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2020年01月12日

長宗我部俊宗

長宗我部 俊宗 ちょうそかべ としむね
生没年未詳
鎌倉時代初期の武士。

略歴
土佐長宗我部氏の第2代当主。
父は長宗我部能俊。
子に忠俊がいる。

2019年12月14日

長宗我部氏

長宗我部氏(ちょうそかべし)は、
日本の武家の一つ。平安時代末から戦国時代の武家。戦国時代に土佐を統一し四国に進出した戦国大名、長宗我部元親で有名。
長曽我部・長曾我部とも記される。


Screenshot_20191214-170922~2.png

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ななつかたばみ
七つ酢漿草

本性 称・秦忌寸
家祖 長宗我部能俊
種別 武家
主な根拠地 土佐国長岡郡岡豊
      のち吾川郡浦戸



長宗我部氏歴代当主

第1代  長宗我部 能俊
第2代  長宗我部 俊宗
第3代  長宗我部 忠俊
第4代  長宗我部 重氏
第5代  長宗我部 氏幸
第6代  長宗我部 満幸
第7代  長宗我部 兼光
第8代  長宗我部 重俊
第9代  長宗我部 重高
第10代 長宗我部 重宗
第11代 長宗我部 信能
第12代 長宗我部 兼能
第13代 長宗我部 兼綱
第14代 長宗我部 能重
第15代 長宗我部 元親
長宗我部 文兼
長宗我部 元門
長宗我部 雄親
長宗我部 兼序
長宗我部 国親
長宗我部 元親
長宗我部 盛親
親典
與助
弥左衛門
久蔵
惣亟
弥右衛門
弥四郎
歡次
與助
與右衛門
重親
吉親
親衛
林馬
友猪
友親(現・当主)

江村氏

2019年12月12日

大平元国

大平元国【おおひらもとくに(15??〜15??)】
大平国雄の男。官途は隠岐守。1508年、「岡豊城の戦い」で本山養明、吉良宣経、山田元秀とともに長宗我部兼序を討取る戦功を挙げた。1519年、庄田の鯨坂八幡宮や吾川郡芳原村の若一王子社を修造した。1543年、「姫野々館の戦い」で津野基高を支援して一条房基勢と戦い敗退した。1546年、「須崎の戦い」で津野基高とともに一条房基勢と戦い降伏した。

安芸 国虎

安芸国虎(あき・くにとら) 1541?〜1569
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安芸元泰の子。備後守。安芸氏は蘇我赤兄の流れを汲むといわれる名族で、安芸七守護のひとり。土佐国安芸郡安芸城主。
一条氏の女を妻とした。
代々土佐東部にその武威を誇り、安芸郡の大領を相伝していたが、長岡郡岡豊城に拠る長宗我部氏の台頭により、長宗我部元親と争った。
天文13年(1544)に父・元泰が没したとき、国虎はまだ4歳だったといわれ、同族の後見を受けた。当主として活動を始めるのは弘治3年(1557)頃のことである。
近隣の和食氏や香宗我部氏を圧迫し、勢力拡大を目論む。永禄6年(1563)、元親が長岡郡の本山氏と争っている際、幡多郡の一条氏の援軍を得て岡豊城を攻めるも失敗する。

2019年12月10日

香宗我部氏

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家紋は割菱、(武田菱)
香宗我部氏(こうそかべし)は、日本の氏族。土佐国の豪族であり土佐七雄の一つ。甲斐源氏の子孫と伝えられ、室町時代初期から勢力を伸ばすが、戦国時代末期に長宗我部元親の弟親泰を養子として迎え、以降は長宗我部氏の一族となった。

本姓 清和源氏義光流一条氏流
   大中臣氏?
   中原氏?
   宗我部?
家祖 中原秋通
種別 武家
   士族
出身地 土佐国香美郡宗我郷
    土佐国香宗郷土井村
主な根拠地 土佐国香美郡宗我郷
      陸奥国宮城郡南小泉

