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2012年09月05日

御義口伝の研鑽(本尊とは何か)

日蓮の御義口伝には、本尊について、以下のように述べられています。

「本尊者法華経行者一身当体也」(『日蓮聖人遺文』第3巻 2672頁)

本尊は、どこか遠くにあり、自分自身と関係ないものと思いがちですが、日蓮の言葉からすると、そのような考え方は大きな誤りということになります。

本尊とは法華経の行者の一身の当体であるということですから、法華経の行者といえるほどの人は、その身そのままが本尊の当体ということになります。

人と本尊とは一体となっているということですね。

法華経の行者ほどの人間であるかどうかがポイントとなります。

ただ単に自分自身が本尊というわけにはいきません。

然るべき精進があって、その上で、法華経の行者にならなければなりません。

自分自身を磨いていく中で、法華経の行者になり、自らが根本的に尊い本尊の当体になることが大事ですね。

自分が本尊ということになれば、特別にパワースポットに行く必要もなければ(もちろん行ってもいいわけですが)、特別な場所で修行しなければならないということもありません(もちろん、してもいいわけですが)。

なんといっても、自分が本尊なのですから、どこに移動しようと、自分のいる場所が尊い場所、浄土になります。

このような仏法でなければ、信仰する意味はないでしょう。

どこそこに行かなければ、功徳がないなどという宗教や、お金ばかり要求する宗教は、そもそも偽物です。

法華経の行者の第一人者とは誰なのかと考えてみると、やはり、日蓮をあげることができます。

この点から、日蓮はその身に本尊を体現した人物です。

その日蓮の言葉を研鑽しながら、自らの信仰を透徹させ、自らも本尊を体現するという姿勢でありたいものです。

間違っても、おすがり信仰になってはいけません。

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posted by lawful at 20:19| 御書

2012年09月04日

重須殿女房御返事(十字御書)の研鑽

日蓮の「重須殿女房御返事」(別名:十字御書)を拝してみたいと思います。

「抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、(中略)我等が五尺の身の内に候とみへて候」(『日蓮聖人遺文』第2巻 1856頁)

よく一般的にも地獄という言葉を使いますが、地獄は自分自身の中にあるということですね。

それと同時に仏も自分自身の中にあると言います。

地獄も仏もどこか遠くにあるのではなく、自分と別の所にあるのではなく、あくまでも自分自身の中にあるというところがポイントですね。

地獄など関係ないなどと思いたくても、そうはいかないようです。

ただ、仏が自分自身の中にあるという側面に着目すれば、元気が出てくるというものです。

仏という生命との縁がないと感じる人もいるでしょうが、それは、気付いていないというだけのことです。

まずは、気付くということが大切です。

「仏と申事も我等心の内にをはします」(同書同頁)との言葉をかみしめたいと思います。

「わざわいは口より出でゝ身をやぶる。さいわいは心よりいでゝ我をかざる」(同書同頁)

口はわざわいのもと、と言いますが、まさにその通りですね。

世の中のトラブルのほとんどが口から発生しているといってもいかもしれません。

悪口等々、口から変なものを発するがために、自分の身を滅ぼすことが多いものです。

注意しすぎても注意しすぎることはありません。

しかし、つい、口から変なものが出てしまう。どうにかしたいものです。

いきなり口から変なものが出てくるのではなく、その人の生命の状態によって、変なものが出てきます。

まずは、仏の生命を自分自身の中に築いておきたいですね。

それ故、心が麗しい人には幸いが舞い込み、自分自身が輝いてくるのですね。

日蓮の言葉は、何気ない言葉のように思われますが、非常に重要なことをさらっと述べています。

ちょっとした手紙でこのようなことが書けるとは、見事なものです。

より深く、研鑽していきたいものです。

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2012年09月03日

日蓮に学ぶ

日々の生活の中で、嫌なこと、腹立たしいこと、気が悪くなること等々、煩わしいことが多いものです。

いつも、怒った状態では身が持ちません。

しかし、怒ってしまう。

さて、どのように対処すればよいのでしょうか。

日蓮の「兄弟鈔」からヒントを得たいと思います。

「設ひいかなるわづらはしき事ありとも夢になして、只法華経の事のみさはぐらせ給べし」(『日蓮聖人遺文』第1巻 933頁)

