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2020年01月13日

長宗我部信親

長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか)
安土桃山時代の武将。
土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男であった。
Screenshot_20200113-133539~2.png
落合芳幾画

時代
安土桃山時代
生誕
永禄8年(1565年)
死没
天正14年12月12日(1587年1月20日)
改名
千雄丸(幼名)→長宗我部信親
別名
仮名:弥三郎
戒名
天甫寺常舜禅定門
墓所
高野山。高知県高知市の天甫寺
主君
長宗我部元親
氏族
長宗我部氏
父母
父:長宗我部元親、母:元親夫人(石谷光政の娘)
兄弟
長宗我部信親
香川親和
津野親忠
長宗我部盛親
右近大夫
長宗我部康豊
女(一条内政室)
女(吉良親実室)
女(佐竹親直室)
女(吉松十左衛門室)


正室:石谷夫人 (石谷頼辰の娘)

女(長宗我部盛親正室)

生涯
出生と活躍
永禄8年(1565年)、土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男として誕生。母は元親の正室で足利義輝の家臣・石谷光政の娘(明智光秀の家臣・斎藤利三の異父妹)。

幼少時から聡明であった[注釈 2]ため父から寵愛され、天正3年(1575年)に元親が中島可之助を使者として織田信長と誼を通じたとき、信長を烏帽子親として信長の「信」を与えられ、「信親」を名乗る。このとき、信長から左文字の銘刀と名馬を与えられた。元親の思惑と信長の戦略が一致したもので、元親の外交の巧みさと、明智光秀の発信力があったことによる成果である。なお、2013年に発見された『石谷家文書』(林原美術館所蔵)に所収された元親から石谷頼辰(信親の生母の義兄にあたる)に充てられた書状の中でこの信親が一字を与えられた際に信長は荒木村重を攻めていたと書かれており、荒木村重の反乱が発生した天正6年(1578年)に比定する説もある。

その後は父に従って各地を転戦した。信長没後の天正13年(1585年)、長宗我部氏は豊臣秀吉の四国攻めに降伏し、豊臣政権配下で土佐一国を領する大名となる。

戸次川の戦いと最期
天正14年4月5日、豊後の大友宗麟は豊臣秀吉に大坂で面会し、島津義久が豊後に進入してきたことを訴え救援を求めた[4]。秀吉はこれを了承し、黒田孝高に毛利の兵を総括させて先発させ、さらに讃岐の仙石秀久を主将にし、長宗我部元親・信親を加え豊後に出陣を命じた。

島津家久が豊後に侵入し、大友氏の鶴ヶ城を攻撃した。12月11日、仙石秀久と長宗我部信親は、これを救援しようと戸次川に陣をしいた。戦略会議において仙石秀久は川を渡り攻撃するべきと主張した(『土佐物語』)。これに対して長宗我部元親は加勢を待ちそれから合戦に及ぶべきであるとして、仙石の作戦に反対をしたが(『元親記』『土佐物語』)[6]、仙石は聞き入れず、十河存保も仙石に同調した。このため川を渡って出陣することになり戦闘は12月12日の夕方から13日にかけて行われた[7]。信親は仙石の決定を批判し、家臣に対して「信親、明日は討死と定めたり。今日の軍評定で軍監・仙石秀久の一存によって、明日、川を越えて戦うと決まりたり。地形の利を考えるに、この方より川を渡る事、罠に臨む狐のごとし。全くの自滅と同じ」と吐き捨てたという(『土佐物語』)。

合戦当日、先陣の仙石の部隊が真っ先に敗走したため、長宗我部の3千の兵が新納大膳亮の5千の兵と戦闘状態になったが、元親と信親は乱戦の中に離ればなれになってしまった。元親は落ちのびることができたが、信親は中津留川原に留まったものの、鈴木大膳に討たれた[8]。享年22。信親は桑名太朗左衛門に退却を促されたが引かず、四尺三寸の大長刀を振るい8人を斬り伏せた。敵が近くに寄ってくると長刀を捨て、今度は太刀で6人を斬り伏せたとされる(『元親記』)[9]。信親に従っていた700人も討死にし、十河存保も戦死し、鶴ヶ城も落城した[8]。

