アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2016年12月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
月別アーカイブ
プロフィール
日別アーカイブ

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2016年05月02日

世界の歴史について アフリカ史編

こんばんは

今日は昔勉強していた参考書を読んでみて
改めてアフリカ史について面白いなと思ったので
話をしていこうかなと思います






成り立ち



まずはアフリカ大陸の成り立ちから見てみると、大陸移動説によれば、新大陸が別れて行く時諸大陸が分かれていく前アフリカは世界の中心に位置してました。
人類の発明した技術のもっとも原初的な段階で、アフリカはおそらく数十年の尺度で測れる期間、地球上でもっとも先進的な地域だったと言えたのです。
アフリカをみると二つのアフリカとして分ける事ができるのではないかと思う。
サハラ砂漠以南の、黒人の住むいわゆる、『黒人アフリカ』を一つにしてとりあげるが、北アフリカとサハラ以南アフリカを分けるかという点である。従来の世界では二つのアフリカはわけてとりあげられることが多かったのです。


住民の人種的系統からも、言語からも、文化の特徴の面からも二つのアフリカは大きな違いを示しているのが面白いところですね。人種的には、北アフリカの住民はいわゆる白人人種のコーカイソイド、いわゆる黒人種の人々や、サハラ以南アフリカでも中部や南部のかつては主な住民だっだのです。従来欧米人によって、ブッシュおよびホッテンットと呼ばれてきたコイ・サン人種とは異なっている。


他に、文化の面でも、古くから文字が重視され、車による輸送と石の建造物が盛んだった北アフリカに対して、サハラ以南アフリカでは、文字を用いない口承や身体伝承による文化と、焼いてない粘土と木と藁の建物が発達し、車輪をはじめ回転原理やテコの原理を応用した器具は用いられなかったと言えるのです。

このように、多くの面で異なるアフリカを、このブログであえて一つの地域として、統一した視点からこれからとりあげたいなと思います。




歴史



最初はサハラについて。サハラは、紀元前2500年頃から乾燥化が進んで砂漠化するが、ヒクソス侵入の時代までにはエジプトにももたらされていたと思われるヒトコブラクダをそのサハラの人々は取りいれ、ローマの北アフリカ支配の時代には南方に、ラクダの民族にたいする要塞線が築かれるほどだった。


やがてトゥアレグをはじめとする砂漠の民はオアシスを拠点に、活気に満ちた砂の宇宙をつくりだす。七世紀に、イスラーム・アラブの第一波がアフリカ地中海岸の生誕まで達してからは、イスラムのコスモポリタンな商業文化が、砂の海を行く船であるラクダをそなえた北アフリカとサハラの民に、むしろこの大砂漠を積極的に活用する道を開くことになる。

そして、特にイスラムの浸透を観ると、西アフリカへのイスラムの浸透は、おそらく八世紀のはじめに遡ります。その第一の特徴はイスラムの北アフリカの進出が何よりもまず軍事的征服による布教を目的にしていたのにたいして、西アフリカへの進出は商業活動を通じての平和的点だった事です。

第二の特徴についてはイスラム化がすなわちアラブ化だったのでなく、イスラム化した西アフリカの黒人諸族をつうじて、いわば間接的に浸透していったことです。長距離交易の商人と宗教家からなるイスラム教徒が非イスラムの世俗権力者である先住民の王に接近し王の庇護をうけ、つかず離れずの関係を結びながら住民の信望を得てイスラム化を広めていく過程はその後も西アフリカの様々な王国で繰り返された。

