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2020年01月12日
長宗我部康豊
長宗我部康豊 ちょうそかべやすとよ
江戸時代初期の武将。
土佐の戦国大名・長宗我部元親の末子にあたり、
六男。
『長宗我部旧記』
『古老噺』『落穂雑談一言集』等に名前が残る。
時代
江戸時代
生誕
慶長4年(1599年)頃
死没
不詳
改名
長宗我部康豊→足立七左衛門
別名
信九郎
官位
民部
幕府
江戸幕府
主君
長宗我部盛親→酒井忠利
藩
武蔵国川越藩士
氏族
長宗我部氏
父母
父:長宗我部元親
兄弟
長男 長宗我部信親
次男 香川親和
三男 津野親忠
四男 長宗我部盛親
五男 右近大夫
六男 長宗我部康豊
生涯
慶長4年(1599年)頃、長宗我部元親の末子として生まれる。長宗我部氏没落後、大坂の役の際には兄・盛親に従うが、大坂城落城後に脱出した。後に足立七左衛門と名乗って、酒井忠利に仕え、1,500石を与えられた。子孫は5,000石を賜る重臣となったという。
「落穂雑談一言集」「古老噺」には、康豊が川越までに向かう道中の出来事が書かれている。康豊は山科の農家で着物を盗み、宇都宮の縁者を頼るつもりで東に向かった。しかし、食料も尽き二日も食べるものもなく信濃の多賀神社で一夜を明かした。そこで安部晴明の子孫の安部康豊と名乗って占い師を装い、頓智を使って村人をだましたり盗難事件を解決したりして、10両の金を得てさらに東に向かった。駿府の長光寺に住み着き、そこで母方の姓を使って足立七左衛門と名乗った。ある日、駿府城主・酒井忠利が鷹狩をしている時、刀をもった狂人が忠利に切りかかった。近隣の住民として鷹狩の手伝いをしていた康豊がこれを取り押さえたため、忠利は単なる農民であるまいと康豊の素性を尋ね、康豊は自分の身の上を明かした。驚いた忠利は、康豊に500石を与えて家臣に取り立て、その後加増されて1,500石となった。
江戸時代初期の武将。
土佐の戦国大名・長宗我部元親の末子にあたり、
六男。
『長宗我部旧記』
『古老噺』『落穂雑談一言集』等に名前が残る。
時代
江戸時代
生誕
慶長4年(1599年)頃
死没
不詳
改名
長宗我部康豊→足立七左衛門
別名
信九郎
官位
民部
幕府
江戸幕府
主君
長宗我部盛親→酒井忠利
藩
武蔵国川越藩士
氏族
長宗我部氏
父母
父:長宗我部元親
兄弟
長男 長宗我部信親
次男 香川親和
三男 津野親忠
四男 長宗我部盛親
五男 右近大夫
六男 長宗我部康豊
生涯
慶長4年(1599年)頃、長宗我部元親の末子として生まれる。長宗我部氏没落後、大坂の役の際には兄・盛親に従うが、大坂城落城後に脱出した。後に足立七左衛門と名乗って、酒井忠利に仕え、1,500石を与えられた。子孫は5,000石を賜る重臣となったという。
「落穂雑談一言集」「古老噺」には、康豊が川越までに向かう道中の出来事が書かれている。康豊は山科の農家で着物を盗み、宇都宮の縁者を頼るつもりで東に向かった。しかし、食料も尽き二日も食べるものもなく信濃の多賀神社で一夜を明かした。そこで安部晴明の子孫の安部康豊と名乗って占い師を装い、頓智を使って村人をだましたり盗難事件を解決したりして、10両の金を得てさらに東に向かった。駿府の長光寺に住み着き、そこで母方の姓を使って足立七左衛門と名乗った。ある日、駿府城主・酒井忠利が鷹狩をしている時、刀をもった狂人が忠利に切りかかった。近隣の住民として鷹狩の手伝いをしていた康豊がこれを取り押さえたため、忠利は単なる農民であるまいと康豊の素性を尋ね、康豊は自分の身の上を明かした。驚いた忠利は、康豊に500石を与えて家臣に取り立て、その後加増されて1,500石となった。
タグ:長宗我部康豊 ちょうそかべやすとよ
長宗我部氏歴代当主
長宗我部氏歴代当主一覧
初代 長宗我部能俊 - 江村氏が分流。
第2代 長宗我部俊宗 - 久礼田氏が分流。
第3代 長宗我部忠俊
第4代 長宗我部重氏
第5代 長宗我部氏幸
第6代 長宗我部満幸 - 大黒氏、野田氏、上村氏、中島氏が分流。
第7代 長宗我部兼光
第8代 長宗我部重俊
第9代 長宗我部重高
第10代 長宗我部重宗
第11代 長宗我部信能
第12代 長宗我部兼能 - 光富(光留)氏、馬場氏が分流。
第13代 長宗我部兼綱
第14代 長宗我部能重
第15代 長宗我部元親 - 南北朝時代の当主であり、戦国時代の元親とは異なる。
第16代 長宗我部文兼
第17代 長宗我部元門
第18代 長宗我部雄親
第19代 長宗我部元秀(兼序) - 戸波氏、比江山氏が分流。
第20代 長宗我部国親
第21代 長宗我部元親
第22代 長宗我部盛親