初代秋通が鎌倉初期、三代成通が鎌倉中期、六代秀頼が鎌倉末から南北朝初期、八代秀能が南北朝期(この頃最盛期)、十三代親秀が戦国中期、十四代秀通が謀殺され、十五代に長宗我部親秦が就きました。
武田に戻したのは三代成通の時で、それは十四代まで続きました。

【参考1・名乗り】
初代が甲斐(武田)小太郎・中原太郎秋通
三代が武田(香宗我部)成通
六代が甲斐四郎孫・香宗我部秀頼
など。

【参考2・香宗我部系図】
源頼義−新羅三郎源義光−義清−清光−武田信義−一条忠頼
−中原秋通−宗通−武田成通−朝通−重通−秀頼−時秀
−秀能−通秀−益秀−真通(直通)−通長−親秀−秀通
−長宗我部親秦−親氏−親和−親重−・・・

【参考3・香宗我部支流各氏】
成通次男から造海氏、朝通次男から立山氏、
重通の子から松岡・岩原・水谷・青井・倉町・山本・笠原氏ら、
時秀次男より西山氏、そして秀通の子から中山田氏が出ています。
また、家臣であった中原氏の流れを汲む山田氏には、重通の子である基実が養子入りしています。

著名な人物 香宗我部通長
      香宗我部親泰
      香宗我部秀通
      香宗我部親秀

歴史
1193年、一条忠頼家臣の中原姓中原秋家が土佐国香美郡宗我・深淵郷の地頭職となり、主君・忠頼の暗殺後にその子・秋通を養子としたのに始まる。秋通が香宗我部氏を称して初代となった。なお養父の秋家は土佐山田城に移り山田氏の祖となっている。

秋通の跡は宗通・成通・朝通・重通と直系で相続された。

14世紀の重通の次男・秀頼(甲斐孫四郎入道)は足利尊氏の命で長宗我部信能と共に介良庄の平定を行ったり、1362年に香宗我部の一族が物部庄を得たりと勢力を拡張している。15世紀の応仁の乱では上洛し、土佐国守護の細川氏率いる東軍に加わっている。

秀頼ののち時秀・秀能・通秀と続いたが、その後は戦国時代の親秀まで系譜の混乱がある。

通長の子という親秀は東隣の安芸郡に拠る安芸氏と抗争しながら土佐で勢力を広げるが、大永6年(1526年)に安芸氏の攻撃で嫡男の秀義を失った。また西の長岡郡で長宗我部国親が勢力を拡大し、香宗我部氏は東西から圧迫されるようになった。このため親秀は国親の三男・親泰を養子に迎えて長宗我部氏の影響下に入った[11]。ただし親秀の実弟で養子だった秀通がこれに反対したため、親秀によって殺害されている。 一方、香宗我部領の北側・香美郡中北部を勢力下としていた山田氏は長宗我部国親に滅ぼされた。

親泰は、国親の跡を継いだ元親の下で長宗我部一門として土佐・四国の統一戦に参加し活躍した。文禄の役の最中に親泰は長門国で死去し、次男の貞親(親和)が継いだ。関ヶ原の戦いの際に長宗我部氏が改易されると、貞親は土佐を去って佐倉藩主の堀田氏に仕えたが、貞親が死去したその年に佐倉藩は改易されたため、貞親の養子・重親は親類の五十嵐元成・柴田朝意兄弟が仕えていた仙台藩に仕官し、宮城郡南小泉(現:仙台市若林区南小泉)で2,000石を知行した。仙台の香宗我部氏は一族の記録を現代に伝えている[12]。

一方、養子問題で殺害された秀通の子・泰吉が中山田氏を称して親泰・貞親に仕えている。なお中山田氏は香宗我部氏の移動に同行せず土佐に残り、土佐藩では中山氏を名乗ったが、長宗我部系香宗我部氏から再度養子を迎え香宗我部分家を興したり、また武田氏・喜田氏を名乗った一族もあった。明治時代に活躍した武田秀雄 (海軍軍人)・武田秀山は香宗我部氏の出身である。

