アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2012年03月18日

違いが分かる人間になること(「当たり前」とは何か)

「私たちがおこなっている行為や考え方のかなりの部分は自分で選んだものではなく、日本の文化の中で成長する過程で身につけてきたものである。日常生活において、多くのことは一々理由を考えず、当たり前のこととしておこなっているが、それはある文化の中で共有されている「当たり前」であり、別な宗教から生み出された別の文化にはまったく異なる「当たり前」が存在する」(吉村均『神と仏の倫理思想』北樹出版 17頁)

大人になるにしたがって、自分が生きている国で「当たり前」とされていることが、他の国では「当たり前」ではないということに気付き始めます。

海外旅行に行くことも多いでしょうし、身近に他の国の文化に触れると「違い」を感じることができます。

また、書籍、テレビ等で外国の事情を見聞きする中で、いろいろな文化、習慣があるものだと認識するに至ります。

一般的な文化に関しては理解できても、宗教が絡みはじめると理解できなくなる場合があるようです。

自分が信仰している宗教が絶対であると凝り固まっている人にとっては、他の宗教の言説のすべてが間違いであり、腹立たしさを引き起こす源となっているようです。

ある新宗教の人にイギリス人の学者の文章を読ましたところ、段々と怒りが込み上げてきているようでした。

自分と違う国、宗教の人の文章を受け付けないという感じでしたね。

その後、その文章について話をしようとしましたが、その人は怒りにまかせてイギリス人学者の著者の悪口を言うばかりでまともな話になりませんでした。

その人に言わせるとイギリス人の学者は「分かっていない」ということだそうです。

国や宗教が違えば、「当たり前」とすることが違うのであり、その違いを理解することが重要という意図でその文章を素材にして話をしようとしたのですが、その人にとっては、「分かっていない」の一言でおしまいです。

その人は不勉強な人なので、おせっかいながらも勉強の素材を提供したのですが、不勉強な人は偏狭な考え方に留まるばかりで、勉強が嫌なようであり、違いを理解したくないようです。

「分かっていない」のはその人なのですが、その人がそのことに気付くことはないでしょう。

違いが分からないということは、恥ずかしいことですね。

傍目から見て、こちらが恥ずかしくなるぐらいのみっともなさでした。

世界には、いろいろな「当たり前」があるということ、それぞれの国、宗教には違いがあるということをしっかりと分かり、認識した上で、自分自身の考え方、信仰に磨きをかけていきたいですね。

神と仏の倫理思想―日本仏教を読み直す

新品価格
¥2,520から
(2012/3/18 17:33時点)


posted by lawful at 17:30| 新宗教

2012年03月16日

自分の立場から自由になることについて

「自分の立場からの視点が持つ限界を超えることの必要性は、道徳哲学、政治哲学と法学において重要である。自分の立場から自由になるのは、常に簡単に行なえるわけではない。しかし、それは、倫理的政治的法学的思考がやらなければならない挑戦である」(アマルティア・セン『正義のアイデア』池本幸生訳 明石書店 236頁)

自分の立場から物事を考えて、相手方、反対側の人を安易に非難することがありますが、相手方、反対側の人の立場に立って物事を考えた場合、自分自身の考えが決して正しいと言い切れないものであることに気付きます。

相手方、反対側の人の意見、考え方にも十分な論拠があり、一刀両断できるわけではありません。

ただ単に立場が違うだけということが多いものです。

めぐりあわせによって、自分がどの立場になるかなど流動的であり、現段階での立場に固執することは価値的ではありません。

さまざまな立場から物事を見る癖を付けておく必要があるでしょう。

道徳的な事柄においても、人それぞれの道徳観があり、自分の道徳観を押し付けることはみっともないことといえるでしょう。

自分の立場だけでなく相手の立場をも包含して止揚(アウフヘーベン)する態度が本来的な道徳的態度といえます。

また、政治的なことに関しても、説得はあるにしろ、強制はなじまないと思われます。

民主主義の場合、最終的には多数決ですが、説得作業をした上での多数決決定という形が妥当でしょう。

違いがあるのが当たり前であり、その上で物事を決定するという大変な決断が政治であると認識しておく必要があるでしょう。

法的なことにおいても、自分が権利を主張する論拠を持っているのと同じように相手も権利を主張する論拠を持っており、それぞれに一理ありという事案がほとんどです。

それ故、当事者間でそれぞれの論拠を照らし合わせて妥当な結論を導き、それぞれ譲るところは譲り和解して解決するということが多いですね。

しかし、和解に至らない場合、最終的には、裁判所にて解決するほかありませんが、裁判所においては、双方の論拠を精査するという手続きが整っており、勝ち負けがあるにしても、一方的にならないよう制度的な工夫がなされています。

