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今川義元 〜最終章・桶狭間〜

三河を平定した義元は1554年、
善徳寺において北条・今川・武田の

北条氏康の娘 → 今川義元の子・氏真に嫁いだ
今川義元の娘 → 武田信玄の子・義信に嫁いだ
武田信玄の娘 → 北条氏康の子・氏政に嫁いだ

ことによる婚姻関係を元に三国同盟を結んだ。

それにより後方の憂いを解消した義元は、
1560年五月上京すべく、尾張を統一して間もない
若き領主織田信長の治める尾張に侵攻した。

当時の信長は「うつけ」との評判が高く、
もちろん義元のところにもその報せは届いていた。

また、勇猛な信長の父信秀との戦で勝利を得ていたこと、
今回は大軍を派遣していることなどもあり、
尾張など楽に侵攻出来ると油断していた。

そのため同月の十九日、
信長の居城近くにある尾張桶狭間で休憩。

休憩のさなか雨が降り出し、
視界が徐々に悪くなっていった・・・。
そこを信長に奇襲され、応戦する間もなく討死した。

・・・その後・・・
今川家は衰退の一途をたどることとなる・・・


戦国武将 今川義元

今川義元年表


今川義元 〜其の弐・三河平定〜

花倉の乱の後の

1537年、当時甲斐で勢力を拡大、駿河にまで侵攻してきていた
武田信虎(信玄の父)の娘を娶り、
武田氏との対立を解消するが、
そのため今まで同盟関係だった北条氏との関係が悪化してしまった。

幾度か北条氏の駿河への侵攻を許したが、
1545年、義元は上杉朝定・憲政 と通じて北条氏康を挟撃、駿河を取り戻した。

また、1548年に勢力が衰えつつあった松平家の嫡子
松平竹千代(徳川家康)を人質として迎えようとするが、
その護送中に尾張織田信秀(信長の父)に急襲され、奪われてしまった。

ところが義元は、当時織田領だった三河安祥城を攻め、
守将織田信広(信長の異兄)を捕らえ、
人質交換をし、見事竹千代を取り戻した。

しかし、1550年に竹千代の父松平広忠が亡くなると、
三河に大軍を送り、平定してしまった。

そして、駿河・遠江・三河と三国を平定した義元は、
かねてからの野心実現のため、上洛の兵を挙げた・・・


戦国武将 今川義元


今川義元 〜其の壱・序章〜

今川 義元
いまがわ よしもと
- imagawa yoshimoto -
1519 〜 1560


今川氏親 の三男。
幼少時に出家させられ梅岳承芳と名乗った。

1536年に長男 氏輝 が若くして亡くなり、
志太郡花倉遍照光院に出家した異母兄の 玄広恵探 との間で、
のちに 花倉の乱 と呼ばれる家督争いが勃発。

承芳は玄広恵探派を破り家督を継ぎ、還俗して義元と名乗った。


戦国武将 今川義元


   
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