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2024年03月17日

毎朝、御書を1ページ、音読する

『日蓮大聖人御書全集』新版が発刊されてから、約2年4ヶ月となりました。発刊されてすぐに「観心本尊抄」を読み、その後、1ページ目からの通し読みをして、読了しますと、ある意味、燃焼し尽くしたといいますか、御書を読もうと思わなくなるのですね。

時折、御書を読むのですが、継続的な読書とならないときがあるものです。時々読むという感じになるわけですね。

せっかく御書の新版が出ているのですから、毎日、御書を読んでみたいと考えました。あまり無理をすると、結局、続かなくなりますので、毎日1ページを読むのはどうかと考えました。

いきなり全編を読むと意気込むのではなく、まずは、五大部を中心にして読んでみたいと思った次第です。それも、黙読ではなく、音読してみたいと感じました。黙読では、なんとなく読み過ごすことがあるのですね。音読しますと、声に出さなければなりませんので、一字一句、ゆるがせにできません。

昨年の末頃から、「観心本尊抄」を毎朝、1ページ音読し始め、続いて「法華取要抄」を読み、その後、「立正安国論」と進み、現在「開目抄」下の途中まで読んでいます。その後は、「撰時抄」、「報恩抄」を読む予定にしています。

御書を音読する際、御書の新版ではなく、分冊版を使っています。御書新版ですと大部ですし、持ったときに重いのですね。分冊版ですと机がなくとも手で持って読むことができますので、非常に便利です。

御書新版だけでなく、分冊版も購入していたのですが、どのように分冊版を活用すればよいか、いまいち、いい方法が見つかりませんでした。そこで毎朝の1ページ音読をはじめようとしたところ、手に取りやすい分冊版ですと、読んでみようかという気になるのですね。やはり、ちょっとしたことですが、やる気にならないと何事もはじめにくいということがあります。

ただ、一旦、習慣化しますと、その後は、やる気に依存することなく、毎朝のルーティンとして、御書1ページの音読を続けることができます。ある意味、勤行のようなものですね。勤行では、法華経の方便品の十如是までと如来寿量品の自我偈を音読しますが、法華経だけでなく、御書も音読するという合わせ技で信仰を深めるのが良いのではと思います。

新版の御書は、ルビも多く、段落分け、句読点もきれいに施され、引用の部分は括弧でくくられており、読みやすいですから、音読にぴったりといえます。御書という宝があるわけですから、あとはそれを自分のものとする。つまり、血肉化、骨髄化することが肝要ですね。

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posted by lawful at 17:56| 読書

2023年12月27日

御書を読むということは、日蓮を読むこと

一流の作家なら誰でもいい、好きな作家でよい。あんまり多作の人は厄介だから、手頃なのを一人選べばよい。その人の全集を、日記や書簡の類に至るまで、隅から隅まで読んでみるのだ。
小林秀雄『読書について』中央公論新社 12頁

小林秀雄は、読書について、一人の作家を隅から隅まで読むことを推奨しています。確かに多作の人では、全部読むのに時間がかかりすぎる懸念があります。手頃な分量というものがあるでしょうね。存命中の人を選んでしまうと次々と作品が生まれてしまうので、常に読み続けなければならず、それは大変ですね。あえて選ぶとすれば、古典の中から選ぶのが賢明でしょう。古典になったという段階で評価が定まったといえ、一流といえます。

この点、私の場合、日蓮をその一人として選んでいます。鎌倉時代の僧侶であり、評価は二分されているともいえますが、一流であることに異議をはさむ人はいないでしょう。残された書は、他の仏教者に比べ多いのですが、それでも、近代、現代の作家のように何十巻もの分量ではなく、それこそ手頃な分量です。古文、漢文で書かれているところが大変といえば大変ですが、我々は日本人であるので、全く分からないということはありません。

