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2017年01月31日

福岡藩の志士、「平野国臣」

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「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」。桜島を詠んだ歌は沢山ありますが、一番有名なものはこの句ではないでしょうか。
この歌を詠んだのは、福岡藩の志士、「平野国臣」です。
早くから京に出て、西郷ら薩摩の志士達と手を組み、討幕運動を始めました。
ときの大老、井伊直弼の暗殺謀議に関わったことで、福岡藩より捕縛令がだされ、追われる身となり薩摩を頼って来ましたが、幕府を恐れる島津久光の命令により、追い出されれてしまいました。
この時以前にも、京都の僧 「月照」を西郷らが薩摩に逃がそうとしたとき、月照と共に、薩摩に入りしています。
薩摩から追い出され、肥後に向かう途中、日置市伊集院の峠で桜島を振り返り、この句を読んだとされています。
地元鹿児島でも、この句を「自分の倒幕の志は、桜島の噴煙よりもずっと大きい」との決意を述べた句だと勘違いされておられる方が結構多いようですが、私が思うには、自分を匿ってくれなかった薩摩に対しての恨み節だと解釈するのが妥当かと思います。
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鹿児島アリーナとジャズピアニスト「山下洋輔さん」の関係

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鹿児島市の永吉町に在る鹿児島アリーナ。
アーティストのコンサートや、スポーツの大会が行われる屋根付きの多目的ホールとしては、鹿児島市で一番大きい施設です。といっても6.000名程の収容力しかありませんが。
ずいぶん昔の事になりますが、この地には以前、鹿児島刑務所がありました。設備が古くなり、湧水町(旧 吉松町)に移転し、その跡地に鹿児島アリーナが建てられました。
国内でもあまり例の無い、バロック様式の立派な建物で取り壊しを惜しむ声も多かったため、正面の門だけが今でも現地に残されています。
この刑務所を設計したのは「山下敬二郎」という方で、日本を代表するジャズピアニスト、山下洋輔さんのおじい様にあたります。
鹿児島市西田町の薩摩藩士族の家系に生まれ、維新後は一高〜帝大(東大)へと進み、建築学を学びました。
卒業後、警視庁から司法省に入り、営繕部の技師として、全国各地の刑務所関連の建物の設計に携わりました。
現在、建物やその一部が保存されている物も、千葉監獄、長崎監獄、金沢監獄、奈良監獄と司法省管轄の建物が大部分です。古い建物にも興味があるので、いつか全国に残されている彼の作品を見にいきたいと思っています。
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2017年01月30日

鹿児島出身の彫刻家「安藤 照」

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彫刻家、安藤照は、1892年(明治25年)に、鹿児島市新屋敷町に生まれました。
東京美術学校在学中に、帝国美術(帝展)に入選。その後、「流れ」「芽生え」「踊りの構図」「大空へ」が、次々に特選になり、「大空へ」は第一回帝国美術院賞を受けました。
さらには、帝展委員、審査委員と歴任し、日本を代表する彫刻家にまで上り詰めました。
その後、彫刻の本能的な量感の表現を主張し、1929年(昭和4年)塊人社を結成し、様々な素晴らしい作品を生み出しましたが、代表作は何と言っても、鹿児島市に立つ、西郷隆盛像でしょう。
陸軍の軍服姿で、桜島の方を向いて立つ姿は威厳にみちています。
ちなみに、東京の渋谷駅前広場にある「忠犬ハチ公像」も彼の作品です。
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河邊氏ゆかりのお寺・宝光院跡(南さつま市)

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知覧と言えば、特攻記念館や武家屋敷などで有名な観光地ですが、戦国時代においても、いろんな歴史を秘めた町です。
知覧の中心部から車で20分ほどのところに、川辺というところがあります。以前は川辺町でしたが、町村合併により、今は南さつま市に組み込まれました。
島津氏が入府してくる前から、このあたりを拠点に、河邊氏という豪族が治めていました。その歴史は遠く平安時代まで遡るそうです。
南薩においてはかなり強い勢力を持つ豪族だったようです。この河邊氏ゆかりのお寺が残されています。
宝光院というお寺で、当時としてはとても大きなお寺だったようです。残念ながらこの寺も、廃仏希釈令で明治2年に壊されてしまいましたが、その跡を見つけることができました。
入り口の任王像や大きな宝篋印(ほうきょういん)塔や少し離れた場所にある住職の墓地あとからみてもかなり大きなお寺だったことが偲ばれます。
何百年もの間この川辺の地を守り、地名も残すほどの豪族が居た事に感慨を覚えます。それにしても島津氏は、大変な土地に赴任してきたものだと今更ながら思います。この様な地方豪族との戦いにつぐ戦いを400年も続け、ようやく薩摩、大隅、日向の三国を平定したのですから。





