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2016年05月02日

世界の歴史について アフリカ史編

こんばんは

今日は昔勉強していた参考書を読んでみて
改めてアフリカ史について面白いなと思ったので
話をしていこうかなと思います






成り立ち



まずはアフリカ大陸の成り立ちから見てみると、大陸移動説によれば、新大陸が別れて行く時諸大陸が分かれていく前アフリカは世界の中心に位置してました。
人類の発明した技術のもっとも原初的な段階で、アフリカはおそらく数十年の尺度で測れる期間、地球上でもっとも先進的な地域だったと言えたのです。
アフリカをみると二つのアフリカとして分ける事ができるのではないかと思う。
サハラ砂漠以南の、黒人の住むいわゆる、『黒人アフリカ』を一つにしてとりあげるが、北アフリカとサハラ以南アフリカを分けるかという点である。従来の世界では二つのアフリカはわけてとりあげられることが多かったのです。


住民の人種的系統からも、言語からも、文化の特徴の面からも二つのアフリカは大きな違いを示しているのが面白いところですね。人種的には、北アフリカの住民はいわゆる白人人種のコーカイソイド、いわゆる黒人種の人々や、サハラ以南アフリカでも中部や南部のかつては主な住民だっだのです。従来欧米人によって、ブッシュおよびホッテンットと呼ばれてきたコイ・サン人種とは異なっている。


他に、文化の面でも、古くから文字が重視され、車による輸送と石の建造物が盛んだった北アフリカに対して、サハラ以南アフリカでは、文字を用いない口承や身体伝承による文化と、焼いてない粘土と木と藁の建物が発達し、車輪をはじめ回転原理やテコの原理を応用した器具は用いられなかったと言えるのです。

このように、多くの面で異なるアフリカを、このブログであえて一つの地域として、統一した視点からこれからとりあげたいなと思います。




歴史



最初はサハラについて。サハラは、紀元前2500年頃から乾燥化が進んで砂漠化するが、ヒクソス侵入の時代までにはエジプトにももたらされていたと思われるヒトコブラクダをそのサハラの人々は取りいれ、ローマの北アフリカ支配の時代には南方に、ラクダの民族にたいする要塞線が築かれるほどだった。


やがてトゥアレグをはじめとする砂漠の民はオアシスを拠点に、活気に満ちた砂の宇宙をつくりだす。七世紀に、イスラーム・アラブの第一波がアフリカ地中海岸の生誕まで達してからは、イスラムのコスモポリタンな商業文化が、砂の海を行く船であるラクダをそなえた北アフリカとサハラの民に、むしろこの大砂漠を積極的に活用する道を開くことになる。

そして、特にイスラムの浸透を観ると、西アフリカへのイスラムの浸透は、おそらく八世紀のはじめに遡ります。その第一の特徴はイスラムの北アフリカの進出が何よりもまず軍事的征服による布教を目的にしていたのにたいして、西アフリカへの進出は商業活動を通じての平和的点だった事です。

第二の特徴についてはイスラム化がすなわちアラブ化だったのでなく、イスラム化した西アフリカの黒人諸族をつうじて、いわば間接的に浸透していったことです。長距離交易の商人と宗教家からなるイスラム教徒が非イスラムの世俗権力者である先住民の王に接近し王の庇護をうけ、つかず離れずの関係を結びながら住民の信望を得てイスラム化を広めていく過程はその後も西アフリカの様々な王国で繰り返された。

彼らは商業活動と同時にイスラムの布教と組み合わせに着衣の風習を広めた。この様に平和的なことにたいしてアフリカには暗い歴史も秘めている。

それはやはり奴隷貿易である。

黒人を旧約聖書に登場するノアの呪われた息子ハムの子孫として蔑視する根強い偏見があった。

もちろん奴隷制や奴隷貿易は世界各地に古くから存在はしたが、イスラムアラブが北アフリカに進出した八世紀にはじまって、ヨーロッパによる南北アメリカの奴隷貿易のようにおびただしい数の人々が黒人という人種特徴に基づいて、ひとつの大陸から組織的に運び出されたという例は他にはみられない。300年あまりにわたる、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ三大陸を結ぶ三角貿易の一環としての奴隷貿易は、それによって利益を得た白人、アメリカ人もふくめて巨大な荒廃をとくにアフリカ社会にもたらした。結果としてヨーロッパとアメリカに富の蓄積とそれに基づく近代化を可能にしたこの三角貿易は、皮膚の色による人種差別の集中的な表現だった。光明の生気といわれた18世紀を中心とする時代も、ヨーロッパより南へ視点をずらして、大西洋を中心において眺めるとき、アフリカは世界史のもっとも暗い一ページとして姿を現すのである。

まとめ



上のような事があったが、伝統的にも多様であったアフリカ人、白人にたいする黒人の自覚と連帯はうまれようがなかった。それにたいして欧米の白人社会に身を置いたアフリカ人または黒人エリートは彼ら自身の日々の差別体験の中で、出身の異なる、しかし共通の運命を担ったアフリカ人ないし黒人として共鳴しあいそこから汎アフリカあるいは黒人である事の自覚に基づく思想を形成していったのである。


posted by あんこ氏 at 00:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化
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