戦後、元親は信親の戦死を悲しみ、谷忠澄を使者として島津の陣に遣わし、信親の遺骸をこい受けて、高野山の奥の院に納めたが、のちに分骨して高知市長浜の天甫寺に埋葬した[10]。

人物・逸話
信親は文武に優れ礼儀正しく、父・元親は信親の将来を大いに嘱望し、また家臣や土佐国の民からの人望も厚かったといわれる[11]。元親は信親のために一流の学問・武芸の師を畿内など遠国から招いて英才教育を施し、長宗我部家のさらなる覇業を託していた。立派な若武者に成長した信親を元親は、「樊噲(前漢の初代皇帝・劉邦の腹心の豪傑)にも劣るまい」と自慢し期待を寄せていたという。織田信長は信親の噂を聞いたとき、自らの養子に迎えたいと述べたという逸話もある。

身長は「背の高さ六尺一寸(約184cm)」、容貌は「色白く柔和にして」「詞すくなく礼儀ありて厳ならず」と記され、知勇兼備の武将であったといわれる(『土佐物語』)[10]。走り跳びで2間(約4m)を飛び越え、飛びながら刀を抜くこともできたという[12]。『フロイス日本史』によると、キリスト教入信を考えていたとされる。

元親の信親への期待が大きかったため、戦死したことの打撃も大きく、岡豊に帰った元親の生活は、これ以後一変したとされる[13]。信親の早すぎる死は、後継者として育て上げていた元親にとって悲嘆が強く、変わり果てた姿で父の元へ帰ってきた信親を直視出来ず、泣き崩れたという。また信親だけでなく長宗我部家を背負って立つ若い人材の多くが戦死した事もあり、これより後、長宗我部氏は戦死した家臣団の再建における家臣間の諍いや後継者騒動によって徐々に衰弱していくことになる。元親の信親に対する愛情は並々ならぬものがあり、信親にあった唯一の女児(盛親にとって姪にあたる)を、新たに後継者とした盛親の正室として娶わせることで、信親の血統を長宗我部氏当主に続かせようとしたほどである。

2020年01月12日

長宗我部康豊

長宗我部康豊 ちょうそかべやすとよ
江戸時代初期の武将。
土佐の戦国大名・長宗我部元親の末子にあたり、
六男。
『長宗我部旧記』
『古老噺』『落穂雑談一言集』等に名前が残る。

時代
江戸時代
生誕
慶長4年(1599年)頃
死没
不詳
改名
長宗我部康豊→足立七左衛門
別名
信九郎
官位
民部
幕府
江戸幕府
主君
長宗我部盛親→酒井忠利

武蔵国川越藩士
氏族
長宗我部氏
父母
父:長宗我部元親
兄弟
長男 長宗我部信親
次男 香川親和
三男 津野親忠
四男 長宗我部盛親
五男 右近大夫
六男 長宗我部康豊

生涯
慶長4年(1599年)頃、長宗我部元親の末子として生まれる。長宗我部氏没落後、大坂の役の際には兄・盛親に従うが、大坂城落城後に脱出した。後に足立七左衛門と名乗って、酒井忠利に仕え、1,500石を与えられた。子孫は5,000石を賜る重臣となったという。

「落穂雑談一言集」「古老噺」には、康豊が川越までに向かう道中の出来事が書かれている。康豊は山科の農家で着物を盗み、宇都宮の縁者を頼るつもりで東に向かった。しかし、食料も尽き二日も食べるものもなく信濃の多賀神社で一夜を明かした。そこで安部晴明の子孫の安部康豊と名乗って占い師を装い、頓智を使って村人をだましたり盗難事件を解決したりして、10両の金を得てさらに東に向かった。駿府の長光寺に住み着き、そこで母方の姓を使って足立七左衛門と名乗った。ある日、駿府城主・酒井忠利が鷹狩をしている時、刀をもった狂人が忠利に切りかかった。近隣の住民として鷹狩の手伝いをしていた康豊がこれを取り押さえたため、忠利は単なる農民であるまいと康豊の素性を尋ね、康豊は自分の身の上を明かした。驚いた忠利は、康豊に500石を与えて家臣に取り立て、その後加増されて1,500石となった。

