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2020年01月13日

石谷氏

石谷氏は、日本の氏族。遠江石谷氏(いしがやし)と土岐石谷氏(いしたに/いしだに/ いしがい・し)がある。

遠江石谷氏
Screenshot_20191228-163401~2.png
家紋 九曜星

本姓
藤原南家為憲流二階堂氏庶流
家祖
石谷政清
種別
武家
出身地
遠江国佐野郡西郷荘石谷[1]
主な根拠地
遠江国佐野郡西郷
駿河国安倍郡足久保[2]
著名な人物
石谷貞清
石谷清昌
石谷穆清
支流、分家
石貝(異体字)
石ヶ谷(異体字)

遠江国佐野郡西郷石谷(現在の静岡県掛川市)を本貫とする石谷氏は藤原南家為憲流二階堂氏の流れを組むとされる、戦国時代から江戸時代にかけての武家一族。しかしながら、石谷氏の祖である石谷政清の曾祖父、二階堂行晴以前の系図は明らかではなく、『寛永諸家系図伝』に拠れば、二階堂行秋(因幡守、法名:行欽)−二階堂行晴−西郷行清−二階堂清長−石谷政清とされている。西郷民部少輔と二階堂行秋の妹との子の内、次男である行晴が二階堂行秋の後を継いだとされ、石谷氏を称した政清に至るまで何度も苗字を変更しており、政清自身は当初西郷氏を称していたとされる。政清が名字を改めたのは石谷村に移り住んだことに由来するとされるが、一説には徳川家康の側室、西郷局に憚ったためとも伝えられている。なお、石谷氏の血族である西郷氏については、『掛川市誌』などに拠れば、遠江三十六人衆に数えられ、山科家の地頭代として西郷庄に影響のあった西郷氏と関連性が見受けられるものの、俗説にある三河西郷氏との関連性は不明である。基本的な家紋は、遠江石谷氏の由来である石谷村の九つの巨石(名字石、家紋石、九曜石)にちなみ九曜星だが、桑原政重の系統は石餅九曜・追沢瀉であるとされる。

安倍七騎に数えられる石谷氏(石貝氏)の石谷重郎左衛門は、遠江石谷氏の一族と伝えられ、今川氏・武田氏に仕えた後、徳川氏に仕えたと言われる。

一族
編集
石谷政清
遠江石谷氏の祖。通称は十郎右衛門。今川義元・氏真・徳川家康に仕える。
石谷貞清
政清の孫で徳川家旗本。島原の乱や慶安の変で活躍した。江戸北町奉行を勤める。石谷十蔵の氏神という石ヶ谷明神が掛川市にある。
石谷清昌
佐渡奉行、勘定奉行、長崎奉行などを歴任し、田沼意次の行政に深く関与したとされる。
石谷穆清
石谷貞清の末裔で幕末の徳川家旗本。江戸北町奉行を勤める。安政の大獄に関与したとされ、大老・井伊直弼の片腕的存在と言われる。

土岐石谷氏
美濃国土岐郡の土岐氏を発祥とする一族。鎌倉時代に土岐光行が美濃国方県郡石谷の地頭職を得、嫡子・国衡に分け与えたことが石谷氏の始まりとされる。室町時代には明智氏、肥田氏とともに奉公衆となり、一族が在京した。

戦国時代に斎藤道三が台頭すると石谷対馬守はこれに従うが、長良川の戦いにおいて道三に味方し美濃の石谷氏は滅亡した。在京の石谷氏は石谷光政が石谷頼辰(斎藤利賢の子)を養子として娘を娶せ、その石谷頼辰は明智光秀の家臣となった。なお、光政のもう一人の娘は長宗我部元親の正室である。頼辰は山崎の戦い後に土佐に逃れて義兄弟である長宗我部元親に重用されたが、戸次川の戦いで戦死している。

石谷光政

石谷光政(いしがいみつまさ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
奉公衆。
出家して空然(くうねん)と号し、
石谷空然の名でも知られる。