一人の著者を選ぶということに関し、加藤周一も同じようなことを言っています。
文学をわかるために、あるいはもしかすると、書物を通して理解できるかぎりで、人間が生きてゆくということを理解するためにも、一人の作家と長く付きあうのは、よい方法だろうと思われます。
加藤周一『頭の回転をよくする読書術』光文社 107頁

一人の著者をじっくり読むということは、人間を理解することに繋がり、人生とはどういうものかを理解することに繋がります。一人の著者と一時だけ付き合うというのではなく、長く付き合うことによって、人間、人生を深く理解することができます。

日蓮は、1253年(建長5年)4月28日に立教開宗し、1282年(弘安5年)10月13日に亡くなっていますので、今の暦で勘定すると29年5ヶ月16日の宗教活動です。後年の絶大な影響力から考えますと、それほど長く活動していないのですね。30年足らずの活動でありながら、現代の我々にも大きな影響を与え続けており、偉大な人物といえます。

この約30年にわたって執筆された日蓮の著作を読みながら、自らの人生、信仰を磨こうというわけです。日蓮の宗教実践は、激動であり、波瀾万丈でありました。伊豆、佐渡への流罪、所謂追放刑もあり、松葉ヶ谷の法難という、所謂放火にも遭い、小松原の法難では、刀で切りつけられ殺されそうになりました。竜の口の法難では、死刑になりかけています。

散々な目に遭いながらも、文筆活動は活発なのですね。五大部、十大部といった教理書も執筆しながら、各門下に対する手紙である消息文も多く書いています。もちろん、日蓮の多くの書は紛失してしまったと思われますが、それでも現在伝わっている日蓮の書は多く、日蓮を知るに十分な分量の著作が残っています。

日蓮を知りながら、自らをも知っていくという方向性が正しい読書のあり方でしょう。日蓮という鏡で常に自分を確認しながら、自分を認識し、自己を磨くことが本当の読書であり、研鑽であり、信仰といえましょう。

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2023年12月26日

読書の技術(書物から人間を見ること)

今の法華経の文字は皆、生身の仏なり。我らは肉眼なれば文字と見るなり。たとえば、餓鬼は恒河を火と見る。人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれども、果報にしたがって見るところ各別なり。この法華経の文字は、盲目の者はこれを見ず。肉眼は黒色と見る。二乗は虚空と見、菩薩は種々の色と見、仏種純熟せる人は仏と見奉る。されば、経文に云わく「もし能く持つことあらば、則ち仏身を持つ」等云々。
『日蓮大聖人御書全集』新版 1426頁 (法蓮抄)

法華経を読んで何を見るかはその人の境涯によります。仏界の人間は、法華経の文字を仏と見ます。法華経を説いた仏そのものを法華経に見出すのですね。

小林秀雄も同じようなことを言っています。
書物が書物には見えず、それを書いた人間に見えて来るのには、相当な時間と努力とを必要とする。人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返す事、読書の技術というものも、其処以外にはない。
小林秀雄『読書について』中央公論新社 13頁

読書するときは、単に本を読むという段階に留まらず、その本を書いた著者を見る段階にまで至らないといけないということですね。

単に文字を追っているだけでは、読書の技術として未熟というわけです。時間もかかり、努力も要しますが、文字から、文章から人間を引き出すことが読書の技術ということです。

読書というと、つい文字、文章だけを読んでいるという感覚になりますが、本来、読書とは、日蓮、小林秀雄が言うように、人間を見ることなのですね。人間を見出さない読書は、実は、読書たり得ないといえましょう。

では、人間を見出してどうなるのかということですが、これについて小林秀雄が答えてくれています。
他人を直かに知る事こそ、実は、ほんとうに自分を知る事に他ならぬからである。人間は自分を知るのに、他人という鏡を持っているだけだ。
同書 15頁

読書をして、その著者を見出し、その著者と対決することにより、自分を認識するのですね。著者が鏡であり、その鏡を通して自らを省みることが読書の醍醐味ということでしょう。

