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2022年01月01日
四聖によって三悪道を活用する
今の世は闘諍堅固・白法隠没なる上、悪国・悪王・悪臣・悪民のみ有って、正法を背いて邪法・邪師を崇重すれば、国土に悪鬼乱れ入って、三災七難盛んに起これり。
『日蓮大聖人御書全集 新版』 600頁(如説修行抄)
鎌倉時代と同様、実際のところ、現在もこのような状態でしょうね。確かに、科学技術の発展により、利便性のある生活とはなっていますが、人間の精神性においては、悪なるものが蠢いています。表面は行儀良くしていますが、一皮むけば、ドロドロしたものが流れ出るのですね。戦争や大量虐殺や非情な差別等々を垣間見ることがありますが、やはり、これらは人間の三悪道(地獄、餓鬼、畜生)の境涯が生み出しているものといってよいでしょう。
我々にもこの三悪道の生命がありますが、これを法華経の信仰によって、四聖(仏、菩薩、縁覚、声聞)という高次の境涯によってコントロールしながら、三悪道そのものが暴走しないようにすることです。また、三悪道を活用するほどの境涯に至るべきですね。
例えば、我々の中にある餓鬼界の境涯、つまり、人のものを盗んでやろうという気持ちを使って、盗みを働く人間の精神状態を見抜き、防犯に役立てるということなどが活用の一事例といえましょう。もちろん、自分は人のものを盗まないのは当然のことですが、そのような気持ち、餓鬼界の境涯が自分の中にあることを利用、活用するほどの境涯、つまり、四聖の境涯を軸に生きていくように信仰することですね。
畜生界でいえば、自らの愚痴の状態を観察し、そこから愚か者の行動様式を見抜き、その愚か者と接しないよう前もって行動することなど、また、自分の地獄界の境涯、所謂、瞋りの状態を分析し、他人を怒らせないよう細心の注意を払うなどということも畜生界、地獄界の境涯を活かしている事例といえましょう。
四聖によって三悪道を転換し、三悪道を単なる三悪道に留めておくのではなく、その三悪道を活用し、善用するという姿勢が法華経信仰者のあり方といってよいでしょう。
2014年01月11日
十界論を意識した祈り
仏教の各宗派では、それぞれの勤行がありますが、祈りの一つの形式といえますね。
祈りを行うにあたって、注意すべき点は何でしょうか。
十界論をヒントにしながら考えてみたいと思います。
十界の内、六道としては、「地獄界」、「餓鬼界」、「畜生界」、「修羅界」、「人界」、「天界」があります。
六道輪廻などともいわれるように、苦しみの境涯をあらわしています。
特に、三悪道といわれる「地獄界」、「餓鬼界」、「畜生界」や、「修羅界」をも含めた四悪趣の状態は好ましくない状態です。
この好ましくない状態である三悪道、四悪趣の状態である自分を恥じ入り、深く反省するところから祈りを始めるのがよいでしょう。
まずは、自分の悪い状態をきれいにすることですね。
そうしますと、心が平静になり「人界」の状態となり、きれいになったことによる清々しさは「天界」の状態といえるでしょう。
その上で、「法華経」を読誦し、「御書」を読み、自身の境涯を上げていくことです。
「法華経」、「御書」に触れることは、「声聞界」、「縁覚界」の状態といえなくもありません。
そして、人のために生きていくという利他の祈りを行うと、これはまさに「菩薩界」の状態ですね。
この「菩薩界」の祈りが含まれることによって、活動的、実践的、倫理的になり、静的な祈りから動的な祈りになります。
仏教における菩薩の特質が出ているようです。
その上で、自らの仏を開くことを祈ると、「仏界」の状態に至ります。
十界のそれぞれを意識しながら、祈りを行うと、漫然とした祈りでなくなり、ひとつひとつ区切りの付いたメリハリのある祈りになります。
実際は、勤行の中で祈りを行っていきますので、上記の順番にはなりません。
法華経方便品、如来寿量品を読誦しますので、「声聞界」、「縁覚界」からのスタートになるといえます。
別の観点からいうと、題目を三遍唱えて勤行が始まるわけですから、題目そのものは「仏界」を表わしていますので、いきなり「仏界」から祈りが始まっていることになります。
「仏界」、「声聞界」、「縁覚界」からスタートしておりますが、三悪道、四悪趣を反省するという十界を意識した祈りは、重要な視点のように思われます。
十界にはそれぞれ十界があり、十界互具といわれているように、十界のそれぞれが混然一体としたものですから、祈りにおいても、順不同であったにしても、問題はありません。