彼らは商業活動と同時にイスラムの布教と組み合わせに着衣の風習を広めた。この様に平和的なことにたいしてアフリカには暗い歴史も秘めている。

それはやはり奴隷貿易である。

黒人を旧約聖書に登場するノアの呪われた息子ハムの子孫として蔑視する根強い偏見があった。

もちろん奴隷制や奴隷貿易は世界各地に古くから存在はしたが、イスラムアラブが北アフリカに進出した八世紀にはじまって、ヨーロッパによる南北アメリカの奴隷貿易のようにおびただしい数の人々が黒人という人種特徴に基づいて、ひとつの大陸から組織的に運び出されたという例は他にはみられない。300年あまりにわたる、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ三大陸を結ぶ三角貿易の一環としての奴隷貿易は、それによって利益を得た白人、アメリカ人もふくめて巨大な荒廃をとくにアフリカ社会にもたらした。結果としてヨーロッパとアメリカに富の蓄積とそれに基づく近代化を可能にしたこの三角貿易は、皮膚の色による人種差別の集中的な表現だった。光明の生気といわれた18世紀を中心とする時代も、ヨーロッパより南へ視点をずらして、大西洋を中心において眺めるとき、アフリカは世界史のもっとも暗い一ページとして姿を現すのである。

まとめ



上のような事があったが、伝統的にも多様であったアフリカ人、白人にたいする黒人の自覚と連帯はうまれようがなかった。それにたいして欧米の白人社会に身を置いたアフリカ人または黒人エリートは彼ら自身の日々の差別体験の中で、出身の異なる、しかし共通の運命を担ったアフリカ人ないし黒人として共鳴しあいそこから汎アフリカあるいは黒人である事の自覚に基づく思想を形成していったのである。


posted by あんこ氏 at 00:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化

2016年04月22日

宗教改革ってつまりどういうこと?






こんばんは
あんこ氏です


今日は久しぶりに世界史の本を電車で読んでみました

大学受験時代はなにより世界史に時間を掛けてたりするくらい大好きな教科でした

それがきっかけで世界遺産や西洋美術が好きになったりしました。

今日はその中で特に興味のあった宗教改革について触れたいと思います。
個人的な趣味になりますが、もし昔勉強してて興味あるかもって方は見てください。



宗教改革の概要




宗教改革運動そのものは、16世紀の初頭にルターがはじめて教会の権威に公然と抵抗したことによってはじまりました。

しかし、ルターの革命的な反抗を生む諸条件は、何百年も前から存在していました。
それらの諸条件は、複雑な教義的・政治的・経済的・文化的諸要因からなりたっていたのです。

ルターは、その中で改革の必要性を力説し、秘跡の体系を批判し、宗教は、聖書にふくまれた導きの上にたつ個々人の信仰にもとづくものだと主張をしていました。

一方で反乱の潮流を食いとめようと、神聖ローマ皇帝カール5世とドイツの諸侯および聖職者たちは、1521年にルターをウォルムス国会に召換し、自説の撤回をもとめました。

ルターはこれを拒否したため、帝国公民権をうばわれた。ほぼ1年の間、彼は擁護者の城にかくれすみ、自分の主義主張を展開したパンフレットを次々としるすとともに、新約聖書をドイツ語に翻訳したりしたのです。

このあたりはだいぶ有名ですよね。

そして
1524年には両陣営の間で本格的な戦闘が開始されましが、これはのちに語り継がれたドイツ農民戦争の始まりでした。
この戦争は、農民の側からみれば本質的には、よりよい経済的利益を得ようとする試みだったのです。農民たちはルターの教えに触発されていったりしていきました。







後世への影響


その後もカトリック教会とルター派の亀裂は拡大するばかりで、
なかなか修復の兆しが見えなかったところにシュパイアー国会が開催され、ある種の妥協が達成されたのです。

ルター主義を実施したいとのぞむ領主は、自由に実行することができるという合意が出されました。

しかしその3年後には第2シュパイアー国会が召集され、多数派のカトリック側は一方的に協定を破棄してしまいました。それに対しては少数派のルター派がこれに抗議したことから、彼らは「抗議者」すなわち「プロテスタント」とよばれるようになったのです。この言葉はみなさん知っていますよね。

したがって、もともと「プロテスタント」といえばルター派をさしたんですが、この語はのちに意味をひろげ、カトリック教会への反抗から生じたキリスト教諸教派全体の総称としてもちいられるようになりました