法華経を読む場合、仏を鏡として、自らを見ることになり、御書を読む場合、日蓮を鏡として、自分を見つめることになります。偉大なるものと触れ合う中で自己を磨くという感覚ですね。

ある意味、仏、日蓮という存在は、鏡としては途轍もない明鏡です。毎日、このような明鏡と対峙するならば、愚かな自己も仏界に近付くことになるでしょう。単に文字、文章を追うというのではなく、人間、著者を見るという姿勢で読書していく中で自らの存在をも的確に認識し、誤りのない人生行路を進むことが肝要です。

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2022年04月03日

「観心本尊抄」の音読(約1時間)

『日蓮大聖人御書全集 新版』が届いた後、まず、読んだのが「観心本尊抄」でありました。その後、通し読みを行いますと「観心本尊抄」が出てきますので、そこで読み、通し読み終了後の今回、「観心本尊抄」音読して読んでみました。「送状」を含め、1時間かかりましたね。
三遍読むに功徳まさる。
『日蓮大聖人御書全集 新版』358頁(一念三千法門)

このような感覚がありますね。「観心本尊抄」の力でありましょう。

今度は、じっくりと「観心本尊抄」を研鑽してきたいと考えています。

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2022年03月23日

『日蓮大聖人御書全集 新版』読了

『日蓮大聖人御書全集 新版』を読了しました。昨年の11月18日から読み始めましたので、約4ヶ月かかったことになります。総頁数が2232頁ですから、非常に分厚い本です。この御書を読了しても、1冊の本を読んだことにしかならないのは辛いところですね。

最初に「編年体」の御書で通し読みをし、2回目に通し読みしたときは「全集」の御書でありました。今回、「新版」の御書で3度目の通し読みとなります。
三遍読むに功徳まさる。
『日蓮大聖人御書全集 新版』358頁(一念三千法門)

となりましょうか。

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posted by lawful at 20:36| 読書

2021年09月12日

『君主論』を悪用する人間に対処するため、我々は『君主論』を読み込む必要がある

『君主論』の解説で佐藤優氏は、
日本の指導者によって『君主論』でマキアヴェリが説いたノウハウが悪用されないように監視することが重要と考えている。

と言っていますが、まさにその通りと感じます。

『君主論』を読みますと人々をコントロールする智慧がふんだんに織り込まれており、善用するならば問題はありませんが、悪用されると困ったことになるなと感じるのですね。

悪い奴らは、当然、『君主論』を悪用します。善用しようとは思いません。『君主論』そのものが良質の智慧で出来上がった書物ですから、悪用であろうと強い説得力を持ち、人々をコントロールすることができます。

悪い奴らの思い通りにさせてはなりません。そのためには、我々の方としては、悪い奴らよりも『君主論』を読み込む必要があります。何度も読むことが必要であり、より深く理解することに努めなければなりません。『君主論』で書かれている表面的な言葉を理解することに留まるのではなく、その内実に切り込んで、自らの血肉にする読み方が求められます。

そうしますと悪い奴らが『君主論』を悪用していることが分かり、その対処ができるようになります。悪い奴らより上を行く行動をなして、被害を食い止めることができます。

当然、悪い奴らも『君主論』を何度も読み、悪用であろうが自らの血肉にしてきますから、我々は、それを上回る読書回数、良質の読書をもって対応することが肝要です。

このことから、常に読書していかなければならないわけですね。悪い奴らが常にブラッシュアップしているのならば、我々はそれを超えるブラッシュアップをしなければ、いいようにされてしまいます。読書する必要があるかどうかという議論はナンセンスであり、読書しないと危ないよという現実をみれば、自ずと読書するでしょう。

