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2023年11月25日

「雨ニモマケズ」から物事の認識方法を学ぶ

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ
夏ノ暑サニモ
マケヌ
丈夫ナカラダヲ
モチ
欲ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニ
ワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト
少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲ
カンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシ
ワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ
小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ
看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテ
ソノ稲ノ束ヲ負イ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテ
コワガラナクテモ
イイトイイ
北ニケンカヤ
ソショウガアレバ
ツマラナイカラ
ヤメロトイイ
ヒデリノトキハ
ナミダヲナガシ
サムサノナツハ
オロオロアルキ
ミンナニ
デクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
ソウイウモノニ
ワタシハナリタイ
宮沢賢治『雨ニモマケズ』三起商行株式会社

「アラユルコトヲ ジブンヲ カンジョウニ入レズニ ヨクミキキシ ワカリ ソシテワスレズ」の部分は、物事をどのように観察すべきか、どのように学ぶべきかの指針といえましょう。

自分を勘定に入れて、いろいろ考えますと、邪念、雑念が入り、正しく物事を見ることができません。自分に都合のいいように考えるだけであり、間違った認識を得ることになります。当然、間違った認識から正しい行動が生じるはずはなく、不幸へ一直線となります。

まずは、自分を勘定に入れずに、よく見て、よく聞くことですね。まあ、これがなかなかできないことですが、宮沢賢治はさりげなく、そうすべきであると書いています。

よく見て、よく聞いた後は、分かる必要があります。ただ見て、ただ聞いてという場合も少なくありません。分からなければなりません。理解しなければなりません。自分の中で消化する必要があるのですね。

そして、それだけでなく、理解したことを忘れないようにしなければなりません。忘れてしまうならば、いざというとき役に立ちません。いつでも理解したことを活用できるよう、忘れず、覚えておくことです。

「雨ニモマケズ」のこの部分は、あまり注目されないかもしれませんが、よくよく読むと重要なことが書いています。人間のあるべき姿の1つ形があらわれています。理性的人間、智慧ある人間の特徴ともいえましょうか。

このミキハウスの宮沢賢治の絵本には、宮沢賢治が手帳に書き付けている「雨ニモマケズ」の全文が写真で掲載されています。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を、所謂、真筆にて読めるのですね。当然、歴史的仮名遣いとなっていますが、日本語ネイティブである我々からすると、さほど難しくはありません。

また、絵本ですから、絵があるのですが、この絵を描いているのが柚木沙弥郎さんです。明るい色を使い、味わい深い絵を描かれております。「雨ニモマケズ」を読みながら、柚木沙弥郎さんの絵を見ると、心穏やかになりますね。不思議な絵本です。

雨ニモマケズ (宮沢賢治の絵本シリーズ)

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posted by lawful at 22:54| 文学

2023年05月28日

西條八十「ぼくの帽子」を『コドモノクニ 名作選 秋〈Vol.4〉』で読む

西條八十の「ぼくの帽子」を『名作童謡 西條八十100選』で読みますと、現代仮名遣いとなっています。

また、『西條八十全集』第六巻で読みますと歴史的仮名遣いですが、漢字は旧字体ではありません。

発表当時の表記で読んでみたいと思っておりましたが、「ぼくの帽子」が発表された「コドモノクニ」の発行は、1922年(大正11年)2月1日であり、その「コドモノクニ」が手に入る見込みはなく、どうしたものかと思案していたところ、ネット検索をしますと、「コドモノクニ」の名作部分を復刻した書籍があったのですね。

早速、「ぼくの帽子」が収録されている『コドモノクニ 名作選 秋〈Vol.4〉』を購入し、読んでみましたが、発表当時のカラー紙面となっており、味わい深く読んだ次第です。

       ぼくの帽子 (詩)
             西 條 八 十 作
             伊  藤   孝 畫

――母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?
  ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
  谿底へ落したあの麥稈帽子ですよ。

――母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
  僕はあの時、ずゐぶんくやしかつた、
  だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。――

――母さん、あのとき、向から若い藥賣が來ましたつけね。
  紺の脚絆に手甲をした。―――
  そして拾はうとして、ずゐぶん骨折つてくれましたつけね。
  けれど、たうとう駄目だつた、
  なにしろ深い谿で、それに草が
  背たけぐらゐ伸びてゐたんですもの。