確かに、鬱陶しいことは多いのですが、鬱陶しくても、面倒なこと、不機嫌になることがあっても、いちいち、思い悩むのではなく、夢にしてしまい、気にしないことだと言っています。

また、鬱陶しいことは気にしなくても、人生にとって重要なこと、就中、法華経のことを気にかけ、思索していきなさいと言います。

法華経とは、経典ではあるわけですが、ただただ、経典を崇めるというのではなく、法華経の内容である自身の中に仏があるということに思いを馳せ、その仏の生命を磨くことが「法華経の事のみさはぐらせ給べし」なのだと思われます。

経典そのものが大事であるにしても、もっと大事なのは、その経典の内容、本質ですからね。

鬱陶しいこととは、実のところ、どうでもいいことの集積です。

そのようなことに時間を使うのではなく、一番の重要事である自分自身の生命を大切にしながら、その生命を磨くことに専念することですね。

この観点からすれば、どうでもいいことに時間を使う愚に気付かされます。

日蓮の生涯には、煩わしいことがたくさん起こりました。

しかし、日蓮は、法華経第一の信念が揺らぐことなく、専一に自身の生命を磨いた人物です。

我々も、及ばずながら、日蓮の如く、精進していきたいものです。

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2012年09月02日

『決断力』 羽生善治

「実は、将棋では、勝ったケースのほとんどは相手のミスによる勝ちである。本当のことだ。拾い勝ちという感じなのだ」(羽生善治『決断力』角川書店 98頁)

勝負事は、勝った方の力が優れているから勝つと考えがちですが、ある一定の水準を超えた者同士の場合、双方の力に差はなく、ミスをした者が負けるようですね。

圧倒的に強い者が勝負をする場合は、相手のミスを待つことなく、強さで捻じ伏せればよいだけです。

しかし、圧倒的に強い者は、世の中に数えるほどしかおらず、そもそも、格が違うわけですから、庶民、市井の人にはあまり参考になりません。

羽生氏の『決断力』によると、トップ棋士同士に実力の差を認めることはできないようで、横一線ということです。

それこそ、しのぎを削っているわけですね。

その中で、熾烈な戦いを行うわけですが、熾烈な割には、相手のミスで勝つというのですから、あっさりした感じを受けます。

そんなものなのですね。

ある意味、ビジネスの世界であっても、人間関係においても、同じようなものなのかもしれません。

人と人との差など大してなく、どんぐりの背比べですから、ミスをした者、失敗した者が負けていくのですね。

では、ミスをしないためには、どうすればよいのでしょうか。

トップ棋士もそうでしょうが、日々の鍛練、精進を行うことでしょうね。

その中で、相手がミスをするより前に自分がミスをしないという粘り強さを身に付けることが大切になってくるでしょう。

ミスをしないとは、自分自身が行わなければならないことを継続して行うことといえるでしょう。

ミスとは、継続して行ってきたことが停止した状態ともいえるわけで、とにかく、継続するということがポイントですね。

そのために、鍛錬、精進、努力、練習を行うのですね。

先日のロンドンオリンピックにしても、よくよく観てみると、ミスをした者が負けていましたね。

ほとんどの競技がそうであったと言ってもいいかもしれません。

もちろん、一部には、圧倒的に強いアスリートがいて、文句なしの金メダリストがいましたが、このような人は、ほんの一握りでした。

常に一定水準のレベルを保つということが大切です。

その水準がその人の格となっていきます。

また、その水準をさりげなく上向きにしていくということですね。

そして、自分自身の格を上げていく必要があるでしょう。

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2012年08月29日

羽生善治氏に学ぶ「才能のある人」とは

羽生善治氏と今北純一氏の対談で「才能のある人」について語られていました。

羽生 才能のある人というのは、同じテンションだとか、同じ情熱でずっと長い間続けることができる人じゃないでしょうか。
 今北 まったく同感です。(中略)とはいっても、普通の人は同じ情熱、気力、モチベーションを持ち続けることは難しいと思います。羽生さんからアドバイスはありますか。
 羽生 そういうことができそうな人の側にいることですかね(笑)、自然にいい影響を受けると思うので、一つの方法だと思います。もう一つ、私の考え方としては、ペースを落としてでも続けることだと思います」(『定跡からビジョンへ』文藝春秋 276頁〜277頁)