本山氏 家臣団

本山氏 家臣団 (もとやましかしんだん)
 本山養明 (?〜?)
 本山家当主。永正五年豊かな長宗我部領を手に入れるため、山田氏、吉良氏らと共に岡豊城を攻め、長宗我部兼序を討ち取った。
 
 
  本山茂宗 (?〜1555年)
 本山養明の子。本山城を子の茂辰に譲り、自身は朝倉城に居住。天文九年頃、弘岡に兵を進め、吉良氏を滅ぼす。天文十三年、高岡郡に攻め込み、一条氏と交戦。これに敗れ、撤退した。天文二十四年没。
 
 
  本山茂定 (?〜?)
 本山茂辰の叔父。朝倉城主。
 
 
  本山親茂 (?〜?)
 本山茂辰の長男。将監。母は長宗我部国親の娘。永禄五年九月十六日、長宗我部家との朝倉合戦で奮戦。見事、長宗我部軍を撃退。長宗我部元親が神田城に籠もると、これを攻める。攻め倦ねて城攻めを断念。この時、十六歳と云う。続く十八日にも元親は朝倉城攻めのため、神田城から出陣。本山茂辰軍と鴨部ノ宮付近で交戦。合戦は三十余度に渡り、本山一族二十三人、郎党八十五人、軍勢二百三十五人が討死。長宗我部軍は五百十一人が討死した。数からすれば本山家の勝利だが、これ以上の朝倉城防衛は困難であり、家中も城の処遇を巡って分裂。結局、永禄六年一月十日に茂辰は朝倉城を焼き、二十八日には本山城へ撤退した。こうして長宗我部元親は弟親貞に吉良氏を嗣がせ、吉良峰城主とした。長宗我部家の土佐中部進出は成就したのだ。永禄七年、本山茂辰は本山城を捨て、瓜生野に撤退。長宗我部勢の追撃を受け、当初は競り合ったものの、次第に劣勢となる。やがて茂辰が病没。親茂は家督を継ぐも、元亀元年に降伏。元親も甥親茂を不憫に思うようになり、岡豊城下に住まわせた。弟は内記、又四郎。他に妹が二人いた。
 
 
  本山内記 (?〜?)
 本山茂辰の次男。本山親茂の弟。母は長宗我部国親の娘。元親の甥であることから助命され、吉良親貞の家臣として蓮池に所領を賜る。
 
 
  本山又四郎 (?〜?)
 本山茂辰の三男。本山親茂、内記の弟。母は長宗我部国親の娘。元親の甥であることから助命され、長宗我部家臣西和田越後の入り婿となる。西和田勝兵衛を名乗り、馬廻衆となった。岡豊城下西和田に居住した。
 
 
  八木実茂 (?〜?)
 本山一族。大永七年、朝倉池内天神社に棟札を与える。長宗我部家滅亡により、本山家の所領が鏡川を越えて朝倉にまで達したことを意味する。
 
 
  井口勘解由 (?〜1560年)
 土佐井口城主。長宗我部重臣吉田周孝から臣従を求められるも拒否。周孝に攻められるも、三百の兵で撃退。追撃の最中、中野新八に左脇腹を射られ討死。居城も落とされた。
 
 
  大高坂権頭 (?〜?)
 土佐大高坂城主。後に長宗我部家臣となる。
 
 
  久万俊宗 (?〜?)
 土佐久万城主。豊後守。永禄三年、長宗我部勢に攻められ降伏。以降、長宗我部家臣となる。子は俊政。
 
 
  神森出雲 (?〜1561年)
 土佐神森城主。永禄四年、長宗我部家臣福留隼人、中島大和に攻められる。水を断たれるも、白米で馬を洗い、水の豊富さを演出。これを見た福留らは撤退するも、五名ほどが残り、城の北側から火を放つ。これにより城兵は錯乱し、出雲も自刃した。妻は脱出の際に谷に落ち、死没。後にその霊を慰めるため祠が建てられた。
 