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2018年09月16日

読書に幻想を抱かず、自分の中の本棚を充実させること

われわれが企てることのなかでも、とりわけ幻想を抱きやすいのは読書です。本を読むという行為はすごく簡単なように思えるので、そのうちいつの日にか広範な文学書をことごとく読み尽してやろうという計画を立ててしまいがちです。せっせと本を集めても、その大部分はただ時間が足りないばかりに読まずに終わってしまうのに、こればかりはどうにもやめられない。私の友人に事務弁護士をやってたいそう繁昌していた男がいました。この男は読書について途方もない幻想を抱き、何千冊もの本を、しかもすべて豪華版で集めました。でも、それらの本のページを切ることもなく死んでしまいました。
P.G.ハマトン『知的生活』渡部昇一・下谷和幸訳 講談社 151頁

学生時代の頃や、社会人になっても20代、30代前半ぐらいまで、まさに上記の通りでしたね。いつか読める、それも読み尽くすほどの勢いで読めると夢想するのですね。

確かに、せっせと本を買っていたことを思い出します。本棚の増強までしておりました。

学生時代は、まだネット時代ではなかったので、街の本屋にて購入し、社会人になると多少、経済的な余裕も出てくると共に、ネット社会となり、インターネットで手軽に本が購入できるので、よく利用していたものでした。

しかし、ハマトンが指摘するように、ほとんどの本は、読まなかったですね。断捨離ブームに乗っかり、結局、ほとんどの本はブックオフに行くか、資源ごみとして処分しました。

やはりあの本を読みたいと思う場合は、どうするかということですが、心配することはありません。図書館で借りればよいのです。ほとんどの本は、蔵書があります。

図書館で借り入れも、結局、読まなかった本もあり、単に見栄で買った、知的虚栄心で買った本であったのでしょう。本棚を豪華にするためだけの本ということでしょうね。これでは、読まないはずです。

知的虚栄心は、知的という言葉が付いているにしても、ただの虚栄心です。意味はないですね。読書は、読みたいという強い衝動がなければ読めるものではなく、そこまで力まなくとも、本当に読みたいという気持ちがなければ読めるものではありません。

いずれにしても、いつかは猛烈に読書ができるという勘違いは、やはり勘違いであり、
本はページにわけられ、それぞれに数字が記入されているのですから、ちょっとばかり算数の能力を働かせれば当然、自分にできる限界はあらかじめわかるはずです。
同書 152頁

とハマトンが言うように、ページ数を計算すれば、おおよその読了見込みは分かります。

また、本は何度も読むのがよいと思いますね。読んだ冊数を気にするのではなく、読んだ本をどこまで身体化したかにこだわるべきでしょう。

そうしますと、何度も繰り返し読むということになりますが、気に入った本については、蔵書として所有しつつ、一生付き合うのがよいでしょう。

本を自分のものにするということですね。ここで言う自分のものにするというのは、所謂、本という物体を所有ということではありません。本の内容を血肉化、身体化するということであり、本との一体化といってもよいでしょう。

頭の中だけでなく、身体、身体だけでなく自らの存在そのものに本の内容を染み込ませるという感覚ですね。

要は、本という物体がなくなっても、自分の中に本が存在するという次元に至って、読書したといえると思うのです。

自分の中に本があれば、手ぶらであっても、何度も反芻できます。どこにいても、読書ができます。

本という物体がなければ読書ができないというのは、初見の本ではその通りですが、毎度毎度、初見の本ばかりでは、本棚は豪華になろうとも、自分の中の本棚はスカスカのままです。

あくまでも、物体としての本棚を豪華にするのではなく、自分の中の本棚を豪華にするような読書を心掛けるべきでしょう。

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posted by lawful at 00:41| 読書

2016年08月12日

Kindle Paperwhite を購入しました。

電子書籍は、Kindle for PC で読んでいたのですが、Kindle Unlimited が出てきたことを契機として、無料期間があるということで、利用したところ、結局、数十冊をダウンロードするに至り、これは、なかなか面白いサービスと思い、せっかくなので、以前から気になっていた、Kindle Paperwhite を購入することにしました。

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Wi-Fi + 3G、のものにしましたが、Wi-Fi の環境にない私としては、3G は必須となりますね。また、色ですが、ホワイトは、おしゃれでよい感じですね。