羽生氏によると、「才能のある人」というのは、続ける人ということですね。

それも、ムラがある状態や、山あり谷ありといった不安定な状態で続けるのではなく、一定の水準を保ちながら続けるということなのですね。

確かに、一定の水準でテンション、情熱を保つことは難しいことです。

ほとんどの人ができないといってよいでしょう。

それ故、人と人との間には然るべき格差が生まれてきます。

短期間では分かりませんが、長い期間を経て振り返ってみれば、天地雲泥の差となっています。

羽生氏のアドバイスとしては、「才能のある人」の側にいることを勧めています。

しかし、身近に「才能のある人」がいることは、ほとんどありません。

この場合、時間、空間を超える手を使うしかありません。

古今東西の古典から、自分にとっての「才能のある人」を見つけるということです。

古典といわれる書をものにした著者は、羽生氏が言うように、一定水準の情熱を長い間保ちながら、道を開いていった人物です。

我々は、読書という形を取りながら、その「才能のある人」である古典の著者のいい影響を受けていくことができます。

我々としては、この読書を一定水準の情熱をもって長い間続けていけばよいということです。

ただ、続けることは苦しいものです。

そこで、羽生氏は続けてアドバイスしてくれています。

大変になったら、ペースを落とせと言います。

しかし、続けることは忘れてはならないとしています。

羽生氏の考え方、アドバイスに学びますと、人生とは長期戦であり、続けた人が自分自身の人生を切り開くことができ、続けない人には何事も開かないということが分かります。

いずれにしても、「続ける」ということが大切ですね。

しかし、何を続けるのかは、自分自身にとってという視点から、自分に馴染むもの、自分にふさわしいものを選択しなければなりません。

そうでなければ、そもそも、続かないでしょう。

続かないからダメなんだと落ち込むのではなく、続かないものを選択したのが間違いなのであり、自分にふさわしい分野があるはずだという確信を持ちながら、自分が続けるべきものを見つけていけばよいでしょう。

見つかったら、あとは、情熱を保ちながら続けることですね。

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2012年08月27日

自分で考えようとしない人

池上彰さんと養老孟司さんとの対談の一節を見てみましょう。

池上 人はどうして原理主義の落とし穴にはまってしまうのでしょうか。
 養老 それは宗教がある理由と同じではないでしょうか。これが絶対に正しい、ということを置いておく方が、いちいち自分で判断するより面倒が少ない。それで、いつでも人間は原理主義を必要とするんでしょう」(『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』文春新書 261頁)

新宗教の団体の人で、特に原理主義がきついと思われる人は、いちいち自分で考えるのを好まない傾向がありますね。

「これが絶対だ」というものがあり、その基準ですべてを見ようとします。

その絶対なるものが、その宗教の深い教義に基づく練り上げられたものであればよいのですが、観察するところ、上っ面の簡単なパンフレット程度のものである場合が多い特徴があります。

そもそも、自分で考えることを好まない人が深い教義に関心を示すわけがなく、パンフレット程度の教義といえるのか怪しいものに手を出してしまうのですね。

それぞれの宗教にはそれぞれ聖典があり、研鑽をするだけでも大変ですが、自分で考えることをしない人は、研鑽をしません。

なぜ、研鑽をしないのかと理由を述べさせると、意味不明ながら多弁になって必死です。

やはり、おかしい。

怠けたいという人間の弱さに、原理主義が甘くささやくのですね。

原理主義がすべて悪いとは思いませんが、程度が低すぎるのは問題でしょう。

世の中には様々な宗教があり、それと同様にさまざまな信仰者がいます。

程度の低い原理主義に凝り固まっている信仰者には気を付け、悪い影響を受けないよう注意しておきたいですね。

何を言っても効き目がありませんから、ほっとくしかありません。

考えてみれば、その人の親でも後見人でもないわけですから、ほっといてよいのです。

自分でものを考えようとしない人にならないよう、自分自身を律していきたいですね。

絶対なるものを求める過程において、自分自身で判断することをいとわないことが大切です。

大部な聖典に取り組みながら、誠実な信仰者でありたいと思います。

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posted by lawful at 22:08| 新宗教

2012年08月24日

最も優れた知性

ハマトンの『知的生活』に「記憶力が悪いと嘆いている学生へ」と題する文章があり、次のように指摘しています。

The finest intellects are as remarkable for the ease with which they resist and throw off what does not concern them as for the permanence with which their own truths engrave themselves.