 
  秋山刑部丞 (?〜?)
 土佐秋山城主。天文九年、一条房冬に降伏。弘治三年、本山茂辰に降伏。永禄三年、長宗我部元親に降伏。
 
 
  弘田伊賀守 (?〜?)
 土佐芳原城主。天文九年、一条房冬に降伏。弘治三年、本山茂辰に降伏。永禄四年、長宗我部元親に降伏。
 
 
  田上善衛門 (?〜?)
 弘治二年、加田城番。
 
 
  大窪美作守 (?〜?)
 土佐長浜城主。永禄三年五月二十六日夜、土佐長浜城は長宗我部勢の攻撃で陥落した。
 
 
  高橋壱岐守 (?〜?)
 土佐雀ヶ森城主。
 
 
  秦泉寺茂景 (?〜?)
 土佐秦泉寺城主。掃部頭。弘治二年、長宗我部国親に攻められる。後に長宗我部元親に攻められ降伏。万々城に移された。
 
 
  富家刑部 (?〜?)
 弘治三年以降、土佐森山城番。永禄三年、長宗我部元親に降伏。以後も森山城を守る。
 
 
  中島新介 (?〜?)
 永禄六年五月、岡豊城攻めのため一宮に攻め込む。高石与七、岡崎与左衛門、桑川久助らもこれに加わる。泰泉寺方面も攻めるが、泰泉寺大和守らに迎撃され撤退。
 
 
  竹中弥右衛門 (?〜?)
 本山家臣。永禄年間頃の人。
 
 
  宇賀平兵衛 (?〜1560年)
 永禄三年、長宗我部家との合戦で浜田久左衛門を討つ。しかし、浜田久左衛門の弟善左衛門に討たれた。
 
 
  中島新介 (?〜?)
 永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
 
 
  高石与七 (?〜?)
 永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
 
 
  岡崎与左衛門 (?〜?)
 永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
 
 
  桑川久助 (?〜?)
 永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
 
 
  【付記】
 
 
 
 永禄三年五月二十六日、長浜城は長宗我部家の夜襲を受ける。長浜落城の報を受けた茂辰は二十七日、二千名を率いて出陣。戸ノ本にて長宗我部軍千余名と交戦。この合戦は「戸ノ本合戦」と呼ばれる。本山軍は数で勝っていたが敗れ、逆に逃げ込んだ浦戸城を包囲されてしまう。長宗我部軍は浦戸城攻めを諦め、撤退するも、敗戦によって家中は大きく動揺した。同年八月、一条氏に蓮池城を落とされた。

     長宗我部国親━┳━長宗我部元親
            ┣━吉良親貞(吉良氏)
            ┗━女子
               ‖
本山養明━┳━本山茂宗━━━本山茂辰━┳━本山親茂
     ┗━本山茂定        ┣━本山内記
                   ┣━本山又四郎
                   ┣━女子
                   ┗━女子

久万俊宗━━━久万俊政

2019年12月09日

安芸(藝)氏

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安芸(藝)氏
安芸氏(あきし)は、土佐の国人領主。土佐国東部の安芸郡を支配したが、戦国時代に長宗我部元親によって滅ぼされた。
安芸氏の出自は、通説では壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)に味方した結果、土佐に配流となった蘇我赤兄の子孫が土佐の東端である安芸郡などに拡大して台頭し、国人になったものと伝わる。ただし別説も多く、詳細な出自に関しては不明である。

室町時代に強勢となった安芸氏は、香美郡大忍庄に侵出して勢力を拡大した。安芸氏が勢力拡大に成功した背景には、安芸川という交通の要衝を利用した貨幣経済の発展に、土佐という土地経営を巧妙に生かして成長したのが要因といわれる。永享11年(1439年)、当主の安芸元実(もとざね、摂津守)が摂津国内で戦死(大和永享の乱の影響によるものか)し、分家の畑山氏より安芸元信(もとのぶ)が養嗣子に迎えられた。しかし、応仁の乱で東軍(細川勝元方)へ加勢した元信とその嫡男の元康(もとやす)が共に戦死するなど苦境に見舞われる。元信・元康の死後は再び畑山氏より元信の実弟である安芸元盛(もともり)が当主に迎えられて家の苦境を乗り切るも、以降の勢力拡大策は停滞することになった。とはいえ、戦国時代には土佐七雄の中でも「安芸5000貫」と称されるほどの土佐東部を代表する大国人として君臨し、なおも強勢を保った。戦国時代の大永6年(1526年)には隣接する七雄の1つである香宗我部氏を破って勢力を拡大し、さらに元盛の曾孫・安芸国虎の代に国内の名家である土佐一条氏と姻戚関係になって全盛期を迎えた。