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しかし、画面の部分との調和がどうかと思い、私は、ブラックにしました。

カバーがないと、いちいち電源を切るのも面倒という記事を見るにつけ、それではということで、「Inateck Kindle Paperwhite用保護カバー PUレザーケース マグネット付き レッド(Kindle Paperwhite専用)」を購入しました。

レッドとなっていますが、PCで見るのと同様、実物を見たところ、ワインレッドに近いですね。ワインレッド系が欲しかったので、ちょうど良かったですね。

ブラックにワインレッドですから、落ち着いた感じになり、また、手触りも悪くありません。馴染みますから、落ちづらいといえましょうか。

通常、3G で使用しますので、雑誌等のダウンロードはできませんね。Wi-Fi でダウンロードしてくれとなります。

ただ、私の場合、Kindle Paperwhite を使うのは、もっぱら、普通の書籍を読むためであり、あまり困りません。

どうしても、雑誌等をダウンロードしたいときは、Kindle for PC を使えばいいのですね。カラーですし。

いずれにしても、画面は読みやすく、読書しやすいですね。時代は変わったものだと感じます。

読書の形が大きく変わりますね。

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posted by lawful at 19:41| 読書

2015年10月17日

古典は、その古典自身をそのまま読むのが本筋です

偉大な本は、おしなべて退屈な部分を含んでいるし、古来、偉大な生涯は、おしなべて退屈な期間を含んでいた。現代のアメリカの出版業者が、初めて持ち込まれた原稿として旧約聖書を目のあたりにした場合を想像してみるがいい。たとえば、家系について彼がどんなコメントをするかを想像するのはむずかしくない。「ねえあなた」と彼は言うだろう。「この章はぴりっとしていませんな。ほとんど説明もなしに、ただ固有名詞をずらずら並べたって読者の興味を引きつけることはできませんよ。確かに、ストーリーの冒頭は、スタイルもなかなか見事です。それで、私も初めはすこぶる好ましい印象を与えられたのでした。でも総じて、何もかも洗いざらい語りたいという気持ちが強すぎます。さわりの部分を選び出し、余計な個所を省いてください。そして、適当な長さに縮まったら、もう一度原稿をお持ちください。」こんなふうに現代の出版業者は言うだろう。
『ラッセル幸福論』安藤貞雄訳 岩波文庫 68−69頁

所謂、古典といわれるものは、すべてといっていいほど、上記の指摘を蒙るでしょうね。

旧約聖書に限らず、法華経においても固有名詞の羅列があり、その部分は「ぴりっとしていませんな」と言われるでしょうね。

内容に関しては、「なかなか見事です」との評価を得るにしても、語り過ぎとの指摘を受けます。

分量が多いとの指摘ですね。

余計な個所を取り除き、適当な長さにしてくださいというわけです。

『ラッセル幸福論』は1930年の著作ということですから、今から85年も前のことです。

その当時の出版業界ですら、上記のとおりなのですから、今でしたら、どうなるのでしょうか。

このような感じかもしれませんね。

「固有名詞の羅列は意味不明ですね。ここは要りません。ストーリー、スタイルもなかなか見事ですが、少し込み入っていますね。もう少し簡略にしてもらうとよいでしょう。今の読者は、長文を好みませんので、短くしてください。この原稿の要約を作成いただきましたら、それをお持ちください。こちらで、再度、短く編集します」