ただ、運用する人間によって、いい加減になってしまう場合もありますが、それはそれで別途改善するほかないでしょう。

まずは、相手の立場から物事を見て、自分の立場を改めて見つめ直すという作業を行えば、より一層、適切な考えを得ることができます。

相手の立場から物事を見るというのは、相手のためというよりは、むしろ、自分のためといえます。

自分の立場を強固にして自分の思い通りにすることが自由なのではなく、自分の立場から自由になるというのが本当の自由といえるでしょう。

凝り固まった状態は自由から程遠く、柔軟性がある状態が自由というにふさわしいですね。

正義のアイデア

新品価格
¥3,990から
(2012/3/16 21:31時点)


posted by lawful at 21:30| 生き方

2012年03月01日

モンスター・ペアレントの状態とは(十界論の観点から)

現今、モンスター・ペアレントやクレーマーに関する報道を目にすることが多くなりました。

さすがにモンスター・ペアレントが増殖しすぎたのか、対策本が出ています。

クレーマーに関する本を読んだことがあるのですが、モンスター・ペアレントに関する本は読んでいませんでしたので、読んでみました。

「「モンスター」という鎧をまとった人には、残念ながらコーチングのアプローチでは限界があるのです」(本間正人『モンスター・ペアレント』中経出版 28頁)

本間正人氏は、モンスター・ペアレントに対して、通常の対応では無理があると指摘しています。

相手が通常の状態ではなく、異常な状態になっているという現実をしっかりと認識することですね。

モンスター・ペアレントになっている人の特徴を十界論から分析してみましょう。

まず、怒りの状態にある人が多いですね。

怒ってばかりです。

地獄界の状態ですね。

次に、あれをしろ、これをしろと要求ばかりです。

欲しいものだらけなのですね。

貪欲な感じがあります。

餓鬼界の状態に陥っています。

言っていることはトンチンカンであったり、屁理屈であったりと愚かしい限りです。

頭がおかしくなっている状態ですね。

弱い立場の人には襲いかかり、強い人には何も言えません。

畜生界そのものです。

あと、どういうわけか、偉くないのに偉そうにしています。

みっともないのに偉そうにしています。

自分が強いと思いたいのでしょう。

ひん曲がった心根です。

修羅界の様相を呈しています。

まとめますと、十界論の中で「四悪趣」といわれている地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の状態をぐるぐる回っているのがモンスター・ペアレントですね。

道理で話が通じないわけです。

苦労しますね。

また、この「四悪趣」の状態になっているモンスター・ペアレントから発せられる「息」には強烈な毒素が含まれています。

よって、本間正人氏が「力を注ぐべきことは「モンスターの破壊力によって、自分の心を壊されないようにする」ことです」(同書 36頁)と教えてくれているように、自分を守ることが大切です。

くだらない人に潰されてはいけません。

こちらも心して対応しなければなりません。

モンスター・ペアレントは、独特の思考回路を持っています。

そのため、こちらは混乱させられることが多々あり、適切な対応になっていないことがあります。

本間正人氏はモンスター・ペアレントとどう接すればよいのかをケース・スタディを通して教えてくれています。

驚愕する事例ばかりであり、情けない大人が多いものだと呆れますが、呆れてばかりもいられませんので、他人事と思わず勉強させていただきました。

モンスター状態の「四悪趣」の人間に負けない強靭な自己を作り上げることですね。

モンスターペアレント―ムチャをねじ込む親たち

新品価格
¥1,365から
(2012/3/1 21:37時点)


posted by lawful at 21:36| 十界論

2012年02月28日

十如是(生命の一貫性・統合性・共通性)

