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2017年02月20日
国替わりが多かった「延岡藩」
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関が原の戦いで東軍が勝利し、徳川の治世が始まるとともに、各大名の領地の見直しが行われました。
当然、東軍方に付いた大名は石高が増え、最期まで西軍として戦った大名家には、取り潰し・大幅な石高の減封という厳しい処分がなされました。
島津氏には、薩摩・大隅の二国を安堵されましたが、日向以北は取り上げられ、幾つかの小藩が配置されました。その中の一つに「延岡藩」があります。
秀吉の薩摩討伐後、島津氏の支配地を離れたこの地は、高橋氏5万石から始まりました。
徳川幕府の成立後、当初は「高橋氏」に安堵されましたが、1613年に改易され、島原から「有馬氏」が53.000石で入府し、ここから目まぐるしく藩主が変わっていきました。
「有馬氏」の後、「三浦氏」、「牧野氏」、「内藤氏」と代わり、幕末まで続きました。
現在は旭化成の城下町として知られる延岡市ですが、藩主が次々と代わると領民も何かと大変だったのではないでしょうか。
薩摩藩独特の「御仮屋」制度
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江戸時代にも、薩摩藩は独特の治世をひいていましたが、「御仮屋制度」もその一つです。
「御仮屋」とは、領内の直轄地を113箇所に分けて、それそれに設置した地方役所のようなもので、「地頭仮屋」とも呼ばれていました。
普段、地頭は鹿児島城下に住み、実際の実務はそこに住む郷士のリーダー達が行っていたようです。
徳川幕府が発令した「一国一城令」を形上は守りながら、実際は113箇所に武士団を配置し、いざという時の備えとしていたのです。113箇所の城下町が在ったといっても過言ではないでしょう。
この財部(たからべ)もその一つで、跡地は小学校になっています。