長宗我部元門

長宗我部 元門ちょうそかべ もとかど
生年未詳 - 1471年
室町時代の武将。土佐国の国人・長宗我部氏の第17代当主。長宗我部文兼の子。弟に雄親がいる。名は元勝(もとかつ)とも伝わり、「元」の字は、家の慣例により同国守護を兼ねる細川京兆家当主(元服当時は細川勝元か)より偏諱を受けたものである。

父・文兼より家督を継ぐが次第に父と対立。父に追放される。

長宗我部氏歴代当主

長宗我部氏歴代当主一覧

初代  長宗我部能俊 - 江村氏が分流。
第2代 長宗我部俊宗 - 久礼田氏が分流。
第3代 長宗我部忠俊
第4代 長宗我部重氏
第5代 長宗我部氏幸
第6代 長宗我部満幸 - 大黒氏、野田氏、上村氏、中島氏が分流。
第7代 長宗我部兼光
第8代 長宗我部重俊
第9代 長宗我部重高
第10代 長宗我部重宗
第11代 長宗我部信能
第12代 長宗我部兼能 - 光富(光留)氏、馬場氏が分流。
第13代 長宗我部兼綱
第14代 長宗我部能重
第15代 長宗我部元親 - 南北朝時代の当主であり、戦国時代の元親とは異なる。
第16代 長宗我部文兼
第17代 長宗我部元門
第18代 長宗我部雄親
第19代 長宗我部元秀(兼序) - 戸波氏、比江山氏が分流。
第20代 長宗我部国親
第21代 長宗我部元親
第22代 長宗我部盛親
第23代 長宗我部盛恒

盛恒以後
大坂の陣の後、斬首された盛恒の代で宗家は断絶。以降は長宗我部国親の四男・島親益の系統とされる。現当主の友親は親房(親益)を初代、親典(五郎左衛門)を二代目として、自らは17代目の当主と数えている。

島親典(五郎左衛門)- 親益(親房)の子、あるいは吉良親貞の四男・吉良親英とされるがどちらも年代が合わない(島親典についても参照のこと)。
島與助
島弥左衛門
島久蔵
島惣亟
島弥右衛門
島弥四郎
島歡次
島與助
島與右衛門
島重親(與助重親)- 島義親の父
長宗我部吉親 - 復姓
長宗我部親衛
長宗我部親(林馬)- 「ちかし」と読む。長宗我部家の系図と史料を整理した。
長宗我部友猪
長宗我部友親 - 現・当主。長宗我部喬(高知市長浜)

島親典について
島親典は大坂の陣に出陣して負傷、土佐国へ帰還したのち長宗我部の一族であると出頭し山内氏によって4年間入牢させられ、釈放後は御歩行組(乗馬を許されない藩士、藩内で最低の地位)に入った。しかしこのような身分にも関わらず御銀方やお台所方といった要職を務め、さらに藩主・山内忠義に仕えることになった際は忠義に直接「体健やかならず」と書状を送っている。このように本来はいち下級藩士に過ぎないはずの親典が要職や藩主へ直接書状を書いていることなどから、実際に表向きには公表できない何らかの長宗我部一族であったことが推定される。

長宗我部能俊

長宗我部能俊 ちょうそかべよしとし
生没年不詳
平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。

生涯
長宗我部氏の始祖。
初めは秦能俊と名乗った。
秦氏の後裔。
秦明友の子だと言われているが定かではない。

信濃秦氏の一族として信濃を根拠にしていたが、土佐国長岡郡宗部郷(宗我部郷)の地頭となったため、長宗我部氏を称するようになった。

子に長宗我部俊宗がいる。
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