しかし香宗我部氏を破って勢力を拡大したことから長宗我部氏との緊張関係に陥ると、永禄年間の初期、国虎が長宗我部元親の属領である香美郡夜須に侵入したことにより両家は敵対する[2]。当初は東の安芸氏よりも、北の本山氏攻略に力を傾注していた元親に対し、一条兼定からの援軍を得た国虎が優勢で一時は元親の居城・岡豊城を落城寸前に追い込むなどしたが、土佐国内の動乱を憂慮した一条兼定による安芸氏・長宗我部氏の和睦を進めたため、一時的に両家は和睦した。だが和睦から5年後の永禄12年(1569年)4月、国虎は一条兼定の援軍を得ることで和睦を破棄して元親と再度敵対する。だがこのときの元親は本山氏を服従させて土佐中部を完全に制圧しており、すでに力関係は完全に逆転していた。7月に安芸軍は矢流川合戦(もしくは八流の戦い)で衆寡敵せず大敗。支城の穴内城や新荘城なども長宗我部軍によって落とされ、国虎は安芸城に籠もった。だが譜代の家臣である横山紀伊守らが元親に内応して安芸城に招き入れたため、遂に力尽きて国虎は自殺。その遺児である千寿丸(弘恒)も三好氏を頼って阿波に落ちたため、安芸氏は滅亡した。

その後、安芸氏の旧領は元親の実弟・香宗我部親泰が支配し、元親の四国征服における原動力となった。

歴代当主
室町時代の安芸氏は土佐守護を兼ねる細川京兆家の麾下にあり、代々京兆家当主より偏諱の授与を受けている。

安芸元重(大蔵)← 細川満元
安芸元実(摂津守)← 細川満元または細川持元(※元服時期不明のため確定不可)
安芸元信(伊豆守)← 細川勝元
安芸元盛(兵部少輔)← 細川勝元
安芸元親(備後守)← 細川政元
安芸元泰(山城守)← 細川政元
安芸国虎(備後守)← 細川高国

2019年12月08日

香美郡山田氏

ken_kata.jpg
山田氏は土佐の戦国時代、香美郡山田郷を領して「土佐七守護」の一人に数えられる有力国人領主であった。
香美郡楠目城または山田城とも言う。
山田氏は鎌倉時代のはじめ、香美郡宗我部郷に地頭として入部した大中臣(中原)秋家が、のちに山田郷に移って山田を称したことに始まると伝えられている。そもそも大中臣(中原)秋家は、甲斐武田氏の一族一条次郎忠頼の家臣であった。
 甲斐武田一族は、源平争乱の時代に活躍したが、のちに源頼朝からその威勢を忌まれ、一条忠頼・板垣兼信・武田有義らの兄弟は、殺されたり、失脚したり、行方不明になった。一条忠頼の家臣であった秋家も危ない運命にあったが、「歌舞音曲に巧み」だったことから、頼朝の「芳情」を受けて、一命を助けられ頼朝に直接仕えるようになった。

2017年05月08日

土佐七雄(とさしちゆう)

土佐七雄(とさしちゆう)
土佐七守護(とさしちしゅご)とは
室町時代末期から戦国時代にかけて土佐国に存在した7つの豪族の総称。
tosasichiyu.JPG
戦国時代土佐七雄勢力図