ルター主義がドイツから北にひろがっていったことにともない、スカンディナビア諸国では宗教改革が平和裡に実現していきました。

デンマークとスウェーデンでは、国王自身が改革運動の後援者となり、教皇庁と絶縁し、1536年にコペンハーゲンでひらかれた国民議会は、デンマーク全土でカトリック司教の権威をみとめないことを決議したのです。その後、当時デンマークに服属していたノルウェーとアイスランドにも同じ措置が講じられました。
デンマークとノルウェーの王だったクリスティアン3世は、ルターの友人であるドイツの宗教改革者ヨハン・ブーゲンハーゲンをまねき、「アウクスブルク信仰告白」を基盤にしたデンマーク国教会を建設させました。スウェーデンでは、オラウスおよびラウレンティウスのペトリ兄弟がルター派の運動を推進し、1529年、スウェーデン国王グスタブ1世の承認と国会の決議をへて、ルター派が正式にスウェーデンの国教となる経緯になりました。


以上が宗教改革についてです。
このあたりは僕が世界史をさらに好きになったきっかでした。
ここからさらに宗教学という観点から歴史をみるのもまた面白いです。
なので、今後また興味もった分野のところを是非書いてみようと思います。

では、今日はこれで失礼します。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

posted by あんこ氏 at 00:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化

2016年04月14日

世界遺産を知ろう タージマハル 世界で一番美しい愛のお墓

こんばんは
あんこ氏です


さて、今日は前回シリーズ化した世界遺産についての
記念すべき第一回目を書いて行こうと思います!


そのスタートを切るのは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


こちらです!
タージマハル!!

マハル.jpg


この建物はインドのアグラという所にある
僕が世界で一番好きな建物です。
インドに行く機会があれば必ず行きたい・・・・
というより、これだけ見にインドに行きたいくらいです。

ご覧になった通りすごい綺麗なのですが、
実はこれお墓なんですよ。
びっくりですよね。


ただ、タージマハルには
悲しくも愛があふれる物語があるのです。

それを紹介していきたいと思います。


最愛の妻、ムムターズマハルへの愛の象徴


まず、この建物を建てたのは
ムガル帝国第5皇帝シャージャハーンという人物でした。
彼はとにかく妻のムムターズマハルを愛していました。

ムムターズは結婚する前から、シャージャハーンの良き相談相手でもあり
いろいろの側面で旦那を支えていました。育ちもよく教養もある方でした。
そして、シャージャハーンの妻となる時に、前皇帝のジャハーンギール
ムムターズマハル(宮廷の選ばれしもの・宮廷の光という意味がある)という名前をもらったのです。


しかし、ムムターズは14番目の子供を出産した時に、
産褥熱という病気にかかってしまい
38歳という若さで亡くなってしまったのです。


その死をなにより悲しんだのはやはり
シャージャハーンでした。

その悲しみはとても深く、
国民全員を、2年間
喪に服す事を命じたのです。

それでも悲しみが消えなかった皇帝は
彼女の記憶を永遠に留めようと決意し、
タージマハルの建設を始めました。
ちなみにムムターズのムムが抜けターズという言葉の発音が
インド風になりタージマハルとなったのが由来です。
つまり奥さんの名前を建物の名前にしたんですね。

世界一豪華なお墓


タージマハルを作るのに、シャージャハーンが掛けた労力、お金、時間などは半端じゃない物でした。

まず建設にかかった年月は
なんと・・・・22年!
とても長いですよね。

そして、このお墓は全て大理石で出来ているのです。
他にも、資材は1000頭の象を使って運び出し、
全体で28種類もの宝石や宝玉が使われ、
人材もペルシャやアラブ、さらにはヨーロッパから2万もの職人を
集め建設したのがタージマハルなんです。