最終的に「仏界」の境涯を目指すというところがしっかりしていることが大切ですね。
祈りを行うにあたって、注意すべき点は何でしょうか。
十界論をヒントにしながら考えてみたいと思います。
十界の内、六道としては、「地獄界」、「餓鬼界」、「畜生界」、「修羅界」、「人界」、「天界」があります。
六道輪廻などともいわれるように、苦しみの境涯をあらわしています。
特に、三悪道といわれる「地獄界」、「餓鬼界」、「畜生界」や、「修羅界」をも含めた四悪趣の状態は好ましくない状態です。
この好ましくない状態である三悪道、四悪趣の状態である自分を恥じ入り、深く反省するところから祈りを始めるのがよいでしょう。
まずは、自分の悪い状態をきれいにすることですね。
そうしますと、心が平静になり「人界」の状態となり、きれいになったことによる清々しさは「天界」の状態といえるでしょう。
その上で、「法華経」を読誦し、「御書」を読み、自身の境涯を上げていくことです。
「法華経」、「御書」に触れることは、「声聞界」、「縁覚界」の状態といえなくもありません。
そして、人のために生きていくという利他の祈りを行うと、これはまさに「菩薩界」の状態ですね。
この「菩薩界」の祈りが含まれることによって、活動的、実践的、倫理的になり、静的な祈りから動的な祈りになります。
仏教における菩薩の特質が出ているようです。
その上で、自らの仏を開くことを祈ると、「仏界」の状態に至ります。
十界のそれぞれを意識しながら、祈りを行うと、漫然とした祈りでなくなり、ひとつひとつ区切りの付いたメリハリのある祈りになります。
実際は、勤行の中で祈りを行っていきますので、上記の順番にはなりません。
法華経方便品、如来寿量品を読誦しますので、「声聞界」、「縁覚界」からのスタートになるといえます。
別の観点からいうと、題目を三遍唱えて勤行が始まるわけですから、題目そのものは「仏界」を表わしていますので、いきなり「仏界」から祈りが始まっていることになります。
「仏界」、「声聞界」、「縁覚界」からスタートしておりますが、三悪道、四悪趣を反省するという十界を意識した祈りは、重要な視点のように思われます。
十界にはそれぞれ十界があり、十界互具といわれているように、十界のそれぞれが混然一体としたものですから、祈りにおいても、順不同であったにしても、問題はありません。
最終的に「仏界」の境涯を目指すというところがしっかりしていることが大切ですね。
2012年03月01日
モンスター・ペアレントの状態とは(十界論の観点から)
現今、モンスター・ペアレントやクレーマーに関する報道を目にすることが多くなりました。
さすがにモンスター・ペアレントが増殖しすぎたのか、対策本が出ています。
クレーマーに関する本を読んだことがあるのですが、モンスター・ペアレントに関する本は読んでいませんでしたので、読んでみました。
「「モンスター」という鎧をまとった人には、残念ながらコーチングのアプローチでは限界があるのです」(本間正人『モンスター・ペアレント』中経出版 28頁)
本間正人氏は、モンスター・ペアレントに対して、通常の対応では無理があると指摘しています。
相手が通常の状態ではなく、異常な状態になっているという現実をしっかりと認識することですね。
モンスター・ペアレントになっている人の特徴を十界論から分析してみましょう。
まず、怒りの状態にある人が多いですね。
怒ってばかりです。
地獄界の状態ですね。
次に、あれをしろ、これをしろと要求ばかりです。
欲しいものだらけなのですね。
貪欲な感じがあります。
餓鬼界の状態に陥っています。
言っていることはトンチンカンであったり、屁理屈であったりと愚かしい限りです。
頭がおかしくなっている状態ですね。
弱い立場の人には襲いかかり、強い人には何も言えません。
畜生界そのものです。
あと、どういうわけか、偉くないのに偉そうにしています。
みっともないのに偉そうにしています。
自分が強いと思いたいのでしょう。
ひん曲がった心根です。
修羅界の様相を呈しています。
まとめますと、十界論の中で「四悪趣」といわれている地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の状態をぐるぐる回っているのがモンスター・ペアレントですね。
道理で話が通じないわけです。
苦労しますね。
また、この「四悪趣」の状態になっているモンスター・ペアレントから発せられる「息」には強烈な毒素が含まれています。