――母さん、ほんとにあの帽子、どうなつたでせう?
  あのとき傍に咲いてゐた、車百合の花は
  もうとうに、枯れちやつたでせうね。そして
  秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
  あの帽子の下で、每晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。

――母さん、そして、きつと今頃は、――今夜あたりは、
  あの谿間に、靜かに雪が降りつもつてゐるでせう、
  昔、つやつやひかつた、あの以太利麥の帽子と、
  その裏に僕が書いた
  Y・Sといふ頭文字を
  埋めるやうに、靜かに、寂しく。――

『コドモノクニ 名作選 秋〈Vol.4〉』「おはなしBOOK」80〜81頁

ただ、「咲」、「灰」、「雪」の旧字体は表記できませんでした。この点、ご了承ください。

「ぼくの帽子」の詩の上部には、伊藤孝の画があり、いかにも大正11年の風情が感じられます。上質な文化の香りが漂ってきます。大正時代の日本の文化レベルが高かったことが窺われます。

『西條八十全集』第六巻では、2カ所出てくる「ずいぶん」ですが、『コドモノクニ 名作選 秋〈Vol.4〉』では、「ずゐぶん」となっており、この部分について、『西條八十全集』第六巻は、歴史的仮名遣いになっていなかったようです。これも、『コドモノクニ 名作選 秋〈Vol.4〉』を確認したから分かったことであり、オリジナルを確認することは重要ですね。

『コドモノクニ 名作選 秋〈Vol.4〉』に特別寄稿されている歌人の俵万智氏は、以下のように述べていますが、全くその通りと首肯するばかりです。
「大人が本気だ!」。
それが「コドモノクニ」の復刻版を手にとったときの、第一印象だった。
(中略)
本気で子どもを相手にしている。それに加え、
それぞれのジャンルで一流の作家や画家が、ここを表現の場として真剣勝負している。
『コドモノクニ 名作選 秋〈Vol.4〉』「おはなしBOOK」6頁

大人が本気になり、真剣にならないと世の中は変らないということですね。子どもがどうのこうのと講釈を垂れる前に、大人が自らを律し、為すべきことに本気で、真剣に取り組めば、子どもはその大人の姿を見て、おちおちしていられないと感じることでしょう。

明治末期、大正時代、昭和一桁の時代まで、日本は順調に成長してきたといってよいでしょう。このままアメリカと戦争をせずにいたならば、相当、高い文化を誇っていたと思うのですね。

太平洋戦争にて、まずは、多くの人々が亡くなりました。まさに文化の担い手が少なくなってしまいました。また、空襲により、多くの文化財が燃えてしまいました。敗戦により経済的な打撃が大きく、昭和一桁の頃の日本に戻ったといえるのは昭和30年代でしょう。昭和10年頃から昭和30年頃までは失われた20年ともいえるでしょう。一旦、途切れてしまった文化の流れは、そう簡単に戻るわけではなく、「コドモノクニ」の復刻版が出たのは、約10年前であり、平成になってやっと大正、昭和一桁の文化を思い出すに至ったといえるでしょう。

いずれにしても、「ぼくの帽子」の発表当時の表記を確認し、挿絵までも確認し、豊かな文化に触れ得た気分です。このような秀逸な作品を時折確認しながら生活していくことが大切でしょうね。

コドモノクニ名作選 秋〈Vol.4〉

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posted by lawful at 15:54| 文学

2019年11月23日

『草枕』に出てくる「梵論字」、「虚無僧」を岩波国語辞典で引く

明治の小説では、現代ではなじみのない言葉が出てきます。
「すると、ある日、一人の梵論字が来て・・・・・・」
「梵論字と云うと虚無僧の事かい」
「はあい。あの尺八を吹く梵論字の事で御座んす。(後略)」
夏目漱石『草枕』新潮文庫 132頁

「梵論字」、「虚無僧」など、せいぜい時代劇で見かける程度であり、その時代劇ですら、最近ではあまり見かけなくなりました。

岩波国語辞典第八版で「梵論字」と「虚無僧」とが見出し語として存在するのか、確認してみました。
ぼろんじ【梵論字】
虚無僧。ぼろ。
こむそう【虚無僧】
普化宗の有髪の僧。深編笠をかぶり、尺八を吹きながら諸国をまわって托鉢する。薦僧。ぼろんじ。

