て、楽園を見て、お花畑を見て、現実にそのユートピア、楽園、お花畑があればよいのですが、そのようなものはありません。

ないと言っても、全くないのかと言いますとそうでもないようです。つまり、その人の心の中に、ユートピアを見たい、楽園を見たい、お花畑を見たいという欲望が厳然と存在するのですね。

存在するのは欲望、仏教的な言い方をすれば、貪欲です。

結局、新宗教の発展の原動力は、信者の貪欲ということです。

根本とすべきは、自分の心の中にある仏界です。

教団に救済を求めている段階で仏教的ではありません。

何も得るところはないでしょう。日蓮の言葉をみてみましょう。

若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し
一生成仏抄 383頁

この御文通りで済むならば、ゼロで済みますが、実際は、教団に多額の寄付をしていますから、マイナスになっています。

少なくとも一生成仏抄通りでいて欲しいところですが、教団に熱心な人は「御書」を大切にしませんので、「御書」で指摘されている以上の損失を被るのですね。
posted by lawful at 08:21| 新宗教

2015年06月04日

創価学会の業績

日本最大の新宗教団体である創価学会について、その業績は何なのだろうと考えたところ、以下の3点があると思われます。

@  「御書」を発行したこと。
A  「妙法蓮華経並開結」を発行したこと。
B  「御書辞典」「仏教哲学大辞典」(第三版)を発行したこと。

日蓮仏法を信仰、研鑽する上で、日蓮の御書は必須です。この「御書」を発行したことは創価学会最大の功績でしょう。

その「御書」も、拡大版あり、分冊版あり、編年体ありと至れり尽くせりです。また、合成皮革装だけでなく羊皮革装もあるという充実ぶりです。

英訳御書もあり、「佐渡御書」等の御書に関しては、文庫版まであります。

研鑽するに不足なしといったところでしょう。

この点においては、創価学会の業績として高く評価してよいと思います。

そして、「妙法蓮華経並開結」ですが、古くは日蓮正宗の細井日達編のものもあり、現在では創価学会教学部編のものがあり、双方とも使いやすい法華経となっています。

平楽寺書店版の法華経もありますが、上段の真読の部分と下段の訓読の部分のずれが生じているところもあり、やや使いにくいですね。

その点、創価学会発行の「妙法蓮華経並開結」は、細井日達編のものでは、ほとんどずれがなく、創価学会教学部編のものでは、細かく段落を区切ることにより、ずれを解消しており、評価してよいと思いますね。

現代において、法華経を身近に読むことができるようにしているわけですから、これは、仏教上、大変な業績と言わねばなりません。

最後に「御書辞典」ですが、これは見事な辞典ですね。名前が「御書辞典」ですから、まさにストレートなネーミングです。

内容は「御書」の辞典として申し分ないですね。創価学会だからといって、偏っているかと思いきや、この「御書辞典」は、辞典としての役割を弁えており、仏教全般に関し、公平な態度で記述されています。

この「御書辞典」の内容を含みながら、幅広く編纂されたのが「仏教哲学大辞典」(第三版)です。

「御書辞典」で十分といえば十分なのですが、この「仏教哲学大辞典」(第三版)も使い勝手がいい辞典ですね。

このような辞典を作るという点において、創価学会は真面目であると評価できます。

ただ、「御書辞典」「仏教哲学大辞典」(第三版)については、絶版ですので、この点では、不真面目さが出てしまっています。新しい辞典を編纂するなどの改善を望みたいところです。

このように創価学会には不真面目な側面もあり、その他諸々、問題があります。

いずれにしても本ブログにおいては、創価学会の業績である「御書」「妙法蓮華経並開結」「御書辞典」「仏教哲学大辞典」(第三版)を十二分に活用しながら、研鑽し、境涯を上げていきたいと考えています。
posted by lawful at 21:53| 新宗教

2014年11月01日

海外の創価学会

「創価学会(SGI)の海外の会員数は約170万人といわれているが、そのなかで韓国SGI(以下、KSGI)の登録会員数は、KSGI広報局の公式資料によれば、約150万人で、そのうち、座談会の参加者は約73万世帯(2012年12月27日現在)に至っているという」(朴承吉「創価学会の海外組織―韓国SGIの急伸要因」南椿模訳 西山茂責任編集『近現代の法華運動と在家教団』 春秋社 365頁)