法華経方便品には「略法華」と呼ばれ尊重されている箇所があります。

十如是が含まれているところですね。

確認してみましょう。

「仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯、仏と仏と、乃し能く諸法の実相を究尽したまえばなり。所謂、諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』上 岩波書店 78頁)

如是が「相」「性」「体」「力」「作」「因」「縁」「果」「報」「本末究竟等」と10個あるので十如是です。

それぞれの意味を確認し、人間の生命を観察する際、役立ててみましょう。

@ 「相」…表面にあらわれた姿。

分かりやすく言えば、見た目ですね。

端的に顔、表情にあらわれます。

後ろ姿も相といえますね。

その人の生命は相に如実にあらわれます。

まずは、相を確認することですね。

A 「性」…内面にある性質。

分かりやすく言えば、人の性格と考えればよいですね。

目に見えない性分といってもよいでしょう。

所謂、心というものですね。

人間生命の心の部分を垣間見るには年季が必要とされます。

B 「体」…相と性とを兼ね備えた本体・本質。

その人をその人たらしめている根本的なものといえます。

この「体」は、やや難しいですね。

年をとると見た目も変わり、性格も穏やかになったり、頑固になったりと変化しますが、その人そのものは、いくら年をとってもその人であり変化しません。

全く別人になるということはありません。

この変化しない本質が体ですね。

相、性だけにとらわれず、この体というところにも気を配っておきたいですね。

C 「力」…内に秘めた力。

潜在的能力。

英語にしただけですが、パワーと言うと感じがつかめるでしょうか。

内に秘めた潜在的なものとはいえ、外面ににじみ出るものでもあります。

D 「作」…内に秘められた潜在的な力が外にあらわれた作用。

力が具体化する際の動き、動作、活動といえましょう。

E 「因」…生命の中にある自分が変わっていく際の直接的原因。

この原因は、生命の中にあるというのがポイントですね。

本質的な原因は、目に見えないという特徴があります。

F 「縁」…内面的、外面的にわたって自分が変わっていく際の間接的原因、補助的原因。

所謂、「ご縁」と言えばよく分かると思います。

G 「果」…直接的原因と間接的原因との絡み合いによって生じた生命の中での直接的な結果。

ここでの結果は、因と同様、生命の中にあり、目に見えないという特徴があります。

H 「報」…生命の中での結果が外面に形としてあらわれたもの。

俗にいう結果がこれにあたります。

「報いを受ける」という言い方をするとイメージしやすいかもしれません。

I 「本末究竟等」…相から報までの九如是が究極的に平等であること。

相から報までの九如是がバラバラに存在しいるのではなく、一貫しており統合性があるということです。

相から報の全てに繋がりがあるということですね。

十如是の知見によると生命には一貫性・統合性・共通性がありますから、「相」を正しくつかむことができれば、その「相」の状態に応じた「性」から「報」が推察され、適切に生命状態を把握することができます。

この点から、見た目が重要であることが分かります。

自らを省みるときにも活用したいですね。

法華経 上―梵漢和対照・現代語訳

新品価格
¥5,565から
(2012/2/28 22:14時点)


posted by lawful at 22:15| 法華経並開結

2012年02月27日

『佐伯祐三』新潮日本美術文庫

筆力の充実した絵画を見ると、こちらの生命力も充実します。

激しさ、狂おしさがあれば、より一層、命を揺さぶられます。

佐伯祐三(1898〜1928)の絵は、そのような絵です。

スピード感のあるタッチでありながら、よくよく見ると繊細であり、無駄なタッチがありません。

絵の実力の申し分ないことが窺われます。

佐伯祐三は、主にパリの風景を描いていますが、その中の人物はほとんど線としかいいようのない細さでありながら人物にしか見えず、人形のようでありながらそうでもなく生き生きした感さえ与えます。