よって、本間正人氏が「力を注ぐべきことは「モンスターの破壊力によって、自分の心を壊されないようにする」ことです」(同書 36頁)と教えてくれているように、自分を守ることが大切です。
くだらない人に潰されてはいけません。
こちらも心して対応しなければなりません。
モンスター・ペアレントは、独特の思考回路を持っています。
そのため、こちらは混乱させられることが多々あり、適切な対応になっていないことがあります。
本間正人氏はモンスター・ペアレントとどう接すればよいのかをケース・スタディを通して教えてくれています。
驚愕する事例ばかりであり、情けない大人が多いものだと呆れますが、呆れてばかりもいられませんので、他人事と思わず勉強させていただきました。
モンスター状態の「四悪趣」の人間に負けない強靭な自己を作り上げることですね。
さすがにモンスター・ペアレントが増殖しすぎたのか、対策本が出ています。
クレーマーに関する本を読んだことがあるのですが、モンスター・ペアレントに関する本は読んでいませんでしたので、読んでみました。
「「モンスター」という鎧をまとった人には、残念ながらコーチングのアプローチでは限界があるのです」(本間正人『モンスター・ペアレント』中経出版 28頁)
本間正人氏は、モンスター・ペアレントに対して、通常の対応では無理があると指摘しています。
相手が通常の状態ではなく、異常な状態になっているという現実をしっかりと認識することですね。
モンスター・ペアレントになっている人の特徴を十界論から分析してみましょう。
まず、怒りの状態にある人が多いですね。
怒ってばかりです。
地獄界の状態ですね。
次に、あれをしろ、これをしろと要求ばかりです。
欲しいものだらけなのですね。
貪欲な感じがあります。
餓鬼界の状態に陥っています。
言っていることはトンチンカンであったり、屁理屈であったりと愚かしい限りです。
頭がおかしくなっている状態ですね。
弱い立場の人には襲いかかり、強い人には何も言えません。
畜生界そのものです。
あと、どういうわけか、偉くないのに偉そうにしています。
みっともないのに偉そうにしています。
自分が強いと思いたいのでしょう。
ひん曲がった心根です。
修羅界の様相を呈しています。
まとめますと、十界論の中で「四悪趣」といわれている地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の状態をぐるぐる回っているのがモンスター・ペアレントですね。
道理で話が通じないわけです。
苦労しますね。
また、この「四悪趣」の状態になっているモンスター・ペアレントから発せられる「息」には強烈な毒素が含まれています。
よって、本間正人氏が「力を注ぐべきことは「モンスターの破壊力によって、自分の心を壊されないようにする」ことです」(同書 36頁)と教えてくれているように、自分を守ることが大切です。
くだらない人に潰されてはいけません。
こちらも心して対応しなければなりません。
モンスター・ペアレントは、独特の思考回路を持っています。
そのため、こちらは混乱させられることが多々あり、適切な対応になっていないことがあります。
本間正人氏はモンスター・ペアレントとどう接すればよいのかをケース・スタディを通して教えてくれています。
驚愕する事例ばかりであり、情けない大人が多いものだと呆れますが、呆れてばかりもいられませんので、他人事と思わず勉強させていただきました。
モンスター状態の「四悪趣」の人間に負けない強靭な自己を作り上げることですね。
2012年02月23日
「息」から発せられる毒気(十界論の観点から)
悪い感情、卑しい感情、嫌悪の感情を持っている人の近くにいると、気分が悪くなると共に体の調子も狂ってきます。
なぜ、気分が悪くなり、体の調子も狂ってくるのかと思っておりましたが、その原因は、悪い感情、卑しい感情、嫌悪の感情を持っている人が発する「息」だそうです。
安岡正篤氏が解説している箇所を確認してみましょう。
「人殺しをして昂奮しておる奴の息を冷却すると、毒々しい栗色になる。そいつを実験用のモルモットにちょっと飲ませると、あっという間に倒れて死ぬ。だから「あいつの毒気にあてられた」というのは本当のことなんだ。そういう者の息を吸わされたら、こっちが鼠だったら死んでしまうわけだね」(安岡正篤『政治を導く思想―「貞観政要」を読む』ディシーエス出版局 27頁)
「息」には色があるのですね。