では、翻訳を確認してみましょう。
「最もすぐれた知性の持主は、自分で真実であると考えたものを深く永遠に脳裏に刻み込む点で際立っているのと同様に、自分にとって大切でないものはなかなか憶えず、また簡単に忘れてしまうことでも際立っているのです」(『知的生活』渡部昇一・下谷和幸訳 講談社 134頁)

優れた知性は、何事もよく理解することであろうと考えがちですが、そうではないようです。

重要なものに関しては、克明に記憶し、どうでもいいことは憶えないというメリハリが必要なのですね。

自分自身にとって重要であり真実であると考えるものをより深く理解し、自分自身のものにしていくという点は、まさしく、優れた知性の作用といえます。

しかし、注目したいのは、自分にとって重要でなく、真実とはかけ離れたものは、憶えず、多少、記憶に残ったにしても、さっさと忘れてしまうという点です。

憶えない、忘れるという作用が優れた知性の作用とは驚きです。

この発想はなかったといってもいいかもしれません。

憶えるだけが能ではないのですね。

どうでもいいことは憶えない、忘れるという作用を含んでこそ、最も優れた知性といえるのですね。

どうでもいいことに思い悩み、悶々としている人間は、自分にとって大切でないこと重要でないことを見抜く力がない人間といってよいでしょう。

つまり、知性が発揮されていない状態にあるといえます。

重要なことは後回しで、どうでもいいこと、つまらないこと、価値のないことをいちいち思い出し、自分自身を苦しめていたことがあったように思います。

そのようなことは、記憶せず、忘れなければならないのですね。

自分にとって大切でないものは、早々に捨ててしまうという潔さが求められます。

不必要なもの、不必要なことを捨てることにより、清々しい気持ちになることが知性的生活には必要ということでしょう。

最も優れた知性を身に付けるべく、真実と考えるものは完璧にマスターし、どうでもよいものは、その都度、忘れるということを実践していきたいですね。

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2012年08月23日

「控えの間」で待たされない完璧な学識

ハマトンの『知的生活』に「多くのことを学んだ友へ」と題する文章があり、以下のように言っています。

In this great privilege of instant admission the man of one study has always the advantage of men more variously cultivated. Their misfortune is to be perpetually waiting in antechambers, and losing time in them. Grammars and dictionaries are antechambers.

では、翻訳を確認してみましょう。
「即座に対象に没入できるというこの大きな特権をもっている点で、ひとつことを学んできた人間には、さまざまな対象を学んでいる人間にはない強みがあるのです。さまざまなことを学んでいる人間の不幸は、絶えず控えの間で待ち、そこで時間を失っていることです。文法や辞書は控えの間です」(『知的生活』渡部昇一・下谷和幸訳 講談社 91頁)