不思議な感じですね。

パリの風景も単なる風景ではなく、パリに行ったことがない人間にもパリの風情を感じさせる力があります。

躍動感があるといえましょう。

色合いに関しては、重厚であり、圧倒的な存在感を醸し出しています。

明るめの色を使っている絵は鮮やかであり、華やかさが感じられます。

ただ、佐伯祐三の絵では暗めの色の絵が多く、陰鬱な感じを与えるようかと思いきや、そうでもなく、暗めの色でありながら、鮮やかさ、華やかさがどことなく感じられます。

鋭さがあるためかもしれません。

シャープで激しい筆遣いによる効果でしょうか。

特に、暗めでありながらも緑の色の鮮やかさには目を見張るものがあります。

なぜ、ここまで鮮やかな存在感のある緑が出るのだろうと思います。

緑が多く含まれていない絵であっても、ほんのちょっとの一部分に緑が使われていることがあります。

ちょっとなのですが、吸い込まれるような緑なのですね。

美術館において、佐伯祐三の絵を見ていますと、なかなか絵の前から立ち去ることができません。

磁力があるようです。

何度も何度も見返し、見続けるといった感じです。

1998年(平成10年)には、生誕100年記念の佐伯祐三展があり、全国から多くの作品が集められており圧巻でしたね。

ただ、頻繁に美術館に行くわけにもいきませんので、展覧会での図録や画集(『佐伯祐三』新潮日本美術文庫)で絵を見ますが、印刷物であっても佐伯の絵には人を引き付ける力があります。

佐伯祐三の絵の多くは、大阪市が所蔵していますが、全国の美術館にも点在しています。

いつも佐伯祐三の絵を展示しているというわけでもないでしょうが、各地を訪れる際、機会があれば見てみたいですね。

佐伯祐三の絵を見るというテーマで旅行するのもおもしろいかもしれません。

佐伯祐三 (新潮日本美術文庫)

新品価格
¥1,155から
(2012/2/27 22:58時点)


posted by lawful at 22:57| 芸能・芸術

サマセット・モーム『サミング・アップ』

大学受験予備校が発行する英文解釈の参考書に内容の濃い英文があり、感じ入ったことがあります。

参考書には、出題大学の名前は書いていますが、出典が書いていないので、誰のどの本なのか分からないままでした。

英文は、以下の通りです。

I have always wondered at the passion many people have to meet the celebrated. The prestige you acquire by being able to tell your friends that you know famous men proves only that you are yourself of small account.

さすがに今はネット社会ですから、偶然にもその英文の出典を見つけることができました。

サマセット・モーム(1874〜1965)の『サミング・アップ』(1938年)ということが分かりました。

岩波文庫で翻訳がありましたので、確認してみましょう。

「多数の人々が有名人にぜひ会いたいと切望しているのを、私は常々不思議に思っている。自分の友人たちに有名人を知っていると言えることで得られる名声など、とりもなおさず自分自身は無名だということの証明に他ならないではないか」(サマセット・モーム『サミング・アップ』行方昭夫訳 岩波文庫 12頁)

せっかくですから、自分でも和訳してみたいと思います。

「私は、いつも、多くの人々が有名人に会いたいと熱中しているのを不思議に思っている。自分は有名人と知り合いであると友人たちに吹聴できることによって面目をほどこしても、自分自身が取るに足らないつまらない人間であることを証明することにしかならない」

内容としては、全くその通りと首肯するばかりです。

有名人、著名人、実力者等々の人と知り合いになるといいことがあるのではないかと思いがちですが、実のところ、どうでもいいようです。

特に政治家と親しくなりたいと思う人もいるようですが、政治家は人を利用こそすれ自分が利用されることがないようにしているものです。

考えてみれば、利用されている政治家など使い物にならないでしょう。

有名人は、もう有名ですから、有名人自身としては大した人間になっているともいえるでしょう。

しかし、有名人と知り合いになって、そのことを吹聴しても大した人間になれるわけではありません。

モームの指摘によると、取るに足らないつまらない人間であることがばれるだけです。

わざわざ有名人と知り合いになって評価が下がるのでは割に合わないですね。

有名人と知り合いになることに熱心にならないで、自分自身が大した人間になるよう努力、精進した方がよいでしょう。

ひとかどの人間になる過程において、その都度、無理なく、然るべき人と知り合いになっていけばよいと思います。

自分の境涯、境地に見合った人としかお付き合いはできないわけですから、どうしても有名人と知り合いになりたい場合は、自分の境涯、境地を上げていくしかありません。

ただ、自分の境涯、境地を上げていく中で、有名人と知り合いになることに価値はないと気付くことでしょう。

気付いていないならば、まだまだといえます。

サミング・アップ (岩波文庫)