時代
戦国時代 - 安土桃山時代
生誕
生年不詳
死没
没年不詳
改名
石谷光政→石谷空然
別名
通称:兵部大輔、法名:空然
官位
兵部大輔
幕府
室町幕府
主君
足利義輝→長宗我部元親
氏族
石谷氏

正室:不明
継室:蜷川親順の娘

女(石谷頼辰室)
石谷氏(長宗我部元親室)

養子:頼辰

略歴
石谷氏は美濃国方県郡石谷村(現岐阜市石谷)を本貫地とし、土岐氏の支流で清和源氏の流れを汲む。

石谷氏はもともと室町将軍家に代々仕えた奉公衆の1つであるが、光政は実は室町幕府第13代将軍足利義輝の庶子であるともされ、親政を目指した足利義輝の側近として活躍した。ただし光政は義輝とほぼ同年代かむしろ年長と考えられ、子とするには少々無理があるのでこれは誤伝であろう。

光政は男子に恵まれなかったので、同族の土岐氏支流の明智氏の縁者である斎藤利賢の長男・頼辰を養嗣子として迎えて、長女を娶らせた。永禄6年(1563年) には蜷川親長の仲介で、次女を土佐国の戦国大名・長宗我部元親に嫁がせた。

永禄8年(1565年)、義輝が松永久秀・三好三人衆に暗殺されたことから、娘の嫁ぎ先である長宗我部家を頼って土佐に渡った。以後、娘婿である元親に仕え、実家の斎藤氏を頼って明智光秀の家臣となった頼辰を介して、織田信長との取次役を務めた。

没年も不明だが、『石谷家文書』にある天正12年(1584年)付けの細川信良の書状が空然・頼辰の連名の宛名であることから、この頃までは生存していたようだ。

長宗我部信親

長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか)
安土桃山時代の武将。
土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男であった。
Screenshot_20200113-133539~2.png
落合芳幾画

時代
安土桃山時代
生誕
永禄8年(1565年)
死没
天正14年12月12日(1587年1月20日)
改名
千雄丸(幼名)→長宗我部信親
別名
仮名:弥三郎
戒名
天甫寺常舜禅定門
墓所
高野山。高知県高知市の天甫寺
主君
長宗我部元親
氏族
長宗我部氏
父母
父:長宗我部元親、母:元親夫人(石谷光政の娘)
兄弟
長宗我部信親
香川親和
津野親忠
長宗我部盛親
右近大夫
長宗我部康豊
女(一条内政室)
女(吉良親実室)
女(佐竹親直室)
女(吉松十左衛門室)


正室:石谷夫人 (石谷頼辰の娘)

女(長宗我部盛親正室)

生涯
出生と活躍
永禄8年(1565年)、土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男として誕生。母は元親の正室で足利義輝の家臣・石谷光政の娘(明智光秀の家臣・斎藤利三の異父妹)。

幼少時から聡明であった[注釈 2]ため父から寵愛され、天正3年(1575年)に元親が中島可之助を使者として織田信長と誼を通じたとき、信長を烏帽子親として信長の「信」を与えられ、「信親」を名乗る。このとき、信長から左文字の銘刀と名馬を与えられた。元親の思惑と信長の戦略が一致したもので、元親の外交の巧みさと、明智光秀の発信力があったことによる成果である。なお、2013年に発見された『石谷家文書』(林原美術館所蔵)に所収された元親から石谷頼辰(信親の生母の義兄にあたる)に充てられた書状の中でこの信親が一字を与えられた際に信長は荒木村重を攻めていたと書かれており、荒木村重の反乱が発生した天正6年(1578年)に比定する説もある。

その後は父に従って各地を転戦した。信長没後の天正13年(1585年)、長宗我部氏は豊臣秀吉の四国攻めに降伏し、豊臣政権配下で土佐一国を領する大名となる。

戸次川の戦いと最期
天正14年4月5日、豊後の大友宗麟は豊臣秀吉に大坂で面会し、島津義久が豊後に進入してきたことを訴え救援を求めた[4]。秀吉はこれを了承し、黒田孝高に毛利の兵を総括させて先発させ、さらに讃岐の仙石秀久を主将にし、長宗我部元親・信親を加え豊後に出陣を命じた。