もしかしたら、そもそも採用されず、出版すらされないかもしれません。

古典は、だいたい冗長です。

御書にしても、冗長な部分がありますし、法華経にしてもそうです。

正直なところ、現代の読者向きの本ではありませんね。

では、御書、法華経の要約を作り、短く編集したものでよいかというと、そうでもないのですね。

要約や短くしたものであると、御書、法華経の魅力が半減するのですね。半減どころか、ほとんど魅力が減じてしまうのですね。

所謂、資料になってしまうのですね。日蓮や法華経製作者の息吹が感じられなくなるのですね。

やはり、古典は、そのまま読むのがよいようです。

ただ、そのまま読むといっても、ただでさえ量が多い古典をあれもこれも読むわけにはいきません。

選択をする必要が生じるのですね。

私の場合、御書と法華経とを選択していますが、人それぞれの選択があり得ます。

クリスチャンの人にとっては、聖書でしょうし、ムスリムの人にとっては、コーランとなるでしょう。

その他、いろいろな選択があるでしょう。

要約でいいならば、たくさん読めるでしょうが、上記のとおり、要約では肝心なところが抜け落ちます。

いたずらに量を求めるのではなく、質を求めるべきでしょう。つまり、自分が読むべき古典を絞り込むことです。

絞り込んだ古典に関しては、何度も読み返すべきであり、この点においては、量を求めるべきですね。
posted by lawful at 06:00| 読書

2015年08月02日

全部読まないこと、全部読めないこと

「岩波文庫ぐらいは中学生のうちに全部読んでおかなければ一人前になれないぞ」。何人もの先輩からそう聞かされた。
今から惟えば、御当人たちも全部読んでいたとは思えない。当時の既成概念では「文庫」は必読古典名作選と信じられていたから、型通りの読書の奨めだったのかもしれない。
『廣松渉哲学小品集』小林昌人編 岩波書店 44頁

ここでいう中学生は、旧制中学のことですから、現在でいうと高等学校の学生ということですね。

いずれにしても、高校生に対して、岩波文庫の古典を全部読めとは、多大な要求ですね。

心意気はよしとしますが、全部読めるわけはありません。

また、全部読む必要もないでしょう。

若い時は、全部読もうと意気込むのですが、実のところ、大して読めないもので、その現実に唖然とするものです。

全部読むのは理想でしょうが、不可能な事柄です。

そうはいっても、全部読めとの強迫観念は強いようです。

「文庫ぐらいは全部読んでおかないと」というのは大層な強迫観念であった。
この強迫観念から、この齢になった今でも深層では逃れきれていない。
同書 44−45頁

50歳を超えた人間の深層に、全部読めとの強迫観念が残っているというのですから、強烈ですね。

私も、30代の頃までは、全部読めとの強迫観念があったと思います。その頃は、断捨離以前でありましたから、本棚にたくさんの本がありました。

全部読むぞと思っていたのでしょう。ただ、ほとんどの本は読まずに処分となりました。

断捨離を始めてから、全部読めないという当たり前の現実に気付いたのですね。

それからは、繰り返し読むべき本のみを残しました。

全部読めという考え方から、繰り返し読む本を厳選するという態度に変わったのですね。

加藤周一が言うように、

「本を読まない法」は「本を読む法」よりは、はるかに大切かもしれません。
加藤周一『読書術』岩波現代文庫 98頁

ということですね。

読むことばかり考えるのではなく、読まないことを考えることが重要です。

読む本の選択と読まない本の選択とは表裏の関係にある。
同書 同頁

実は、本を読むということは、無数にある本の中である一冊を選んでいるということであり、その他の本を読まないということになります。

ある本を読むことは、即ち、ある本を読まないことですね。

全部読むではなく、全部読まないと考えますと、では、何を読むという問いが浮かび上がってきます。

繰返し読むべき本は数少ないわけで、その選択にその人の個性が滲み出ます。

それ以外の本に関しては、図書館にて借りておけばよく、乱読でもよいと思います。もちろん乱読といっても、読める量は限られており、

はやく読もうと、おそく読もうと、どうせ小さな図書館の千分の一を読むことさえ容易ではない。
同書 同頁

わけで、やはり、全部読むという考え方は、そもそも破綻しているのですね。

当たり前ですが、全部読まない、全部読めないというのが答えでしょう。

その上で、自分自身にとって、然るべき本を読んでいくことですね。
posted by lawful at 19:23| 読書

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