薩摩おごじょの鏡といわれた乃木静子


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・・・・身を殺して仁をなす・・・・将軍の妻として、軍人の妻として・・・

乃木希典。長州の支藩、長府藩出身の軍人です。
日露戦争では、ロシア軍の築いた旅順要塞の攻略戦、203高地攻めの司令官として有名ですが、指揮官としての評価は二分されるようですが、彼が妻に娶った女性が、「静子」でした。
静子は薩摩藩医・湯地定之の四女(第七子)に生まれ、幼名を「お七」といい、20歳の時、乃木希典(まれすけ)に嫁ぎました。
戦争にいく夫にお守り札を持たせようとしましたが、「ばかばかしい」と相手にされなかったので、密かに夫のズボンの縫い目にお守り札を縫いこんだという、微笑ましいエピソードが残っています。
静子は女学校時代から、「湯地の娘が男なりせば」と嘆賞されたほどの才女で、貞淑温順にして、きわめて質素、勤勉な女性だったといわれています。
明治37年、日露戦争に従軍していた二人の息子を相次いで失うという悲劇に見舞われた彼女の悲しみはいかばかりのものであったのか、想像もつきません。
明治天皇崩御の際、夫と共に殉死し54歳の生涯を閉じました。鹿児島市の甲突川河畔に、生誕地を示す石碑が建てられています。

辞世 「出ましては かへります日の なしときく 今日の御幸に あゆぞ悲しき」
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2017年01月29日

南州公の隠れ湯「鰻池温泉」

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太政官政府に見切りをつけ、薩摩に帰った西郷南州公は、鹿児島城下に隣接する武村(現在の鹿児島市武町。中央駅の裏の方)に質素な家を得て、狩猟三昧の日々を過ごし始めました。
全国から毎日のように訪れる、挙兵を促す不平士族達に会いたくないというのが本当のところだったのではと思いますが、狩猟と温泉が大好きだったのも事実です。
誰にも行き先を告げず、ふらりと出かけると1週間〜10日は帰ってきませんでした。昼間は狩り、夜は温泉という生活を続けていました。狩猟は偽装で、金銀の鉱脈を探していたという説もありますが、ちょっと現実味の無い話だとおもいます。しかしながら、この頃の南州公は県内中かなり広範囲にわたり、その足跡を残しています。
鰻温泉もそのひとつです。
指宿市内から、国道226号線を枕崎方面に4〜5キロ行くと標識がありますので、右折して2キロ程行くと、左手に突然、大きな池が見えてきます。
突き当たりに小さな集落があり、いたるところから湯煙があがっています。
ここでは地下から噴出す100度近い湯煙を利用した、「スメ」と呼ばれる共同の天然コンロがいくつかあり、住民の方は今でも食事の煮炊きに使っています。
南州公が定宿にしていた家には、公が使った寝巻き等が残されているそうです。







維新の志士達を鍛えた薩摩独特の郷中教育


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「議を言うな」・・・・薩摩の士分の青少年の間で、よく使われていた言葉です。現代語に直すと、「つべこべ小賢しい理屈を言わず、先輩の言うことには従え。」というような意味でしょうか。
藩政時代の薩摩では、城下の武家の居住地をいくつかの区域に分け、その区域ごとに子弟の教育にあたりました。
区域のひとつひとつを「方限」(ほうぎり)とか「郷」(ごう)と呼び、その教育機関として、郷の相中(あいなか)略して「郷中」、つまり現在の学区にあたる制度を設けていました。
郷中教育では、幼少の頃から肉体的にも精神的にも徹底した鍛錬教育が行われ、特に上下関係は厳しくしつけられました。「議を言うな」「年長の者には従え」という暗黙の了解はそういう土壌で培われたと思われます。
他には「弱いものをいじめるな。」「嘘をつくな」といった人間としてあたりまえな事を徹底的に教えられました。
薩摩藩の城下には、江戸時代末期の頃で33の郷中があり、中でも加治屋町郷中は、高麗・上之園・上荒田の三郷中と並んで、幕末から明治にかけて多くの逸材を生み出したことで有名です。
偉人傑士として、西郷隆盛や大久保利通、西郷従導、大山巌、村田新八、東郷平八郎、黒木為驕iためもと)他、明治維新を成す上で欠かせない人物達も皆、郷中教育で鍛えられ、日本近代化への原動力となったことを如実に物語っています。
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篠原国幹誕生地