約170万人の海外の創価学会員のうち、約150万人が韓国ということは、日本及び韓国を除く地域の創価学会員数は、約20万人ということになります。

こういっては何ですが、世界(日本と韓国とを除く)での信仰者数が20万人とは、あまりにも少ないですね。

日本と韓国との人口を除いた世界人口が約70億人と考えますと、日本と韓国以外での創価学会員数が20万人ということですから、割合としては、約0.002857パーセントです。

ほとんど存在しないに等しい数字ですね。

創価学会は日本の新宗教であり、日本においては、それなりの勢力と影響力とを持っており、韓国においても「韓国社会に及ぼす影響力は少なくないと考えられる」(同書 369頁)わけですが、世界的に見ると、存在を確認することそのものが困難です。

以下のように巨大宗教と比べますと、その差に驚きます。
キリスト教徒(全体) 約20億人
   ローマカトリック 約10億5000万人
   独立主義教会 約3億8000万人
   プロテスタント 約3億4000万人
ムスリム(イスラム教徒)約11億8000万人
ヒンドゥー教徒 約8億1000万人
仏教徒 約3億5000万人
新宗教信者 約1億人

上記のうち、創価学会は、仏教徒、若しくは、新宗教信者に含まれると思いますが、いずれにしても、巨大宗教たるキリスト教、イスラム教に比べますと、極小宗教団体です。

日本にいますと、それなりに宗教や政治に関心を持っている人であるならば、創価学会は影響力のある巨大な団体という感覚があります。

しかし、目を世界に転じると、全く違う現状が見えてきます。つまり、存在を確認することができないぐらいの極めて小さな存在なのですね。

創価学会の機関紙の聖教新聞やテレビCMを見ると、いかにも世界に広がっているというイメージですが、所詮、それはイメージであって、現実には広がっていません。

もちろん、世界的に見れば少ないとはいえ、約20万人いるわけですから、全く広がっていないとは言えないでしょうが、やはり、大きく捉えると、広がっていないと解釈するのが妥当でしょう。

世界に広げたいと考えるならば、創価学会としては、まだまだ、為すべきことが多いということになりましょう。創価学会的な言い方をすれば、まだまだ草創期も草創期ということでしょう。

ただ、日本において、それなりの財源を確保してしまうと、それで安心してしまい、困難な世界進出などやりたくないというのが本音なのかもしれませんね。相手にしなければならないのは、キリスト教、イスラム教などの巨大で歴史のある宗教なわけですから、普通に考えますと、それらの宗教を凌駕するのは困難ですから、二の足を踏むのも分からないではありません。

創価学会の勢力がどうなろうと、別にどうでもいいわけですが、キリスト教、イスラム教と発想が違う仏教、就中、法華経や日蓮仏法の考え方は、今後の世界をリードしていく上で、重要と思いますね。

一神教に基づくキリスト教やイスラム教であれば、神を中心とするものの考え方により、恣意的に世界を解釈し、それなりに秩序を構築しやすいという利点があるでしょうが、所詮、それは人間の頭の中で作り上げた秩序です。

この世界は、人間だけでなく自然もあるわけですから、人智を超えたものを神として定立し、それで事足れりとするのではなく、難しくとも、人智を超えた自然をそのまま感じ取りながら自らの立ち位置を見出すべきと思われます。

この点、仏教は、自然と共に人間があるという考え方に貫かれており、環境破壊が甚だしい現在の世界に必要な視点を提供してくれます。

「「東大門派」の韓国語の読経問題は、後刻、日本の創価学会本部の仲裁によって、「ナムミョウホウレンゲキョウ」は末法保存の宝号で本尊を呼ぶ一種の「化法」(教えの根幹)であるのでそのまま使わなければならないが、経典(経文)は「化儀」の問題なので韓国語に換えて使ってもよいという許可を、1969(昭和44)年1月14日に、日本本部が日蓮正宗の法主から貰うことによって、一応解決された」(同書 373頁)