楽しいときには桃色になるようで、「桃色吐息」とはうまく言ったものです。
悪意のある人の「息」は、毒々しい栗色になるというのですから、相当な毒素を含んでいる様子が窺えます。
つまり、冷却しない「息」そのものは無色透明ですから見た目には気が付きません。
しかし、成分としては「毒」そのものですから、気分を害し、体の不調をきたすのですね。
十界論の観点から、悪意のある人の感情、毒々しい「息」に相当する境涯を確認してみましょう。
瞋っている状態は毒々しい状態といえるでしょう。「瞋るは地獄」とは、毒々しさをよく表しています。
欲望まみれの状態も毒々しい状態といえるでしょう。
卑しい状態や心がひん曲がっている状態も毒々しい状態といえるでしょう。
まとめると、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界は、毒々しい「息」を発する生命状態といえます。
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界は、「四悪趣」ともいいますが、「悪趣」の生命状態には気を付けなければなりません。
自分だけでなく他人をも傷つけることになります。
「何も悪いことをしていない」と言って、自らを正当化しようとする人がいますが、そもそも、その人の発する毒々しい「息」が根本的な悪であることに気付いていないようです。
無色透明であれば気付かれないとでも思っているのでしょう。
しかし、周りの人間が感じる不愉快さが毒々しさを証明してしまいます。
「何も悪いことをしていない」は通用せず、自らの存在そのものが「悪趣」であれば、「息」が「毒」になるわけですから、生きていることそれ自体を問題としなければなりません。
何かをした、何かをしない、という「する」という次元にとどまらず、自らがどうあるのかという「ある」という次元がポイントとなります。
では、どのように「ある」のがよいのでしょうか。
十界論でいえば、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の次元に至るようにするのがよいでしょう。
高く尊い次元を自らの生命とするよう心掛けることが大切ですね。
自分自身が毒々しい状態にならないよう注意すると共に、毒々しい人の発する「息」にあてられないよう、悪意のある人とは接点を持たず、上手にかわすことが必要です。
安岡正篤氏が言うように、鼠だったら死んでしまうわけですから。
なぜ、気分が悪くなり、体の調子も狂ってくるのかと思っておりましたが、その原因は、悪い感情、卑しい感情、嫌悪の感情を持っている人が発する「息」だそうです。
安岡正篤氏が解説している箇所を確認してみましょう。
「人殺しをして昂奮しておる奴の息を冷却すると、毒々しい栗色になる。そいつを実験用のモルモットにちょっと飲ませると、あっという間に倒れて死ぬ。だから「あいつの毒気にあてられた」というのは本当のことなんだ。そういう者の息を吸わされたら、こっちが鼠だったら死んでしまうわけだね」(安岡正篤『政治を導く思想―「貞観政要」を読む』ディシーエス出版局 27頁)
「息」には色があるのですね。
楽しいときには桃色になるようで、「桃色吐息」とはうまく言ったものです。
悪意のある人の「息」は、毒々しい栗色になるというのですから、相当な毒素を含んでいる様子が窺えます。
つまり、冷却しない「息」そのものは無色透明ですから見た目には気が付きません。
しかし、成分としては「毒」そのものですから、気分を害し、体の不調をきたすのですね。
十界論の観点から、悪意のある人の感情、毒々しい「息」に相当する境涯を確認してみましょう。
瞋っている状態は毒々しい状態といえるでしょう。「瞋るは地獄」とは、毒々しさをよく表しています。
欲望まみれの状態も毒々しい状態といえるでしょう。
卑しい状態や心がひん曲がっている状態も毒々しい状態といえるでしょう。
まとめると、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界は、毒々しい「息」を発する生命状態といえます。
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界は、「四悪趣」ともいいますが、「悪趣」の生命状態には気を付けなければなりません。
自分だけでなく他人をも傷つけることになります。
「何も悪いことをしていない」と言って、自らを正当化しようとする人がいますが、そもそも、その人の発する毒々しい「息」が根本的な悪であることに気付いていないようです。