第23代 長宗我部盛恒
盛恒以後
大坂の陣の後、斬首された盛恒の代で宗家は断絶。以降は長宗我部国親の四男・島親益の系統とされる。現当主の友親は親房(親益)を初代、親典(五郎左衛門)を二代目として、自らは17代目の当主と数えている。
島親典(五郎左衛門)- 親益(親房)の子、あるいは吉良親貞の四男・吉良親英とされるがどちらも年代が合わない(島親典についても参照のこと)。
島與助
島弥左衛門
島久蔵
島惣亟
島弥右衛門
島弥四郎
島歡次
島與助
島與右衛門
島重親(與助重親)- 島義親の父
長宗我部吉親 - 復姓
長宗我部親衛
長宗我部親(林馬)- 「ちかし」と読む。長宗我部家の系図と史料を整理した。
長宗我部友猪
長宗我部友親 - 現・当主。長宗我部喬(高知市長浜)
島親典について
島親典は大坂の陣に出陣して負傷、土佐国へ帰還したのち長宗我部の一族であると出頭し山内氏によって4年間入牢させられ、釈放後は御歩行組(乗馬を許されない藩士、藩内で最低の地位)に入った。しかしこのような身分にも関わらず御銀方やお台所方といった要職を務め、さらに藩主・山内忠義に仕えることになった際は忠義に直接「体健やかならず」と書状を送っている。このように本来はいち下級藩士に過ぎないはずの親典が要職や藩主へ直接書状を書いていることなどから、実際に表向きには公表できない何らかの長宗我部一族であったことが推定される。
初代 長宗我部能俊 - 江村氏が分流。
第2代 長宗我部俊宗 - 久礼田氏が分流。
第3代 長宗我部忠俊
第4代 長宗我部重氏
第5代 長宗我部氏幸
第6代 長宗我部満幸 - 大黒氏、野田氏、上村氏、中島氏が分流。
第7代 長宗我部兼光
第8代 長宗我部重俊
第9代 長宗我部重高
第10代 長宗我部重宗
第11代 長宗我部信能
第12代 長宗我部兼能 - 光富(光留)氏、馬場氏が分流。
第13代 長宗我部兼綱
第14代 長宗我部能重
第15代 長宗我部元親 - 南北朝時代の当主であり、戦国時代の元親とは異なる。
第16代 長宗我部文兼
第17代 長宗我部元門
第18代 長宗我部雄親
第19代 長宗我部元秀(兼序) - 戸波氏、比江山氏が分流。
第20代 長宗我部国親
第21代 長宗我部元親
第22代 長宗我部盛親
第23代 長宗我部盛恒
盛恒以後
大坂の陣の後、斬首された盛恒の代で宗家は断絶。以降は長宗我部国親の四男・島親益の系統とされる。現当主の友親は親房(親益)を初代、親典(五郎左衛門)を二代目として、自らは17代目の当主と数えている。
島親典(五郎左衛門)- 親益(親房)の子、あるいは吉良親貞の四男・吉良親英とされるがどちらも年代が合わない(島親典についても参照のこと)。
島與助
島弥左衛門
島久蔵
島惣亟
島弥右衛門
島弥四郎
島歡次
島與助
島與右衛門
島重親(與助重親)- 島義親の父
長宗我部吉親 - 復姓
長宗我部親衛
長宗我部親(林馬)- 「ちかし」と読む。長宗我部家の系図と史料を整理した。
長宗我部友猪
長宗我部友親 - 現・当主。長宗我部喬(高知市長浜)
島親典について
島親典は大坂の陣に出陣して負傷、土佐国へ帰還したのち長宗我部の一族であると出頭し山内氏によって4年間入牢させられ、釈放後は御歩行組(乗馬を許されない藩士、藩内で最低の地位)に入った。しかしこのような身分にも関わらず御銀方やお台所方といった要職を務め、さらに藩主・山内忠義に仕えることになった際は忠義に直接「体健やかならず」と書状を送っている。このように本来はいち下級藩士に過ぎないはずの親典が要職や藩主へ直接書状を書いていることなどから、実際に表向きには公表できない何らかの長宗我部一族であったことが推定される。
長宗我部能俊
長宗我部能俊 ちょうそかべよしとし
生没年不詳
平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。
生涯
長宗我部氏の始祖。
初めは秦能俊と名乗った。
秦氏の後裔。
秦明友の子だと言われているが定かではない。
信濃秦氏の一族として信濃を根拠にしていたが、土佐国長岡郡宗部郷(宗我部郷)の地頭となったため、長宗我部氏を称するようになった。
子に長宗我部俊宗がいる。
生没年不詳
平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。
生涯
長宗我部氏の始祖。
初めは秦能俊と名乗った。
秦氏の後裔。
秦明友の子だと言われているが定かではない。
信濃秦氏の一族として信濃を根拠にしていたが、土佐国長岡郡宗部郷(宗我部郷)の地頭となったため、長宗我部氏を称するようになった。
子に長宗我部俊宗がいる。
タグ:長宗我部能俊 ちょうそかべよしとし