新品価格
¥945から
(2012/2/27 01:12時点)


posted by lawful at 01:11| 英語

2012年02月26日

親の愛情による絶対的な肯定観

親の恩というものを感じるのは、親がいなくなってからという場合が多いかもしれませんが、親の存命中に親の恩を感じておくことは人間として重要であると思います。

しかし、日常生活の中において、親の恩を認識することは困難です。

ただ、エッセイ等の文章に接した時、気付かされることがあります。

「父との思い出はさまざまなものが複雑にもつれ合って、ひとことで言い表わすことなど出来はしないのだが、私を溺愛し、どんな人間でもいい、ただ大きくなって欲しいと念じつづけてくれた人がこの世にあったということを、筆舌に尽くしがたい感謝の念で思い起こすのである」(『宮本輝全集』第14巻 新潮社 172頁)

通常の親は、子供を溺愛するものです。

また、子供を愛している場合、元気で生きていてくれさえすればよいと念じ続けるものです。

このような親の愛情に対して、子供としては、言葉で感謝を表すことは不可能であり、ただただ感謝の念で親を思い起こすことしかできません。

身勝手な親になると、自分が満足するために子供にいろいろと押し付けます。

子供の成長、出世等々は、すべて自分の欲望を満たす材料にしか過ぎず、子供が自分の思い通りの生き方をしない場合、怒りにまかせて子供に当たり散らすということになります。

一定数、みっともない親が存在しますので、このような親にあたってしまった子供は、端的に言って不幸です。

一方、宮本輝氏の父は、子供が元気で生きていってくれればよいと念じ続ける親であり、宮本輝氏は、その父が今この世にいなくても、「この世にあったということ」に大きな意味を付与しています。

自分を溺愛してくれた父がこの世に存在していたということは、自分自身に対する絶対的な肯定観を感じることに繋がります。

生きていく上で必要なのは、自分で自分を肯定できる感覚であり、それは親から譲り受けるものといってもよいでしょう。

親からの愛情は、生きていくためにどうしても必要なものであり、親の愛情を受けた人間は、どんなに苦しくても生き抜いていく活力が出てきます。

親子関係の勘所はこの一点にあるといってよいでしょう。

財産、地位、名誉等々は付随的なものです。

親は子供に対し溺愛というほどの愛情をもって接し、子供は親に対し筆舌に尽くしがたい感謝の念で接していくことが肝要です。

世の人間関係で密接な関係は、親子関係ぐらいのものといえます。

夫婦関係、友人関係も確かに大切ですが、所詮、他人と他人です。

夫婦など書面一つで他人と他人に戻りますし、友人はどこまで行っても他人と他人です。

ましてや、職場や学校等々の人間関係など、赤の他人と赤の他人にしか過ぎません。

親を大事にし、子供を大事にしてから、その次の人間関係がはじまるという感覚を持っておきたいですね。

一番大切なところを蔑にしては、よりよき人生は歩めません。

二十歳の火影・命の器・異国の窓から (宮本輝全集)

新品価格
¥4,620から
(2012/2/26 22:46時点)


posted by lawful at 22:44| 生き方

本来の信仰とは(組織宗教団体との対比において)

人が信仰をするきっかけとしては、代々続く檀家などであったからというような親からの引き継ぎの場合もあるでしょうし、自らが何がしらの縁で特定の宗教を奉じるに至った場合もあるでしょう。

親からの流れ、若しくは、自分から、という二つのパターンが考えられますが、どちらにしても、最初から独力で信仰を全うする人はほとんどいないでしょう。

最初は、組織宗教団体の助けを借りながら、信仰をしていくというパターンであると思われます。

また、組織宗教団体としても、檀家、信者、会員等々、呼び名はいろいろありますが、組織宗教団体の構成員を一人でも多く獲得したいと考えていることから、初信の人に対して親切であったりします。

信仰をする人にとっても、何も分からないところから信仰をスタートするわけですから、組織宗教団体を利用することにより、信仰をする上で必要な知識、基本的な作法が身に付きます。