無色透明であれば気付かれないとでも思っているのでしょう。
しかし、周りの人間が感じる不愉快さが毒々しさを証明してしまいます。
「何も悪いことをしていない」は通用せず、自らの存在そのものが「悪趣」であれば、「息」が「毒」になるわけですから、生きていることそれ自体を問題としなければなりません。
何かをした、何かをしない、という「する」という次元にとどまらず、自らがどうあるのかという「ある」という次元がポイントとなります。
では、どのように「ある」のがよいのでしょうか。
十界論でいえば、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の次元に至るようにするのがよいでしょう。
高く尊い次元を自らの生命とするよう心掛けることが大切ですね。
自分自身が毒々しい状態にならないよう注意すると共に、毒々しい人の発する「息」にあてられないよう、悪意のある人とは接点を持たず、上手にかわすことが必要です。
安岡正篤氏が言うように、鼠だったら死んでしまうわけですから。
2012年01月22日
「腹六分」の人間関係(十界論の観点から)
「言うなれば他人さまの余計なことに首を突っ込まない。「腹六分」の人づき合いがいいということなのです。たとえ親、夫婦、兄弟、恋人同士でも自分以外の人間とつき合う時は「腹六分」にすべきなのです」(美輪明宏『世なおしトークあれこれ』PARCO出版 143頁)
美輪さんは、「腹八分」ならぬ「腹六分」の人間関係をすすめています。
ベタベタした人間関係は、いい人間関係にならないと言われています。
相手の悪いところは見ない、言わない、聞かないようにすべきとのことです。
「腹六分」といってもどのように捉えていけばいいのか。
いろいろ考えてみたところ、十界論を使うのがよいと思われます。
つまり、相手の仏界、菩薩界、縁覚界、声聞界、天界、人界の六つと付き合い、相手の地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の四つとは付き合わないということです。
相手の素晴らしい状態(仏界)、人のために尽くす状態(菩薩界)、芸術的感性に優れた状態(縁覚界)、学識のある状態(声聞界)、喜んでいる状態(天界)、冷静な平穏な状態(人界)を努めて観るようにし、その部分と接点を持つようにすることです。
反対に、相手の怒った状態(地獄界)、欲望まみれの状態(餓鬼界)、愚かな状態(畜生界)、むやみに喧嘩をする状態(修羅界)は、確認し、認識しつつも、それらに振り回されないという生き方が求められます。
「腹六分」といっても、どの六分を取ればよいのか、どの四分を除外すればよいのか、上記のとおり、相手の生命状態を基準に考えれば、はっきりします。
これは、自分自身にもあてはまります。
自分の生命状態を努めて仏界、菩薩界、縁覚界、声聞界、天界、人界の状態にしておき、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の生命状態が出てきた場合、注意をし、改善に努めるということですね。
どの人間にも十界があるということですので、相手のよい六分と付き合うことができますから、一応、理論上は、どの人間とも付き合うことができるといえます。
ただし、実際には、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界が身に付いてしまっている人々が多く、付き合う人を吟味する必要性は高いですね。
誰とでも付き合うことは困難です。
やはり、選択ということが求められます。
類は友を呼ぶということですので、邪な人々から身をかわしながら、自分自身は良い生命状態になるよう精進することが肝要です。
美輪さんは、「腹八分」ならぬ「腹六分」の人間関係をすすめています。
ベタベタした人間関係は、いい人間関係にならないと言われています。
相手の悪いところは見ない、言わない、聞かないようにすべきとのことです。
「腹六分」といってもどのように捉えていけばいいのか。
いろいろ考えてみたところ、十界論を使うのがよいと思われます。
つまり、相手の仏界、菩薩界、縁覚界、声聞界、天界、人界の六つと付き合い、相手の地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の四つとは付き合わないということです。
