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2017年03月15日
「義」を貫いたラストサムライ達へのレクイエムAー下
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城下に駆けつけた「桂 久武」ですが、当初は西郷達を見送るつもりで、
自らは従軍するつもりはありませんでした。
しかし、出陣の支度をしている旧薩摩藩士たちを見ているうちに、気が変わり
自分も一緒に参加する決心を固めました。藩の重臣として、かつての部下達だけを
戦争に送り出す事が忍びなかったのではないでしょうか。
彼はかねてから、藩内では有数の弓の名手として知られていました。
部下が鉄砲を渡そうとすると「おいは、こいがあっでよか」と退け、一人だけ
弓矢を持って従軍しました。敗戦色濃くなり、延岡から可愛岳を越え鹿児島に帰る
途中、横川で待ち伏せしていた政府軍と戦いになった時、彼の放った矢は、見事に
相手の一人を貫きました。非公式ではありますが、日本で行われた戦争で最期に
弓矢で相手を倒した人だとされています。
その後、城山までたどり着き9月24日早朝、西郷達40数名とともに岩崎谷のつゆと
散りました。享年49歳、「義」を重んじ貫いた男の最期でした。
「義」を貫いたラストサムライ達へのレクイエムAー上
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「桂 久武」。
島津の分家の一つ、「日置島津家」の五男に生まれ、小松家、肝付家など
自家の所領を持つ「桂家」の養子に入りました。
どちらの家も薩摩藩の重臣の家柄で、本来なら身分が違い過ぎるために、
「西郷隆盛」達、軽輩者と知り合う事はないのですが、実兄が西郷達の
盟友で、「お由羅騒動」に巻き込まれて切腹させられた「赤間靱負」です。
また、西郷が奄美大島に流されていた時に、「大島守衛方」として現地に
居て、親交を深めました。
その後、藩の「大目付」から家老に昇格。自ら倒幕活動に見を投じ、
「薩長同盟」締結では、小松帯刀らと中心的な役割をはたしました。
維新後は、西郷とともに大参事として藩政トップを勤めた後、都城県参事、
豊岡県権参事を務めましたが、明治6年に病を理由に職を辞し、鹿児島に
帰ってきました。
帰郷後は、霧島山麓の開拓指導や、鉱山開発の指導を行っていましたが、
明治10年、「薩軍挙兵」の報を聞き、鹿児島城下に急ぎ駆けつけました。(続く)