ちゃんと見出し語で出ています。

「梵論字」を引くと「虚無僧」に繋がり、「虚無僧」では、「ぼろんじ」と示しており、「梵論字」に戻ります。双方が同じものを表わしていることが分かります。また、「尺八を吹きながら」とありますので、時代劇を思い出して「ああ、あれか」と分かるわけです。
「現代語といっても、明治の後半ぐらいからを念頭に置く」

との編集方針である岩波国語辞典ですから、明治後半である明治39年発表の『草枕』は、岩波国語辞典の現代語の枠内というわけですね。

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posted by lawful at 17:39| 文学

2017年12月31日

住みにくき人の世を芸術により乗り越える

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。
『草枕』夏目漱石 新潮文庫 5頁

自分の置かれた環境を嘆き、さっさと退散しようと考えることがありますが、よくよく考えてみますと、どこに行こうが嘆きはなくなるわけでもなく、どこに行っても、あまり変わらないというのが現実でしょう。それどころが、もっと酷くなる可能性すらあります。

所詮、人の世を作ったのは、唯の人なのですから、唯の人以上の世を夢想したところで、夢想は夢想であり、現実とは違います。

現実は、住みにくいのが人の世ということであり、逃れることはできないことを悟ることでしょうね。

まずは、悟る。ここが肝要でしょう。

その上で、漱石が言うように、詩、画、音楽、彫刻等々の芸術によって、住みよい世にしていけばよいということですね。
あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
同書 5頁〜6頁

芸術により、心を豊かにし、住みにくい人の世の荒波を泳いでいくことが大切ですね。

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世間、他人の評価を気にしても仕方がありません

恐ろしく我の強い男だったが、今度の事で、己の如何にとるに足らぬものだったかを沁々と考えさせられた。理想の抱負のと威張って見たところで、所詮己は牛にふみつぶされる道傍の虫けらの如きものに過ぎなかったのだ。
『李陵・山月記』中島敦 新潮文庫 123頁〜124頁

宮刑にあった司馬遷に関する記述です。

司馬遷程の人間が取るに足らないもの、道傍の虫けらの如きものであるならば、私など、もっと、取るに足らない、虫けらということになりましょう。

人間は、つい、思い上がってしまいます。また、自己評価は常に甘くなります。甘々という場合がほとんどでしょう。

取るに足る人物と思っているのですね。しかし、世間、他人は厳しく、評価は惨憺たるものです。

取るに足らない、虫けらという扱いですね。

世の実相は、このようなものです。

思い上がらず、冷静に自己を見つめることですね。

その上で、自分が為すべきことを粛々と為すというのが好ましい生き方でしょう。

世間、他人の自分に対する評価は、取るに足らない、虫けらということは、はっきりしているわけですから、評価を求めても仕方がありません。

司馬遷も修史という仕事に従事しており、ただただ、自分の為すことを為せばよいということですね。

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2017年07月18日

有りもせぬ失恋

世には有りもせぬ失恋を製造して、自から強いて煩悶して、愉快を貪ぼるものがある。
夏目漱石『草枕』新潮文庫 36頁

男とは、このようなものなのかもしれませんね。

恋を妄想し、その恋が失われたと煩悶するとは、おめでたい限りですが、漱石が言うように、このような者が芸術家であるならば、男はすべて芸術家かもしれませんね。

その割には、愉快を貪る側面があるわけで、妄想している割には、冷静なのですね。

妄想と冷静さの間で揺れ動くということでしょう。

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posted by lawful at 07:55| 文学

2016年07月24日

雨ニモマケズ

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ
ナリタイ
文 宮沢賢治 英訳 アーサー・ビナード 絵 山村浩二
『雨ニモマケズ Rain Won’t』今人舎

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あまりにも有名な宮沢賢治の「雨ニモマケズ」ですが、「決シテ瞋ラズ」の所など、法華経の精神が息づいているように思います。

「雨ニモマケズ」を大切にする気持ちのある人は、「決シテ瞋ラズ」でなければなりませんね。

つい、「ケンクヮヤソショウ」(喧嘩や訴訟)で争い、いがみ合い、それこそ、宮沢賢治が言うように「ツマラナイ」ことで時間を費やしすぎてしまいます。

瞋って、争うことは、「ツマラナイカラヤメロ」と宮沢賢治は指摘します。

「雨ニモマケズ」には、一見弱々しく見えながらも、実は、地に足がついた力強さが感じられ、それと同時に、心に平安が訪れます。不思議な力がありますね。

「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」など、手厳しい指摘もなされています。

我々は、自分のことだけ考え、その割には自分のためになっていないという愚を犯しがちですが、まずは、自分を勘定に入れずに、物事を見ることでしょうね。その上で、理解し、そして忘れないということです。