相手の素晴らしい状態(仏界)、人のために尽くす状態(菩薩界)、芸術的感性に優れた状態(縁覚界)、学識のある状態(声聞界)、喜んでいる状態(天界)、冷静な平穏な状態(人界)を努めて観るようにし、その部分と接点を持つようにすることです。
反対に、相手の怒った状態(地獄界)、欲望まみれの状態(餓鬼界)、愚かな状態(畜生界)、むやみに喧嘩をする状態(修羅界)は、確認し、認識しつつも、それらに振り回されないという生き方が求められます。
「腹六分」といっても、どの六分を取ればよいのか、どの四分を除外すればよいのか、上記のとおり、相手の生命状態を基準に考えれば、はっきりします。
これは、自分自身にもあてはまります。
自分の生命状態を努めて仏界、菩薩界、縁覚界、声聞界、天界、人界の状態にしておき、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の生命状態が出てきた場合、注意をし、改善に努めるということですね。
どの人間にも十界があるということですので、相手のよい六分と付き合うことができますから、一応、理論上は、どの人間とも付き合うことができるといえます。
ただし、実際には、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界が身に付いてしまっている人々が多く、付き合う人を吟味する必要性は高いですね。
誰とでも付き合うことは困難です。
やはり、選択ということが求められます。
類は友を呼ぶということですので、邪な人々から身をかわしながら、自分自身は良い生命状態になるよう精進することが肝要です。
2011年12月30日
十界互具(生命状態の変化)
十界(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)は、それぞれ別々に存在しているというのではなく、それぞれの界にまた十界があります。これが十界互具ですね。
固定的ではなく流動的なものと考えると分かりやすいでしょう。
日々刻々、生命状態は変化しますが、いかようにも変化するということです。
ずっと一緒の状態ではありえないということです。
日蓮は、「観心本尊抄」において、それぞれの界が十界を具えていることを「法華経」を通して明らかにしています。
@ 地獄界「提婆達多乃至天王如来」(提婆達多品)
A 餓鬼界「一を藍婆と名け乃至汝等但能く法華の名を護持する者は福量るべからず」(陀羅尼品)
B 畜生界「竜女乃至成等正覚」(提婆達多品)
C 修羅界「婆稚阿修羅王乃至一偈一句を聞いて・阿耨多羅三藐三菩提を得べし」(法師品)(序品)
D 人界「若し人仏の為の故に乃至皆已に仏道を成ず」(方便品)
E 天界「大梵天王乃至我等も亦是くの如く・必ず当に作仏することを得べし」(譬喩品)
F 声聞界「舎利弗乃至華光如来」(譬喩品)
G 縁覚界「其の縁覚を求むる者・比丘比丘尼乃至合掌し敬心を以て具足の道を聞かんと欲す」(方便品)
H 菩薩界「地涌千界乃至真浄大法」(神力品)
I 仏界「或説己身或説他身」(寿量品)
十界互具の勘所は、どの界の状態であっても「仏界」に繋がっていることを強調することにあります。
しかし、このことは、どの界の状態であっても「地獄界」に繋がっていることでもあります。
注意しなければなりません。
変化変化の連続の中で自身のあり様を如何にするか。
固定的に物事を考えずにフレキシブルに物事に対処していきたいですね。
固定的ではなく流動的なものと考えると分かりやすいでしょう。
日々刻々、生命状態は変化しますが、いかようにも変化するということです。
ずっと一緒の状態ではありえないということです。
日蓮は、「観心本尊抄」において、それぞれの界が十界を具えていることを「法華経」を通して明らかにしています。
@ 地獄界「提婆達多乃至天王如来」(提婆達多品)
A 餓鬼界「一を藍婆と名け乃至汝等但能く法華の名を護持する者は福量るべからず」(陀羅尼品)
B 畜生界「竜女乃至成等正覚」(提婆達多品)
C 修羅界「婆稚阿修羅王乃至一偈一句を聞いて・阿耨多羅三藐三菩提を得べし」(法師品)(序品)
D 人界「若し人仏の為の故に乃至皆已に仏道を成ず」(方便品)
E 天界「大梵天王乃至我等も亦是くの如く・必ず当に作仏することを得べし」(譬喩品)
F 声聞界「舎利弗乃至華光如来」(譬喩品)
G 縁覚界「其の縁覚を求むる者・比丘比丘尼乃至合掌し敬心を以て具足の道を聞かんと欲す」(方便品)
H 菩薩界「地涌千界乃至真浄大法」(神力品)