はじめて知りましたが、いろいろあったのですね。

経典に関していえば、創価学会、日蓮正宗では、法華経方便品寿量品を読誦する場合、真読しますが、霊友会、立正佼成会では、訓読していますね。

日本においても、真読と訓読との違いがありますね。

韓国においては、真読ではなく、訓読するにしても、やはり、日本語ですから、韓国語に翻訳して読誦したいと思うのは当然でしょう。

これはこれで問題がないと思うのですが、当時は、これでいいのだろうかと議論があったようですね。

結局、日蓮正宗の法主の許可で解決したようですが、日本以外で宗教を広げるのは大変な作業ですね。

「KSGIは、1995(平成7)年に財団法人化の過程で分派した「善の連帯」と現在でも葛藤と対立を続けているが、それにもかかわらず、両者とも、師弟不二の理念によって池田SGI会長との一体化を志向しているということには変わりはない」(同書 380頁)

これもはじめて知りましたが、韓国の創価学会は分派しているのですね。

今後、日本の創価学会にも同じようなことが起きるかもしれません。

少なくとも、韓国では、約20年前に起こっていることですから、分派は起きないとは言い切れませんね。

日本においては、池田大作さんが存命の間は、何も起こらないでしょう。ただ、「当然ながら、いつかは迎えるしかない池田会長の不在という状況になると、それは、「KSGI」にとっては、直ちに新たな「挑戦」の始まりになると思われる」(同書 382頁)のと同様に日本の創価学会にとっても、大きな「転機」にはなるでしょうね。

ある意味、日蓮正宗と創価学会とが別々の団体として、それぞれの特色、特徴を持つに至り、袂を分かつにしても、所詮、根本的なところは同一であり、どこまで行っても「日蓮正宗創価学会」です。

日蓮正宗としては、創価学会とは違うと言いたいところでしょうが、信徒の大多数は元創価学会員であり、ただ単に「元」が付いているだけで、中身は正真正銘の創価学会員です。

日蓮正宗の活動を見てみますと、いつの間にか創価学会のようになっています。やはり、創価学会で薫陶を受けた元創価学会員の力量が遺憾なく発揮されているということでしょうね。人間はすぐに変われるわけではなく、いままでの習慣が滲み出てくるものです。

創価学会としても、日蓮正宗とは違うと言いたいにしても、題目、本尊、御書という根本的なところは、日蓮正宗から持ってこなければならず、日蓮正宗を外して創価学会は存在できません。やはり、創価学会の中に日蓮正宗が厳然と鎮座しているのですね。

韓国の創価学会も、「KSGI」と「善の連帯」とで別々の団体になっても、根本的なところは同一であり、所詮、「韓国の創価学会」ということですね。

今後の日本の創価学会が分派することがあっても、結局、上記のように、教団が分派するだけであって、中身は同じと考えておけばよいでしょう。

信仰するという観点からすれば、教団が分派しようがどうしようが、本質的には、あまり関係がないのですね。

利用価値、使用価値がある教団があればよく、なければないで問題はありません。

自立した信仰者であれば、何ら困ることはありません。教団分派の過程を観察することによって、人間とはいかなる存在であるかが分かり、勉強になるという利点はあるでしょう。

教団としては、自立していない信仰者が、お得意さんですから、教団がなければ信仰が出来ませんよという大きな嘘を言いながら、また、脅しをかけながら人の信仰の自立を阻みながら、集金に余念がないのでしょうね。

信仰者としては、教団を厳しく監視しながら、利用できるときは利用し、利用されそうになった場合は、素早く退避することですね。

いちいち相手をしていますと、時間とお金とエネルギーとがなくなってしまいます。

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posted by lawful at 22:17| 新宗教

2014年04月19日

俺は寝てないんだ(新宗教のやり方)

「2002年にアメリカで発表された調査結果では、1日に6時間半〜7時間半眠っている人が最も病気になりにくく、寿命も長いと報告されています」(大塚邦明『「もっと時計を見る」と健康になる』マキノ出版 185頁)