シャージャハーンの込められた思いの強さが感じれますよね。

なので、タージマハルとは世界で一番豪華なお墓と言っても過言ではないのです。

インド・イスラム建築を代表する傑作ですね。

黒のタージマハルと息子の反乱



実をいうと、さらに驚くべき計画がシャージャハーンにはありました。
それはタージマハルの前にあるヤムナー川を挟み、対象になるように
皇帝自身のためだけの、黒の大理石で出来たタージマハルを
作ろうとしていたのです。もし、出来ていたらヤムナー川を挟み
シンメトリーを構成した二つのお墓が出来ていたと思います。

しかし、タージマハルだけでも国家予算の半分以上を使ってました。
その度が越えた浪費に耐えかねた息子のアウラングゼーブ
シャージャハーンを幽閉してしまい、黒のタージマハルは実現できませんでした。

見てみたかった気持ちもありますが、お墓作って国が滅んでしまったじゃ
どうしようもないですもんね・・・。
その後も息子のアウラングゼーブは国の経済状況をよくするために、廃止されていた
人頭税(ジズヤ)という税金を復活したのです。
現代でも同じですが、税金を復活した事もあるのか
それが原因でアウラングゼーブは良い評価がされていないのですが
正直、かわいそうな気もします。

このように色々あり
黒のタージマハルの計画は頓挫してしまいましたが、
さすがに親には同情する気持ちがあったのか、
シャージャハーンが亡くなったあと、
妻の隣に並ばせて埋葬してあげたのでした。

見どころ・まとめ


このように今回はいろいろとタージマハルの歴史を書かせていただきました。
その話も頭に入れつつ簡単な見どころなども知っていただきたいと思います。

タージマハルが、まず面白いのは
4面のどの方向から見ても鏡で写したように
全て同じ姿をしています。そのような所や
あとはなんといっても大理石の白さが印象的だと思います。

遠目に見るとそのポイントにその部分に目がいくと思います。

ただ、近くで見ても綺麗な部分も多いのがすごい所です。

象嵌細工と呼ばれる精密な幾何学模様に貴石や大理石をはめ込んだ
模様などがあり、とても綺麗です。まさに職人芸といわんばかりのすごさです。


最後になりましたが、本当にこれだけ綺麗なお墓という物は他にないと思います。
行く場合は事前に予約などが必要ですが、もし行けるのであれば
月明かりに白く照らされている満月のタージマハルは最も美しいと呼ばれているので
そのタイミングに行ければ最高ですよ。笑


世界遺産ツアーの1回目はいかがだったでしょうか。

また今後もいろいろな所へみなさまを案内したいと思います。


---------------------------------------------------------


posted by あんこ氏 at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化

2016年04月12日

資本主義の観点から見たヴェニスの商人

こんばんは


今日は最近改めて携帯で見直したヴェニスの商人に
ついて書こうかなと思います。

有名なので知っている方は多いと思いますが、
一応登場人物とあらすじだけ簡単に紹介しておきます。

登場人物


• シャイロック: 強欲なユダヤ人な高利貸し。無利子で貸しているアントーニオに商売的にも敵視していたが、さらに差別もされておりとっても憎んでいる。

• アントーニオ: 貿易商人。金貸しだが無利子で貸している。ユダヤ人を貶していて、シャイロックにもひどい差別意識を持ったキリスト教徒

• バサーニオ: 高等遊民。アントーニオの親友。ポーシャと結婚する。

• ポーシャ: 莫大な財産を相続した美貌の貴婦人。



あらすじ


ユダヤ人の高利貸シャイロックは、日ごろ憎んでいたヴェニスの商人アントーニオに3000ダカットのカネを貸した(バサーニオがポーシャと結婚したいために必要なため)。

ところが、貿易船が帰港せず、アントーニオは返済不能になってしまう。
アントーニオがシャイロックと交わした契約書には、「もし期日までに返済できなければ、胸の肉1ポンドを与える」という文言を入れていた。シャイロックはただちに裁判所に訴え、契約の履行を迫る。アントーニオの窮状を見かねた知人が代わりに返済しようとしたが、シャイロックは「すでに契約の期日は過ぎている」と言って、カネを受け取ろうとしない。