I 仏界「或説己身或説他身」(寿量品)
十界互具の勘所は、どの界の状態であっても「仏界」に繋がっていることを強調することにあります。
しかし、このことは、どの界の状態であっても「地獄界」に繋がっていることでもあります。
注意しなければなりません。
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2011年12月29日
十界論(生命の状態)
仏教において、生命の状態を10種類に分類したのが十界論です。
自分の生命状態がどのような状態かを把握する際に参考になる知見です。
自分自身を客観視することができます。
@ 地獄界 何事に対しても苦しむ最低の生命状態です。
怒りの状態に囚われているという特徴があります。
A 餓鬼界 欲望にまみれており、その欲望が満たされていない生命状態です。
人のものをむやみに欲しがるという特徴があります。
B 畜生界 獣と同レベルの本能のままの生命状態です。
何が正しいか間違っているかの判断ができず、強い者には媚び諂い、弱い者をいじめるという特徴があります。
C 修羅界 争いや競争を好み、勝とう勝とうと焦っている生命状態です。
勝ち負けにこだわりすぎ、表面を繕うことことに熱心で、心がひん曲がっているという特徴があります。
D 人界 通常の穏やかな生命状態です。
物事の判断が正しくできるという特徴があります。
E 天界 欲望が満たされ喜んでいる生命状態です。
ただし、その喜びもそう長くは続かず、ほどなくして消えてしまうという特徴があります。
F 声聞界 物事を聴き理解する学識のある生命状態です。
知識人、学者、評論家、文化人と言われるような人々をイメージすると理解しやすいでしょう。
G 縁覚界 感覚が優れ、縁によって独自に道を切り開いていける生命状態です。
画家、音楽家などの芸術家や、プロスポーツ選手などのアスリートなどの人々をイメージすると理解しやすいでしょう。
H 菩薩界 自らを磨きながら、人のため、社会のために貢献しようとする生命状態です。
家族のために家事等を行う主婦などの人々や社会において仕事をしている人々が該当するといえるでしょう。
I 仏界 最高、完全な悟りの生命状態です。
どのような状況であっても自由自在であり、強運をも兼ね備えた状態といえるでしょう。
仏教ですから目指すべき状態は仏界ですが、なかなか仏界に至るというのは難しいものです。
また、仏界だけに囚われるのではなく、十界すべての生命状態を活かしていくという姿勢の方が重要です。
自分の生命状態がどのような状態かを把握する際に参考になる知見です。
自分自身を客観視することができます。
@ 地獄界 何事に対しても苦しむ最低の生命状態です。
怒りの状態に囚われているという特徴があります。
A 餓鬼界 欲望にまみれており、その欲望が満たされていない生命状態です。
人のものをむやみに欲しがるという特徴があります。
B 畜生界 獣と同レベルの本能のままの生命状態です。
何が正しいか間違っているかの判断ができず、強い者には媚び諂い、弱い者をいじめるという特徴があります。
C 修羅界 争いや競争を好み、勝とう勝とうと焦っている生命状態です。
勝ち負けにこだわりすぎ、表面を繕うことことに熱心で、心がひん曲がっているという特徴があります。
D 人界 通常の穏やかな生命状態です。
物事の判断が正しくできるという特徴があります。
E 天界 欲望が満たされ喜んでいる生命状態です。
ただし、その喜びもそう長くは続かず、ほどなくして消えてしまうという特徴があります。
F 声聞界 物事を聴き理解する学識のある生命状態です。
知識人、学者、評論家、文化人と言われるような人々をイメージすると理解しやすいでしょう。
G 縁覚界 感覚が優れ、縁によって独自に道を切り開いていける生命状態です。
画家、音楽家などの芸術家や、プロスポーツ選手などのアスリートなどの人々をイメージすると理解しやすいでしょう。
H 菩薩界 自らを磨きながら、人のため、社会のために貢献しようとする生命状態です。
家族のために家事等を行う主婦などの人々や社会において仕事をしている人々が該当するといえるでしょう。
I 仏界 最高、完全な悟りの生命状態です。
どのような状況であっても自由自在であり、強運をも兼ね備えた状態といえるでしょう。
仏教ですから目指すべき状態は仏界ですが、なかなか仏界に至るというのは難しいものです。
また、仏界だけに囚われるのではなく、十界すべての生命状態を活かしていくという姿勢の方が重要です。