島津家久が豊後に侵入し、大友氏の鶴ヶ城を攻撃した。12月11日、仙石秀久と長宗我部信親は、これを救援しようと戸次川に陣をしいた。戦略会議において仙石秀久は川を渡り攻撃するべきと主張した(『土佐物語』)。これに対して長宗我部元親は加勢を待ちそれから合戦に及ぶべきであるとして、仙石の作戦に反対をしたが(『元親記』『土佐物語』)[6]、仙石は聞き入れず、十河存保も仙石に同調した。このため川を渡って出陣することになり戦闘は12月12日の夕方から13日にかけて行われた[7]。信親は仙石の決定を批判し、家臣に対して「信親、明日は討死と定めたり。今日の軍評定で軍監・仙石秀久の一存によって、明日、川を越えて戦うと決まりたり。地形の利を考えるに、この方より川を渡る事、罠に臨む狐のごとし。全くの自滅と同じ」と吐き捨てたという(『土佐物語』)。

合戦当日、先陣の仙石の部隊が真っ先に敗走したため、長宗我部の3千の兵が新納大膳亮の5千の兵と戦闘状態になったが、元親と信親は乱戦の中に離ればなれになってしまった。元親は落ちのびることができたが、信親は中津留川原に留まったものの、鈴木大膳に討たれた[8]。享年22。信親は桑名太朗左衛門に退却を促されたが引かず、四尺三寸の大長刀を振るい8人を斬り伏せた。敵が近くに寄ってくると長刀を捨て、今度は太刀で6人を斬り伏せたとされる(『元親記』)[9]。信親に従っていた700人も討死にし、十河存保も戦死し、鶴ヶ城も落城した[8]。

戦後、元親は信親の戦死を悲しみ、谷忠澄を使者として島津の陣に遣わし、信親の遺骸をこい受けて、高野山の奥の院に納めたが、のちに分骨して高知市長浜の天甫寺に埋葬した[10]。

人物・逸話
信親は文武に優れ礼儀正しく、父・元親は信親の将来を大いに嘱望し、また家臣や土佐国の民からの人望も厚かったといわれる[11]。元親は信親のために一流の学問・武芸の師を畿内など遠国から招いて英才教育を施し、長宗我部家のさらなる覇業を託していた。立派な若武者に成長した信親を元親は、「樊噲(前漢の初代皇帝・劉邦の腹心の豪傑)にも劣るまい」と自慢し期待を寄せていたという。織田信長は信親の噂を聞いたとき、自らの養子に迎えたいと述べたという逸話もある。

身長は「背の高さ六尺一寸(約184cm)」、容貌は「色白く柔和にして」「詞すくなく礼儀ありて厳ならず」と記され、知勇兼備の武将であったといわれる(『土佐物語』)[10]。走り跳びで2間(約4m)を飛び越え、飛びながら刀を抜くこともできたという[12]。『フロイス日本史』によると、キリスト教入信を考えていたとされる。

元親の信親への期待が大きかったため、戦死したことの打撃も大きく、岡豊に帰った元親の生活は、これ以後一変したとされる[13]。信親の早すぎる死は、後継者として育て上げていた元親にとって悲嘆が強く、変わり果てた姿で父の元へ帰ってきた信親を直視出来ず、泣き崩れたという。また信親だけでなく長宗我部家を背負って立つ若い人材の多くが戦死した事もあり、これより後、長宗我部氏は戦死した家臣団の再建における家臣間の諍いや後継者騒動によって徐々に衰弱していくことになる。元親の信親に対する愛情は並々ならぬものがあり、信親にあった唯一の女児(盛親にとって姪にあたる)を、新たに後継者とした盛親の正室として娶わせることで、信親の血統を長宗我部氏当主に続かせようとしたほどである。

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