ハマトンは、あれもこれも学ぶことの問題点を指摘しています。

いろいろなものを学んだところで、不完全にしか消化できていないものが多くあるだけで意味がないといった指摘です。

確かに、人間の能力には限界があり、時間も有限であることから、ひとつの分野で完璧な学識を得るのが精一杯でしょう。

ハマトンは、あるひとつの分野で完璧な学識を得た場合、待ち時間なしにその分野を楽しむことができるという特権があると言っています。

不完全な学識の場合、常に「控えの間」で足止めをくらうというわけです。

「控えの間」(antechamber)とは、面白い表現ですね。

なかなか、主室に通されない人間の情けなさが感じ取れます。

待たされてばかりでは、つまらないですし、しんどいものです。

文法を勉強し、辞書を引いているのは、「控えの間」で待たされているのと同じことということですね。

もちろん、最初は、文法を学び辞書で学ぶことが必要ですし、この段階なくして、完璧な学識はあり得ません。

完璧な学識を身に付けて、その分野を楽しむに至ることが重要ですね。

すぐに、完璧な学識が身に付くわけではありませんが、分野をひとつに絞った場合、いずれは、完璧な学識が身に付きます。

しかし、あれもこれも学んでいた場合では、いつまでたっても、完璧な学識は身に付かないでしょう。

要は、楽しめない人生になってしまいます。

日本人の場合、外国語文献を扱う分野などを選択すると、「控えの間」での時間が長くなりすぎる懸念があります。

また、現代日本語だけで事足りる分野では、深みに欠ける懸念があります。

そこで、日本語の古典に着目し、古文・漢文を含む分野を選ぶのも一考でしょう。

ただし、平安時代以前になると古文が格段に難しくなり、ほとんど外国語といった感じです。

鎌倉時代あたりが狙い目といえるかもしれません。

鎌倉時代は、鎌倉仏教の発生にみられるように思想的に充実した時代でした。

この鎌倉仏教の始祖たちの中から任意の一人を選び、その始祖の書をしっかりと読み込めば、自分自身の思想も充実するというものです。

現代に生きる我々に古典のエネルギーが漲るといったところでしょうか。

例えば、日蓮を選択した場合、日蓮の書を読み、また、日蓮が重要視した「法華経」(妙法蓮華経)を読むことになります。

「立正安国論」「観心本尊抄」等々の書は漢文で書かれています。

その他の消息(手紙)等々は、和文、所謂、古文で書かれています。

「法華経」は漢文ですし、古文、漢文の素養を身に付けることができます。

ひとりの重要な人物の書をしっかりと読むことは、人生にとって、大きな価値を持つと思います。

自分自身にとって重要な人物と出会い、その人物といつでも語らうことができるよう、「控えの間」で待たされることのない完璧な学識を身に付けていきたいですね。

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2012年08月22日

怒っている人への対処法

「もしも怒っている相手を見たら「困っている人だ」ととらえてみましょう。
 特に相手の怒りが激しい場合は、「相手は困ってパニックになって悲鳴を上げている」ととらえることができます」(水島広子『「怒り」がスーッと消える本』大和出版 149頁)

この視点は、新鮮でした。

考えてもみなかったことといってもいいかもしれません。

怒っている相手に対しては、こちらも怒って対応していたことがありました。

お互いに引くに引けず、泥沼にはまっていました。

この時のストレス及びそれ以後のストレスは、言葉にできないほどのひどさでしたね。

怒っている相手に対しては、けしからん輩であると考えていましたが、水島氏の指摘によると、ただ単に「困っている人」であり、「パニックに陥って、悲鳴を上げている人」にしか過ぎないということですね。

今までの出来事を思い返してみますと、確かに、私に対して突っかかってきて怒っていた人は、やや病的であり、困っており、パニック状態であったといえます。

あの怒りは悲鳴だったのですね。

気付きませんでした。

相手を責めるだけではなく、相手の状態を適切に把握することが、結局、自分自身を守ることになるのですね。

必要のないストレスに苛まれることなく、対処ができるというものです。

今まで何をしていたのかと、反省する次第です。

しかし、本書のような核心を突く書籍に触れることにより、目を開かれると共に、よりストレスのない生活、人生が歩めます。

精神科医という専門家の知見をいただきながら、適切な対処ができるようになっていきたいものです。
posted by lawful at 21:04| 雑感

2012年08月21日

国民のレベルが国のレベル

ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』に次の文章が出てきます。

The worth of a State, in the long run, is the worth of the individuals composing it.

では、翻訳を確認してみましょう。

「国の価値は長期的にみて、国を構成する個々人の価値によって決まる」(『自由論』山岡洋一訳 日経BPクラシックス 245頁)

一読したところ、特段、変わったことを言っているわけでもなく、至って当たり前のことを言っているように受け取れます。

しかし、ひとたび、国の政治、経済、社会等々の状態が悪い場合に、あなたの責任ですよと問いかけられると、瞬間的に「違う!」と言ってしまう人が多いのではないでしょうか。

やれ、悪いのは政治家だ、経営者だ、あいつだこいつだと言ってしまうのではないでしょうか。

私は悪くないという言葉が次々と出てきそうです。

ミルの言葉は、当たり前すぎるようですが、極めて辛辣な言葉のように思われます。

ミルの言葉を真に理解するのは難しいようです。

国の状態に対して自分自身が責任を持つという覚悟が必要だからです。

お気楽に人の悪口を言っているようでは、何らの成長も見込めず、社会に害悪、毒素をまき散らすだけでしょう。

真剣に国のこと、社会のことを考えるならば、少なくとも選挙の際、まともな投票行動をするべきでしょう。

そろそろ、あっちフラフラ、こっちフラフラといった投票行動を是正しなければなりません。

長期的に見て、然るべき人間を国会、地方議会に送ることですね。

間違っても、邪悪な人間を送ってはなりません。

所詮は、国民のレベルが国のレベルということですから、自身のレベルを上げながら、注意深く代表者を選ぶことができるようにしておきたいですね。

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