睡眠に関して思い出しますのは、ある新宗教の職員さんが話していたことです。

その職員さんは、突然、新宗教のトップから呼び出されました。

新宗教のトップは、保養地でゆっくりしていたようですが、「ここにすぐ来い」と言ったわけです。

当然、その職員さんは、急いでトップのもとに行くのですが、何の用かは分からず、思い当たるふしもないわけです。

どうにかトップのもとに到着したところ、その職員さんは、トップから「お前は、何時間寝ているのか」と問われました。

職員さんも忙しい方ですから、「4、5時間の睡眠です」と答えたのですが、トップは「よく寝ているな」と吐き捨てたということです。

そして、「俺が若い時は寝ていなかった」とのたまったそうです。

この「俺は寝てないんだ」という発言ですが、ウソですね。

人は寝ないと死にます。

つまり、その職員さんを睡眠不足に陥れ、脳が正常に働かないようにさせ、体も不調になるように仕向けているのですね。

この話をしていたその職員さんの話しぶりからすると、このトップの人は困った人だなと思っているようでした。

この職員さんは自分の頭でものを考える人であり、人から指図を受けて動く人ではありません。

トップとしては、そこが気に入らず、睡眠不足にさせ、自分の思い通りにしようと思ったのでしょう。

それが、「今すぐ来い」という思い上がった言動につながるのですね。

この職員さんは例外でしょうが、ほとんどの職員さんや会員さんは、まんまと睡眠不足に陥れられ、頭もフラフラ、体もフラフラになった状態で洗脳されるのですね。

脳が正常に働き、体も健康で元気であれば、洗脳などされません。

しかし、夜遅くまで活動させられ、睡眠不足になると、洗脳されやすくなります。

新宗教のトップとしては、そのことをよく分かっており、「俺は寝てないんだ」などというウソを言いながら、あれをしろ、これをしろと指令を出します。

そして、職員さん、会員さんは、自分でものを考える暇すらなく、トップの言う通り活動と称して動き回るのですね。

早く寝ればいいのにと思ってしまいます。

ただ、言ったところで洗脳されていますから、通じません。

ほっとくしかありませんね。

自分で気づいていただくほか解決方法はありません。

「俺は寝てないんだ」には、くれぐれもお気を付けください。
posted by lawful at 16:25| 新宗教

2014年04月05日

確証バイアス(2)

先日、「確証バイアス」について紹介しましたが、より一層、分かりやすい説明がありましたので、ご紹介します。

「心理学の用語で「確証バイアス」というのがある。これは、ひとたび相手の言うことを信じ込んでしまうと、たとえ矛盾点や疑念にぶち当たっても、わざわざ相手が正しいと感じられるように自分の中で理屈を作り、相手のことを正しいと判断した自分を正当化するものである」(村松秀『論文捏造』中公新書ラクレ 98頁)

新宗教の教団において、教祖のように崇められている人に心酔している人は、まさに、上記の「確証バイアス」そのままですね。

一点の違いもありません。

まずは、教祖のように崇められている人を信じ込みます。

新宗教の教団にいると、なんとなく染まっていくものですから、その過程において、信じ込むのでしょうね。

一旦、信じ込んでしまうと、あとは自動的に「確証バイアス」の流れに則って、より深く信じ込んでいきます。

新宗教団体や、教祖のように崇められている人に、どのような問題点があろうとも、関係ないわけです。

すべて、新宗教団体は正しい、教祖と崇められている人は正しい、との理論構成がなされるわけです。

ここで注目したいのは、正しいと判断した自分を正当化するという点です。

狂信者は、やけに頑なです。

それは、自己正当化のなせる業だったのでしょう。

新宗教団体のこの部分はおかしいよと言われて、それを認めてしまうと、自分を正当化できなくなりますので、屁理屈であろうがなんであろうが、必死になって、正しいはずだと言い張ります。

「確証バイアス」という視点から、新宗教に深くコミットしすぎている人を分析すると、その狂信の構造がよく分かります。

やはり、読書はしておくべきですね。

論文捏造 (中公新書ラクレ)

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posted by lawful at 18:07| 新宗教

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