その意味では、組織宗教団体は有用でしょう。

しかし、信仰する上での一定の知識が身に付いたならば、本来の信仰を磨くことに集中した方が良いでしょう。

間違っても、組織宗教団体の枠内での考え方に染まらないことです。

このことに関し、美輪さんが明快に指摘してくれていますので、確認してみましょう。

「信仰と宗教は別物よ。宗教は企業よ。信仰というのは、自分の心の鍛錬。自分自身を信じ仰げるように、日常の中で自己反省していって鍛錬し、向上させる行為なのよ」(美輪明宏『生きるって簡単 苦悩の娑婆を生き抜く法華経の力―美輪明宏の悩み相談室』佼成出版社 208頁)

宗教を端的に「企業」と言い切っているところは、見事な慧眼ですね。

まさにその通りです。

企業ですから、利用者としては、必要な時には利用するけれども、必要なくなったら利用しない、というだけのことですね。

ところが、組織宗教団体は、構成員がいなくなると財政的に苦しくなるため、教義を悪用し、構成員を脅しにかかります。

この時点で、本来の信仰から全くかけ離れてしまいます。

このような組織宗教団体は偽物ですから注意しなければなりません。

実のところ、ある一定の知識さえあれば、あとは自分で学んで深めていきながら信仰ができるものです。

美輪さんの言うように、本来の信仰は、自分自身を信じ仰げるようにするために自己を鍛錬し向上させることです。

決して、他者を信じ仰ぐことではありません。

この点は、特に注意しなければなりません。

組織宗教団体の有用性は最初だけといってよいでしょう。

そうであるからこそ、組織宗教団体としても、相当のサービスを提供し続けない限り見捨てられます。

企業と同様、一生懸命に顧客サービスに努めなければなりません。

そうでない組織宗教団体は、これまた企業と同様、いずれ潰れていくでしょう。
posted by lawful at 00:35| 新宗教

2012年02月25日

「話せば分かる」はウソ!?

昭和48年出版の本に興味深い記述がありました。

1950年代の警備公安警察がどのように警備事件被疑者と対峙していたかが分かります。

「警察庁警備部『続警備犯罪取締上の諸問題』〔昭和30年〕所収の「警備事件被疑者の逮捕と取調要領」を、警備犯罪の捜査に関する内部資料の一例として掲げておくことにする。
(中略)
勿論被疑者を説得し、納得させた上、穏かに連行に応ぜしめることは、最上の方法であり、原則とすべきではあるが、とくに党員の如く、本来異れる世界観の上に立つ者に対しては、その説得にも一定の限界のあることを知らなければならない」(広中俊雄『警備公安警察の研究』岩波書店 627頁〜628頁)

党員とありますから左翼政党のことと思われますが、左翼政党に限らず、異なる世界観の上に立っていて対話が成り立たない人々を「党員」の部分に置き換えると、いろいろと参考になるように思われます。

「話せば分かる」とも言われますが、「話しても分かり合えない」という方が多いのではないでしょうか。

「話せば分かる」とは、「話し合って分かり合いたい」という願望を表現しているだけといえます。

願望を持つのは結構ですが、その願望が実現しないと言って、いきり立っている人がいますが、大人気ないですね。

一応、話し合ってみたり、説得をしたりしても、その説得にも一定の限界のあることをよくよく分かっておかなければなりません。

いつまでも、ものの分からぬ相手に道徳、倫理を説いても仕方がありません。

警備公安警察であれば権力がありますから、適切な刑事手続きにのせていけばいいわけですが、市井の人(庶民)は、直接、権力を行使することができません。

よって、犯罪等の刑事的な事柄では警察という公的機関に担当してもらい、損害賠償等の民事的な事柄では裁判所という公的機関が門戸を開いていますから、面倒でも、自分で裁判手続きにのせていくことですね。

いつまでも「話し合いでどうにかしよう」と思い悩まないことですね。

刑事事件、民事事件にするほどでもないことであれば、そもそも、そのような人は相手にしてはいけない人ですから、相手にせず、本来自分がしなければならないことに力を注ぐべきでしょう。

ものの分からぬ人にものを分かってもらうのではなく、ものの分からない人を相手にしても意味がない、価値がないことを自分自身が分かることですね。

相手ではなく自分が分かるというのが大切なことです。

警備公安警察の研究 (1973年)

中古価格
¥2,750から
(2012/2/25 20:24時点)


posted by lawful at 20:23| 雑感

2012年02月23日

「息」から発せられる毒気(十界論の観点から)