理解はしない、理解してもすぐ忘れるという状態では、あまりにも情けない。

宮沢賢治の指摘の通り、虚心坦懐にあらゆることを把握することですね。法華経的精神で生きていくということに他ならないと言えましょう。

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posted by lawful at 15:27| 文学

2016年06月22日

怒りを向ける値打ちがないこと

こんな手合は恨みを向けるだけの値打さえない。
中島敦『李陵 山月記』小学館文庫 39頁

「恨み」の部分を「怒り」に変えますと、応用がきくように思います。

「怒り」を惹起させる人間がうようよしているわけですが、いちいち相手にしていますと疲れるだけでなく、本来するべきことに集中できないという悪影響があります。

人に「怒り」を起こさせる人間の境涯は如何ほどか。

十界論で言えば、畜生以下の餓鬼、地獄ということになりましょう。

餓鬼ですから満ち足りず、地獄ですから常に瞋りの状態の人間を相手にしたところで何らの価値も生みません。

それこそ、「こんな手合いは怒りを向けるだけの値打さえない」と念じるのがよいでしょうね。

相手にしない、捨てておくというのが人生の秘訣といえましょう。

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posted by lawful at 17:19| 文学

2015年10月16日

日常生活を楽しむこと

「わしが小坊主のとき、先代がよう云われた。人間は日本橋の真中に臓腑をさらけ出して、耻ずかしくない様にしなければ修業を積んだとは云われんてな。あなたもそれまで修業をしたらよかろ。旅などはせんでも済む様になる」
夏目漱石『草枕』新潮文庫 148頁

禅僧の言葉として発せられたものです。

なかなか味わいのある台詞ですね。

恥かしくないように生きろということです。

そうすれば、旅などしなくてもよくなるということです。

旅など、自分の住んでいるところと違うところに行くことは、見識を広めるためにおいても、いいことだと思われるところですが、別に無理をしてまで、あちこち行く必要もないでしょうね。

ある程度は、旅もすればよく、あちこち行くことも結構だと思いますが、いつまでも旅だなんだといってフラフラしているのも考えものですね。

今、自分がいるところで充実するべきでしょう。

あそこへ行きました、ここへ行きました、の報告に終始している人は、禅僧からすると修業を積んでいない人と映るでしょうね。

自分が動かずとも楽しめるほどの人間になるべきですね。存在そのものを楽しむという視点です。

旅は旅で結構ですが、まずは、自分の住んでいるところで楽しむという基本、根本があった上での旅ならば意味があるでしょう。

自分の住んでいるところが気に入らないならば、引っ越しをすればよいだけです。

日常生活の充実がメインであって、非日常は非日常ですから時々でよいのですね。

人生の時間のほとんどを占める日常生活の幸福なくして人生の幸福もありません。

禅僧の台詞は、このようなことを示していると思いますね。
posted by lawful at 06:00| 文学

2015年10月15日

天は見ている

このまま人に知られず北方に窮死すると思われた蘇武が偶然にも漢に帰れることになった。(中略)天は矢張り見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然として懼れた。
中島敦『李陵・山月記』新潮文庫 150−151頁

人生、ままならないことが続くものですが、腐ることなく自らが為すべきことを為していれば、それなりの結果が出てくるものです。

天は見ているということですね。

しかし、人は、為すべきことを為し続けることなく、途中で、投げ出してしまいます。

このような人を天は見捨てます。

たったこれだけのことですが、実際に自身が困難に陥った場合、為すべきことを淡々と為すことができるかというと、できないようです。

腐り、憤り、文句を言い、肩に力が入り、無駄な動きに終始し、為すべきことは為さない。

天を怒らせることばかりをするのですね。そして、天は見ていないと悪態をつく。

実は、天は、よく見ているのですね。よく見ているけれども、手を差し伸べない。

なぜか。天は、しっかり見ることによって、手を差し伸べてはならない人間であると判定しているのですね。

天は、やはり見ている。ただ、人によって手を差し伸べる時もあれば、手を差し伸べない時もある、ということですね。

我々としては、天から手が差し伸べられるほどの人間になるべく、研鑽に努めたいものです。
posted by lawful at 06:00| 文学

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