土佐物語」には香美郡楠目城主・山田氏
高岡郡法巌城(ほうごんじょう)片岡氏を加えた9氏が記されている

土佐七雄の成り立ち
土佐国は古来より罪人などが流される地であり、北を四国山脈に塞がれ、南は太平洋に面しているため、どこにも行けぬ陸の孤島であった。南北朝時代に細川頼益守護代として入国し安定を見せたが、応仁の乱により細川氏が衰退すると、在地の豪族達が勢力を伸ばし始めた。これが土佐七雄である。

土佐七雄一覧
(『長元物語』より。1貫 = 1〜2石)

土佐一条氏 - 土佐国司。七雄にとって盟主的存在。幡多郡中村城 16,000貫
本山氏 - 長岡郡本山城 5,000貫
吉良氏 - 吾川郡吉良城 5,000貫
安芸氏 - 安芸郡安芸城 5,000貫
津野氏 - 高岡郡姫野々城 5,000貫
香宗我部氏 - 香美郡香宗城 4,000貫
大平氏 - 高岡郡蓮池城 4,000貫
長宗我部氏 - 長岡郡岡豊城 3,000貫

本山氏- 長岡郡5000貫を支配した。
本山氏 家臣団
本山養明(もとやまやすあき)
本山茂宗(もとやましげむね)など。
居城は本山城

吉良氏 - 吾川郡5000貫を支配した。
吉良親貞(きらちかさだ)
吉良親実(きらちかざね)など。
安芸(安藝)氏 - 安芸郡5000貫を支配した。
安芸 国虎など

津野氏 - 高岡郡5000貫を支配した。
津野親忠など。

香宗我部氏 - 香美郡4000貫を支配した。
香宗我部 親秀
香宗我部親泰など。
香宗我部氏の代わりに香美郡の山田氏を入れる場合もある。

大平氏 - 高岡郡4000貫を支配した。
大平元国など。

長宗我部氏 - 長岡郡3000貫を支配した。
長宗我部氏歴代当主
長宗我部国親・長宗我部元親など。
この他、
長宗我部氏のルーツは一説には、蘇我氏一門の子孫説や秦の始皇帝説が言われている。元々、泰氏を名乗っており平安期から、鎌倉期に掛けて土佐に移り、長岡郡宗部郷(宗我部郷)に定住し、宗我部氏を名乗った。しかし、近隣の香美郡宗我郷に同じ宗我部を名乗る一族がいたため、それぞれ郡の一文字をいれ長宗我部、香宗我部と名乗った。
 「土佐物語」によると長宗我部兼元秀(元親の祖父)の時、守護細川氏の権威をかさに着て傲慢な振る舞いを行ったため長宗我部氏は本山氏と周りの諸氏に攻められ自刃、一時衰退してしまう。 元秀の子千雄丸(国親、元親の父)は家臣に連れられて、一条氏の保護を受けその助力を得て旧領に戻ることが出来た。
 その後は、元親の活躍があり土佐、四国をほぼ統一するも、豊臣秀吉の侵攻を受け降伏し、土佐一国のみを安堵された。長男信親の死以降長宗我部家は衰退していき、盛親の時代には関ヶ原で西軍につき、土佐を没収されることとなった。

土佐一条氏 幡多郡16000貫を領する土佐下向後も土佐国司、正二位の家格を誇り七雄の別格的存在である。

土佐七雄の成り立ち
土佐国は古来より罪人などが流される地であり、北を四国山脈に塞がれ、南は太平洋に面しているため、どこにも行けぬ陸の孤島であった。南北朝時代に細川頼益が守護代として入国し安定を見せたが、応仁の乱により細川氏が衰退すると、在地の豪族達が勢力を伸ばし始めた。これが土佐七雄である。

他、国人領主

土佐吉田氏

加久見氏(かくみし)

居城
加久見城(上城)
加久見 左衛門(かぐみ さえもん)
藤原姓。有力豪族で一条房家の生母は加久見土佐守宗孝の娘。
天正3年(1575年)長宗我部氏に降る。

天竺氏(てんじくし)
居城 大津城
別名 天竺城、大津御所

細川氏一族。天竺氏の滅亡に関しては諸説あり文明10年(1478年)津野基高または天文16年(1547年)頃に長宗我部国親に攻められ滅亡したともされる。




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