裁判所は契約書どおりに肉を切り取ることを許可した。シャイロックは裁判官を誉め称え、さっそくナイフを取り出し、アントーニオの肉を取ろうとした。そのとき裁判官(ポーシャが成り済ましていた)が、機転を利かせ「契約書には1ポンドの肉とはあるが、血のことは書いていない。もし一滴の血でも流そうものなら、所有地も財産も没収する。また、肉が1ポンドより多くても少なくても相成らぬ」と宣告した。

そしてなにもできなくなり金も返してもらえず(契約の為)シャイロックが引き下がる物語

シャイロックについての考察


この劇の中でシャイロックは冷酷無比なユダヤの高利貸というのが、彼の本質をなすものだと思う。

しかし、僕は、シャイロックは資本主義が人間の姿をとったものではないかと考えた。
そして今の人々はシャイロックにたいしてもっと価値を見いだせるのではないかとも感じる。

ユダヤ人はキリスト教徒ではなかっただけという理由で、ヨーロッパ諸国ではことあるごとに差別され、就ける職にも制限があり神官、医師、法曹と言った特別な職や生産の仕事にも就けませんでした。

結局残った就ける職業は、キリスト教の世界では一般的に卑しいとされる、お金という報酬を目的とする職業、現代で言ういわゆる「サービス業」ばかりで、金貸しもその一つでしたが、ユダヤ人達には食べるためには他に選択肢もなかったので、仕方なくそれら「サービス業」に就いた感じでした。

金貸しはマイナスなイメージが強いが確かに、違法な金利や違法な取立行為が有れば悪いでしょうが、法律の範囲内で有ればまったく問題ないはず。

また、金利が高くても金を借りたい、そしてお陰で助かるという人もいるの。消費者金融を高利貸しと言って叩くのは簡単ですが、審査基準を緩くし、ある程度、貸倒リスクを高く見積もって、高利で貸す金融も無ければ、世の中貸し渋りだらけになって回らなくなってしまうのも事実。そして、この種の貸金は大抵回収が難しくなりますので、取立が厳しいのは当たり前ですし、そのリスクやストレス等に対する報酬と考えれば、高利貸しも相応の儲けあって然るべき商売と評価されても良いはずだと思う。

高利は儲かっているイメージがあるかも知れませんが、近年、大手消費者金融の子会社が倒産や、親会社同士の統廃合が見られるように、実は案外リスクが高くてダメになるときは一気に転落もしやすい商売である。実際、シャイロックは高リスク層の受け皿となっていて、その人達もそれが分かっていて借りたのに、いざ返済に困ってシャイロックに取り立てられていると聞けば、世間は皆彼を罵る。しかも、それには「ユダヤ人」という民族差別と宗教差別も加わる。そんな中で商売をやっているシャイロックである。

まとめ


裁判ではたしかにシャイロックは敗北した。しかしその原因は、あくまでも証文の書類上の不備にあるのであって、そのロジックにあるのではないと感じた。反対に、裁判官であるポーシャは、契約や法の論理を全面的に認めることを前提として、シャイロック追いつめたに過ぎない。
もし、仮にこの事例が現代で起こったのであればシャイロックが優勢になるのではないかと思います。









と、こんな感じで
今日は少しまじめな事を書いてみました。
今回のブログでヴェニスの商人に興味を持った方は本もしくは映画をぜひ見てください。
僕の好きなアルパチーノがシャイロック役として出ています♪

ヴェニスの商人←こちらです


では、また。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------



posted by あんこ氏 at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化

2016年04月10日

世界遺産を知ろう 入門編

こんばんは
あんこ氏です

今回のお題は
私が昔から大好きな
世界遺産について書いていこうと思います。
今後、このテーマについては
シリーズ化するつもりです。笑

さてさてまずは
世界遺産がどうしてできたのか?