悪い感情、卑しい感情、嫌悪の感情を持っている人の近くにいると、気分が悪くなると共に体の調子も狂ってきます。

なぜ、気分が悪くなり、体の調子も狂ってくるのかと思っておりましたが、その原因は、悪い感情、卑しい感情、嫌悪の感情を持っている人が発する「息」だそうです。

安岡正篤氏が解説している箇所を確認してみましょう。

「人殺しをして昂奮しておる奴の息を冷却すると、毒々しい栗色になる。そいつを実験用のモルモットにちょっと飲ませると、あっという間に倒れて死ぬ。だから「あいつの毒気にあてられた」というのは本当のことなんだ。そういう者の息を吸わされたら、こっちが鼠だったら死んでしまうわけだね」(安岡正篤『政治を導く思想―「貞観政要」を読む』ディシーエス出版局 27頁)

「息」には色があるのですね。

楽しいときには桃色になるようで、「桃色吐息」とはうまく言ったものです。

悪意のある人の「息」は、毒々しい栗色になるというのですから、相当な毒素を含んでいる様子が窺えます。

つまり、冷却しない「息」そのものは無色透明ですから見た目には気が付きません。

しかし、成分としては「毒」そのものですから、気分を害し、体の不調をきたすのですね。

十界論の観点から、悪意のある人の感情、毒々しい「息」に相当する境涯を確認してみましょう。

瞋っている状態は毒々しい状態といえるでしょう。「瞋るは地獄」とは、毒々しさをよく表しています。

欲望まみれの状態も毒々しい状態といえるでしょう。

卑しい状態や心がひん曲がっている状態も毒々しい状態といえるでしょう。

まとめると、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界は、毒々しい「息」を発する生命状態といえます。

地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界は、「四悪趣」ともいいますが、「悪趣」の生命状態には気を付けなければなりません。

自分だけでなく他人をも傷つけることになります。

「何も悪いことをしていない」と言って、自らを正当化しようとする人がいますが、そもそも、その人の発する毒々しい「息」が根本的な悪であることに気付いていないようです。

無色透明であれば気付かれないとでも思っているのでしょう。

しかし、周りの人間が感じる不愉快さが毒々しさを証明してしまいます。

「何も悪いことをしていない」は通用せず、自らの存在そのものが「悪趣」であれば、「息」が「毒」になるわけですから、生きていることそれ自体を問題としなければなりません。

何かをした、何かをしない、という「する」という次元にとどまらず、自らがどうあるのかという「ある」という次元がポイントとなります。

では、どのように「ある」のがよいのでしょうか。

十界論でいえば、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の次元に至るようにするのがよいでしょう。

高く尊い次元を自らの生命とするよう心掛けることが大切ですね。

自分自身が毒々しい状態にならないよう注意すると共に、毒々しい人の発する「息」にあてられないよう、悪意のある人とは接点を持たず、上手にかわすことが必要です。

安岡正篤氏が言うように、鼠だったら死んでしまうわけですから。

政治を導く思想―『貞観政要』を読む

新品価格
¥2,100から
(2012/2/23 21:17時点)


posted by lawful at 21:07| 十界論

観心本尊抄―訳注

新品価格
¥1,980から
(2023/1/1 22:16時点)

日蓮 「闘う仏教者」の実像 (中公新書)

新品価格
¥906から
(2024/1/6 19:41時点)

岩波 仏教辞典 第三版

新品価格
¥9,900から
(2024/1/6 19:42時点)

図説 ここが知りたかった!日蓮と法華経

新品価格
¥1,925から
(2024/2/10 15:31時点)

カテゴリアーカイブ
<< 2024年03月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

観心本尊抄―訳注

新品価格
¥1,980から
(2023/1/1 22:22時点)

日蓮 「闘う仏教者」の実像 (中公新書)

新品価格
¥906から
(2024/1/6 19:41時点)

岩波 仏教辞典 第三版

新品価格
¥9,900から
(2024/1/6 19:42時点)

図説 ここが知りたかった!日蓮と法華経

新品価格
¥1,925から
(2024/2/10 15:31時点)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村
PVアクセスランキング にほんブログ村
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。