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若くして、伊地知正治、重野安繹等と共に薩摩の藩校「造士館」に学び、和漢学を修めました。
戊辰の役では薩軍三番小隊長として活躍し、その功により明治5年陸軍少佐となり、その後「桐野利秋」と共に陸軍少将に任じられました。
明治6年征韓論に破れた西郷に従うように官職を辞し、桐野利秋等と帰鹿しました。
帰郷後は、私学校設立の総監督となり、完成後は教師陣の一人として子弟達の養成に励みました。
庄内からの留学生を自宅に住ます等、情に厚い人でもありました。西南の役では、総指揮官「桐野利明」を支える副官として薩軍一番大隊長という立場で出陣。田原坂の激戦を指揮しましたが、吉次峠の激戦で敵の敵弾に倒れ、41歳の若い生涯をとじました。
彼もまた加治屋町方切りの出身で、西郷・大久保の誕生地もすぐ近くです。
今更ながらたいして広くもない一つの町内から、多くの偉人たちが出ているのに驚きます。
生誕地跡に残るのは一つの石柱のみ。これはスペースの関係で、その跡地には現在「鹿児島県立中央高等学校」が建っています。
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2017年01月28日

越前(重富)島津家墓地と紹隆寺跡


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越前島津家は、越前の国(現在の福井県)の守護代であった忠綱(ただつな)(島津家初代・忠久の次男)を祖とする鎌倉時代以来の名家でした。
しかし、戦国時代(16世紀中頃)に第15代忠長が播磨(はりま)の国(現在の兵庫県・姫路市)朝日山の戦いにおいて戦死したため、絶えてしまいました。それから、約200年後の元文2(1737年)に、島津本家22代当主・継豊(つぐとよ)の弟・忠紀によって再興され、忠紀が越前島津家第16代となりました。
元文3年、忠紀には当時帖佐郷であった、脇元村・平松村・船津村・春花村・吉田郷、触田村(東佐多浦村の一部)の5ヶ村が領地として与えられ、翌年、郷名は「重富」と名づけられました。
ここには、越前島津家の菩提寺であった、紹隆寺が建立されていましたが、明治初年の廃仏毀釈令によって壊され、今では墓地のみが残っています。
この墓地は、越前島津家16代から第23代までの当主とその家族(33基)が祀られていて、大名墓に相応しい格式を持った立派なものですが、なかなか分かりづらい場所にあるので、いつ行っても誰もいない事が多いです。
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重富氏・島津久光も住んだ平松城跡


天文23年(1554年)、後に岩剣(いわつるぎ)合戦と呼ばれた島津氏と蒲生・祁答院方との激しい攻防は、岩剣城の落城によって終止符を打ちました。
この合戦で初陣を飾った島津義弘は、岩剣城に在番することになりました。しかしながら、山頂から麓までの道は大変に険しく、日常生活する上で不便でしたので、麓のこの地に居住用の館を築きました。これが、平松城です。
義弘は、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の合戦」直後にもしばらく在城し、慶長10年から翌年にかけても帖佐からこの城に帰り、加治木へ移るまでの居館としました。
その後当城では、島津義弘の夫人や娘の御屋地様が晩年を過ごしています。
江戸時代中頃の元文2年(1737年)、藩主・島津継豊は、弟の忠紀に鎌倉時代以来の名家でありながら絶えて久しかった越前島津氏を再興させました。
翌年には、帖佐郷から脇元村・平松村・船津村・春花村・触田村(吉田郷)を割いて「重富郷」と名づけます。これ以後、平松城は越前(重富)島津家の領主の館となり、一世には麓と呼ばれる家臣団の屋敷跡が計画的に整備されています。
天明の頃、城内には藩内初期の学校である振業館(しんぎょうかん)が建てられ、幕末維新に活躍する島津久光(斉彬の弟)も、若い頃は越前家20代当主としてこの平松城に住んでいました。
明治維新後、この地には重富村の役所や学校が置かれ、現在は小学校になっています。
正面の石垣は、野面積み(のづらづみ)と呼ばれる古い積み方で造られていて、また、正面の広い道は「館の馬場」と呼ばれ、幅11メートル、長さ約275メートルもあります。
鎌倉時代〜戦国時代を通じて、各地を転戦してきた島津氏にとっては、一番永く使われた城ではないでしょうか。





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