という根本的な所から書いてきますよ。


では、世界遺産の事を知るツアーへあなたをご招待いたします・・・・



世界遺産発足のきっかけ


ことの始まりはある出来事が原因でした。
それはこのような事でした。
1960年にナイル川の氾濫に頭を悩ませていたエジプトでしたが、
政府が他国の援助を受けてナイル川流域に
アスワン・ハイ・ダムを建設し始めました。
農業用水の確保もできるため、計画は進められていきました。
しかし、このダムを建設することによって、古代エジプト文明に遺跡でもある、
ヌビア遺跡がダムの底に水没することが懸念されました。
これを受けて、ユネスコが、ヌビア水没遺跡救済キャンペーンを開始。


このキャンペーンには世界中が賛同し、
技術支援や考古学調査支援を受け
遺跡の中のアブ・シンベル神殿を解体し、
別の場所に移すということが行われました。
アブシンベル.jpg


これがきっかけとなり、国際的な組織運営によって、
歴史的価値のある遺跡や建築物等を開発から守ろう、という機運が生まれたのです。


こうした価値のあるものを守ろうとする気質が、
ユネスコのパリ本部で開かれた第17回ユネスコ総会において、

世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)が満場一致で成立しました。
翌年、アメリカ合衆国が第1番目に批准、締結し20か国が条約締結した1975年に正式に発効したのです。



世界遺産と日本



次に日本と世界遺産の関係について述べたいと思います。
実をいうと、日本が世界遺産条約に参加したのは1992年。
僕が生まれたあとなのでわりと最近の事なのです。

先進国では一番遅い、125番目の締約国でした。
しかし、
日本はテレビ番組などで、世界遺産の特番を組む事があったり
僕が持っている世界遺産検定(クリックするとHP
に飛びます)という物もあり、感心は高いものとなっています。

今後、より一層関心が寄せられると良いなと思いますね。笑



世界遺産の分類




文化遺産

これはわかりやすくいうと建築物や遺跡などです。

タージマハル
マハル.jpg

富士山(驚く事に富士山は自然遺産ではなく文化遺産なのです)

ふじさん.jpg



自然遺産
こちらは地形や生物多様性、景観美などを備える地域などの事をいいます。

例・イエローストーン国立公園


イエローストーン国立公園

イエローストーン.jpg





複合遺産

さらに、文化と自然の両方についての物に関してはこのように
複合遺産と言います。
言い換えれば、一帯の自然環境と、そこでの人間の文化的営為が、ともに顕著に普遍的な価値を有するものと認定されることが必要である。


例・ウルル=カタ・ジュタ国立公園
ウルル=カタ・ジュタ国立公園.jpg


負の世界遺産


こちらは、
平和の希求や人種差別の撤廃などを訴えていく上で重要な物件も世界遺産に登録されている物を言います。

明確な定義付けがされているわけではないが、これらは別名、負の世界遺産と呼ばれています。.

例・原爆ドーム、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ビキニ環礁の核実験場などがあります。


原爆ドーム
ドーム原爆.jpg


アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所.jpg


ビキニ環礁の核実験場
環礁ビキニ.jpg


最後に・・・・


ここまで見ていただければ、
まずは世界遺産のスタートの部分を
ある程度わかっていただけたと思います。

しかし、私がみなさんに世界遺産を知ってほしい理由として
ひとつ大きな理由があります。


それは旅行が楽しくなる
という事です。

もちろん、普通に旅行行っても楽しいとは思いますが、
それぞれ自分が行くであろう場所の事をすこしでも
知っていけば楽しみ方が増えると思います。

変な例えだとは思いますが、
芸能人などでも自分が知ってから会うのと知る前に会うのとは大きな違いがあると思います。

知らなかったばかりにもったいない!と思う事もあるかもしれません。
それと同じです。

自分が行く地域や国の事を知れば
より一層旅行が楽しくなる事が間違いないと思います。

なので、みなさんには
是非世界遺産をどんどんと知ってもらいたいと思います。

もし、リクエストなどがあれば
その世界遺産を紹介していきたいと思います!

お気軽にコメントなどをください♪


では、本日の世界遺産ツアーはここまで。


おやすみなさい。
posted by あんこ氏 at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。